織田東禹《コロポックルの村》をめぐって―令和6年度第5回文化財情報資料部研究会の開催

織田東禹による水彩画、《コロポックルの村》(1907年、東京国立博物館)は、当時の人類学の最新の知見に基づいて描かれた作品です。 東京国立博物館の特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(8月20日~10月20日)に出品中であったこの作品について、9月6日に東京文化財研究所において研究会を行いました。展示の企画担当者である文化財情報資料部研究員・吉田暁子、藏田愛子氏(東京大学)、品川欣也氏(東京国立博物館)、笹倉いる美氏(北海道立北方民族博物館)が登壇し、それぞれ美術史学、文化資源学、考古学、文化人類学の観点から同作について考察しました。
《コロポックルの村》は、裏面に記されている通り「三千年前石器時代日本」を舞台とする「先住者部落の生活状態の図」として描かれました。制作にあたり、作者の織田は人類学者の坪井正五郎の学説に依拠し、当時見ることのできた考古遺物などの資料を参照したこと、また大森貝塚付近を入念に写生したことなどが知られています。織田は本作を1907年に開催された東京勧業博覧会の「美術」部門に出品することを目指したものの、同部門での審査を拒絶され、本作は「教育、学芸」の資料として展示されました。
研究発表において、まず吉田は同作の概要を紹介し、東京勧業博覧会の美術部門での受賞作の傾向を分析した上で《コロポックルの村》が美術品として認められなかった理由を推察しました。次に、近著『画工の近代 植物・動物・考古を描く』の第8章「明治四十年代における『日本の太古』」(東京大学出版会、2024年、309-331頁)において、《コロポックルの村》について論じられた藏田氏は、坪井正五郎の学説と同作との関わり、また東京勧業博覧会全体の中での位置づけについて発表されました。次に品川氏は、考古学の視点から、現実の古代遺跡の再現図として同作を分析し、東京国立博物館への同作の収集経緯などについても紹介されました。そして笹倉氏は文化人類学の観点から、同作に描かれた道具や衣服、住居などには、北方民族のそれと共通する要素があることを指摘し、織田が坪井を通じて参照した可能性のある遺跡や資料を指摘されました。最後に、来場者からの質問やコメントを交えつつディスカッションを行いました。
本研究会は、美術品と学術資料とのはざまに位置づけられ、周縁化されてきた同作について領域横断的に検討する新たな試みであり、来場者からの反応も多く有意義な会となりました。本研究会の成果については、各発表者による報告を後日『美術研究』に掲載する予定です。
特集展示「没後100年・黒田清輝と近代絵画の冒険者たち」(東京国立博物館)の開催


令和6(2024)年は、画家であり、東京文化財研究所の前身である美術研究所の設立資金を遺した黒田清輝(1866-1924)の没後100年にあたります。これを記念し、東京国立博物館での特集展示を企画しました。展示は黒田の作品と、東京国立博物館の所蔵する近代絵画とによって構成し、西洋絵画に学んだ「洋画」が「美術」としての地位を獲得していく工程を「冒険」として紹介しました。
まずは黒田清輝の代表作、《智・感・情》(1899、明治32年)において、人間の裸体によって抽象的な観念を描くという西洋の寓意画に端を発した試みを紹介しました。人間の裸体を美的なものとして描き、見る習慣のなかった日本では、裸体画は不道徳なものとして批判されましたが、黒田は《智・感・情》において日本人のモデルを用いた裸体画を世に問いました。《智・感・情》は明治33(1900)年のパリ万国博覧会では、“Etude de Femme”(女性習作)として紹介されました。日本の観衆に対しては裸体によって理想を表現する手法を示し、西洋の観衆に対しては日本人による日本人を描いた裸体画の存在を示すという二面性をもつ試みであったことがわかります。
また本展では、当時の「美術」の境界を示す作品を展示しました。織田東禹《コロポックルの村》(1907、明治40年)は、アイヌの伝承に「蕗の葉の下に住む人」として登場する「コロポックル」を日本の石器時代の先住民とする、人類学者の坪井正五郎による学説に基づいて描かれました。織田はこの作品を明治40(1907)年の東京勧業博覧会に出品し、美術館での展示を希望しましたが、美術部門の審査員は類例のない表現に戸惑って同作の審査を拒否し、結局同作は「教育、学芸」の資料として展示されました。当時、「美術」という概念は形成途上にあり、《コロポックルの村》の扱いには出品者側と審査員側の認識の違いが表れたといえます。同作をめぐり、文化史的な視点からの考察と、考古学や文化人類学側からの考察をまじえた学際的な研究会を9月6日に当研究所で行いました。
最後に、同展では黒田清輝の遺産によって昭和5(1930)年に創立した「美術研究所」を前身とする当研究所の所蔵資料を展示しました。黒田は遺産の一部を「美術奨励事業」に充てるようにという遺言を残しましたが、その内容を具体化したのは美術史家の矢代幸雄でした。イギリスとイタリアに留学してルネッサンス美術を研究した矢代が大正14(1925)年に刊行した“Sandro Botticelli”(Medici Society)は、新鮮な視点を示した著作として高い評価を受けました。中でも、部分図に独自の美観を認める視点は当時の西洋美術史に新たな視点をもたらしました。「美術研究所」の構想において重視された美術写真の収集という方針は、現在の当研究所の資料収集にも継承されています。同展では“Sandro Botticelli”や『黒田清輝日記』など、当研究所の所蔵資料を展示し、美術研究における拠点としての同所の意義を紹介しました。
森岡柳蔵旧蔵資料の寄贈

画家・黒田清輝(1866~1924)に師事した画家である森岡柳蔵(1878~1961)による旧蔵資料を、令和5(2023)年11月8日付でご遺族よりご寄贈頂き、感謝状をお送りしました。資料は、森岡柳蔵が海外で収集したアリナーリ兄弟社(イタリア)による西洋絵画の複製写真85点です。
森岡柳蔵は鳥取県出身の画家で、20歳で上京し、黒田清輝の率いる画塾の天心道場に学んだ後、明治34(1901)年に東京美術学校に入学し、更に黒田家の書生となるなど黒田の知遇を得ました。大正11(1922)年より3年間にわたりパリに留学してアメリカ経由で帰国しますが、その折に今回寄贈頂いた資料を収集したと考えられています。平成23(2011)年に鳥取県立博物館で開催された展覧会「没後50年 森岡柳蔵展:大正の抒情、パリの夢」の図録には、当時東京文化財研究所に在籍されていた山梨絵美子氏(千葉市美術館館長、客員研究員)が寄稿され、ご遺族から資料寄贈について相談を受けた山梨氏の仲介により、この度のご寄贈へと至りました。
資料はジョット(1267頃~1337)、ラファエッロ(1483~1520)などルネッサンス期の画家による宗教絵画を中心とする複製写真で、嘉永5(1852)年に創業した世界最古の写真企業であり、現在までイタリア国内の美術館や博物館の所蔵する美術品の写真を数多く取り扱うアリナーリ兄弟社の手掛けたものです。森岡は帰国後にそれらを画友などに貸し出すこともあったといいますが、ほぼ全ての裏面に紛失を防ぐための所蔵印が捺されており、貴重な資料として珍重されていたことが窺えます。
今回ご寄贈頂いた資料は当研究所資料閲覧室に保存し、デジタル画像として、資料に負担を掛けず、多くの研究者の目に触れる形で公開していく予定です。
古郡家資料の受入

薩摩藩出身で明治政府の要職を務め、画家・黒田清輝(1866~1924)の養父でもあった黒田清綱(1830~1917)とゆかりのあった古郡家より、黒田家に関連する資料を令和5(2023)年5月9日付で東京文化財研究所へご寄贈頂き、6月15日に感謝状贈呈式を行いました。
当研究所の前身は、画家、教育者などとして日本の近代絵画史に大きな足跡を残した黒田清輝の遺言執行の一環として、美術の研究を行うために設立された帝国美術院附属美術研究所でした。そのため設立当初から多様な使命を担うようになった現在まで、黒田清輝の絵画作品や彼の活動に関する調査研究を行っており、そのことが、この度の資料ご寄贈へとつながりました。
古郡静子氏は、黒田清綱の麻布区笄町(現在の港区西麻布)の別邸で彼の身辺の世話をしており、そのご遺族である現在の古郡家では、黒田清輝本人から贈られた、彼の描いた絵画作品を所蔵しておられました。文化財情報資料部上席研究員・塩谷純、文化財情報資料部研究員・吉田暁子とでその調査に伺った折にご遺族からお示し頂いたのが、今回の古郡家資料です。
和綴じ冊子、書籍、書類・印刷物の計23件から成る古郡家資料の核となるのは、古郡静子氏の養子であった古郡良雄氏による、直筆の和綴じ冊子10冊です。著者本人が個人的に接した黒田清綱及び黒田清輝の記憶と、同時代資料を博捜して得られた情報とを根拠とする『黒田清綱記事集』『黒田清輝記事集』、また黒田清輝の絵画作品にも登場する笄町の邸宅周辺をめぐる回想録と資料集の2冊組による『彼の頃の麻布』を含むこれらの資料は、当時の黒田家や周辺の環境について独自の視点から緻密に記録した、貴重な一次資料です。
今回ご寄贈頂いた古郡家資料は、資料閲覧室にて保存・公開します。また今後、重要資料の翻刻・デジタル化などを通じてより広くアクセス可能な資料とし、多様な研究に寄与する資料として後世に伝えていければ幸いです。
「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」の開催



文化財情報資料部では、令和4(2022)年11月8日に、「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」を開催しました。毎年秋に一般から聴衆を公募し、日頃の研究成果を講演の形をとって発表するものです。令和2年以降、新型コロナウイルス蔓延に鑑み、外部講師を交えて2日間にかけて行うという例年の形式を縮小し、内部講師2名による1日のみのプログラムとし、聴衆も事前の抽選により50名に限定して開催しました。東京文化財研究所セミナー室を会場とし、内部の聴講者のために会議室をサテライト会場としました。
本年は、文化財情報資料部部長・江村知子による「遊楽図のまなざし ―徳川美術館蔵・相応寺屏風を中心に」、および研究員・吉田暁子による「岸田劉生の静物画 ―『見る』ことの主題化」の2講演を行いました。
江村からは、近世初期風俗画の代表作として知られる相応寺屏風について、高精細画像によって細部の描写を紹介し、描かれた意匠や建築物の特徴、また塗り重ねなど細部の描写の特徴について報告しました。吉田は、大正期に描かれた岸田劉生による《静物(手を描き入れし静物)》などの静物画を題材に、光学調査によって新たに得られた画像に基づき、作品完成後の加筆について、また描写の特徴と画論との関係について述べました。
アンケート回答者の八割以上の方から、「満足した」「おおむね満足した」との回答を頂きました。
岸田劉生による油彩画の光学調査


大正期を中心に活動した画家の岸田劉生(1891-1929)は、油彩画を主な媒体とし、《道路と土手と(切通之写生)》(大正4〈1915〉年、東京国立近代美術館蔵)、《麗子微笑》(大正10〈1921〉年、東京国立博物館蔵)という2点の重要文化財指定品を含む、数々の名作によって知られています。彼の描いた静物画は、厳密な画面構成、机のひび割れや果物のしみまで描く密度の高い描写などを特徴とし、洋画家のみならず日本画家や写真家などにも、広く影響を与えました。しかしその中には、画中に描きこまれた人間の手が「不気味だ」と言われ展覧会に落選した《静物(手を描き入れし静物)》(大正7〈1918〉年、個人蔵)という評価を二分する作品があり、その評価は画家像をも左右します。そしてこの作品は、問題視された「手」が何者かによって消されてしまうという謎めいた経緯を経て現存します。「手」がどのような経緯で消されたのか、またこの作品は岸田による他の静物画とどのような関係を持つのかという問いのもとに、令和4年度を通じ、国内の様々な機関や個人のご協力を得ながら、静物画4点の光学調査を行いました。本調査は「第56回オープンレクチャー かたちを見る、かたちを読む」における口頭発表、吉田暁子「岸田劉生による静物画 ー『見る』ことの主題化」の準備調査として行ったものです。
調査内容は、文化財情報資料部専門職員・城野誠治による近赤外線撮影(反射・透過)、蛍光撮影、紫外線撮影を中心とし、《静物(手を描き入れし静物)》については保存科学研究センター分析化学研究室長・犬塚将英によるX線撮影をも行いました。その結果、《静物(手を描き入れし静物)》については画中に隠された「手」を含む画面全体の画像を得た他、それ以外の作品においても、モティーフを動かして描き直した痕跡を持つものが複数存在することが分かりました。このことは、岸田劉生による絵画制作の工程について、新たな情報をもたらす発見だと言えます。詳細な内容は、上記オープンレクチャーにおいて報告します。
「創立150年記念特集 時代を語る洋画たち ―東京国立博物館の隠れた洋画コレクション」展(東京国立博物館)について

東京国立博物館の創立150年記念事業の一環として、「時代を語る洋画たち ―東京国立博物館の隠れた洋画コレクション」展(平成館企画展示室、6月7日[火]~7月18日[月・祝])が開催されました。同展は、東京国立博物館列品管理課長・文化財活用センター貸与促進担当課長である沖松健次郎氏による企画であり、当研究所からは文化財情報資料部部長の塩谷純、同部研究員の吉田暁子が、準備調査への参加などの形で協力しました。
日本東洋の古美術コレクションのイメージが強い東京国立博物館(以下、東博)ですが、じつはその草創期から、欧米作家の作品を含む洋画も収集してきました。同展では、万国博覧会への参加や収蔵品交換事業といった活動によって各国からもたらされた作品が「Ⅰ 世界とのつながり」、最新の西洋美術を紹介し、国内での制作を奨励する目的で収集された作品が「Ⅱ 同時代美術とのつながり」、災害や戦争といった社会の動きに対応して収集された作品が「Ⅲ 社会・世相とのつながり」という章立てのもとに展示されました。
同展の準備段階では、沖松氏による作品選定と収集経緯等の調査に基づき、作品の実見調査と撮影、資料調査、関連作品の調査などが行われました。第3章に出品された「ローレンツ・フォン・シュタイン像」(オーストリア、1887年)の像主は、大日本帝国憲法の起草に寄与したドイツの法学者ですが、沖松氏の調査・声掛けに応じた関係者からの情報提供により、像主の長男のアルウィン・フォン・シュタインが作者であることが同定されました。またレンブラント・ファン・レインによる版画作品「画家とその妻」(オランダ、1636年)は、戦後の一時期に東博が担った、西洋の近代美術の紹介という役割に関連して収集されたと考えられるものです。今回の調査では、外部専門家の助言によって版の段階(ステート)を絞り込むことができました。この他にも資料調査や関連作品の調査を通じた発見があり、これまでまとまった形で紹介されてこなかった東博の洋画コレクションの意義を改めて認識することになりました。
7月16日には月例講演会「時代を語る洋画たち-東京国立博物館の隠れた洋画コレクション-」において、沖松氏、塩谷、吉田によるリレー形式の講演が行われました。
沖松氏による展覧会全体の構想と、調査段階で判明した事項の紹介に続く各論として、塩谷は洋画家黒田清輝を記念するために設立された黒田子爵記念美術奨励資金委員会が、今回展示された松下春雄「母子」(1930年)や猪熊弦一郎「画室」(1933年)を含む昭和戦前期の洋画作品を東博に寄贈した経緯について紹介しました。また吉田はベルギーの画家ロドルフ・ウィッツマンによる油彩画の「水汲み婦、ブラバンの夕暮れ」を中心に、ロドルフとジュリエットという、ともに画家であったウィッツマン夫妻の略歴と、白馬会展への出品に始まる日本との関わりについて述べました。
岸田劉生による静物画と「手」という図像について―第8回文化財情報資料部研究会の開催



令和3年(2022)年2月24日、第8回文化財情報資料部研究会において、吉田暁子(当部研究員)が以下の報告を行いました。
大正期を中心に活動した画家の岸田劉生(1891-1929)は、黒田清輝の設立した葵橋洋画研究所で学んだのち、画友とともに立ち上げた「草土社」を中心に絵画を発表しました。フランスの近代絵画からの影響を強く受けていた日本の絵画界の中で、岸田はアルブレヒト・デューラーやヤン・ファン・エイクといったより古い時代の画家による精緻な絵画を積極的に受容し、のちには中国や日本の伝統的な絵画にも注目して独自の画風を追求しました。令和3(2021)年には京都国立近代美術館が大規模な個人コレクションを一括収蔵するなど、彼の画業を改めて見直す機運は高まっています。
今回の発表では、「岸田劉生による「手」という図像―静物画を中心に―」と題し、岸田の行った、静物画の中に人間の手を描き入れるという異例の表現について検討しました。手のモティーフは、《静物(手を描き入れし静物)》(大正7(1918)年、個人蔵)という作品に描き込まれたものの、のちに画面の中に塗りこめられてしまい、今は直接見ることができません。また同時期に描かれた《静物(詩句ある静物)》(大正7(1918)年、焼失)にも、果物を持つ手の図案が詩句とともに描かれましたが、こちらは作品自体が現存しません。このように制作当時の姿を見ることのできない2点の作品ですが、どちらの作品も、第5回二科展への出品(前者は落選)をめぐって雑誌や新聞上で賛否両論を呼び、話題を集めました。発表者は、論文「消された「手」 岸田劉生による大正7(1918)年制作の静物画をめぐる試論」(『美術史』183号、平成29(2017)年)の中で、岸田がこれらの静物画の制作と同時期に執筆を進めていた芸術論との関係、また岸田が本格的に静物画を描き始めていた大正5(1916)年の作品との関係について考察していました。今回の発表では、その内容を踏まえつつ、岸田の人物画の特徴的な一部分であった「手」が独立したモティーフとして注目された経緯を考察し、また、同時代のドイツ思想を先駆的に受容していた美学者である渡邊吉治による岸田劉生評が、岸田に影響を与えた可能性を指摘しました。
新型コロナウイルス感染拡大防止に留意しつつ、発表は地下会議室において完全対面方式で行いました。コメンテーターとして田中淳氏(大川美術館館長)をお招きし、また小林未央子氏(豊島区文化商工部文化デザイン課)、田中純一朗氏(宮内庁三の丸尚蔵館)、山梨絵美子氏(千葉市美術館館長)など、外部(客員研究員を含む)からもご参加頂きました。質疑応答では、コメンテーターより発表の核心にかかわる新情報をご教示頂いたほか、活発な意見交換が行われました。《静物(手を描き入れし静物)》の画面が改変された時期など、基本的な事項を含めて未解明な事柄の残される岸田劉生の静物画について、調査研究を続けていく上での示唆を受けることができ、充実した研究会となりました。
黒田清輝油彩画作品の撮影と光学調査


黒田記念館には、黒田清輝を中心とした画家による絵画作品が収蔵され、展示公開されています。その中核をなす黒田清輝による油彩画は、現在149点を数えます。現在、黒田記念館は東京国立博物館の一部となり、これらの作品も東京国立博物館の所蔵となっています。
令和3(2021)年10月から12月にかけて、これら黒田清輝の油彩画全点について、東京国立博物館職員の立ち合いのもとに、高精細カラー写真撮影・赤外線写真撮影・蛍光写真撮影を行いました。また、《智・感・情》、《読書》、《舞妓》、《湖畔》の4作品については蛍光X線分析による彩色材料調査を併せて行いました。
黒田清輝は19世紀末にフランスに留学して油彩画を学び、デッサンやクロッキーによる基礎に立脚しつつ、戸外での写生を重視する作風を身に着け、帰国後は日本近代絵画の主流をなすに至りました。しかしながら黒田清輝の画風は、留学期と帰国直後、さらには日本での地位の確立以降と、彼の立場や環境にともなって変化しており、一様ではありません。今回の写真撮影では、これまで高精細カラー写真撮影や赤外線写真撮影、蛍光写真撮影が行われていなかった作品まで含め、黒田記念館に収蔵される全ての油彩画を同一手法かつ同一のライティングで撮影したことに意義があります。高精細カラー写真によって浮かび上がる筆触、赤外線写真や蛍光写真によって写し出される下絵の存在や顔料の重なり方、そして蛍光エックス線分析によって得られる彩色材料に関する情報を総合的に評価していくことで、彼の作品が実際にどのように作られたのか、より深く知ることが可能となるでしょう。今回撮影された写真は、近代日本における油彩画の先駆者であった黒田清輝の油彩画の実像に迫るために、欠かせない資料となるはずです。
なお、これまでに一部の油彩画作品については東文研ウェブサイト(「黒田清輝の作品について」https://www.tobunken.go.jp/kuroda/japanese/works.html) にて既に公開しています。また、報告書『黒田清輝《智・感・情》美術研究作品資料 第1冊』(2002年)、『黒田清輝《湖畔》 美術研究作品資料 第5冊』(2008年)などでもご覧頂けます。今回の撮影・調査結果については、随時、ウェブサイトにて公開していく予定です。