漁村小雪図巻を読み解く―令和6年度第12回文化財情報資料部研究会の開催


東京文化財研究所文化財情報資料部では、国内外の研究者を招き、学術交流の場として研究会を開催しています。今年度は、中国美術学院教授であり藝術文化院副院長を務める万木春氏をお迎えし、「王詵《漁村小雪図》巻について」と題した研究発表を行いました。
本発表では、王詵の画業を文献資料に基づいて探究するとともに、《漁村小雪図》を構成する要素―水辺、雪景、漁村―を丹念に観察し、それらが 画面全体の空間構成にどのように寄与しているかを考察しました。また、自然描写、特に大気表現に注目し、画家の視覚的アプローチを読み解く試みがなされました。さらに、《漁村小雪図》にとどまらず、複数の作例を比較し、異なる視覚表現の方法についても詳細な検討がなされました。
質疑応答では、研究者や大学院生から活発な質問や意見が寄せられ、それに対して万氏が明快かつ大胆な視点から応答されたことが印象的でした。今回の海外研究者による発表を通じて、日本の研究者にとっても新たな視座を得る機会となりました。
今後も、海外の研究者を積極的に招き、より広い知見を共有する場として、定期的に研究会を開催していく予定です。
近世初期の漢籍受容と挿花文化の展開―令和6年度第6回文化財情報資料部研究会の開催

明時代に刊行された漢籍、いわゆる明版は日本にすぐさま輸入され、室町時代から江戸時代に我が国の文化に大きな影響をおよぼしました。その一例に挿花論として名高い袁宏道『瓶史』(萬暦28〔1600〕年成立)があります。『瓶史』は遅くとも寛永6(1629)年には舶載され、江戸時代後期頃、文人層を中心に熱心に受容され様々な生花の流派が成立しました。こうした受容と展開は18世紀以降に相次いだ『瓶花』関連文献の刊行、たとえば『本朝瓶史抛入岸之波』 (1750)や『瓶花菴集 附 瓶話』(1785)、『瓶史国字解』(1809、 1810)などをみてもよくわかります。
しかしながら、それに先立つ17世紀頃の受容については不明なことが多く、漠然としている状況にあります。令和6年(2024)10月29日に開催された文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部日本東洋美術史研究室長・小野真由美が「江戸時代初期における袁宏道『瓶史』の受容について―藤村庸軒の花道書の紹介をかねて―」と題して、17世紀における袁宏道『瓶史』の影響について研究発表を行いました。
発表では、新出の花道書『古流挿花口伝秘書』(東京文化財研究所所蔵)に、藤村庸軒(1613~99)が袁宏道に私淑し、挿花の一流派を成したことが記されていることなどを紹介しました。庸軒は17世紀を代表する茶人のひとりで、京都の呉服商十二屋の当主として藤堂家に仕え、三宅亡羊(1580~1649)に漢学を学びました。また藪内流と遠州流をへて千宗旦(1578~1658)の高弟となった人です。漢詩に秀で、多彩な茶歴をもつ茶人として知られる庸軒は、挿花にも秀でた人物でした。研究会では、コメンテーターに国文学研究資料館研究部准教授山本嘉孝氏をお招きし、袁宏道『瓶史』について貴重なご意見をうかがいました。
袁宏道が説いた花への理想的な姿勢、それはすなわち一枝の花を瓶に挿すことは自然に身をおくことに等しいとする境地でもあります。そうした精神性が江戸の人々にどのように受け止められ、諸流派へと展開していったのでしょうか。研究会では各分野のかたがたとの意見交換がおこなわれました。それらをふまえて花伝書『古流挿花口伝秘書』を手掛かりに、今後も丁寧に読み解いていきたいと思います。
近代中国の書画史学―令和6年度第4回文化財情報資料部研究会の開催

1920、30年代は日本と中国の美術交流を考えるうえで、きわめて重要な時代です。この少し前、日本では大村西崖(1868~1927)や中村不折(1866~1943)などによって中国絵画史学が形成されつつありました。近年、東京美術学校教授であった西崖が遺した『中国旅行日記』等の史料によって、日中の美術交流の諸相が明らかにされつつありますが、日中双方の社会情勢および美術界の動向をふまえた研究がもとめられています。
令和6(2024)年7月23日に開催された文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部客員研究員の後藤亮子氏が「余紹宋と近代中国の書画史学」と題した研究発表を行いました。後藤氏は西崖の『中国旅行日記』の研究に長年従事し、その調査の過程で、この時期が中国美術史学の展開においても重要な時代であったことに着目しました。そこで、日本への留学経験があり『書画書録解題』(1931年刊)の著者である余紹宋(1883-1949)に焦点をあて、余紹宋と日本との関わりと近代中国の書画史学の形成について論じました。
余紹宋は1920~30年代前後に活躍した史学家です。その著書『書画書録解題』は、中国の書画関係文献に関する初の専門解説書かつ必須参考文献として今日も高く評価される一方、余紹宋その人についての情報は極めて限られる状況が長く続きましたが、近年『余紹宋日記』その他の資料が公開され、中国の近代化におけるその役割が研究対象となりつつあります。余紹宋は明治38 (1905)年に日本に留学し、法学を修め、帰国後は官僚となりました。大正10(1921)年には政府の司法次長となります。いっぽうで湯貽汾(1778~1853)の孫に絵を学び、画史や画伝を博捜して徐々に美術界にも足跡を残すようになりました。昭和2(1927)年には官職を退き、学者、書画家、美術家として生きました。
後藤氏は、余紹宋の生涯とかれの画学研究、さらに書画の実践をたどりながら、先述の『書画書録解題』のみならず、『画法要録』(1926年刊)、美術報『金石書画』(1934-37年刊)などの著作を読み解き、中国美術史学における位置づけを検討しました。日本を通して西洋的知見を習得した余紹宋が国故整理運動と呼ばれる復古的なアプローチで伝統的な中国書画文化にクリティカルな目を向け、それが中国美術研究の近代化の礎石のひとつとなったと論じました。研究会は所外の専門家の方々にもご参会いただき、近代中国および日本における中国美術史学、東洋美術史学の成立過程に関する有意義な意見交換が行われました。
近代コレクター原六郎の知られざるコレクション―令和5年度第11回文化財情報資料部研究会の開催


明治時代を代表するコレクターのひとりに原六郎(1842~1933)がおります。原六郎は但馬国(現在の兵庫県)に生まれ、維新活動の功によって鳥取藩士となり、明治政府の援助でアメリカへ留学、さらにイギリスにて銀行学を修めました。帰国後、銀行家として名を成し、公共事業に尽力しました。そのかたわらで古美術を保護し蒐集活動を行いました。その優れたコレクションの大部分は原家が保持し、昭和52(1977)年に公益財団法人アルカンシエール美術財団が設立され現在にいたっています。
財団に寄贈された原家のコレクションは今日、現代アートを主軸として原美術館ARC(群馬県)にて展観されています。現代アートの公開は昭和54(1979)年に原家私邸を改修して開館した原美術館(東京都品川区)にはじまります。惜しくも令和3年(2021)に品川の原美術館が閉館されることとなり、これにともなって同地にのこされていた文化財の再調査が行われました。このとき発見された作品は100件以上にのぼり、それら新出作例は財団へ寄贈されました。
このたび新出作例のうち旧日光院客殿障壁画関連作例「野馬図」二幅について調査する機会をいただき、令和6(2024)年3月26日に開催された文化財情報資料部研究会にて、東京国立博物館アソシエイトフェロー・小野美香氏が「原六郎コレクションの新たな展開―三井寺旧日光院客殿障壁画研究を契機として―」と題して同コレクションの概要と今後の展望について報告しました。つづいて文化財情報資料部日本東洋美術史研究室長・小野真由美が「新出の野馬図について―旧日光院客殿障壁画との関連から―」と題して同図の造形的特徴について報告しました。質疑応答では障壁画の配置や作者の比定などについて議論されるとともに、原六郎コレクションについても高い関心が寄せられました。これを契機として、同コレクション全体を俯瞰し、原六郎とその古美術保護の意義をふまえた新たな学術調査へと展開していければと考えています。
「能面」「扇面」に関する16世紀史料についての研究報告—第1回文化財情報資料部研究会の開催

日本美術史のみならず日本文化史において、「能面」や「扇面」は、古来の宗教性や祝儀性にかかわる重要な研究対象です。令和4(2022)年4月15日開催の第一回文化財情報資料部研究会では、大谷優紀(文化財情報資料部・研究補佐員)より「早稲田大学會津八一記念博物館所蔵「べしみ」面に関する一考察」についての研究発表が行われました。
本作例は、豊後国臼杵藩主稲葉家伝来で、「酒井惣左衛門作」等の刻銘が確認できるものです。関連作例として岐阜・長滝白山神社所蔵翁面、広島・嚴島神社所蔵翁面があり、それらと「べしみ」面との奉納時期が接近していることや、願主が同一名であることが注目されます。大谷氏は「べしみ」面について、室町時代の奉納面としての造形性を考察し、のちの長霊癋見(ちょうれいべしみ)面の型への過渡期に制作されたものと位置づけました。本発表では、コメンテーターに浅見龍介氏(東京国立博物館)をお招きし、能面研究の重要性と課題についてうかがい、さらに本作例の制作者については、地方性や受容者の問題についてのご指摘をいただきました。
つづいて、小野真由美(文化財情報資料部・日本東洋美術史研究室長)より「『兼見卿記』にみる絵師・扇屋宗玖」についての研究報告が行われました。『兼見卿記』は吉田神社の祠官であった吉田兼見(1535-1610)の日記で、当時の公家や戦国武将の動向を今日に伝える貴重な史料です。兼見をとりまいた人々の中から、日記に十数回にわたって登場する狩野宗玖という絵師に着目し、これまで知られてこなかった公家と扇屋との交友を読み解きました。兼見は、織田、豊臣、前田家などへの贈答品に宗玖の扇面を用いています。さらに、みずからの晩餐や酒席に招くなど、昵懇の関係をむすんでいました。これらから、この時期の扇屋という絵師の重要性や職性について新たな考察を加えました。
第55回オープンレクチャーの開催


文化財情報資料部では、毎年秋に広く一般の聴衆を募って、研究者の研究成果を講演する「オープンレクチャー」を開催しています。令和3(2021)年は新たに「かたちを見る、かたちを読む」のテーマのもと行われました。例年2日間にわたって外部講師を交えて開催してきましたが、昨年同様、新型コロナ感染防止の情勢から、内部講師2名による1日のみのプログラムとし、令和3 (2021)年11月5日に、抽選制による30名限定の定員にて、検温、マスク、手指の消毒に配慮して開催いたしました。
本年は、文化財情報資料部日本東洋美術史研究室長・小林達朗による「皆金色阿弥陀絵像の出現とその意味―転換期の時代思潮の表象」、および主任研究員・安永拓世による「香川・妙法寺の与謝蕪村筆「寒山拾得図襖」―画像資料を活用した復原的研究―」の2講演が行われました。
小林からは、鎌倉時代の阿弥陀絵像にほどこされた金泥・金箔による皆金色という表現について、時代的思潮の転換、とくに天台本覚思想の出現にともなう阿弥陀への認識とのかかわりを中心とした講演がされました。また、安永からは、香川県丸亀市の妙法寺に伝わる「寒山拾得図襖」(重要文化財)の経年による破損部分について、当研究所がかつて撮影したモノクロ写真および新たに撮影した高精細画像をもちいた復原の試みが紹介されました。
聴衆へのアンケートの結果、参加者の85パーセントから「満足した」「おおむね満足した」との回答を得ることができました。
第53回オープンレクチャーの開催

文化財情報資料部では、令和元(2019)年11月1日、2日の2日間にかけて、オープンレクチャーを東京文化財研究所セミナー室において開催しました。毎年秋に、ひろく一般の聴講を公募して、当所研究員の日頃の研究成果を、外部講師を交えて講演するものです。なお、この行事は台東区が主催する「上野の山文化ゾーンフェスティバル」における「講演会シリーズ」の一環でもあり、さらに11月1日の「古典の日」にちなんだ行事でもあります。
本年は、1日に「大徳寺伝来五百羅漢図と『禅苑清規』―描かれた僧院生活―」(文化財情報資料部研究員・米沢玲)、「広隆寺講堂阿弥陀如来坐像のかたちと込められた願い―願主「永原御息所」の人物像を起点として―」(慶應義塾志木高等学校教諭・原浩史氏)、2日に「日本唯一の伝世洋剣、水口レイピアの調査と研究」(文化財情報資料部広領域研究室長・小林公治)、「SPring-8による刀剣研究最前線:制作技術の解明に向けて」(昭和女子大学歴史文化学科・田中眞奈子氏)という4題の講演が行われました。両日合わせて151名に参加いただき、アンケートの結果、回答者のほぼ9割から「大変満足した」「おおむね満足だった」との回答を得ることができました。当所研究員の研究動向や新知見を公開することで、一般のみなさまに文化財について楽しく学んでいただくよい機会となりました。
近世土佐派の画法書を読む――文化財情報資料部研究会の開催


平成30(2018)年6月26日の文化財情報資料部月例の研究会では、“土佐光起著『本朝画法大伝』考―「画具製法并染法極秘伝」を端緒として―”と題し、下原美保氏(鹿児島大学)をコメンテーターにお招きして、小野真由美(文化財情報資料部)による発表が行われました。
土佐光起(1634~54)は、ながく途絶えていた宮廷の絵所預に任ぜられたことから、「土佐家中興の祖」とされる絵師です。光起は、伝統的なやまと絵に、宋元画や写生画などを取り入れ、清新で優美な作品を多くのこしました。
『本朝画法大伝』(東京藝術大学所蔵)は、光起が著した近世を代表する画法書のひとつです。今回、同著の彩色法について、狩野派の画法書『本朝画伝』(狩野永納著)や『画筌』(林守篤著)、狩野常信による写生図(東京国立博物館所蔵)との比較を行いました。たとえば、「うるみ」という色彩について光起は、「生臙脂ぬり、後に大青かくる」と伝えますが、狩野派の画法書では胡粉を混色する異なる方法を記しています。そこで、常信の写生図を参照すると、「山鳩図」「葛図」に「うるミ」と注記があり、ヤマバトの足やクズの花の実際の固有色が、光起の伝える彩色法に一致することがわかりました。こうした比較から、『本朝画法大伝』が他の画法書にくらべて、実践的かつ具体的な内容であることがみえてきました。
研究会においては、土佐派、住吉派、狩野派、そして日本画研究など様々な立場から、ご意見をいただきました。今後は、そうした諸研究者のみなさまと、同著の更なる読解をすすめ、江戸時代の画法についての考察を深めていきたいと考えております。
雪舟研究の最前線-文化財情報資料部研究会の開催

雪舟等楊は、中国(明)に渡り水墨画を大成しました。この雪舟入明に関する史料に、呆夫良心『天開図画楼記』と雪舟筆「山水図」自賛(「破墨山水図」東京国立博物館蔵)があります。橋本雄氏(北海道大学)は、「雪舟入明再考」(『美術史論叢』33、2017年3月)において、日明関係史研究の立場から、雪舟の入明は積極的に試みられたものであるとする説を提示されました。また氏は、『天開図画楼記』の「向者、大明国北京礼部院、於中堂之壁、尚書姚公、命公令画之」の「之」は北京の礼部院に雪舟が描いた画題を指し、それは鍾馗像だったのではないかと仮定し、傍証として鍾馗と科挙、礼部院との関係を論じました。さらに、「山水図」自賛の「於茲長有声并李在二人得時名、相随伝設色之旨兼破墨之法兮」部分は、従来の解釈のような「雪舟が長有声や李在に師事した」ことを意味するのではなく、長有声・李在が相随(あいしたが)って伝統的筆法を学び取ってきたことを意味すると読み取りました。
この論考をうけて、8月7日文化財情報資料部研究会にて綿田稔氏(文化庁)は、「橋本雄「雪舟入明再考」に寄せて」と題し、『天開図画楼記』および「山水図」自賛についての橋本説に厳しい検討を加えました。司会に島尾新氏(学習院大学)、コメンテーターに伊藤幸司氏(九州大学)、米谷均氏(早稲田大学)、須田牧子氏、岡本真氏(東京大学史料編纂所)をお招きし、美術史のみならず、歴史学、文献史学からの意見をふまえた研究会となりました。
綿田氏は、かつて『漢画師 ―雪舟の仕事』(ブリュッケ、2013年)にて『天開図画楼記』の「命公令画之」を「之に画く」と読みましたが、従来の「之を画く」であるとしても「之」が直前の「墨鬼鍾馗」であるとする橋本説に疑問を呈しました。研究会の出席者からは、「之」が何を指すかは、文法による解釈だけでは断定できないとの意見が多く、画題を鍾馗像とすることについては再検討の余地があることが指摘されました。なお橋本氏が示した傍証などから、鍾馗像であった可能性も否定できないという意見もみられました。研究会では、解釈の可能性とともに礼部院にふさわしい画題の探求が今後の課題とされました。
また綿田氏は、自賛に記された「相随伝」の主語は、「余曽入大宋国」以下の主語が「余」すなわち雪舟であるべきことから、従来どおり雪舟が相随伝えたと読む立場をとりましたが、研究会出席者からは、従来説では文章の構造上矛盾があるという見解が多く、橋本氏の解釈を支持する結論となりました。雪舟が「長有声」「李在」という二人の画家を例示した意図はわかりませんが、「数年而帰本邦地、熟知吾祖如拙周文両翁製作楷模」に着目すると「長有声并李在」と「如拙周文」が対をなすことから、雪舟の意図は「如拙周文」を際立たせることにあったといえそうです。綿田氏は「相随伝」したのを雪舟にしなければ、「至于洛求師」、すなわち雪舟が中国で師を求めたという記述に合わないことを指摘されました。司会の島尾氏からはテキストにおけるクリシェ(常套句)の峻別が示唆され、史料読解や解釈にとどまらない幅広い視野からの研究が必要であるという認識を共有する機会となりました。
綿田氏からの問題提起によって、史料の解釈の可能性と振幅を改めて共有することができました。今後の雪舟研究の展開が期待されるでしょう。