久野健

没年月日:2007/07/27
分野:, (学)
読み:くのたけし

 仏教彫刻史研究者の久野健は7月27日午前2時58分、膵臓がんで東京都新宿区内の病院で死去した。享年87。  久野は1920(大正9)年4月19日に久野亀之助の三男として東京府下滝野川田端に生まれた。1942(昭和17)年3月に水戸高等学校を卒業し、同4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。44年9月には同大学院に進学するも翌年5月31日付で中退し、同日に文部省美術研究所に助手として採用。52年4月には東京文化財研究所の組織規定にともない同研究所美術部文部技官となる。67年2月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、69年4月には同所美術部第一研究室長に昇任。78年4月には同所情報資料部の初代部長に就任。82年3月に退官。退官後は自宅に隣接して仏教美術研究所を設立・主宰し、同学を志す若い研究者に開放し、若手の育成を行った。久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、成果の公表は『美術研究』を中心に行われ、『東北古代彫刻史の研究』(中央公論美術出版、1971年)や『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。さらに、上述の光学的研究手法を援用しながらの研究は、金銅仏を中心とする古代彫刻研究の分野では、76年の『押出仏と磚仏(日本の美術118)』(至文堂)、78年の『白鳳の美術』(六興出版)、79年の『古代朝鮮仏と飛鳥仏』(東出版)などへと結実し、中世彫刻の分野では、静岡・願成就院および神奈川・浄楽寺の作例群が運慶作であることを解明したことも大きな成果である。研究活動と並行して教育普及活動にも携わり、美術研究所着任の二年後の47年4月からは女子美術学校(現在の女子美術大学)において日本美術史を講義する(同校での講義は67年3月まで続いた)とともに、62年に新潟大学をはじめとして、その後も名古屋大学、東京大学、静岡大学、東京芸術大学で日本彫刻史を講義した。76年6月には東京大学より文学博士の称号授与を受けた(博士論文は『平安初期彫刻史の研究』)。この他にも編集委員を多く引き受け、56年には『図説日本文化史大系』全13巻(小学館)、66年には『原色日本の美術』全30巻(小学館)、68年には『日本の歴史』全13巻(読売新聞社)、79年には『図説日本文化の歴史』全13巻(小学館)の刊行に携わり、79年の『日本古寺美術全集』全25巻(集英社)、86年からの『仏像集成』(学生社)には監修として名を連ねた。

出 典:『日本美術年鑑』平成20年版(382頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「久野健」『日本美術年鑑』平成20年版(382頁)
例)「久野健 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28393.html(閲覧日 2024-03-29)

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