研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS
(東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。
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研究会「東南アジアにおける木造建築遺産の保存修理」プログラム
令和2(2020)年11月21日、東南アジア諸国で行われている木造建築の保存修理の方法や理念をテーマとした研究会をオンラインで開催しました。この研究会は、文化遺産国際協力センターが東南アジアの木造建築をテーマに連続で開催してきたもので、今年はその4回目となります。これまでの3回は、歴史学や建築史学、考古学といった学術的な側面から東南アジアにおける木造建築の実像に迫ってきましたが、今回はこのテーマの研究会の締めくくりとして、当研究所が日々の業務で取り組んでいる文化財保護の実務的な側面に焦点をあてました。
研究会には東南アジアにおける木造建築の保存修理を担う技術者として、タイ王国文化省芸術局建造物課主任建築家のポントーン・ヒエンケオ氏とラオス・ルアンパバーン世界遺産事務所副所長のセントン・ルーヤン氏、また東南アジア地域の文化遺産保護に精通した専門家としてユネスコ ・バンコク事務所文化ユニットのモンティーラー・ウナクーン氏の参加を得ることができました。ポントーン氏からはタイ国内の文化財に指定された寺院建築、セントン氏からはルアンパバーンの町並みを構成する住居建築を事例にして、文化遺産としての木造建築修理の方針や具体的な方法についてそれぞれ報告があり、モンティーラー氏からはインドネシアやタイで近年行われた木造建築の保存修理やこれに関する人材育成の先駆的取組みが紹介されました。
研究会の後半には、友田正彦文化遺産国際協力センター長の司会のもと、前半の報告者3名に国宝・重要文化財建造物保存修理主任技術者である文化財建造物保存技術協会の中内康雄氏を加えた計5名によるパネルディスカッションが行われました。その中での議論を通じて、木造建築の保存の考え方や修理の仕方には図らずも多くの共通点があることが改めて確認されるとともに、生産者や職人など伝統的な材料や技術を支える人材の不足が、現代社会の中で伝統木造建築が抱える普遍的な課題であることが認識されました。
今回の研究会は、もともと当研究所セミナー室で開催する予定で準備を進めていましたが、コロナウィルスの感染拡大の収束が見通せない状況に鑑み、ウェビナー形式に切り替えて開催したものです。従来、実地で開催してきた研究会をオンラインで開催することができたのは一つの収穫といえますが、当方の不慣れに加えて想定外のトラブルもあり反省点が数多く残されたことも確かです。これを機にポストコロナ社会に適したあたらしい研究会等イベントのあり方を模索していきたいと思います。
研究会の様子
現在、文化財情報資料部では所蔵資料のデジタル化、オープンアクセス化を積極的に進めています。https://www.tobunken.go.jp/materials/
katudo/822941.html
なかでも他の資料に先駆けて2012(平成24)年にウェブ公開を行なったのが、1905(明治38)年創刊の美術雑誌『みづゑ』です。これは当研究所と国立情報学研究所が共同で開発したもので、明治期に刊行された同誌の創刊号から90号までの誌面がウェブ上で見られるようになっています。http://mizue.bookarchive.jp/
2020(令和2)年10月8日に開催された文化財情報資料部研究会では、『みづゑ』ウェブサイト開発メンバーの一人である丸川雄三氏(国立民族学博物館准教授、当研究所文化財情報資料部客員研究員)に「近代美術研究における関係資料の発信と活用」の題でご発表いただきました。同サイトではすでに記事の執筆者ごとのインデックスが整備されていますが、丸川氏はさらに検索機能を拡張し、インデックスの充実を進めています。インデックスを充実させることで専門化と普遍化の両立を図り、専門の垣根を越えた情報の共有が可能となると丸川氏は指摘し、国内外のさまざまな地域の情報をもたらす『みづゑ』所載の画や文章を例に、美術史の専門家ではなかなか気づきにくいフィールドノートとしての魅力を提示されました。そうした無限の可能性を秘めた知の発信と活用は、おりしも丸川氏が国立民族学博物館で担当の展覧会「知的生産のフロンティア」(2020年9月3日~12月1日)で取り上げた民族学者・梅棹忠夫氏の提唱した“知的生産の技術”にも、時代を超えて通ずるものがある、というコメントも印象的でした。
大分市平和市民公園能楽堂における講演の様子
豊後国(大分県中南部地域)は安土桃山時代にキリシタン大名として著名な大友宗麟が統治し、フランシスコ・ザビエルを始めとする多くのヨーロッパ人宣教師らが布教を行ったという歴史を持つ土地です。令和2年(2020)年10月10日(土)から12月13日(日)まで、大分県立埋蔵文化財センターにおいて、この地における南蛮文化やキリスト教とのかかわり、また近年大きな成果を上げつつあるさまざまな南蛮遺物の理化学的分析研究結果を紹介する令和2年度企画展「BVNGO NAMBAN―宗麟の愛した南蛮文化―」が開催されました。
この展覧会では大友氏の拠点都市であった豊後府内遺跡から出土した陶磁器類などの南蛮遺物、そして津久見市が長い年月をかけて収集してきた南蛮漆器や絵画などを中心に、国内各地に所蔵される関連作品によって展示が構成されましたが、文化財情報資料部広領域研究室長の小林公治は同センターからの依頼を受け、10月10日開催のオープニング記念講演会において「キリスト教の布教と南蛮漆器―理化学的分析の検討、メダイ研究との対比から―」と題して、この展覧会の展示内容と相関するキリスト教器物南蛮漆器への最新研究成果に焦点を当てた講演を行いました。
新型コロナウイルスへの感染リスクを減らすため、当日は着席間隔を大きく空けての会場設営となりましたが、およそ200名もの参加者があり、南蛮文化とキリスト教布教史に対するこの地の深い関心をうかがい知ることができました。
オープンレクチャー講演風景
文化財情報資料部では、毎年秋に広く一般の聴衆を募って、研究者からその研究の成果を講演する「オープンレクチャー」を開催しています。今年は「かたちからの道、かたちへの道」のテーマのもとでの講演の5年目となります。例年2日間にわたって外部講師を交えて開催してきたところですが、本年の新型コロナ感染防止の情勢から、内部講師2名、1日のみとし、2020(令和2)年10月30日、聴衆の定員も抽選制による30名に限定したうえ、検温、マスク、手指の消毒を徹底して開催しました。
本年は、文化財情報資料部長兼近・現代視覚芸術研究室長・塩谷純による「近代日本画の”新古典主義“-小林古径の作品を中心に-」、および文化財情報研究室長・二神葉子による「タイに輸出された日本の漆工品-王室第一級寺院ワット・ラーチャプラディットの漆扉を中心に-」の2講演が行われました。
塩谷からは、昭和戦前期に小林古径に代表される日本画において、洗練された静謐な画風が興ったこと、これらが、日本あるいは中国の古い絵画作品からの影響を受け入れた側面があることを多数のスライドや資料とともに紹介されました。二神からは、1864年、タイ・バンコクにラーマ4世王の命により建立された、ワット・ラーチャプラディットに日本の漆製の扉絵が使用されていることを紹介し、その他日本から輸入された漆製品に関するものも交え、これらについて行われた光学調査の所見を交えつつ講演が行われました。
聴衆へのアンケートの結果、参加者の9割以上から「満足した」、「おおむね満足した」との回答を得ることができました。
生物被害対策に関する講義
文化財の科学調査に関する講義
令和2(2020)年10月5日から15日の日程で保存担当学芸員研修を開催しました。多くのご応募をいただきましたが、感染症対策のため例年の半数に絞って17名の学芸員等のみなさまに受講いただきました。 昨年度から引き続き独立行政法人国立文化財機構文化財活用センター(以下、ぶんかつ)との共催での研修となり、第一週をぶんかつが担当し、第二週を当所が担当しました。感染症対策として、検温、消毒、「3密」の回避を徹底し、実習は手袋や消毒の利用、受講生それぞれに教材を配布する等の工夫をした上で実施しました。
ぶんかつが担当した第一週は保存環境の基礎知識について座学形式で講義を行い、文化庁、ぶんかつ、当所の3者が共同で対応している「博物館等でのウイルス除去・消毒作業」に関する指導・助言についての報告も行われました。第二週は保存科学研究センターの各研究室が半日単位で受け持ち、座学や実習を行いました。文化財を保存、修復するための理念や自然科学の基礎知識を応用して現場の課題へ取り組む方法等の幅広い内容についての講義を行い、受講者の方々からは有益であったとの意見をいただきました。最終日には今年10月に発足した文化財防災センターの高妻センター長をお招きして「博物館の防災」についてご講義いただき、ミュージアムが文化財防災に果たす役割について考える貴重な機会となりました。
令和3(2021)年度も時代のニーズに合ったよりよい研修を提供できるよう努めてまいります。
観世流シテ方・大槻文藏氏による事例報告(事前収録)
筝曲家・奥田雅楽之一氏による事例報告
シンポジウム
無形文化遺産部では、新型コロナウイルスが無形文化遺産に与えている影響を調査したり、支援情報や新しい試み、海外の動向などの関連情報を収集したりしています。これらの活動の一環として、このたび令和2(2020)年9月25日にフォーラム1「伝統芸能と新型コロナウィルス」を東京文化財研究所セミナー室で開催しました。
このフォーラムは、新型コロナウイルスが感染拡大直後より大きな影響を与えている、古典芸能を中心とした伝統芸能に焦点を当てました。フォーラムの前半では、コロナ禍にある伝統芸能への「官」の役割についての講演、当研究所での情報収集・調査にあたる立場からの話題提供を行いました。後半では、「能楽」と「邦楽(三味線音楽、箏曲)」という異なるジャンルから、それぞれ実演家の立場、実演の場を企画制作する立場、実演を支える保存技術の立場での事例紹介があり、これまでなかなか共有されることのなかったコロナ禍の現状を知る機会となりました。続く座談会では、ジャンルや立場を超えて今まさに伝統芸能に必要なものとして「社会化」が話題の中心になり、現状を正確に伝えて支援等に結びつけるにも、根本的な需要拡大を見据えて教育などの普及を推進するにも、伝統芸能の「社会化」への意識が欠かせないとの共通認識に至りました。
なお、このフォーラムの記録映像は11月3日まで期間限定で無料公開されました。また、年度末には補筆した報告書を刊行し、ウェブ公開する予定です。
エックス線透過撮影による金剛力士立像の調査風景
栃木県足利市にある大岩山毘沙門天は、京都の鞍馬山・奈良の信貴山とともに日本三大毘沙門天のひとつと言われています。山門には足利市指定文化財「木造 金剛力士立像」が安置されていますが、最近の調査から、経年劣化が進んでいることが懸念されています。特に阿形像に関しては、頭部が前傾している可能性も指摘されてきました。このような事情から、所有者による修復事業の実施が予定されています。
この修復事業において、まずは金剛力士立像の部材やそれらの接続方法を明らかにする必要がありました。しかし、像高が約2.8mにも及ぶ阿形像と吽形像を山門から移動せずに、その場で調査を実施する必要がありました。このような非破壊調査の依頼を足利市教育委員会を通じて受けて、令和2(2020)年9月9日、10日に、保存科学研究センター・犬塚将英がエックス線透過撮影による内部構造の調査を実施しました。
調査風景の写真にありますように、金剛力士立像の手前に組まれた足場に、可搬型エックス線発生装置を設置してエックス線の照射を行いました。エックス線透過画像を得るために、イメージングプレート(IP)を使用しましたが、金剛力士立像の背後の限られたスペースにIPを設置する方法については、事前に調査メンバーで検討を重ねました。そして、今回の調査では、現地にIPの現像装置を持ち込んで実施し、エックス線透過画像をその場で確認しながら調査を進めました。
調査で得られたエックス線透過画像から、金剛力士立像の内部構造、及び過去の修復時に用いられた釘等の位置や数等を明らかにすることができました。これらの調査結果は、今後の修復作業の際の参考資料として活用される予定です。
第27回研究会「コロナ禍における文化遺産国際協力のあり方」
新型コロナウイルスの感染拡大により、文化遺産国際協力の現場も大きな困難に直面しています。コロナ禍において、各プロジェクトがいかに対応しているのかという具体的な情報を共有するとともに、文化遺産国際協力の今後とその可能性について議論するため、文化遺産国際協力コンソーシアムは、令和2(2020)年9月5日にウェビナー「コロナ禍における文化遺産国際協力のあり方」を開催しました。
「コロナ禍におけるアンコール遺跡の保存事業」と題した一つ目の報告では、現地カンボジアから参加した長岡正哲氏(UNESCOプノンペン事務所)が、コロナ禍で観光客が減少したことでアンコール遺跡周辺の観光業が深刻な打撃を受けている一方、カンボジア政府組織APSARAは、そうした状況を逆手に取り、これまで着手できなかった遺跡周辺の大規模な整備事業や、新たな調査を行っていることを紹介しました。
二つ目の報告「デジタルツールを利用したリモート国際協力事業の例」の中では、渡部展也氏(中部大学)が、紛争下にあるシリアにおいて破壊の危機に瀕する文化遺産の3Dドキュメンテーション作業を、日本からインターネットを介して、リモートで支援する取り組みを紹介しました。
關雄二氏(国立民族学博物館)の司会のもと、友田正彦氏(東京文化財研究所)、山内和也氏(帝京大学文化財研究所)が加わったパネルディスカッションでは、オンラインを通じた研修や、デジタルツールを活用したリモートでの調査・保護活動の可能性と限界について議論され、研究会は終了しました。
コロナ禍でも文化遺産国際協力を前進させようとする各プロジェクトの新たな試みや挑戦、そこで培われた知識や経験を、コロナ後の文化遺産国際協力に生かしていけるよう、コンソーシアムでは、関連する情報の収集・発信に努めていきたいと思います。
本研究会の詳細については、下記コンソーシアムのURLをご覧ください。
http://www.jcic-heritage.jp/jcicheritageinformation20201110/
カメラの持ち方を示す城野専門職員
撮影の手法に関する講義
絵画作品の撮影実習
文化財を調査し、その記録を作成することは対象への理解を深める手段であり、記録した情報の公開は、多くの方にその文化財を知る機会を提供します。また、その文化財が損傷を受けた際には修理の根拠となるなど、記録作成は文化財の保存や活用に不可欠といえます。このような文化財の記録作成手法の一つである写真撮影に関して、東京文化財研究所は令和2(2020)年8月24日、標記のセミナーを静岡県下田市の上原美術館で開催しました。セミナーには静岡県博物館協会の後援、上原美術館の協力を得て、静岡県内の博物館・美術館、自治体の文化財担当の職員など、11名の方にご参加いただきました。開催にあたり上原美術館では、会場の座席の間隔や換気の確保、関係者への検温など、新型コロナウイルス感染拡大防止に十分な配慮を行っています。
セミナーは午前・午後の二部構成で、午前は、上原美術館主任学芸員の田島整氏による、寺院の調査での写真撮影の経験についての報告に続き、参加者全員に、日常業務で感じる撮影の課題をお話しいただきました。当研究所からは、文化財情報資料部専門職員の城野誠治が、参加者の質問にお答えしつつ、対象の記録すべき特徴を意識した撮影が重要であることなど、実例を交えて紹介しました。
午後は、上原美術館所蔵の3点の作品を、各参加者が持参のカメラで撮影しました。その際に城野は、作品の性質を引き出すためのライトの位置や、ホワイトバランスの手動設定による適切な色の記録など、撮影方法について機器を操作しながら説明し、田島氏をはじめとした上原美術館の学芸員の皆様も、作品調査の手法に関する解説を行うなど、実践的な実習となりました。
このセミナーに対しては、有意義であったとの感想を参加者の皆様からいただきましたが、当研究所にとっても、写真撮影に関する課題を直接伺う貴重な機会となりました。また、上原美術館の皆様には、企画・運営に関して多大なご支援を賜りました。関係の皆様に深く感謝するとともに、今回の経験を踏まえ、ハンズオン・セミナーをよりよいものにしていきたいと思います。
東京国立博物館本館14室での展示
展覧会の特設サイト
東京文化財研究所が所蔵する今泉雄作(1850∼1931)、平子鐸嶺(1877∼1911)および田中一松(1895∼1983)による調査ノートと、 京都工芸繊維大学が所蔵する土居次義(1906〜1991)による調査ノートを中心とした展覧会を、令和2(2020)年7月14日から8月23日まで、東京国立博物館にて開催しました。 田中一松資料・土居次義資料については、平成30(2018年)に開催した「記録された日本美術史―相見香雨・田中一松・土居次義の調査ノート展」(実践女子大学香雪記念美術館・京都工芸繊維大学美術工芸資料館)でも公開しましたが、今回は東京国立博物館に所蔵される実際の絵画作品2点とともに、調査ノートを展示しました。写真を気軽に撮ることができなかった時代、調査の基本は自分の目で作品を見て、情報を手で書き写すことでした。 これらの調査ノートを見ると、研究者がどのように作品に向き合い、記録し、評価に至っているのか、その過程をたどることができます。新型コロナウィルス感染拡大防止のため、事前予約制での開館でしたが、特別展「きもの」が同時に開催されており、多くの方々にご覧いただきました。展覧会に合わせて特設サイトも制作しました。https://www.tobunken.go.jp/exhibition/202007/
このウェブサイトは会期終了後も、引き続き公開しています。展示していた箇所の次のページや、調書の書き下し文も見ることができますので、ぜひご覧ください。
研究会風景
矢代幸雄著『サンドロ・ボッティチェリ』中のデュヴィーン所蔵「男性肖像」図版ページ
文化財情報資料部の令和2年度第3回目の研究会が令和2(2020)年8月25日に行われ、「ゲッティ研究所が所蔵する矢代幸雄と画商ジョセフ・デュヴィーンの往復書簡」と題して、山梨絵美子が発表しました。
東京文化財研究所の前身である帝国美術院付属美術研究所の設立に深くかかわった矢代幸雄(1890-1975)は、1921年から25年までヨーロッパに留学し、ルネサンス美術研究者バーナード・ベレンソン(1865-1959)に師事して英文の大著『Sandro Botticelli』(メディチ・ソサエティー 1925年)を刊行しました。ベレンソンはルネサンス絵画研究の大家としてフィレンツェ郊外にある広い庭園付きのヴィラ・イタッティに住んでいましたが、その経済的成功は画商ジョセフ・デュヴィーン(英国籍 1869-1939)との契約によるものであったとされています。デュヴィーンはニューヨーク、パリ、ロンドンに店舗を持って、ヘンリー・クレイ・フリック(1849-1919)、ジョン・ロックフェラー(1839-1937)など、アメリカの富豪のヨーロッパの古典絵画コレクション形成に寄与したほか、英国ではテート・ギャラリーにデュヴィーン・ウィングを設立しています。
本発表では、ゲッティ研究所が所蔵するデュヴィーンと矢代の往復書簡を読み解き、ベレンソンの弟子としてボッティチェリに関する著作を為すに当たり、矢代がデュヴィーン画廊を訪れて作品を調査し、それらについての意見を書き送っていることや、デュヴィーンが1920年代半ばにヨーロッパの古典絵画市場として日本に興味を持ち、矢代に仲介を期待したことなどを明らかにしました。美術史家矢代に関する新資料紹介の場となっただけでなく、日本における西洋絵画蒐集の歴史についても考える機会となりました。
「新型コロナウイルスと無形文化遺産」のウェブサイト
新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大は、国内外における無形文化遺産の保護に対しても深刻な影響を与え続けています。
例えば古典芸能の分野においては、公演が中止・延期されたり、再開となっても客席数を減らしての公演となったりすることを余儀なくされています。また古典芸能を支える楽器や衣装などの道具の生産も、その需要の減少に伴って深刻な影響を被っています。工芸技術の分野でも、作品を発表する場である展覧会の開催に制限が課せられたり、販売の機会や場所が限られたりするという影響がみられます。さらにはこうした古典芸能や工芸技術は、対面による稽古や技術伝授によって次世代に伝えられることが多いのですが、その機会も大きく制限されています。
また地域で伝承されている民俗芸能や風俗慣習、民俗技術に関しても深刻な影響が現れています。こうした無形の民俗文化財に関しては、すでにこれまで地方における高齢化や人口減少により存続が難しくなっているものが多くありましたが、今回の新型コロナウイルス禍がそれに拍車をかけ、少なくない数のものが廃絶してしまう可能性が危惧されています。
さらには国際的には、医療体制や衛生環境において課題のある国や地域の民族によって伝承されている無形の文化遺産が存続の危機に瀕していることが懸念されています。
新型コロナウイルス禍による影響は有形・無形の文化遺産に広くおよんでいますが、とりわけ無形の文化遺産をはじめとするリビング・ヘリテージ(生きている遺産)への影響が深刻であると私たちは考えています。なぜなら、これらの遺産は生きている人間の活動によって支えられていますが、新型コロナウイルス禍はその人間の活動を大きく制限するものだからです。
当研究所無形文化遺産部では、国内外における、新型コロナウイルスによる無形文化遺産への影響について、令和2(2020)年4月より広く情報収集をおこなっています。その中には、公演・展示・祭礼などの中止・延期情報および再開情報、国・地方公共団体・民間団体などによる支援(給付金・助成金など)の情報、オンラインによる公演や展示の配信・公開などの新たな試みに関する情報、各国における状況やユネスコなどの国際機関による取り組みに関する情報、などが含まれます。
また収集した情報のうちの一部に関しては、情報発信にも取り組んでいます。まず当研究所無形文化遺産部のウェブサイト上に「新型コロナウイルスと無形文化遺産」(https://www.tobunken.go.jp/ich/vscovid19)のページを立ち上げ、ここでは国・地方公共団体・民間団体などによる支援情報の提供をおこなうとともに、伝統芸能における新型コロナウイルス禍の影響について、関連事業の延期・中止/再開に関する統計情報の分析結果の公開をおこなっています。また当研究所Facebook内にグループ「新型コロナウイルスと無形文化遺産」(https://www.facebook.com/groups/3078551232201858)を立ち上げ、ここでも支援情報の提供をおこなうとともに、新たな試みに関する情報や、国際的な動向に関する情報についても紹介しています。Facebookのアカウントを持っている人は、グループのメンバーに参加すると定期的に情報を受け取れるようになります。またFacebookアカウントを持っていれば、メンバーにならなくても記事を閲覧することは可能です。
さらにフォーラムの開催を通じた情報発信にも取り組んでいます。9月には「シリーズ 新型コロナウイルスと無形文化遺産 フォーラム1『伝統芸能と新型コロナウイルス』」を開催し、12月には「フォーラム2『新型コロナ禍の無形民俗文化財(仮)』」を開催する予定です。感染症防止の観点から、参加者を限定し、一部の発表者には録画やリモート収録で参加してもらうという形をとらざるを得ないのですが、フォーラムの動画は一定期間、オンラインで公開する予定です。これらのフォーラムの詳細については、改めて活動報告の場でお伝えしたいと思います。
新型コロナウイルス禍の状況は刻一刻と変化し、現時点においてもすでに以前の情報を入手しにくくなってきています。そのため継続的に情報収集をおこない、またウェブサイトやフォーラムなどで公開していない情報なども含めてデータは総合的に分析し、無形文化遺産の保護に資するものとして活用できるようにしたいと考えています。
現地調査の様子
DNA塩基配列解析の様子
保存科学研究センター生物科学研究室では、文化財害虫の検出に役立つ新しい技術、DNA解析を応用した害虫同定手法に関する基礎研究を進めています。文化財害虫の種類の特定には、一般的に害虫の外部形態の特徴から図鑑や専門書に記載されている情報と比較検討を行い種の同定をします。しかし、外部形態が類似する害虫では、種類の特定が困難であり、解剖を行って体の細部の比較によって同定を行うなど専門知識が必要となることがあります。また、害虫の体の一部しか得ることが出来ないという状況も多々あります。そこで文化財害虫のDNAの特定領域を解析して、文化財害虫に特化した独自の塩基配列情報のデータベースを作り、未知試料のDNAから種類の特定を行う「DNAバーコーディング」手法の応用を試みています。
令和2(2020)年8月6日から7日にかけて栃木県日光市にある二社一寺の歴史的木造建造物において、データベースに登録されていない数種のシバンムシを捕獲するため、現地調査を行いました。現地調査では、目的とするシバンムシを捕獲する有効なトラップが無いため、被害の認められる木造建物を隈なく探していくという地道な調査を行いました。その結果、複数種のシバンムシを捕獲することが出来ました。
今回の現地調査で得られた個体を含め、現在までにおよそ40種の主要な文化財害虫のDNA塩基配列を決定しデータベース化を進めています。その中には公共のデータベースには登録されていない種も多数含まれており、文化財害虫に特化したデータベースの構築はとても重要であると言えます。
今後は、害虫の脚や翅といった体の一部から種を同定する方法や被害部分に残された脱皮殻や虫糞からDNAを抽出して、文化財を加害した「犯人」を特定する方法について技術開発を進めたいと考えています。
令和2(2020)年、新型コロナウイルスが全世界へと感染拡大しました。4月7日政府より7都府県に対して緊急事態宣言が発令され、4月16日には対象地域が全都道府県に拡大されました。文化財を所有する文化施設等においても新型コロナウイルス感染拡大を防止する必要性が出てきましたが、消毒による文化財への影響が懸念されたため、文化庁より4月23日付事務連絡「文化財所有者及び文化財保存展示施設設置者におけるウイルス除去・消毒作業に係る対応について」が発出されました。全国の文化財を所轄する部署等に対し、消毒用の薬剤は文化財の劣化を引き起こすおそれがあるため、その使用にあたっては注意が必要な場合があること、文化財が所在する場所において消毒作業等の必要が生じ専門的な助言等が必要な場合には、事前に相談してほしいことを伝えました。そしてその相談窓口として、文化庁・文化財活用センター・東京文化財研究所保存科学研究センターの3者が協力し、対応に当たることになりました。当研究所は消毒に関する技術的な相談を受け付けていることをHPに掲載しました(https://www.tobunken.go.jp/info/info200424/index.html)。
これまで、博物館、美術館、文書館等の展示室や収蔵庫における消毒のみならず、建造物に対する消毒やお祭りに使用する民俗文化財への消毒など多岐にわたる相談を受けました。それらの相談に対し、できる限り薬剤による消毒をせず、他の感染防止対策を講じること、消毒をしなければならない場合についても対処の仕方や換気などについてそれぞれの状況に応じた助言を行いました。今後も引き続き消毒の必要性等を検討し、相談窓口として対応していきます。
見学通路における微粒子測定
新型コロナウイルス感染症の影響で、春に予定されていた国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開(第29回)は中止となりましたが、公衆衛生学の専門家による指導のもと、十分な感染予防対策をとることで、第30回の一般公開を令和2(2020)年7月18日から7月24日まで開催し、東京文化財研究所からは4人が解説員として対応しました。
今回の一般公開では、令和元(2019)年度をもって修復が終了した壁画の中から、東壁青龍、北壁玄武、東西壁女子群像を見学しやすい位置に配置しました。
見学者には、検温や過去2週間の健康状態の報告、マスク着用、こまめな手指消毒をお願いしました。また、見学用通路内の密集を避ける観点から、一日当たりの見学者数を100名程度に制限することで、感染予防にご協力いただきました。飛沫拡散防止のためには、今まで見学用通路での解説は口頭で行っていたものを、音声ガイダンスを導入し、見学後に屋外で質疑応答するよう工夫しました。見学前後では、見学用通路のアルコール消毒、排風機による換気を行いました。なお、換気の指標として二酸化炭素濃度の変化をモニタリングするとともに、空気清浄度の確認のため飛沫微粒子をパーティクルカウンターで測定するなど、見学者に安心して見学していただけるため、保存科学の専門家として対応に協力しました。
今冬の一般公開の開催については、応募要領は下記リンクから確認することができますのでご参照ください。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/takamatsu_kitora/sagyoshitsu_kokai/index.html
上部構造を解体した東門のAR展示イメージ(技術協力 山田修(東京藝術大学大学院特任教授))
当研究所のエントランスロビーでは、私たちが日々取り組んでいる仕事を皆様に広く知ってもらえるように、各部・センターの持ちまわりで年替わりのパネル展示を行っています。2020年度の展示は文化遺産国際協力センターが担当し、長年取り組んでいるカンボジアのアンコール・タネイ寺院遺跡の保存に対する協力の中から、昨年始まった同寺院東門の修復工事を紹介しています。
カンボジアを代表する大遺跡であるアンコールでは、カンボジアが国内政治の混乱から抜け出した1990年代以降、我が国のほかフランスやアメリカ、インド、中国といった世界各国の全面的な支援によって壮麗な建築群の復旧と復興が進められてきました。タネイ寺院遺跡では国際支援の考え方を一歩前に進め、カンボジア政府のアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)と当研究所が共同で作成した保存整備計画に沿って、カンボジア社会で持続可能な方法での遺跡の修復や整備を進めていこうとしています。東門の修復工事は同計画のもとで行われる初めての本格的な保存整備事業です。APSARAが修復工事の予算の確保と実施を担う一方、当研究所は工事の前に必要となる建築調査や発掘調査を行うとともに、修復の方法や工事の進め方に対する助言や提案を行っています。
タネイ寺院遺跡の調査では、3Dレーザー計測や写真測量(フォトグラメトリー)など近年の進展が目覚ましいデジタル記録技術を積極的に導入しました。特にフォトグラメトリーは、簡易かつ本格的なソフトウェアが一般向けに商品化されており、現在のカンボジア社会でも汎用性の高い技術として文化遺産保護分野への応用が十分に期待できるものです。今回の展示では現地の雰囲気を身近に感じられるように、こうしたデジタルデータを活用して、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)と呼ばれる展示方法にも挑戦しています。こうした展示を通じて、当研究所が取り組んでいる文化遺産保護の国際協力に少しでも関心をもっていただければ幸いです。
https://www.tobunken.go.jp/info/panel200704/index.html
研究会の様子
昨年(2019年)、平成から令和への代替わりの一大行事(大礼)として行なわれた即位礼・大嘗祭は記憶に新しいところです。その折に用いられた雅な装束に目を奪われた方も多かったことでしょう。そんな古式を彷彿とさせる一連の行事が、明治・大正・昭和・平成、そして令和と五代にわたっていかに伝えられたのか——―令和2(2020)年6月23日に開催された文化財情報資料部研究会での田中潤氏(客員研究員)による発表「近代の大礼と有職故実」は、近現代の皇室における“伝統”のあり方をうかがう内容となりました。
明治時代以降、皇室においても洋装が日常的なものとなり、従来の有職装束は着用が祭祀儀礼の際に限られるようになります。用いられる機会が減少した装束の途絶を回避するために有職故実研究の重要性が増し、大礼の都度、その成果が活かされました。一方で各時代の大礼で用いられた装束を比較すると、視覚的な効果や経費の問題等、さまざまな理由により変更も少なからず認められます。田中氏の発表を拝聴して、時代の要請に柔軟に対応しながら、“伝統”のイメージを伝えていく大礼のあり方は、まさに有形無形の文化財を守り伝える姿勢にも通じるものがあるように思いました。
なお今回の研究会は、新型コロナウイルス感染拡大による休止をはさんで、およそ4ヶ月ぶりの開催となりました。会場も2階の研究会室から密集、密接を避けて地階のセミナー室へと移すなど、感染対策をとった上で行ないました。
飛沫防止フィルムを設置したカウンターでの資料の受け渡し
当研究所資料閲覧室は新型コロナウイルスによる感染症(COVID-19)拡大防止のため、令和2(2020)年2月28日から臨時閉室しておりましたが、6月10日より閲覧業務を再開いたしました。感染症対策のため、通常よりも時間を短縮、開室日数を減らしています。事前予約制で、利用者の皆様にはマスクとニトリル手袋を着用の上で、ご利用頂いております。利用者の皆様にはご不便をお掛け致しますが、いまだ感染状況も沈静化していない中、それでも利用者の皆様と職員の安全を確保しつつ、必要なサービスを提供するよう、職員一同、日々努力を重ねております。ご理解・ご協力のほど、よろしくお願い致します。
利用予約については下記をご覧下さい。
https://www.tobunken.go.jp/info/info200605/index.html
また遠隔複写サービスもおこなっております。通常よりも少ない職員で対応しているため、多少時間がかかる場合もありますが、ご自宅からでも必要な資料を取り寄せられます。ぜひご利用下さい。
所内に構築されたオンライン講義用のブース
東京文化財研究所では、平成7(1995)年より東京藝術大学大学院美術研究科と連携してシステム保存学コースを開設し、文化財保存を担う人材の養成を行ってきていますが、令和2(2020)年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、例年通りの授業の開講や研究室における学生指導などが行えない状況になりました。令和2年4月に、東京藝術大学が原則として学生の入校禁止と授業のオンライン化を決定したのを受け、令和2年度前期のシステム保存学の大学院教育はこの方針に従って進められました。
まず、緊急事態宣言が出されていた5月25日以前は、研究所からの指示によって自宅待機中だった東京文化財研究所の併任教員が、自宅からカリキュラムに従ってオンライン講義を実施しました。緊急事態宣言解除後の6月からは、職員の研究所への出勤は認められるようになりましたが、依然として授業はオンラインで行うことが大学から要望されていたため、対面で行うことで初めて効果が得られるような講義は後回しにして、順番を入れ替えてオンラインで行える講義を先に実行しました。その時の講義は、研究所からオンライン講義を発信できるような環境を所内で構築し(図)、出勤した併任教員が入れ替わりでそこからオンラインで行いました。
そして7月以降は、例外として一部で対面授業を行うことも認められるようになったので、後回しにされていた講義を研究所内で対面で実施することとしました。この時は学生の研究所への立ち入り前の検温や健康チェック、マスクの着用、受講学生数に対して十分に広い講義室の確保、部屋の換気、などに十分注意しながら、対面で行うことでしか効果が得られない教育を研究所にて行いました。
この間、研究室の大学院生は自宅待機を原則とし、それぞれの指導教官(併任の東京文化財研究所職員)が主としてWeb会議システムを用いて個別にオンラインで指導を行っていました。
前例のない困難な状況によって各地で教育に支障が出ているというニュースが聞こえている中、受講した学生の中に健康を害したものはおらず、またインターネット情報を駆使したオンライン講義ならではの新たな教育も試みたため、例年と比べても遜色ない教育効果を挙げることができたと考えています。
令和2年度前期に実施した講義
・保存環境計画論 朽津信明・犬塚将英・佐藤嘉則 履修者20名(聴講2名)
全12回 全てオンラインで実施
・修復計画論 朽津信明・安倍雅史 履修者 9名(聴講3名)
全12回 全てオンラインで実施
・修復材料学特論 早川泰弘・早川典子 履修者 12名(聴講3名)
全12回 オンラインで4コマ分、対面で8コマ分実施
・文化財保存学演習 朽津信明 履修者21名(聴講2名)
オンラインにて実施
システム保存学在籍大学院生
・修士課程 1名 博士課程 1名
東門の基礎構造の補強方法検討図
ICC事務局による東門修復工事の視察(APSARA提供)
東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業に対する技術協力を継続的に行っています。昨年からはAPSARAと共同で策定した保存整備計画に基づいて、同寺院東門の修復工事に取り組んでおり、APSARAが工事の予算確保や実施を担う一方、本研究所は工事前や工事中の建築調査および考古調査を担うとともに、修復の方法や工程に対する助言や提案を行っています。
今年に入り、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大により諸外国との往来が困難になる中、3月末以降カンボジアへの渡航も事実上不可能になってしまいました。しかし、カンボジア国内では本格的蔓延に至っておらず、通常の業務が継続されている中、日本側の事情だけでAPSARAの事業計画を中断させるわけにもいきません。そこで4月からは、通常のメールによる連絡のみならず携帯端末のメッセージサービスを積極的に活用してリアルタイムな現場の状況把握に努めるとともに、必要に応じて適宜オンライン会議を開催するなど、手探りながらもICT(情報通信技術)を用いた技術協力の取り組みを進めています。
令和2(2020)年4月21日、2月から3月にかけて現地で行った基礎構造の強度調査等の分析結果の共有と、これに基づく適切な修復方法や構造補強方針に関する意見交換を目的に、APSARAの修復担当チームとのオンライン会議を開催しました。会議には協力研究者である東京大学生産技術研究所の腰原幹雄教授(建築構造)および桑野玲子教授(地盤機能保全)の参加を得て、専門的見地を交えた踏み込んだ議論を行い、当初構法のオーセンティシティの保存と構造的安全性の両立に向けた修復と補強の基本的な方向性について合意を得ることができました。この基本合意のもと、5月と7月にも、それぞれ基礎構造と上部構造について検討するためのオンライン会議を開催し、現場の最新状況と計画図面等の情報を共有しながらの双方向での議論を経て、現段階で最も適切と考えられる具体的な修復・補強方法を決定しました。
一方、例年6月にAPSARA本部において開催される、アンコール遺跡国際調整委員会(ICC)技術会合も今年は延期となり、ICC事務局による現場視察のみが行われました。この視察にあわせてAPSARAと本研究所は、上記の検討内容を含む事業計画進捗状況報告書を共同で作成、ICC事務局に提出しました。さらに、ICCの専門委員を務める京都大学大学院の増井正哉教授とのオンライン会議を開催し、目下の検討・計画内容について指導助言を得るとともに、アンコール遺跡の国際協力を取り巻く動向等に関する意見交換を行いました。
このように、図らずも、ICTによる文化遺産の修復協力の可能性を実感できたことは大きな収穫ではあります。とはいえ、文化遺産の保存は、それぞれに独自の価値を有するもの自体が対象である以上、遠隔での情報の共有や対話だけでは自ずと限界があることも確かです。新型コロナウィルス感染症の流行が収束し、再び自由な往来ができる日が一刻も早く戻ることを願ってやみません。