研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


アンコール・タネイ遺跡保存整備のための現地調査IX

基壇の解体
コアサンプリング

 東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業への技術協力を継続しており、令和元(2019)年9月より、同遺跡保存整備計画の一環として、東門の修復工事をAPSARAと共同で進めています。令和2(2020)年2月26日から3月18日にかけて、3次元レーザースキャナーを用いた東門基壇の記録および基礎構造の強度調査等を目的に、職員および外部専門家計4名の派遣を行いました。
 2月27日から28日まで、上部構造の解体により露出した基壇および発掘調査を行った基壇外側入隅部の状態を正確に記録するため、東京大学生産技術研究所(東大生研)の大石岳史准教授の協力のもと、3次元レーザースキャナーを用いた基壇の計測を行いました。こののち、基壇内部盛土層の平板載荷試験、およびラテライト下地材等の一軸圧縮試験を予定していましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で外部専門家の派遣を中止せざるを得なくなり、現地では2019年12月に続く第2回目の簡易動的コーン貫入試験のみを実施しました。
 簡易動的コーン貫入試験は、基壇内部盛土層と基壇外縁部の基礎地業層を対象として計11カ所で実施したところ、基壇内部盛土については壁直下部の方が室内中央部(床下)より概して大きい数値を示しました。この要因としては、試験時の気候の違いが影響している可能性はあるものの、壁直下では長期的な建物の自重により版築が締め固められ、現状で上部荷重を支持するのに十分な強度を有していることが推測されます。併せて、最下層の基礎地業を含む断面構造確認のため、ハンドオーガーによるコアサンプリングも行いました。
 後日、3種類の試験体(既存のラテライト旧材、今回修復で劣化部の置換に使用するラテライト新材、据付調整用のライムモルタル)について、東大生研の桑野玲子教授、大坪正英助教の協力のもと、一軸圧縮試験等を行った結果、ラテライト旧材と新材とで顕著な強度差はないことなどが判りました。
 世界的な新型コロナウイルス感染拡大により、当研究所が実施する国際協力事業も未曾有の状況が続いていますが、オンライン会議やデジタルデータ等を積極的に活用しながら、ひきつづき綿密な協力体制を維持できるよう模索しています。

資料閲覧室の臨時閉室とオープンアクセス資料拡充の推進

東文研OPACの画面
PDFでダウンロードできる明治期の美術展覧会図録

 新型コロナウイルスによる感染症(COVID-19)拡大防止のため、同じ独立行政法人国立文化財機構の他施設と同様に、資料閲覧室は令和2(2020)年2月28日から臨時閉室させて頂いており、ご利用の皆様には多大なご迷惑・ご不便をお掛けしております。政府の緊急事態宣言発令後は、当研究所の多くの職員も自宅待機となっておりますが、学校や職場で研究ができなくなってしまっている方が世界中におられます。
 こうした状況下で、有効に活用できるのが、インターネット公開のデータベースやオープンアクセス資料です。これまでも当研究所では、所蔵資料のデジタル化と広範な利用促進に向けた取り組みを進めて参りましたが、ゲッティ研究所との共同事業により、昨年10月には明治〜昭和初期の美術展覧会カタログ900冊余りをインターネット公開しており、現在は当研究所所蔵の江戸時代の版本およそ730タイトル(1,700冊)のデジタル化、オープンアクセス化を鋭意進めております。江戸時代の版本は今年中にゲッティ・リサーチ・ポータルから検索・閲覧できるようになる予定です。
 ゲッティ研究所との共同事業でデジタル化した資料は、こちらからご覧になれます。
https://opac.tobunken.go.jp/gate?module=top&path=corner/corner.do&method=open&no=1
また『美術研究』、『保存科学』、『無形文化遺産研究報告』、『日本美術年鑑』などは機関リポジトリからご覧頂けます。
https://tobunken.repo.nii.ac.jp
さらに当研究所の多種多様の研究資料は、「東文研総合検索」から検索できます。
http://www.tobunken.go.jp/archives/
より多くの皆様に、いつでもどこからでも無料でご利用頂ける研究資料の提供をこれから推進して参りますので、どうぞご利用下さい。

売立目録デジタルアーカイブの公開と今後の展望―売立目録の新たな活用を目指して――第10回文化財情報資料部研究会の開催

発表の様子

 東京文化財研究所では、明治から昭和に発行された2565件の売立目録(オークションカタログ)を所蔵しており、長年、閲覧に供してきましたが、売立目録の原本の保存状態が悪いため、平成27(2015)年から東京美術倶楽部と共同で、売立目録のデジタル化をおこない(2015年4月の活動報告https://www.tobunken.go.jp/materials/
katudo/120680.html
を参照)、令和元(2019)年5月から「売立目録デジタルアーカイブ」として公開を開始したところです(2019年4月の活動報告https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/817096.htmlを参照)。
 令和2(2020)年2月25日に開催された第10回文化財情報資料部研究会では、「売立目録デジタルアーカイブの公開と今後の展望―売立目録の新たな活用を目指して―」と題して、所外から3名の発表者を招き、さまざまな分野における売立目録デジタルアーカイブの活用事例を紹介していただきました。発表内容は、山口隆介氏(奈良国立博物館主任研究員)が「仏像研究における売立目録の活用と公開の意義」、山下真由美氏(細見美術館学芸員)が「土方稲嶺展(於鳥取県立博物館)での売立目録の活用と展開」、月村紀乃氏(ふくやま美術館学芸員)が「工芸研究における売立目録デジタルアーカイブの活用方法とその事例」、安永が「売立目録デジタルアーカイブから浮かび上がる近世絵画の諸問題」についてでした。会場には、各地の学芸員や研究者など50名近くが参加しており、4名の発表後は、発表者間でディスカッションをおこなったほか、会場からの質問などにも答え、デジタルアーカイブの利点や注意点、今後の課題や問題点などに関して、活発な議論が交わされました。なお、当日のアンケート結果では、この研究会について、87%の方から「たいへん満足した」との回答を得ています。

ゲッティ・センターの国際語彙協議会(ITWG)での発表

国際語彙協議会の会場

 令和2(2020)年2月6、7日にアメリカのロサンゼルスにあるゲッティ・センターで開催された国際語彙協議会(ITWG: International Terminology Working Group Meeting) において、「日本人の美術家たち:東京文化財研究所(Japanese artists, TNRICP)」と題して、現在、当研究所とゲッティ研究所との共同事業の一環として取り組んでいるゲッティ・ボキャブラリーズ(Getty Vocabularies)への日本美術家人名情報の提供、その途中経過を発表しました。 ゲッティ研究所が主導するITWGは、美術・建築シソーラス(AAT: Art & Architecture Thesaurus)、地理的名称シソーラス(TGN: Thesaurus of Geographic Names)、美術家人名総合名鑑(ULAN: Union List of Artist Names)、文化財名称典拠(CONA: Cultural Objects Name Authority)、図像典拠(IA: Iconography Authority)などのプログラムで構成される統制語彙集ゲッティ・ボキャブラリーズ(getty.edu/research/tools/vocabularies/)に関する共通のトピックを議論するグループで、おおむね2年に1度招集されています。今回の協議会には、アメリカ合衆国、台湾、ベルギー、ドイツ、ブラジル、イスラエル、クロアチア、アラブ首長国連邦、スイス、オランダなどから35名ほどの参加者が参集し、ゲッティ・ボキャブラリーズ各プログラム担当者から、その現状と機能拡張の進展等について報告があり、また参加機関から、ゲッティ・ボキャブラリーズへのデータ提供の先駆的な実践などについて発表が行われました。さらに、これらの報告・発表をうけ、ゲッティ研究所担当者や参加機関において共通する問題を挙げて議論を行うなかで、他国の参加者からも助言を得ることができました。
 日本の文化財を海外に外国語で紹介する際には、国際的な専門用語・人名辞典が不可欠ですが、ゲッティ・ボキャブラリーズは今日の技術と関係機関の連携によって実現しようとする取り組みです。これに当研究所が永年蓄積してきた日本美術家人名情報を提供することで、日本の文化財の発信、あるいは国際的な日本文化財研究の支援となることを目指しています。

第13回無形文化遺産部公開学術講座の開催

公開学術講座の様子

 令和2(2020)年2月6日(木)、第13回東京文化財研究所無形文化遺産部公開学術講座「染織技術を支える草津のわざ 青花紙―花からつくる青色―」を開催しました。
 午前中には特別上映会として文化庁工芸技術記録映画『友禅―森口華弘のわざ―』(昭和63〈1988〉年、桜映画社)や、平成11(1999)年に草津市で制作された『草津市の花 青花 伝承の青花紙』を上映し、青花紙についてのこれまでの記録を辿りました。
 午後からは平成28~29年度にかけて滋賀県草津市と東京文化財研究所で実施した青花紙製作技術の共同調査の成果を中心に講座を開催しました。共同調査については共同調査報告書を刊行しています(https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/817166.html 2019年、4月活動報告)。
 講座では趣旨説明後、本共同研究で撮影・編集した『青花紙製作技術の記録工程』(平成30〈2018〉年制作:東京文化財研究所)の記録映像を上映しました。その後、菊池からは「青花紙利用の現状―染織技術者への聞き取り調査を通じて―」について青花紙と代替材料である合成青花の双方が両方利用されている調査結果を報告しました。次に、草津市立草津宿街道交流館の岡田裕美氏からは、「草津市と青花紙―青花紙製作技術の保護に向けてー」と題して、共同調査で得られた草津市と青花紙製作技術の関係性の報告に加えて、現状についての報告がありました。共同調査から2年が経ち、3軒あった青花紙を製作する農家をとりまく状況は変わっています。現在では、草津市でも担い手セミナーを実施することで技術の伝承を行っています。現在の取り組みについての報告は、地域文化としての青花紙をどのように考えていくか、保護はどのように行っていくべきかという課題を浮き彫りとしました。その後、東京文化財研究所の石村智室長より「文化遺産としての青花紙」と題してこのような材料を製作する技術をどのように文化財保護に位置付けて考えていくのかについて報告がありました。
 共同研究成果の報告後、本公開講座は木版摺更紗の重要無形文化財保持者である鈴田滋人氏をお招きして「〈座談会〉染織材料としての青花紙」を設けました。青花紙は、友禅染や絞染の下絵の材料のイメージがありますが、鈴田氏の木版摺更紗の作品制作においても重要な工程を担う材料であることも改めて感じる機会となりました。 
 青花紙の技術伝承は、節目を迎えています。無形文化の保護は変容とどのように折り合いをつけていくのかを常に考えていかなければなりません。今後も利用できる材料であるかという課題に直面している現状について参加者の方にも知ってもらえる良い機会となりました。

パンフレット『伝統芸能を支える技Ⅴ 調べ緒 山下雄治』の刊行

パンフレット『伝統芸能を支える技Ⅴ 調べ緒 山下雄治』

 「伝統芸能を支える技」を取り上げたパンフレットのシリーズ5冊目を刊行しました。今回は「調べ緒」(「調べ」とも)の製作者・山下雄治氏を取り上げています。調べ緒は、能楽や歌舞伎をはじめ全国各地の祭礼でも用いられる、小鼓、大鼓、太鼓の表革と裏革を締め合わせるための特殊な麻紐です。そして山下氏は、代々調べ緒を扱う山下慶秀堂(京都)の四代目当主として、調べ緒の製作や後進の育成、普及活動に取り組んでいます。パンフレットでは秘伝の「固く柔らかく綯(な)う」技の一端を紹介しています。また、パンフレット刊行に先行して行った山下氏の調べ緒製作技術の調査概要は、「楽器を中心とした文化財保存技術の調査報告Ⅱ」(前原恵美・橋本かおる、『無形文化遺産研究報告』13、東京文化財研究所、2018)に掲載されています。併せてご参照下さい(こちらからダウンロードもできますhttps://www.tobunken.go.jp/ich/maehara-hashimoto-2)。
なお、このパンフレットのシリーズは、営利目的でなければ希望者にゆうパック着払いで発送します(在庫切れの場合はご了承ください)。
ご希望の場合は、mukei_tobunken@nich.go.jp(無形文化遺産部)宛、1.送付先氏名、2.郵便番号・住所、3.電話番号、4.ご希望のパンフレット(Ⅰ~Ⅴ)と希望冊数をお知らせください。

〈これまでに刊行した同パンフレットシリーズ〉
・『伝統芸能を支える技Ⅰ 琵琶 石田克佳』
・『伝統芸能を支える技Ⅱ 三味線象牙駒 大河内正信』
・『伝統芸能を支える技Ⅲ 太棹三味線 井坂重男』
・『伝統芸能を支える技Ⅳ 雅楽管楽器 山田全一』
・最新『伝統芸能を支える技Ⅴ 調べ緒 山下雄治』

 今後も、文化財保存技術としての楽器製作・修理技術を取り上げたパンフレットを継続的に刊行する予定です。

台湾指定古跡・旧日本海軍鳳山無線電信所の調査

現在の旧佐世保無線電信所施設とその周辺(長崎県佐世保市)
旧鳳山無線電信所の中心にある電信室正面(台湾高雄市)

 長崎県の佐世保市と西海市をへだてる針尾瀬戸をみおろす丘陵上にある旧佐世保無線電信所(針尾送信所)は、海軍が大正11(1922)年に建設した長波通信基地の遺構です。わが国のコンクリート構造の草分けとして知られる海軍技師・真島健三郎(1874~1941)が率いた佐世保鎮守府建築科が手がけた、高さ136メートルに及ぶ3基の巨大な電波塔に象徴される上質な鉄筋コンクリート造の建造物群は、当時最高水準のコンクリート技術を示すものとして、平成25(2013)年に重要文化財に指定されています。
 重要文化財の指定後、旧佐世保無線電信所施設(以下、佐世保)を管理する佐世保市では文化財としての保存と活用のための整備を進めています。令和2(2020)年2月12~13日の間、筆者が委員を務める整備検討委員会の活動の一環として、台湾南部の高雄市郊外にある旧日本海軍鳳山無線電信所の調査を行いました。
 鳳山無線電信所(以下、鳳山)は、同じく佐世保鎮守府が手がけた長波通信基地で、佐世保より5年先立つ大正6年(1917)に完成しました。2000年代まで台湾海軍の招待所や訓練所として利用された後、公開施設となり、2010年に台湾の古跡に指定されています。鳳山は、佐世保と同じ組織による設計だけあって、電波塔こそ当時一般的な鉄塔(解体撤去済み)でつくられたものの鉄筋コンクリートが多用され、半径300メートルの円周道路や中心部の主要施設の配置など佐世保と類似した構成になっています。今回の調査で、鳳山は戦後一貫して大規模な更新や改造を要しない教育的施設であったため、主要建物の改変が比較的少なく、日本海軍時代の様相を今も留めていることが確認できました。特に施設の中心にある電信室は佐世保と同形式で、一部火災で消失しているものの、鉄扉や上下窓枠といった建具のほか内部の床や階段など木製の造作が残っており、建設当時のよく姿を伝えています。佐世保の電信室は大戦末期の耐爆化に伴う改造に加え、海上自衛隊及び海上保安庁時代の時々折々の改修も少なくないことから、今後、保存修理の方針を検討する上での有効な参考資料になると考えられます。
 いっぽう鳳山には現地で「十字電台(ラジオ局)」と呼ばれる、その重厚な建築的特徴から作戦指揮所を思わせる特異な建物があるなど、少なからず佐世保との違いもありました。鳳山の整備では、白色恐怖(国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧)時代に鳳山が政治犯矯正の場所となっていた事実に焦点が当てられており、日本海軍時代については余り注目されておらず、未解明の事柄も多く残されているようです。今後、文化財としての保護を共通項に、佐世保と鳳山の交流を進めていくことで、日台の近代化遺産における保存理念や修理方法の展開にも貢献できるものと期待されます。

永青文庫所蔵 重要文化財「洋人奏楽図屏風」デジタルコンテンツの公開

資料閲覧室の専用端末
右隻部分の拡大画像と蛍光エックス線分析結果

 文化財情報資料部では、当研究所で行った美術作品の調査研究について、デジタルコンテンツを作成し、資料閲覧室にて公開しています。このたび永青文庫所蔵の重要文化財「洋人奏楽図屏風」のデジタルコンテンツの公開を開始致しました。永青文庫所蔵「洋人奏楽図屏風」は初期洋風画と呼ばれる日本絵画の一作例で、西洋の人物・風俗・景色などが西洋風の表現技法によって描かれています。この作品は屏風という日本絵画の典型的な画面形式に、通常の日本絵画とは異なる、独特な表現技法が用いられています。このデジタルコンテンツは、平成27(2015)年に東京文化財研究所が刊行した報告書に基づいて作成しました。専用端末で高精細カラー画像、近赤外線画像、蛍光エックス線分析による彩色材料調査の結果などがご覧いただけます。ご利用は学術・研究目的の閲覧に限り、コピーや印刷はできませんが、デジタル画像の特性を活かした豊富な作品情報を随意に参照することができます。この画像閲覧端末は、資料閲覧室開室時間にご利用いただけます。ご利用に際しては下記をご参照下さい。http://www.tobunken.go.jp/~joho/japanese/library/library.html

バンコクにおけるタイ所在日本製漆工品に関する調査の実施

ワット・ラーチャプラディットでの調査の様子

 タイ・バンコク所在のワット・ラーチャプラディットは、ラーマ4世王の発願により1864年に建立された王室第一級寺院です。同寺院の拝殿の開口部には、伏彩色螺鈿の技法により装飾された日本製の扉部材が用いられており、東京文化財研究所ではこの扉部材の修理に関して、タイ文化省芸術局及び同寺院の依頼により技術支援を行っています。文化財の修理は作品に関する知見を深める機会でもありますが、同時代の輸出漆器に関する研究事例はまだ少なく、扉部材の来歴はいまだ明らかではありません。そこで、令和2(2020)年1月12日〜18日に、バンコクにおいて伏彩色螺鈿を含む日本製漆工品の熟覧調査を実施しました。
 今回の調査では、ワット・ラーチャプラディットにおいて、扉部材の状態調査を実施するとともに、タイ側が主体的に実施する修理事業の計画について、芸術局長の臨席のもと情報交換を行いました。また、最も格式の高い王室第一級寺院の一つであるワット・ポーでの調査の機会を得て、螺鈿と蒔絵による装飾を有する夾板(ヤシの葉に経典などを記した文書(貝葉)を挟んで保護する細長い板)1組を熟覧しました。さらに、バンコク国立図書館では平成31(2019)年に引き続き、同館所蔵のラーマ1世王から5世王の時期の貝葉の一部を対象にそれらの夾板の熟覧調査を行ったところ、これまで知られているものとは別に、螺鈿と蒔絵の装飾を有する夾板1点があることがわかりました。
 今回はこのほか、明治44(1911)年にタイに渡り、かの地において漆芸の分野で技師及び教育者として活動した、三木栄(1884-1966)が使用していた道具箱の調査を行いました。伏彩色螺鈿をはじめとした幕末から明治期の日本製漆工品を通じた、日本とタイの交流に関する調査に、いっそう広がりが得られたように感じています。

元勲・井上馨と明治文化――第9回文化財情報資料部研究会の開催

井上馨の蔵品図録『世外庵鑑賞』(東京文化財研究所蔵)より

 井上馨(1835~1915年)は長州藩士で明治維新の動乱期に活躍、維新後も外務大臣や内務大臣など要職を歴任し、政財界に大きな影響を与えた政治家です。鹿鳴館外交に代表される欧化政策を主導したことでよく知られていますが、その一方で、伝徽宗筆「桃鳩図」をはじめとする東洋美術の名品を蒐集し、また益田鈍翁ら財界の茶人とともに茶の湯をたしなむ数寄者でもありました。令和2(2020)年1月21日に開催された文化財情報資料部研究会での依田徹氏(遠山記念館学芸課長)の発表「明治文化と井上馨」は、そうした井上の文化史における重要性にあらためて目を向けさせる内容でした。
 井上の骨董収集は明治の早い時期に始まったとされています。現在は奈良国立博物館が所蔵する平安仏画の優品「十一面観音像」も、井上は明治10年代に入手していたようです。ときにはかなり強引な手段で数々の名品を蒐集し、明治45年には蔵品図録『世外庵鑑賞』を出版しています。一方で明治20年には自邸に明治天皇の行幸啓を仰ぎ、九代目市川団十郎らによる歌舞伎を天覧に供したり、また落語家の三遊亭圓朝とも交流したりするなど、芸能史の上でもその存在は看過し得ないものがあります。
 依田氏の発表では、そうした井上の多岐にわたる文化への関与が明らかにされ、その後は齋藤康彦氏(山梨大学名誉教授)、田中仙堂氏(三徳庵理事長)、塚本麿充氏(東京大学東洋文化研究所准教授)を交えて意見交換を行いました。多忙な政務のかたわら、どのように審美眼を養っていたのか、など井上については不明の部分も多く、今後の研究の進展が待たれるところです。

国宝高松塚古墳壁画修理作業室の一般公開

映像による事前ガイダンス

 令和2(2020)年1月18日から24日までの7日間、令和元年度(第28回)国宝高松塚古墳壁画修理作業室の一般公開が行われ、期間中、東京文化財研究所から4名の研究員が説明員として対応に当たりました。 
本公開では、見学者用通路側に「冬」を象徴する北方の神獣である北壁玄武と、東西壁女子群像・東西壁男子群像を配置し、来場された多くの方に、壁画の現状をご確認頂きました。近年、西壁女子群像をはじめとした図像部分が綺麗になり、クリーニング前後の違いがはっきりと分かりやすくなったことで、作業室内の壁に展示されていた過去の写真と見比べて驚かれる方も多くいらっしゃる一方、同時期に四神の館にて公開されました、国宝キトラ古墳壁画の北壁玄武と比較しながら、熱心にご覧になる方もいらっしゃいました。
 高松塚古墳壁画に係る一連の事業は、文化庁からの受託事業「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策に関する調査等業務」として行われており、その業務の中心として、当研究所も長きに亘り関わって参りました。壁画は平成19(2007)年に墳丘から石室石材ごと取り出されて以降、古墳近くの仮設修理施設にて、カビやバイオフィルムに汚染された絵画面と無地場のクリーニングおよび粗鬆化が進んだ漆喰の強化を中心に、処置が進められています。そして12年目となる今年度で、その保存修復計画も一旦区切りを迎える事となりました。将来的な壁画の保存と展示活用については、今後さらに検討を重ねていく予定です。

ブータン王国の歴史的建造物保存活用に関する拠点交流事業III

ワークショップ前の現地確認(カベサ集落を望む)
ワークショップでの議論の様子(DCHS会議室)

 東京文化財研究所(東文研)では本年度、文化庁の文化遺産国際協力拠点交流事業を受託し、ブータン王国の民家を含む歴史的建造物の文化遺産としての保存と持続可能な活用のための技術支援及び人材育成に取り組んでいます。令和2年1月16日、同国内務文化省文化局遺産保存課(DCHS)が開催したラモ・ペルゾム邸の保存活用に関するワークショップに、外部専門家3名を含む計6名を派遣しました。
 ラモ・ペルゾム邸は、首都ティンプー近郊のカベサ集落に所在する同国内の現存最古級と目される民家で、ブータン政府が成立を目指している文化遺産基本法(新法)のもとでの民家建築の保存候補の筆頭に挙げられるものです。いっぽう無住となって久しく、また経年劣化の進行も著しいことから、その保存の可能性や活用の方向性について、行政や所有者、地域コミュニティといった関係者間での予備的な合意形成が求められる状況でした。そのような問題意識から、ワークショップはラモ・ペルゾム邸の保存活用に対する様々な見解を共有し、実現可能性が高い方向性を探ることを目的に、利害関係者として所有者と地域コミュニティの代表者のほか、公共事業定住省の地域計画担当者、観光庁の観光開発担当者を召集し、東文研は文化遺産に関する理念的・技術的な見地からの助言を行うために参加しました。
 ワークショップの前半は、文化遺産保護を進める立場から、東文研が現地調査に基づく保存の方針と修復の方法に関する提案、DCHSが行政による資金面を含む支援のあり方に関する報告を行いました。対して保存を担う立場からは、文化遺産としての高い評価に対する理解が示されたいっぽう、所有者から現代に即した活用による経済的利益の確保、また地域コミュニティ代表者から保存に対する行政の積極的な関与の必要性が強く要望されました。そして後半には、前半の発表や意見をもとにした活発な議論が行われ、(1)新法による指定など文化遺産としての価値付けのための手続きを加速すること、(2)修復に対する行政の支援や保存に対する所有者の義務など保護に係る枠組みを明確にすること、(3)文化遺産として適切かつ所有者の意向に配慮した活用案を検討することなど、ラモ・ペルゾム邸の保存活用を進めていく方向で参加者間の合意が図られました。
 東文研では今後もDCHSに協力し、ブータンにおける民家建築等の文化遺産としての保存活用の実現に向けて、現地調査や研究活動を継続していく予定です。

「ネパールの被災文化遺産保護に関する技術的支援事業」による現地派遣(その13)

第3回市長会議の様子

 文化庁より受託した標記事業の一環として、東京文化財研究所(東文研)では、ネパールにおける歴史的集落保全に関する行政ネットワークの構築支援を継続しています。これに関して、令和元(2019)年9月23日および12月1日に担当者レベルのエンジニアワークショップをキルティプル市で開催し、その成果を受けて、令和2(2020)年1月5日には「カトマンズ盆地内の歴史的集落保全に関する第3回市長会議」を同市と共催しました。
 市長会議は、歴史的集落保全に関する各市の取り組みや課題を共有する場として平成30(2018)年に始まり、これまでにパナウティ市(2018年)とラリトプル市(2019年)で開催しています。
 キルティプル市は、世界遺産暫定リストに登録されている旧市街地「キルティプルの中世集落」を有し、目下、市独自の保全条例制定に取り組んでいます。そのため、今回は「歴史的集落の保全制度」をテーマとし、2回のエンジニアワークショップを通じて制度に関する現状課題の把握と議論、情報共有を行いました。その結果、歴史的集落保全の行政組織や制度上の課題として、国政レベルにおいて文化財保護行政と都市計画行政で足並みが揃わず、歴史的集落保全のための枠組みが実効的な制度となっていないこと、また、市政レベルでは、独自条例を設けて先駆的に街並み保全を行っている市もあれば、条例やその基準を作成段階の市もあり、それぞれの市が抱えている課題の水準が異なることが明らかになりました。
 そこで市長会議では、これら国政と市政レベルでの課題を相互に共有することを目的として、国の文化財保護行政および都市計画行政が各々取り組んでいる保全制度について各担当者が報告し、5市のエンジニアが各市の条例やその課題について発表しました。日本側からは、神戸芸術工科大学の西村幸夫教授が「歴史的集落の保存と都市開発の役割分担」と題して基調講演を行い、東文研文化遺産国際協力センターの金井健保存計画研究室長が、日本の重要伝統的建造物群保存地区制度の事例を紹介しました。会議には、5市長、4副市長を含む120名ほどが参加し、会議の終盤にはフロアのエンジニアも交えた活発な意見交換が行われました。
 ネパールの歴史的集落保全は、国からの財政的、技術的なサポートが十分ではなく、各市は財源や人材の不足など多くの課題を抱えています。また、歴史的集落における基礎的調査の不足や、研究者や専門家との協力体制が築かれていないことも、既存の制度が有効に機能していない一因といえます。
 研究機関を交えた歴史的集落保全ネットワーク運営母体を立ち上げるための検討も始まりつつあり、歴史的集落保全を取り巻く環境の改善に向けて、自立的かつ継続的な関係者間の連携がさらに強化されていくことを期待しています。

バガン遺跡(ミャンマー)における技術協力事業打ち合わせ

壁画の図像に関する民俗学的調査
虫害による壁画の損傷状況調査

 東京文化財研究所では、ミャンマーのバガン遺跡において煉瓦造寺院の壁画と外壁の保存修復方法に関する技術支援および人材育成事業に取り組んでいます。同遺跡は、昨年に開かれたユネスコの第43回世界遺産委員会において、世界文化遺産への登録が決定しました。これを受けて、新たにバガン国際調整委員会“Bagan International Coordinating Committee”(BICC)が創設され、保全制度の改善に向けた取り組みが行われています。同委員会では、支援活動を行う各国の取り組みをこれまで以上に有効活用すべく、情報共有と相互調整を目的とした国際会議を毎年開催する方向で調整が進められています。
 こうした現地状況の変化に係る情報を収集するため、令和2(2020)年1月15日から31日にかけてミャンマー宗教文化省(ネピドー)、バガン考古支局をそれぞれ訪問し、今後の協力事業の方向性について意見交換を行いました。その中では、現地専門家に対するさらなる技術指導を望む声が聞かれ、支援活動を継続していくことで合意しました。
 また、これと並行して昨年の7月に続き壁画の図像に関する民俗学的調査と、虫害により発生したと考えられる壁画の損傷状況の把握および対策協議のための現地調査を行いました。図像に関する調査では、仏教の受容とミャンマーの土着信仰との関係性について現地有識者から聞き取り調査を行うとともに、壁画に土着信仰による影響が見られないか、バガンを中心に詳細な作例収集を行いました。今後はバガン以外にも調査範囲を広げていく予定です。一方、虫害による壁画の損傷状況の調査では、シロアリやドロバチによる壁画の破損や汚染が確認されました。今後は現地の環境にあった対策が構築できるよう詳細な調査を行う予定です。
 東京文化財研究所では、バガン遺跡における文化財保存を包括的に捉えながら、現地専門家の意見を取り入れつつ、技術支援および研究活動を継続していきます。

黒田清輝と久米桂一郎の交遊をおって――第7回文化財情報資料部研究会の開催

フランス留学中の久米桂一郎(左)と黒田清輝
明治28(1895)年4月1日付久米桂一郎宛黒田清輝書簡の一部。結婚したばかりの黒田が、フランス語を交えて自身の結婚観を綴っています。

 洋画家の黒田清輝(1866~1924年)と久米桂一郎(1866~1934年)は、ともにフランスでアカデミズムの画家ラファエル・コランに画を学び、アトリエを共用するなど交遊を深めた仲でした。帰国後も、二人は新たな美術団体である白馬会を創設、また美術教育や美術行政にも携わり、日本洋画界の刷新と育成に尽力しています。
 久米桂一郎の作品と資料を所蔵・公開する久米美術館と、黒田清輝の遺産で創設された当研究所は平成28(2016)年度より共同研究を開始し、その交遊のあとをうかがう資料の調査を進めています。なかでも二人の間で交わされた書簡は、公私にわたり親交のあった彼らの息吹を伝える資料として注目されます。令和元(2019)年12月10日に開催された第7回文化財情報資料部研究会では、「黒田清輝・久米桂一郎の書簡を読む」と題して、塩谷が久米宛黒田の書簡について、久米美術館の伊藤史湖氏が黒田宛久米の書簡について報告を行いました。
 今回の調査の対象となった書簡は、彼らが留学より帰国した後の明治20年代後半から大正時代にかけて交わされたものです。当時の書簡で一般的に用いられていた候文ではなく、口語体の文章で制作の近況や旅先の印象を伝えあい、時には身内に解らないようにフランス語を交えて内心を吐露したりしています。また明治43(1910)年から翌年にかけて、久米が日英博覧会出品協会事務取扱のため渡英した際の書簡では、博覧会の様子や師コランとの再会、現地の画家との交流等について詳細に報告され、当時の洋画家のネットワークをうかがい知る資料ともなっています。
 発表後は、書簡の翻刻にあたりご尽力いただいた客員研究員の田中潤氏と齋藤達也氏も交え、意見交換を行いました。本研究の成果は、次年度刊行の研究誌『美術研究』に掲載する予定です。

文化財の記録作成とデータベースに関するセミナーの開催

報告の様子(参加者の内訳)

 文化財の目録は、博物館・美術館・資料館などの展示収蔵施設や自治体にとって最も重要な情報の一つであり、文化財の調査研究、保存管理はもちろんのこと、展示や貸出など活用の計画を立てるための基礎的な情報ともなります。また、文化財の視覚的な情報を記録した写真も調査研究のための資料であるとともに、目録とともに管理することで、文化財及び関連の情報のより適切な保存や活用を可能とします。このように、文化財の記録の作成や、作成した記録のデータベース化は、文化財の保存と活用に必須といえますが、予算や技術面での制約などから困難を感じる関係者も多いようです。そこで、文化財情報資料部では、令和元(2019)年12月2日に標記のセミナーを開催しました。
 セミナーでは、文化財の記録作成及びデータベース化の意義について実例を交えて述べるとともに、文化財情報資料部文化財情報研究室が近年取り組んでいる、無償で提供されているシステムを用いた文化財データベースの構築について紹介しました。また、同研究室画像情報室から、文化財に関する情報を記録する手段としてのさまざまな写真の撮影について、その考え方と具体例を紹介しました。
 当日は、文化財の保存や活用の実務に携わる方を中心に、120名余りのご参加を賜りました。また、参加者から日常業務に関連した多くのご質問を頂戴したことからも、このテーマに対する関心が非常に高いことを実感しました。初回である今回は包括的な内容としましたが、今後は、より具体的なテーマを設定したセミナーや、実習形式のワークショップなど、多角的な情報発信を展開していく予定です。

日本中世のガラスを探る-第8回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 令和元(2019)年12月24日に開催された第8回文化財情報資料部研究会では、東海大学非常勤講師の林佳美氏が「日本中世のガラスを探る—2018・2019年度の調査をもとに—」という題目で発表されました。
 氏は長年東アジアのガラス史について取り組んでおいでですが、今回の発表は学位論文をまとめられた後の平成30(2018)年度より始められた日本国内で出土する13世紀から16世紀のガラス製品の集成と実見調査による成果の一端についてお話いただいたものです。日本の中世のガラスについてはこれまでほとんど作例が知られていなかったことによりその実態はほぼまったく不明でした。しかし近年、文献記録やこれまで知られていた資料に加え、京都や博多などでのこの時期に前後する出土品が知られるようになったことなどにより、今後の位置付けが期待されるようになっています。林氏は、13世紀から16世紀の日本出土ガラスの研究課題として①全体像の把握、②製作地の判別、③通史的・広域的視野からの考察の3点を示したうえで、これまでに行われた伝世資料や出土資料への検討作業によって得られたガラス器の製作技術や由来などに対する具体的な見解を示されました。
 また今回の研究会では、ガラス工芸学会の理事である井上曉子氏にもコメンテータとしてご参席いただき、研究者の少ないなかで地道に進められているガラス史研究の最前線についてのさまざまな話題や議論が行われました。

第14回無形民俗文化財研究協議会の開催

総合討議の様子

 令和元(2019)年12月20日に第14回無形民俗文化財研究協議会が「無形文化遺産の新たな活用を求めて」をテーマに開催され、行政担当者、研究者、保護団体関係者など、約170名の参加を得ました。
 文化財保護法の改正により、昨今、文化財の活用が広く叫ばれるようになりました。また令和2(2020)年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、無形文化遺産を活用した様々な文化プログラムも実施・計画されています。しかしながら、無形文化遺産をどのように活用するのか、そもそも活用すべきなのかの議論は、十分に行われていません。一方で、多くの無形文化遺産が消滅の危機にあり、継承に資するための新たな活用の途が模索されています。
 そこで今回は様々な地域、立場の4名の発表者にお越しいただき、ふるさと納税制度や伝統文化親子教室事業などの既存の制度を活かした活用の在り方、地域を越えたネットワーク構築による活用の在り方、映像等によって一般社会へ魅力を伝えていくための活用方法などについて、具体的な事例を交えて報告をいただきました。その後、2名のコメンテータとともに総合討議を行い、活発な議論が交わされました。
 協議会のすべての内容は令和2(2020)年3月に報告書として刊行し、後日、無形文化遺産部のホームページでも公開する予定です。

ユネスコ無形文化遺産保護条約第14回政府間委員会への参加

代表一覧表に記載された「ドミニカのバチャタの音楽と舞踊」(ドミニカ共和国)の実演

 令和元(2019)年12月9日から14日にかけて、コロンビアの首都ボゴタにてユネスコ無形文化遺産保護条約第14回政府間委員会が開催され、本研究所からは2名の研究員が参加しました。
 今回の委員会では、日本から提案された案件はありませんでしたが、「緊急に保護する必要のある無形文化遺産の一覧表(緊急保護一覧表)」に5件、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(代表一覧表)」に35件の案件が記載され、「保護活動の模範例の登録簿(グッド・プラクティス)」に2件の案件が登録されました。その中には、ドミニカ共和国の「ドミニカのバチャタの音楽と舞踊」、タイの「ヌア・タイ、伝統的なタイのマッサージ」、サモアの「イエ・サモア、ファインマットとその文化的価値」(以上、代表一覧表)、コロンビアの「平和構築のための伝統工芸の保護戦略」(グッド・プラクティス)などが含まれています。中でもコロンビアの「平和構築のための伝統工芸の保護戦略」は、麻薬組織との長年にわたる戦いが終結し、国が復興していく上で無形文化遺産が積極的な役割を果たしていることを示す事例として、国際的にも注目されるものでした。
 一方で今回の委員会では初めて、一覧表に記載された案件が抹消される決議もなされました。ベルギーの「アールストのカーニバル」(代表一覧表)は、カーニバルで用いられるフロート(山車)に、ユダヤ人を茶化したモチーフや、ナチスを想起させるようなモチーフが繰り返し使われ、各方面からの抗議に対しても関係コミュニティは「表現の自由」を根拠に従いませんでした。そのため、無形文化遺産保護条約の精神に反し、代表一覧表の記載基準を満たさなくなったという理由により、その抹消が決議されました。たとえ文化的な活動や実践であっても、人種差別を肯定するものは許さないという国際社会の意思が示された場面でした。
 無形文化遺産はその使い方によっては、人々に勇気や誇りを与え、また異なる文化の人々の対話をうながす力となり得ますが、一方で自らの文化的優位性を強調し、他者を否定したり排除したりする力ともなり得ます。無形文化遺産が政治的に利用されることに警鐘を鳴らし、それが平和や相互理解のために用いられるように促すことも、私たち専門家に求められる役目であると感じました。

国際研究者フォーラム「無形文化遺産研究の展望―持続可能な社会にむけて」開催報告

国際研究者フォーラムの参加者

 令和元(2019)年12月17日、18日に、国立文化財機構アジア太平洋無形文化遺産研究センター(IRCI)主催と文化庁が主催する国際研究者フォーラム「無形文化遺産研究の展望―持続可能な社会にむけて(Perspectives of Research for Intangible Cultural Heritage: Toward a Sustainable Society)」が本研究所で開催されました。本研究所は共催機関として、本フォーラムの企画から運営まで全面的に協力しました。
 本フォーラムの目的は、無形文化遺産がいかに持続可能な開発目標(SDGs)の達成に貢献できるかを議論することです。SDGsとは、2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。 SDGsは発展途上国のみならず、先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)なものであり、日本としても積極的に取り組んでいるものです。
 本フォーラムでは、とりわけ無形文化遺産と関連があるものとして「開発目標4. すべての人々への、包摂的かつ公正な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」と「開発目標11. 包摂的で安全かつ強靭(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する」が取り上げられました。そしてそれに対応する三つのセッションが立てられました。セッション1「まちづくり―無形文化遺産と地域振興(Community Development: ICH and Regional Development)」では、おもに無形文化遺産を通じた地域の文化、社会、経済の振興について議論されました。続くセッション2「まちづくり―環境と無形文化遺産(Community Development: Environment and ICH)」では、おもに無形文化遺産を通じて都市景観や自然環境を守る取り組みについて議論されました。さらにセッション3「人づくりからまちづくりへの提言(Discussion from Education Perspective)」では、上のふたつのセッションの議論を踏まえて、おもに教育の観点から無形文化遺産がどのような貢献が出来るかについて議論されました。最後にこれらのセッションを通したディスカッションがなされました。
 本フォーラムには、国内から10名、アジア太平洋地域から10名の専門家が登壇しました。今回の登壇者の多くは文化遺産や教育に関する専門家でしたが、そのうちの数名は自身が無形文化遺産の伝承者・実践者であったことも注目すべきことでした。そのうち、自身はミクロネシアとグアムとフィリピンにルーツを持ち、現在はミネソタ大学で教鞭をとるヴィンス・ディアス(Vince Diaz)教授の話は印象的なものでした。彼は現在、太平洋地域のカヌー文化の復興に取り組んでいるのですが、「太平洋の先住民にとっては自然と人間は一体のものであり、自然を守るということは人間が人間らしく生きていくことと同じである。カヌーは自然と人間をつなぐもののひとつであり、カヌー文化の復興は自然を守るだけでなく私たちが人間らしさを取り戻していくプロセスでもある」という趣旨の話をされました。伝統的な知識や世界観の中にこそ、SDGsを達成するための知恵があることを示唆しています。
 無形文化遺産は、グローバル化や現代化の波の中で危機に瀕するものが多いことは確かです。しかし一方で、そうした波の中で失われていったものを回復する力の源泉にもなりうるものだと思います。SDGsを通じて、そうした無形文化遺産の積極的な側面に光を当てることになった本フォーラムは意義深いものであり、国際的に発信していく内容のものであったと感じました。

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