研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS
(東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。
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文化財情報資料部では、外部の研究者にも研究発表を行っていただき、研究交流をおこなっています。
2月17日の第10回研究会では、韓国・明知大学校教授の徐胤晶(ソ・ユンジョン)氏に「安堅と東アジアの華北系山水画―伝称作、偽作、そして唐絵のなかの朝鮮絵画」、そして国立ハンセン病資料館主任学芸員の金貴粉氏に「近代朝鮮における書の専業化過程とその特徴 ―官僚出身書人の動向を中心に―」と題したご発表をしていただき、最後に文化財情報資料部研究員・田代裕一朗が「関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家-東京文化財研究所所蔵の調査資料をもとに―」と題した発表を行いました。
各発表は、いずれも韓国書画をめぐって、作品評価と制度を振り返るもので、まず徐胤晶氏は、現在安堅の画とされている様々な作品について、江戸時代の日本、そして朝鮮時代の朝鮮における事例をもとに伝称の過程を分析するとともに、安堅の画を東アジア華北系山水画の系譜にどのように位置づけられるか、考察をおこないました。つづく金貴粉氏は、朝鮮時代末期から植民地期にかけて、官僚出身者を中心とする書人が、専業化を遂げ、職業書家に近しい存在に変貌する過程を考察しました。最後に田代裕一朗は、東京文化財研究所が所蔵する朝鮮絵画調査メモを手掛かりとして、関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家について考察する発表をおこないました。
研究会は、オンライン同時配信(ハイブリッド・ハイフレックス型)で行われ、日本国内の学生と関連研究者だけでなく、米国・中国などの外国からも関連研究者が参加し、長時間にわたる研究会ながら、盛況のうちに終了しました。
研究会風景
展覧会のチラシ
令和7(2025)年2月25日に酒呑童子絵巻の研究会を開催しました。この研究は、住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(6巻、ライプツィヒ・グラッシー民族博物館蔵、以下ライプツィヒ本)を中心に科学研究費助成事業基盤研究Bの課題として令和4(2022)年から実施しているもので、このテーマで過去に2回研究会を開催しています。(2021年5月 https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/892626.html 2023年4月 https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2035746.html)今回は科研費による研究の最終年度にあたり、下記の発表を行いました。
江村知子(東京文化財研究所 文化財情報資料部長)「酒呑童子の魔力」
並木誠士 (京都工芸繊維大学 特定教授)「狩野派と酒呑童子絵巻」
小林健二 (国文学研究資料館 名誉教授)「響き合う能と絵巻」
3つの発表の後、上野友愛氏(サントリー美術館副学芸部長)にコメンテーターとしてご発言いただき、その後会場やオンライン参加の方々も交えて質疑応答を行いました。この研究プロジェクトは、令和7(2025)年4月29日~6月15日の会期でサントリー美術館で開催される「酒呑童子ビギンズ」展にも協力しています。ライプツィヒ本は第10代将軍徳川家治の養女として紀州家第10代徳川治宝に入輿した種姫の婚礼調度として特別に作られた作品で、今回の展覧会はライプツィヒ本の日本での初公開となります。ぜひ多くの方々に展覧会場でご覧いただきたいと思います。展覧会の情報はこちらをご参照ください。
https://www.suntory.co.jp/sma/
研究会の様子
東京文化財研究所文化財情報資料部では、国内外の研究者を招き、学術交流の場として研究会を開催しています。今年度は、中国美術学院教授であり藝術文化院副院長を務める万木春氏をお迎えし、「王詵《漁村小雪図》巻について」と題した研究発表を行いました。
本発表では、王詵の画業を文献資料に基づいて探究するとともに、《漁村小雪図》を構成する要素―水辺、雪景、漁村―を丹念に観察し、それらが 画面全体の空間構成にどのように寄与しているかを考察しました。また、自然描写、特に大気表現に注目し、画家の視覚的アプローチを読み解く試みがなされました。さらに、《漁村小雪図》にとどまらず、複数の作例を比較し、異なる視覚表現の方法についても詳細な検討がなされました。
質疑応答では、研究者や大学院生から活発な質問や意見が寄せられ、それに対して万氏が明快かつ大胆な視点から応答されたことが印象的でした。今回の海外研究者による発表を通じて、日本の研究者にとっても新たな視座を得る機会となりました。
今後も、海外の研究者を積極的に招き、より広い知見を共有する場として、定期的に研究会を開催していく予定です。
田中奈央一氏
日吉省吾氏
無形文化遺産部では、継承者がわずかとなり伝承が危ぶまれている「平家」(「平家琵琶」とも)の実演記録を、平成30(2018)年より「平家語り研究会」(主宰:武蔵野音楽大学教授薦田治子氏、メンバー:菊央雄司氏、田中奈央一氏、日吉章吾氏)の協力を得て実施しています。第七回は、令和7(2025)年1月31日、東京文化財研究所 実演記録室で《竹生島詣》(全曲)と《宇治川》(前半)を収録しました。
《竹生島詣》は、琵琶湖畔を北上する途中、平家の副将軍で詩歌に優れた平経正平が、小舟で竹生島に渡って渡された琵琶で秘曲を弾いたところ、袖に白竜が現れたという吉兆を語ります。竹生島には芸能神でもある弁財天が祀られているので、琵琶との融和が感じられます。また《宇治川》は、木曽義仲を追う源頼朝軍の梶原源太景季と佐々木四郎高綱の先陣争いがテーマですが、前半では景季が所望した名馬・生食が高綱に与えられたことをきっかけに高まる二人の競争心と、激流と化した宇治川をはさんで義仲に対峙する緊張が表現されます。
今回の実演記録では、《竹生島詣》(全曲)を菊央氏と田中氏、《宇治川》(前半)を日吉氏に演奏してもらい、記録撮影しました。
今後とも無形文化遺産部では、「平家語り研究会」の「平家」伝承曲の演奏および復元演奏の記録をアーカイブしていく予定です。
コモゲタ(台)とツチノコを使い、ヤマカゲの縄でガマを編む
ガマコシゴ、右は50年以上前に作られたもの
令和7(2025)年2月22日、岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)でヒメガマ(Typha domingensis)を用いたガマコシゴ(腰籠)の製作技術を調査しました。
高度経済成長期以前、ガマは背負籠や物入れ、脚絆、雪靴、敷物など、全国各地で様々な生活用具の素材として利用されてきました。水生植物であるガマは、中空構造を持つために軽く、保温性と防水性に優れているとともに、非常に美しい光沢を持つことが特徴です。耐久性も高いことから、ガマは、藁細工などよりも高級な「よそいき」の籠や脚絆に使ったという地域もあります。
こうしたガマ細工の多くは自家用に作られてきたこともあり、生活様式の変化や化学製品の台頭によって、全国ほとんどの地域でその製作技術は失われてしまいました。その中で蒜山では、高度経済成長期前後にガマ細工を地域の産業・工芸品として再生させることに成功させ、その製作技術が今日まで継承されてきました。昭和57(1982)年には県の郷土伝統的工芸品の指定も受け、現在では蒜山蒲細工生産振興会(会員8名)がわざの継承に取り組んでいます。
ガマ細工は、10月頃に手刈りした1年生のガマの皮を1枚ずつ剥がし、これをヤマカゲ(和名シナノキ)の内皮で作る丈夫な縄で編んでいくことで作られます。縄は20年生程度のヤマカゲを6月末~7月(梅雨明け前)に伐採し、剝がした内皮を池や沼に4ヶ月程度つけて腐らせ、洗って乾燥させてから層ごとに薄く剥ぎ、糸のように細く綯い上げたものです。地元の蒜山郷土博物館に収蔵されている古いガマコシゴを見ると、ヤマカゲの縄は現在のものより緩く綯われており、工芸品として洗練されていく過程で、より細く美しい縄が追究されたことが想像されます。
蒜山は標高500~600メートル程、12~3月まで「百日雪の下」と言われる多雪地域です。かつては素性のよいヒメガマが高原の湿地でたくさん採取できたそうですが、気候変動や獣害のためか、近年では天然の良材が育たなくなり、現在では休耕田での栽培に切り替えて材料確保に努めています。しかし質が柔らかすぎたり、色が悪くシミが出るなど、かつてのような良質な素材の確保が難しい状況が続いており、状況改善に向けた試行錯誤が続けられています。
伝統的なわざに用いる原材料の持続的・安定的な確保は、全国的に大きな課題となっています。地域の風土に根差した素材の利用技術とその課題について、無形文化遺産部では引き続き、各地の現状調査を進めていく予定です。
総合討議の様子
関係組織による研究紹介の様子
保存科学研究センターは、令和7(2025)年2月21日にフォーラム「ポスト・エキヒュームSの資料保存を考える」を文化庁、文化財保存修復学会、日本文化財科学会の共催で開催しました。資料保存における生物被害対策では、大規模な虫菌害が発生した際にガス燻蒸処理によって一旦被害を初期化する対策が図られています。あるいは、受入資料からの虫やカビの持ち込みを防ぐために、資料を対象にしたガス燻蒸処理が行われる場合もあります。また災害等で被災した資料を対象にしたガス燻蒸処理も行われてきました。このようにガス燻蒸処理は、現在の日本では資料保存における生物被害対策に欠かすことのできない技術ですが、令和7(2025)年3月末に主要な燻蒸ガス剤の一つである「エキヒュームS」の販売が停止することとなりました。その背景には燻蒸ガスが人や地球環境に及ぼす負の影響が無視できなくなってきたことがあります。そこでフォーラムではこの分野の専門家と組織をお呼びして、持続可能な社会の構築という現代の社会要請のもとで新しい資料保存の在り方について議論を行うことを目的としました。基調講演では米村祥央氏(文化庁文化資源活用課)と木川りか氏(九州国立博物館)から文化財IPMを主軸とする今後の資料保存の在り方について講演を頂きました。また、渡辺祐基氏(九州国立博物館)と保存科学研究センターアソシエイトフェロー・島田潤より海外における文化財IPMの研究事例をランチタイムに報告いただき、続いて日髙真吾氏(国立民族学博物館)、岩田泰幸氏(文化財虫菌害研究所)、間渕創氏(文化財活用センター)より、文化財IPMの実践や文化財IPMに関する資格の活用、カビ対策の実践などを講演頂きました。総合討議では建石徹氏(皇居三の丸尚蔵館)にモデレーターを務めていただき、各講演者と小谷竜介氏(文化財防災センター)、和田浩氏(東京国立博物館)、降幡順子氏(京都国立博物館)、脇谷草一郎氏(奈良文化財研究所)、髙畑誠氏(宮内庁正倉院事務所)にご登壇頂き、それぞれの立場からポスト・エキヒュームSの資料保存の在り方について議論いただきました。会場は地下1Fセミナー室と会議室(サテライト会場)でホワイエでは文化財IPMに関わる組織によるブースでの研究紹介も行いました。会場参加者は約170名、WEB同時配信の登録は約750アカウントと大変多くの方にご参加いただきました。フォーラムを機にさらに活発な議論が進み、課題解決へ一歩ずつ歩みが進められていくことに期待しています。
保存科学センターでは2024年度に「ラマン分光分析装置」「三次元蛍光分光光度計」「高速液体クロマトグラフィー」を新規導入し、「熱分解GC/MS」「イオンクロマトグラフィー」を更新しました(図1)。これらの機器についてご紹介します。
ラマン分光分析装置
試料にレーザー光を照射するときに生じるラマン散乱光は、分子構造によりその波長が変化します。これを利用して、非接触・非破壊で試料の構造を分析することが可能な装置です。マッピングも可能な据置型顕微ラマン分光、持ち運び可能な可搬型顕微ラマン分光、小型で持ち運びが容易なハンドヘルドラマン分光の3タイプの装置を導入しました。ラマン分光法は、純金属以外の試料であれば無機物・有機物を問わず分析可能です。染料・顔料の同定、腐蝕の原因解明、文化財付着物の分析など、さまざまな用途に利用できます(図2)。
三次元分光蛍光光度計
試料から放出される蛍光の波長や強度は、その構造によって変化するため、蛍光分析を行うことで文化財を構成する物質の構造を推定することが可能です。非接触・非破壊で測定可能であり、蛍光を発するあらゆる試料を分析できます。蛍光を発する試料は意外と多く存在し(例えば布・紙・木材なども多くの場合蛍光を検出できます)、多くの文化財を分析可能ですが、特に染料については強力な分析ツールとなります(図3)。
高速液体クロマトグラフィー
大気中のアルデヒドの定量や、繊維製品中の染料の定量などに用います。PDA検出器を備えており、一般的なUV検出器に比べ未知物質の定性にも威力を発揮します。抽出を行う必要があるので、基本的に破壊分析になります。
熱分解GC/MS(更新)
紙・布帛・漆・木材など、高分子からなる試料の構造を詳細に分析することができる装置です。破壊分析ですが、試料量は1mgという極微量で分析でも分析可能です。また、大気中の臭気や残留溶媒などの定性定量も可能です。
イオンクロマトグラフィー(更新)
大気中のアンモニアや有機酸の定量や、水中の塩化物イオンや硝酸イオンなどの定量に用います。サプレッサー法を採用しており、非常に高感度です。
これらの装置を用いて文化財分析を今後も進めていきます。
図1 新規導入・更新機器の写真

A:ラマン分光分析装置(据置型顕微ラマン分光)B:三次元分光蛍光光度計C:高速液体クロマトグラフィーD:熱分解GC/MSE:イオンクロマトグラフィー
図2 ラマン分光分析装置による各種色材の分析

色材によって得られるスペクトルが全く異なることが分かる。1µm程度の高分解能で色材の同定が可能である。特に、非破壊で墨を分析可能であることは大きな特長である。顔料だけでなく、染料・鉱物・金属の腐蝕・繊維など、多彩な試料を分析できる。
図3 天然染料で染めた布の劣化前後の三次元分光蛍光スペクトル

A:劣化試験前 B:劣化試験後
劣化により全体的に蛍光強度が低下する。特に励起波長280nm、蛍光波長420nm付近の蛍光強度の低下が著しい。蛍光パターンは劣化の程度や素材そのものの違いにより変化するため、劣化の度合いの評価や、素材の異同分析に有効である。
トゥブリ墓地での調査
地元コミュニティによって保存されるアル・カデム墓地の墓碑
東京文化財研究所は長年にわたり、バハレーンの古墳群の発掘調査や史跡整備に協力してきました。一方、同国内のモスクや墓地には歴史的なイスラーム墓碑が残されており、現在でも同国内には約150基ほどの墓碑が確認されていますが、多くは塩害などにより劣化が進行しています。
それらの墓碑の保護に協力してほしいとのバハレーン側の要請に応え、令和5(2023)年と令和6(2024)年に写真から3Dモデルを作成する技術であるSfM-MVS(Structure-from-Motion/Multi-View-Stereo)を用いた写真測量を行いました。これにより、博物館や現代の墓地に所在する約100基の墓碑の3次元計測を完了しました。作成したモデルは、広く国内外からアクセスできるプラットフォームである「Sketchfab」に公開し、墓碑のデータベースとして活用されています。
このたび、同国南部の墓地にも対象を広げた3次元計測調査を令和7(2025)年2月8日~12日にかけて行いました。これまでと同様に写真測量を行い、トゥブリ墓地2基、サルミヤ・モスク1基、フーラ墓地12基、マフーズ墓地1基、ダイ墓地1基、ノアイーム墓地5基、アル・カデム墓地2基、カラナ墓地5基の計29基について計測を完了しました。埋没した墓碑や破壊された墓碑を除き、本調査をもってバハレーン全土の墓碑の計測が一旦完了しました。
一基ごとの寸法、形状、碑文に関する情報も伴った3Dモデルによる100基以上の墓碑のデータベースはこれまでに例がなく、単に形状の記録保存という意味合いにとどまらず、本調査の成果が今後のイスラーム墓碑研究にも役立つことが大いに期待されます。
シンポジウムの発表(高山百合氏)風景
シンポジウムのディスカッション風景
東京文化財研究所は、“日本近代洋画の父”と称される洋画家の黒田清輝(1866~1924)の遺産により、昭和5(1930)年に創設されました。現在は東京国立博物館の施設として黒田の作品を展示公開している黒田記念館は、もともと当研究所の前身である美術研究所として建てられたものです。令和6(2024)年に黒田の没後100年を迎えたのを記念して、当研究所の主催により、創設の地である黒田記念館のセミナー室を会場として1月10日に、シンポジウム「黒田清輝、その研究と評価の現在—没後100年を機に」を開催しました。発表者とタイトルは以下の通りです。
基調講演 黒田清輝の画業について——神津港人の視点から(文化財情報資料部上席研究員・塩谷純)
発表1 黒田清輝とラファエル・コラン——いくつかの視点をめぐって(三谷理華氏・女子美術大学)
発表2 黒田清輝以降——昭和期における「官展アカデミズム」の諸相(高山百合氏・福岡県立美術館)
発表3 黒田清輝からの学びと地方への伝播——鳥取県出身者の場合(友岡真秀氏・鳥取県立博物館)
シンポジウムはオンライン併用で開催、対面参加の方々と併せ63名の方にご参加いただきました。また友岡氏が山陰地方での大雪のためご来場がかなわず、急遽オンラインでのご発表となりましたが、発表後のディスカッションも含め、滞りなく開催することができました。最新の研究成果をふまえ、フランス近代美術との関連、日本近代洋画壇への影響、そして地方への波及という視点から黒田清輝の画業を捉え直した本シンポジウムが、日本近代美術研究の再考をうながす一石となれば幸いです。本シンポジウムの内容については、当研究所の研究誌『美術研究』447号(2025年11月刊行予定)に掲載の予定です。
文化財情報資料部では、海外の研究者にも研究発表を行っていただき、研究交流をおこなっています。1月21日の第9回研究会では、客員研究員(2024年12月~2025年2月)として東京文化財研究所に滞在していた韓国・梨花女子大学校教授の金素延(キム・ソヨン)氏に「金剛山を描く―韓国近代期における金剛山の認識変化と視覚化」と題してご発表いただきました。
朝鮮半島を代表する名山として知られる金剛山は、古くから文学や絵画の主題として取り上げられてきました。しかし近代に入ると大きな変化が起きます。鉄道敷設や観光開発が進むことにより、表象のあり方は変化しました。金氏は、金剛山を描いた様々なメディアを分析しながら、①朝鮮時代にも描かれた内陸の「内金剛」だけでなく、海側の「外金剛」も描かれるようになったこと、そして②「内金剛」に女性的、「外金剛」に男性的なイメージが投影され、描き分けられたことなどを指摘しました。
写真絵はがき、旅行案内ガイドの挿図まで活用した金氏の考察は、様々なメディアから美術史を構築する可能性、また「観光」や「ジェンダー」といったイシューと美術史の関連性を改めて認識させるものでした。
研究会には、所内外から多くの学生と関連研究者が参加し、質疑応答では活発な意見交換がおこなわれました。
海外研究者の研究発表は、日本国内の学術的潮流とは異なる着想や方法論について触れ、また相互に刺激を与える機会でもあります。日本と海外を繋ぐ研究交流の「ハブ」としての役割も果たすことで、当研究所がより多角的に日本の学術に寄与できれば幸いです。
会場となったアントニン・レーモンド設計の群馬音楽センター(1961)
パトリシア・オドーネル氏によるキーノートスピーチ(「ヘリテージ・エコシステム」の論点の提案)
4組に分かれて行われたグループディスカッションの様子(グループC)
令和7(2025)年1月10日と11日、高崎市の群馬音楽センターにおいて、ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」(以下、富岡)の登録10周年を記念する国際シンポジウムが開催され、東京文化財研究所から3名の職員が参加しました。このシンポジウムは、群馬県と日本イコモス国内委員会の共催により、「富岡」の登録後の取組みと意義を振り返るのみならず、「奈良文書」が採択された1994年の世界遺産条約におけるオーセンティシティに関する奈良会議から30年を迎える節目を捉えて、複雑化する21世紀の社会的課題に適応した遺産のオーセンティシティのあり方を問うことがテーマに掲げられました。なお、当研究所が事務局を務める文化遺産国際協力コンソーシアムでは、去る11月に「奈良文書」30周年を記念した研究会とシンポジウムを開催したところです(文末リンク参照)。
シンポジウムの統括責任者を務めた前イコモス会長で九州大学名誉教授の河野俊行氏の問題意識から、21世紀の社会と遺産をつなぐキーワードとして「ヘリテージ・エコシステム(heritage ecosystems)」が提唱され、プログラムも通常のシンポジウムの形式によらず、招待研究者・専門家によるキーノートスピーチのほか、自主参加の研究者・専門家による4組のグループディスカッションを並行して行うかたちが取られました。招待発表者は8か国14名、自主参加者は19か国約80名に上り、一般参加を加えたおよそ120名の大半を外国からの参加者が占める国際色豊かな会議となりました。
「ヘリテージ・エコシステム」は、まだ馴染みの薄い概念ですが、このプログラムの中では「地域の豊かな文化的環境を成り立たせる多様な要素の循環関係や有機的な関係全体を意味するもの」と説明されています。キーノートスピーチでは、現在も県内で生糸や絹製品の生産販売を行う碓氷製糸株式会社取締役の土屋真志氏や、蚕を利用した医薬品・ワクチンの研究開発に取り組む九州大学教授の日下部宜宏氏の発表に象徴されるように、「富岡」を今も息づく絹産業の「ヘリテージ・エコシステム」の中に捉え直すことに主眼が置かれ、従来の文化財保護分野の会議とは視点が大きく異なる論点が提示されました。グループディスカッションでは、前イコモス文化的景観国際学術委員会長で造園家のパトリシア・オドーネル氏がキーノートスピーチの中で提案した「ヘリテージ・エコシステム」の考え方に関する四つの論点、1.自身の専門分野や活動領域との関係性、2.新たな機会創出の可能性、3.地域社会や遺産保護にもたらすメリット、4.遺産のオーセンティシティの認識に及ぼす影響、をもとに各組において自由闊達な議論が展開されました。最後に、キーノートスピーチでの問題提起やグループディスカッションの成果などを反映させるかたちで「ヘリテージ・エコシステムに関する群馬宣言」がまとめられ、会議は幕を閉じました。
当研究所では文化遺産国際協力コンソーシアムの活動とともに、こうした国際会議への積極的な参加を通じて、今後も文化遺産の国際関係に関する情報収集と文化遺産国際協力に係るネットワーク構築に努めていきます。
参考リンク
・文化遺産国際協力コンソーシアム第35回研究会:文化遺産保護と奈良文書-国際規範としての受容と応用-
https://www.jcic-heritage.jp/news/35seminar_report/
・文化遺産国際協力コンソーシアム令和6年度シンポジウム:「モニュメント」はいかに保存されたか-ノートルダム大聖堂の災禍からの復興
https://www.jcic-heritage.jp/news/2024syoposium_report/
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
クーポラの内側に保管された塑像群
文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
令和7(2025)年1月13日~1月18日にかけて、フィレンツェを訪れ、ルネサンス後期、マニエリスムの彫刻家であるピエトロ・フランカヴィッラやジョバンニ・バッティスタ・カッチーニによって制作された塑像群に関する事前調査と、今後の研究計画について所蔵元であるオペラ・デル・ドゥオーモ博物館と協議しました。これらの彫刻は、フィレンツェの主要な聖人たちを表しており、1589年にトスカーナ大公フェルナンド1世デ・メディチとクリスティーヌ・ディ・ロレーヌの結婚式を祝うために制作されました。その目的は、式典を祝う一日のためだけにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面に設置された仮設のファサードを飾ることにありました。そのため、当時主流であった大理石ではなく、塑像という手法が選ばれたと考えられています。
現在、これらの彫刻作品は大聖堂クーポラの内側にある部屋で保管されていますが、経年劣化が進んでおり、その構造や使用された材料に関する研究は十分に進んでいないのが現状です。今後は、現地の国立修復研究所や美術監督局と連携し、調査を一層深化させるとともに、将来的な保存修復に資する研究を推進していきます。
講演「美術司書の仕事」の会場(写真提供:泉屋博古館東京)
講演「美術司書の仕事」のスライド
泉屋博古館東京にて令和6(2024)年12月6日に行われた連続講座〈アートwith〉に、文化財情報資料部近・現代視覚芸術研究室長・橘川英規が招かれ、「美術司書の仕事」と題してレクチャーを行いました。連続講座〈アートwith〉は、アートに関わるさまざまな専門家が講師となり、広く美術愛好者にむけて、その仕事の魅力を語るイベントです。
今回のレクチャーでは、東京文化財研究所資料閲覧室だけでなく、東京都現代美術館美術図書室や国立新美術館アートライブラリーでのキャリアをもとに、多岐にわたる司書の専門技術全般をお示しして、そのなかでとくに蔵書目録作成や美術家に関する書誌編纂によって行われる、研究者・学芸員の研究活動支援や蔵書の価値を高める枠組みつくりのたのしみをお話しました。
当研究所は、文化財を守り、後世へとつなげるためにさまざまな専門家が協力しています。美術資料に精通した司書も、こうした取り組みを支える一員として、文化財の未来をともに考え、守り続けていく重要な役割を担っています。それを紹介するとともに、橘川自身がその意義を改めて振り返る、よい機会ともなりました。今回のレクチャーをご覧になられた美術愛好者の方、異業種の方、学生の方が、美術司書という仕事に魅力を感じ、文化財保護への関心を深めていただけたのならなによりです。
令和6(2024)年12月15日、韓・米・仏の歴史学研究者一行が資料閲覧室を訪れました。一行は国際フォーラム「韓国学の新地平―歴史をひもとき、現代世界を読みなおす―」(12月13日~14日に獨協大学にて開催)で研究発表をするため来日しており、日本滞在中の見学先として東京文化財研究所が選ばれました。
鄭枖根(ソウル大学校歴史学部教授)、朴省炫(同学部副教授)、朴芝賢(同学部講師)、朴俊炯(ソウル市立大学校国史学科副教授)、韓鈴和(成均館大学校史学科助教授)、李在晥(中央大学校歴史学科副教授)、BRUNETON Yannick(パリ・シテ大学韓国学科教授)、Jisoo M. Kim(ジョージ・ワシントン大学歴史学科准教授)をはじめとする一行は、文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室研究員・田代裕一朗による案内説明を受けながら、昭和5(1930)年以来集められてきた当研究所の蔵書、そして所蔵拓本を興味深く見学しました。
文化財アーカイブズ研究室は、文化財に関する資料情報を専門家や学生に提供し、資料を有効に活用するための環境を整備することをひとつの任務としております。世界的に見ても高い価値を誇る当研究所の貴重な資料が、美術史研究だけでなく、アジア史研究、ひいては歴史学研究全般で広く活用され、人類共通の遺産である文化財の研究発展に寄与することを願っております。
※文化財アーカイブズ研究室では、大学・大学院生、博物館・美術館職員などを対象として「利用ガイダンス」を随時実施しています。ご興味のある方は、是非案内(https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/application/application_guidance.html) をご参照のうえ、お申込みください。
研究会の様子
令和6(2024)年12月18日に開催された第8回文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部研究員・月村紀乃が「長尾美術館に関する基礎的研究―美術研究所との関わりの解明に向けて―」と題した研究発表をおこないました。
長尾美術館とは、わかもと製薬の創業者である長尾欽弥(1892~1980)・よね(1889~1967)夫妻が、昭和21(1946)年、夫妻の別荘である「扇湖山荘」(神奈川県鎌倉市)内に開いた美術館です。同館は、野々村仁清「色絵藤花文茶壺」(現・MOA美術館蔵)や「太刀 銘 筑州住左(号 江雪左文字)」(現・ふくやま美術館蔵)、宮本武蔵「枯木銘鵙図」(現・和泉市久保惣記念美術館蔵)など、名品として知られる作品を数多く収集していましたが、やがて所蔵品を少しずつ手放すこととなり、昭和42年(1967)頃には、解散状態に至りました。事実上の閉館から半世紀以上が経ちますが、美術館としての運営実態やコレクションの全体像はいまだ明らかになっていません。
一方で、長尾夫妻は、作品の購入や展示に際して、東京文化財研究所の前身である美術研究所の所員と深い関わりを持っていました。なかでも、美術研究所に拠点を置いた「美術懇話会」や「東洋美術国際研究会」の活動について、長尾欽弥が理事として参画し、その所蔵品を研究者へ紹介する機会を得ていたことは特に注目されるでしょう。
発表では、当研究所に残された関係資料の調査から、長尾夫妻と美術史研究者との交流が、長尾美術館所蔵品の評価につながっていた可能性を提示しました。また、発表後には、同館解散当時の状況を知る研究者から貴重な証言が寄せられるなど、活発な意見交換がおこなわれました。美術作品の伝来史や評価史を考えるうえで、長尾美術館は重要な存在であり、その全容を把握するべく今後も研究を進めてまいります。
リハーサルの様子(手前・立方:藤間清継氏、奥・後見:藤間大智氏)
リハーサルの様子(立方:藤間清継氏)
無形文化遺産部では、伝統芸能の新たな記録や研究方法の開拓にも取り組んでいます。自由視点映像システムは、被写体の周囲にカメラを設置し、あらゆる方向から被写体の動きを撮影し、任意の角度からその映像を見ることが出来るシステムです。特に古典芸能のように、舞台上で一定の方向を正面と捉えて表現する芸能では、ある時点の動きや態勢を様々な角度(例えば側面や背面)から解析することができるため、芸能継承や分析研究において新たなアプローチに繋がる可能性があります。
今回の試演は日本舞踊藤間流立方の藤間清継氏にご協力いただき、小道具を扱う時の身体の動きにも着目するため、『娘道成寺』の素踊り(衣装や鬘を付けないで踊る)を16台のカメラで撮影しました(令和6(2024)年7月10日)。撮影後には、作成された映像を様々な視点から見直して、想定される活用目的や用いる際に気を付けるべき点、また操作性や望まれる機能などについて、実演家である藤間清継氏、システム開発者である株式会社電巧社の関係者、当研究所無形文化遺産部部長・石村智、同無形文化遺産部無形文化財研究室長・前原恵美、同研究員・鎌田紗弓が、それぞれの立場から意見を出し合い、フィードバックを重ねています(令和6(2024)年12月18日、令和7(2025)年1月10日)。また本研究の予備的な成果については、科学研究費事業「マテリアマインド:物心共創人類史学の構築」第2回全体会議(注1)で「芸能とキネシオロジー―実演者の身体的運動の解析について―」(発表者:石村、令和7(2025)年1月11日)として口頭発表されました。
無形文化遺産部では、今後とも実演家、システム開発者と協力しながら伝統芸能の新たな記録や研究のツールとなり得るアプローチを、探っていきたいと思います。
注1:文部科学省科学研究費助成事業 学術変革領域研究(A) 2024-2028年度「マテリアマインド:物心共創人類史学の構築」(研究代表者:松本直子、番号24A102)
会場の様子
令和6(2024)年12月6日、東京文化財研究所地下セミナー室・地下ロビーで第18回公開学術講座を開催しました。当研究所では平成27(2015)~平成30(2018)年にかけて長野県飯島町にある勝山織物株式会社絹織製作研究所(以下、絹織製作研究所)の志村明氏(選定保存技術「在来絹製作」各個認定保持者)と秋本賀子氏の染織品修理の材料として用いられる絹の製作技術について調査を行い、令和3(2021)年に「無形文化遺産(伝統技術)の伝承に関する研究報告書『絹織製作技術』付属DVD付(東京文化財研究所刊行物リポジトリ、以下『絹織製作技術』)を刊行しました。本学術講座では、同技術に焦点を当て、当研究所で行った調査・記録事業を紹介するとともに、染織品を取りまく修理技術や修理材料の製作技術の状況を広く知っていただくことを目的としました。
当日は、無形文化遺産部主任研究員・菊池理予より開催趣旨を説明し、文化庁の多比羅菜美子氏より「文化財の保存技術―在来絹製作―」を、駒ケ根シルクミュージアム館長の伴野豊氏(九州大学名誉教授)より「我が国における蚕種保存」をご講演いただきました。その後、参加者にはロビー展示を観ていただく時間を設けました。ロビー展示では、伴野豊氏よりお借りした様々な蚕種の繭や、絹織製作研究所で制作された繰糸技法や織組織のパターンを変えた着物5領、着物と同じ生地で作った巾着袋を展示しました
休憩後は、映像「普及編―絹織製作技術―」の上映や、絹織製作研究所の秋本賀子氏による「絹織製作技術の現状と継承」の報告、鼎談「染織品修理と修理材料の依頼―実例を通じて―」では、株式会社松鶴堂の依田尚美氏と絹織製作研究所の秋本賀子氏にご登壇いただきました。
今回の学術講座を通じて、有形文化財を取りまく無形の技術に焦点をあてることで、現在の技術を受け継ぐ意義について考える機会となりました。今後も無形文化遺産部では、無形の技術についての調査結果を公開するとともに、課題を議論できる場を設けていきます。
中央伽藍前テラス(赤色部が十字テラス)
十字テラス発掘中
中央塔の旧構成部材修復の様子
タネイ遺跡は12世紀末から13世紀初頭の建立と推測される仏教寺院で、その中央伽藍の正面にあたる東側には大型の矩形テラスと十字テラスが並んでいます。同時代の他寺院でも伽藍正面には大型テラスが認められますが、矩形テラス前に十字テラスが接続する構成は珍しく、タネイ寺院の性格を考える上でも重要な遺構と言えます。しかし、テラス上に生えた樹木の根やテラス内部を構成する盛土層の不等沈下により、とくに十字テラスの崩壊が著しい状況にあります。
そこで文化遺産国際協力センターでは、令和6(2024)年11月末から12月下旬にかけて職員4名を派遣し、今後の保存修復方法の検討に向けた予備調査として、カンボジア政府APSARA機構の考古スタッフとの協働による十字テラスの発掘調査を開始しました。併せて、崩壊原因を解明するための内部構造調査や破損調査、崩落した石材の残存状況調査を実施し、今後の修復手法に関する基礎的検討を行いました。
発掘調査の結果、周囲の堆積土中からかつて十字テラスを構成していたと考えられる多数の散乱石材を検出したほか、基礎地業層やテラス内部の構造の一端が明らかになりました。一方、テラス基底部の現状レベルを確認したところ、とくに南北の翼端部に向かう沈下が認められるものの、基底部自体は比較的健全な状態を保っていることがわかりました。これに対して、テラス東翼の南北辺や南翼付近では側壁や床材が多くの箇所で失われており、砂を主体とする内部盛土が流出している状況が確認されました。散乱石材の中からはテラス側壁中段に比定される部材がほとんど見つかっておらず、いつの時代かにこれらの石材が人為的に持ち去られた可能性が考えられます。こうした観察結果をもとに十字テラスの修復方法をAPSARA職員とともに検討し、修復の基本方針や今後の進め方について概ね合意に達しました。
これと並行して、同年8月までに部分修復を実施した中央塔東西入口部について(XVI-XVII次現地調査)、若干の追加的石材修復作業を行いました。さらにこの間、12月11日から13日にはシエムレアプ市内で国際調整委員会会合(ICC-Angkor/Sambor Prei Kuk)が開催され、中央塔入口部の修復完了と中央伽藍前十字テラスの調査内容について報告しました。
アル=コーカ地区の風景
壁画断片処置の様子
文化遺産国際協力センターでは、早稲田大学エジプト学研究所およびエジプト考古局と協力し、ルクソール西岸アル=コーカ地区に所在する岩窟墓に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究を実施しています。研究対象となる壁画は、平成25(2013)年に早稲田大学名誉教授近藤二郎氏によって発見されたコンスウエムヘブ墓に描かれたもので、制作年代は新王国時代の紀元前1200年頃と推定されています。
この壁画は、石灰岩の表面に塗られた土を主原料とする壁に描かれています。これまでの研究では表面に付着した汚れのクリーニング方法や、土壁が剥離・剥落した箇所に適した修復材料および技法の開発に取り組んできました。そして、令和6(2024)年11月20日~12月5日に実施した実地研究では、発掘作業中に発見された壁画断片を原位置に戻す処置方法について検討しました。その結果、壁画表面の保護方法や裏面の補強方法について良好な結果が得られ、土や粘土といった元来この壁画に使用されている材料と同等のものを使った原位置への再設置作業からも一定の成果を確認することができました。今後は、今回行った処置の効果や安定性に着目しながら経過観察を続けていきます。
この研究は、基礎研究から各種実験を重ね、実用性に配慮した処置方法を導き出すという過程を経て丁寧に進めてきました。その成果はルクソールにおいて他に類を見ないものであり、エジプト考古局や現地の専門家から非常に高い評価を受けています。今後も、新王国時代に数多く制作された壁画の保存修復に貢献する研究を推進し、さらなる成果を目指して活動を続けていきます。
ワークショップ「キルティプルの歴史的集落の保全」
コカナ集落にて昨夏の豪雨被害で倒壊した歴史的民家
東京文化財研究所とキルティプル市は、歴史的民家保全のパイロットケーススタディとして、令和5(2023)年よりキルティプル旧市街の広場に面する大規模民家の保存に向けた共同調査を行ってきました。令和6(2024)年12月20日~27日にかけて職員1名を現地に派遣し、26日には対象物件の今後の保存活用に向けたワークショップ「キルティプルの歴史的集落の保全」を両者で共催しました。
午前の部では、NGO組織であるKathmandu Valley Preservation Trust (KVPT)のスタッフがネパールにおける歴史的民家の保存活用事例に関する講演を行ったほか、当研究所職員と現地専門家による調査チームのメンバーらがこれまでに実施した調査の成果を報告しました。これにはキルティプル市長、副市長、区長および対象建物の所有者家族らを中心に約50人が参加し、今後の建物の保存をめぐって、行政、所有者側の双方から積極的な意見が出されました。
また、午後の部には所有者家族を中心に16人が参加し、長年暮らしてきた建物にまつわる記憶、感情、未来など様々なトピックを話し合うブレインストーミングを行いました。
具体的な保存のあり方についての合意形成に至るまでにはまだ長い道のりが予想されますが、対象建物の価値を話し合いながら共有することで、その保存に向けた一歩を踏み出せたのではないかと思います。
一方、今回の派遣期間中には、キルティプルと同じく世界遺産暫定リストに登録されているコカナ集落も訪問しました。コカナ集落では、平成27(2015)年のゴルカ地震後に集落内の歴史的民家のほとんどが建て替えられてしまいましたが、集落中心部に19世紀頃の建築とされる歴史的民家が僅かに残っていました。この建物については、以前より私たちに地元住民有志から保存に関する支援の相談が寄せられていたのですが、昨夏の豪雨によって完全に倒壊してしまいました。幸いにも負傷者はなかったそうですが、コカナ集落を長年見守ってきた貴重な建物が失われたこと、そして必要なタイミングで支援を届けられなかったことが大変に惜しまれます。