研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


“南方”を視覚化する―令和7年度第4回文化財情報資料部研究会の開催

研究会、呉景欣氏発表の様子
三水公平のスケッチより。右上に「十月 於ジョグジャカルタ」と記され、1942年10月にインドネシアのジョグジャカルタで描かれたものであることがわかります。

 今年の4月から8月までの5か月間、米・ラトガース大学アソシエート・ティーチング・プロフェッサーの呉景欣(ウー・ジンシン/Wu, Chinghsin)氏が来訪研究員として当研究所を拠点に活動されました。近代美術を専門とする呉氏は2007年にも当研究所の来訪研究員として来日し、古賀春江を中心とする日本のシュルレアリスムについて調査研究を進めましたが、この度の滞在では、近代日本美術における台湾のイメージを研究課題として取り組みました。
 7月17日には、呉氏と山梨県立美術館学芸員の森川もなみ氏の発表による文化財情報資料部研究会をオンライン併用で開催しました。呉氏は「近代日本画家の台湾における活動と画業の発展-木下静涯と同時代の日本画家たちの渡台前後の作品を中心に」のタイトルで発表、植民地時代の台湾で活躍した日本画家の木下静涯(1887~1988)や郷原古統(1887~1965)を取り上げ、渡台後の画題や画風にみられる変化について考察しました。森川氏の発表「三水公平の南方従軍スケッチ―戦時下における日本の占領地・植民地の記録」では、油彩画家・三水公平(1904~1997)による戦時下の従軍スケッチを紹介し、インドネシアやシンガポール、台湾、満洲等で制作されたスケッチに、日本の占領地の様子を視覚的に伝える歴史資料としての価値があることを指摘しました。発表後のディスカッションでは、戦前期の日本人画家による“南方”のイメージについて発表者の間で意見を交換、さらに所内外の研究者も交え、静涯や古統のとくに花鳥画に見られる画風や、戦時下の占領地における三水のスケッチの意義について議論を重ねました。

聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)での保存修復共同研究(その2)

壁画のクリーニング前後の様子
作業風景
クリーニング後のアプシス

 文化遺産国際協力センターでは、トルコ共和国のカッパドキアに位置する聖ミカエル教会(ケシュリク修道院内)を対象に、トルコ国内外の専門機関や大学と協力しながら内壁に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究事業を進めています。

 令和7(2025)年6月21日から7月15日にかけて現地調査を実施し、前年度の実地研究に基づいて策定した保存修復計画に従い、教会建築におけるアプシスを中心とした壁面のクリーニング作業および、身廊(しんろう)部分における剥落の危険性が高い漆喰層の補強処置を行いました。この教会の壁画は、100年以上にわたり厚い煤(すす)に覆われ、その全貌を目にした者はいません。今回のクリーニングにより、長年にわたり堆積した煤汚れを安全かつ慎重に除去した結果、壁画本来の色彩や細部の描写が鮮明に浮かび上がりました。これにより、当初の意匠や制作技法について詳細な検証が可能となり、壁画の制作年代や様式的特徴に関する新たな知見が得られました。なかでも、本研究を通じて体系化された保存修復の技術的アプローチが、実地作業を通じてその有効性を実証した点は、学術的・実務的に極めて意義深い成果であるといるでしょう。

 本共同研究は、東京文化財研究所を中核機関とし、トルコ国内外の専門機関および大学との連携のもとに推進されている国際的な保存修復プロジェクトです。今回の作業においては、壁画の保存修復過程における状態把握を目的として、保存科学的手法や三次元計測技術を導入し、対象を科学的・物理的側面から多角的に検証しました。このように、複数の視点から対象を精緻に把握しつつ、壁画の特性に即した保存修復方法の確立を目指す本プロジェクトの取り組みは、トルコ国内においても前例のない先駆的事例として高く評価されており、大きな注目を集めています。今後も、こうした期待に応えるべく、文化財の保存と活用に資する有意義な活動を継続的に展開していきたいと思います。

第47回世界遺産委員会への参加

第47回世界遺産委員会の会場となったユネスコ本部
第一会議場での審議風景

 令和7(2025)年7月6~16日、第47回世界遺産委員会がパリのユネスコ本部で開催され、東京文化財研究所から3名がオブザーバーとして参加しました。今回の委員会は当初、議長国を務めるブルガリアでの開催予定でしたが、保安上の理由から準備途中で会場が変更となりました。

 会議の冒頭、通常は形式的な議事の承認が進むところで、トルコによるNGO「ティグリス救済財団」のオブザーバー参加拒否や韓国による「明治日本の産業革命遺産」の委員会決議の履行に関する議題の追加要求が行われる、波乱の幕開けとなりました。議題の追加要求は、予定時間を大幅に超過して議論が尽くされましたが合意に至らず、委員国の秘密投票の結果、否決されました。一方、オブザーバー参加拒否は、ほぼ議論がないまま当該団体が参加者リストから抹消されたため、締約国からは委員国の対応を遺憾とする発言が相次ぎました。

 登録遺産の保全状況では、56件の危機遺産を含む248件が審議され、3件が晴れて危機遺産リストから除外されました。近年の委員会では危機遺産リストに記載されたままの遺産の増加が問題視されており、危機遺産を脱するための締約国の取り組みが強く求められるようになっています。遺産の新規登録では31件が審議され、26件が登録となりました。このうち諮問機関が登録を勧告したのは16件で、委員会で勧告が覆される傾向が依然として続いています。ただし、保全状況等に関する勧告に従った修正を含めての登録も多く、諮問機関の評価と締約国の認識との乖離の解消に向けて一定の改善がみられたともいえます。今回の登録で、シエラレオネとギニアビサウが新たに加わり、196の締約国のうち世界遺産を保有する国は170となりました。登録遺産の地域的な偏りは世界遺産リストの代表性を損なうものとして委員会での積年の課題となっており、諮問機関によるギャップ分析の更新など不均衡を是正するための取り組みが続けられています。

 このほか、ユネスコ日本信託基金の支援をもとに5月にナイロビで行われたアフリカの遺産のオーセンティシティに関する国際会議の成果文書が、賛否の分かれる議論を経て最終的に採択に至ったことは、今後の世界遺産の評価基準に変革をもたらす画期を予感させるものでした。

 次回の世界遺産委員会は、来年7月に韓国・釜山で開催される予定です。当研究所では、今後も世界遺産をとりまく動向を注視し、関係する情報の収集と分析、発信に取り組んでいきます。

『日本美術年鑑』の現状と課題―令和7年度第3回文化財情報資料部研究会の開催

試作中の日本美術年鑑所載文献データベース

 『日本美術年鑑』(以下、『年鑑』https://www.tobunken.go.jp/joho/
japanese/publication/nenkan/nenkan.html
)は日本国内における一年間の美術界の動向を一冊にまとめたデータブックで、昭和11(1936)年に東京文化財研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所で初めて刊行されて以来、現在も刊行が続けられています。2025年1月刊行の令和4年版からは、長らく『年鑑』を構成していた項目のうち「定期刊行物所載文献」を掲載せず、データベース上でのみ公開するという大幅なリニューアルを行いました。
 令和7(2025)年6月5日に開催された文化財情報資料部研究会では、黒﨑夏央(当部アソシエイトフェロー)が「『日本美術年鑑』の現状と課題」と題して発表を行いました。この度の『年鑑』のリニューアルについて報告するとともに、今後の『年鑑』の課題についても検討しました。東京で入手できるメディアを情報源としている『年鑑』に掲載される展覧会情報は、おのずと関東地域に偏るという問題点があります。その打開策のひとつとして、他機関との連携による新たな情報収集を提案しました。発表後のディスカッションでは、当研究所で『年鑑』の刊行を続け、編年的な歴史記録を編んでいくことの意義や、他機関との連携に際して予想される問題点などについて意見が交わされました。
 今後は、『年鑑』独自の項目である「展覧会図録所載文献」のさらなる充実を目指すとともに、美術界を記述・把握するためにこれまで培ってきた分類体系を反映したデータベースの構築と、所内で入力した「定期刊行物所載文献」の情報を即時に公開する仕組みの導入を考えています。長い歴史を歩んできた『年鑑』の刊行事業を継続するだけでなく、現代的な情報提供のあり方をふまえて、多くの方にとってより利用しやすい情報発信ができるよう努めてまいります。

韓国・国立文化遺産研究院からの来訪

 6月11日(水)、韓国・国立文化遺産研究院から研究員の来訪がありました。
 国立文化遺産研究院は、韓国の様々な文化遺産の研究調査をおこなう、国家遺産庁傘下の機関です。1969年に設置された「文化財管理局文化財研究室」にルーツをもつ同機関は、現在、2課6室1チーム(行政運営課、研究企画課、考古研究室、美術文化遺産研究室、建築文化遺産研究室、保存科学研究室、復元技術研究室、安全防災研究室、デジタル文化遺産研究情報チーム)体制で運営しており、さらに地方に7ヶ所の研究所(慶州、扶余、加耶、羅州、中原、ソウル、完州)と文化遺産保存科学センターを擁する機関です。
 同研究院では、2023年よりアメリカのゲッティ研究所が運営管理する「ULAN」(Union List of Artsist Names: 芸術家の人名情報を提供するデータベース https://www.getty.edu/research/tools/vocabularies/ulan/)に韓国の美術家に関する情報を提供しています。一方、当研究所ではこれに先立ち、2016年よりゲッティ研究所と共同事業に取り組んでおり、「GRP」(Getty Research Portal: 世界各地に所蔵される美術関連図書のデジタルコレクション https://portal.getty.edu/)に所蔵図書のデジタルデータと書誌情報を提供してきた実績があり、そのような先行事例として今回の来訪に至りました。
 キム・ウンヨン室長(美術文化遺産研究室)をはじめとする5名の研究員は、橘川英規(文化財情報資料部近現代視覚芸術室 室長)と田代裕一朗(文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室 研究員)による案内のもと、当研究所での取り組みについて説明を受けたのち、意見交換をおこないました。国は違えど、東アジアという文化圏のなかで共通項も多いそれぞれの美術文化について、どのようにしたら情報を効果的に欧米圏に発信できるのか、また今後お互いに協力できることはあるのか、活発に意見を交わすことができました。
 当研究所は、ゲッティ研究所と共同事業をおこなっている日本国内唯一の機関です。そのようなプライオリティをもとに、さらに交流の輪を諸外国に広げていきながら、日本と海外を繋ぐ研究交流の「ハブ」としての役割も果たすことで、当研究所がより多角的に日本の学術に寄与できれば幸いです。

[GRPにおける当研究所所蔵資料のコンテンツ]
博覧会・展覧会資料 Japanese Art Exhibition Catalogs(951件)
明治期刊行美術全集 Complete series of Japanese Art of Meiji period (64件)
印譜集 Compilation of Artist’s Seals(85件) 
美術家番付 Ranking List of Japanese Artist(61件)
織田一磨文庫 Oda Kazuma Collection (135件)
前田青邨文庫 Maeda Seison Collection(269件)
貴重書 Rare Books (335件)
版本 Japanese Wood Print Books(210件) 

韓国における美術アーカイブの現況調査

資料閲覧端末を案内するキム・ダルジン所長(キムダルジン美術研究所)
イ・グヨル寄贈資料の保存状況を案内するイム・ジョンウン研究員(Leeum美術館)
美術アーカイブの現況を説明するイ・ジヒ学芸研究士(国立現代美術館)

 文化財情報資料部のプロジェクト「文化財に関する調査研究成果および研究情報の共有に関する総合的研究」(シ01)では、国内外諸機関と連携しながら、当研究所の文化財に関する調査研究の成果・データを国際的標準に見合うかたちに整え、効果的に共有していくための研究を行っています。
 令和7年度は、ITそして文化面での取り組みが近年注目される韓国(大韓民国)における美術アーカイブの現況を調査するため、6月23日(月)から26日(木)まで、橘川英規(近現代視覚芸術室長)と田代裕一朗(文化財アーカイブズ研究室 研究員)の2名が韓国を訪問しました。
 両名は、まず韓国における美術アーカイブの先駆けというべき「金達鎮美術研究所」を訪問し、キム・ダルジン所長、アン・ヒョレ主任と面会しました。同研究所は私設のアーカイブですが、笹木繁男寄贈資料の受入などを通して現代の美術作家資料を収集してきた当研究所との共通点が多く、資料の保存と活用に関して有益な意見交換を行うことができました。続いて韓国の代表的な私立美術館である「Leeum美術館」を訪問し、イム・ジョンウン研究員による案内のもと、資料閲覧室について伺うとともに、韓国を代表する現代美術評論家であった李亀烈(イ・グヨル、1932~2020)寄贈資料などオーラルヒストリーの実施と合わせて収集されたアーカイブ資料などを見学しました。さらに2023年にソウル市立美術館が新たにオープンした「ソウル市立美術アーカイブ」を訪問し、ユ・エドン学芸研究士、チョ・ウンソン記録研究士と面会し、韓国における最新の資料保存設備とそれにともなう管理システム、またAIを活用して構築された美術に関するシソーラス(美術知識の体系的語彙構造システム)を視察することができました。そして韓国を代表する近現代美術館である「国立現代美術館」を訪問し、イ・ジヒ学芸研究士による案内のもと同館のアーカイブを見学しました。国立現代美術館は、日本の「現代美術館」とは異なり、19世紀末以降のいわゆる近代美術もその範囲に含めている点が特徴です。果川館、徳寿宮館、ソウル館それぞれの施設を見学したのち、キム・インへ学芸室長と面会し、両館が有する資料の特性を踏まえた美術アーカイブの構築について意見交換をおこなうことができました。
 韓国では2000年代以降、美術アーカイブの整備が急速に進んでいます。AIなど先進的なデジタル技術を活用した資料の保存と活用はもちろん、大学院等で記録・文書保存を専門的に学んだアーキビスト(archivist)が、各所でアーカイブの運営に携わっている点が注目されました。
 今回の現況調査は、日本における美術アーカイブの未来を考えるうえで大きな収穫がありましたが、同時に当研究所のソフト・コンテンツを改めて認識する機会にもなりました。国立現代美術館では「超現実主義と韓国近代絵画」展(4月17日~7月6日、徳寿宮館)が開催されていましたが、展示を企画したパク・ヘソン学芸研究士は、昨年11月に当研究所で、戦前に日本で活動した韓国人学生などの資料調査をおこなった研究者でした。久々に再会を果たすとともに、同氏による案内のもと、調査成果が還元された展覧会を見学する貴重な機会を得ることができました。
 当研究所が1930年以降蓄積してきた資料には、東アジアの近代を考えるうえで貴重な資料も多数含まれています。長年にわたる近代美術資料の集成や、近年進めているアーカイブズの公開を通じて、こうした資料の重要性に着目し、それを研究に活用しようとする動きが東アジアの研究者のあいだにも広がりつつあります。引き続き、諸機関と連携しながら、それらを効果的に発信することで国際的な認知を高めると同時に、広く研究者に活用してもらうことで東アジアの近代美術史研究に資することができれば幸いです。

タイ王室第一級寺院ワット・ラーチャプラディットの日本製漆扉部材の保存と材料に関する調査

床の隙間から侵入したシロアリの食痕の目視調査と生体の観察
食害のある漆扉部材の目視調査とサンプリング箇所の確認
彩漆蒔絵による装飾の目視調査

 タイ・バンコクに所在するワット・ラーチャプラディットは1864年にラーマ4世王によって建立された王室第一級寺院です。寺院の拝殿の窓や出入口には、建立当初から多数の日本製の漆塗りの部材(以下、漆扉部材)がはめこまれています。漆扉部材は伏彩色螺鈿や彩漆蒔絵で花鳥や中国の故事などが描かれた装飾性の高いものですが、年月を経て傷みが生じているため、タイ文化省芸術局が修理を行い、当研究所は修理に対する技術協力や調査研究を行っています。
 人々の祈りの場である拝殿の雰囲気を保つため、修理が終わった漆扉部材は元の位置に戻します。しかし、漆扉部材には虫損と思われる傷みも確認され、何の対策もせず部材を元の位置に戻しても同様の損傷が生じうることから、漆扉部材の現地保存のための調査研究を同寺からの受託研究として立ち上げ、令和7年(2025)6月9日~11日に現地調査を行いました。
 現地では、拝殿の状況やシロアリ等の木材を食害する生物の有無の確認、虫損が見られる漆扉部材の目視調査を行いました。当初、部材の虫損が最近のものではなく、すでに収束している可能性も考えましたが、調査の結果、床のわずかな隙間から建物内にシロアリが侵入しており、食害を受けるおそれがあることがわかりました。今後、とりうる対策をタイ側に提案し、漆扉部材の現地保存に役立てていただく予定です。
 また漆扉部材に関する調査も併せて行いました。漆扉部材に用いられた材料や技法については不明な点が存在するため、目視調査を実施し、採取した少量の脱落片については科学分析を予定しています。得られた結果を通じて、今後の漆扉部材の修理や復元の方針について提言していく予定です。

標津町でノリウツギ採取の動画記録撮影と普及事業の視察

加工したスプーンで樹皮を剥ぐ
外皮を剥いで内皮を取り出す
福西氏と和紙漉く真剣な面持ちの子どもたち
福西氏の説明に聞き入るノリウツギ採取に関わる方々

 文化財修復に用いられる宇陀紙を漉くためには、ノリウツギから得られる「ネリ」が欠かせません。初夏の強い日差しのもとでノリウツギの樹皮を剥ぎ取り、外皮を丁寧に手作業で削って内皮を取り出してくださっているのが北海道・標津町(しべつちょう)の方々です。また、野生株に頼らない栽培のために、ノリウツギの苗木づくりも始動しています。
 令和7(2025)年6月24~27日、東京文化財研究所の研究員・アソシエイトフェローの4名(保存修復センター分析科学研究室長・西田典由、同センターアソシエイトフェロー・一宮八重、無形文化遺産部無形文化財研究室長・前原恵美、同部アソシエイトフェロー・小田原直也)が、標津町でのノリウツギの樹皮剥ぎ取り、外皮削りの工程を視察し、苗木作りの様子や関係者の談話と併せて記録撮影しました。また、標津町文化ホールで行われた小学生・一般を対象とした福西正行氏(国の選定保存技術「表具用手漉和紙(宇陀紙)製作」保持者)によるワークショップ等の普及事業にも参加、その様子も映像に収めました。これらの映像は、今後編集を経て、文化財の継承にかかる研究・教育・普及のために活用される見込みです。
 令和5年(2023)11月2日、当研究所は標津町との間で文化財修復材料の連携・協力に関する協定書を締結しました。ノリウツギを安定的に確保するための取り組みや普及事業を記録・発信していくことも、こうした連携・協力に資することが期待されます。

渡良瀬遊水地のヨシ調査―篳篥の蘆舌原材料

ヨシの外径計測(栗田商事にて)
すでに3mを超すほど育っているヨシ

 無形文化遺産部では、無形文化財を支える原材料調査の一環として、篳篥(ひちりき)の蘆舌(ろぜつ)に使用されるヨシの調査を行っています。このたび、篳篥(ひちりき)演奏家で蘆舌(ろぜつ)も製作される中村仁美氏に同行していただき、令和7(2025)年6月16日、渡良瀬遊水地のヨシ原で調査を実施しました。平成24 (2012)年7月にラムサール条約湿地に登録された渡良瀬遊水地は、全面積のうち2,500haが植生に覆われ、その約半分がヨシ原とのことですから、日本有数規模のヨシ原と言えます。
 今回の調査では、まず栗田商事株式会社を訪問し、篳篥の蘆舌に適した太いヨシを選別し、試材として提供していただきました。今後、複数の蘆舌製作者に試作を依頼し、蘆舌としての渡良瀬のヨシの適性を検討する予定です。
 渡良瀬遊水地では、近隣4市2町(栃木県栃木市・小山市・野木町、群馬県板倉町、茨城県古河市、埼玉県加須市)の行政、地元自治会代表、関連団体から成る渡良瀬遊水地保全・利活用協議会が組織されています。協議会はオブザーバーに国交省、環境省を迎え、環境学習のガイドブック作成等による啓蒙活動を行いながら渡良瀬遊水地の将来像を考えたり、イノシシによる獣害や治水について議論を重ねて要望書を提出したりしているとのことです。
 また、ヨシ原を健全に保つためには毎年ヨシ焼きを実施する必要がありますが、渡良瀬では関連する4市2町と関係消防署、渡良瀬遊水地利用組合連合会、アクリメーション振興財団、利根川上流河川事務所でヨシ焼き連絡会を作り、ヨシ焼きを実施しています。
 国産ヨシの需要は限定的でヨシ・オギの事業者が5軒にまで減少する中、事業者、行政、自治会、関連団体とのネットワークによって渡良瀬のヨシ原が保たれ、その理解促進のための試みが続いています。一部の雅楽演奏家に篳篥蘆舌に向いているとも言われる渡良瀬のヨシについて、引き続きその特性を探り、用途について検討していきたいと思います。

楮栽培と木灰の使用状況の調査

楮を育てるため、農業用マルチシートをかけて雑草対策を行っている様子
福西氏から楮原料(白皮)について説明を聞く

 文化財や美術工芸品の保存修理に用いられる用具や原材料は多岐にわたりますが、その多くが担い手の後継者不足や原材料の入手困難といった課題に直面し、将来的な継続使用が危ぶまれています。こうした状況に対応するため、文化庁は令和2(2020)年度より「美術工芸品保存修理用具・原材料管理等支援事業」を開始しました。これを受け、東京文化財研究所では保存科学研究センター、文化財情報資料部、無形文化遺産部が連携し、受託研究「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に取り組んでいます。本報告では、文化財修理に欠かせない和紙の原料である楮(こうぞ)の栽培地および、楮繊維を得る際の煮熟(しゃじゅく)工程に用いる木灰使用の現地調査について紹介します。
 令和7(2025)年6月9日~10日に奈良県吉野町と五條市の楮畑4か所を訪問しました。芽掻き(次々とでてくる脇芽を取り除きます。残した梢に栄養を集中させるなどの効果があります)という作業や、下草刈りなど手間のかかる作業が丁寧に行われている様子や、栽培における工夫や課題についてお話を伺いました。こうした栽培管理を担う人々は年々減少しており、原材料の安定供給の観点からも重要な課題です。
 内皮に赤褐色の筋が生じる原因の解明(繊維に色がつかないようにこの赤筋を取り除く必要があり、その結果、使用可能な原料が減少してしまいます)や、以前は見かけなかった虫への対策など課題はつきません。
 また、和紙にチリや着色があると文化財修理には適しませんが、今回訪れた福西正行氏、上窪良二氏の紙漉き工房では、楮や木灰を厳選するだけでなく、異物を一つひとつ刃物で切り取る繊細な工程(チリ切り)が重ねられていました。木灰から得られるアルカリ性溶液は楮の繊維を抽出するうえで不可欠ですが、良質な繊維を得るための灰の調達も難しくなりつつあります。今後は、和紙原材料間の相互作用や、様々な品種から得た木灰の特性を科学的に解明し、具体的な課題解決に向けた分析等を進めていきます。あわせて、専門家や関連分野の知見をつなぐネットワークのハブとしての機能を強化し、製作技術や工程の記録にも引き続き取り組んでいきます。

「明治大正美術史編纂事業資料」の情報公開

「明治大正美術史編纂事業資料」のうち「菱田春草傳 傳記篇其一」 美術研究所の研究員だった小高根太郎氏が、1938年に日本画家菱田春草の評伝をまとめたもの。その成果は1940年に『美術研究資料』の第9輯として公にされています。

 当研究所のウェブサイト「アーカイブズ資料」では5月1日に「明治大正美術史編纂事業資料」の情報を公開しました。
https://www.tobunken.go.jp/joho/
japanese/library/pdf/
archives_TOBUNKEN_MEIJITAISHO02.pdf

 明治大正美術史編纂事業とは、戦前、当研究所の前身である美術研究所で行なわれていた、明治・大正時代の美術に関する資料収集、および作家の評伝作成を主とする編纂事業です。東京府美術館(現在の東京都美術館)で朝日新聞社の主催により1927(昭和2)年に開催された「明治大正名作展覧会」の反響が大きかったことを受け、明治大正美術史編纂委員会が設置、朝日新聞社から寄附された同展覧会での利益をもとに1932年に美術研究所にて編纂事業がスタートしました。今日、当研究所が所蔵する明治・大正期の美術書や美術雑誌は、その多くがこの事業によって収集されたものです。
 今回、リストが公開となった資料群は、明治大正美術史編纂事業にたずさわった研究員が執筆した作家の評伝、あるいは原資料の書写といった手稿の類です。「高橋由一油繪史料」(東京藝術大学蔵)のような、すでに公刊されたものもありますが、なかには現存が不明の資料を書写したものも含まれ貴重です。閲覧にあたっては事前予約が必要ですが、
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/special_collection/index.html
美術研究所時代の日本近代美術研究の息吹を伝える当資料をご活用いただければ幸いです。

「住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(ライプツィヒ・グラッシー民族博物館蔵)のデジタルコンテンツ公開」

資料閲覧室の光学調査画像閲覧専用端末
全6巻の画像一覧
詞書部分の拡大画面

 令和元(2019)年にドイツのライプツィヒで発見された住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(以下ライプツィヒ本)について、国内外の研究者と協働して研究を進めています。2025年5月22日よりライプツィヒ本全6巻の全貌を概観できるデジタルコンテンツとして東京文化財研究所資料閲覧室にて公開開始しました。絵巻物は横に長く展開する絵画形式で、紙の本に印刷する場合、全体を見せようと思うと画面は小さくなってしまい、細部を詳細に観察することは困難です。デジタルコンテンツでは各段を自由にスクロール・拡大・縮小して見ることができ、詞書部分には翻刻したテキストを併せて表示しています。ライプツィヒ本の第1巻と第6巻は6月15日までサントリー美術館にて開催されていた「酒呑童子ビギンズ展」で初の里帰りを果たし一般公開され、展覧会は好評のうちに閉幕しました。このデジタルコンテンツでは出陳されなかった第2〜5巻の全ての各場面をご覧いただけます。ご利用の際は資料閲覧室の利用案内をご覧ください。
https://www.tobunken.go.jp/joho/
japanese/library/library.html

禅僧・没倫紹等もつりんじょうとう《葡萄図》をめぐる詩・書・画の交差点―令和7年度第2回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の風景
室町時代・没倫紹等筆《葡萄図》 メトロポリタン美術館所蔵
Grapes by Motsurin Jōtō’s (Bokusai) The Metropolitan Museum of Art, Mary and Cheney Cowles Collection, Gift of Mary and Cheney Cowles, 2022
https://images.metmuseum.org/CRDImages/as/original/DP-24855-002.jpg

 文化財情報資料部では、海外の優れた研究者を招聘し、研究会を開催しています。今年度は、米国メトロポリタン美術館よりティム・T・ザン氏をお招きし、5月21日に「没倫紹等(墨斎ぼくさい)筆《葡萄図》について」と題する研究会を開催しました。
 没倫紹等(〜1492)は、一休宗純(1394〜1481)の弟子であり、師の教えに深く帰依し、その没後は教えの伝承に尽力しました。「墨斎」とも号した没倫にとって「筆」は、一休の思想を継承・表現し、その没後の会下えげを維持するための重要な手段のひとつであり、一休にまつわる墨蹟ぼくせき頂相ちんそうの画賛、詩画軸などを遺しています。《葡萄図》(メトロポリタン美術館所蔵)もその一例といえます。
 ザン氏は、メトロポリタン美術館本と東京国立博物館所蔵の《葡萄図》とを比較し、それぞれの表現の差異や背景を丁寧に検討しました。さらに、メトロポリタン美術館本に添えられた五言絶句に現れる「驪珠りしゅ(黒い龍の顎下にあるとされる珠)」という語が葡萄の比喩であり、この賛文においてそれが、没倫にとって頓悟とんごによって得られた智慧の象徴であったと解釈しました。また、没倫がその葡萄に自らの指で触れ、指紋を付すという行為については、悟りを得たことを示すとともに、書画における「酔墨すいぼく」の伝統に基づく描法と読み解きました。このような描法は、賛文のなかで没倫が強調した「酔」という表現と対応しており、一休から受け継いだ禅風を称える意図が込められていると論じました。
 ザン氏の発表は、《葡萄図》における詩的象徴と視覚的表現、さらには身体的痕跡をともなう制作技法とのあいだにある緊張関係を巧みに捉えたものでした。没倫が遺した痕跡を通じて、仏教的智慧の継承や師・一休への深い敬意が、「三絶」、すなわち絵画・書・詩という複合的な表現においていかに結実しているかを明らかにし、研究会参加者に深い印象を与えました。本研究会は、東アジアにおける禅僧美術への国際的研究視野を広げる貴重な機会となり、今後の共同研究や資料研究にも新たな視座をもたらすものとなりました。
 今後も引き続き、海外の優れた研究者を積極的に招聘し、国際的な学術交流の場を充実させてまいります。

研究会「東京文化財研究所における実演記録事業(落語)
―林家正雀師の正本芝居噺―」の実施

林家正雀師の実演の様子(「水門前」より)
林家正雀師と宮信明氏の対談の様子

 令和7(2025)年5月23日、東京文化財研究所地下セミナー室で研究会「東京文化財研究所における実演記録事業(落語)―林家正雀師の正本芝居噺―」を開催しました。
 無形文化遺産部では、古典芸能を中心とする無形文化財のうち、一般に披露される機会の少ないジャンル、演目を選んで実演記録事業を実施しています。この事業の一環として2013 年より実施してきた林家正雀師の正本芝居噺の実演記録が、このたび60演目に及ぶのを機に、当研究会で芝居噺の実演記録を総括することになりました。
 当日は、無形文化遺産部無形文化財研究室長・前原恵美による開会のあいさつ・趣旨説明ののち、無形文化遺産部客員研究員・飯島満氏による発表 「東京文化財研究所における正本芝居噺の実演記録事業」、京都芸術大学准教授・宮信明氏による発表「正本芝居噺の世界」をお聞きいただきました。
 続けて、林家正雀師による「将門」(素噺)と『真景累ヶ淵』より「水門前」(道具入り)の実演記録の撮影を、参加者の見守る中で実施しました。
 また、林家正雀師と宮信明氏による対談では、正雀師が芝居噺に惹かれ、習得されるに至ったエピソードや、芝居噺の今後についての思いを語っていただき、最後は無形文化遺産部部長・石村智の閉会のあいさつで締め括りました。
 正雀師氏による実演記録(落語 正本芝居噺)の公開可能な記録映像は、近日中に当研究所資料閲覧室で視聴可能となる見込みです(視聴開始の際には当研究所ウェブサイトでお知らせします)。
 今後も無形文化遺産部では、披露の機会が稀少な古典芸能等の記録を継続し、可能なものについては適切な方法で公開して、無形文化財の継承に資するべく努めてまいります。

文化遺産の研究と保存のための分析技術に関する国際会議(TECHNART2025)での発表と参加報告

会場の様子
研究発表の様子 ポスターセッション
研究発表の様子 オーラルセッション

 令和7(2025)年5月6日~9日、イタリア・ペルージャで開催された「TECHNART 2025」に、保存科学研究センターから保存環境研究室室長・秋山純子、分析科学研究室アソシエイトフェロー・紀芝蓮、研究補佐員・寺島海の3名が参加しました。
 TECHNARTは文化遺産に対する科学的アプローチを主題とする国際学会で、今回の会期では、蛍光X線マッピング分析(MA-XRF)や粉末X線回折マッピング分析(MA-XRPD)、ハイパースペクトルイメージング(RIS)などの非接触・面的分析の応用例に加え、機械学習を用いた画像解析、環境に配慮した修復材料の開発など、最新の研究動向が紹介されました(TECHNART2025プログラムprogram.pdfを参照)。
 紀はポスターセッションにて、香川県指定有形文化財『高松松平家所蔵博物図譜』に用いられた緑色色材を対象に、ハイパースペクトルカメラによる反射スペクトルと主成分分析(PCA)を用いた材料分類・推定を試みた研究成果を発表しました。大量の分光データに統計的手法を組み合わせた本手法は、絵画材料や技法の理解に有用であることを示しました。発表を通じて得られた議論や意見交換においても、色材データベースの整備や多次元データ解析の高度化が国際的な共通課題であることも改めて確認されました。
 寺島はオーラルセッションにて、江戸期の絵画に対して実施した二次元的な分光分析の事例を発表しました。発表では、欧米で油彩画などに用いられたスマルト(コバルトガラスを砕いた青色顔料)が日本絵画でも使用されていたこと、その用法や彩色効果について新たな知見を報告しました。今回の学会では、アメリカやポルトガルからもスマルトに着目した発表があり、国際的関心の高さがうかがえるとともに、多面的な議論を通じて理解を深める有意義な機会となりました。
 なお、海外の研究チームには保存科学や文化財科学の専門家のみならず、分析装置のハードウェアやソフトウェアの開発者なども参画して学際的なアプローチが取られています。日本でも分野横断型の研究が進展しており、今後はこうした発表の場をさらに充実させることが研究の深化に繋がると感じました。本学会参加を通じて得た知見を、今後の研究活動の一層の充実に活かしてまいります。

フノリの安定供給に向けての現地調査・現地協議

採取場でのフノリ生育の様子
上対馬漁協との協議

 保存科学研究センターでは、文化庁から「美術工芸品に用いられる用具・原材料の調査」研究委託を受け、文化財情報資料部・無形文化遺産部とともに事業を遂行しています。令和7(2025)年5月13日-14日にフノリと呼ばれる材料の調査のため、長崎県対馬市を訪れました。
 フノリは紅藻類フノリ科フノリ属をまとめた呼び名でマフノリとフクロフノリが主に活用されています。フノリを脱色し天日干しして板のような状態にしたものを板(いた)布(ふ)海苔(のり)といいます。板布海苔の状態・あるいは海藻の状態のまま煮溶かして作った糊は、美術工芸品の製作(織物・漆喰・筆など)や文化財修復の現場で多く使われます。特に文化財修復では、洗い流せば水に溶けてきれいに取り除けるというフノリの特性が大変重宝され、作品の表面保護の「表打ち」に用いられています。表面の汚れも同時に取り除く効果があるため、文化財修復においてなくてはならない材料のひとつです。
 しかしその一方で人材不足や環境変化による収穫量の減少により、フノリを入手するのが難しくなってきています。
 糊として使われるフノリのほとんどは対馬や五島列島で採取されています。この度の調査では、文化庁の岡村一幸氏と、板布海苔製造の貴重な担い手となっている株式会社大脇満蔵商店の大脇豊弘氏とともに、長崎漁業協同組合連合会の担当者同行の上で漁業協同組合のある上対馬町と美津島町を訪問しました。フノリの用途とその重要性について漁民の方へ東文研からお話しし、長崎県対馬振興局農林水産部対馬水産業普及指導センターの才津真子氏からは安定供給のための手法のご紹介をして頂きました。これらを元に検討協議も行いましたが、長崎県からご教示のあった増殖の取り組みに非常に関心をもって下さり、大変貴重な話し合いの場となりました。その後、採取場の視察も行い、生育状況の調査も行いました。
 用具・原材料の調達が困難になっている今、様々な分野の機関が連携・協力しながら進めていくことの重要性を改めて認識する貴重な機会となりました。

ネパール・キルティプル市における歴史的民家の保存活用に向けた共同調査 その4

キルティプルの歴史的民家のファサード構成要素の調査

 ネパール・キルティプル市の旧市街は、「キルティプルの中世集落」として世界遺産暫定リストに記載されています。しかし、急速な都市化や2015年のゴルカ地震後の被害などを受けて、その街並みは大きな変化に晒され続けています。特に、旧市街内に残る個人所有の歴史的民家は地震後も年々数を減らしており、その全容は明らかではありません。
 東京文化財研究所とキルティプル市は、歴史的民家保存のためのパイロットケーススタディ(https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2385246.html)と並行して、旧市街内に残る歴史的民家のインベントリー作成に向けた悉皆的調査を行っています。2025年5月23日~31日に行った職員1名の派遣では、キルティプル市職員および現地専門家と共に、歴史的民家のインベントリー作成に向けた調査を継続しました。前回、2024年7月に行った現地調査では、137件の民家をインベントリー掲載の候補物件として抽出しましたが、今回の補足調査により、その数は全164件となりました。また、これらの民家の保護の優先度やその基準を議論するための材料として、全ての候補物件を対象にファサードの構成要素に関する調査も行いました。これらの調査から、キルティプルの旧市街を構成する歴史的民家の特徴や、街並みに重ねられた時代の層が徐々にみえてきました。
 今後、調査で収集した歴史的民家の構成要素を分析し、キルティプル市の歴史的民家を特徴づける外観基準について現地専門家らと議論していく予定です。本共同調査によるインベントリーが、市内に残る歴史的民家の記録としてだけでなく、その保存に向けた法的支援の枠組みを整備するための基礎資料となることを期待しています。

シンポジウム「考古学と国際貢献:エジプト考古学と国際協力の軌跡」の開催

ヒシャーム・エルレイシー博士
ミロスラフ・バールタ博士

 東京文化財研究所では、2025年5月10日(土)に、「考古学と国際貢献:エジプト考古学と国際協力の軌跡(Archaeology and International Cooperation in Egypt)」と題したシンポジウムを開催しました。2021年以降、毎年テーマとする地域を変えて継続しているこの連続シンポジウムでは、文化遺産の考古学的な調査研究の成果報告を中心に、史跡整備や人材育成といった国際協力事業についても情報を共有し、文化遺産保護の推進を目的としています。今回はエジプトを取り上げ、当事国であるエジプトと調査研究を主導する国の一つであるチェコ共和国からそれぞれ招聘した研究者による基調講演と、日本人研究者による国際協力の各現場からの報告の2部構成で行いました。
 はじめに、日本のエジプト考古学の先駆者である東日本国際大学総長の吉村作治先生よりご挨拶をいただきました。
 第1部では、まずエジプト観光考古省・考古最高評議会のヒシャーム・エルレイシー博士より、”Recent and Ongoing International Joint Projects for the Egyptian antiquities.”というタイトルで、ヌビア遺跡救済キャンペーンのアーカイブ紹介と、フランス・韓国・ドイツとの共同による遺跡整備事業、そして近年の発掘調査成果についてご講演いただきました。続いて、チェコ共和国カレル大学チェコ・エジプト学研究所のミロスラフ・バールタ博士からは、”Cooperation on the pyramid fields: Abusir and Saqqara”と題して、これまでのチェコ隊によるアブシール遺跡の発掘調査の歴史や、19世紀末にフランス人考古局長が発掘を実施したものの断片的な報告しかなされていない北サッカラの通称Mariette Cemeteryの再発掘プロジェクトについてご報告いただきました。
 第2部では、エジプトにおいて発掘調査や保存修復、人材育成を行っている日本の8つのプロジェクト:クフ王第2の船保存修復・復元プロジェクト(黒河内宏昌・山田綾乃)、イドゥートのマスタバ墓壁画保存修復(吹田真里子)、北サッカラ遺跡発掘調査(河合望)、ルクソール西岸アル=コーカ地区発掘調査(近藤二郎)、アメンヘテプ3世王墓壁画保存修復(西坂朗子)、GEM-CC (Conservation Center), GEM-JC (Joint Conservation) プロジェクト(谷口陽子)、アコリス遺跡発掘調査(花坂哲)、コーム・アル=ディバーゥ遺跡発掘調査(長谷川奏)について、それぞれの取り組みと成果が発表されました。
 本シンポジウムには多数の研究者や大学院生も参加し、考古学的知見の深化と国際的連携の重要性を改めて確認するとともに、文化遺産保護における学術的貢献の新たな展望を期待させる貴重な機会となりました。
 また調査隊や大学の別を超えて活動の軌跡を紹介できたことは意義深く、招聘した海外専門家からも日本の研究者による成果を俯瞰する好機であったとの評価を得ました。

在外日本古美術保存修復協力事業の進捗状況について

ハンブルク工芸美術館にて調査風景

 日本でつくられた美術作品等は欧米を中心に海外の多くの機関にも所蔵されていますが、海外ではそれらの保存修復に精通した専門家はごく限られるため、作品の劣化や損傷が進んでいても適切な時期に適切な手法で修復を行うことが困難な場合があります。その結果、展示や活用ができなくなるだけでなく、損傷がさらに進行してしまうおそれもあります。
 こうした状況に鑑み、本事業では、海外の博物館・美術館・図書館が所蔵する日本古美術品のうち保存修復を要する作品を対象に、保存修復の支援を行っています。
 2025年5月26日から29日にかけて、ドイツのハンブルク工芸美術館(Museum für Kunst und Gewerbe Hamburg)が所蔵する池田孤村筆《月に秋草図屏風》(二曲一隻)について、詳細な現状調査を実施しました。同館では、本作品の状態を危ぶんでおり、近年は展示されていない状況にあります。今回の調査では、絵具の剥離・剥落、下貼りや裏打ち紙の脆弱化などの損傷や劣化が認められ、早急に修復が必要であることを確認しました。さらに、過去に行われた解体修復によって、唐紙や縁木の位置と向きがオリジナルと異なっていることが判明しました。
 一方、昨年度は、バウアー財団東洋美術館(スイス)、リートベルク美術館(スイス)、ポズナン国立博物館(ポーランド)の各館において、作品調査および現地での保存修復に関する助言を実施しました。これらの調査の結果を受け、目下、リートベルク美術館所蔵《御幸図屏風》(八曲一隻)の修復を日本国内で開始するための準備作業を進めています。

ブータン中部・南部・北西部地域の伝統的民家に関する建築学的調査

南部シェムガン県での民家調査の様子
北西部ガサの石造民家

 東京文化財研究所では、平成24(2012)年以来、ブータン内務省文化・国語振興局(DCDD)と協働して、同国の伝統的民家建築に関する調査研究を継続しています。同局では、従来は法的保護の枠外に置かれてきた伝統的民家を文化遺産として位置づけ、適切な保存と活用を図るための施策を進めており、当研究所はこれを研究・技術面から支援しています。5月13日~23日にかけて行った現地派遣では、当研究所職員2名と外部専門家1名が渡航し、DCDD職員2名と共に、主にブータン中部・南部・北西部地域の民家を踏査しました。
 DCDD側が事前に収集した所在情報等を基に、南部シェムガン県では、石造民家3棟、版築造民家1棟および竹や木を使った木造軸組構造の民家1棟を調査し、中部トンサ県では、版築造民家3棟、石造民家6棟を、北西部ガサ県では石造民家2棟を調査しました。このうち、旧家とされる上層民家の中には、非常に分厚い堅牢な石積壁をもつものも確認されました。
 ブータンの伝統的民家は、首都ティンプーが位置する西部地域では版築造、東部や標高の高い北部では石造が支配的で、東西の境界は中部ブムタン県付近にあることがこれまでの調査で明らかになっています。今回の調査では、南部および北西部における石造民家の建築的特徴を確認し、西部主体の版築造との分布域の境界の一端を把握しました。こうした構法の違いは、地形や自然資源、あるいは材料調達や技術者の問題、各家の家格や社会的地位など、さまざまな条件によって規定されると考えられ、今後、ふたつの構法の所在範囲や併存のあり方を詳しく調査することで、民家の建築構法の変遷や伝播について更なる手がかりが得られることを期待しています。
 本調査は、科学研究費助成金基盤研究(B)「ブータンにおける伝統的石造民家の建築的特徴の解明と文化遺産保護手法への応用」(研究代表者 友田正彦)により実施しました。

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