ネパール・キルティプル市における歴史的民家の保存活用に向けた共同調査 その4

ネパール・キルティプル市の旧市街は、「キルティプルの中世集落」として世界遺産暫定リストに記載されています。しかし、急速な都市化や2015年のゴルカ地震後の被害などを受けて、その街並みは大きな変化に晒され続けています。特に、旧市街内に残る個人所有の歴史的民家は地震後も年々数を減らしており、その全容は明らかではありません。
東京文化財研究所とキルティプル市は、歴史的民家保存のためのパイロットケーススタディ(https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2385246.html)と並行して、旧市街内に残る歴史的民家のインベントリー作成に向けた悉皆的調査を行っています。2025年5月23日~31日に行った職員1名の派遣では、キルティプル市職員および現地専門家と共に、歴史的民家のインベントリー作成に向けた調査を継続しました。前回、2024年7月に行った現地調査では、137件の民家をインベントリー掲載の候補物件として抽出しましたが、今回の補足調査により、その数は全164件となりました。また、これらの民家の保護の優先度やその基準を議論するための材料として、全ての候補物件を対象にファサードの構成要素に関する調査も行いました。これらの調査から、キルティプルの旧市街を構成する歴史的民家の特徴や、街並みに重ねられた時代の層が徐々にみえてきました。
今後、調査で収集した歴史的民家の構成要素を分析し、キルティプル市の歴史的民家を特徴づける外観基準について現地専門家らと議論していく予定です。本共同調査によるインベントリーが、市内に残る歴史的民家の記録としてだけでなく、その保存に向けた法的支援の枠組みを整備するための基礎資料となることを期待しています。
シンポジウム「考古学と国際貢献:エジプト考古学と国際協力の軌跡」の開催


東京文化財研究所では、2025年5月10日(土)に、「考古学と国際貢献:エジプト考古学と国際協力の軌跡(Archaeology and International Cooperation in Egypt)」と題したシンポジウムを開催しました。2021年以降、毎年テーマとする地域を変えて継続しているこの連続シンポジウムでは、文化遺産の考古学的な調査研究の成果報告を中心に、史跡整備や人材育成といった国際協力事業についても情報を共有し、文化遺産保護の推進を目的としています。今回はエジプトを取り上げ、当事国であるエジプトと調査研究を主導する国の一つであるチェコ共和国からそれぞれ招聘した研究者による基調講演と、日本人研究者による国際協力の各現場からの報告の2部構成で行いました。
はじめに、日本のエジプト考古学の先駆者である東日本国際大学総長の吉村作治先生よりご挨拶をいただきました。
第1部では、まずエジプト観光考古省・考古最高評議会のヒシャーム・エルレイシー博士より、”Recent and Ongoing International Joint Projects for the Egyptian antiquities.”というタイトルで、ヌビア遺跡救済キャンペーンのアーカイブ紹介と、フランス・韓国・ドイツとの共同による遺跡整備事業、そして近年の発掘調査成果についてご講演いただきました。続いて、チェコ共和国カレル大学チェコ・エジプト学研究所のミロスラフ・バールタ博士からは、”Cooperation on the pyramid fields: Abusir and Saqqara”と題して、これまでのチェコ隊によるアブシール遺跡の発掘調査の歴史や、19世紀末にフランス人考古局長が発掘を実施したものの断片的な報告しかなされていない北サッカラの通称Mariette Cemeteryの再発掘プロジェクトについてご報告いただきました。
第2部では、エジプトにおいて発掘調査や保存修復、人材育成を行っている日本の8つのプロジェクト:クフ王第2の船保存修復・復元プロジェクト(黒河内宏昌・山田綾乃)、イドゥートのマスタバ墓壁画保存修復(吹田真里子)、北サッカラ遺跡発掘調査(河合望)、ルクソール西岸アル=コーカ地区発掘調査(近藤二郎)、アメンヘテプ3世王墓壁画保存修復(西坂朗子)、GEM-CC (Conservation Center), GEM-JC (Joint Conservation) プロジェクト(谷口陽子)、アコリス遺跡発掘調査(花坂哲)、コーム・アル=ディバーゥ遺跡発掘調査(長谷川奏)について、それぞれの取り組みと成果が発表されました。
本シンポジウムには多数の研究者や大学院生も参加し、考古学的知見の深化と国際的連携の重要性を改めて確認するとともに、文化遺産保護における学術的貢献の新たな展望を期待させる貴重な機会となりました。
また調査隊や大学の別を超えて活動の軌跡を紹介できたことは意義深く、招聘した海外専門家からも日本の研究者による成果を俯瞰する好機であったとの評価を得ました。
在外日本古美術保存修復協力事業の進捗状況について

日本でつくられた美術作品等は欧米を中心に海外の多くの機関にも所蔵されていますが、海外ではそれらの保存修復に精通した専門家はごく限られるため、作品の劣化や損傷が進んでいても適切な時期に適切な手法で修復を行うことが困難な場合があります。その結果、展示や活用ができなくなるだけでなく、損傷がさらに進行してしまうおそれもあります。
こうした状況に鑑み、本事業では、海外の博物館・美術館・図書館が所蔵する日本古美術品のうち保存修復を要する作品を対象に、保存修復の支援を行っています。
2025年5月26日から29日にかけて、ドイツのハンブルク工芸美術館(Museum für Kunst und Gewerbe Hamburg)が所蔵する池田孤村筆《月に秋草図屏風》(二曲一隻)について、詳細な現状調査を実施しました。同館では、本作品の状態を危ぶんでおり、近年は展示されていない状況にあります。今回の調査では、絵具の剥離・剥落、下貼りや裏打ち紙の脆弱化などの損傷や劣化が認められ、早急に修復が必要であることを確認しました。さらに、過去に行われた解体修復によって、唐紙や縁木の位置と向きがオリジナルと異なっていることが判明しました。
一方、昨年度は、バウアー財団東洋美術館(スイス)、リートベルク美術館(スイス)、ポズナン国立博物館(ポーランド)の各館において、作品調査および現地での保存修復に関する助言を実施しました。これらの調査の結果を受け、目下、リートベルク美術館所蔵《御幸図屏風》(八曲一隻)の修復を日本国内で開始するための準備作業を進めています。
ブータン中部・南部・北西部地域の伝統的民家に関する建築学的調査


東京文化財研究所では、平成24(2012)年以来、ブータン内務省文化・国語振興局(DCDD)と協働して、同国の伝統的民家建築に関する調査研究を継続しています。同局では、従来は法的保護の枠外に置かれてきた伝統的民家を文化遺産として位置づけ、適切な保存と活用を図るための施策を進めており、当研究所はこれを研究・技術面から支援しています。5月13日~23日にかけて行った現地派遣では、当研究所職員2名と外部専門家1名が渡航し、DCDD職員2名と共に、主にブータン中部・南部・北西部地域の民家を踏査しました。
DCDD側が事前に収集した所在情報等を基に、南部シェムガン県では、石造民家3棟、版築造民家1棟および竹や木を使った木造軸組構造の民家1棟を調査し、中部トンサ県では、版築造民家3棟、石造民家6棟を、北西部ガサ県では石造民家2棟を調査しました。このうち、旧家とされる上層民家の中には、非常に分厚い堅牢な石積壁をもつものも確認されました。
ブータンの伝統的民家は、首都ティンプーが位置する西部地域では版築造、東部や標高の高い北部では石造が支配的で、東西の境界は中部ブムタン県付近にあることがこれまでの調査で明らかになっています。今回の調査では、南部および北西部における石造民家の建築的特徴を確認し、西部主体の版築造との分布域の境界の一端を把握しました。こうした構法の違いは、地形や自然資源、あるいは材料調達や技術者の問題、各家の家格や社会的地位など、さまざまな条件によって規定されると考えられ、今後、ふたつの構法の所在範囲や併存のあり方を詳しく調査することで、民家の建築構法の変遷や伝播について更なる手がかりが得られることを期待しています。
本調査は、科学研究費助成金基盤研究(B)「ブータンにおける伝統的石造民家の建築的特徴の解明と文化遺産保護手法への応用」(研究代表者 友田正彦)により実施しました。
講演会・体験型イベント「バーレーンの歴史と文化」の開催


令和7年(2025)年4月に大阪・関西万博が開幕しました。中東のバーレーンも、万博にパビリオンを出展しています。これにあわせパビリオンの総責任者であるバーレーン文化古物局総裁シェイク・ハリーファ王子が来日されました。
東京文化財研究所は、長年、バーレーンにおいて文化遺産保護のための国際協力事業を行っています。シェイク・ハリーファ王子からの依頼もあり、この機会を生かして、より多くの方にバーレーンの文化遺産の魅力を知っていただくため、4月20日にバーレーン文化古物局と共催という形で、東京文化財研究所において講演会・体験型イベント「バーレーンの歴史と文化」を開催しました。
バーレーンや日本の専門家、古墳の伝道師まりこふんさんらが講演を行ったほか、来場者にはVRゴーグルを着用して遺跡の内部を探索していただくなど、各種のXRコンテンツを通じてバーレーンの歴史と文化を楽しんでいただきました。
イストリア地方における壁画保存に向けた共同研究(その2)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、壁画の維持管理および保存修復に係る共同研究に取り組んでいます。
その一環として、クロアチア文化メディア省美術監督局、イストリア歴史海事博物館、ザグレブ大学と共同で、クロアチアの北西部に位置するイストリア地方の教会壁画を対象にした維持管理システムの開発を進めています。この地域では、中世からルネサンス期にかけて数多くの壁画が制作され、その数は、現在確認されているだけでも150件にものぼります。その保存状態を調査・記録し、収集したデータを専門家の間で共有することで、維持管理に役立てていこうというのがこの研究のねらいです。
令和7(2025)年3月10日から14日にかけて、現地を訪問し、先行調査(リンク:https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2065796.html)で作成した保存状態に関するチェックシートを用いて、12ヶ所の教会で導入テストを実施しました。このチェックシートは、壁画が描かれた建物、壁画の技法・材料、そして保存状態という3つの主要な焦点に基づいて構成されています。テストを通じて、チェックシートに記載された確認項目の見直しを行い、より実用的で効果的なものへと進化させることができました。今後は、デジタルアーカイブの構築を目指し、導入テストを引き続き実施していく予定です。
バハレーンにおけるイスラーム墓碑の3次元計測調査(第3次)


東京文化財研究所は長年にわたり、バハレーンの古墳群の発掘調査や史跡整備に協力してきました。一方、同国内のモスクや墓地には歴史的なイスラーム墓碑が残されており、現在でも同国内には約150基ほどの墓碑が確認されていますが、多くは塩害などにより劣化が進行しています。
それらの墓碑の保護に協力してほしいとのバハレーン側の要請に応え、令和5(2023)年と令和6(2024)年に写真から3Dモデルを作成する技術であるSfM-MVS(Structure-from-Motion/Multi-View-Stereo)を用いた写真測量を行いました。これにより、博物館や現代の墓地に所在する約100基の墓碑の3次元計測を完了しました。作成したモデルは、広く国内外からアクセスできるプラットフォームである「Sketchfab」に公開し、墓碑のデータベースとして活用されています。
このたび、同国南部の墓地にも対象を広げた3次元計測調査を令和7(2025)年2月8日~12日にかけて行いました。これまでと同様に写真測量を行い、トゥブリ墓地2基、サルミヤ・モスク1基、フーラ墓地12基、マフーズ墓地1基、ダイ墓地1基、ノアイーム墓地5基、アル・カデム墓地2基、カラナ墓地5基の計29基について計測を完了しました。埋没した墓碑や破壊された墓碑を除き、本調査をもってバハレーン全土の墓碑の計測が一旦完了しました。
一基ごとの寸法、形状、碑文に関する情報も伴った3Dモデルによる100基以上の墓碑のデータベースはこれまでに例がなく、単に形状の記録保存という意味合いにとどまらず、本調査の成果が今後のイスラーム墓碑研究にも役立つことが大いに期待されます。
「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産登録10周年記念国際シンポジウムへの参加



令和7(2025)年1月10日と11日、高崎市の群馬音楽センターにおいて、ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」(以下、富岡)の登録10周年を記念する国際シンポジウムが開催され、東京文化財研究所から3名の職員が参加しました。このシンポジウムは、群馬県と日本イコモス国内委員会の共催により、「富岡」の登録後の取組みと意義を振り返るのみならず、「奈良文書」が採択された1994年の世界遺産条約におけるオーセンティシティに関する奈良会議から30年を迎える節目を捉えて、複雑化する21世紀の社会的課題に適応した遺産のオーセンティシティのあり方を問うことがテーマに掲げられました。なお、当研究所が事務局を務める文化遺産国際協力コンソーシアムでは、去る11月に「奈良文書」30周年を記念した研究会とシンポジウムを開催したところです(文末リンク参照)。
シンポジウムの統括責任者を務めた前イコモス会長で九州大学名誉教授の河野俊行氏の問題意識から、21世紀の社会と遺産をつなぐキーワードとして「ヘリテージ・エコシステム(heritage ecosystems)」が提唱され、プログラムも通常のシンポジウムの形式によらず、招待研究者・専門家によるキーノートスピーチのほか、自主参加の研究者・専門家による4組のグループディスカッションを並行して行うかたちが取られました。招待発表者は8か国14名、自主参加者は19か国約80名に上り、一般参加を加えたおよそ120名の大半を外国からの参加者が占める国際色豊かな会議となりました。
「ヘリテージ・エコシステム」は、まだ馴染みの薄い概念ですが、このプログラムの中では「地域の豊かな文化的環境を成り立たせる多様な要素の循環関係や有機的な関係全体を意味するもの」と説明されています。キーノートスピーチでは、現在も県内で生糸や絹製品の生産販売を行う碓氷製糸株式会社取締役の土屋真志氏や、蚕を利用した医薬品・ワクチンの研究開発に取り組む九州大学教授の日下部宜宏氏の発表に象徴されるように、「富岡」を今も息づく絹産業の「ヘリテージ・エコシステム」の中に捉え直すことに主眼が置かれ、従来の文化財保護分野の会議とは視点が大きく異なる論点が提示されました。グループディスカッションでは、前イコモス文化的景観国際学術委員会長で造園家のパトリシア・オドーネル氏がキーノートスピーチの中で提案した「ヘリテージ・エコシステム」の考え方に関する四つの論点、1.自身の専門分野や活動領域との関係性、2.新たな機会創出の可能性、3.地域社会や遺産保護にもたらすメリット、4.遺産のオーセンティシティの認識に及ぼす影響、をもとに各組において自由闊達な議論が展開されました。最後に、キーノートスピーチでの問題提起やグループディスカッションの成果などを反映させるかたちで「ヘリテージ・エコシステムに関する群馬宣言」がまとめられ、会議は幕を閉じました。
当研究所では文化遺産国際協力コンソーシアムの活動とともに、こうした国際会議への積極的な参加を通じて、今後も文化遺産の国際関係に関する情報収集と文化遺産国際協力に係るネットワーク構築に努めていきます。
参考リンク
・文化遺産国際協力コンソーシアム第35回研究会:文化遺産保護と奈良文書-国際規範としての受容と応用-
https://www.jcic-heritage.jp/news/35seminar_report/
・文化遺産国際協力コンソーシアム令和6年度シンポジウム:「モニュメント」はいかに保存されたか-ノートルダム大聖堂の災禍からの復興
https://www.jcic-heritage.jp/news/2024syoposium_report/
スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その6)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
令和7(2025)年1月13日~1月18日にかけて、フィレンツェを訪れ、ルネサンス後期、マニエリスムの彫刻家であるピエトロ・フランカヴィッラやジョバンニ・バッティスタ・カッチーニによって制作された塑像群に関する事前調査と、今後の研究計画について所蔵元であるオペラ・デル・ドゥオーモ博物館と協議しました。これらの彫刻は、フィレンツェの主要な聖人たちを表しており、1589年にトスカーナ大公フェルナンド1世デ・メディチとクリスティーヌ・ディ・ロレーヌの結婚式を祝うために制作されました。その目的は、式典を祝う一日のためだけにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面に設置された仮設のファサードを飾ることにありました。そのため、当時主流であった大理石ではなく、塑像という手法が選ばれたと考えられています。
現在、これらの彫刻作品は大聖堂クーポラの内側にある部屋で保管されていますが、経年劣化が進んでおり、その構造や使用された材料に関する研究は十分に進んでいないのが現状です。今後は、現地の国立修復研究所や美術監督局と連携し、調査を一層深化させるとともに、将来的な保存修復に資する研究を推進していきます。
アンコール・タネイ遺跡保存整備のための現地調査XVIII-中央伽藍前十字テラスの保存修復に向けた予備調査



タネイ遺跡は12世紀末から13世紀初頭の建立と推測される仏教寺院で、その中央伽藍の正面にあたる東側には大型の矩形テラスと十字テラスが並んでいます。同時代の他寺院でも伽藍正面には大型テラスが認められますが、矩形テラス前に十字テラスが接続する構成は珍しく、タネイ寺院の性格を考える上でも重要な遺構と言えます。しかし、テラス上に生えた樹木の根やテラス内部を構成する盛土層の不等沈下により、とくに十字テラスの崩壊が著しい状況にあります。
そこで文化遺産国際協力センターでは、令和6(2024)年11月末から12月下旬にかけて職員4名を派遣し、今後の保存修復方法の検討に向けた予備調査として、カンボジア政府APSARA機構の考古スタッフとの協働による十字テラスの発掘調査を開始しました。併せて、崩壊原因を解明するための内部構造調査や破損調査、崩落した石材の残存状況調査を実施し、今後の修復手法に関する基礎的検討を行いました。
発掘調査の結果、周囲の堆積土中からかつて十字テラスを構成していたと考えられる多数の散乱石材を検出したほか、基礎地業層やテラス内部の構造の一端が明らかになりました。一方、テラス基底部の現状レベルを確認したところ、とくに南北の翼端部に向かう沈下が認められるものの、基底部自体は比較的健全な状態を保っていることがわかりました。これに対して、テラス東翼の南北辺や南翼付近では側壁や床材が多くの箇所で失われており、砂を主体とする内部盛土が流出している状況が確認されました。散乱石材の中からはテラス側壁中段に比定される部材がほとんど見つかっておらず、いつの時代かにこれらの石材が人為的に持ち去られた可能性が考えられます。こうした観察結果をもとに十字テラスの修復方法をAPSARA職員とともに検討し、修復の基本方針や今後の進め方について概ね合意に達しました。
これと並行して、同年8月までに部分修復を実施した中央塔東西入口部について(XVI-XVII次現地調査)、若干の追加的石材修復作業を行いました。さらにこの間、12月11日から13日にはシエムレアプ市内で国際調整委員会会合(ICC-Angkor/Sambor Prei Kuk)が開催され、中央塔入口部の修復完了と中央伽藍前十字テラスの調査内容について報告しました。
ルクソール(エジプト)岩窟墓における壁画断片の保存修復に係る研究


文化遺産国際協力センターでは、早稲田大学エジプト学研究所およびエジプト考古局と協力し、ルクソール西岸アル=コーカ地区に所在する岩窟墓に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究を実施しています。研究対象となる壁画は、平成25(2013)年に早稲田大学名誉教授近藤二郎氏によって発見されたコンスウエムヘブ墓に描かれたもので、制作年代は新王国時代の紀元前1200年頃と推定されています。
この壁画は、石灰岩の表面に塗られた土を主原料とする壁に描かれています。これまでの研究では表面に付着した汚れのクリーニング方法や、土壁が剥離・剥落した箇所に適した修復材料および技法の開発に取り組んできました。そして、令和6(2024)年11月20日~12月5日に実施した実地研究では、発掘作業中に発見された壁画断片を原位置に戻す処置方法について検討しました。その結果、壁画表面の保護方法や裏面の補強方法について良好な結果が得られ、土や粘土といった元来この壁画に使用されている材料と同等のものを使った原位置への再設置作業からも一定の成果を確認することができました。今後は、今回行った処置の効果や安定性に着目しながら経過観察を続けていきます。
この研究は、基礎研究から各種実験を重ね、実用性に配慮した処置方法を導き出すという過程を経て丁寧に進めてきました。その成果はルクソールにおいて他に類を見ないものであり、エジプト考古局や現地の専門家から非常に高い評価を受けています。今後も、新王国時代に数多く制作された壁画の保存修復に貢献する研究を推進し、さらなる成果を目指して活動を続けていきます。
ネパール・キルティプル市における歴史的民家の保存活用に向けた共同調査 その3


東京文化財研究所とキルティプル市は、歴史的民家保全のパイロットケーススタディとして、令和5(2023)年よりキルティプル旧市街の広場に面する大規模民家の保存に向けた共同調査を行ってきました。令和6(2024)年12月20日~27日にかけて職員1名を現地に派遣し、26日には対象物件の今後の保存活用に向けたワークショップ「キルティプルの歴史的集落の保全」を両者で共催しました。
午前の部では、NGO組織であるKathmandu Valley Preservation Trust (KVPT)のスタッフがネパールにおける歴史的民家の保存活用事例に関する講演を行ったほか、当研究所職員と現地専門家による調査チームのメンバーらがこれまでに実施した調査の成果を報告しました。これにはキルティプル市長、副市長、区長および対象建物の所有者家族らを中心に約50人が参加し、今後の建物の保存をめぐって、行政、所有者側の双方から積極的な意見が出されました。
また、午後の部には所有者家族を中心に16人が参加し、長年暮らしてきた建物にまつわる記憶、感情、未来など様々なトピックを話し合うブレインストーミングを行いました。
具体的な保存のあり方についての合意形成に至るまでにはまだ長い道のりが予想されますが、対象建物の価値を話し合いながら共有することで、その保存に向けた一歩を踏み出せたのではないかと思います。
一方、今回の派遣期間中には、キルティプルと同じく世界遺産暫定リストに登録されているコカナ集落も訪問しました。コカナ集落では、平成27(2015)年のゴルカ地震後に集落内の歴史的民家のほとんどが建て替えられてしまいましたが、集落中心部に19世紀頃の建築とされる歴史的民家が僅かに残っていました。この建物については、以前より私たちに地元住民有志から保存に関する支援の相談が寄せられていたのですが、昨夏の豪雨によって完全に倒壊してしまいました。幸いにも負傷者はなかったそうですが、コカナ集落を長年見守ってきた貴重な建物が失われたこと、そして必要なタイミングで支援を届けられなかったことが大変に惜しまれます。
イコモス2024年次総会/学術シンポジウムへの参加


令和6(2024)年11月13日~15日にかけて、ブラジル・オウロプレトで開催されたイコモスの2024年次総会/学術シンポジウムに参加しました。イコモス(ICOMOS = International Council on Monuments and Sites)とは、昭和39(1964)年に採択された「歴史的な建造物および場所の保存と修復のための国際憲章(べニス憲章)」のもとに昭和40(1965)年に設立された専門家や学識者等で組織される文化遺産保護の第三者機関(NGO)です。現在では全世界で10,000名以上の会員を擁しており、その活動は、ユネスコの諮問機関として世界文化遺産の価値評価等の審査を行うことでもよく知られています。
今年の学術シンポジウムは、ベニス憲章採択60周年の節目を捉え、「ベニス憲章の再検討:批判的な見地と今日的課題への挑戦(Revisiting the Venice Charter: Critical Perspectives and Contemporary Challenges)」がテーマに掲げられ、4本の基調講演と4回のラウンドテーブルを中心に、国際的な遺産保護の現状や将来展望について活発な議論が展開されました。その中では、気候変動や人口移動、地域間不平等などの様々な社会問題が関係するようになっている21世紀の遺産保護の潮流にあって、ベニス憲章は国際規範としての役割を十分に果たせなくなっているとの意見が主流を占める結果となり、最後に、ベニス憲章にかわる新しい国際憲章の起草を強く勧告する「オウロプレト文書(Ouro Preto Document)」が採択され、会議は幕を閉じました。
東京文化財研究所では、今後もこうした国際会議への積極的な参加を通じて、文化遺産保護に関する国際情報の収集と蓄積に努めていきます。
聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)での保存修復共同研究


文化遺産国際協力センターでは、トルコ共和国のカッパドキアに位置する聖ミカエル教会(ケシュリク修道院内)を対象に、現地専門機関や大学と協力しながら内壁に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究事業を進めています。今年の6月には、安全に研究活動を行うための環境整備について現地関係者と協議し、足場の設置や水道の整備など、多方面でご協力いただけることとなりました。(聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)保存修復共同研究に係る協議::https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2087011.html)
令和6(2024)年10月25日~11月9日にかけて現地を訪問し、ネヴシェヒル保存修復研究センターと共同で、剥離した漆喰層の補強や、壁画表面に付着した煤汚れの除去方法など、保存修復に関する実地研究を行いました。いずれについても有効的な方法を見出すことができ、その結果、これをもとにした保存修復計画を立案するに至りました。また、11月6日には、カッパドキア大学で開催された当該事業に係る国際シンポジウムに参加し、事業目的や進捗状況について報告しました。
この共同研究は、東京文化財研究所が中心となり、トルコの専門機関や大学に加え、欧州の専門家も参加する国際的なプロジェクトに成長しています。学術的な調査にとどまらず、文化財の保存や活用に携わる多くの人々に役立つような活動を目指していきます。
世界遺産研究協議会「世界遺産の柔らかい輪郭」の開催


文化遺産国際協力センターでは、平成28(2016)年度から世界遺産制度に関する国内向けの情報発信や意見交換を目的とした「世界遺産研究協議会」を開催しています。令和6(2024)年度は「世界遺産の柔らかい輪郭-バッファゾーンとワイダーセッティング-」と題し、資産の適切な保護を目的としてその外側に設定される周縁部に焦点を当てました。今回は、令和6(2024)年11月25日に東京文化財研究所で対面開催し、全国から地方公共団体の担当者ら84名が参加しました。
冒頭、文化遺産国際協力センター国際情報研究室長・金井健からの開催趣旨説明に続き、鈴木地平氏(文化庁)が「世界遺産の最新動向」と題して、今年7月にニューデリーで開催された第46回世界遺産委員会における議論や決議等について報告を行いました。その後、松田陽氏(東京大学)が「世界遺産の周縁における遺産概念の広がり」、文化遺産国際協力センターアソシエイトフェロー・松浦一之介が「イタリアのバッファゾーンとワイダーセッティング-景観保護法制に基づく遺産価値の広がり-」と題した講演を、続いて佐藤嘉広氏(岩手大学)が「『平泉』のバッファゾーンとワイダーセッティング」、木戸雅寿氏(滋賀県)が「彦根城世界遺産登録としてのバッファゾーンとワイダーセッティング」、正田実知彦氏(福岡県)が「HIAにおけるワイダーセッティングの捉え方-宗像・沖ノ島の事例とWHSMFの講義から-」と題した事例報告を行いました。その後、登壇者全員が世界遺産の価値(OUV)のあり方、世界遺産の保護を支える日本国内の制度的課題、さらには世界遺産制度の将来像について意見交換を行いました。
これらの講演、事例報告、意見交換をつうじて、近年導入されたワイダーセッティングは明確に定義することが難しいものの、有形・無形の二つの側面からアプローチが可能なことや保護と活用を両輪とする枠組みで捉えることが可能なことなどが浮き彫りになりました。また、このような資産周縁の管理そのものが現在の国内の法制度では非常に難しいという課題も再確認できました。こうしたテーマも含め、当研究所では引き続き文化遺産保護に関する国際的な制度研究に取り組んでいきたいと思います。
バーレーンおよびサウジアラビアの文化遺産保存状況に関する調査


文化遺産国際協力センターでは、文化遺産保存状況の調査ならびに関連協議のため、令和6(2024)年10月上旬にバーレーンとサウジアラビアへ調査団を派遣しました。
このほど、バーレーン文化古物局と東京文化財研究所、金沢大学古代文明・文化資源学研究所の三者は協力協定を締結し、新たに「バハレーン・アラビア湾岸考古学・文化遺産研究センター」を立ち上げ、同国の考古学研究と文化遺産保護事業を共同で進めていくことで合意しました。今回のバーレーン訪問のおもな目的は、年初の大雨による影響を受けた遺跡の状況調査です。カラートゥ・ル=バーレーン遺跡では、浸水による砦外壁の崩壊や、ナツメヤシ材を用いた天井梁の顕著な撓みが確認され、一時的に観光客の立ち入りが制限されていました。また、バルバル神殿遺跡では、最も神聖な場所であったと思われる井戸状遺構に砂が流入し、基礎の洗堀等によって複数の石材が傾斜・移動していました。このように、気候変動による年間降水量の増大に伴い、それによる文化遺産への影響が中東・湾岸地域では年々深刻化しています。数年前に採られた記録と現状を比較して劣化の進行を定量的にモニタリングすることを提案し、影響軽減の対策案について協議しました。
一方、サウジアラビアでは、令和6(2024)年9月に世界遺産に新規登録されたばかりのアル・ファウ遺跡をテーマとして首都リヤドで開催されたシンポジウムに出席し、続いて遺跡現地も見学しました。イスラーム以前の交易都市の遺構を中心としたアル・ファウ遺跡は、祭祀遺構や主に青銅器時代に築かれた多数の古墳も含む広大かつ多面的な遺跡ですが、発掘調査はまだ全体の数%しか完了していません。今回の訪問では文化遺産庁とも意見交換を行い、今後の公開に向けた史跡整備のなかで必要な支援ができるよう、協議を継続することを確認しました。
文化遺産の3Dデジタル・ドキュメンテーションとその活用に関するワークショップの開催



文化遺産国際協力センターは、令和6(2024)年度文化遺産国際協力拠点交流事業「デジタル技術を用いたバーレーンおよび湾岸諸国における文化遺産の記録・活用に関する拠点交流事業」を文化庁より受託しています。その一環として、令和6(2024)年10月21~30日にかけて「文化遺産の3Dデジタル・ドキュメンテーションとその活用に関するワークショップ」ならびに「日本の博物館、史跡におけるAR、VR、デジタル・コンテンツの活用に関するスタディー・ツアー」を実施しました。本研修は、前年度に同交流事業を受託してバーレーンにて実施した、3Dデジタル・ドキュメンテーションに関する基礎的な研修を発展的に継承したもので、今回はバーレーン、クウェート、サウジアラビア、オマーン、エジプトの5カ国から計7名の専門家を招聘して、応用的な技術講習・実習に加え、ドローンを航行させての遺跡や建物の広域測量の実習、さらに日本国内での活用事例を見学するスタディー・ツアーも行いました。
日本に招聘して研修を実施するねらいは、考古遺跡や歴史的建造物の記録における3Dデジタル・ドキュメンテーションの導入だけでなく、歴史教育や博物館展示、史跡公開などの場面での活用事例を学んでもらうことにあります。そこで、東京国立博物館と文化財活用センターが製作したデジタル日本美術年表をはじめとするデジタル・コンテンツや、産業技術総合研究所が進めるデジタルツイン事業の一つである3D DB Viewer、博物館資料の3Dデータを3Dモデルとして出力し“触れる展示資料”を提供している「路上博物館」などの事例を紹介しました。また、広島の平和記念公園で実施されているPeace Park Tour VRの体験、大塚オーミ陶業による文化財のレプリカ製作の現場見学、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の屋内外における遺構露出展示や復元街並みとAR・VRの融合事例の見学などを実施しました。
湾岸諸国の中でも、3Dデジタル・ドキュメンテーションを本格的に導入したい対象や場面が国毎に異なり、より専門的かつ集中的な研修と実用化が求められていることがうかがわれました。今後はそれらのニーズに個別に対応した、より実践的な協力のあり方も検討していきます。
旧機那サフラン酒製造本舗土蔵鏝絵の保存修復に係る調査研究(その2)


東京文化財研究所では、令和3(2021)年度より、「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」の一環として、スタッコ装飾に関する研究調査を行なっています。昨年度は、新潟県長岡市にある機那サフラン酒製造本舗土蔵にて、扉や軒下に配された鏝絵を対象に、埃などの付着物の除去や、剥離・剥落といった損傷箇所に対する適切な保存修復方法の確立を目的とする調査研究を長岡市から受託して行いました。これに続き、今年度は、彩色層や漆喰層の補強および補彩技法の確立を目的とする調査研究を、欧州の専門家にも協力いただきながら9月26日~10月16日にかけて行いました。
過去にこの鏝絵では、損傷箇所の補修に合成樹脂を含む材料が使われていましたが、夏は高温多湿で、冬季間には降雪量の多いことから経年による劣化が激しく、ときに補修材料が鏝絵を傷める原因になっていました。この現状を改善すべく耐久性に優れた無機修復材料の導入を検討し、補彩においては、制作から間もなく100年を迎える本鏝絵が持つ風格を現代に継承しつつ、鏝絵蔵全体の調和を生み出すよう配慮した彩色方法を採用しました。
一連の調査研究を通じて確立された鏝絵の保存修復方法は、文化財保存学の視点から実施された国内初の事例となります。この方法に基づく成果については、今後の経過観察を通じてその効果を検証する必要がありますが、現状の改善に繋がる大きな一歩を踏み出すことができたといえるでしょう。
スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その5)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
その活動の一環として、令和6(2024)年9月6日~7日にかけてイタリアのソンマ・ヴェスヴィアーナにあるローマ時代の遺跡を訪問しました。ヴェスヴィオ火山の北側に位置するこの遺跡では、平成14(2002)年以来、東京大学を中心とする発掘調査団によって調査が進められており、これまでに紀元前後に創建されたと考えられる遺構が発見されています。そして、様々な調査の結果、これらの建物が歴史書の中に記されたローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの別荘である可能性が高いことから関心が寄せられています。
今回の訪問では、遺構の中に残るスタッコ装飾に焦点を当て、使用されている材料や技法、彩色を対象にした事前調査を実施し、研究計画書を作成しました。この計画書の中では、スタッコ装飾や壁画が残る装飾門の現代的な保存修復方法について検討を深めることについても言及しており、遺跡の保存と活用を視野に入れています。
今後は、ギリシャ・ローマ時代の考古遺跡を対象にしたスタッコ装飾の技法・材料に係る比較調査を通じて構造や特性について理解を深めるとともに、それらの保存修復方法やサイトマネジメントのあり方について研究を続けていきます。
国際研修「紙の保存と修復」2024の開催


令和6年(2024)年8月26日~9月13日にかけて、国際研修「紙の保存と修復」を開催しました。本研修は平成4(1992)年よりICCROM(文化財保存修復研究国際センター)と東京文化財研究所が共催しています。参加者はこの3週間の研修で、紙文化財が日本においてどのように保存されてきたかを体系的に学びます。日本の修復技術やその文化的背景を伝えることで、さまざまな地域の文化財保存へと役立ててもらうことが、本研修の目的です。本年は60カ国165名の応募者のうちから、アルメニア、カナダ、ドイツ、イタリア、マルタ、メキシコ、オランダ、スイス、英国、アメリカ合衆国の各国、計10名の専門家を招きました。
研修は講義、実習、スタディツアーから成ります。講義では、日本の文化財保護制度や、和紙の特性、そして小麦でんぷん糊や刷毛といった伝統的な道具材料について扱いました。
実習では、国の選定保存技術「装潢修理技術」保持認定団体の技術者を講師に迎え、巻子を仕立てる作業を通じて、日本で行われている修復作業を学びました。
第2週目は中部・近畿地方を巡るスタディツアーを行いました。まず名古屋城を訪れ、伝統的な建物内における屏風や襖の使われ方を学びました。続いて美濃市では、国の重要無形文化財である本美濃紙の製造工程を見学しました。さらに京都市では、江戸時代から続く伝統的な修復工房を見学しました。
最終週には、巻子だけでなく、屏風や掛け軸の構造や取り扱い方法についても実習しました。
研修後のアンケート結果によれば、参加者の多くが、修復材料として和紙を使用する方法への理解をさらに深めたようです。各自が帰国後、本研修で得た技術や知識が周囲にも広まり、応用され、それによって諸外国の文化財がよりよく保護されていくことを願っています。