韓国書画の作品評価と制度を振り返って―令和6年度第10回文化財情報資料部研究会の開催

文化財情報資料部では、外部の研究者にも研究発表を行っていただき、研究交流をおこなっています。
2月17日の第10回研究会では、韓国・明知大学校教授の徐胤晶(ソ・ユンジョン)氏に「安堅と東アジアの華北系山水画―伝称作、偽作、そして唐絵のなかの朝鮮絵画」、そして国立ハンセン病資料館主任学芸員の金貴粉氏に「近代朝鮮における書の専業化過程とその特徴 ―官僚出身書人の動向を中心に―」と題したご発表をしていただき、最後に文化財情報資料部研究員・田代裕一朗が「関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家-東京文化財研究所所蔵の調査資料をもとに―」と題した発表を行いました。
各発表は、いずれも韓国書画をめぐって、作品評価と制度を振り返るもので、まず徐胤晶氏は、現在安堅の画とされている様々な作品について、江戸時代の日本、そして朝鮮時代の朝鮮における事例をもとに伝称の過程を分析するとともに、安堅の画を東アジア華北系山水画の系譜にどのように位置づけられるか、考察をおこないました。つづく金貴粉氏は、朝鮮時代末期から植民地期にかけて、官僚出身者を中心とする書人が、専業化を遂げ、職業書家に近しい存在に変貌する過程を考察しました。最後に田代裕一朗は、東京文化財研究所が所蔵する朝鮮絵画調査メモを手掛かりとして、関野貞の朝鮮絵画調査と朝鮮人蒐集家について考察する発表をおこないました。
研究会は、オンライン同時配信(ハイブリッド・ハイフレックス型)で行われ、日本国内の学生と関連研究者だけでなく、米国・中国などの外国からも関連研究者が参加し、長時間にわたる研究会ながら、盛況のうちに終了しました。
酒呑童子絵巻の研究―令和6年度第11回文化財情報資料部研究会の開催


令和7(2025)年2月25日に酒呑童子絵巻の研究会を開催しました。この研究は、住吉廣行筆「酒呑童子絵巻」(6巻、ライプツィヒ・グラッシー民族博物館蔵、以下ライプツィヒ本)を中心に科学研究費助成事業基盤研究Bの課題として令和4(2022)年から実施しているもので、このテーマで過去に2回研究会を開催しています。(2021年5月 https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/892626.html 2023年4月 https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2035746.html)今回は科研費による研究の最終年度にあたり、下記の発表を行いました。
江村知子(東京文化財研究所 文化財情報資料部長)「酒呑童子の魔力」
並木誠士 (京都工芸繊維大学 特定教授)「狩野派と酒呑童子絵巻」
小林健二 (国文学研究資料館 名誉教授)「響き合う能と絵巻」
3つの発表の後、上野友愛氏(サントリー美術館副学芸部長)にコメンテーターとしてご発言いただき、その後会場やオンライン参加の方々も交えて質疑応答を行いました。この研究プロジェクトは、令和7(2025)年4月29日~6月15日の会期でサントリー美術館で開催される「酒呑童子ビギンズ」展にも協力しています。ライプツィヒ本は第10代将軍徳川家治の養女として紀州家第10代徳川治宝に入輿した種姫の婚礼調度として特別に作られた作品で、今回の展覧会はライプツィヒ本の日本での初公開となります。ぜひ多くの方々に展覧会場でご覧いただきたいと思います。展覧会の情報はこちらをご参照ください。
https://www.suntory.co.jp/sma/
漁村小雪図巻を読み解く―令和6年度第12回文化財情報資料部研究会の開催


東京文化財研究所文化財情報資料部では、国内外の研究者を招き、学術交流の場として研究会を開催しています。今年度は、中国美術学院教授であり藝術文化院副院長を務める万木春氏をお迎えし、「王詵《漁村小雪図》巻について」と題した研究発表を行いました。
本発表では、王詵の画業を文献資料に基づいて探究するとともに、《漁村小雪図》を構成する要素―水辺、雪景、漁村―を丹念に観察し、それらが 画面全体の空間構成にどのように寄与しているかを考察しました。また、自然描写、特に大気表現に注目し、画家の視覚的アプローチを読み解く試みがなされました。さらに、《漁村小雪図》にとどまらず、複数の作例を比較し、異なる視覚表現の方法についても詳細な検討がなされました。
質疑応答では、研究者や大学院生から活発な質問や意見が寄せられ、それに対して万氏が明快かつ大胆な視点から応答されたことが印象的でした。今回の海外研究者による発表を通じて、日本の研究者にとっても新たな視座を得る機会となりました。
今後も、海外の研究者を積極的に招き、より広い知見を共有する場として、定期的に研究会を開催していく予定です。
シンポジウム「黒田清輝、その研究と評価の現在—没後100年を機に」の開催


東京文化財研究所は、“日本近代洋画の父”と称される洋画家の黒田清輝(1866~1924)の遺産により、昭和5(1930)年に創設されました。現在は東京国立博物館の施設として黒田の作品を展示公開している黒田記念館は、もともと当研究所の前身である美術研究所として建てられたものです。令和6(2024)年に黒田の没後100年を迎えたのを記念して、当研究所の主催により、創設の地である黒田記念館のセミナー室を会場として1月10日に、シンポジウム「黒田清輝、その研究と評価の現在—没後100年を機に」を開催しました。発表者とタイトルは以下の通りです。
基調講演 黒田清輝の画業について——神津港人の視点から(文化財情報資料部上席研究員・塩谷純)
発表1 黒田清輝とラファエル・コラン——いくつかの視点をめぐって(三谷理華氏・女子美術大学)
発表2 黒田清輝以降——昭和期における「官展アカデミズム」の諸相(高山百合氏・福岡県立美術館)
発表3 黒田清輝からの学びと地方への伝播——鳥取県出身者の場合(友岡真秀氏・鳥取県立博物館)
シンポジウムはオンライン併用で開催、対面参加の方々と併せ63名の方にご参加いただきました。また友岡氏が山陰地方での大雪のためご来場がかなわず、急遽オンラインでのご発表となりましたが、発表後のディスカッションも含め、滞りなく開催することができました。最新の研究成果をふまえ、フランス近代美術との関連、日本近代洋画壇への影響、そして地方への波及という視点から黒田清輝の画業を捉え直した本シンポジウムが、日本近代美術研究の再考をうながす一石となれば幸いです。本シンポジウムの内容については、当研究所の研究誌『美術研究』447号(2025年11月刊行予定)に掲載の予定です。
韓国近代における金剛山の表象―令和6年度第9回文化財情報資料部研究会の開催

文化財情報資料部では、海外の研究者にも研究発表を行っていただき、研究交流をおこなっています。1月21日の第9回研究会では、客員研究員(2024年12月~2025年2月)として東京文化財研究所に滞在していた韓国・梨花女子大学校教授の金素延(キム・ソヨン)氏に「金剛山を描く―韓国近代期における金剛山の認識変化と視覚化」と題してご発表いただきました。
朝鮮半島を代表する名山として知られる金剛山は、古くから文学や絵画の主題として取り上げられてきました。しかし近代に入ると大きな変化が起きます。鉄道敷設や観光開発が進むことにより、表象のあり方は変化しました。金氏は、金剛山を描いた様々なメディアを分析しながら、①朝鮮時代にも描かれた内陸の「内金剛」だけでなく、海側の「外金剛」も描かれるようになったこと、そして②「内金剛」に女性的、「外金剛」に男性的なイメージが投影され、描き分けられたことなどを指摘しました。
写真絵はがき、旅行案内ガイドの挿図まで活用した金氏の考察は、様々なメディアから美術史を構築する可能性、また「観光」や「ジェンダー」といったイシューと美術史の関連性を改めて認識させるものでした。
研究会には、所内外から多くの学生と関連研究者が参加し、質疑応答では活発な意見交換がおこなわれました。
海外研究者の研究発表は、日本国内の学術的潮流とは異なる着想や方法論について触れ、また相互に刺激を与える機会でもあります。日本と海外を繋ぐ研究交流の「ハブ」としての役割も果たすことで、当研究所がより多角的に日本の学術に寄与できれば幸いです。
泉屋博古館東京の連続講座〈アートwith〉でのレクチャー「美術司書の仕事」


泉屋博古館東京にて令和6(2024)年12月6日に行われた連続講座〈アートwith〉に、文化財情報資料部近・現代視覚芸術研究室長・橘川英規が招かれ、「美術司書の仕事」と題してレクチャーを行いました。連続講座〈アートwith〉は、アートに関わるさまざまな専門家が講師となり、広く美術愛好者にむけて、その仕事の魅力を語るイベントです。
今回のレクチャーでは、東京文化財研究所資料閲覧室だけでなく、東京都現代美術館美術図書室や国立新美術館アートライブラリーでのキャリアをもとに、多岐にわたる司書の専門技術全般をお示しして、そのなかでとくに蔵書目録作成や美術家に関する書誌編纂によって行われる、研究者・学芸員の研究活動支援や蔵書の価値を高める枠組みつくりのたのしみをお話しました。
当研究所は、文化財を守り、後世へとつなげるためにさまざまな専門家が協力しています。美術資料に精通した司書も、こうした取り組みを支える一員として、文化財の未来をともに考え、守り続けていく重要な役割を担っています。それを紹介するとともに、橘川自身がその意義を改めて振り返る、よい機会ともなりました。今回のレクチャーをご覧になられた美術愛好者の方、異業種の方、学生の方が、美術司書という仕事に魅力を感じ、文化財保護への関心を深めていただけたのならなによりです。
韓・米・仏の歴史学研究者一行を迎えて(資料閲覧室)

令和6(2024)年12月15日、韓・米・仏の歴史学研究者一行が資料閲覧室を訪れました。一行は国際フォーラム「韓国学の新地平―歴史をひもとき、現代世界を読みなおす―」(12月13日~14日に獨協大学にて開催)で研究発表をするため来日しており、日本滞在中の見学先として東京文化財研究所が選ばれました。
鄭枖根(ソウル大学校歴史学部教授)、朴省炫(同学部副教授)、朴芝賢(同学部講師)、朴俊炯(ソウル市立大学校国史学科副教授)、韓鈴和(成均館大学校史学科助教授)、李在晥(中央大学校歴史学科副教授)、BRUNETON Yannick(パリ・シテ大学韓国学科教授)、Jisoo M. Kim(ジョージ・ワシントン大学歴史学科准教授)をはじめとする一行は、文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室研究員・田代裕一朗による案内説明を受けながら、昭和5(1930)年以来集められてきた当研究所の蔵書、そして所蔵拓本を興味深く見学しました。
文化財アーカイブズ研究室は、文化財に関する資料情報を専門家や学生に提供し、資料を有効に活用するための環境を整備することをひとつの任務としております。世界的に見ても高い価値を誇る当研究所の貴重な資料が、美術史研究だけでなく、アジア史研究、ひいては歴史学研究全般で広く活用され、人類共通の遺産である文化財の研究発展に寄与することを願っております。
※文化財アーカイブズ研究室では、大学・大学院生、博物館・美術館職員などを対象として「利用ガイダンス」を随時実施しています。ご興味のある方は、是非案内(https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/application/application_guidance.html) をご参照のうえ、お申込みください。
長尾美術館に関する基礎的研究―美術研究所との関わりの解明に向けて―令和6年度第8回文化財情報資料部研究会の開催

令和6(2024)年12月18日に開催された第8回文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部研究員・月村紀乃が「長尾美術館に関する基礎的研究―美術研究所との関わりの解明に向けて―」と題した研究発表をおこないました。
長尾美術館とは、わかもと製薬の創業者である長尾欽弥(1892~1980)・よね(1889~1967)夫妻が、昭和21(1946)年、夫妻の別荘である「扇湖山荘」(神奈川県鎌倉市)内に開いた美術館です。同館は、野々村仁清「色絵藤花文茶壺」(現・MOA美術館蔵)や「太刀 銘 筑州住左(号 江雪左文字)」(現・ふくやま美術館蔵)、宮本武蔵「枯木銘鵙図」(現・和泉市久保惣記念美術館蔵)など、名品として知られる作品を数多く収集していましたが、やがて所蔵品を少しずつ手放すこととなり、昭和42年(1967)頃には、解散状態に至りました。事実上の閉館から半世紀以上が経ちますが、美術館としての運営実態やコレクションの全体像はいまだ明らかになっていません。
一方で、長尾夫妻は、作品の購入や展示に際して、東京文化財研究所の前身である美術研究所の所員と深い関わりを持っていました。なかでも、美術研究所に拠点を置いた「美術懇話会」や「東洋美術国際研究会」の活動について、長尾欽弥が理事として参画し、その所蔵品を研究者へ紹介する機会を得ていたことは特に注目されるでしょう。
発表では、当研究所に残された関係資料の調査から、長尾夫妻と美術史研究者との交流が、長尾美術館所蔵品の評価につながっていた可能性を提示しました。また、発表後には、同館解散当時の状況を知る研究者から貴重な証言が寄せられるなど、活発な意見交換がおこなわれました。美術作品の伝来史や評価史を考えるうえで、長尾美術館は重要な存在であり、その全容を把握するべく今後も研究を進めてまいります。
長谷川等哲についての研究発表―令和6年度第7回文化財情報資料部研究会の開催

文化財情報資料部では東京文化財研究所の職員だけでなく、外部の研究者も招へいして研究発表を行っていただき、研究交流を行っています。11月の研究会では山口県立美術館副館長の荏開津通彦氏に「長谷川等哲について」と題してご発表いただきました。長谷川等哲については、これまで『岩佐家譜』に岩佐又兵衛の長男・勝重の弟が、長谷川等伯の養子となり、長谷川等哲雪翁と名乗って、江戸城躑躅間に襖絵を描いたことが記録され、『長谷川家系譜』に載る「等徹 左京雪山」、また『龍城秘鑑』が江戸城躑躅間の画家として記す「長谷川等徹」と同人かとされてきました。等哲の作品としては「白梅図屛風」(ミネアポリス美術館蔵)が知られていましたが、現存作例・文献も少なく、未詳のことが多い画家です。今回の荏開津氏の発表では、最新の研究成果をふまえて「長谷川等哲筆」の落款のある「柳に椿図屏風」など、等哲筆とみなされる作品を多く提示し、聖衆来迎寺の寺史『来迎寺要書』に同寺の「御相伴衆」として長谷川等哲の名が現れること、また、備前国・宇佐八幡宮の「御宮造営記」に、歌仙絵筆者として長谷川等哲の名が記されることなど新たな文献情報をあげ、長谷川等哲の画業について考察しました。発表後の質疑応答では、コメンテーターとしてご参加いただいていた戸田浩之氏(皇居三の丸尚蔵館)、廣海伸彦氏(出光美術館)のほか、長谷川等伯に関する数多くの業績をお持ちの宮島新一氏をはじめ多くの研究者の方々にご参加いただき、活発な研究討議が行われました。
和泉市久保惣記念美術館での調査


大阪府にある和泉市久保惣記念美術館は、昭和57(1982)年に開館した和泉市立の美術館で、日本東洋の古美術作品を中心に所蔵し、展覧会をはじめさまざまな文化振興活動を行っています。令和6(2024)年1月に、東京文化財研究所は和泉市久保惣記念美術館と共同研究に関する覚書を締結し、同館所蔵作品の調査研究を行っています。令和6(2024)年3月には鎌倉時代の絵巻である「伊勢物語絵巻」と「駒競御幸絵巻」(ともに重要文化財)について光学調査を行いました。また令和6(2024)年11月には、「山崎架橋図」や「枯木鳴鵙図」(ともに重要文化財)などの掛軸の作品について、光学調査を行いました。今回の調査では特に「山崎架橋図」の下部に記されている銘文をより識別しやすい画像を記録できないか、ということや、宮本武蔵によるすぐれた水墨画作品として知られる「枯木鳴鵙図」の表現について、材料や技法に注目して調査撮影を行いました。今回得られた調査成果をもとに共同研究を実施していくとともに、和泉市久保惣記念美術館での展示や教育普及活動に活かしていただけるように進めて参ります。
東京藝術大学の一行を迎えて(資料閲覧室)

令和6(2024)年11月26日、東京藝術大学美術学部の一行が、「工芸史特講演習」の一環で東京文化財研究所の資料閲覧室を訪問しました。
片山まび氏(東京藝術大学美術学部教授)が引率する大学院生・学部生の一行は、文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室 研究員・田代裕一朗による案内のもと、昭和5(1930)年以来集められてきた当研究所の蔵書を見学するとともに、その活用方法に関する説明を受けました。なお今回の見学にあたっては、工芸史研究における活用価値の高い売立目録コレクションに重点を置き、田代が自身の調査研究で得た知見を交えつつ、より深く「売立目録」という資料を理解できるよう構成しました。
文化財アーカイブズ研究室は、文化財に関する資料の情報提供、そして資料を有効に活用するための環境整備に日々取り組んでいます。とくに研究員が日々進める調査研究が、このような取り組みと並行して進められ、両輪を成している点は当研究所ならではの特徴です。
世界的に見ても高い価値を誇る当研究所の貴重な資料が、これからの未来を担う学生に活用され、長期的な視野に立って文化財に対する認識と研究発展に寄与することを願っております。
※文化財アーカイブズ研究室では、大学・大学院生、博物館・美術館職員などを対象として「利用ガイダンス」を随時実施しています。ご興味のある方は、是非案内(利用ガイダンス|東京文化財研究所 資料閲覧室) をご参照のうえ、お申込みください。
「第58回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」開催


令和6(2024)年11月1日、2日の2日間にわたって、東京文化財研究所セミナー室で「第58回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」を開催しました。文化財情報資料部では、毎年秋に「オープンレクチャー」を企画し、広く一般から聴衆を募って、研究者の研究成果を発表しています。
今回は、1日目に、「データベースにおける検索とキーワードの関係について」(文化財情報資料部 主任研究員・小山田智寛)と「AI時代におけるデジタルアーカイブ -文化の保存・継承・活用に向けて」(国際大学 GLOCOM研究員・逢坂裕紀子氏)の講演がおこなわれ、文化財デジタルアーカイブにおける将来的な可能性が示されました。
また、2日目には、「韓国陶磁鑑賞史 -韓国におけるコレクションの形成」(文化財情報資料部 研究員・田代裕一朗)と「中国陶磁鑑賞史 -近代のわが国における中国陶磁鑑賞の受容と変遷」((株)繭山龍泉堂代表取締役、東京美術商協同組合理事長・川島公之氏)の講演がおこなわれ、韓国陶磁や中国陶磁に対する価値観の移り変わりが紹介されました。
両日合わせて一般から138名の参加者があり、聴衆へのアンケートの結果、回答者のおよそ9割から「たいへん満足した」、「おおむね満足だった」との回答を得ることができました。
北米美術図書館協会(ARLIS/NA)来日記念国際シンポジウム「美術アーカイブと図書館における国際連携」開催と関連機関視察



北米美術図書館協会(ARLIS/NA)は、昭和47(1972)年に設立された美術・建築を専門とする司書、視覚資料専門家、キュレーター、教員、学生、アーティストなど1000名以上で構成される組織です。このARLIS/NAが、今回、はじめて日本でのスタディーツアーを開催し、16名のメンバーが来日しました。そのツアーの一環として、令和6(2024)年10月22日、ARLIS/NAと東京文化財研究所の共催による国際シンポジウム「美術アーカイブと図書館における国際連携」を開催いたしました。
シンポジウムでは、第一部として、国立国会図書館・電子情報部主任司書の小林芳幸氏がデジタルアーカイブのナショナルプラットフォーム「ジャパンサーチ」を、文化財情報資料部近・現代視覚芸術研究室長・橘川英規が、当研究所所蔵近現代美術アーカイブを紹介しました。第二部「ARLIS/NA 日本関係コレクションの事例研究」では、ピーボディ・エセックス博物館ダン・リプカン氏(代読:ボストン建築大学・安田星良氏)、イリノイ大学のエミリー・マシューズ氏、プラット・インスティテュートのアレクサンドラ・オースティン氏、ブリガムヤング大学図書館のエリザベス・スマート氏、ヴィジュルアル・アーティストのアンジェラ・ロレンツ氏に、ご所属機関の日本関連資料や日本と関わりの深いコンテンツ・活動をご紹介いただきました。そののちに、山梨絵美子氏(千葉市美術館館長、当研究所客員研究員)のディスカッサントのもと、討議を行いました。ARLIS/NAのメンバーと日本国内の専門家、合わせて70名あまりが参加し、活発な情報交換が行われました。
またこのスタディーツアーでは、関連機関の視察も行われ、東京藝術大学大学図書館、東京国立博物館資料館、国立西洋美術館研究資料センター、国立国会図書館、東京都現代美術館美術図書室、早稲田大学會津八一記念博物館・中央図書館・国際文学館(村上春樹ライブラリー)、東京国立近代美術館アートライブラリを訪問させていただきました。この場をお借りして、ご対応くださった各機関の担当者の方にお礼を申し上げます。今回のシンポジウムと関連機関視察が、ARLIS/NAメンバーと、日本国内で文化財に携わる専門家との相互交流の契機になればなによりです。
近世初期の漢籍受容と挿花文化の展開―令和6年度第6回文化財情報資料部研究会の開催

明時代に刊行された漢籍、いわゆる明版は日本にすぐさま輸入され、室町時代から江戸時代に我が国の文化に大きな影響をおよぼしました。その一例に挿花論として名高い袁宏道『瓶史』(萬暦28〔1600〕年成立)があります。『瓶史』は遅くとも寛永6(1629)年には舶載され、江戸時代後期頃、文人層を中心に熱心に受容され様々な生花の流派が成立しました。こうした受容と展開は18世紀以降に相次いだ『瓶花』関連文献の刊行、たとえば『本朝瓶史抛入岸之波』 (1750)や『瓶花菴集 附 瓶話』(1785)、『瓶史国字解』(1809、 1810)などをみてもよくわかります。
しかしながら、それに先立つ17世紀頃の受容については不明なことが多く、漠然としている状況にあります。令和6年(2024)10月29日に開催された文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部日本東洋美術史研究室長・小野真由美が「江戸時代初期における袁宏道『瓶史』の受容について―藤村庸軒の花道書の紹介をかねて―」と題して、17世紀における袁宏道『瓶史』の影響について研究発表を行いました。
発表では、新出の花道書『古流挿花口伝秘書』(東京文化財研究所所蔵)に、藤村庸軒(1613~99)が袁宏道に私淑し、挿花の一流派を成したことが記されていることなどを紹介しました。庸軒は17世紀を代表する茶人のひとりで、京都の呉服商十二屋の当主として藤堂家に仕え、三宅亡羊(1580~1649)に漢学を学びました。また藪内流と遠州流をへて千宗旦(1578~1658)の高弟となった人です。漢詩に秀で、多彩な茶歴をもつ茶人として知られる庸軒は、挿花にも秀でた人物でした。研究会では、コメンテーターに国文学研究資料館研究部准教授山本嘉孝氏をお招きし、袁宏道『瓶史』について貴重なご意見をうかがいました。
袁宏道が説いた花への理想的な姿勢、それはすなわち一枝の花を瓶に挿すことは自然に身をおくことに等しいとする境地でもあります。そうした精神性が江戸の人々にどのように受け止められ、諸流派へと展開していったのでしょうか。研究会では各分野のかたがたとの意見交換がおこなわれました。それらをふまえて花伝書『古流挿花口伝秘書』を手掛かりに、今後も丁寧に読み解いていきたいと思います。
織田東禹《コロポックルの村》をめぐって―令和6年度第5回文化財情報資料部研究会の開催

織田東禹による水彩画、《コロポックルの村》(1907年、東京国立博物館)は、当時の人類学の最新の知見に基づいて描かれた作品です。 東京国立博物館の特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(8月20日~10月20日)に出品中であったこの作品について、9月6日に東京文化財研究所において研究会を行いました。展示の企画担当者である文化財情報資料部研究員・吉田暁子、藏田愛子氏(東京大学)、品川欣也氏(東京国立博物館)、笹倉いる美氏(北海道立北方民族博物館)が登壇し、それぞれ美術史学、文化資源学、考古学、文化人類学の観点から同作について考察しました。
《コロポックルの村》は、裏面に記されている通り「三千年前石器時代日本」を舞台とする「先住者部落の生活状態の図」として描かれました。制作にあたり、作者の織田は人類学者の坪井正五郎の学説に依拠し、当時見ることのできた考古遺物などの資料を参照したこと、また大森貝塚付近を入念に写生したことなどが知られています。織田は本作を1907年に開催された東京勧業博覧会の「美術」部門に出品することを目指したものの、同部門での審査を拒絶され、本作は「教育、学芸」の資料として展示されました。
研究発表において、まず吉田は同作の概要を紹介し、東京勧業博覧会の美術部門での受賞作の傾向を分析した上で《コロポックルの村》が美術品として認められなかった理由を推察しました。次に、近著『画工の近代 植物・動物・考古を描く』の第8章「明治四十年代における『日本の太古』」(東京大学出版会、2024年、309-331頁)において、《コロポックルの村》について論じられた藏田氏は、坪井正五郎の学説と同作との関わり、また東京勧業博覧会全体の中での位置づけについて発表されました。次に品川氏は、考古学の視点から、現実の古代遺跡の再現図として同作を分析し、東京国立博物館への同作の収集経緯などについても紹介されました。そして笹倉氏は文化人類学の観点から、同作に描かれた道具や衣服、住居などには、北方民族のそれと共通する要素があることを指摘し、織田が坪井を通じて参照した可能性のある遺跡や資料を指摘されました。最後に、来場者からの質問やコメントを交えつつディスカッションを行いました。
本研究会は、美術品と学術資料とのはざまに位置づけられ、周縁化されてきた同作について領域横断的に検討する新たな試みであり、来場者からの反応も多く有意義な会となりました。本研究会の成果については、各発表者による報告を後日『美術研究』に掲載する予定です。
ギャラリー山口旧蔵資料の目録公開


このたび、研究プロジェクト「近・現代美術に関する調査研究と資料集成」の一環で、「ギャラリー山口旧蔵資料」の目録をウェブサイトに公開しました。
ギャラリー山口は、昭和55(1980)年3月銀座3丁目、松屋と昭和通りの間、ヤマトビル3階に開設した、山口侊子(1943-2010)経営による現代美術を専門とした画廊です。「美術館の開館ラッシュ」といわれる時代に、30~40代の次世代を担う若手日本人美術家の個展を中心とし、抽象表現の絵画、彫刻の大作による個展を主軸として、その発表の場を担うとともに、現代の建築空間に対応できる作品の紹介、広場や公園のための野外彫刻、環境造形の受注制作も行ったギャラリーとしても知られています。平成3(1991)年4月には、現代美術作品の大型化に対応するため、新木場にオープンしたSOKOギャラリーに入居、ギャラリー山口SOKOも開設。平成7(1995)年8月には、この2ヶ所のギャラリーを統合し、京橋3丁目京栄ビルへ移転しました。国際交流の活動として海外画廊との交換展を行うなど日本の現代美術の普及にも大きく貢献した、この時代を代表する重要な画廊のひとつです。
今回、目録を公開した資料群は、平成22(2010)年に経営者逝去に伴いギャラリーが閉廊した際に、笹木繁男(1931-2024)の仲介で東京文化財研究所に寄贈されたもので、570点ほどのファイルで構成され、書架延長でおよそ9メートルの規模になります。そのなかには記録写真やプレスリリースなどを納めた作家ファイルや画廊運営資料も含まれており、当時の新聞・雑誌などのメディアによる報道には記録されない、重要な事実を見出すこともできるでしょう。
研究プロジェクト「近・現代美術に関する調査研究と資料集成」では、日本の近・現代美術の作品や資料の調査研究を行い、これに基づき研究交流を推進し、併せて、現代美術に関する資料の効率的な収集と公開体制の構築も目指しております。この資料群は資料閲覧室で閲覧できますので、現代美術をはじめとする幅広い分野の研究課題の解決の糸口として、また新たな研究を創出する契機として、ご活用いただければ幸いです。
◆資料閲覧室利用案内
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/library.html
アーカイブズ(文書)情報は、このページの下方に掲載されています。実際の資料は資料閲覧室でご覧いただけます(事前予約制)。
◆ギャラリー山口旧蔵資料
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/pdf/archives_GalleryYamaguchi.pdf
データベース「笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料(作家ファイル)」の 公開



研究プロジェクト「近・現代美術に関する調査研究と資料集成」の一環で、令和6(2024)年9月25日に、データベース「笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料(作家ファイル)」をウェブサイトに公開しました。
笹木繁男(1931-2024)は、都市銀行在職中の1960年代から美術作品を収集し、また戦中期以後の現代美術に関する資料も収集しました。定年退職後、平成6(1994)年に自宅の一室に、現代美術資料センターを開設し、そこでは美術館の学芸員や研究者に対して、自身が所蔵するさまざまな資料を閲覧提供し、研究などをサポートされていました。美術コレクターとして、都内のギャラリーをまわり、そのオーナーや他のコレクターのネットワークがあり、また在野の戦後美術研究者として、みずから画家や関係者を取材し、ときに資料散逸を防ぐために、資料保存の重要性を呼びかけて、現代美術資料センターのアーカイブ機能を背景に、積極的に収集されたことが、この資料群のひとつの特徴といえるでしょう。
東京文化財研究所では、それまで収集しきれていなかった現代美術分野の資料を補完するために、平成9(1997)年にこの資料群、段ボールおよそ450箱を受け入れ、それ以降も、平成30(2018)年まで、定期的に資料をお届けいただきました。当研究所では、現在まで30名ほどの学生アシスタントの協力により、その整理・登録を行なっております。これまでも『笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料目録CD』(2002年)、『笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料目録画廊関連データCD』(2006年)を出版して、研究者にも情報提供をしてきましたが、今回のデータベース「笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料(作家ファイル)」公開によって、最新の整理状況を反映させるとともに、よりアクセスしやすいようにウェブサイトを介して提供できることとなりました。
研究プロジェクト「近・現代美術に関する調査研究と資料集成」では、日本の近・現代美術の作品や資料の調査研究を行い、これに基づき研究交流を推進し、併せて、現代美術に関する資料の効率的な収集と公開体制の構築も目指しております。この資料群は資料閲覧室で閲覧できますので、現代美術をはじめとする幅広い分野の研究課題の解決の糸口として、また新たな研究を創出する契機として、ご活用いただければ幸いです。
◆データベース「笹木繁男氏主宰現代美術資料センター寄贈資料(作家ファイル)」
https://www.tobunken.go.jp/materials/sasaki_artistfile
◆資料閲覧室利用案内
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/library.html
Digital Humanities 2024(DH2024)参加報告


令和6(2024)年8月6日~8月9日にかけてジョージ・メイソン大学(アメリカ)で開催されたDigital Humanities 2024(DH2024)に参加して来ました。DH2024は人文情報学という学問分野では最大規模の年次国際大会です。そして人文情報学というのは、人文学と情報学とを融合させることで新たな発見の獲得を目的とした分野です。
東京文化財研究所は、令和4(2022)年度より文化庁が進める「文化財の匠プロジェクト」事業の一環として「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に携わっており、文化財情報資料部では「文化財(美術工芸品)修理記録のアーカイブ化」を担当しております。この事業は、文化財の修理記録という大切な情報を適切な形で後世に残していくことを主眼としている重要なものであり、そのプレゼンスを国際的にも主張してゆくことが求められます。こうした背景から、文化財情報資料部客員研究員・片倉峻平が発表者としてDH2024に赴き、昨年度時点でのアーカイブ化の作業過程をポスター発表(題目:” Constructing a Database of Cultural Property Restoration Records”)にて紹介しました。発表内容は田良島哲・片倉峻平「美術工芸品修理記録のデータベース化」(『月刊文化財』722号、2023年)に則ったものですので、よろしければこちらをご覧下さい。
聴衆の皆様には、日本の文化財修理でどのような記録が取られて来たのか、そしてこれまでどのように蓄積・保存されてきたのか、という点に特に興味を持って頂けました。データベースを作成しているというお話もしたので、実際にそのデータベースを見てみたいという希望も多く聞くことが出来ました。データベースは残念ながらまだ未公開ですがいずれ公開するのでぜひ期待して下さいとお伝えしておきました。
本プロジェクトはこれから佳境を迎えます。これからも国際的な情報発信に努めますので、皆様にもぜひ引き続き注目頂ければと思います。
特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(東京国立博物館)の開催


令和6(2024)年は、画家であり、東京文化財研究所の前身である美術研究所の設立資金を遺した黒田清輝(1866-1924)の没後100年にあたります。これを記念し、東京国立博物館での特集展示を企画しました。展示は黒田の作品と、東京国立博物館の所蔵する近代絵画とによって構成し、西洋絵画に学んだ「洋画」が「美術」としての地位を獲得していく工程を「冒険」として紹介しました。
まずは黒田清輝の代表作、《智・感・情》(1899、明治32年)において、人間の裸体によって抽象的な観念を描くという西洋の寓意画に端を発した試みを紹介しました。人間の裸体を美的なものとして描き、見る習慣のなかった日本では、裸体画は不道徳なものとして批判されましたが、黒田は《智・感・情》において日本人のモデルを用いた裸体画を世に問いました。《智・感・情》は明治33(1900)年のパリ万国博覧会では、“Etude de Femme”(女性習作)として紹介されました。日本の観衆に対しては裸体によって理想を表現する手法を示し、西洋の観衆に対しては日本人による日本人を描いた裸体画の存在を示すという二面性をもつ試みであったことがわかります。
また本展では、当時の「美術」の境界を示す作品を展示しました。織田東禹《コロポックルの村》(1907、明治40年)は、アイヌの伝承に「蕗の葉の下に住む人」として登場する「コロポックル」を日本の石器時代の先住民とする、人類学者の坪井正五郎による学説に基づいて描かれました。織田はこの作品を明治40(1907)年の東京勧業博覧会に出品し、美術館での展示を希望しましたが、美術部門の審査員は類例のない表現に戸惑って同作の審査を拒否し、結局同作は「教育、学芸」の資料として展示されました。当時、「美術」という概念は形成途上にあり、《コロポックルの村》の扱いには出品者側と審査員側の認識の違いが表れたといえます。同作をめぐり、文化史的な視点からの考察と、考古学や文化人類学側からの考察をまじえた学際的な研究会を9月6日に当研究所で行いました。
最後に、同展では黒田清輝の遺産によって昭和5(1930)年に創立した「美術研究所」を前身とする当研究所の所蔵資料を展示しました。黒田は遺産の一部を「美術奨励事業」に充てるようにという遺言を残しましたが、その内容を具体化したのは美術史家の矢代幸雄でした。イギリスとイタリアに留学してルネッサンス美術を研究した矢代が大正14(1925)年に刊行した“Sandro Botticelli”(Medici Society)は、新鮮な視点を示した著作として高い評価を受けました。中でも、部分図に独自の美観を認める視点は当時の西洋美術史に新たな視点をもたらしました。「美術研究所」の構想において重視された美術写真の収集という方針は、現在の当研究所の資料収集にも継承されています。同展では“Sandro Botticelli”や『黒田清輝日記』など、当研究所の所蔵資料を展示し、美術研究における拠点としての同所の意義を紹介しました。
近代中国の書画史学―令和6年度第4回文化財情報資料部研究会の開催

1920、30年代は日本と中国の美術交流を考えるうえで、きわめて重要な時代です。この少し前、日本では大村西崖(1868~1927)や中村不折(1866~1943)などによって中国絵画史学が形成されつつありました。近年、東京美術学校教授であった西崖が遺した『中国旅行日記』等の史料によって、日中の美術交流の諸相が明らかにされつつありますが、日中双方の社会情勢および美術界の動向をふまえた研究がもとめられています。
令和6(2024)年7月23日に開催された文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部客員研究員の後藤亮子氏が「余紹宋と近代中国の書画史学」と題した研究発表を行いました。後藤氏は西崖の『中国旅行日記』の研究に長年従事し、その調査の過程で、この時期が中国美術史学の展開においても重要な時代であったことに着目しました。そこで、日本への留学経験があり『書画書録解題』(1931年刊)の著者である余紹宋(1883-1949)に焦点をあて、余紹宋と日本との関わりと近代中国の書画史学の形成について論じました。
余紹宋は1920~30年代前後に活躍した史学家です。その著書『書画書録解題』は、中国の書画関係文献に関する初の専門解説書かつ必須参考文献として今日も高く評価される一方、余紹宋その人についての情報は極めて限られる状況が長く続きましたが、近年『余紹宋日記』その他の資料が公開され、中国の近代化におけるその役割が研究対象となりつつあります。余紹宋は明治38 (1905)年に日本に留学し、法学を修め、帰国後は官僚となりました。大正10(1921)年には政府の司法次長となります。いっぽうで湯貽汾(1778~1853)の孫に絵を学び、画史や画伝を博捜して徐々に美術界にも足跡を残すようになりました。昭和2(1927)年には官職を退き、学者、書画家、美術家として生きました。
後藤氏は、余紹宋の生涯とかれの画学研究、さらに書画の実践をたどりながら、先述の『書画書録解題』のみならず、『画法要録』(1926年刊)、美術報『金石書画』(1934-37年刊)などの著作を読み解き、中国美術史学における位置づけを検討しました。日本を通して西洋的知見を習得した余紹宋が国故整理運動と呼ばれる復古的なアプローチで伝統的な中国書画文化にクリティカルな目を向け、それが中国美術研究の近代化の礎石のひとつとなったと論じました。研究会は所外の専門家の方々にもご参会いただき、近代中国および日本における中国美術史学、東洋美術史学の成立過程に関する有意義な意見交換が行われました。