研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


タイ王室第一級寺院ワット・ラーチャプラディットの日本製漆扉部材の保存と材料に関する調査

床の隙間から侵入したシロアリの食痕の目視調査と生体の観察
食害のある漆扉部材の目視調査とサンプリング箇所の確認
彩漆蒔絵による装飾の目視調査

 タイ・バンコクに所在するワット・ラーチャプラディットは1864年にラーマ4世王によって建立された王室第一級寺院です。寺院の拝殿の窓や出入口には、建立当初から多数の日本製の漆塗りの部材(以下、漆扉部材)がはめこまれています。漆扉部材は伏彩色螺鈿や彩漆蒔絵で花鳥や中国の故事などが描かれた装飾性の高いものですが、年月を経て傷みが生じているため、タイ文化省芸術局が修理を行い、当研究所は修理に対する技術協力や調査研究を行っています。
 人々の祈りの場である拝殿の雰囲気を保つため、修理が終わった漆扉部材は元の位置に戻します。しかし、漆扉部材には虫損と思われる傷みも確認され、何の対策もせず部材を元の位置に戻しても同様の損傷が生じうることから、漆扉部材の現地保存のための調査研究を同寺からの受託研究として立ち上げ、令和7年(2025)6月9日~11日に現地調査を行いました。
 現地では、拝殿の状況やシロアリ等の木材を食害する生物の有無の確認、虫損が見られる漆扉部材の目視調査を行いました。当初、部材の虫損が最近のものではなく、すでに収束している可能性も考えましたが、調査の結果、床のわずかな隙間から建物内にシロアリが侵入しており、食害を受けるおそれがあることがわかりました。今後、とりうる対策をタイ側に提案し、漆扉部材の現地保存に役立てていただく予定です。
 また漆扉部材に関する調査も併せて行いました。漆扉部材に用いられた材料や技法については不明な点が存在するため、目視調査を実施し、採取した少量の脱落片については科学分析を予定しています。得られた結果を通じて、今後の漆扉部材の修理や復元の方針について提言していく予定です。

フォーラム「ポスト・エキヒュームSの資料保存を考える」の開催報告

総合討議の様子
関係組織による研究紹介の様子

 保存科学研究センターは、令和7(2025)年2月21日にフォーラム「ポスト・エキヒュームSの資料保存を考える」を文化庁、文化財保存修復学会、日本文化財科学会の共催で開催しました。資料保存における生物被害対策では、大規模な虫菌害が発生した際にガス燻蒸処理によって一旦被害を初期化する対策が図られています。あるいは、受入資料からの虫やカビの持ち込みを防ぐために、資料を対象にしたガス燻蒸処理が行われる場合もあります。また災害等で被災した資料を対象にしたガス燻蒸処理も行われてきました。このようにガス燻蒸処理は、現在の日本では資料保存における生物被害対策に欠かすことのできない技術ですが、令和7(2025)年3月末に主要な燻蒸ガス剤の一つである「エキヒュームS」の販売が停止することとなりました。その背景には燻蒸ガスが人や地球環境に及ぼす負の影響が無視できなくなってきたことがあります。そこでフォーラムではこの分野の専門家と組織をお呼びして、持続可能な社会の構築という現代の社会要請のもとで新しい資料保存の在り方について議論を行うことを目的としました。基調講演では米村祥央氏(文化庁文化資源活用課)と木川りか氏(九州国立博物館)から文化財IPMを主軸とする今後の資料保存の在り方について講演を頂きました。また、渡辺祐基氏(九州国立博物館)と保存科学研究センターアソシエイトフェロー・島田潤より海外における文化財IPMの研究事例をランチタイムに報告いただき、続いて日髙真吾氏(国立民族学博物館)、岩田泰幸氏(文化財虫菌害研究所)、間渕創氏(文化財活用センター)より、文化財IPMの実践や文化財IPMに関する資格の活用、カビ対策の実践などを講演頂きました。総合討議では建石徹氏(皇居三の丸尚蔵館)にモデレーターを務めていただき、各講演者と小谷竜介氏(文化財防災センター)、和田浩氏(東京国立博物館)、降幡順子氏(京都国立博物館)、脇谷草一郎氏(奈良文化財研究所)、髙畑誠氏(宮内庁正倉院事務所)にご登壇頂き、それぞれの立場からポスト・エキヒュームSの資料保存の在り方について議論いただきました。会場は地下1Fセミナー室と会議室(サテライト会場)でホワイエでは文化財IPMに関わる組織によるブースでの研究紹介も行いました。会場参加者は約170名、WEB同時配信の登録は約750アカウントと大変多くの方にご参加いただきました。フォーラムを機にさらに活発な議論が進み、課題解決へ一歩ずつ歩みが進められていくことに期待しています。

文化財害虫検索サイトの公開

特徴から検索している例

 令和6(2024)年4月から「文化財害虫検索」(https://www.tobunken.go.jp/ccr/pest-search/top/index.html)という新たなウェブサイト公開しました。このウェブサイトは文化財害虫を発見して同定を行う際に役立ちます。
 文化財害虫は種類が多く、これまで昆虫を専門としていない人が同定するのは困難でした。しかし、害虫を発見した人が同定するためにその場で使うことができるツールの開発が求められていました。そのニーズに答え、誰でも簡易的に文化財害虫が調べられることを目的としてこのウェブサイトを制作しました。
 「文化財害虫検索」はウェブ上のコンテンツであり、スマートフォンから閲覧することができるため、文化財害虫を発見した現場ですぐに調べることができます。昆虫の形や色などのその場でわかる形態情報をもとに文化財害虫を検索することができるため、昆虫に詳しくなくても直感的に調べることができます。各文化財害虫のページでは、形態や生態などの情報に加え、様々な角度の多くの写真を取り入れているので、見つかった実物の昆虫と簡単に比較することができます。また、遺伝子情報や関連論文なども載っているため、文化財害虫の研究を行う上でも役立つサイトとなっています。
 文化財害虫検索では現在(令和6(2024)年5月時点)までに主要な文化財害虫である30種を掲載しています。文化財害虫とされている昆虫は150種以上いるので、これからさらに多くの文化財害虫を登録していく予定です。

虫糞から文化材害虫を特定する分子生物学的解析

DNAを識別子として文化財害虫の同定を行う方法
建造物から虫糞を採取する様子

 文化財に顕著な物質的損失を引き起こし、その価値を著しく減ずる文化財害虫による被害は文化財保存における普遍性を持った深刻な問題のひとつです。文化財が害虫に蝕まれたときに、少しでも早く発見し対策を講じることはとても重要なことです。しかし、実際の現場では厄介なことに生体は見つからず虫糞だけしか残されていないことが多々あり、これでは専門家であっても加害種の特定が難しいという状況がありました。そこで生物科学研究室では、虫糞から抽出したDNAを識別子として文化財害虫の同定を行う研究を進めています。
 令和3年度の成果として、文化財に多く用いられている竹を加害する主要な害虫について虫糞から種を特定する手法の確立に成功しました。成果の概要は、まず竹材害虫を採集してDNAを抽出して、種固有の塩基配列を決定します。この情報を生物種の外部形態とDNA情報を統合してデータベース化している国際データベースへ登録を行います。そして、実際に竹材害虫の飼育容器や屋外の建造物から採取した虫糞からDNAを抽出して、塩基配列を決定します。この情報を国際データベースと照合して、種の特定を行うという方法です。これまでは虫糞に含まれる僅かなDNAの抽出やそこに含まれる他の生物のDNAの干渉など、塩基配列を決定するまでのプロセスで多くの課題がありました。しかし、「特異的プライマーによるPCR法」によって、ようやく実際の建造物から採取した未知の虫糞を使って、加害種を特定することに成功しました。詳しくは保存科学誌の第61号に掲載されます。
 今後は、多岐にわたる系統の文化財害虫の虫糞から種を特定できるように、特異的プライマーの開発を進めていくとともに、手法の標準化や簡略化など検出システムの基盤を整備して、現場で使いやすい検査方法となることを目指して研究を進めていきたいと考えています。

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