スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その6)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
令和7(2025)年1月13日~1月18日にかけて、フィレンツェを訪れ、ルネサンス後期、マニエリスムの彫刻家であるピエトロ・フランカヴィッラやジョバンニ・バッティスタ・カッチーニによって制作された塑像群に関する事前調査と、今後の研究計画について所蔵元であるオペラ・デル・ドゥオーモ博物館と協議しました。これらの彫刻は、フィレンツェの主要な聖人たちを表しており、1589年にトスカーナ大公フェルナンド1世デ・メディチとクリスティーヌ・ディ・ロレーヌの結婚式を祝うために制作されました。その目的は、式典を祝う一日のためだけにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の正面に設置された仮設のファサードを飾ることにありました。そのため、当時主流であった大理石ではなく、塑像という手法が選ばれたと考えられています。
現在、これらの彫刻作品は大聖堂クーポラの内側にある部屋で保管されていますが、経年劣化が進んでおり、その構造や使用された材料に関する研究は十分に進んでいないのが現状です。今後は、現地の国立修復研究所や美術監督局と連携し、調査を一層深化させるとともに、将来的な保存修復に資する研究を推進していきます。
ルクソール(エジプト)岩窟墓における壁画断片の保存修復に係る研究


文化遺産国際協力センターでは、早稲田大学エジプト学研究所およびエジプト考古局と協力し、ルクソール西岸アル=コーカ地区に所在する岩窟墓に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究を実施しています。研究対象となる壁画は、平成25(2013)年に早稲田大学名誉教授近藤二郎氏によって発見されたコンスウエムヘブ墓に描かれたもので、制作年代は新王国時代の紀元前1200年頃と推定されています。
この壁画は、石灰岩の表面に塗られた土を主原料とする壁に描かれています。これまでの研究では表面に付着した汚れのクリーニング方法や、土壁が剥離・剥落した箇所に適した修復材料および技法の開発に取り組んできました。そして、令和6(2024)年11月20日~12月5日に実施した実地研究では、発掘作業中に発見された壁画断片を原位置に戻す処置方法について検討しました。その結果、壁画表面の保護方法や裏面の補強方法について良好な結果が得られ、土や粘土といった元来この壁画に使用されている材料と同等のものを使った原位置への再設置作業からも一定の成果を確認することができました。今後は、今回行った処置の効果や安定性に着目しながら経過観察を続けていきます。
この研究は、基礎研究から各種実験を重ね、実用性に配慮した処置方法を導き出すという過程を経て丁寧に進めてきました。その成果はルクソールにおいて他に類を見ないものであり、エジプト考古局や現地の専門家から非常に高い評価を受けています。今後も、新王国時代に数多く制作された壁画の保存修復に貢献する研究を推進し、さらなる成果を目指して活動を続けていきます。
聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)での保存修復共同研究


文化遺産国際協力センターでは、トルコ共和国のカッパドキアに位置する聖ミカエル教会(ケシュリク修道院内)を対象に、現地専門機関や大学と協力しながら内壁に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究事業を進めています。今年の6月には、安全に研究活動を行うための環境整備について現地関係者と協議し、足場の設置や水道の整備など、多方面でご協力いただけることとなりました。(聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)保存修復共同研究に係る協議::https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2087011.html)
令和6(2024)年10月25日~11月9日にかけて現地を訪問し、ネヴシェヒル保存修復研究センターと共同で、剥離した漆喰層の補強や、壁画表面に付着した煤汚れの除去方法など、保存修復に関する実地研究を行いました。いずれについても有効的な方法を見出すことができ、その結果、これをもとにした保存修復計画を立案するに至りました。また、11月6日には、カッパドキア大学で開催された当該事業に係る国際シンポジウムに参加し、事業目的や進捗状況について報告しました。
この共同研究は、東京文化財研究所が中心となり、トルコの専門機関や大学に加え、欧州の専門家も参加する国際的なプロジェクトに成長しています。学術的な調査にとどまらず、文化財の保存や活用に携わる多くの人々に役立つような活動を目指していきます。
旧機那サフラン酒製造本舗土蔵鏝絵の保存修復に係る調査研究(その2)


東京文化財研究所では、令和3(2021)年度より、「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」の一環として、スタッコ装飾に関する研究調査を行なっています。昨年度は、新潟県長岡市にある機那サフラン酒製造本舗土蔵にて、扉や軒下に配された鏝絵を対象に、埃などの付着物の除去や、剥離・剥落といった損傷箇所に対する適切な保存修復方法の確立を目的とする調査研究を長岡市から受託して行いました。これに続き、今年度は、彩色層や漆喰層の補強および補彩技法の確立を目的とする調査研究を、欧州の専門家にも協力いただきながら9月26日~10月16日にかけて行いました。
過去にこの鏝絵では、損傷箇所の補修に合成樹脂を含む材料が使われていましたが、夏は高温多湿で、冬季間には降雪量の多いことから経年による劣化が激しく、ときに補修材料が鏝絵を傷める原因になっていました。この現状を改善すべく耐久性に優れた無機修復材料の導入を検討し、補彩においては、制作から間もなく100年を迎える本鏝絵が持つ風格を現代に継承しつつ、鏝絵蔵全体の調和を生み出すよう配慮した彩色方法を採用しました。
一連の調査研究を通じて確立された鏝絵の保存修復方法は、文化財保存学の視点から実施された国内初の事例となります。この方法に基づく成果については、今後の経過観察を通じてその効果を検証する必要がありますが、現状の改善に繋がる大きな一歩を踏み出すことができたといえるでしょう。
スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その5)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
その活動の一環として、令和6(2024)年9月6日~7日にかけてイタリアのソンマ・ヴェスヴィアーナにあるローマ時代の遺跡を訪問しました。ヴェスヴィオ火山の北側に位置するこの遺跡では、平成14(2002)年以来、東京大学を中心とする発掘調査団によって調査が進められており、これまでに紀元前後に創建されたと考えられる遺構が発見されています。そして、様々な調査の結果、これらの建物が歴史書の中に記されたローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの別荘である可能性が高いことから関心が寄せられています。
今回の訪問では、遺構の中に残るスタッコ装飾に焦点を当て、使用されている材料や技法、彩色を対象にした事前調査を実施し、研究計画書を作成しました。この計画書の中では、スタッコ装飾や壁画が残る装飾門の現代的な保存修復方法について検討を深めることについても言及しており、遺跡の保存と活用を視野に入れています。
今後は、ギリシャ・ローマ時代の考古遺跡を対象にしたスタッコ装飾の技法・材料に係る比較調査を通じて構造や特性について理解を深めるとともに、それらの保存修復方法やサイトマネジメントのあり方について研究を続けていきます。
欧州専門家との石造文化財の保存修復に向けた共同研究(その2)


文化遺産国際協力センターでは、石造文化財のより良い保存修復手法の確立を目指し、欧州専門家との共同研究を進めていいます。
令和6(2024)年7月1日~6日にかけてイタリアのフィレンツェを訪問し、国立修復研究所や国家認定文化財修復士の方々の協力を得ながら、日本国内には流通していない修復材料を用いた石材表層面の補強や石材片の接合について実験研究を行いました。
また、16世紀にメディチ家によって造園されたボーボリ庭園に設置された石造彫刻を対象に行われている保存修復作業の現場を訪問し、亀裂や層状剥離、欠損箇所への充填といった様々な傷みへの対処法について見学し、知見を深めました。なかでも、屋外環境下で発生しやすい生物劣化を抑制するための対処法は大変興味深く、保存管理の負担軽減にも繋がるものです。わが国においても効果が期待できることから、大きな収穫となりました。
今後も、実験研究や事例調査を継続するとともに、当該分野に係る専門家と繋がりを深めながら、日本国内の石造文化財の保存修復への応用も視野に入れつつ研究を続けていきます。
スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その4)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。当初の研究計画では、建材としてのスタッコが装飾や塑像を制作するための材料として活用されはじめた地中海沿岸地域を対象に調査研究を始める予定でした。これまでは、コロナウイルス感染症の蔓延に伴い国内調査に切り替えるなど研究計画の変更を余儀なくされてきましたが、状況の改善を受けて当初の計画に立ち返り、現在は欧州での活動を再開しています。
令和6(2024)年7月5日~7日にかけてイタリアのパレルモを訪問し、ギリシア人の植民都市が築かれた時代の遺跡を対象とした調査研究への協力について、現地の文化財監督局と協議しました。また、先方の取り計らいにより世界遺産にもなっているモンレアーレ大聖堂をはじめとするアラブ・ノルマン様式建造物群や、16〜17世紀を中心に活躍した彫刻家ジャコモ・セルポッタのスタッコ装飾が残る教会を訪問し、現地専門家より保存修復への取り組みについて話を伺いました。
今後は、シチリア島の考古遺跡を対象にスタッコ装飾の技法・材料に係る調査を通じて構造や特性についての理解を深めるとともに、それらの保存修復方法やサイトマネジメントのあり方について研究を続けていきます。
聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)保存修復共同研究に係る協議


文化遺産国際協力センターでは、トルコ共和国のカッパドキアに位置する聖ミカエル教会(ケシュリク修道院内)を対象に、現地専門機関や大学と協力しながら内壁に描かれた壁画の保存修復に関する共同研究事業を進めています。昨年度は、現地調査を通じて研究計画書を作成し、その内容についてトルコ共和国文化・観光省ならびに専門委員会で審議された結果、実施に関して正式な認可を受けました。(聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)での保存修復研究計画立案に向けた調査の実施 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp))
これを受けて、令和6(2024)年6月25日~29日にかけて現地を訪問し、今後、安全に研究活動を進めるうえで大切となる環境整備について協議しました。協議は、ネヴシェヒル保存修復研究センター長のHatice Temur YILDIZ氏やウルギュップ市議会議員でカッパドキア観光地域インフラサービス協会理事を務めるLevent Ak氏協力のもと進められ、ネヴシェヒル県副知事やユルギュップ市長とも意見交換を行う機会を設けていただくなど、大変有意義なものとなりました。その結果、教会内に建設予定の足場や水道・電気の設置工事等についてご協力いただけることとなり、カッパドキア地域における公共団体との連携体制を築くことができました。
今後は、現地の方々の期待に応えるためにも研究活動に取り組み、トルコ共和国における文化財の保存修復に広く貢献できるよう、活動を続けていきます。
国際学術会議『ペルジーノとフィレンツェ』の開催


ペルジーノ(本名:ピエトロ・ヴァンヌッチ)は、イタリアのルネサンス期を代表する画家のひとりです。バチカンのシスティーナ礼拝堂にも壁画を描くなど数多くの芸術作品を残し、若きラファエロの師でもあった彼は、「神のごとき画家」として賞賛されました。そんなペルジーノがこの世を去ってから、令和5(2023)年は没後500年にあたり、イタリア国内外で数多くの展覧会やシンポジウムが開催されました。
この流れを汲み、東京文化財研究所は、エリオ・コンティ歴史学協会、イタリア国立研究会議-文化遺産科学研究所、文化省フィレンツェ美術監督局、南スイス応用科学芸術大学と共催で、フィレンツェの「フリーニョの食堂」を会場とする国際学術会議『ペルジーノとフィレンツェ』を令和6(2024)年5月14日と15日の2日間にわたり開催しました。美術史学や歴史学、文化財保存学などの分野やから専門家が集まったこの会議は、ペルジーノに関連する研究発表を通じて改めてこの偉大なる画家の価値を見つめ直そうとするものです。プログラムの中では、フィレンツェに残る2つの壁画作品を対象にした学際的技術研究についても発表を行い、今後の保存修復や維持管理のあり方について議論しました。
今後は、会場となったフリーニョの食堂にペルジーノが描いた最後の晩餐を対象に、科学的な調査等を通じ、現地専門家と協力しながら、今後のより良い保存のあり方について研究を進めていきます。
欧州専門家との石造文化財の保存修復に向けた共同研究


人類が古くから文化的な生活を営むうえで活用してきたもののひとつに石材があります。その用途は石器や建材、彫刻作品と幅広く、その中には石造文化財と分類され保存に向けた取組みにより受け継がれてきたものが数多くあります。国内と国外を比較してみると、石造文化財として位置付けるうえでの定義は異なりますが、石材の保存修復は世界中で様々な取組みがなされてきました。特に、日本の「木の文化」に対して「石の文化」として知られる欧州では、世界を牽引する先進的な調査・研究が積み重ねられてきており、そこから得られた成果は、国内の石造文化財の保存にも活用できると考えます。
硬度や安定性という観点から木材に比べ耐久性に富む石造文化財は、屋外で保存されるものも少なくありません。そのため、天候や天災、周辺環境といった外的要因によって劣化、欠損してしまうことが多く、その保存を考えるうえでは様々な視点にたち対策を講じる必要があります。であるからこそ、多くの事例に目を向け、各分野の専門家で問題を共有し、解決に向けた研究を進めることが大切です。
令和6(2024)年2月16日に香川県坂出市の神谷神社を訪れ、境内に立つ七重石塔の保存に向けた調査を実施しました。火山礫凝灰岩で造られた石塔は、雨水により基壇の侵食が進んだ危険な状態にあり、亀裂や欠損もみられます。この状況を欧州の専門家と共有し、令和6(2024)年3月1日にはフィレンツェでイタリア国家認定文化財修復士の方々と類例調査や研究計画に関する打合せを行いました。今後は、日本の石造文化財の保存修復における現状の改善に繋がる研究を目指します。
スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査(その3)


文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。その一環として、令和6(2024)年2月26日~3月2日、および3月10日~12日にかけてフィレンツェを訪問し、ルネサンス後期、マニエリスムの彫刻家であるジャンボローニャ制作の塑像『ピサで勝利したフィレンツェ』を対象にした調査を、フィレンツェ美術監督局協力のもと行いました。
この作品は、現在シニョーリア広場に面するヴェッキオ宮殿にある500人広間に展示されていますが、もともとは大理石で制作するうえでの原型として造られたもので、これをもとに制作された大理石の作品はバルジェッロ国立美術館に展示されています。今回の調査では、制作技法に係る検証の一環として2つの作品の形状を3Dで記録して比較しました。今後は、塑像を制作するうえで重要となる内部構造に焦点を当てた調査に移行していく予定です。
国内外には数多くの塑像が現存しますが、意外にもその保存修復方法については確立されていないのが現状です。当該研究調査が保存修復方法の発展に繋がることを目指して活動を続けていきます。
イストリア地方における壁画保存に向けた共同研究


クロアチアの北西部に位置するイストリア地方では、中世からルネサンス期にかけて数多くの壁画が教会内に描かれました。その数は、現在確認されているだけでも150件にものぼりますが、それらの保存や維持管理については深刻な問題を抱えています。文化遺産国際協力センターでは、こうした現状の改善に向け、保存状態の記録方法の構築に向けた調査研究を、クロアチア文化メディア省美術監督局、イストリア歴史海事博物館、ザグレブ大学と共同で進めています。
令和6(2024)年3月4日~8日にかけて現地を訪問し、壁画の保存や維持管理に従事する専門家が効率的に活用できるものであることを念頭に、保存状態に係るチェックシートの作成及び、イストリア半島中央に位置する2つの教会壁画を対象にした導入テストを実施しました。その結果、短時間で正確な情報が得られるとともに、今後の壁画保存に向けた方針を立てるうえでも活用できるものであることが確認できました。
今後は、より完成度の高いものとなるようチェック項目の記載内容について協議を進めながら導入テストを繰り返し、デジタルアーカイブの構築を目指します。
旧機那サフラン酒製造本舗土蔵鏝絵の保存修復に係る調査研究


東京文化財研究所では、令和3(2021)年度より、「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」の一環として、スタッコ装飾に関する研究調査を行なっています。
令和5(2023)年10月25日~11月16日にかけて、新潟県長岡市にある機那サフラン酒製造本舗土蔵にて、扉や軒下に配された鏝絵の保存修復に関する研究調査を実施しました。この業務は、長岡市から受託した「旧機那サフラン酒製造本舗土蔵鏝絵保存修復調査業務」として実施したもので、国内の鏝絵について文化財保存学の観点から捉えた保存修復方法の確立を目的とするものです。
国内における鏝絵は、近年、文化財としての価値評価が高まり、傷んだ箇所を処置する際に用いられる材料の選択にも、既存の材料に適合する明確な根拠を示しながら進められる「保存修復」という介入方法の重要性が高まっています。今回の研究調査では、欧州よりスタッコ装飾に係る保存修復の専門家を招聘し、協議を重ねながら鏝絵にみられる様々な傷みへの対処法を検討しました。その結果、埃などの付着物の除去や、剥離・剥落といった損傷箇所に対する適切な保存修復方法を確立させるに至り、一定の成果を挙げることができました。
今後は保存修復後の状態について経過観察を行うとともに、経年により劣化した漆喰の補強方法について検討を重ねていきます。
聖ミカエル教会(ケシュリク修道院)での保存修復研究計画立案に向けた調査の実施


中央アナトリアに位置するカッパドキア(トルコ共和国)は、凝灰岩の台地が長い時間をかけて侵食された結果、変化に富んだ奇岩群を生み出し、昭和60(1985)年には「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」としてユネスコの世界遺産リストに加えられました。紀元2世紀以降、この地にキリスト教徒が移住を始めると、彼らの手によって1000箇所以上とも言われる岩窟教会や修道院が築かれ、その内壁に壁画が描かれるようになりました。
前年度にアンカラ・ハジ・バイラム・ヴェリ大学とともに実施した事前調査の結果、聖ミカエル教会(ケシュリク修道院内)に描かれた壁画を対象として文化財保存修復に係る共同研究事業を開始することが決定しました。これを受けて、令和5(2023)年6月15日~22日にかけて現地を訪問し、具体的な研究計画を立案するための調査を行いました。そして、壁画表面を覆う煤汚れの除去や、岩盤支持体から剥離してしまった漆喰層の保存処置を研究テーマとして位置づけることが合意されました。
今後は現地専門家と研究課題を共有しながら、トルコ共和国における文化財の保存修復に広く貢献できるよう、活動を進めていきます。
イストリア地方における壁画保存に向けた共同研究に関する事前調査


クロアチアの北西部に位置するイストリア地方は、スロベニア、イタリアを含む3か国の国境が密集しており、古代ではローマ帝国、中世ではヴェネツィア共和国、近世ではハプスブルク帝国とたびたび支配者が替わってきた歴史があります。
この地域では、中世からルネサンス期にかけて教会に壁画を描く文化が花開き、数多くの作品が誕生しました。しかし、それらの保存について注意が向けられるようになったのは19世紀後半と遅く、オーストリア=ハンガリー帝国の文化遺産管理局の活動がきっかけでした。その後、20世紀に入り大戦や紛争の時を経て、1995年以降にようやく落ち着きを取り戻すと、クロアチア共和国政府によって文化財のための保存研究所が設立されます。この研究所とイストリア考古学博物館による共同調査が始まるに至って、この地域に特有の壁画の総称として「イストリア様式の壁画」という言葉が誕生しました。
令和5(2023)年3月1日から7日にかけて、イストリア歴史海事博物館のスンチツァ・ムスタチ博士やザグレブ大学のネヴァ・ポロシュキ准教授の協力のもと、イストリア地方の主要な教会約20箇所を訪問し、壁画に関する実地調査を行いました。その過程で、制作技法や保存状態に関するデータアーカイブの作成や、今後に向けた保存修復方法の検討などについての技術的協力が求められました。イストリア地方には、確認されているだけでも約150件にも及ぶ教会壁画が現存しています。このかけがえのない文化遺産を未来の世代に引き継ぐためにも、関連する分野の専門家とネットワークを構築しながら、国際協働の確立に向けて取り組んでいきます。
ウルビーノ大学カルロボー 基礎応用科学部との協力合意書の締結


イタリアは数多くの文化遺産を有し、その保存修復においても世界を牽引してきました。そんな同国の保存科学分野の中でも幾多の業績を挙げてきたのがウルビーノ大学カルロボー 基礎応用科学部です。このたび、東京文化財研究所では、同部との間で文化遺産の保存修復に係る研究協力に関する合意書を締結しました。その内容は包括的なもので、世界各地の文化財を対象に保存修復計画策定に向けた科学分析調査や保存修復技法・材料の開発で協力するとともに、ワークショップ等を通じて研究者の相互交流を図ることなどを想定しています。
令和5(2023)年2月17日に同大学を訪問し、ジョルジョ・カルカッニーニ学長と今後の協力関係について意見交換を行いました。また、基礎応用科学部のマリア・レティッツィア・アマドーリ教授案内のもと学内施設を見学し、目下取り組まれている文化遺産保存に向けた分析調査についての説明を受けました。
今後、両機関の専門性を活かした研究協力を通じて、単なる分析データの収集といったレベルに留まることなく、具体的な文化遺産の保存へと繋がる活動を展開していきたいと考えています。
イタリアにおける震災復興活動に関する調査


東京文化財研究所では、平成29(2017)年よりトルコ共和国において文化財の保存管理体制改善に向けた協力事業を続けてきました。令和5(2023)年2月6日、トルコ南東部を震源とする地震が発生し、同国及びシリア・アラブ共和国を中心に甚大な被害が発生し、文化遺産の保存状態にも影響が出ています。当面は人道支援を優先すべきでしょうが、近い将来、文化財の保存修復分野においても国際的な支援が必要とされることが予測されます。
一方、中部イタリアでは、1997年、2009年、2016年と立て続けに大地震が発生し、被災した文化遺産の復興活動が今なお続けられています。同様の文化遺産を有するトルコやシリアへの今後の支援検討に活かすとともに、今後起こりうる不測の事態にどう対処すべきかを学ぶため、令和5(2023)年2月13日から16日にかけてマルケ州とウンブリア州で調査を実施しました。スポレート市に所在するサント・キオード美術品収蔵庫は、自然災害発生時の文化財の避難先、また、応急処置を行うための場として1997年の震災後に建設された施設です。現在も約7000点に及ぶ被災文化財が収蔵され、国家資格をもつ保存修復士によって応急処置が進められていました。
イタリアでは、度重なる経験を経て、被災直後のレスキュー活動からその後の対処に至るまでの組織体制や手順が整えられてきました。こうした文化財分野に係る震災からの復旧・復興活動において先進的な取組みを続ける国から学ぶべきことは多くあります。さらに調査を続けながら、今後の活動に役立てていきたいと思います。
ルクソール(エジプト)での壁画及び考古遺物保存に係る共同研究に向けた事前調査


ルクソールは、古代エジプト史の時代区分における新王国時代に首都テーベがおかれていた場所であり、トトメス1世やツタンカーメンなど歴代の王が眠る王家の谷やカルナック神殿をはじめ数多くの葬祭殿が残されています。これらの遺跡群は、消滅した文明を今に伝える重要な痕跡であることなどが評価され、「古代都市テーベとその墓地遺跡」として1979年に世界遺産に登録されました。ナポレオンによる1798年のエジプト遠征に端を発して大きく飛躍することとなったエジプト文明に係る研究は、現在も国際的な規模で進められており、毎年興味深い発表や報告が続いています。ルクソールも例外ではなく、各所で盛んに発掘調査が進められ、新たな遺跡や遺物の発見があとを絶ちません。
これに伴い問題となっているのが、考古学調査後の保存と活用についてです。近年では、発掘調査で発見された遺跡や遺物を地域の観光振興等に活用すべく、文化財として整備・処置することが義務付けられるようになりました。しかし、時間と予算の制約の中で応急的に行われた不適切な処置によって、却って対象物を傷めてしまう事例が少なくありません。
こうした問題の改善に向けた支援の可能性を探るため、令和4(2022)年12月12日から24日にかけて、ルクソール博物館及びルクソール西岸岩窟墓群を対象にした実地調査を行いました。その結果、博物館に収蔵された考古遺物の保存管理に係る処置方法や、現地保存を前提とした岩窟墓壁画の保存修復方法の検討について、現地専門家より協力が求められました。今後、緊急性の高い研究テーマを絞り込むための調査を継続し、国際協働事業に繋げていくことを目指します。
機那サフラン酒本舗鏝絵蔵に使用された彩色材料の調査


新潟県長岡市にある機那サフラン酒本舗鏝絵蔵は、大正15(1926)年に創業者である吉澤仁太郎(よしざわ・にたろう)からの発注により、左官・河上伊吉(かわかみ・いきち)が仕上げを手掛けたものです。鏝絵は木骨土壁の軒まわりや戸を中心に配されており、漆喰を主材に盛り上げ技法を用いながら大黒天や動植物を立体的に表現しています。また、赤色や青色の彩色が施されており、色彩によるコントラストが立体的な視覚効果を生んでいます。
これらの鏝絵は、雨風にさらされる過酷な環境下に置かれていますが、今日に至るまでに経過した約100年という時間を考えれば比較的良好な状態が保たれています。鏝絵を構成する主要な材料である漆喰が持つ特性や左官技術の高さに加え、この鏝絵を大切に守り伝えようと尽力されてきた方々がいたからこそと言えるでしょう。
しかし、それぞれの鏝絵を個別に観察してみると、局部的に漆喰や彩色の剥離・剥落といった傷みがみられます。そこで、所有者である長岡市の依頼のもと、令和4(2022)年11月11日に現地を訪問し、近い将来必要になると想定される保存修復に向けた事前調査の一環として、彩色や漆喰のサンプリング調査を行いました。サンプリング調査は「破壊調査」とも呼ばれるように対象物の一部を採取して行うものです。「破壊調査」と聞くと、「=よくないこと」というイメージを持たれる方も多いかもしれませんが、決してそうではありません。なぜなら、表層面からだけでは得ることのできない信頼性の高い情報を得ることが可能となり、それに伴い保存修復の安全性と確実性をより高めるからです。
大切に守られてきた鏝絵蔵を次の100年に繋げていくことを念頭に、本調査の分析・解析結果を有効に活用しながら、具体的な保存修復の立案に役立てていきたいと思います。
古墳の石室及び石槨内に残存する漆喰保存に向けた調査研究

令和4(2022)年10月20日に、広島県福山市にある尾市1号古墳を訪れ、福山市経済環境局文化振興課協力のもと、石槨内に残存する漆喰の保存状態について調査を行いました。古墳造営に係る建材のひとつである漆喰は、その製造から施工に至るまで特別な知識及び技術を要することから、当時における技術伝達の流れを示す貴重な考古資料といえます。こうした理由から、国外では彩色や装飾の有無に関わらず、漆喰の保存に向けた取り組みが行われることは珍しくありません。一方、国内でも、高松塚古墳やキトラ古墳だけではなく、漆喰の使用が確認されている古墳が40ヶ所以上にものぼることはあまり知られていません。その多くは文化財に指定されていますが、保存に向けた対策が講じられることは少なく、風化や剥落によって日々失われてゆく状況が続いています。
尾市1号古墳の漆喰は国内でもトップクラスの残存率を誇り、未だ文化財指定を受けていないことが不思議なくらいです。さらに、単に漆喰が残っているというだけではなく、保存状態の良い箇所では、造営時に漆喰が塗布された際にできたと考えられる施工跡までもが確認でき、当時使われていた道具類を特定するうえでの貴重な手掛かりになるものと思われます。今回の調査では、保存状態や保存環境を確認したうえで、材料の適合性や美的外観といった文化財保存修復における倫理観と照らし合わせながら、持続可能な処置方法を検討しました。
文化財の活用は以前にも増して強く求められるようになってきています。これに伴い、文化財の継承の在り方も今一度見直すべき時期に差し掛かっているといえるでしょう。古墳に残された漆喰もしかり、朽ち果て、失われてゆく現状を見直し、今後の活用にも繋がりうる適切な保存方法と維持管理の在り方について、国外の類似した先行事例も参照しつつ、検討を重ねていきたいと思います。