研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


東京文化財研究所年史資料の目録公開

「東京文化財研究所年史資料」のうち、シリーズ7関係団体「美術懇話会」
「東京文化財研究所年史資料」全体像

 文化財アーカイブズ研究室では、プロジェクト「専門的アーカイブと総合的レファレンスの拡充」の成果として、「東京文化財研究所年史資料」の情報をウェブサイトに公開しました。
 平成20(2008)年〜平成22(2010)年に『東京文化財研究所七十五年史』を刊行しています。「年史資料」は、その編纂のために収集・作成された文書類を中心とする資料群です。当研究所の母体である「美術研究所」が設立された昭和5(1930)年ころからの事務文書、所属職員が収集した文書、さらには他機関が所蔵する当研究所の関係文書の複製などで構成され、『七十五年史』刊行後も所内で保管されてきました。この資料群は、当研究所の歴史を跡づけるだけでなく、近代日本の文化行政や外交関係の研究にも有用であることから、その目録を公開し、当研究所資料閲覧室を介して、外部の研究者も活用できるようにするべく準備を進めてきました。
 目録作成については、文化財情報資料部研究補佐員の田村彩子が取り組み、既報のとおり、令和4年度第8回文化財情報資料部研究会「年史編纂資料の研究活用に向けた記述編成―東文研史資料を例として」にて、その報告を行いました。また、当時の編集委員で旧職員の山梨絵美子氏、中村節子氏、井上さやか氏、中村明子氏らから、この資料群に関するさまざまな情報をご提供いただき、この度の目録公開に至りました。
 当研究所が長年にわたって蓄積してきた資料群を、文化財に関する研究課題の解決の糸口として、また幅広い分野の新たな研究を創出する契機として、ご活用いただければ幸いです。

※資料閲覧室利用案内
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/library.html
アーカイブズ(文書)情報は、このページの下方に掲載されています。

※東京文化財研究所年史資料
https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/pdf/archives_TOBUNKEN_NENSHI_0.0_20230331.pdf

ウェブコンテンツ『黒田記念館 黒田清輝油彩画 光学調査』公開

ウェブコンテンツ『黒田記念館 黒田清輝油彩画 光学調査』トップページ
《湖畔》カラー写真
《湖畔》カラー写真(左)と近赤外写真(右)

 黒田清輝(1866~1924)は、日本の近代洋画史において画家、教育者などとして大きな足跡を残しました。帝国美術院附属美術研究所は、黒田の遺言執行の一環で美術の研究を行う機関として設立され、同研究所の後身である東京文化財研究所は現在に至るまで、黒田の絵画作品や彼の活動に関する調査研究をその活動の一つとしています。
 令和3(2021)年10月から12月にかけて、黒田清輝に関する調査研究の一環として、東京文化財研究所は黒田が描いた油彩画のうち黒田記念館に収蔵される油彩画148点を対象とした光学調査を行いました。光学調査では、色や形、質感を高解像度で記録するカラー写真を撮影したほか、近赤外線の反射や吸収の違いを記録する近赤外写真、特定の波長の光を画面に照射した際に物質が発する蛍光を記録する蛍光写真を撮影し、肉眼では読み取ることのできない情報を取得しました。また、黒田の代表作である《湖畔》、《舞妓》、《読書》、《智・感・情》、及び黒田が使っていたパレットについて、絵画材料に含まれる元素を判別するための蛍光X線分析を行い、令和5(2023)年3月31日、これらの写真や分析結果をウェブコンテンツ『黒田記念館 黒田清輝油彩画 光学調査』(https://www.tobunken.go.jp/
kuroda/image_archives/main/
)として公開しました。
 《湖畔》を例にとれば、モデルの眉の毛の1本1本まで描いた描線、着物の縞模様を表現した白い絵具の凹凸や、下書きの線からモデルが持つ団扇の大きさを何度か変更していることなどがわかります。現在、上記4作品を中心としたウェブコンテンツのほか、黒田記念館収蔵の油彩画148点すべてのカラー写真をウェブ公開していますので、鑑賞や調査研究にお役立ていただけましたら幸いです。

漆工専門家 三木栄のタイでの活動-同時代の資料を中心に-第9回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 明治時代の日本と同様、19世紀後半から20世紀の初めにかけてのタイでも、様々な分野の外国人専門家が政府機関で働いており、その中には日本人もいました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)漆工科の卒業生である三木栄(1884~1966)もその一人で、明治44(1911)年にタイに渡り、同年に宮内庁技芸局(現在の文化省芸術局の前身)に着任、その後は国立の美術学校の教員や校長を務めるなど、昭和22(1947)年に日本に帰国するまで漆工の分野で活躍しました。令和5(2023)年3月2日に開催された文化財情報資料部第9回研究会では三木栄について、標記のタイトルで二神葉子(文化財情報資料部文化財情報研究室長)が発表しました。
 三木栄は上記の経歴から、戦前の日タイ交流の分野で取り上げられることの多い人物です。しかし、タイでの活動内容に関する言及は、タイ渡航直後に携わったラーマ6世王戴冠式の玉座制作のほか、宮殿の修理などの大規模事業にとどまり、日常業務の詳細には触れられないことがほとんどでした。そこで、同窓会誌『東京美術学校校友会月報』(以下、『校友会月報』)に三木が寄稿した近況報告を主に用いて、日常的に携わっていた仕事を読み解きました。
 『校友会月報』の記事からは、大正6(1917)年には三木が日本から取り寄せた材料を潤沢に用いて、国王の日常使いの品物に蒔絵などの日本の技法で装飾を施していたことが読み取れました。一方で同じ時期、装飾を施す対象やタイの気候に応じて材料や技法を工夫していたことも記されています。三木栄は日本の漆工の技術と柔軟な応用力に加え、真剣に仕事に取り組む姿勢によってタイで受け入れられ、行政改革による人員削減の影響もあって、大規模工事の監督業務を含む重要な仕事に携わることになったと考えられます。本発表は三木栄のタイでの活動に関する中間報告で、今後さらに検討を進め報告書にまとめる予定です。

ワット・ラーチャプラディットでのセミナーへの参加

セミナーの様子
ワット・ラーチャプラディットの漆扉

 タイ・バンコクの旧市街に所在する王室第一級寺院のワット・ラーチャプラディット(1864年創建)は、拝殿に日本で製作された漆塗りの扉部材が用いられており、東京文化財研究所はそれらの扉部材についての調査研究や、修復に関する技術的な支援を行っています。今年はワット・ラーチャプラディットの扉部材の修理に関する活動が始まって10年の節目にあたることから、令和5(2023)年3月20日に同寺院でセミナー「ラーチャプラディット・ピシッシルプ」(タイ語で「ラーチャプラディットの素晴らしい芸術」の意味)が開催されました。
 セミナーでは、修理事業の背景に関する座談会、技術的な事柄や修理過程に関する座談会がそれぞれ行われ、修理事業を実施しているタイ文化省芸術局の専門家やワット・ラーチャプラディットの僧侶のほか、日本側からは前者に二神葉子(東京文化財研究所)、後者に山下好彦氏(漆工品保存研究者・専門家)が参加しました。またこの日は、修理が完了した扉部材数点を拝殿の扉の枠に取り付けるセレモニーを行ったほか、寺院の境内にはお茶席や日本食の屋台が設けられ、タイの伝統的な衣装や日本の着物を着た舞踊家による舞踊の披露、「刀剣乱舞」のキャラクターに扮したコスプレイヤーの登場もあり、日本への親しみを深める機会ともなっていました。新型コロナウイルス感染拡大のため、タイでの調査研究は3年間中断していましたが、改めて文化財に関する調査や研究交流を深めていきたいと思います。

島﨑清海旧蔵資料の受贈

創造美育協会の入会申込書(1952年)
左:ミス・ショウ著、宮武辰夫編『フィンガー・ペインティングについて』(1968年) 右:宮武辰夫『ミス・ショウ著 フインガー・ペインティングについて』(1955年、表紙絵:瑛九)

 島﨑清海(1923~2015)は、戦後の日本美術教育に多大な影響を及ぼした創造美育協会の本部事務局長を長らく務めた美術教育者です。同協会に関する膨大な資料を島﨑は遺しましたが、その一部をご遺族より当研究所へご寄贈いただきました。
 島﨑清海旧蔵資料については、その調査と研究にあたってこられた中村茉貴氏(神奈川県立歴史博物館会計年度任用職員・東京経済大学史料室臨時職員)に令和3(2021)年の文化財情報資料部研究会でご発表いただき、下記のURLでご報告しております。
創造美育協会の活動とアーカイブ―第5回文化財情報資料部研究会の開催 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp)
 この度の資料受贈に際しても中村氏が目録を作成し、「「創造美育協会」の活動記録にみる戦後日本の美術教育」と題して『美術研究』439号(令和5(2023)年3月)にその紹介をかねた論考を寄稿されました。この論文でも紹介されておりますように、ご寄贈いただいた資料には創造美育協会が発行したパンフレットや機関誌、島﨑清海宛の書簡、スケジュール帳、日記の類が含まれ、同協会の活動はもちろん、瑛九や久保貞次郎といった美術家、評論家との交流のあとをうかがうことができます。整理のため、公開までしばらくお時間をいただきますが、戦後の日本美術教育史・美術史を研究する上での貴重な資料としてご活用いただければ幸いです。

年史編纂資料の研究活用に向けた記述編成―東文研史資料を例として―第8回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子
資料展示の様子

 東京文化財研究所は、平成20(2008)年〜平成22(2010)年に『東京文化財研究所七十五年史』を刊行しています。この「資料編」と「本文編」の2冊から成る年史を編纂するために収集・作成された文書類を中心とする資料群は、当研究所の活動を語る上で欠かせない歴史資料です。文化財情報資料部文化財アーカイブズ研究室では、これらを「東京文化財研究所年史資料」として、目録作成を進めています。
 アーキビストの仕事の1つに、利用者が資料を使えるよう、また将来にわたって資料を保存するために、記述と編成によって資料群を整理する過程があります。記述により、資料の詳細や構成要素を説明し、分析、記録、データ化が行われます。一方、資料の出所や元の順序を尊重し、その文脈を保護し、資料をモノと情報の側面から整理するのが編成です。こうして、資料検索および利用のためのデータが作成されます。
 令和5(2023)年1月31日にオンラインを併用して開催された表題の研究会では、同部研究補佐員・田村彩子がアーカイブズの資料整理について発表しました。国際文書館評議会が定める「国際標準アーカイブズ記述」第2版を用い、年史編纂資料を研究活用に資するための記述編成を考察するとともに、今回新たに発見された資料が紹介されました。会場には一部の資料が展示され、参加者が資料実物を手に取る機会も設けられました。
 同部同室長・橘川英規の司会のもと、かつての七十五年史編集委員にもご参加いただき、同書編纂における編集委員会の沿革や役割などを伺いながら、資料群を活用した新たな研究の可能性について、また現行の研究プロジェクトの記録の保存とその継承の重要性について、活発な意見交換が行われました。「東京文化財研究所年史資料」は今春の公開を予定しています。

書庫改修の完了

電動式書架設置の様子
竣工した電動式書架

 東京文化財研究所では、各研究部門(文化財情報資料部、無形文化遺産部、保存科学研究センター、文化遺産国際協力センター)が収集してきた図書・写真等資料などを、おもに資料閲覧室と書庫で保管し、資料閲覧室を週3日開室し、外部の研究者に対しても閲覧提供しております。
 当研究所が平成12(2000)年に現在の庁舎に移転してから23年ほど経過し、その研究活動のなかで図書・写真等資料は日々収集され、近年では旧職員や関係者のアーカイブズ(文書)をご寄贈いただく機会も増えました。そのように所蔵資料が充実していく一方、遠くない将来、書庫や資料閲覧室の書架が資料で飽和状態となるとの見通しもありました。この状況に対して、この度、「調査研究機器の計画的整備」の枠組みの一環として「資料閲覧室の書架整備」の工事を行いました。
 今回の工事は、庁舎2階書庫の床面積1/4弱のスペースに設置されていた固定式書架を、電動式書架に取り替えるものでした。令和5(2023)年1月10日に着工し、書籍の搬出、固定式書架の撤去、電動式書架用レールの敷設、電動式書架の設置、書籍の再配架という工程を経て、同月31日に完了いたしました。固定式書架5台(612段、書架延長526m)が設置してあったスペースに、新たに電動式書架9台(1,248段、書架延長1,073m)を設置したことで、その収容能力はおよそ2倍となりました。
 工事期間中、外部公開を一時停止したことにより、資料閲覧室の利用者のみなさまには、ご不便をお掛けいたしましたことをお詫び申し上げます。今回の書庫整備による効果を踏まえて、引き続き、文化財研究・保存に資する専門性の高い資料を継続的に収集し、後世に遺し、有効に活用していくための活動を展開してまいります。今後とも、当研究所の文化財アーカイブズを、みなさまの活動にご活用いただけましたら幸いに存じます。

中井宗太郎「国展を顧みて」を読む―第7回文化財情報資料部研究会の開催

研究会発表の様子
『中央美術』第11巻1号(大正14年1月)に掲載された中井宗太郎「国展を顧みて」

 大正7(1918)年、土田麦僊や村上華岳らによって京都で発足した国画創作協会は、大正時代の日本画における大きな革新運動のひとつとして知られています。その活動を思想的に支えたのが、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)で美術史を講じていた中井宗太郎(1879~1966)でした。中井は国画創作協会に鑑査顧問として参加し、新聞や美術雑誌で同協会の方針や展覧会(国展)の批評を述べています。
 12月23日に開催された文化財情報資料部研究会では、そうした中井の言説の中から、大正14年1月刊行の『中央美術』第11巻1号に発表された「国展を顧みて」に焦点を当てて、塩谷が発表を行ないました。この「国展を顧みて」は、大正13年から翌年にかけて東京と京都で開催された第4回国展を受けて、中井が国画創作協会、そして日本画の進むべき方向を示した一文です。その中で中井は日本画の独自性を論じ、伝統や古典に対する認識を促していますが、そこには大正11年から翌年にかけての渡欧で直面した、西洋美術における古典回帰の潮流が念頭にあったものと思われます。大正時代末から“新古典主義”と称される端正な日本画が一世を風靡するようになりますが、中井の「国展を顧みて」にみられる論調は、そのような動向を予兆するものであったといえるでしょう。
 本研究会には所外から田中修二氏(大分大学)、田野葉月氏(滋賀県立美術館)のお二方にコメンテーターとしてオンラインでご参加いただき、発表後のディスカッションで京都画壇や中井宗太郎についてご教示いただきました。また所外のその他の日本近代美術の研究者も交えて話題は中井の言説や日本画にとどまることなく、大正末~昭和初期の美術の様相をめぐって長時間にわたり意見や情報を交わしました。

菩薩像における条帛の着用・非着用の問題について―薬師寺金堂薬師三尊像に関する考察の手がかりとして――第6回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 仏像は様々な服を身に着けています。菩薩像や明王像が、上半身にたすき状にかける「条帛」と呼ばれる布製の着衣もそのひとつですが、条帛に関する研究はこれまで積極的にはされてきませんでした。
 令和4(2022)年11月28日に開催された文化財情報資料部研究会では、黒﨑夏央(当部アソシエイトフェロー)が「菩薩像における条帛の着用・非着用の問題について―薬師寺金堂薬師三尊像に関する考察の手がかりとして―」と題して発表を行いました。
 奈良・薬師寺金堂に安置される薬師三尊像は、日本の仏像を代表する作例でありながら、7世紀末に藤原京の薬師寺で造立されたのか、それとも8世紀初めに平城京で新たに鋳造されたのか、未だ定説を見ていません。法隆寺金堂壁画や宝慶寺石仏群をはじめ、これまで薬師寺像と比較されてきた同時代の菩薩像がみな条帛を着けるのに対し、薬師寺像が条帛を着けないことは、同像の制作背景や制作年代に関わる造形的特徴として注目されます。本発表では薬師寺像の考察を見据えて、7世紀に制作された日本および中国の塼仏や、中国の石窟における菩薩像の作例について、条帛の有無という観点から概観しました。中国で制作された塼仏における菩薩像は、上半身を裸形であらわすインド風の表現が採られていますが、藤原京で薬師寺像が造立されたのと同じ頃に日本で制作された塼仏には条帛が着けられており、現在の薬師寺像では古い形式が採られていることを述べました。今後はその背景について、歴史的・思想的な観点から考察を深めることが課題です。
 研究会はオンライン形式で開催され、所外からも仏教美術史を専門とする方々にご参加いただきました。質疑応答では、条帛そのものについて、7世紀後半の入唐僧や国際情勢について、同時代の作例との関連性についてなど、様々な観点から活発な議論が行われました。今後の研究を進めるうえで貴重なご意見をいただくとともに、薬師寺像の持つ問題性の大きさを改めて共有する場ともなり、充実した研究会となりました。

前田青邨文庫の受入

「前田青邨文庫」の一部
女史箴巻を見る前田青邨(『文化』第246・247号、1974年10月から転載)

 日本画家前田青邨(1885-1977)の旧蔵資料「前田青邨文庫」を、青邨の三女・秋山日出子氏から、日出子氏の長男である秋山光文氏(お茶の水女子大学名誉教授、目黒区美術館館長)のご紹介により、令和4(2022)年10月11日付で東京文化財研究所にご寄贈いただき、11月8日に感謝状を贈呈しました。
 この文庫は、113種類275点(図書109種類270冊、カセットテープ3本、レコード1組2枚)の資料からなり、甲冑など武具の故実書、歴史物などの江戸期版本や、幸野楳嶺の画集、「梶田半古自筆画稿」の題簽が付された折本、日本美術院の後輩である小林柯白、酒井三良らの小品集などが含まれており、今後の前田青邨研究において欠かせない資料といえます。
 また、この文庫には、カセットテープ「青邨『女史箴』再見談」が収められております。これは昭和49(1974)年に、青邨の女婿で東京大学文学部教授であった秋山光和氏(光文氏の父、当研究所名誉研究員)の斡旋により北鎌倉の青邨邸にて行われた小林古径・青邨筆「臨顧愷之女史箴巻」の調査、青邨本人への聞き取りの記録です。この調査には東北大学の亀田孜氏・原田隆吉氏とともに、当時の東京国立文化財研究所の辻惟雄・関千代・河野元昭らの各氏が参加しており、当研究所の活動記録としても、とても重要なものです。このように、青邨の作品・作家研究に必須であることはもとより、当時の文化財調査のあり方を示す資料として、広く今日の文化財研究にとっても有用といえます。
 今回ご寄贈いただいた「前田青邨文庫」は資料閲覧室にて公開します。また図書資料は、ゲッティ研究所との共同事業におけるオープンアクセス対象の資料とし、一方、カセットテープやレコードなどはデジタル化し、長期にわたって研究に活用できる処置を施したいと考えています。この文庫が、前田青邨や近代日本画、さらには文化財の研究に寄与できれば幸いです。

香川・妙法寺への与謝蕪村筆「寒山拾得図」復原襖の奉安

妙法寺本堂に復原襖を建て込む作業
妙法寺本堂に奉安された与謝蕪村筆「寒山拾得図」復原襖

 令和3(2021)年8月の活動報告でご紹介したとおりhttps://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/910046.html、香川県丸亀市の妙法寺にある与謝蕪村筆「寒山拾得図」は、かつて拾得の顔がマジックインクで落書きされ、寒山の顔の部分に損傷を受けましたが、昭和34(1959)年に東京文化財研究所で撮影したモノクロ写真から、損傷前の描写が明らかになります。
 当研究所では、このモノクロ写真と、現代の画像形成技術を合わせて、損傷を受ける前の襖絵を復原し、襖に仕立てて妙法寺に奉安する共同研究を立ち上げました。
 まず、現在の「寒山拾得図」を撮影した高精細画像に、モノクロ写真の輪郭線を重ね合わせ、損傷前の復原画像を形成し、実際の作品と同様の紙継ぎになる大きさで和紙に画像を出力するところまでを当研究所でおこないました。次に、現在の本堂に建て込めるように襖に仕立てる事業は、妙法寺にご担当いただきました。襖に仕立てる作業は、国宝修理装潢師連盟加盟工房である株式会社修護が担当し、襖の下地は、国指定文化財に用いられるものと同等の仕様、技術、材料で施行し、引手金具もオリジナルの金具を模造して使っています。
 また、建具調整には黒田工房の臼井浩明氏のご協力を得て、本堂に実際に襖を建て込むための建て合わせや微調整を入念におこない、令和4(2022)年11月22日、無事に復原襖を妙法寺本堂へ奉安することができました。
 実際に襖として建て込まれると、その大きさや表現は圧巻で、蕪村の筆遣いや絵画空間が目の前によみがえったかのようです。このように古いモノクロ写真を用いた絵画の復原は当研究所としても初の試みで、90年以上蓄積されてきた膨大なアーカイブ活用の今後の指標ともなるでしょう。

「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」の開催

「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む(チラシ)」
講演風景(江村知子)
講演風景(吉田暁子)

 文化財情報資料部では、令和4(2022)年11月8日に、「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」を開催しました。毎年秋に一般から聴衆を公募し、日頃の研究成果を講演の形をとって発表するものです。令和2年以降、新型コロナウイルス蔓延に鑑み、外部講師を交えて2日間にかけて行うという例年の形式を縮小し、内部講師2名による1日のみのプログラムとし、聴衆も事前の抽選により50名に限定して開催しました。東京文化財研究所セミナー室を会場とし、内部の聴講者のために会議室をサテライト会場としました。
 本年は、文化財情報資料部部長・江村知子による「遊楽図のまなざし ―徳川美術館蔵・相応寺屏風を中心に」、および研究員・吉田暁子による「岸田劉生の静物画 ―『見る』ことの主題化」の2講演を行いました。
 江村からは、近世初期風俗画の代表作として知られる相応寺屏風について、高精細画像によって細部の描写を紹介し、描かれた意匠や建築物の特徴、また塗り重ねなど細部の描写の特徴について報告しました。吉田は、大正期に描かれた岸田劉生による《静物(手を描き入れし静物)》などの静物画を題材に、光学調査によって新たに得られた画像に基づき、作品完成後の加筆について、また描写の特徴と画論との関係について述べました。
 アンケート回答者の八割以上の方から、「満足した」「おおむね満足した」との回答を頂きました。

桑山玉洲と岩瀬広隆の絵具・絵画作品における彩色材料分析と絵画表現―第5回文化財情報資料部研究会の開催

ディスカッション・質疑応答の様子

 桑山玉洲(1746~99)と岩瀬広隆(1808~77)は、江戸時代に和歌山で活躍した画家で、いずれも、彼らが使用した画材道具を残しています。これらの画材道具には、さまざまな絵具類が含まれており、江戸時代の絵具としての彩色材料が具体的に明らかになる点できわめて意義深いものです。また、彼らが描いた絵画作品も多く現存し、実際の絵画作品に用いられている彩色材料と、画材道具に含まれる絵具を比較できるという意味で、貴重な研究対象となります。
 令和4(2022)年9月15日に開催された第5回文化財情報資料部研究会は、こうした玉洲と広隆の絵具・絵画作品についての彩色材料分析に関する中間報告として、オンラインを併用して研究所内で開催されました。まず、早川泰弘(副所長)が、両者の彩色材料に関する蛍光X線分析や可視反射分光分析の結果を報告し、分析によって明らかになった白色顔料における胡粉と鉛白の併用など、新知見や今後の課題を提示しました。続く安永拓世(文化財情報資料部・広領域研究室長)の発表は、玉洲の「渡水羅漢図」を例に、その典拠となった作品との比較に基づいて、人物の顔における白色顔料の使い分けや、裏彩色の問題を考察したものです。さらに、近藤壮氏(共立女子大学)は、浮世絵師から復古大和絵派の絵師になった広隆の経歴を紹介し、「羅陵王・納蘇利図」を例に、広隆の画業と彩色材料の関連性について検討を加えました。
 発表後には、発表者三名によるディスカッションと質疑応答がおこなわれ、分析結果の解釈などについて活発な議論が交わされたところです。玉洲や広隆が活躍した18世紀中ごろから19世紀中ごろは、彩色材料の変遷を知るうえで重要な時期ですが、絵具・絵画作品ともに彩色材料の分析事例は少ないため、こうした研究により、江戸時代中後期の彩色材料に関して具体的な解明が進むことも期待されます。

文化財の記録作成に関するセミナー「記録作成と情報発信・画像圧縮の利用」の開催

渡邉直登氏の講演
今野咲氏の講演
今泉祥子氏の講演

 文化財情報資料部文化財情報研究室は、標記のセミナーを令和4(2022)年9月2日に東京文化財研究所地下セミナー室にて開催しました。令和4(2022)年4月に成立した「博物館法の改正に関する法律」では、博物館資料に係る電磁的記録(デジタルアーカイブ)の作成と公開が博物館の役割に加えられました。また、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、文化財の現場や展示施設の訪問が難しい状況が続き、ウェブなどの仮想空間での展示の需要がこれまで以上に高まっています。
 このような状況に鑑み、セミナーでは、渡邉直登氏(仙台市歴史民俗資料館学芸員)から、コロナ禍での生出森八幡神社の例祭や神楽の伝承に関する映像記録作成とYouTubeでの発信について、今野咲氏(東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館学芸員)から、展示室の様子や作品解説などを館のウェブサイトで公開する取り組みについてお話しいただきました。また、今泉祥子氏(千葉大学大学院工学研究院准教授)には、画像や映像の圧縮の原理や、利用の際の留意点に関するご講演をいただきました。
 今泉准教授は、圧縮にはデータ容量を減らす効果がある一方、画像や映像の質が低くなるデメリットがあることを視覚的に提示し、渡邉学芸員、今野学芸員は、補助金などの公的支援や地元の方の協力を得つつ、組織内の人材や機材、無償のソフトウェアを活用し自前で情報発信を行う手法を具体的に紹介しました。いずれのご講演も身近な課題の解決に向けて有益な示唆を与える内容で、参加者からも多くの質問が寄せられました。
 文化財情報研究室では今後も様々な媒体を通じて、文化財の記録作成や情報発信について、実務に活用可能な情報を提供してまいります。

岸田劉生による油彩画の光学調査

調査風景(東京文化財研究所)
調査風景(福島県立美術館)

 大正期を中心に活動した画家の岸田劉生(1891-1929)は、油彩画を主な媒体とし、《道路と土手と(切通之写生)》(大正4〈1915〉年、東京国立近代美術館蔵)、《麗子微笑》(大正10〈1921〉年、東京国立博物館蔵)という2点の重要文化財指定品を含む、数々の名作によって知られています。彼の描いた静物画は、厳密な画面構成、机のひび割れや果物のしみまで描く密度の高い描写などを特徴とし、洋画家のみならず日本画家や写真家などにも、広く影響を与えました。しかしその中には、画中に描きこまれた人間の手が「不気味だ」と言われ展覧会に落選した《静物(手を描き入れし静物)》(大正7〈1918〉年、個人蔵)という評価を二分する作品があり、その評価は画家像をも左右します。そしてこの作品は、問題視された「手」が何者かによって消されてしまうという謎めいた経緯を経て現存します。「手」がどのような経緯で消されたのか、またこの作品は岸田による他の静物画とどのような関係を持つのかという問いのもとに、令和4年度を通じ、国内の様々な機関や個人のご協力を得ながら、静物画4点の光学調査を行いました。本調査は「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」における口頭発表、吉田暁子「岸田劉生による静物画 ー『見る』ことの主題化」の準備調査として行ったものです。
 調査内容は、文化財情報資料部専門職員・城野誠治による近赤外線撮影(反射・透過)、蛍光撮影、紫外線撮影を中心とし、《静物(手を描き入れし静物)》については保存科学研究センター分析化学研究室長・犬塚将英によるX線撮影をも行いました。その結果、《静物(手を描き入れし静物)》については画中に隠された「手」を含む画面全体の画像を得た他、それ以外の作品においても、モティーフを動かして描き直した痕跡を持つものが複数存在することが分かりました。このことは、岸田劉生による絵画制作の工程について、新たな情報をもたらす発見だと言えます。詳細な内容は、上記オープンレクチャーにおいて報告します。

セインズベリー日本藝術研究所での活動

ワークショップの案内

 イギリス・ノリッジにあるセインズベリー日本藝術研究所(以下、セインズベリー研究所、Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures; SISJAC)は欧州における日本芸術文化研究の拠点として欧米の関係者にはよく知られた研究機関です。東京文化財研究所とは2013年7月に共同事業「日本芸術研究の基盤形成事業」に関する協定を結び、以来、主に欧米の日本美術の展覧会や日本美術に関する書籍・文献の英語情報の提供を受けています。
 今回、サバティカル渡英中の文化財情報資料部客員研究員の津田徹英(青山学院大学文学部教授)は、7月8、9日の日程でセインズベリー研究所が主催するオンライン・ワークショップ “Absence, Presence, and Materiality: Refiguring Japanese Religious Art and Culture(邦訳:モノとしての不在と顕在:日本の宗教芸術と文化の再構築)”に参加し、第二日目に”Reinterpreting Esoteric Buddhist Sculpture in Nara period(8th century)邦訳:奈良時代(8世紀)における密教彫刻再考”のタイトルで口頭発表を行いました。同発表では空海によって平安時代(9世紀初頭)に密教が日本にもたらされる以前の奈良時代後半において密教が流入・受容されており、既に明王像の造像が行われていたことを具体的な現存作例を挙げながら、その作例の存在意義に及んだものです。このワークショップは日本時間を基準にして開催されました。そのため欧米では時差のため深夜・早朝での開催となってしまいました。にもかかわらず聴講者は欧米を中心にロシア・台湾にまで及んで両日でのべ72人の参加者がありました。改めて世界各地に日本の宗教文化に関心を寄せる研究者が少なからずいることを実感いたしました。
 また11日には、同研究所を管轄するイーストアングリア大学(UEA)セインズベリーセンター内のミュージアムが所蔵している80点にも及ぶ縄文時代から中世に及ぶ日本美術(彫刻・工芸)のコレクションについて、すべての作品に解説を付すべく、その要請がセインズベリー研究所より津田にあり、そのための熟覧調査を同研究所所員の松葉涼子氏とともに行い意見交換をいたしました。このコレクションについては日本ではほとんど無名ですが、仏教美術に限ってもそれらのなかには奈良時代(8世紀)の金銅仏や平安中期(10世紀)の菩薩坐像など小像ながら佳品が含まれています。かつ、そのいくつかは東京文化財研究所の売立目録アーカイブとも照合が可能なものです。
 あわせて同日午後2時よりロンドンにある在英国日本大使館の伊藤毅公使の展示品の視察があり、松葉涼子氏とともに津田が解説を行い、公使は熱心に作品を見ながら解説に耳を傾けられておられました。

エントランスロビーパネル展示「タイ・バンコク所在王室第一級寺院 ワット・ラーチャプラディットの漆扉」の開始

ワット・ラーチャプラディット拝殿
ワット・ラーチャプラディットの漆扉部材の調査研究に関する展示
タイ所在日本製漆工品に関する展示

 東京文化財研究所では、調査研究の成果を公開するため、1階エントランスロビーでパネルを用いた展示を行っており、令和4(2022)年7月28日からは標記の展示が新たに始まりました。
 タイの王室第一級寺院の一つであるワット・ラーチャプラディットは、「首都には三つの主要な寺院を置く」というタイの伝統に基づき、首都バンコクの三つ目の主要な寺院として、1864年にラーマ4世王により建立されました。
 ワット・ラーチャプラディットの拝殿の開口部の扉には、裏面に着色や線描を施した非常に薄い貝片を用いる伏彩色螺鈿や、着色した漆で図柄を立体的に表現する彩漆蒔絵により装飾された漆塗りの部材がはめ込まれています。特に伏彩色螺鈿による図柄は日本風であったことから、タイ文化省芸術局から、平成24(2012)年に漆扉部材修理に対する技術的な支援を依頼されました。そこで、状態、製作技法や材料を明らかにするため、平成25(2013)年10月に部材2点を東京文化財研究所に持ち込み、平成27(2015)年7月まで詳細な調査と試験的な修理を行ったほか、現地での調査を実施しました。併せて、漆扉部材の産地や漆工史上の位置付けを知るため、美術史学や音楽学、貿易史などの分野からの検討も行われました。これらの調査から、漆扉部材が日本で制作されたことが確実となり、現在は対象をタイにあるその他の日本製漆工品に広げ、研究を続けています。
 パネル展示では、当研究所内外の様々な分野の研究者や研究機関が参加する共同研究を通じて、ワット・ラーチャプラディットの漆扉部材の制作技法や産地を明らかにする過程をご紹介しています。また、タイ所在日本製漆工品のいくつかもご紹介していますので、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください(公開は祝日を除く月曜日~金曜日の午前9時~午後5時30分)。

報告書『Lacquered Door Panels of Wat Rajpradit – Study of the Japan-made Lacquerwork Found in Thailand –』の刊行

ワット・ラーチャプラディットの漆扉。扉の上部には仏陀の言葉が記されている。
報告書の表紙

 東京文化財研究所は平成3(1992)年から、タイの文化財の保存修復に関する共同研究をタイ文化省芸術局と実施しています。その一環として、タイ・バンコクの王室第一級寺院の一つであるワット・ラーチャプラディット(1864年にラーマ4世王により建立)の漆扉について、同局及び同寺院などタイの関係者による修理事業への技術的な支援を行ってきました。
 文化財の修理を行う際には制作技法や材料等に関する調査が不可欠ですが、調査を通じてその文化財に関する多くの知見を得る機会ともなります。ワット・ラーチャプラディットの漆扉部材には、19世紀半ばを中心に日本からの輸出漆器に多用された伏彩色螺鈿の技法による和装の人物などの図柄が見られ、日本製であると考えられましたが、当初はそれを裏付ける確実な証拠は得られていませんでした。そこで、科学的な調査や、伏彩色螺鈿及び彩漆蒔絵で表現された図柄に関する調査を、当研究所内外の様々な分野の専門家が行ったところ、用いられた材料や技法及び図柄の表現から、漆扉が日本で制作された可能性が極めて高いことがわかりました。
 令和4(2022)年3月に刊行した標記の報告書には、上記の研究成果に関する令和3(2021)年刊行の日本語版報告書所載の論考の英訳のほか、芸術局とワット・ラーチャプラディットによる寺院建立の経緯と寺域内の建造物などに関する論考が掲載されています。報告書は当研究所の資料閲覧室などでご覧になれますので、お手に取っていただけましたら大変幸いです。

「創立150年記念特集 時代を語る洋画たち ―東京国立博物館の隠れた洋画コレクション」展(東京国立博物館)について

展示室風景
講演会風景 吉田暁子

 東京国立博物館の創立150年記念事業の一環として、「時代を語る洋画たち ―東京国立博物館の隠れた洋画コレクション」展(平成館企画展示室、6月7日[火]~7月18日[月・祝])が開催されました。同展は、東京国立博物館列品管理課長・文化財活用センター貸与促進担当課長である沖松健次郎氏による企画であり、当研究所からは文化財情報資料部部長の塩谷純、同部研究員の吉田暁子が、準備調査への参加などの形で協力しました。
 日本東洋の古美術コレクションのイメージが強い東京国立博物館(以下、東博)ですが、じつはその草創期から、欧米作家の作品を含む洋画も収集してきました。同展では、万国博覧会への参加や収蔵品交換事業といった活動によって各国からもたらされた作品が「Ⅰ 世界とのつながり」、最新の西洋美術を紹介し、国内での制作を奨励する目的で収集された作品が「Ⅱ 同時代美術とのつながり」、災害や戦争といった社会の動きに対応して収集された作品が「Ⅲ 社会・世相とのつながり」という章立てのもとに展示されました。
 同展の準備段階では、沖松氏による作品選定と収集経緯等の調査に基づき、作品の実見調査と撮影、資料調査、関連作品の調査などが行われました。第3章に出品された「ローレンツ・フォン・シュタイン像」(オーストリア、1887年)の像主は、大日本帝国憲法の起草に寄与したドイツの法学者ですが、沖松氏の調査・声掛けに応じた関係者からの情報提供により、像主の長男のアルウィン・フォン・シュタインが作者であることが同定されました。またレンブラント・ファン・レインによる版画作品「画家とその妻」(オランダ、1636年)は、戦後の一時期に東博が担った、西洋の近代美術の紹介という役割に関連して収集されたと考えられるものです。今回の調査では、外部専門家の助言によって版の段階(ステート)を絞り込むことができました。この他にも資料調査や関連作品の調査を通じた発見があり、これまでまとまった形で紹介されてこなかった東博の洋画コレクションの意義を改めて認識することになりました。
 7月16日には月例講演会「時代を語る洋画たち-東京国立博物館の隠れた洋画コレクション-」において、沖松氏、塩谷、吉田によるリレー形式の講演が行われました。
 沖松氏による展覧会全体の構想と、調査段階で判明した事項の紹介に続く各論として、塩谷は洋画家黒田清輝を記念するために設立された黒田子爵記念美術奨励資金委員会が、今回展示された松下春雄「母子」(1930年)や猪熊弦一郎「画室」(1933年)を含む昭和戦前期の洋画作品を東博に寄贈した経緯について紹介しました。また吉田はベルギーの画家ロドルフ・ウィッツマンによる油彩画の「水汲み婦、ブラバンの夕暮れ」を中心に、ロドルフとジュリエットという、ともに画家であったウィッツマン夫妻の略歴と、白馬会展への出品に始まる日本との関わりについて述べました。

螺鈿の位相―岬町理智院蔵秀吉像厨子から見る高台寺蒔絵と南蛮漆器の関係―第4回文化財情報資料部研究会の開催

第4回研究会発表の様子

 令和4(2022)年7月25日に開催された今年度第4回文化財情報資料部研究会では、特任研究員の小林公治が「螺鈿の位相―岬町理智院蔵秀吉像厨子から見る高台寺蒔絵と南蛮漆器の関係―」と題し、会場とオンラインによるハイブリッド方式で発表を行いました。
 大阪府岬町に所在する理智院には、豊臣秀吉に仕え大名に取り立てられた忠臣、桑山重晴が造らせたと考えられる秀吉像蒔絵螺鈿厨子が伝えられています。この厨子は、その死後直ぐに神格化された秀吉の遺徳をしのびその恩に報いるため、桑山が自領に豊国神社を分祀する際に制作させたものと見られますが、厨子各面を高台寺蒔絵様式の平蒔絵文様で装飾するのみならず、高台寺蒔絵漆器にはまったく知られていない螺鈿装飾を伴っている点で特に注目されます。
 本発表では、この厨子に表されている「折枝草花唐草文」「菊桐紋」「立秋草唐草文」という三種の文様について検討した結果、それぞれの歴史性や格の違いが蒔絵装飾への螺鈿の併用可否という点に強く影響したことを示しましたが、逆に言えばこのことは、この時期の日本における螺鈿という装飾技法の非一般的性格を意味し、さらに言えば、ヨーロッパ人の発注により輸出漆器として制作され、秋草文様や螺鈿装飾を一般的要件とした南蛮漆器の特殊な立ち位置を暗示していることになります。
 また、南蛮漆器には不定形の貝片をランダムに配置した作例が広く知られていますが、これは螺鈿に不習熟であった職人の技量を示している、あるいはその粗雑な制作水準を示すといった理解がこれまで一般的でした。しかしながら、これと同様の螺鈿技法が秀吉追慕という思いで造られた理智院所蔵厨子にも認められることからすれば、この螺鈿表現が技量の低さや粗雑な制作といった否定的な存在であった可能性は明確に否定され、何らかの肯定的な意味を持っていたと見る必要が生じます。そこで筆者は平安時代以来、蒔絵と密接な関係性を持っていた料紙装飾に注目し、同時代の箔散らし作例を具体的に例示したうえで、このような美的感覚からの影響でこうした螺鈿表現が創出され、この秀吉像厨子や南蛮漆器の螺鈿技法に取り入れられたのではないか、という仮説を提示しました。
 このように、当時の国内事情によって制作された理智院伝世秀吉像厨子の蒔絵螺鈿装飾の観察から南蛮漆器の装飾について考えると、そこには日本の伝統や日本人の好みで造られた漆器とは異なる独自性の強い漆器というその特異な性格が浮かび上がってきます。
 当日は、小池富雄氏(静嘉堂文庫美術館)、小松大秀氏(永青文庫美術館)のお二人からのコメントに加え、会場内外の参加者からのさまざまな意見により幅広い討議がなされました。

to page top