研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


公開研究会「美術雑誌の情報共有に向けて」の開催

公開研究会「美術雑誌の情報共有に向けて」ディスカッションの様子

 わたしたちが展覧会や美術館についての情報源として利用するメディアのひとつに、美術雑誌があります。今でこそテレビやインターネットを利用する機会が圧倒的に増えていますが、それらが普及する以前は、図版を多用しながら定期に刊行される美術雑誌が、美術関係者や愛好家にとって視覚的かつ即時的な情報発信/供給源でした。日本の近代美術を研究する上でも、当時の美術をめぐる動向をつぶさに伝える資料として、雑誌は重要な位置を占めています。当研究所ではそうした明治時代以降の美術雑誌を数多く架蔵していることもあり、3月16日に「美術雑誌の情報共有に向けて」と題した公開研究会を開催、その情報の整理・公開・共有にあり方について検討する機会を設けました。
この研究会では、日本近代美術を専門とする三名の研究者が下記のタイトルで発表を行ないました。

○塩谷純(東京文化財研究所)「東京文化財研究所の美術雑誌―その収集と公開の歩み」
○大谷省吾(東京国立近代美術館)「『日刊美術通信』から見えてくる、もうひとつの昭和10年代アートシーン」
○森仁史(金沢美術工芸大学)「「美術」雑誌とは何か―その難しさと価値をめぐって」

 塩谷は、当研究所の前身である美術研究所で昭和7(1932)年より開始された明治大正美術史編纂事業や、同11年創刊の『日本美術年鑑』刊行事業との関連から、当研究所での美術雑誌収集の歴史をひもときました。続く大谷氏の発表は、昭和10~18年に刊行された美術業界紙『日刊美術通信』(同16年より『美術文化新聞』と改題)について、帝国美術院改組や公募団体の内幕などに関する掲載記事を紹介しながら、その希少性と重要性を指摘する内容でした。そして森氏の発表では、近代の美術雑誌を総覧した上で、そこに西欧からもたらされた“美術”そして“雑誌”という概念と、近代以前の日本の芸術的領域との相克を見出そうとする俯瞰的な視点が掲げられました。
 研究発表の後、橘川英規(東京文化財研究所)の司会で発表者の3名が登壇し、聴講者から寄せられた発表内容に関する質問、美術雑誌の情報共有のあり方への希望を切り口として、活発なディスカッションが行なわれました。また橘川より、当研究所の取り組みとして、英国セインズベリー日本藝術研究所との共同事業による欧文雑誌中の日本美術関係文献のデータベース化、米国ゲッティ研究所が運営するGetty Research Portalへの明治期『みづゑ』メタデータ提供、国立情報学研究所JAIROへの『美術研究』『日本美術年鑑』搭載などが紹介され、美術雑誌の国際的な情報共有化も着実に進んでいることが示されました。
 研究会には、美術館や大学、出版社等でアーカイブの業務に携わる80名の方々がご参加下さり、貴重な情報交換の場となりました。また今回の森仁史氏の発表に関連して、明治期~昭和戦前期までの美術雑誌の情報を集成した、同氏監修による『日本美術雑誌総覧1867-1945(仮題)』が近く東京美術より刊行される予定です。


今泉省彦旧蔵資料の受入

今泉省彦旧蔵資料の一部

 画家であり、「美学校」校長も勤めた今泉省彦(1931-2010)の旧蔵資料をご遺族から3月31日付でご寄贈いただきました。今泉は日本大学芸術学部美術科在学中より前衛的な美術運動に関わり、絵画制作のかたわら評論執筆をはじめ、1958年には雑誌『形象』の創刊に携わり、1969年創設の「美学校」の運営を通じて前衛美術家たちと幅広く最晩年まで交流、その活動を支えた人物です。今回ご寄贈いただいた資料群は、1950年代から2000年代に今泉が生成した日記、写真、書籍・雑誌類、書類、あるいは今泉に届けられた書簡からなり、書架延長6mほどの分量です。「美学校」で教鞭をとった松澤宥、中村宏、中西夏之、赤瀬川原平、菊畑茂久馬らに関するものも多く含まれ、また今泉が〈社会主義国におけるユニバーシアード〉といわれる世界青年学生平和友好祭において展覧会実行委員(1955年、1957年)を務めていたときのソ連側との連絡書簡等も遺されており、1950年代後半における非アメリカ、非西ヨーロッパとの関連を検証できる資料群でもあり、美術史にとどまらず、冷戦期の文化史、社会史研究の文脈においても重要な資料です。当研究所情報資料部では、これまで今泉旧宅を訪問し、その資料の調査を行ってまいりましたが、ご遺族の厚意でご寄贈いただくことになりました。これらの資料は、資料保全処置、資料検索のためのデータ整理を行ったのち、当研究所資料閲覧室にて研究資料として閲覧提供させていただく予定です。


タイ文化省代表団の来訪

タイ文化省代表団との意見交換
本研究所実演記録室の視察

 平成30(2018)年3月13日に、タイ文化省(Ministry of Culture)からPradit Posew文化振興局副局長を団長とする5名の代表団が東京文化財研究所を訪問し、本研究所の研究員と意見交換を行いました。
 タイは平成28(2016)年にユネスコの無形文化遺産の保護に関する条約を批准し、現在、国内の無形文化遺産のインベントリ作成を推し進めるとともに、平成29(2017)年には「Khon(タイの伝統的な仮面舞踏劇)」と「Nuad Thai(伝統的なタイのマッサージ)」の2件を「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載するための申請をしたとのことです。このうち前者の遺産は、平成30(2018)年11月26日~12月1日にモーリシャスで開催される、ユネスコの無形文化遺産の保護に関する第13回政府間委員会で審査される予定です。
 今回の代表団の来訪の目的は、無形文化財・無形文化遺産の保存と活用について長年の経験と蓄積のある日本の現状を視察し、専門家と意見交換をすることでした。本研究所における意見交換では、両国の専門家がそれぞれ自国の無形文化遺産の現状を報告し、質疑応答とともに、両国に共通する課題についての議論もおこなわれました。その中でも、無形文化遺産をいかに次の世代に伝承していくかは、日本とタイのいずれにおいても重要な課題であるという認識で一致しました。
 日本では近代化の中で、これまでに多くの伝統的な文化が姿を消していきました。タイは現在、急速に経済が成長し、開発も進展する一方で、伝統的な文化が衰退・消滅するおそれもはらんでおり、経済発展と文化の保護をいかに両立するかが重要な課題です。そうしたとき、日本の事例を成功例だけでなく失敗例もあわせて参照してもらうことで、無形文化遺産の伝承にとってより良い道を探ることができるのではないかと思いました


東日本大震災から7年を経て

内覧会の様子
展示の様子

 東日本大震災という未曽有の災害から、7年という月日が経過しました。改めまして犠牲になられた方々に哀悼の意を表するとともに、今なお復興にご尽力されております皆様に心から敬意を表します。今回、岩手県立博物館で3月から5月に開催された津波被災資料を残す価値を総括的に伝える展覧会の機会に、様々な被災資料の処置に関わった各機関の専門家と情報交換を行いました。
 これまでに修復を終えた被災資料が2つの展覧会「明日につなぐ気仙のたからもの-津波で被災した陸前高田資料を中心に-」(平成29年3月3日~3月28日)、「未来への約束―いま語りはじめた気仙のたからもの―」(平成30年4月3日~5月6日)で紹介されました。展覧会開会式では、出席の叶わなかった本研究所亀井伸雄所長代理として山梨絵梨子副所長が来賓挨拶を行い、内覧会では、佐野千絵保存科学研究センター長が保存科学研究センターで行っている被災紙資料の安定化処理に関する研究について解説しました。修復を終えた資料だけでなく、処置前後の状況や処置方法もまとめて展示されており、意欲的な取り組みだと感じました。
 7年間の活動で全46万点の被災資料の内22万点の修復が完了したものの、まだ24万点の資料が処置される日を待っているとのことです。津波被災した資料は膨大な点数であることに加え、保管中の異臭の発生など多くの問題を抱えています。今後とも科学的な面からの研究を通じ、被災資料の修復に貢献していきたいと考えています。


日本航空協会所有の三式戦闘機「飛燕」の修理について

飛燕全景。右主翼上面の国籍マーク(日の丸)は投射された赤色光で再現されています。
胴体右側の国籍マーク(日の丸)はプロジェクションマッピングで2分間隔で再現されています。
胴体左側の国籍マーク(日の丸)の痕跡。戦後にオーバーサイズの日の丸が塗られたため、二重になっています。
スーパーチャージャーの空気取り入れ口の下にある機体番号「6117」の痕跡。

 (一財)日本航空協会(以下、航空協会)が所有する三式戦闘機「飛燕」二型は、1944年に川崎航空機(株)岐阜工場で製造され、1945年の終戦時には東京の福生飛行場の陸軍航空審査部に配備されていました。終戦後、我が国の航空機がほぼ全て廃棄処分される中で、理由は不明ですが処分を免れ、1953年まで米軍横田基地に展示されていました。現在、飛燕としては博物館に展示されている世界で唯一の機体です(ニューギニアから回収された残骸などから飛燕の復元を企画している例は複数あります)。本機は1953年に米軍から航空協会に無償譲渡され、1986年に知覧特攻平和会館(南九州市)に展示されるまで日本各地で展示されましたが、その間、部品の紛失や機体の損傷などが起こり、その応急的処置が逐次なされる一方、1965年からはオリジナルとは全く異なる塗装・マーキングが施されました。
 近年、航空協会は保存科学研究センターとの共同研究を通して飛燕を文化財として新たに認識するようになっていたところ、2016年が川崎重工業(株)(以下、KHI)の創立120周年に当たったことから、同社の記念事業として飛燕の修理に全面的協力が得られることになり、2015年から同社岐阜工場で約1年を掛けて修理が行われました。
 修理に先立って、航空協会とKHIの協議により飛燕を文化財として修理することが決定され、個々の修理箇所についてはKHIから修理の仕方について提案し、航空協会がそれを確認・了承するという手順で進められました。KHIによる修理は、機体表面の塗装の剥離から始まり、戦後に付け加えられた異品の取外し、機首のエンジン上部のパネル、操縦席の計器板など新規のレプリカ部品の作成など、広範囲なものとなりました。
 機体表面の塗装を剥離した結果、製造時にドリル工具の刃が滑った痕や、国籍マークおよび注意書などの痕跡が各部にあることが確認され、機体番号(製造番号)が「6117」であることも新たに確認されました。国籍マークの再塗装についてはKHIから提案がありましたが、新たな塗装は機体表面に影響を与える可能性があること、そして発見された痕跡そのものを見せることに価値があることを考慮して、新たな塗装は行わないことになりました。2016年秋に、神戸ポートターミナルホール(神戸市)で約1カ月展示された際には、KHIの要望によりラッピングフィルムで国籍マークなどが再現されましたが、「かかみがはら航空宇宙科学博物館」(各務原市)に搬入後に剥がされました。同館は2016年9月からリニューアルのため閉館していましたが、同年11月から2017年11月まで収蔵庫で分解された状態で展示されました。
 KHIによる修理作業の終了後、航空協会は保存科学研究センターの監修のもとに飛燕の調査を行い、劣化が進んでいたゴム部品を除去する一方、操縦翼面(方向舵、昇降舵、補助翼)の羽布の張り替えを実施しました。操縦翼面は、同時期の多くの航空機と同様に、金属骨格に羽布が張られていますが、1986年に張り替えられた際には、羽布をリブ(小骨)に縫い付ける作業を省略したものとなっており、外観も違ったものになっていました。そのため、保存科学研究センターでは当時の羽布の材質調査などを実施し、2017年秋から本年2月に掛けて行われた羽布の張り替えに根拠となるデータを提供しました。また、機体の再組立前後で記録撮影も行いました。
 本年3月24日、同館が「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」としてリニューアルオープンすると飛燕は目玉展示の一つになりました。同館によれば、国籍マークが塗装されていないことは見学者の多くから好意的に受け止められており、航空機を文化財として扱うことが社会に浸透しつつあることが感じられます。


アンコール・タネイ遺跡保存整備のための現地調査III

出土したテラス状構造物
測量調査の様子

 東京文化財研究所は、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ遺跡保存整備計画策定に技術協力しています。平成30(2018)年3月8日~22日の間、同遺跡において今年度3回目となる考古学調査および周辺の測量調査を実施しました。
 今回の発掘調査は、平成29(2017)年12月の第二次調査において出土した、東バライ貯水池土手上のテラス状構造物のさらなる解明を主目的として、APSARA機構のスタッフと共同で行いました。
 調査の結果、この構造物は全体が十字形を呈するようにラテライトの切り石が敷かれており、東西13.8m、南北11.9mの規模を持つことが明らかとなりました。さらに、付近からは多くの瓦が出土し、石敷き上には柱穴と思われる多くの穴や窪みが確認されたことから、このテラス状構造物上にはかつて木造建造物が存在したと推測されます。テラス状構造物は寺院の東西軸上に位置していることから、今後は両者の関係を明らかにするべく調査を続けていく予定です。
 同時に、遺跡周辺において、トータルステーションを用いた測量調査も行いました。今回収集したデータを基に、詳細な地形図を目下作成中で、本遺跡の保存整備への有効な活用が期待されます。また、この測量調査に際しては、APSARA機構スタッフへの指導・技術移転も同時に行いました。学術的な調査とともに、このような技術的な支援も継続していきます。


グラッシ博物館・民俗学館(ドイツ)における日本絵画調査と協議

作品の保存修復処置に関する協議
作品調査

 海外の博物館施設に所蔵の日本美術作品は、日本文化を紹介する大切な役割を担っています。ところが、海外における日本美術作品の保存修復専門家の不足から、それらの作品に対する適切な保存修復処置を施せずに、展示活用が困難な作品が少なくありません。こうした海外に所在の日本美術作品の保存と活用を目的として、東京文化財研究所では在外日本古美術品保存修復協力事業を行っています。
 平成30年(2018)年3月26日にドイツのライプツィヒにあるグラッシ博物館・民俗学館を訪問し、修復候補作品の決定と具体的な保存修復計画の策定を目的として、絵画作品の調査を実施しました。過去に同館で行ったコレクションの概要調査の結果を基に、事前に選出した掛軸と屏風の計3件(4点)を対象として、日本から同行した装こう修理技術分野の保存修復専門家と共に、作品の構造やその損傷状態について詳細に記録しました。調査後は、同館の学芸員や保存修復専門家等を含めて現在の作品の状態について概括し、本協力事業の説明を交えながら、作品の今後の保存修復処置について協議を行いました。また、両国の絵画の保存修復技術に関して活発な議論がなされ、それら技術の民俗学的な活用を目指して、同館における展示等の協力の可能性について検討、意見を交わしました。


ブータンにおける「伝統民家保存に関するワークショップ」開催

ワークショップの様子
保存対象として提案された古民家(ハー県所在)

 ブータン西部地域の民家は、型枠の中で土を突き固めた版築造という工法で建てられ、緑豊かな同国の美しい文化的景観の重要な要素にもなっています。しかし、寺院や城郭といった宗教や行政関係の建造物のように文化遺産として保護されることもなく、自然災害や近代化など様々な要因から貴重な古民家が失われていく状況が加速しつつあります。
 東京文化財研究所では、2012(平成24)年よりブータン内務文化省文化局遺産保存課と共同で版築造建造物を対象とする建築学的な研究調査を継続してきました。その中で、文化省側もブータン古民家が有する文化遺産的価値とともに、保存の緊急性についても改めて認識を強めるに至りました。そこで、2018(平成30)年3月13日に両国専門家、建設省や地方行政の担当者、古民家所有者等も交えたワークショップをティンプー市内の文化局庁舎にて開催しました。民家建築の編年や変遷過程といった調査成果や、ブータンにおける文化遺産保護の法的枠組み、日本における伝統民家保存の状況等に関して情報共有するとともに、保存対象とすべき民家建築の具体的物件や今後の課題等について意見を交換しました。開催後まもなく重要物件の保存活用に向けた動きが聞かれるなどの効果が現れ始めており、停滞している文化遺産法制度の整備にも寄与することが大いに期待されます。


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