今泉雄作(1850~1931年)は、文部省や東京美術学校(現、東京藝術大学)、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)に勤務し、岡倉天心とともに近代日本の美術行政を支えてきた人物です。東京文化財研究所が所蔵する『記事珠』全38巻は、その今泉が、明治20(1887)年から、大正2(1913)年にかけ目にした美術工芸品について、略図を交えながら記録した手控えです。本サイトは、当研究所企画情報部のプロジェクト研究「文化財の資料学的研究」(平成23~27年度)の一環として、この『記事珠』第一巻の全頁デジタル画像と翻刻テキストを公開、さらに検索機能を設けて研究に資するようにしたものです。

about

staff

  • 翻刻:吉田千鶴子
  • 翻刻協力:大内曜・依田徹
  • 注釈:塩谷純・依田徹
  • 全冊子リスト作成:田中潤
  • サイト作成:小山田智寛


a-01_0001.jpg

无礙菴
第一
記事珠明治二十年四月十九日ヨリ十月十二日マデ

a-01_0002.jpg

双六ノ法 十九日田中登作氏ノ話
 骸子二ヲ筒ニ入ル
 互ニ塞(ママ・賽)ヲ振リ出シ其数ニヨリ石ヲ進メ甲ハ乙ノ面乙ハ
 甲ノ面ニ入ル事早キヲ勝トス 各二箇ノ塞(ママ・賽)ノ目ニヨリテ名
 アリトナリ
      〔双六盤上の図〕 乙坐/甲坐/甲ノ面/乙ノ面/十二格アリ


田中登作
文部省官吏。岐阜県出身。茨城県師範学校で教鞭をとった後、浦和中学校長を経て、明治一九年に文部省編集局に転任、『高等小学読本』の編集を担当する。佐野幹「文部省編『高等小学読本』(一八八八)「恩義ヲ知リタル罪人」の教材化に関する研究」(『読書科学』五七-一・二、二〇一五年)を参照。

a-01_0003.jpg

唐ノ節
 唐三朝志曰 節隋制也 黒漆竿上施円盤 周綴二紅綜一拂八層
 層黄繍龍袋籠之
      〔図〕 如此か
淵鑑類函巻一百八十八琴ノ部ニ
 後漢李尤琴銘曰 琴之在音、蕩滌邪心。雖有正性、其感
 亦深。存雅却鄭、浮侈是禁。條暢和正、楽而不淫。
 (正倉院御物琴ノ裏ニ此銘ヲ刻ス)
蒔繪ノ仕方
 繪図ヲ薄葉にうつし裏より地書漆ニて墨書を
 なそる
 地書漆方 吉野漆 梨地漆 等分 朱を交ぜて
  火にあふり乾きを遅くす
 次に檜木の箆にて蒔繪の地へつけれハ模様つく
 次に同し地書漆にて輪郭の中をぬり
 次に毛〔棒〕にて粉をはきかけ漆をうめる
 次に風呂に入れ一昼夜かわかす
 次に椿炭みかき (軽くむらをなほす) 引砥の粉にてみかき柔かき
 紙にてぬくひ如此す三四遍
 次に毛打とて上繪をかく 花の蕊 鳥の羽等書き
 粉ヲ蒔く よくはきかけ


唐ノ節
「節隋制也~」の引用は、『宋史』巻一四八

淵鑑類函
中国、清代の類書。康煕帝の勅を奉じて、張英、王士禎らが総裁として、一三二名に分担編集させ、一七一〇年完成。全四五〇巻。唐、宋、元、明の詩文のなかから、故事成語を集めて注釈したもの。内容は、天、歳時、地、帝王以下四四部門に分類し、さらに細目に分けてある。

正倉院御物琴
正倉院北倉に収められる金銀平文琴のこと。本体は桐製漆塗りで、全面には金と銀の薄板を文様に切り、漆地に塗り込め、表面を研ぎ出してその文様をあらわす平文の技法による装飾が施されている。内部に書かれた墨書銘から唐の開元二三年(七三五)、中国製であろうと考えられている。

a-01_0004.jpg

 乾きて後 吉野漆をはきかけ(四字ミセケチ)すり上引砥の粉にてミがく
上等の品ハ百日紅の炭にてみかき 角粉を指の腹につけて
ミかき木綿の切にてぬくふ
 高蒔繪の方(漆あげ 錆あけ)
 錆あけハ前の輪格の上を今一遍すじかきをする 乾きて後
 せしめ漆へ常の砥の粉をませたるものニて肉をあける 
 乾きてのち厚朴炭木賊にて高低ヲ出へし ○吉野漆を
 摺り高持(?)漆といふ(呂色漆を等分に分け一ツヲ
 陶椀ニ入れ火に煮る一分(二字ミセケチ)次に煮さる一分と雑
 せて地錆の上をぬる 次ニ厚朴墨にてみかき其上
 地書漆をぬり 粉をはきかけ 吉野ニてすり
 かわかす
 漆あけハ下蒔繪ニて吉野漆にせしめ漆を加へ
 紅からを合せたるものにて下繪をぬり 厚朴灰
 粉を毛〔棒?〕て拂かけ これを風呂に入れ乾
 かす(是迠下蒔) 次に吉野に樟脳をませで
 すり 厚朴炭にてむらならし 其上に高蒔漆
 をかけ 粉を蒔く前の如し 尤上等程手順
 をたび〳〵くりかへす也
 漆ハ皆吉野紙(シブ引ノ)にてこす也 地書漆ハ朱を
 合せて後にこす
青貝ハ厚きハ地錆より先につけ 薄きハ後にてよし

a-01_0005.jpg

 貝の上を一面漆にてぬり込 砥石にて磨き出す也 
 金貝ハ下地の繪を描上け 花の蕊を粘漆にて
 かき 金銀の金貝を截て張付け 繪よりあまりしハ
 小刀にて切り 端りを漆にて引き粉をまく 切金ハ
 金貝のこまかきもの也
 地蒔ハ繪漆にてぬり梨子粉を竹の管に入れてふる也 
 粉の麁細により竹管の先の作に目ノ大小あるべし 
平目ハ一枚つゝ筆の先金貝箆の先へ唾を
 つけ地漆へならへる也
  金粉類
 薄朱粉 上之粉 焼金極微塵 焼金
 ミジン 焼金花子 焼金花子 焼金ミジン常 
 焼金常 青粉 小判極微塵 小判ミジン
 小判花子 小判微塵常 小判常 錫類 
 赤銅粉 銀粉 銀極ミシン 銀ミジン 銀花子 
 銀ミジン常 銀常 焼金梨子地小三 
 同常三 同大三 金銀平目小三 同常三 
 同大三

a-01_0006.jpg

金貝 金銀青 螺鈿 青貝 紅貝 球琉貝(?)也
    道具
子ヂ毛 ウノ毛 狸毛 毛ボー 粉マキ 控(?)かき 
はけ こわきはけ 小刀 粉管 漆へら 
コクソベラ 金貝ベラ 切貝箱 竹板 トノコ坊 
粉箱 爪バン 筆洗箱
    漆
セシメ ヨシノ ロイロ ナシヂ 下マキ タミ 
地カキ 高蒔
                         廿一日記

採菊東籬下攸〔悠〕然看南山
  ・・・・ワスレタリ
    〔図〕
         淡路丁書画屋

a-01_0007.jpg

年中行事 
叙位の巻 
調進ノ躰
   〔図〕
同 
大饗ノマキ 
道具 〔図〕
 はし敷 〔図〕
大饗  
舟ヲ捧ス童子の頭 ヒンヅラノ遺風 〔図〕アサキクマ 白 ムラサキ
弓ヲ持チシ童子 キモノ 〔紋様図〕   銀ノ上 タン上 ハカマ


年中行事
年中行事絵巻。宮廷主要の年中行事を絵画化したもの。朝儀の再興に情熱をかけた後白河天皇の要望により、一一六五年頃制作された。原本は絵を常盤光長が描き、詞書を藤原教長が清書の筆を執ったものだったが、近世初期に内裏の炎上とともに焼失した。住吉如慶・具慶父子の写による十六巻をはじめ幾種かの模本が残る。
『記事珠』第一巻中の写しは、同絵巻の巻十および巻五から抜写されたものである。

a-01_0008.jpg

仁寿殿屏風〔図〕 地コン紋白 
恭礼門ノガク〔図〕 外縁緑ノ上紋朱 中縁白雷紋スミ 白・緑・朱ニテククル
紫シンデン小ノ戸ノ手水〔図〕 内宴公卿ノダイバン〔図〕 ■鎮ヨコ一 前五 綾綺殿ノ額〔図〕 白朱ウンケン 中フチ 黒一ツオキ 白ライモンスミ
舞臺シキモノ黄ノ上タン〔図〕 〔伎女図〕 ヨウラク朱ズミ 〔紋様図〕 花白ニ朱ウンケン 

a-01_0009.jpg

綾綺殿ガクヤノ壁代(二字ミセケチ)幔〔図〕 外ノ幔〔図〕スミノグ ヲヽト 白 シト オフト 白 白 カラエアリ
茗陶録 髹飾録 樋口趨古よりかりるべし


樋口趨古
樋口光義。?~一八八八。徳川幕府の医官を務める。古器旧物を好み、とくに和漢の古印を収集、研究し於之天乃舎と称す。帝室博物館の雇員も務めた。明治二一年没。山田孝雄『典籍説稿』(西東書房、一九三四年)九五・九六頁を参照。

髹飾録
中国、明の黄成が著した漆工芸の専門書。日本では木村兼葭堂が写本を所蔵し、昌平坂学問所、浅草文庫、帝国博物館(東京国立博物館)へと伝えられた。今泉雄作もこの兼葭堂本を写し(写本は国立国会図書館蔵)、明治三二年より『国華』一二三~一五二号に「髹飾録箋解」を連載している。
参考文献:佐藤武敏「「髹飾録」について―そのテキストと注釈を中心に」(『MUSEUM』四五二、昭和六三年一一月)

a-01_0010.jpg

 長サ真中ニて九寸九分五り 端ニテ九寸六分八り

 文選等用之ノ下ニ         ス
  朱ニて 未 サ ヲ 子 マ ミ ■ タ ス  上下タリ
  墨ニて 甲 七 第 ネ 丁 ア 爪 太 寸  上下タ
 端に切孔 一二三四 内糸を返す 外 第二ノ内 イロハニ
大和とち 〔図〕二帙の外〔図〕 ロヲ是ヨリ外ニ出ス、イニ出ス、ハヲ出ス、ニヲ出ス
         ロイニハ 二三ノ順ニテ結ブ、


大和とち
大和綴。 装丁法の一つ。用紙を数枚ないし数十枚重ね、紙縒で中綴じをして留める。ついで前後に表紙を添え、右端の上と下二か所に二つずつ綴じ穴をあけて、装飾的な組紐または平紐、あるいは数本の太白(太い絹糸)で結び綴じしたものである。この装丁法はすでに平安末期から行われていた。

a-01_0011.jpg

四月廿四日 龍池会所見 以下光琳 乾山合作ノ角皿まで
 弘法大師 前田夏繁蔵 〔図〕
 光弘 田澤ノ蔵 〔図〕丹 朱 白ロク


四月廿四日 龍池会所見
龍池会は明治期に創設された美術団体。明治一一年に佐野常民を会頭として発足。伝統美術の振興を目的として研究会を開催。国内では観古美術会、パリでは日本美術縦覧会を開催した。明治二〇年に有栖川熾仁親王を総裁に迎えて日本美術協会と改称、現在に至る。
同会の機関誌である『龍池会報告』第二四号(明治二〇年五月)には、明治二〇年四月二四日に上野公園内華族会館で開かれた総会についての記事があり、『記事珠』に記された美術品を含む出陳の次第が報告されている。

前田夏繁
前田香雪。 一八四一~一九一六。小説家、美術鑑定家。夏繁は本名。通称は健次郎。天保一二年江戸に生まれる。父前田夏蔭のあとをうけて慶応元年「蝦夷志料」を完成させた。書画鑑識にすぐれ、龍池会、東京彫工会、日本漆工会などの創設につくす。大正五年没。

光弘
土佐光弘。室町時代の画家。土佐行秀(一説に土佐行広)の子。永享二年(一四三〇)後花園天皇の大嘗会に行秀が悠紀屏風を、光弘が主基屏風を描く。嘉吉三年(一四四三)絵所預となる。中務丞、土佐権守。

田澤
田澤静雲。中村作次郎『好古堂一家言』(大正八年)によれば、越中富山の生まれで、もとは売薬の行商をして諸国を廻ったが、上京して古筆了仲の家僕として鑑定を学び、書画商となったという。

a-01_0012.jpg

 有重筆真言八祖像
 龍猛ノ瓶臺 〔図〕 隆信ノ地蔵ノ衣 〔図〕ゴフン 緑ノウンケン 
                          花ノグンノウンゲン グン
 実朝ノ十六羅カン 芹川栄之助蔵 
 文晁ノ模本に欠タル処原本之補ヒアリ 下谷高厳寺の旧什也
  禅林寺奉納建保甲戌二月佛日
  一筆三拝源實朝〔花押〕
 牧渓〔谿。以下同〕 芹川栄之助蔵 〔図〕
 表装惣印金見事

a-01_0013.jpg

 〔雪村筆の図〕下條正雄の蔵カ
 (一)朝鮮製陶尊銘 〔朝鮮文字筆記〕コレハ朝鮮の小〔哥〕なる
   べしとか云へり
 (二)       〔同〕


下條正雄
下條桂谷。一八四三~一九二〇。日本画家。天保一三年、羽前国米沢に生まれる。正雄は本名。米沢藩の絵師目賀田雲川に師事し、狩野派を学ぶ。明治八年狩野探美らと古書画鑑賞会を興し、一二年結成された龍池会に参加。旧派の指導者として重きをなし、四〇年の文展開設に際しては新派に対抗して正派同志会を結成した。大正九年没。

朝鮮製陶尊銘
現在、東京国立博物館が所蔵する「白磁象嵌諺文入筆筒」のこと。『龍池会報告』第二四号(明治二〇年五月)の出陳記事には「朝鮮製古文字入花瓶」とある。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095126

a-01_0014.jpg

 (三)       〔同〕    〔寸法入りの図〕七寸五分位 四寸位
 光琳画乾山作角皿 博物館 〔図:錆絵観鴎図角皿〕


光琳画乾山作角皿 博物館
現在、東京国立博物館に所蔵される「銹絵観鴎図角皿」は尾形光琳・乾山兄弟の合作による角皿のひとつ。鴎を眺める中国の詩人黄山谷を光琳が描き、裏面に作陶した乾山が銘文を記している。この角皿の題材であり、今泉も書きとめている「江南野水碧於天中有白鴎閑似我」は、黄山谷「演雅」からの一句である。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0031496

a-01_0015.jpg

  裏に  寂明光琳畫
     大日本國陶
     者雍州乾山
     陶隠深省製
     于所屋尚古斎
  江南野水碧於天中有白鷗
  間似我
   山谷句

a-01_0016.jpg

越後蒲原郡伊夜彦社古傳

〔神代文字〕
 右神代文字推古天皇端正元己卯年所納於
当社也旹文明九丁酉歳 高橋兼久
〔文字写し〕


越後蒲原郡伊夜彦社古傳
江戸後期の国学者伴信友の著書『仮字本末』(嘉永三年)の附録「神代字弁」で紹介される神代文字の甲本および丁本にあたる文字が記される。甲本の奥書である「右神代文字~旹文明九丁酉歳 高橋兼久」も同書に収められ、伊夜比古(彦)神社の神主高橋兼久が写し置いたものとある。

a-01_0017.jpg

浅草区西鳥越丁五番地 北爪有郷 千春門人
小石川区指ケ谷町七拾五番地 内田義脩 小嶋五一門人
本郷区菊坂丁五拾番地 宮川大三 新聞人
麻布区芝森元町二丁目四番地 松岡明義 古実家
小石川区久堅丁十八番地 河部弘蔵
北豊嶋郡坂本村三十二番地 木村正翁


小嶋五一
小島成斎。一七九六~一八六二。書家、儒者。寛政八年に生まれる。五一は通称。備後福山藩士。狩谷棭斎、松崎慊堂に師事し、古法帖や金石文を研究。文久二年没。

千春
高島千春。一七八〇~一八五九。絵師。安永九年に生まれる。京都錦小路高倉西に住し、文政(一八一八~三〇)頃、江戸本所に移り住む。有職故実に精しく、古画を多く臨写した。安政六年没。

松岡明義
一八二六~九〇。有職故実家。文政九年に生まれる。通称は重三郎、太郎。祖父辰方、父行義ともに有職学をもって久留米藩(福岡県)有馬家に仕えた。明義も家学を継承し有馬家江戸屋敷に仕える。日野家、竹屋家、裏松家に学ぶ。江戸幕府礼法師範も務めた。維新後は明治三年神祇権大史に任じられる。その後、式部寮、文部省などを経て、女子師範学校、皇典講究所の教授を務め、東京大学御用掛となる。一三年から『古事類苑』の編纂に従った。著作に『差貫考』『坐具類聚』『申酉雑記』がある。明治二三年没。

a-01_0018.jpg

朝鮮文字廿五字 〔朝鮮文字〕
母音十一 
子音十四
単母音
母音 〔母音付き朝鮮文字〕

a-01_0019.jpg

五月二日 蓮ノ芽出し 開キ エンシズミ 巻葉 外嫩緑
       内エンジズミ 御隠殿の池ニて写 〔写生図〕
       松源のうち 石垣より生へたる河柳 〔写生図〕


松源
上野山下にあった料理屋。上野界隈第一の暖簾と称される。明治一九年四月には第二回鑑画会大会の会場となった。森鴎外の小説「雁」にも登場する。明治三五年一二月に廃業。

a-01_0020.jpg

〔図〕
五月三日 博物館ニて写 〔馬の埴輪の図〕 鈴轡 馬鐸
      武蔵国埼玉郡上中条村平民江守
      定之丞所有地より掘出


武蔵国埼玉郡上中条村平民江守定之丞所有地より掘出
現在、東京国立博物館が所蔵する馬の埴輪(重要文化財)。「常光院三十八世観田僧正手記」(『埼玉史談』二〇―三参照)によれば、明治九年二月二日、武蔵国埼玉郡第十五区上中条村字日向嶋(現、埼玉県熊谷市上中条)、江守定之丞の耕地より出土したとある。
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016893

to page top