研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS
(東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。
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「新型コロナウイルスと無形文化遺産」のウェブサイト
新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大は、国内外における無形文化遺産の保護に対しても深刻な影響を与え続けています。
例えば古典芸能の分野においては、公演が中止・延期されたり、再開となっても客席数を減らしての公演となったりすることを余儀なくされています。また古典芸能を支える楽器や衣装などの道具の生産も、その需要の減少に伴って深刻な影響を被っています。工芸技術の分野でも、作品を発表する場である展覧会の開催に制限が課せられたり、販売の機会や場所が限られたりするという影響がみられます。さらにはこうした古典芸能や工芸技術は、対面による稽古や技術伝授によって次世代に伝えられることが多いのですが、その機会も大きく制限されています。
また地域で伝承されている民俗芸能や風俗慣習、民俗技術に関しても深刻な影響が現れています。こうした無形の民俗文化財に関しては、すでにこれまで地方における高齢化や人口減少により存続が難しくなっているものが多くありましたが、今回の新型コロナウイルス禍がそれに拍車をかけ、少なくない数のものが廃絶してしまう可能性が危惧されています。
さらには国際的には、医療体制や衛生環境において課題のある国や地域の民族によって伝承されている無形の文化遺産が存続の危機に瀕していることが懸念されています。
新型コロナウイルス禍による影響は有形・無形の文化遺産に広くおよんでいますが、とりわけ無形の文化遺産をはじめとするリビング・ヘリテージ(生きている遺産)への影響が深刻であると私たちは考えています。なぜなら、これらの遺産は生きている人間の活動によって支えられていますが、新型コロナウイルス禍はその人間の活動を大きく制限するものだからです。
当研究所無形文化遺産部では、国内外における、新型コロナウイルスによる無形文化遺産への影響について、令和2(2020)年4月より広く情報収集をおこなっています。その中には、公演・展示・祭礼などの中止・延期情報および再開情報、国・地方公共団体・民間団体などによる支援(給付金・助成金など)の情報、オンラインによる公演や展示の配信・公開などの新たな試みに関する情報、各国における状況やユネスコなどの国際機関による取り組みに関する情報、などが含まれます。
また収集した情報のうちの一部に関しては、情報発信にも取り組んでいます。まず当研究所無形文化遺産部のウェブサイト上に「新型コロナウイルスと無形文化遺産」(https://www.tobunken.go.jp/ich/vscovid19)のページを立ち上げ、ここでは国・地方公共団体・民間団体などによる支援情報の提供をおこなうとともに、伝統芸能における新型コロナウイルス禍の影響について、関連事業の延期・中止/再開に関する統計情報の分析結果の公開をおこなっています。また当研究所Facebook内にグループ「新型コロナウイルスと無形文化遺産」(https://www.facebook.com/groups/3078551232201858)を立ち上げ、ここでも支援情報の提供をおこなうとともに、新たな試みに関する情報や、国際的な動向に関する情報についても紹介しています。Facebookのアカウントを持っている人は、グループのメンバーに参加すると定期的に情報を受け取れるようになります。またFacebookアカウントを持っていれば、メンバーにならなくても記事を閲覧することは可能です。
さらにフォーラムの開催を通じた情報発信にも取り組んでいます。9月には「シリーズ 新型コロナウイルスと無形文化遺産 フォーラム1『伝統芸能と新型コロナウイルス』」を開催し、12月には「フォーラム2『新型コロナ禍の無形民俗文化財(仮)』」を開催する予定です。感染症防止の観点から、参加者を限定し、一部の発表者には録画やリモート収録で参加してもらうという形をとらざるを得ないのですが、フォーラムの動画は一定期間、オンラインで公開する予定です。これらのフォーラムの詳細については、改めて活動報告の場でお伝えしたいと思います。
新型コロナウイルス禍の状況は刻一刻と変化し、現時点においてもすでに以前の情報を入手しにくくなってきています。そのため継続的に情報収集をおこない、またウェブサイトやフォーラムなどで公開していない情報なども含めてデータは総合的に分析し、無形文化遺産の保護に資するものとして活用できるようにしたいと考えています。
現地調査の様子
DNA塩基配列解析の様子
保存科学研究センター生物科学研究室では、文化財害虫の検出に役立つ新しい技術、DNA解析を応用した害虫同定手法に関する基礎研究を進めています。文化財害虫の種類の特定には、一般的に害虫の外部形態の特徴から図鑑や専門書に記載されている情報と比較検討を行い種の同定をします。しかし、外部形態が類似する害虫では、種類の特定が困難であり、解剖を行って体の細部の比較によって同定を行うなど専門知識が必要となることがあります。また、害虫の体の一部しか得ることが出来ないという状況も多々あります。そこで文化財害虫のDNAの特定領域を解析して、文化財害虫に特化した独自の塩基配列情報のデータベースを作り、未知試料のDNAから種類の特定を行う「DNAバーコーディング」手法の応用を試みています。
令和2(2020)年8月6日から7日にかけて栃木県日光市にある二社一寺の歴史的木造建造物において、データベースに登録されていない数種のシバンムシを捕獲するため、現地調査を行いました。現地調査では、目的とするシバンムシを捕獲する有効なトラップが無いため、被害の認められる木造建物を隈なく探していくという地道な調査を行いました。その結果、複数種のシバンムシを捕獲することが出来ました。
今回の現地調査で得られた個体を含め、現在までにおよそ40種の主要な文化財害虫のDNA塩基配列を決定しデータベース化を進めています。その中には公共のデータベースには登録されていない種も多数含まれており、文化財害虫に特化したデータベースの構築はとても重要であると言えます。
今後は、害虫の脚や翅といった体の一部から種を同定する方法や被害部分に残された脱皮殻や虫糞からDNAを抽出して、文化財を加害した「犯人」を特定する方法について技術開発を進めたいと考えています。
令和2(2020)年、新型コロナウイルスが全世界へと感染拡大しました。4月7日政府より7都府県に対して緊急事態宣言が発令され、4月16日には対象地域が全都道府県に拡大されました。文化財を所有する文化施設等においても新型コロナウイルス感染拡大を防止する必要性が出てきましたが、消毒による文化財への影響が懸念されたため、文化庁より4月23日付事務連絡「文化財所有者及び文化財保存展示施設設置者におけるウイルス除去・消毒作業に係る対応について」が発出されました。全国の文化財を所轄する部署等に対し、消毒用の薬剤は文化財の劣化を引き起こすおそれがあるため、その使用にあたっては注意が必要な場合があること、文化財が所在する場所において消毒作業等の必要が生じ専門的な助言等が必要な場合には、事前に相談してほしいことを伝えました。そしてその相談窓口として、文化庁・文化財活用センター・東京文化財研究所保存科学研究センターの3者が協力し、対応に当たることになりました。当研究所は消毒に関する技術的な相談を受け付けていることをHPに掲載しました(https://www.tobunken.go.jp/info/info200424/index.html)。
これまで、博物館、美術館、文書館等の展示室や収蔵庫における消毒のみならず、建造物に対する消毒やお祭りに使用する民俗文化財への消毒など多岐にわたる相談を受けました。それらの相談に対し、できる限り薬剤による消毒をせず、他の感染防止対策を講じること、消毒をしなければならない場合についても対処の仕方や換気などについてそれぞれの状況に応じた助言を行いました。今後も引き続き消毒の必要性等を検討し、相談窓口として対応していきます。
見学通路における微粒子測定
新型コロナウイルス感染症の影響で、春に予定されていた国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開(第29回)は中止となりましたが、公衆衛生学の専門家による指導のもと、十分な感染予防対策をとることで、第30回の一般公開を令和2(2020)年7月18日から7月24日まで開催し、東京文化財研究所からは4人が解説員として対応しました。
今回の一般公開では、令和元(2019)年度をもって修復が終了した壁画の中から、東壁青龍、北壁玄武、東西壁女子群像を見学しやすい位置に配置しました。
見学者には、検温や過去2週間の健康状態の報告、マスク着用、こまめな手指消毒をお願いしました。また、見学用通路内の密集を避ける観点から、一日当たりの見学者数を100名程度に制限することで、感染予防にご協力いただきました。飛沫拡散防止のためには、今まで見学用通路での解説は口頭で行っていたものを、音声ガイダンスを導入し、見学後に屋外で質疑応答するよう工夫しました。見学前後では、見学用通路のアルコール消毒、排風機による換気を行いました。なお、換気の指標として二酸化炭素濃度の変化をモニタリングするとともに、空気清浄度の確認のため飛沫微粒子をパーティクルカウンターで測定するなど、見学者に安心して見学していただけるため、保存科学の専門家として対応に協力しました。
今冬の一般公開の開催については、応募要領は下記リンクから確認することができますのでご参照ください。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/takamatsu_kitora/sagyoshitsu_kokai/index.html
上部構造を解体した東門のAR展示イメージ(技術協力 山田修(東京藝術大学大学院特任教授))
当研究所のエントランスロビーでは、私たちが日々取り組んでいる仕事を皆様に広く知ってもらえるように、各部・センターの持ちまわりで年替わりのパネル展示を行っています。2020年度の展示は文化遺産国際協力センターが担当し、長年取り組んでいるカンボジアのアンコール・タネイ寺院遺跡の保存に対する協力の中から、昨年始まった同寺院東門の修復工事を紹介しています。
カンボジアを代表する大遺跡であるアンコールでは、カンボジアが国内政治の混乱から抜け出した1990年代以降、我が国のほかフランスやアメリカ、インド、中国といった世界各国の全面的な支援によって壮麗な建築群の復旧と復興が進められてきました。タネイ寺院遺跡では国際支援の考え方を一歩前に進め、カンボジア政府のアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)と当研究所が共同で作成した保存整備計画に沿って、カンボジア社会で持続可能な方法での遺跡の修復や整備を進めていこうとしています。東門の修復工事は同計画のもとで行われる初めての本格的な保存整備事業です。APSARAが修復工事の予算の確保と実施を担う一方、当研究所は工事の前に必要となる建築調査や発掘調査を行うとともに、修復の方法や工事の進め方に対する助言や提案を行っています。
タネイ寺院遺跡の調査では、3Dレーザー計測や写真測量(フォトグラメトリー)など近年の進展が目覚ましいデジタル記録技術を積極的に導入しました。特にフォトグラメトリーは、簡易かつ本格的なソフトウェアが一般向けに商品化されており、現在のカンボジア社会でも汎用性の高い技術として文化遺産保護分野への応用が十分に期待できるものです。今回の展示では現地の雰囲気を身近に感じられるように、こうしたデジタルデータを活用して、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)と呼ばれる展示方法にも挑戦しています。こうした展示を通じて、当研究所が取り組んでいる文化遺産保護の国際協力に少しでも関心をもっていただければ幸いです。
https://www.tobunken.go.jp/info/panel200704/index.html
研究会の様子
昨年(2019年)、平成から令和への代替わりの一大行事(大礼)として行なわれた即位礼・大嘗祭は記憶に新しいところです。その折に用いられた雅な装束に目を奪われた方も多かったことでしょう。そんな古式を彷彿とさせる一連の行事が、明治・大正・昭和・平成、そして令和と五代にわたっていかに伝えられたのか——―令和2(2020)年6月23日に開催された文化財情報資料部研究会での田中潤氏(客員研究員)による発表「近代の大礼と有職故実」は、近現代の皇室における“伝統”のあり方をうかがう内容となりました。
明治時代以降、皇室においても洋装が日常的なものとなり、従来の有職装束は着用が祭祀儀礼の際に限られるようになります。用いられる機会が減少した装束の途絶を回避するために有職故実研究の重要性が増し、大礼の都度、その成果が活かされました。一方で各時代の大礼で用いられた装束を比較すると、視覚的な効果や経費の問題等、さまざまな理由により変更も少なからず認められます。田中氏の発表を拝聴して、時代の要請に柔軟に対応しながら、“伝統”のイメージを伝えていく大礼のあり方は、まさに有形無形の文化財を守り伝える姿勢にも通じるものがあるように思いました。
なお今回の研究会は、新型コロナウイルス感染拡大による休止をはさんで、およそ4ヶ月ぶりの開催となりました。会場も2階の研究会室から密集、密接を避けて地階のセミナー室へと移すなど、感染対策をとった上で行ないました。
飛沫防止フィルムを設置したカウンターでの資料の受け渡し
当研究所資料閲覧室は新型コロナウイルスによる感染症(COVID-19)拡大防止のため、令和2(2020)年2月28日から臨時閉室しておりましたが、6月10日より閲覧業務を再開いたしました。感染症対策のため、通常よりも時間を短縮、開室日数を減らしています。事前予約制で、利用者の皆様にはマスクとニトリル手袋を着用の上で、ご利用頂いております。利用者の皆様にはご不便をお掛け致しますが、いまだ感染状況も沈静化していない中、それでも利用者の皆様と職員の安全を確保しつつ、必要なサービスを提供するよう、職員一同、日々努力を重ねております。ご理解・ご協力のほど、よろしくお願い致します。
利用予約については下記をご覧下さい。
https://www.tobunken.go.jp/info/info200605/index.html
また遠隔複写サービスもおこなっております。通常よりも少ない職員で対応しているため、多少時間がかかる場合もありますが、ご自宅からでも必要な資料を取り寄せられます。ぜひご利用下さい。
所内に構築されたオンライン講義用のブース
東京文化財研究所では、平成7(1995)年より東京藝術大学大学院美術研究科と連携してシステム保存学コースを開設し、文化財保存を担う人材の養成を行ってきていますが、令和2(2020)年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響により、例年通りの授業の開講や研究室における学生指導などが行えない状況になりました。令和2年4月に、東京藝術大学が原則として学生の入校禁止と授業のオンライン化を決定したのを受け、令和2年度前期のシステム保存学の大学院教育はこの方針に従って進められました。
まず、緊急事態宣言が出されていた5月25日以前は、研究所からの指示によって自宅待機中だった東京文化財研究所の併任教員が、自宅からカリキュラムに従ってオンライン講義を実施しました。緊急事態宣言解除後の6月からは、職員の研究所への出勤は認められるようになりましたが、依然として授業はオンラインで行うことが大学から要望されていたため、対面で行うことで初めて効果が得られるような講義は後回しにして、順番を入れ替えてオンラインで行える講義を先に実行しました。その時の講義は、研究所からオンライン講義を発信できるような環境を所内で構築し(図)、出勤した併任教員が入れ替わりでそこからオンラインで行いました。
そして7月以降は、例外として一部で対面授業を行うことも認められるようになったので、後回しにされていた講義を研究所内で対面で実施することとしました。この時は学生の研究所への立ち入り前の検温や健康チェック、マスクの着用、受講学生数に対して十分に広い講義室の確保、部屋の換気、などに十分注意しながら、対面で行うことでしか効果が得られない教育を研究所にて行いました。
この間、研究室の大学院生は自宅待機を原則とし、それぞれの指導教官(併任の東京文化財研究所職員)が主としてWeb会議システムを用いて個別にオンラインで指導を行っていました。
前例のない困難な状況によって各地で教育に支障が出ているというニュースが聞こえている中、受講した学生の中に健康を害したものはおらず、またインターネット情報を駆使したオンライン講義ならではの新たな教育も試みたため、例年と比べても遜色ない教育効果を挙げることができたと考えています。
令和2年度前期に実施した講義
・保存環境計画論 朽津信明・犬塚将英・佐藤嘉則 履修者20名(聴講2名)
全12回 全てオンラインで実施
・修復計画論 朽津信明・安倍雅史 履修者 9名(聴講3名)
全12回 全てオンラインで実施
・修復材料学特論 早川泰弘・早川典子 履修者 12名(聴講3名)
全12回 オンラインで4コマ分、対面で8コマ分実施
・文化財保存学演習 朽津信明 履修者21名(聴講2名)
オンラインにて実施
システム保存学在籍大学院生
・修士課程 1名 博士課程 1名
東門の基礎構造の補強方法検討図
ICC事務局による東門修復工事の視察(APSARA提供)
東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業に対する技術協力を継続的に行っています。昨年からはAPSARAと共同で策定した保存整備計画に基づいて、同寺院東門の修復工事に取り組んでおり、APSARAが工事の予算確保や実施を担う一方、本研究所は工事前や工事中の建築調査および考古調査を担うとともに、修復の方法や工程に対する助言や提案を行っています。
今年に入り、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大により諸外国との往来が困難になる中、3月末以降カンボジアへの渡航も事実上不可能になってしまいました。しかし、カンボジア国内では本格的蔓延に至っておらず、通常の業務が継続されている中、日本側の事情だけでAPSARAの事業計画を中断させるわけにもいきません。そこで4月からは、通常のメールによる連絡のみならず携帯端末のメッセージサービスを積極的に活用してリアルタイムな現場の状況把握に努めるとともに、必要に応じて適宜オンライン会議を開催するなど、手探りながらもICT(情報通信技術)を用いた技術協力の取り組みを進めています。
令和2(2020)年4月21日、2月から3月にかけて現地で行った基礎構造の強度調査等の分析結果の共有と、これに基づく適切な修復方法や構造補強方針に関する意見交換を目的に、APSARAの修復担当チームとのオンライン会議を開催しました。会議には協力研究者である東京大学生産技術研究所の腰原幹雄教授(建築構造)および桑野玲子教授(地盤機能保全)の参加を得て、専門的見地を交えた踏み込んだ議論を行い、当初構法のオーセンティシティの保存と構造的安全性の両立に向けた修復と補強の基本的な方向性について合意を得ることができました。この基本合意のもと、5月と7月にも、それぞれ基礎構造と上部構造について検討するためのオンライン会議を開催し、現場の最新状況と計画図面等の情報を共有しながらの双方向での議論を経て、現段階で最も適切と考えられる具体的な修復・補強方法を決定しました。
一方、例年6月にAPSARA本部において開催される、アンコール遺跡国際調整委員会(ICC)技術会合も今年は延期となり、ICC事務局による現場視察のみが行われました。この視察にあわせてAPSARAと本研究所は、上記の検討内容を含む事業計画進捗状況報告書を共同で作成、ICC事務局に提出しました。さらに、ICCの専門委員を務める京都大学大学院の増井正哉教授とのオンライン会議を開催し、目下の検討・計画内容について指導助言を得るとともに、アンコール遺跡の国際協力を取り巻く動向等に関する意見交換を行いました。
このように、図らずも、ICTによる文化遺産の修復協力の可能性を実感できたことは大きな収穫ではあります。とはいえ、文化遺産の保存は、それぞれに独自の価値を有するもの自体が対象である以上、遠隔での情報の共有や対話だけでは自ずと限界があることも確かです。新型コロナウィルス感染症の流行が収束し、再び自由な往来ができる日が一刻も早く戻ることを願ってやみません。
基壇の解体
コアサンプリング
東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業への技術協力を継続しており、令和元(2019)年9月より、同遺跡保存整備計画の一環として、東門の修復工事をAPSARAと共同で進めています。令和2(2020)年2月26日から3月18日にかけて、3次元レーザースキャナーを用いた東門基壇の記録および基礎構造の強度調査等を目的に、職員および外部専門家計4名の派遣を行いました。
2月27日から28日まで、上部構造の解体により露出した基壇および発掘調査を行った基壇外側入隅部の状態を正確に記録するため、東京大学生産技術研究所(東大生研)の大石岳史准教授の協力のもと、3次元レーザースキャナーを用いた基壇の計測を行いました。こののち、基壇内部盛土層の平板載荷試験、およびラテライト下地材等の一軸圧縮試験を予定していましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で外部専門家の派遣を中止せざるを得なくなり、現地では2019年12月に続く第2回目の簡易動的コーン貫入試験のみを実施しました。
簡易動的コーン貫入試験は、基壇内部盛土層と基壇外縁部の基礎地業層を対象として計11カ所で実施したところ、基壇内部盛土については壁直下部の方が室内中央部(床下)より概して大きい数値を示しました。この要因としては、試験時の気候の違いが影響している可能性はあるものの、壁直下では長期的な建物の自重により版築が締め固められ、現状で上部荷重を支持するのに十分な強度を有していることが推測されます。併せて、最下層の基礎地業を含む断面構造確認のため、ハンドオーガーによるコアサンプリングも行いました。
後日、3種類の試験体(既存のラテライト旧材、今回修復で劣化部の置換に使用するラテライト新材、据付調整用のライムモルタル)について、東大生研の桑野玲子教授、大坪正英助教の協力のもと、一軸圧縮試験等を行った結果、ラテライト旧材と新材とで顕著な強度差はないことなどが判りました。
世界的な新型コロナウイルス感染拡大により、当研究所が実施する国際協力事業も未曾有の状況が続いていますが、オンライン会議やデジタルデータ等を積極的に活用しながら、ひきつづき綿密な協力体制を維持できるよう模索しています。
東文研OPACの画面
PDFでダウンロードできる明治期の美術展覧会図録
新型コロナウイルスによる感染症(COVID-19)拡大防止のため、同じ独立行政法人国立文化財機構の他施設と同様に、資料閲覧室は令和2(2020)年2月28日から臨時閉室させて頂いており、ご利用の皆様には多大なご迷惑・ご不便をお掛けしております。政府の緊急事態宣言発令後は、当研究所の多くの職員も自宅待機となっておりますが、学校や職場で研究ができなくなってしまっている方が世界中におられます。
こうした状況下で、有効に活用できるのが、インターネット公開のデータベースやオープンアクセス資料です。これまでも当研究所では、所蔵資料のデジタル化と広範な利用促進に向けた取り組みを進めて参りましたが、ゲッティ研究所との共同事業により、昨年10月には明治〜昭和初期の美術展覧会カタログ900冊余りをインターネット公開しており、現在は当研究所所蔵の江戸時代の版本およそ730タイトル(1,700冊)のデジタル化、オープンアクセス化を鋭意進めております。江戸時代の版本は今年中にゲッティ・リサーチ・ポータルから検索・閲覧できるようになる予定です。
ゲッティ研究所との共同事業でデジタル化した資料は、こちらからご覧になれます。
https://opac.tobunken.go.jp/gate?module=top&path=corner/corner.do&method=open&no=1
また『美術研究』、『保存科学』、『無形文化遺産研究報告』、『日本美術年鑑』などは機関リポジトリからご覧頂けます。
https://tobunken.repo.nii.ac.jp
さらに当研究所の多種多様の研究資料は、「東文研総合検索」から検索できます。
http://www.tobunken.go.jp/archives/
より多くの皆様に、いつでもどこからでも無料でご利用頂ける研究資料の提供をこれから推進して参りますので、どうぞご利用下さい。
発表の様子
東京文化財研究所では、明治から昭和に発行された2565件の売立目録(オークションカタログ)を所蔵しており、長年、閲覧に供してきましたが、売立目録の原本の保存状態が悪いため、平成27(2015)年から東京美術倶楽部と共同で、売立目録のデジタル化をおこない(2015年4月の活動報告https://www.tobunken.go.jp/materials/
katudo/120680.htmlを参照)、令和元(2019)年5月から「売立目録デジタルアーカイブ」として公開を開始したところです(2019年4月の活動報告https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/817096.htmlを参照)。
令和2(2020)年2月25日に開催された第10回文化財情報資料部研究会では、「売立目録デジタルアーカイブの公開と今後の展望―売立目録の新たな活用を目指して―」と題して、所外から3名の発表者を招き、さまざまな分野における売立目録デジタルアーカイブの活用事例を紹介していただきました。発表内容は、山口隆介氏(奈良国立博物館主任研究員)が「仏像研究における売立目録の活用と公開の意義」、山下真由美氏(細見美術館学芸員)が「土方稲嶺展(於鳥取県立博物館)での売立目録の活用と展開」、月村紀乃氏(ふくやま美術館学芸員)が「工芸研究における売立目録デジタルアーカイブの活用方法とその事例」、安永が「売立目録デジタルアーカイブから浮かび上がる近世絵画の諸問題」についてでした。会場には、各地の学芸員や研究者など50名近くが参加しており、4名の発表後は、発表者間でディスカッションをおこなったほか、会場からの質問などにも答え、デジタルアーカイブの利点や注意点、今後の課題や問題点などに関して、活発な議論が交わされました。なお、当日のアンケート結果では、この研究会について、87%の方から「たいへん満足した」との回答を得ています。
国際語彙協議会の会場
令和2(2020)年2月6、7日にアメリカのロサンゼルスにあるゲッティ・センターで開催された国際語彙協議会(ITWG: International Terminology Working Group Meeting) において、「日本人の美術家たち:東京文化財研究所(Japanese artists, TNRICP)」と題して、現在、当研究所とゲッティ研究所との共同事業の一環として取り組んでいるゲッティ・ボキャブラリーズ(Getty Vocabularies)への日本美術家人名情報の提供、その途中経過を発表しました。 ゲッティ研究所が主導するITWGは、美術・建築シソーラス(AAT: Art & Architecture Thesaurus)、地理的名称シソーラス(TGN: Thesaurus of Geographic Names)、美術家人名総合名鑑(ULAN: Union List of Artist Names)、文化財名称典拠(CONA: Cultural Objects Name Authority)、図像典拠(IA: Iconography Authority)などのプログラムで構成される統制語彙集ゲッティ・ボキャブラリーズ(getty.edu/research/tools/vocabularies/)に関する共通のトピックを議論するグループで、おおむね2年に1度招集されています。今回の協議会には、アメリカ合衆国、台湾、ベルギー、ドイツ、ブラジル、イスラエル、クロアチア、アラブ首長国連邦、スイス、オランダなどから35名ほどの参加者が参集し、ゲッティ・ボキャブラリーズ各プログラム担当者から、その現状と機能拡張の進展等について報告があり、また参加機関から、ゲッティ・ボキャブラリーズへのデータ提供の先駆的な実践などについて発表が行われました。さらに、これらの報告・発表をうけ、ゲッティ研究所担当者や参加機関において共通する問題を挙げて議論を行うなかで、他国の参加者からも助言を得ることができました。
日本の文化財を海外に外国語で紹介する際には、国際的な専門用語・人名辞典が不可欠ですが、ゲッティ・ボキャブラリーズは今日の技術と関係機関の連携によって実現しようとする取り組みです。これに当研究所が永年蓄積してきた日本美術家人名情報を提供することで、日本の文化財の発信、あるいは国際的な日本文化財研究の支援となることを目指しています。
公開学術講座の様子
令和2(2020)年2月6日(木)、第13回東京文化財研究所無形文化遺産部公開学術講座「染織技術を支える草津のわざ 青花紙―花からつくる青色―」を開催しました。
午前中には特別上映会として文化庁工芸技術記録映画『友禅―森口華弘のわざ―』(昭和63〈1988〉年、桜映画社)や、平成11(1999)年に草津市で制作された『草津市の花 青花 伝承の青花紙』を上映し、青花紙についてのこれまでの記録を辿りました。
午後からは平成28~29年度にかけて滋賀県草津市と東京文化財研究所で実施した青花紙製作技術の共同調査の成果を中心に講座を開催しました。共同調査については共同調査報告書を刊行しています(https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/817166.html 2019年、4月活動報告)。
講座では趣旨説明後、本共同研究で撮影・編集した『青花紙製作技術の記録工程』(平成30〈2018〉年制作:東京文化財研究所)の記録映像を上映しました。その後、菊池からは「青花紙利用の現状―染織技術者への聞き取り調査を通じて―」について青花紙と代替材料である合成青花の双方が両方利用されている調査結果を報告しました。次に、草津市立草津宿街道交流館の岡田裕美氏からは、「草津市と青花紙―青花紙製作技術の保護に向けてー」と題して、共同調査で得られた草津市と青花紙製作技術の関係性の報告に加えて、現状についての報告がありました。共同調査から2年が経ち、3軒あった青花紙を製作する農家をとりまく状況は変わっています。現在では、草津市でも担い手セミナーを実施することで技術の伝承を行っています。現在の取り組みについての報告は、地域文化としての青花紙をどのように考えていくか、保護はどのように行っていくべきかという課題を浮き彫りとしました。その後、東京文化財研究所の石村智室長より「文化遺産としての青花紙」と題してこのような材料を製作する技術をどのように文化財保護に位置付けて考えていくのかについて報告がありました。
共同研究成果の報告後、本公開講座は木版摺更紗の重要無形文化財保持者である鈴田滋人氏をお招きして「〈座談会〉染織材料としての青花紙」を設けました。青花紙は、友禅染や絞染の下絵の材料のイメージがありますが、鈴田氏の木版摺更紗の作品制作においても重要な工程を担う材料であることも改めて感じる機会となりました。
青花紙の技術伝承は、節目を迎えています。無形文化の保護は変容とどのように折り合いをつけていくのかを常に考えていかなければなりません。今後も利用できる材料であるかという課題に直面している現状について参加者の方にも知ってもらえる良い機会となりました。
パンフレット『伝統芸能を支える技Ⅴ 調べ緒 山下雄治』
「伝統芸能を支える技」を取り上げたパンフレットのシリーズ5冊目を刊行しました。今回は「調べ緒」(「調べ」とも)の製作者・山下雄治氏を取り上げています。調べ緒は、能楽や歌舞伎をはじめ全国各地の祭礼でも用いられる、小鼓、大鼓、太鼓の表革と裏革を締め合わせるための特殊な麻紐です。そして山下氏は、代々調べ緒を扱う山下慶秀堂(京都)の四代目当主として、調べ緒の製作や後進の育成、普及活動に取り組んでいます。パンフレットでは秘伝の「固く柔らかく綯(な)う」技の一端を紹介しています。また、パンフレット刊行に先行して行った山下氏の調べ緒製作技術の調査概要は、「楽器を中心とした文化財保存技術の調査報告Ⅱ」(前原恵美・橋本かおる、『無形文化遺産研究報告』13、東京文化財研究所、2018)に掲載されています。併せてご参照下さい(こちらからダウンロードもできますhttps://www.tobunken.go.jp/ich/maehara-hashimoto-2)。
なお、このパンフレットのシリーズは、営利目的でなければ希望者にゆうパック着払いで発送します(在庫切れの場合はご了承ください)。
ご希望の場合は、mukei_tobunken@nich.go.jp(無形文化遺産部)宛、1.送付先氏名、2.郵便番号・住所、3.電話番号、4.ご希望のパンフレット(Ⅰ~Ⅴ)と希望冊数をお知らせください。
〈これまでに刊行した同パンフレットシリーズ〉
・『伝統芸能を支える技Ⅰ 琵琶 石田克佳』
・『伝統芸能を支える技Ⅱ 三味線象牙駒 大河内正信』
・『伝統芸能を支える技Ⅲ 太棹三味線 井坂重男』
・『伝統芸能を支える技Ⅳ 雅楽管楽器 山田全一』
・最新『伝統芸能を支える技Ⅴ 調べ緒 山下雄治』
今後も、文化財保存技術としての楽器製作・修理技術を取り上げたパンフレットを継続的に刊行する予定です。
現在の旧佐世保無線電信所施設とその周辺(長崎県佐世保市)
旧鳳山無線電信所の中心にある電信室正面(台湾高雄市)
長崎県の佐世保市と西海市をへだてる針尾瀬戸をみおろす丘陵上にある旧佐世保無線電信所(針尾送信所)は、海軍が大正11(1922)年に建設した長波通信基地の遺構です。わが国のコンクリート構造の草分けとして知られる海軍技師・真島健三郎(1874~1941)が率いた佐世保鎮守府建築科が手がけた、高さ136メートルに及ぶ3基の巨大な電波塔に象徴される上質な鉄筋コンクリート造の建造物群は、当時最高水準のコンクリート技術を示すものとして、平成25(2013)年に重要文化財に指定されています。
重要文化財の指定後、旧佐世保無線電信所施設(以下、佐世保)を管理する佐世保市では文化財としての保存と活用のための整備を進めています。令和2(2020)年2月12~13日の間、筆者が委員を務める整備検討委員会の活動の一環として、台湾南部の高雄市郊外にある旧日本海軍鳳山無線電信所の調査を行いました。
鳳山無線電信所(以下、鳳山)は、同じく佐世保鎮守府が手がけた長波通信基地で、佐世保より5年先立つ大正6年(1917)に完成しました。2000年代まで台湾海軍の招待所や訓練所として利用された後、公開施設となり、2010年に台湾の古跡に指定されています。鳳山は、佐世保と同じ組織による設計だけあって、電波塔こそ当時一般的な鉄塔(解体撤去済み)でつくられたものの鉄筋コンクリートが多用され、半径300メートルの円周道路や中心部の主要施設の配置など佐世保と類似した構成になっています。今回の調査で、鳳山は戦後一貫して大規模な更新や改造を要しない教育的施設であったため、主要建物の改変が比較的少なく、日本海軍時代の様相を今も留めていることが確認できました。特に施設の中心にある電信室は佐世保と同形式で、一部火災で消失しているものの、鉄扉や上下窓枠といった建具のほか内部の床や階段など木製の造作が残っており、建設当時のよく姿を伝えています。佐世保の電信室は大戦末期の耐爆化に伴う改造に加え、海上自衛隊及び海上保安庁時代の時々折々の改修も少なくないことから、今後、保存修理の方針を検討する上での有効な参考資料になると考えられます。
いっぽう鳳山には現地で「十字電台(ラジオ局)」と呼ばれる、その重厚な建築的特徴から作戦指揮所を思わせる特異な建物があるなど、少なからず佐世保との違いもありました。鳳山の整備では、白色恐怖(国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧)時代に鳳山が政治犯矯正の場所となっていた事実に焦点が当てられており、日本海軍時代については余り注目されておらず、未解明の事柄も多く残されているようです。今後、文化財としての保護を共通項に、佐世保と鳳山の交流を進めていくことで、日台の近代化遺産における保存理念や修理方法の展開にも貢献できるものと期待されます。
資料閲覧室の専用端末
右隻部分の拡大画像と蛍光エックス線分析結果
文化財情報資料部では、当研究所で行った美術作品の調査研究について、デジタルコンテンツを作成し、資料閲覧室にて公開しています。このたび永青文庫所蔵の重要文化財「洋人奏楽図屏風」のデジタルコンテンツの公開を開始致しました。永青文庫所蔵「洋人奏楽図屏風」は初期洋風画と呼ばれる日本絵画の一作例で、西洋の人物・風俗・景色などが西洋風の表現技法によって描かれています。この作品は屏風という日本絵画の典型的な画面形式に、通常の日本絵画とは異なる、独特な表現技法が用いられています。このデジタルコンテンツは、平成27(2015)年に東京文化財研究所が刊行した報告書に基づいて作成しました。専用端末で高精細カラー画像、近赤外線画像、蛍光エックス線分析による彩色材料調査の結果などがご覧いただけます。ご利用は学術・研究目的の閲覧に限り、コピーや印刷はできませんが、デジタル画像の特性を活かした豊富な作品情報を随意に参照することができます。この画像閲覧端末は、資料閲覧室開室時間にご利用いただけます。ご利用に際しては下記をご参照下さい。http://www.tobunken.go.jp/~joho/japanese/library/library.html
ワット・ラーチャプラディットでの調査の様子
タイ・バンコク所在のワット・ラーチャプラディットは、ラーマ4世王の発願により1864年に建立された王室第一級寺院です。同寺院の拝殿の開口部には、伏彩色螺鈿の技法により装飾された日本製の扉部材が用いられており、東京文化財研究所ではこの扉部材の修理に関して、タイ文化省芸術局及び同寺院の依頼により技術支援を行っています。文化財の修理は作品に関する知見を深める機会でもありますが、同時代の輸出漆器に関する研究事例はまだ少なく、扉部材の来歴はいまだ明らかではありません。そこで、令和2(2020)年1月12日〜18日に、バンコクにおいて伏彩色螺鈿を含む日本製漆工品の熟覧調査を実施しました。
今回の調査では、ワット・ラーチャプラディットにおいて、扉部材の状態調査を実施するとともに、タイ側が主体的に実施する修理事業の計画について、芸術局長の臨席のもと情報交換を行いました。また、最も格式の高い王室第一級寺院の一つであるワット・ポーでの調査の機会を得て、螺鈿と蒔絵による装飾を有する夾板(ヤシの葉に経典などを記した文書(貝葉)を挟んで保護する細長い板)1組を熟覧しました。さらに、バンコク国立図書館では平成31(2019)年に引き続き、同館所蔵のラーマ1世王から5世王の時期の貝葉の一部を対象にそれらの夾板の熟覧調査を行ったところ、これまで知られているものとは別に、螺鈿と蒔絵の装飾を有する夾板1点があることがわかりました。
今回はこのほか、明治44(1911)年にタイに渡り、かの地において漆芸の分野で技師及び教育者として活動した、三木栄(1884-1966)が使用していた道具箱の調査を行いました。伏彩色螺鈿をはじめとした幕末から明治期の日本製漆工品を通じた、日本とタイの交流に関する調査に、いっそう広がりが得られたように感じています。
井上馨の蔵品図録『世外庵鑑賞』(東京文化財研究所蔵)より
井上馨(1835~1915年)は長州藩士で明治維新の動乱期に活躍、維新後も外務大臣や内務大臣など要職を歴任し、政財界に大きな影響を与えた政治家です。鹿鳴館外交に代表される欧化政策を主導したことでよく知られていますが、その一方で、伝徽宗筆「桃鳩図」をはじめとする東洋美術の名品を蒐集し、また益田鈍翁ら財界の茶人とともに茶の湯をたしなむ数寄者でもありました。令和2(2020)年1月21日に開催された文化財情報資料部研究会での依田徹氏(遠山記念館学芸課長)の発表「明治文化と井上馨」は、そうした井上の文化史における重要性にあらためて目を向けさせる内容でした。
井上の骨董収集は明治の早い時期に始まったとされています。現在は奈良国立博物館が所蔵する平安仏画の優品「十一面観音像」も、井上は明治10年代に入手していたようです。ときにはかなり強引な手段で数々の名品を蒐集し、明治45年には蔵品図録『世外庵鑑賞』を出版しています。一方で明治20年には自邸に明治天皇の行幸啓を仰ぎ、九代目市川団十郎らによる歌舞伎を天覧に供したり、また落語家の三遊亭圓朝とも交流したりするなど、芸能史の上でもその存在は看過し得ないものがあります。
依田氏の発表では、そうした井上の多岐にわたる文化への関与が明らかにされ、その後は齋藤康彦氏(山梨大学名誉教授)、田中仙堂氏(三徳庵理事長)、塚本麿充氏(東京大学東洋文化研究所准教授)を交えて意見交換を行いました。多忙な政務のかたわら、どのように審美眼を養っていたのか、など井上については不明の部分も多く、今後の研究の進展が待たれるところです。
映像による事前ガイダンス
令和2(2020)年1月18日から24日までの7日間、令和元年度(第28回)国宝高松塚古墳壁画修理作業室の一般公開が行われ、期間中、東京文化財研究所から4名の研究員が説明員として対応に当たりました。
本公開では、見学者用通路側に「冬」を象徴する北方の神獣である北壁玄武と、東西壁女子群像・東西壁男子群像を配置し、来場された多くの方に、壁画の現状をご確認頂きました。近年、西壁女子群像をはじめとした図像部分が綺麗になり、クリーニング前後の違いがはっきりと分かりやすくなったことで、作業室内の壁に展示されていた過去の写真と見比べて驚かれる方も多くいらっしゃる一方、同時期に四神の館にて公開されました、国宝キトラ古墳壁画の北壁玄武と比較しながら、熱心にご覧になる方もいらっしゃいました。
高松塚古墳壁画に係る一連の事業は、文化庁からの受託事業「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対策に関する調査等業務」として行われており、その業務の中心として、当研究所も長きに亘り関わって参りました。壁画は平成19(2007)年に墳丘から石室石材ごと取り出されて以降、古墳近くの仮設修理施設にて、カビやバイオフィルムに汚染された絵画面と無地場のクリーニングおよび粗鬆化が進んだ漆喰の強化を中心に、処置が進められています。そして12年目となる今年度で、その保存修復計画も一旦区切りを迎える事となりました。将来的な壁画の保存と展示活用については、今後さらに検討を重ねていく予定です。