持続可能な収蔵品のリスク管理 ワークショップ-HERIe Digital Preventive Conservation Platform の活用-の開催
令和5(2023)年12月17日、東京藝術大学美術学部を会場に東京藝術大学大学院文化財保存学専攻と文化財防災センターとの共同で、「持続可能な収蔵品のリスク管理」と題したワークショップを開催しました。
HERIe Digital Preventive Conservation Platform(https://herie.pl/Home/Info)はコレクションの展示および保存条件の安全性を評価する際に、博物館・美術館等の学芸員と保存の専門家との連携を支援するために、収蔵品に対するリスクの定量的評価を提供する意思決定支援のためのプラットフォームです。現時点で、大気汚染物質、光、不適切な温度や相対湿度などの環境劣化要因に対応するモジュールと、火災の危険度の推定を可能にするモジュールが含まれています。このプラットフォームは、欧州委員会とゲッティ保存研究所からの財政的支援を受けて、いくつかの機関によって開発されています。
このワークショップは作品保存管理者、保存修復者などがプラットフォーム上で自分自身の館のデータを使用しながら、どのように活用できるか実地に体験してもらうことを目的として行いました。海外よりこのプラットフォームの開発者の一員である先生方を招き、活用方法や有効性について直接お話を伺い、実地に試せる非常に良い機会となりました。導入として、Łukasz Bratasz氏 (ポーランド科学アカデミー教授)から持続可能なコレクションの保存計画立案のためのプラットフォームについて紹介があり、コンセプトおよび構成の説明、そして博物館・美術館等における空気汚染物質と化学的劣化について紹介がありました。続いて、Michal Lukomski氏 (ゲッティ保存研究所博士)から機械的損傷のモデル化と博物館環境の評価ツールの使用について、Boris Pretzel氏(東京藝術大学大学院文化財保存学専攻招聘教授)からは光劣化ツールについて紹介があり、最後にBratasz 氏により防火評価ツールの説明がありました。展示ケースツールなどの他のツールについても紹介とデモンストレーションが行われ、受講生はそれぞれのツールを実際に使って、どのようなことができるプラットフォームなのかを理解しました。
受講生からは大変有用なツールを教えていただいたので館に戻って活用したい、修復する際に工房へ持ち込んだ時の光の損傷など検討するのに役立てたいなど、プラットフォームへの理解が深まったという意見が多く寄せられました。
このプラットフォームは無料で提供されているものなので、研修に参加された方々だけでなく、参加されなかった方々にも広く活用してもらいたいと考えています。
令和5(2023)年地震で被災した博物館・文化遺産救援に向けたトルコ現地調査
東京文化財研究所では、令和5(2023)年度緊急的文化遺産保護国際貢献事業(専門家交流)「トルコにおける文化遺産防災体制構築を見据えた被災文化遺産復興支援事業」を文化庁から受託している文化財防災センターとともに、本事業に参加しています。本事業は、令和5(2023)年2月6日に発生したトルコ・シリア地震により被災した博物館や文化遺産の救援支援を第一の目的とするものです。それに加え、日本における被災文化財救援の経験や文化財防災の蓄積をトルコと共有することで、トルコにおける文化遺産防災体制の構築、充実化に向けた支援にもつなげてゆくことを見据えています。
2023年11月28日〜12月7日、当研究所と文化財防災センターとの合同チームがトルコを訪問し、被災地視察、両国の文化財防災に関する情報交換(専門家会議の開催)、今後の連携に向けた意見交換を行いました。
被災地視察では、ハタイ、ガズィアンテプ、シャンルウルファの博物館、文化遺産等を巡り、被災後の対応及び現状、課題について各博物館職員らからの聞き取り、今後の支援のニーズ調査を行いました。現在、被災した博物館では応急的な対応が進められており、今後、被災した収蔵品や建物の本格的な修理等が進められる見込みということです。なお、シャンルウルファでは地震翌月の3月上旬に大雨による洪水が発生しており、同地の博物館では地震被害は比較的軽微だったものの、浸水による大きな被害が生じています。
専門家会議は、アンカラのトルコ共和国文化観光省において同省との共催にて実施しました。日本側からは、日本国内における文化財防災の概要を紹介した上で、東日本大地震をはじめとした被災文化財救援の取り組みや博物館における災害予防の取り組みを報告しました。トルコ側からは、この度の地震による文化財被害や対応の概要、博物館における災害予防の取り組み等をご報告いただきました。今後、両国間での協議を重ね、具体的な支援内容を検討していくとともに、文化財防災にかかる共同研究を進めていく予定です。
韓国文化財保存科学会第58回秋季学術大会への参加
令和5(2023)年11月10日〜11日、韓国・公州市の国立公州大学校を会場に、韓国文化財保存科学会第58回秋季学術大会が開催され、保存科学研究センター修復技術研究室研究員・千葉毅が参加しました。
近年、韓国において近現代の文化遺産保護への関心がますます高まっています。この度の学会では、特別セッション「国家登録文化財(動産)保存処理標準仕様書制定研究(1次)」(主催:文化財庁、座長:国立公州大学校教授・金奎虎氏)として、近現代の文化遺産を、どのような制度・保存の方法で保護していくかが議論されました。
千葉は「日本における近代文化遺産保護の概要と事例」と題し、日本の文化財保護制度における近代文化遺産保護の現状、近代文化遺産の特性や保存における技術的、理論・制度的課題の概要を報告しました。
近代は世界各地で国際化が進んだ時代であり、日本においても当該期に製作された文化遺産の中には、海外からもたらされた新しい素材や技術が取り入れられていることが多くあります。素材や技法の多様化に加え、〈膨大な数〉〈工業生産品が多い〉〈現在でも使用されているものも多い〉等といった近代特有の側面を持つ文化遺産について、〈何を〉〈どれだけ〉〈どうやって〉残すのかといった課題は、日韓の両国で共通する点も少なくありません。
地域ごとの特性を背景とした伝統的な材料・技法とは異なり、国境を超えて共通する素材も多く用いられた近代文化遺産を保存していくためには、国内での研究の蓄積に加え、国際的な交流も重要です。今後も両国での取り組みを学び合い、より研究、交流を深めていきたく思っています。
赤外分光・ラマン分光ユーザーズ・グループ(IRUG)国際会議の開催
国際会議が令和5(2023)年9月26日~29日まで、東京文化財研究所にて、東京藝術大学保存科学研究室と共同して開催されました。IRUG(Infrared and Raman Users Group)は赤外分光法(FT-IR分光法)とラマン分光法を用いた分析手法の使用者による国際グループで、特に文化財資料調査のために、これらの分析手法による調査結果や参照とするスペクトルのデータを蓄積しています。この度の国際会議は第15回目、アジアで初めての開催となります。
FT-IR、ラマン分光法はいずれも“光”を使用した分析方法ですが、照射する光や測定対象となる光が異なり、それぞれの結果で、相補的に材質の情報を捉えることができ、文化財に使用されている材料等を特定していく際に非常に有効な方法です。近年、これらの分析方法を用いた文化財の調査が進み、様々な手法を組み合わせた結果、多くの成果が報告されております。この度の会議でも口頭とポスターで51件の発表があり、諸外国における文化財の材質調査結果が発表され、最新の研究動向や知見を得ることができました。
基調講演では、ジョージア大学化学名誉教授・James A. de Haseth博士の赤外分光分析の特に反射法についての基本的な理論と課題について講義いただきました。ワークショップは、IFAC-CNR(国立研究評議会〈CNR〉の応用物理学研究所「ネッロ・カッラーラ」〈IFAC〉)・Marcello Picollo博士が主導した、RCE (オランダ文化遺産庁)・Suzan de Groot博士とISTA(オーストリア科学技術研究所)・Manfred Schreiner教授による講義のほか、サーモフィッシャーサイエンティフィック社およびブルカー社にもご協力をいただきました。ワークショップは実際に試料をFT-IR分光法にて測定し、その操作方法や結果の比較を行うという、参加者にとって非常に充実したものとなりました。
国際会議全体を通して、文化財資料の分析方法や保存修復について、非常に活発な議論がなされました。保存科学研究センターでは、今後も国際的な動向を注視しながら、研究プロジェクトの進行に努める所存です。
国際研修「困難な状況下にある文化遺産管理のためのリーダーシップ研修 」の受講
令和5(2023)年9月24日〜29日にオランダ・ハーグにて開催された「困難な状況下にある文化遺産管理のためのリーダーシップ研修(Leadership Course for Cultural Heritage Stewards in Challenging Circumstances)」へ保存科学研究センター修復技術研究室研究員・千葉毅が参加しました。
この研修は、Cultural Emergency Response(文化遺産防災・救援のための国際NGO・NPO、本部はオランダ・アムステルダム、https://www.culturalemergency.org)およびSmithsonian Cultural Rescue Initiative(スミソニアン協会による文化遺産防災事業、https://culturalrescue.si.edu)が主催するものです。平成30(2018)年から年に一度開催され、今年で5回目となります。今年の参加者は14名で、日本からの参加は今回が最初とのことです。
研修は、大きく「企画提案」及び「チームでの企画運営」の二つの側面を持ち、それぞれにおいて各分野の専門家による講義が行われました。
企画提案の研修では、危機に瀕する文化遺産保護に関するプロジェクトを企画、提案し、外部からの助成・支援を受けるために効果的なショートプレゼンテーションに関する研修が行われました。3〜4名のグループによるプロジェクトと個人によるプロジェクトを企画し、研修最終日には、実際の助成機関担当者4名の前で発表し、彼らからの質疑応答、改善提案等の講評を受けます。
チームでの企画運営の研修は、構成メンバーの「強み」を分析し補完し合うアイデア、効果的なチーム運営をするためのリーダーシップ、メンタルヘルスを健康に保つための態度等といった内容です。
参加者の所属国は以下の通りです。日本、アメリカ、バルバドス、ペルー、ベトナム、アフガニスタン、ジョージア、トルコ、ウクライナ、ナイジェリア、カメルーン、ナミビア、レソト。
日本では、これまで文化財保護に関するファンドへの関心があまり高くなかったように思われ、このような内容を扱った研修もほとんどありませんでした。しかし、文化財をめぐる状況が多様に変化する中、今後の文化財保護、文化財防災では重要さが増してくるものと考えています。
なお、この度の受講内容は、近日中に広く共有させていただく予定です。
令和5年度博物館・美術館等保存担当学芸員研修(上級コース)の開催
令和5(2023)年7月10日~14日に「令和5年度博物館・美術館等保存担当学芸員研修(上級コース)」を開催しました。
昭和59(1984)年以来、東京文化財研究所で開催してきた「博物館・美術館等保存担当学芸員研修」は、令和3(2021)年度より「基礎コース」「上級コース」として再編され、博物館・美術館等で資料保存を担当する学芸員等が、業務に必要となる知識や技術について、基礎から応用まで、幅広く習得できることを目的として実施しています。「基礎コース」は保存環境を中心とした内容で文化財活用センターが担当し
(https://cpcp.nich.go.jp/modules/
r_db/index.php?controller
=dtl&t=db_kenshukai&id=8)、「上級コース」は保存環境だけでなく文化財保存全般を当研究所保存科学研究センターが担当し実施しています。
令和5年度の上級コースでは、保存科学研究センターで行っている各研究分野での研究成果をもとにした講義・実習や外部講師による様々な文化財の保存と修復に関する講義を実施しました。講義・実習テーマは以下の通りです。初日には所内の見学も行いました。
・文化財修復原論
・文化財の科学調査
・空気質(空気質について/空気汚染の文化財への影響/空気質の改善・換気の考え方)
・保管環境に関する理論と実践(空調)
・文化財IPM概論・実習
・修復材料の種類と特性
・屋外資料の劣化と保存
・近代化遺産の保護
・多様な文化財の保存と修復(文化財レスキューについて/一時保管施設の環境管理/博物館現場で日常的に実践できる文化財防災)
・博物館の防災
・民具の保存と修復
・大量文書の保存・対策
・紙本作品等の保存と修復
・写真の保存・管理
研修後のアンケートでは、研修全体を通して満足度が高かった様子がうかがえました。「実践的な知識を体系的に知ることができた」「最先端の研究を知ることができ、刺激を受けた」という感想が聞かれました。一方で、もう少し研修時間にゆとりを持たせて欲しいといったご意見や今後のフォローアップのご要望もいただきました。引き続き、保存担当学芸員の方々にとって有益な研修となるよう、研修内容を検討していきます。
昨年度は新型コロナウイルス感染対策のため受講者数は18名でしたが、今年度は感染状況が多少落ち着いていることに鑑み30名での開催となりました。受講者の所属は規模や館種も多様ですが、現場での悩みや問題意識は共通することも多く、受講者間の意見交換や交流も大きな意味を持つと考えています。ぜひこの研修で得られたネットワークも今後につなげていただければと思います。
ノリウツギの安定供給に向けての調査(2)
令和4(2022)年12月の活動報告においてノリウツギから採取するネリに関する報告を行いました。本報告はその続報となります。
昨年から、標津町で採取されたノリウツギが各地の紙産地に出荷されるようになり、紙漉きの際のネリとして利用されていますが、ネリが黒変するなどの問題が生じた産地が一部見られました。黒変原因を分析した結果、黒変は、ネリ抽出の際の加熱・外樹皮に含まれるタンニンの混入・防腐剤不使用の三条件が揃って発生することが確認されました。よって、外樹皮を丁寧に取り除くか、防腐剤を少量添加することで黒変を解消できることになります。この成果は文化財保存修復学会第45回大会(国立民族博物館、令和5(2023)年6月24~25日)にて報告済で、多数の質問を頂くなど実り多い発表となりました。
また、ノリウツギを用いて漉かれる宇陀紙(奈良県吉野郡吉野町)と越前和紙(福井県越前市)の産地を相次いで訪問し(宇陀は3月6日、越前は7月19日)、紙漉き現場の調査を実施しました。いずれの産地でもノリウツギ不足は大きな問題となっており、標津町からの供給には期待しているとのことでした。また、産地によって、あるいは職人によって、ノリウツギのネリの利用方法は様々であることが改めて確認され、要望に合わせた供給方法を検討することが求められます。さらに、7月27日には標津町を訪問し、ノリウツギ樹皮の採取の現場に立ち会い、採取方法の調査や記録撮影等を実施しました。今年はすでに約200kgのノリウツギ樹皮が採取され、各地の紙産地へと出荷が行われています。
今後もノリウツギの安定供給を目指して活動を続けていきます。
エントランスロビーパネル展示「文化財の修復に用いる用具・原材料の現在」の開始
東京文化財研究所では、調査研究の成果を公開するため、1階エントランスロビーでパネルを用いた展示を行っており、令和5(2023)年6月5日からは「文化財の修復に用いる用具・原材料の現在」の展示が新たに始まりました。
文化財を後世に伝えていくために、保存・修復の技術は欠かせないものですが、そこに使われる材料や道具の確保が困難なものが増えてきています。後継者不足や社会的な環境の変化によるものですが、緊急性の高い事案のため、現在文化庁と連携しつつ調査研究を遂行しています。使用されている材料の科学的な解明や問題点に関する科学的解決方法の提案、文化財修復の現場でのそれらの使用方法の把握、材料・道具の製作技術の記録などを行い、これらと過去の修理報告書のアーカイブ化を包括的に進めています。この事業は、このように多様な業務が関わるため、研究所内で横断的に連携を取りつつ遂行されており、まさに東文研の強みを活かした研究となっています。
今回の展示では、掛軸の装丁に欠かせない宇陀紙の原材料と、彫刻修理に欠かせない彫刻刃物を中心的に取り上げています。どちらも代替のないものですが、途絶の危機にあり、研究対象としています。また、東京文化財研究所では保存科学研究センターを中心に日本の伝統材料についての科学的な解明を以前から遂行していたため、本事業と関連する成果についても今回、併せて展示しています。文化財修復に関連する材料・用具の奥深さと、研究の成果の幅広さをこの展示を通じて感じて頂ければ幸いです。(入場無料、公開は月曜日~木曜日(金曜〜日曜日・祝日をのぞく) の午前9時~午後5時30分)。
https://www.tobunken.go.jp/info/panel/230605/
国宝キトラ古墳壁画への埃の堆積を防ぐことを目的とした蓋の設置
四神や獣頭人身十二支像、天文図が極彩色で描かれた国宝キトラ古墳壁画は、古墳内部から取り外した後の修理を経て、現在、奈良県高市郡明日香村に所在する「四神の館」内のキトラ古墳壁画保存管理施設において、壁画面を上にした状態で保管されています。これまで保管室に埃等を持ち込まないようにするため、前室で除塵機を作動することで対策してきましたが、除去しきれずに持ち込まれた埃が壁画上で確認される点については長年の課題でした。埃を除去する際に壁画にダメージを与えてしまうリスクがゼロではないことから、壁画への埃の堆積を防ぐことを目的とした蓋の設置が検討されることとなりました。文化庁、東京文化財研究所、奈良文化財研究所、国宝修理装潢師連盟の関係者で蓋に求める要素について協議したところ、蓋をすることで壁画に悪影響を与えないこと、蓋の取扱いが簡易であること、蓋をした状態でも壁画を視認できること、蓋そのものが埃を引き寄せない素材であることが挙げられ、国の選定保存技術として選定されている表装建具製作の黒田工房(代表:臼井 浩明氏)において、木枠に透明な帯電防止シートを張ったものが蓋として試作されました。蓋をした状態でも蓋の内外で温湿度環境に差異がなく、壁画に悪影響を与える可能性が極めて低いことが令和3年度に確認できたため、強度面で改良を加えた完成品が令和5(2023)年3月24日に納品され、キトラ古墳壁画に蓋を設置しました。
今後は、蓋を設置した効果の確認を行ない、壁画点検や一般公開、視察時の蓋の取り扱いについて関係者と協議することを予定しています。
20世紀初頭の航空機保存修復のための調査
近代の文化遺産は、伝統的な素材や技法によって制作された古来の文化遺産と異なり、それを構成する素材・部材やその製作技法自体が明治以降に日本へもたらされた比較的新しい技術により製作されているものも少なくありません。また、大量生産、大量消費を前提に生み出された近代の工業製品には、そもそも長期的な保存が難しいものも多くあります。保存科学研究センター修復技術研究室では、そのような比較的新しい時代の文化遺産を将来にわたってどう保存していくのかといったことを研究テーマの一つとしています。
令和5(2023)年3月、当研究室では松井屋酒造資料館(岐阜県富加町)で保管、展示されている1910年代の航空機部材の調査を実施しました。この調査は、令和4(2022)年5月に富加町教育委員会や松井屋酒造資料館等と資料を実見し、協議したことを受け、その保存方法や活用の方向性を検討するために実施したものです。
この部材は、フランス・サルムソン社モデル2複座偵察機(サルムソン2A2)の水平尾翼で、同社の生産ライセンスを得てフランス国内他社が製造したものと考えられています(横川裕一「松井屋酒造場に遺るサルムソン2A2の機体部品について」『航空ファン』2021年12月号)。大正7(1918)年、日本陸軍は第1次世界大戦の終戦間際に同機を30機購入していますが、松井屋酒造資料館にて保管されている部材は、そのうちの1機に由来するものと推定されています。本部材には表裏全体に塗装が認められますが、どうやらこの塗装は1910年代のオリジナル塗装である可能性が高く、そうだとすれば当時の塗装が残っている世界で唯一の部材である可能性も指摘されています(横川、前掲)。
この度の調査では、保存修復の可能性やその方法を検討するため、部分的に埃を払い、水等を用いて汚れの除去状況を確認しました。修理技術者のご協力もいただき、当初の塗装が広く残っている可能性が高いことを確認するとともに、具体的なクリーニング方法等を検討しました。
今回の調査により、クリーニング方法の方向性は確認できましたが、実施にあたっては検討しなければならない点も多く残っています。今後も引き続き、松井屋酒造資料館や富加町教育委員会、関係する皆様とも協力し、当該資料の保存について検討を進めていく予定です。
早川泰弘東京文化財研究所副所長・高妻洋成奈良文化財研究所副所長 退任記念シンポジウム「分析化学の発展がもたらした文化財の新しい世界-色といろいろ-」の開催
近年、分析化学の発展によって文化財の新しい価値が発見されるようになってきました。文化財の科学的な調査研究・保存に長年携わってきた東京文化財研究所の早川泰弘副所長と奈良文化財研究所の高妻洋成副所長が2023年3月に退任されることを記念して、分析化学の発展がもたらした文化財の新しい世界を文化財の最も基本的かつ重要な価値の一つである「色」という切り口から改めて見返してみようという趣旨のシンポジウムを3月4日に開催しました(主催:東京文化財研究所・奈良文化財研究所、共催:日鉄テクノロジー株式会社)。
当研究所のセミナー室にてシンポジウムを開催しましたが、さらに当研究所と奈良文化財研究所に設けましたサテライト会場におきましても多数の参加者にお集まりいただきました(参加者:69名(当研究所セミナー室)、36名(当研究所サテライト会場)、26名(奈良文化財研究所サテライト会場))。また、今回のシンポジウムではYouTubeによる同時配信を実施しましたが、こちらからも多くの方々に視聴していただきました(視聴者数:約155名)。
早川副所長による基調講演「日本絵画における白色顔料の変遷」では、これまでの分析調査の結果に基づいた日本絵画に用いられている白色顔料(鉛白、胡粉、白土)の変遷に関する研究成果の紹介が行われました。高妻副所長からの基調講演「領域を超えて」では、文化財の保存科学では自らの専門性を磨きつつ幅広い視野を持ち、お互いに理解をし合いながら研究を行うことの重要性についてご講演をいただきました。また基調講演に加えて、文化財の「色」に関連した7つの研究発表、昼休みには各種分析機器の展示も行われました。そして、講演後のパネルディスカッションでは、文化財の色に関する分析の話題にとどまらず、文化財保存科学の今後の展望にまで及んだ活発な議論が行われました。
東京文化財研究所、奈良文化財研究所、日鉄テクノロジーのスタッフが専門性や所属の垣根を越えて今回のシンポジウムの企画・準備をすることができましたのは、これまでの両副所長のご指導によるところが多大であり、そしてとても盛会なシンポジウムを開催することができました。
南九州市における近代文化遺産の調査
令和4(2022)年7月、東京文化財研究所は南九州市と「南九州市指定文化財等の保存修復に関する覚書」を締結し、共同研究に着手していたところですが(https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/995996.html)、令和5(2023)年2月に南九州市にて以下の調査、記録を行いました。
旧日本陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」の保存、修復に関する調査・助言
知覧特攻平和会館にて保管、展示されている「疾風」(南九州市指定文化財)は、戦時中にフィリピンにて米軍に鹵獲(ろかく)された機体で、現存する唯一の機体と考えられています。米軍によるテスト飛行の後、払い下げとなり、複数の所有者の手を経たのち、昭和48(1973)年に日本へ帰国、日本国内で複数の所有者を経て、平成7(1995)年に知覧町(現・南九州市)の所有となり平成9(1997)年から知覧特攻平和会館にて展示公開されています。
平成29(2017)年から南九州市による保存状態調査が行われ、平成30(2018)年からは当研究所も調査に加わっています。全体として機体の保存状態は良好ですが、戦後の試験飛行、展示飛行等に伴うと考えられるパーツの消耗や交換も認められることから、オリジナル部材の残存状況の確認、修復方針の検討等を継続して行っています。今回の調査では、主にエンジンを対象とし、オリジナル部材の確認、エンジン内部やオイルタンク内の状況確認等を実施しました。機体から取り外した部材の一部は当研究所でお預かりし、クリーニングや成分分析等を行っています。
なお、調査は展示室内で行っていますが、調査期間中も当該展示室は閉鎖せず、来館者にも調査風景を見学いただけるようになっています。また、令和4(2022)年3月には保存状態調査の報告書も刊行されています(知覧特攻平和会館編2022『陸軍四式戦闘機「疾風(1446号機)」保存状態調査報告書Ⅰ』 https://www.chiran-tokkou.jp/informations/2022/04/4.html)。
知覧特攻平和会館展示室、収蔵庫の空気質調査
今回、「疾風」の調査にあわせて、展示室および収蔵庫の空気質調査(有機酸、アルデヒド、揮発性有機化合物[VOC]の調査)を行いました。今後、調査結果をもとに、より安定した展示・収蔵環境を検討する予定です。
南九州市内所在のアジア・太平洋戦争期コンクリート構造物の現状記録
南九州市内には旧知覧飛行場に関する文化財をはじめ、アジア・太平洋戦争期に作られた多くの遺構〈戦争遺跡〉が残っています。それらの多くはコンクリート製の構造物ですが、終戦から80年近くが経過した現在、劣化が進み、破片の剥落が認められるものも少なくありません。今回、市内の当該期コンクリート構造物として旧知覧飛行場給水塔(市指定文化財)、旧青戸飛行場のトーチカ(防御陣地)2基について、実測、フォトグラメトリ(複数の写真から三次元モデルを作成する技法)による現状記録を行いました。今後、定期的な記録により劣化の進行を分析するとともに、コンクリート強度の測定等も検討いたします。
「文化財修復技術者のための科学知識基礎研修」の開催
保存科学研究センターでは、文化財の修復に関して科学的な研究を継続してきています。令和3(2021)年度より、これらの研究で得た知見を含めて、文化財修復に必要な科学的な情報を提供する研修を開催しています。対象は文化財・博物館資料・図書館資料等の修復の経験のある専門家で、実際の現場経験の豊富な方を念頭に企画されています。
令和4(2022)年10月31日より11月2日までの3日間で開催し、文化財修復に必須と考えられる基礎的な科学知識について、実習を含めて講義を行いました。文化財修復に必要な基礎化学、接着と接着剤、紙の化学、生物被害、薬品の使用上の注意や廃棄の方法などについて東京文化財研究所の研究員がそれぞれの専門性を活かして講義を担当しました。
定員15名のところ、全国より45名のご応募を頂きました。昨年度は新型コロナ感染拡大の状況を考慮し、対象を東京都内に在住・通勤の方のみと限定しましたが、今年度は地域の制限は撤廃し、広い分野の方がお越しになれるよう検討し19名の方にご参加いただきました。昨年度のご要望を踏まえて調整した内容でしたが、開催後のアンケートでは、参加者の方達から、非常に有益であったとの評価をいただきました。今後修復現場に活用されたい具科学的な情報の具体的なご要望もいただき、これらのご意見を踏まえながら次年度も同様の研修を継続する予定です。
ノリウツギの安定供給に向けての調査
文化財修復や伝統工芸等で使用されている和紙は、楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)と言った植物から取り出した繊維を原料としていることはよく知られています。一方で、「ネリ」と呼ばれる物質も必要であることはあまり知られていないかもしれません。ネリを添加しないと繊維がうまく分散せず、漉きあがった紙はムラの多い、地合いの悪いものとなってしまいます。ネリを添加することで繊維が水中で均一に分散し、美しい漉きあがりとなるのです。
工業的に大量生産される紙の場合はポリエチレンオキサイドなどの合成品がネリとして用いられることがほとんどですが、伝統的にはトロロアオイやノリウツギなどの植物から採取される粘液がネリとして用いられてきました。今でも、特に薄手の和紙においてはトロロアオイやノリウツギ由来のネリが最適とされており、文化財修復に用いられる和紙でも幅広く用いられています。しかし、特にノリウツギについては、野生株の採取に頼っていることや、採取を行う後継者が不足していることなどの問題から、安定した供給が困難になりつつあり、このままでは文化財修復等に用いる和紙を漉くことができなくなりかねません。例えば、掛軸の総裏紙として用いられる宇陀紙はノリウツギから得られたネリを用いて漉かれるため、将来的には掛軸の修復が困難になるような事態も想定されます。
保存科学研究センターでは文化庁からの受託研究「美術工芸品の保存修理に用いられる用具・原材料の調査」を文化財情報資料部、無形文化遺産部とともに遂行していますが、その中の主要な調査としてノリウツギの安定供給に向けて活動しています。この研究は、北海道および標津町などと連携して行われており、標津町のノリウツギ産地の視察を行ったり、定期的に検討会を開催したりしています。今後もノリウツギの安定供給に向けた支援を行うとともに、ノリウツギから得られるネリがなぜ優れた性能を示すのか科学的に評価していく予定です。
岩窟内に建てられた木造建造物の保存環境に関する調査
保存科学研究センターでは岩窟内の木造建造物の保存環境にかかる調査研究を行っています。
石川県小松市の那谷寺は土着の白山信仰と仏教が融合した寺院であり、重要文化財である本殿は1642年(寛永19年)に再建されたもので、自然の浸食でできた岩窟内に建てられています。岩窟内では近年実施した耐震補強工事以降、春から夏にかけての結露の発生が問題になっています。結露は木材腐朽の要因となるため、建築やそこに施された装飾をなるべく健全な状態で残すためには、発生の頻度を可能な限り減らすことが望ましいです。
そこで結露の発生要因を明らかにし、その抑制方法を検討するための環境調査を行っています。岩窟内の環境は雨水や外気の影響や岩盤の熱容量(熱を蓄える能力)の影響を受けるため、堂内の温湿度環境の測定に加え、岩盤への水分浸透状態の測定や、岩盤や本殿の表面温度の測定を行っています。今後は継続的な環境データの測定と分析により検討を進めます。
結露は、組積造建造物や古墳の石室など様々な現場で問題になっています。特に近年は夏季の気温と絶対湿度の上昇に伴って、発生リスク自体が上昇していることが報告されています。根本的には地球規模での環境を考える必要がありますが、まずは日常管理の中で取り組める対策を提案できればと考えています。
文化財修復処置に関するワークショップ-ナノセルロースの利用についてー開催報告
近年、文化財保存修復に関する調査研究対象は伝統的な文化財分野のみならず、多様な材料で作成された作品や資料へ広がっており、それに伴い、保存科学研究センター修復材料研究室では、海外の講師を招聘しての研修を開催しています。今年度は、フランスよりナノセルロースの利用について研究と実践を行うRemy Dreyfuss-Deseigne氏を招聘し令和4年(2022)10月5日より3日間のワークショップを行いました。ナノセルロース材料は天然材料に由来する透明で安全な材料であることから、特にトレーシングペーパーや写真フィルムなど透明な材料への適用が着目されています。
定員15人に対し2倍以上のご応募があり、午前の座学へは全員ご参加いただけましたが、午後の実技のためには定員を広げつつも選考を行わざるを得なかったのですが、この研修に対する期待を強く感じられました。初日は齊藤孝正所長の挨拶と講師紹介の開講式から開始され、午前の座学と午後の実技実習を行いつつ、また、最終日には東文研が保有する機器のうち研修に関連するものの見学も行いました。
海外から講師を招聘してのワークショップは3年ぶりとなりましたが、対面での研修となったため、非常に活発な質問や討議が行われ、さらに、研修生同士の連携も強く形成されたとの声も多く、オンラインでは得られない研修効果を再認識した次第です。このような熱意の中で行われた本研修の成果は、実際の文化財修復や公文書保存に役立てられていくと考えております。
博物館の展示ケース内における空気質調査
保存科学研究センターでは博物館等の保存環境にかかる調査研究を行っています。今回、神奈川県立歴史博物館より、展示ケース内の空気質に関する調査依頼をいただきました。展示ケース内で有機酸が検出されるが、発生源が特定できておらず、対策を講じるためにも発生源を知りたいということでした。また、これまで有機酸として一括りでしか測定できていなかったので、酢酸とギ酸の割合を把握したいという要望もありました。
そこで、保存科学研究センター・保存環境研究室と分析科学研究室では、分析科学研究室で開発を行っている空気質の調査方法を適用して、発生源を調べることにしました。調査対象は大小の壁付展示ケース床面、覗きケース展示面、展示台、バックパネルの5箇所です。写真のように空気を通さないフィルムで作られた袋を測定箇所にかぶせ、重さ4.5kgの鉛金属のリングで設置面に隙間ができないように設置しました。袋の中の空気を窒素に置き換え24時間静置後、袋内からポンプで空気を採取し超純水に溶かした試料をイオンクロマトグラフィーで分析することにより、酢酸、ギ酸の放散量を測定しました。同時に、データロガーを袋内に封入し、二酸化炭素の濃度変化を測定することで、密閉度の確認も行いました。
今回の調査により、それぞれの測定箇所の酢酸・ギ酸の濃度を把握することができたので、今後の空気質改善の対策に生かしていきたいと考えています。
令和4年度博物館・美術館等保存担当学芸員研修(上級コース)の開催
令和4(2022)年7月4日から8日の5日間の日程で「令和4年度博物館・美術館等保存担当学芸員研修(上級コース)」を開催しました。
この研修は資料保存を担当する学芸員等が、環境管理や評価、改善などに必要となる基本的な知識や技術を習得することを目的として、昭和59(1984)年から令和2年まで行ってきた、博物館・美術館等保存担当学芸員研修の応用的な位置づけになるものです。
令和3年度より保存環境に重きを置いた内容を「基礎コース」として文化財活用センターが行い、東京文化財研究所では、「上級コース」としてこれまで博物館・美術館等保存担当学芸員研修を受講されてきた方々や同等の経験をお持ちの方を対象に実施しています。
上級コースでは、主に保存科学研究センターで行っている各研究分野での研究成果をもとにした講義・実習内容や外部講師による様々な文化財の保存と修復に関する講義を行いました。今年度も新型コロナウイルス禍が続いておりましたが、感染防止策を徹底した上で18名の受講生と対面での研修を開催することができ、この機会に同期のつながりも作ることができたのではないかと思います。
研修後のアンケートでは、研修全体を通して満足度が高かった様子がうかがえました。「今回研修で学んだ内容を持ち帰り、自館で取入れていろいろと試してみたいと思った」
「改めて理解し直したこと、初めて知ったことがあり、有意義な時間だった」「充実した一週間だった」という感想が聞かれました。引き続き、保存担当学芸員の方々にとって有益な研修となるよう、研修内容を検討していきます。
高徳院観月堂で用いられている彩色材料の調査
鎌倉大仏殿高徳院の境内には、朝鮮王朝王宮「景福宮」から移築された「観月堂」と称されるお堂があります。観月堂では瓦や壁面の経年劣化や野生生物の被害など、建造物の保存・活用に関する課題を抱えています。また、観月堂に施されている丹青(彩色材料)は、景福宮建立当時に用いられたものが現存している非常に希少なものですが、その材質等についてはまだ明らかになっておらず、現在の状態を把握しておくことが重要です。このような検討を進める上で、観月堂に用いられている彩色材料に関する基礎情報を収集することになりました。
そこで、鎌倉大仏殿高徳院(佐藤孝雄住職)からの依頼を受けて、令和4(2022)年7月6日、7日に、保存科学研究センター・犬塚将英、早川典子、芳賀文絵、紀芝蓮が観月堂に可搬型分析装置を持ち込んで、建築部材に施されている彩色材料の現地調査を実施しました。
調査の第一段階として、観月堂が建造された当初に彩色されたと推測される箇所を中心に、色に関する情報を2次元的に把握するために、ハイパースペクトルカメラを用いた反射分光分析を行いました。このようにして得られた反射分光スペクトルのデータを参考にして、学術的に興味深いと考えられる箇所を選定し、蛍光X線分析による詳細な分析も行いました。以上の2種類の分析手法によって得られたデータを詳細に解析することにより、朝鮮王朝時代に用いられた特徴的な彩色材料に関する理解を深め、今後の保存・活用に役立てていく予定です。
南九州市の文化財保存修復に係る調査研究に関する覚書締結
東京文化財研究所と鹿児島県南九州市は、平成20(2008)年頃より市域に所在する個々の文化財の保存修復に関する調査研究を共同で実施してきましたが、このたび「南九州市指定文化財等の保存修復に関する覚書」を締結し、連携を一層深めて共同研究を進めることとしました。それにあたり、令和4(2022)年7月20日に南九州市役所で覚書の締結式を執り行いました。締結式では、事業概要が説明されたのち、齊藤孝正所長と塗木弘幸南九州市長が協定書に署名いたしました。
南九州市は、指定文化財だけでも計191件もの文化財を有する土地柄ですが、中でも国登録文化財である旧陸軍知覧飛行場関連の建造物や市指定文化財である陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」をはじめとした近代の文化遺産は、わが国の近代史におけるかけがえのない資料群としてよく知られています。一方で、これら近代の文化遺産は、たとえ指定または登録されても、従来の文化財と規模、材料、機能等において異なる点が多く、保存と活用の新たな手法が求められる場面が多々あります。この度の共同研究は、当研究所と南九州市とが連携することで、これらの文化財がはらむ保存活用のための技術的課題の解決や、新たな保存手法の開拓、研究活動の活性化などを図り、地域の文化財の普及啓発の促進に寄与することを目的とするものです。あわせてこれらの成果を全国に発信し、同様あるいは類似の課題を持つ地方公共団体等にも資する情報を提供できることも目指していきます。