研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS
(東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。
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講演中の佐々木達夫先生
令和7(2025)年11月8日(土)に、金沢大学名誉教授・佐々木達夫先生をお迎えして「ペルシア湾岸地域の遺跡を掘る」と題する講演会を開催しました。
この講演会は、西アジアとその周辺地域における考古学研究を切り開いてきた第1世代の研究者を招いて日本西アジア考古学会が平成30(2018)年から開催している、「パイオニアセミナー:西アジア考古学を切り開いてきた開拓者たち」の第7回目にあたります。今回は東京文化財研究所と同学会の共催により、本研究所セミナー室を会場とする対面とオンライン配信を併用する形式で実施し、合わせて90名の皆様にご参加いただきました。
文明交流史をご専門とする佐々木先生は、陶磁器の流通を研究の中心に据えつつ、日本からイラク、エジプト、インド洋、ペルシア湾岸や同地域の砂漠地帯の遺跡まで、数多くの発掘調査に携わってこられました。現地の情勢や治安が安定しないなかでも調査研究を継続し、現地研究者らとの交流を深めるとともに、遺跡の保護活動にも尽力してこられました。各国での調査をめぐる事情や遺跡保護に対する考え方の違いに直面しながら、日本人研究者として第一線を走ってこられた先生のお話は、現役世代として今まさに遺跡調査に関わっている者だけでなく、西アジア世界や考古学に思いを馳せた同世代の方々や、これから西アジア考古学に足を踏み出そうと考えている若い世代にとっても、それぞれに新たな気付きを与えてくれるものでした。
目下、湾岸地域ではパイオニアからのバトンを受け取った日本人研究者が指揮する5つ以上の考古調査隊が活躍しています。その最新の調査成果は、令和8(2026)年3月21日・22日に同会場で開催予定の第33回西アジア発掘調査報告会にて詳しくお聞きいただけます。
「地域社会と文化遺産―南イラク(シュメール)の未来像を考える―」(11月24日東京文化財研究所)
「地域社会と文化遺産―京都・奈良の事例をふまえて―」(11月30日京都芸術大学)
スタディツアー 平等院訪問
イラクでは紛争や情勢不安から一時期は海外からの調査・支援が停滞していましたが、令和2(2020)年以降徐々に外国調査隊が復帰し、古代西アジア文明史に関する国際的な考古学研究と文化遺産保護活動が再開されています。東京文化財研究所においても、平成16(2004)年~平成22(2010)年度にイラク国立博物館の保存修復専門家に対する本邦研修と機材提供を行ったほか、平成31(2019)年と令和4(2022)年にシンポジウムを開催するなど、支援を継続してきました。
同国では現在、文化遺産保護を持続可能なものとしていくために地域住民の意識を向上させることが課題となっています。そこで本研究所では、令和7(2025)年11月22日から12月1日にかけて、メソポタミア考古学教育研究所および京都芸術大学日本庭園・歴史遺産研究センターとの連携のもと、南イラクのズィー・カール県から3名の専門家を招聘し、日本の史跡整備や文化遺産活用の事例を通じて新たな発想や手法に触れ、自国の課題解決に活かしてもらうことを目的に、「地域社会と文化遺産」をコアテーマに掲げた2回のシンポジウムを含むスタディツアーを実施しました。
東京と京都で開催したシンポジウムでは、イラク人専門家から同県での発掘調査と史跡整備の現状が紹介されました。さらに、古代メソポタミア文明や考古学に関する講演活動、博物館資料と地域の人々を繋ぐイベントの開催、高等・大学教育の場における文化遺産の捉え方についての調査成果などが発表されました。日本側からは、東京会場では、文化庁の中尾智行氏と飛騨市の三好清張氏から日本の文化財保護政策の現在地や地方自治体の活動について、また京都会場では、京都芸術大学の仲隆裕氏が平等院の史跡整備と地域連携について基調講演されたのに続き、奈良県世界遺産室の山田隆文氏が世界遺産を保有する県内自治体職員向けの指導や学校教育との連携について、京都芸術大学の宇佐美智之氏がイラクの文化遺産をWeb GISでマッピングする学生や市民協力型の支援活動について、それぞれ講演されました。これらの講演を通じて両国での市民に対する普及活動の特徴や課題が共有されるとともに、今後いかに市民が文化遺産と関わる場面を増やすことができるか、その効果的な方策をめぐり活発に意見が交わされました。
イラク人専門家の皆さんは両シンポジウムの間に各地の史跡や博物館などを訪れ、サイトミュージアムの利点や、復元建物や植栽による表示、遺構露出展示といった各種整備手法、VRやAR、多言語映像資料による解説など、イラクにおける課題解決に資する情報を熱心に学ばれました。
今回の訪日で得た経験や知識が南イラクにおける文化遺産保護の進展に役立てられることを期待し、今後も連携協力を続けていきます。
研修生、ラテンチーム、ICCROM関係者、日本チームによる記念撮影
日本チームによる実習風景
東京文化財研究所では、ICCROM(文化財保存修復研究国際センター)およびCNCPC-INAH(メキシコ国立人類学歴史機構、国立文化遺産保存修復機関)との三者共催により、国際研修「ラテンアメリカにおける紙の保存と修復」を平成24(2012)年よりメキシコシティで実施してきました。北米や欧州に比べて文化財保存修復に関する研修や情報交換の場が少ないとされる中南米地域を対象とすることで、この地域における紙文化財の保存修復に貢献することを目的としています。
9回目の開催となる今回は、令和7(2025)年11月12日から26日までの日程で、アルゼンチン共和国、ボリビア多民族国、チリ共和国、コロンビア共和国、グアテマラ共和国、メキシコ合衆国の6カ国から、計9名の研修生を迎えて実施しました。
研修は、日本チームの講師が前半を、後半をメキシコ合衆国やスペイン王国の講師からなるラテンチームがそれぞれ担当しました。前半では、日本の紙本文化財の保存修復技術に関する基礎として、和紙や紙本文化財の修復技術などについて講義するとともに、その修復技術のうちでも応用性が高い技術や道具、材料を中心に実習を行いました。
研修に対する満足度は非常に高く、和紙や日本の技術に直接触れて学び、その背景にある哲学も含めて理解する機会を得られたことを高く評価する声が寄せられました。
なお、ラテンチームの講師を務めたのは、30年以上続く国際研修「紙の保存と修復」などの研修を、東京文化財研究所でかつて受講したメキシコ人専門家です。このように国外に人材が着実に育っていることは、当研究所にとっても大きな成果といえます。今回の研修で伝えた技術と知識、人と人とのつながりが、さらに国内外の文化財保存に寄与することを期待しています。
チェックシートを用いた壁画の保存状態調査
調査対象の壁画(一例)
文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、壁画の維持管理および保存修復に係る共同研究に取り組んでいます。
その一環として、クロアチア文化メディア省美術監督局、イストリア歴史海事博物館、ザグレブ大学と共同で、クロアチアの北西部に位置するイストリア地方の教会壁画を対象にした維持管理システムの開発を進めています。この地域では、中世からルネサンス期にかけて数多くの壁画が制作され、その数は、現在確認されているだけでも150件にものぼります。その保存状態を調査・記録し、収集したデータを専門家の間で共有することで、維持管理に役立てていこうというのがこの研究のねらいです。
令和7(2025)年11月3日から7日にかけて現地を訪問し、第3回目となるチェックシートを用いた導入テストを実施しました。今回のテストでは、前回の成果と課題を踏まえ、より高精度な評価結果が得られるよう項目の見直しを行った結果、実用性の一層の向上が確認されました。現地機関からは本事業への深い理解と高い関心が示されるとともに、今後も継続的な協力を望む強い意向が寄せられました。今後は、これまでに築かれた連携関係をさらに発展させつつ、より充実した研究体制のもとで実践を重ね、壁画の保存と活用に資する持続的な維持管理システムの確立を目指して活動を継続していく予定です。
聖ザノビウス像
X線による撮影
文化遺産国際協力センターでは、令和3(2021)年度より、運営費交付金事業「文化遺産の保存修復技術に係る国際的研究」において、スタッコ装飾及び塑像に関する研究調査に取り組んでいます。
令和7(2025)年11月8日から11月12日にかけてイタリア・フィレンツェを訪れ、ルネサンス後期、マニエリスムの彫刻家ピエトロ・フランカヴィッラやアントニオ・ディ・アンニバレ・マルキッシによる塑像群を対象とした調査と成果報告会を実施しました。これらの彫刻群は、1589年にトスカーナ大公フェルナンド1世デ・メディチとクリスティーヌ・ディ・ロレーヌの婚礼を祝うため、フィレンツェ大聖堂に設置された仮設ファサードを飾る構成要素として制作されたものです。仮設ファサードの撤去後、しばらくの間大聖堂内部の身廊壁際に配置されていましたが、19世紀にクーポラの北東部の屋根裏空間へと移され、現在は、オペラ・ディ・サンタ・マリア・デル・フィオーレの管理下に置かれています。
今回の成果報告会では、これまでに実施した非破壊調査 −可視光・赤外線・紫外線による写真記録撮影、X線撮影、ファイバースコープ探査、三次元計測など− によって得られた知見を研究チーム内で共有しました。その結果、粘土を主体とした多層構造や、部材のモジュール化を前提とした設計といった、構造上の特徴を捉えることができました。また、表層の仕上げや金箔装飾の痕跡も確認され、像の制作工程に関わる重要な手がかりも得られつつあります。今後は、非破壊手法では把握が困難な詳細情報を収集するため、適切な倫理基準と保存科学上の配慮のもとでサンプリングを伴う微破壊調査へと段階的に移行し、構造的特質と劣化要因との相関を解明するとともに、適切な保存修復方針の策定に寄与していく予定です。
さらに、本研究は、地域や時代を超えて受け継がれてきたスタッコ装飾および塑像文化の普遍性と、その技術的展開の多様性を解明することも目的としています。美術史、保存修復学、材料科学、文化財学といった領域を横断する学際的研究である以上、国際的な知見の共有と協働は欠かせません。今後も各国の専門家との連携をいっそう強化し、学際的な対話を深めながら、着実に研究を進めていきたいと考えています。
ポスター発表の様子
掲示ポスター
東京文化財研究所は、令和4(2022)年度より文化庁が進める「文化財の匠プロジェクト」の一環である「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に携わっております。令和7(2025)年10月3日、一般社団法人国宝修理装潢師(そうこうし)連盟が主催する第 29 回定期研修会において、本事業の成果である「文化財(美術工芸品)の修理記録データベース」についてポスター発表を行いました。
国宝修理装潢師連盟は、絵画、書跡・典籍、歴史資料といった美術工芸品を中心とした文化財の保存修理を専門に行う技術者の集団であり、現在の加盟工房は10社、所属する登録技術者は約140名に及びます(令和7年時点)。同連盟は、国の選定保存技術である装潢修理技術の保存団体に認定されており、年に一度開催される定期研修会には、各地から多くの修理技術者や専門家が集います(令和7年度の参加者数は376名)。
当日は、朝賀浩・皇居三の丸尚蔵館特任研究員ならびに綿田稔・文化庁文化財第一課主任文化財調査官より、肖像画と水墨画の鑑賞と保存にまつわる講演が行われました。また、各加盟工房により修理事例の報告がなされる中、東京文化財研究所は「文化財(美術工芸品)の修理記録データベースについて―「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」事業報告―」という表題にてポスターセッションに参加し(発表者:山永尚美・小山田智寛・田良島哲・江村知子(文化財情報資料部))、データベース構築にあたっての調査手順、データ構造、収録範囲、今後の展望と課題、またその利用方法について報告しました。
会場では、修理技術者、博物館関係者、美術工芸品の修理を学ぶ大学院生などから多くの質問や感想をお寄せいただき、あわせて様々な理由から近年継承が困難になりつつある修理記録についても情報を得ることができました。こうして得られた知見は本プロジェクトへと還元し、引き続き修理記録の資源化やデータベースの運用に活かしていきたいと考えています。
ジュゼッペ・トゥッチ・コレクションを顕彰する展示(ローマ・文明博物館)
イタリア下院附属歴史公文書館の調査室
アリナーリ写真財団の外観
文化財情報資料部では、日本に関する美術資料およびその背景となる歴史的資料の調査を行っています。令和7(2025)年10月にはイタリアを訪問し、ローマおよびフィレンツェにおいて関連資料の調査を実施しました。
ローマのEUR地区に設立された文明博物館(Museo delle Civiltà)にはかつてイタリア国立東洋美術館およびピゴリーニ国立先史民族博物館の所蔵であったコレクションが収蔵されています。同館の東洋美術部門(Arti e Culture Asiatiche)のピエルフランチェスコ・フェーディ博士と面会し、作品調査および所蔵資料の照会を行いました。基盤となるジュゼッペ・トゥッチのコレクションをはじめ、ラグーザ夫妻のコレクションを含むピゴリーニ・コレクションに関する有意義な情報交換を行うことができました。
そして、ローマのリオーネ・ピーニャ地区にあるイタリア下院附属歴史公文書館(Archivio Storico della Camera dei Deputati)を訪問し、同館ディレクターであるパオロ・マッサ氏と面会しました。面会では、ムッソリーニ政権期における日本との文化交流および美術外交に関する一次資料の所在を確認することができました。これらの資料は、日伊間の外交関係における美術行政の実態を示す貴重な記録であり、当時の文化政策を考察するうえで極めて重要な史料といえます。
同館は、サルデーニャ王国期の1848年に議会活動を支援する目的で創設され、1865年にモンテチトリオ宮殿へ移転後、百年以上にわたり議会の知的基盤として機能してきました。1988年に一般公開が開始され、2007年には上院図書館と連携する「議会図書館センター(Polo Bibliotecario Parlamentare)」が設立されています。
イタリア下院の文書遺産は、1848年から今日に至るまで下院によって作成・取得された原資料および議会政治に関わる私的文書群から構成されており、同館のウェブサイトでは、電子化された目録や写真資料、デジタル・アーカイブなどを閲覧することができますhttps://archivio.camera.it/。
フィレンツェでは、アリナーリ写真財団(Fondazione Alinari per la Photographia)を訪問し、同財団ディレクターであるクラウディア・バロンチーニ氏と面会しました。19世紀にイタリアで最初の写真館として創立されたフラテッリ・アリナーリ社の事業を継承し、写真の保全と写真文化の普及を使命とする同財団は、美術館の開館準備中であり、現在はウェブサイト上で所蔵資料を公開しています。東文研の所蔵する森岡柳蔵旧蔵資料はこのフラテッリ・アリナーリ社による写真が大多数を占めるほか、矢代幸雄によるイタリア美術の写真もまた、同社に所属した写真師との関係が知られています。面会においては、東文研の所蔵するこれらの資料について、また東文研の活動について説明し、情報交換を行いました。
[森岡柳蔵旧蔵資料]
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2056691.html
今回の訪問を通じて、イタリアにおけるアーカイブは、記録の保存のみならず、「記憶を守る聖域」として位置づけられていることを強く感じました。このような認識は、文化財を「共有知」として扱ううえで、欠くことのできないものであり、知の「共有」と「責任」のあり方を見つめ直す貴重な示唆を得るものとなりました。
川島氏による発表風景
山口氏による発表風景
質疑応答の風景(左:川島氏、右:山口氏)
東京文化財研究所が所蔵する重要な図書コレクションとして「売立目録」があります。売立目録とは個人や名家が所蔵する美術品を「売立会(入札会)」で売却するために作成・配布された冊子で、当研究所には明治時代後期から昭和時代までに発行された売立目録が計2,532冊所蔵されています。これは公的な機関としては日本最大のコレクションで、美術品の来歴調査などに日々活用されています。
この「売立会(入札会)」において、美術品は、世話人・札元による仲介のもと、独自の入札方式で競られました。これは高額を提示して競り上がっていくオークションとは異なり、日本的な商慣習に裏打ちされたものでした。しかし現在、売立目録自体は頻繁に参照されている一方で、その制度的背景や運営の実態については十分に理解されているとは言いがたく、「売立会(入札会)=オークション」と混同される例も少なくありません。日本の美術市場は、欧米とは異なる独自の取引形態のもと、発展・展開してきた点に特徴があります。研究者が美術市場のメカニズムを知り、資料に対する理解を深める機会として第7回文化財情報資料部研究会「美術市場のメカニズムを知る」を令和7(2025)年10月9日に開催しました。
研究会では、研究会の企画者である田代裕一朗(文化財情報資料部)による司会のもと、まず川島公之氏(東京美術商協同組合 理事長、繭山龍泉堂 代表取締役社長)が、「売立、交換会について」と題して日本型の美術市場について解説し、つづいて山口桂氏(クリスティーズジャパン 代表取締役社長)が「オークションについて」と題して欧米型の美術市場を紹介しました。両氏の発表を通じて、日本と欧米における美術市場の構造的な違いが浮かび上がり、また発表後には質疑応答の時間も設けられ、研究者にとって普段深く知る機会がない美術市場のメカニズムを両氏から直接学ぶ貴重な機会となりました。
美術史研究は、美術館・博物館の学芸員や大学教員といった職業的研究者の知見のみによって支えられているものではありません。文化財情報資料部研究会が、こうした多様な視点を取り込み、広く研究に資する知見を獲得する機会となれば幸いです。
(参考)
売立目録デジタルアーカイブに関して:https://www.tobunken.go.jp/japanese/uritate.html
専門端末の予約に関して:https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/application/application_uritate.html
【写真1】江陵端午祭伝授館の研修室(研修に必要な楽器や衣装等も備えられている)
【写真2】江陵端午祭伝授館併設の劇場
写真3】満席の河回別神クッ仮面舞の普及公演(工事中のため仮設会場)
写真4】最終日に行った成果報告会(無形遺産局にて)
東京文化財研究所 無形文化遺産部は、平成20(2008)年より大韓民国国家遺産庁無形遺産局と研究交流を実施し、その一環として相互に研究員を派遣して調査研究を行う人事交流を行っています。今年は10月11日~25日まで、無形文化財研究室長・前原恵美が「世襲に依らない伝統芸能教育等の体系的な推進」をテーマに調査しました。
韓国も日本と同様少子化の時代を迎え、このことが伝統芸能の継承に影響を及ぼしかねない状況にあります。こうした現状を踏まえて今回の調査では、韓国の伝統芸能の保存会活動や、伝統芸能等の継承者育成の一端を国が採択した大学で実施する「国家無形遺産伝授教育学校」制度に焦点を当てることにしました。
旧暦の端午の節句に行われる「江陵端午祭(カンヌンダノジェ)」(国の重要無形文化財第13号)や、村神を迎えて木製の仮面を掛けて舞う「河回別神(ハフエビョルシン)クッ仮面舞(クッタルノリ)」(国の重要無形文化財69号)は、いずれもユネスコの「人類の無形文化遺産代表的な一覧表」に掲載されています。これらの伝統芸能を継承する各保存会は、いずれも伝授館や公演のための場を備え(【写真1】【写真2】【写真3】)、そこを拠点に普及のための企画公演や展示、後継者育成のための様々なカリキュラムやその成果発表等を実施していました。また、国による「国家無形遺産伝授教育学校」制度に採択された慶尚(キョンサン)国立大学校、全南(チョンナム)大学校、韓国伝統文化大学校は、保存会とは別組織ではありますが、連携を模索しながら「大学教育」の中に伝統芸能や工芸技術の後継者育成を組み込む工夫をしていました。これらの環境や制度は、日本の伝統芸能継承を考える上で参考になる点が多いと感じました。もちろんそれぞれに、学歴社会と芸能習得の両立や、オーバーツーリズムの問題、教育機関と保存会のシームレスな協力関係の構築など課題も抱えているようですが、これらとて日本の伝統芸能継承の場でも起こり得る、あるいはすでに起こっていることではないでしょうか。今後とも、韓国の伝統芸能について理解を深めながら、日本の伝統芸能継承に資する手掛かりも見出せるよう努めたいと思います。
調査から最終日の成果発表(【写真4】)まで、さまざまに心を尽くしてサポートしてくださった大韓民国国家遺産庁無形遺産局の皆様に改めて深謝いたします。
筆づくりの様子
筆の里工房の見学
文化財の修復に欠かせない用具や原材料は多岐にわたりますが、後継者や原材料が不足し存続の危機にあります。文化庁は、そのような事態を改善するため、令和2(2022)年より「美術工芸品保存修理用具・原材料管理等支援事業」を開始しました。これを受け、保存科学研究センターは、文化財情報資料部・無形文化遺産部と連携して受託研究「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に取り組んでいます。
本報告では、令和7(2025)年10月21日に実施した、広島県熊野町の筆づくりの現地調査について紹介いたします。
筆は日本において伝統的に用いられる筆記道具の一つですが、美術工芸品の修復でも用いられます。特に漆工品の復元模写に用いられる蒔絵筆は製作できる技術者が少なく、存続が危ぶまれている用具の一つです。初音調度(徳川美術館所蔵)の復元模写事業では、当時の精密な技法を忠実に再現するため、使用する筆も当時と同じ良質のものが求められました。
今回の調査では、筆の里工房と株式会社白鳳堂の2カ所を訪問し、熊野の筆づくりの歴史と技術の概要を把握した上で、実際に筆づくりの現場の視察を行いました。いくつもの工程で丁寧に悪い毛が取り除かれる様子や、たくさんの種類の毛の中から特性を見極めて選定されるところなどを拝見し、使い手が求める理想の書き味にするため作り手がたゆまぬ努力をされてきたことを実感しました。
筆づくりの現場でも用具・原材料の調達については、例に漏れず困難を抱えています。最も重要な毛の調達だけではなく、筆の根元をくくるための苧糸(からむしいと)や、作業工程で必需品となる櫛、軸に用いられる良質な竹など、まだまだ解決していない問題が山積しています。これまで、白鳳堂副会長・髙本美佐子氏率いる作り手と室瀬智弥氏を中心とした使い手である目白漆芸研究所が直接連携をすることで、美術工芸品修復に必要な筆の確保が少しずつ現実的になってきていますが、今後はさらに文化庁と東文研も交えて、より連携を強めながら取り組んでいきます。
開講式後の集合写真
分子模型を使用した基礎科学の講義
廃液処理方法についての講義
保存科学研究センターでは、文化財の修復に関して科学的な研究を継続してきています。令和3(2021)年度より、これらの研究で得た知見を含めて、文化財修復に必要な科学的な情報を提供する研修を開催しています。対象は文化財・博物館資料・図書館資料等の修復の経験のある専門家で、実際の現場経験の豊富な方を念頭に企画されています。
今回で5回目となる本研修は、令和7(2025)年9月30日~10月2日までの3日間で開催し、文化財修復に必須と考えられる基礎的な科学知識について、実習を含めて講義を行いました。文化財修復に必要な基礎化学、接着と接着剤について、紙の科学・劣化、生物劣化への対応、実験器具や薬品の使用上の注意や廃棄の方法などについて東京文化財研究所の研究員がそれぞれの専門性を活かして講義を担当しました。
今年度も全国から多数のご応募をいただきましたが、実習を含む内容のため全員にご参加いただくことは叶わず、16名の方にご参加いただきました。修復技術者の皆様からのご要望を踏まえ、より実践的で現場に役立つ内容を企画しました。限られた時間の中ではありましたが、実際の現場課題に対する科学的な対処方法の提案や、参加者同士の交流、情報交換が活発に行われました。開催後のアンケートでは、「非常に有益であった」との高い評価を多数いただきました。また、今後修復現場で活用したい科学的知見に関する具体的なご要望も寄せられました。これらのご意見を踏まえ、今後も同様の研修を継続的に実施していく予定です。
開講式後の集合写真
保存科学研究センターでは、令和元(2019)年度以降、文化財の保存修復に関する研修事業に力を入れており、海外の専門家を招聘し、関係機関と連携して研修を実施してきました。昨年度までは国立アートリサーチセンターとの共催でしたが、本年度は新たに国立西洋美術館とも協働し、三機関による共同開催として本研修を実施しました。
本年度の研修テーマには、東洋絵画における表装と同様、古くから絵画作品と深い関わりを持つ「額縁」を取り上げました。額縁は、絵画を鑑賞するうえで作品と切り離すことのできない存在でありながら、国内ではその重要性に対する理解が十分に浸透しておらず、保存修復に関する情報も極めて限られているのが現状です。こうした状況を踏まえ、イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館修復課の上級修復士であるバロウ由紀子氏を講師としてお招きし、令和7(2025)年10月29日から31日の3日間にわたり、文化財保存修復に関するワークショップ「額縁の歴史・技法と保存修復について」を開催しました。
午前の講義は当研究所セミナー室で行い、イギリスにおける額縁の歴史や製作技法から、現代の保存修復の実際に至るまで幅広くご講義いただきました(参加者67名)。午後は国立西洋美術館の保存修復室に会場を移し、事前に選ばれた15名の参加者がギルディング、色合わせ、クリーニングなど、イギリスで行われている保存修復技術を実践的に学びました。
また、11月1日には講演会「イギリスと日本における額縁の歴史と保存」を併催し、バロウ氏からはイギリスにおける額縁修復の歴史や修復士の仕事について、東京都美術館学芸員の中江花菜氏からは日本における洋風額縁の歴史についてご講演いただきました(参加者69名)。
三機関の協力によるワークショップ開催は初めての試みでしたが、額縁に関する理論と実践の両面を包括的に学ぶことができ、今後の保存修復の発展に資する有意義な研修となりました。
ワークショップおよび講演会のより詳しい内容については、下記のリンクをご参照ください。
https://ncar.artmuseums.go.jp/reports/collections/conservation/workshop/post2026-3066.html
ファイラカ島での無人航空機(UAV)測量の様子
3Dモデル作成に取り組む受講者
文化遺産国際協力センターは、令和7(2025)年度文化遺産国際協力拠点交流事業「デジタル技術を用いたバーレーンおよび湾岸諸国における文化遺産の記録・活用に関する拠点交流事業」を文化庁より受託しています。その一環として、令和7(2025)年10月10~17日にかけて「考古遺跡の無人航空機(UAV)測量に関するワークショップ」をクウェートで実施しました。本研修では、これまで同交流事業のもと実施したバーレーンや日本での研修を発展させ、都市や要塞といった考古遺跡の広域測量に焦点を当てました。
国立文化芸術文学評議会(NCCAL)・考古学博物館局、クウェート大学と共同で実施した本研修には、両機関とクウェート国立博物館の専門家計15名が参加しました。受講者はUAVやGNSS(全球測位衛星システム)、3Dデジタル・ドキュメンテーションの各手法について講義を受けた後、実際にサンプルデータを使い考古遺跡の3Dモデルの作成に取り組みました。また、クウェート東部に位置するファイラカ島において、ヘレニズム時代の遺構を対象とするUAVを用いた測量を全員が行い、撮影データを用いて3Dモデルを作成し、考古遺跡の広域測量と調査研究へのデータの活用方法を習得しました。
クウェートに限らず、湾岸諸国は多数の文化遺産を有している一方で、文化遺産を記録・保存する人材の不足が懸念されています。このような効率的な手法を学ぶことで、それらの課題の解決の一助となることが期待されます。
ジャナビーヤ古墳群での実習の様子
文化遺産国際協力センターとバーレーン文化古物局は、令和7(2025)年10月28日から30日にかけ、3Dデジタル・ドキュメンテーションに関するワークショップをバーレーン王国国立博物館で共催しました。このワークショップは、文化遺産の保護における3Dデジタル・ドキュメンテーションの導入を進めているバーレーン王国から技術移転の要請を受けて始まったもので、これまでにバーレーンでのワークショップや日本でのスタディーツアーを開催しています。今回のワークショップでは、中級者向けに「建造物の3D計測」をテーマとし、バーレーンから11名、アラブ首長国連邦から2名、計13名の文化遺産担当の専門職員らを参加者として迎えました。
初日は、建造物の3D計測の撮影手法やデータの活用事例に関する講義の後、世界遺産「真珠の道」にあるファクロ邸を実習会場として、参加者自身が3D写真測量やスマートフォンのLidar機能を用いた建造物の記録に取り組みました。2日目は、午前に国立博物館の展示室を3Dレーザースキャナーで記録する実習を、午後にジャナビーヤ古墳群で3D写真測量とRTK-GNSS測量を用いた遺跡の計測手法を学ぶ実習を行いました。最終日には、前日に記録した3D計測データを活用するための実習を行いました。参加者らは、前日に自分たちで記録した博物館展示室の3D計測データを用いて、オンラインで公開可能なデジタル博物館のコンテンツを作成し、さらに、前日に撮影した写真からジャナビーヤ古墳群の3Dモデルを作成して、産業技術総合研究所と奈良文化財研究所が共同で開発した全国文化財情報デジタルツインプラットフォーム「3D DB Viewer」上で公開する実習を行いました。
参加者らは、考古学や建築学など各自の専門分野において、日常の業務でこうした技術を発展的に活用しようという意欲が高く、熱心に実習に取り組んでいました。さらに発展的な内容のワークショップの開催についても参加者から要望が寄せられており、今後もバーレーン側のニーズに合わせながら知見共有の場を継続していきたいと思います。
本ワークショップは文化庁委託「デジタル技術を用いたバーレーンおよび湾岸諸国における文化遺産の記録・活用に関する拠点交流事業」の一環として行っています。
令和7(2025)年10月15~19日にかけ、ネパール・ルンビニ仏教大学でICOMOS Scientific Symposium 2025が開催され、文化遺産国際協力センターより淺田が参加しました。
ネパールでは、令和7(2025)年9月、政府に対する抗議デモが過激化し、政府庁舎や外資系の高級ホテル等が放火されるなど、一時的に政情不安が高まっていました。しかし、暫定政権の発足により事態が早期に沈静化したことを受けて、ICOMOS総会とシンポジウムは予定通りネパールで開催されることとなりました。
ICOMOS Scientific Symposium 2025は、紛争(Conflict)、災害(Disaster)、平和(Peace)と、大きく3つのサブテーマによってセッションが構成され、各国からの参加者が発表を行いました。紛争のセッションでは、現在、紛争が進行している当事国から発表があり、深刻な被害の実態が報告されました。また、本年はネパール・ゴルカ地震の発生からちょうど10年という節目の年でもあり、ゴルカ地震の震災復興に関するイベントもカトマンズで開催されました。文化遺産を取り巻く課題が拡大、複雑化しているなか、自分たちのコミュニティの中だけで解決できない問題を抱える地域にとって、このような国際的な専門家の交流の場があることの重要性が、強く印象付けられました。
また、今回の渡航に合わせて、キルティプル市における歴史的民家の保存活用に向けた共同調査に関する協議も行いました。この共同調査は、キルティプル旧市街に残る歴史的民家の保存に向けたプロセスの構築を目的とするもので、これまでにパイロットケーススタディとしての民家調査や、旧市街に残る歴史的民家の簡易悉皆調査などを行っています。キルティプルにおいても、9月の抗議デモで市庁舎が放火され、さらに庁舎の備品が強奪の対象となるなどの被害がありました。行政が通常の機能を取り戻すまでにはまだまだ時間がかかることが想定され、政治的に不安定な状況の中で何ができるのか、市や調査メンバー、地元コミュニティも交えて話し合いました。一方で、これまでの調査を通じて歴史的民家の保存に志を持つネパール人専門家の協力の輪も広がりつつあります。行政支援を待つのではなく、自分たちでできることから始めようという、新たなネットワークの胎動も感じられます。
研究会の様子
リーフレット表紙
東京文化財研究所は令和6(2024)年に和泉市久保惣記念美術館と共同研究の覚書を締結し、同館所蔵作品の調査研究を行っています。「山崎架橋図」は現在の京都府乙訓郡大山崎町と京都府八幡市の間、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になる地点で、宝積寺の本尊・十一面観音が老翁に化身して山崎橋を架けた、という奇談を描いています。画面には橋の工事にまつわる劇的な霊験譚と人々の風俗表現が、天王山と男山の風景や宝積寺の景観描写の中に溶け込むように表されています。この作品は美術史だけでなく、歴史学や国文学の研究においても注目されてきました。現在では経年変化により、微細な表現や画面下方の縁起文は見づらくなっていますが、画面に存在する情報を最大限引き出すことを目指して2回にわたり光学調査を実施してきました。
今回の研究会では江村知子が「山崎架橋図の光学調査について」と題した発表を行い、コメンテーターとして和泉市久保惣記念美術館長の河田昌之氏より、「山崎架橋図」の研究史と課題についてご発言いただきました。令和7(2025)年3月に刊行した「山崎架橋図」のリーフレットは、近日、東京文化財研究所リポジトリで公開予定です。さらに、より多くの研究者が高精細画像を閲覧できるように、デジタルコンテンツの作成とウェブ公開も計画しています。この共同研究の成果が広く活用され、作品への理解が深まることを目指してまいります。
研究会風景
研究会風景
令和7(2025)年9月16日、第5回文化財情報資料部研究会が開催されました。今回は二つの研究発表が行われ、狩野派の規範性とその継承について多角的に議論が深められました。
水野裕史氏(筑波大学准教授)は「探幽様式としての孔子像―図像の規範化をめぐって」と題し、狩野探幽が確立した様式の意義について報告しました。探幽様式は近世絵画において高い規範性をもち広く受容されましたが、道釈人物画への影響、とりわけ孔子像に関しては従来十分に論じられてきませんでした。
中世に基本像容が成立していた孔子像を、探幽は整理・簡略化し粉本として再構築しました。その図像は諸藩の孔子廟や藩校に広く伝わり、礼制空間にふさわしい「標準図像」として定着したと考えられます。水野氏は『公用日記』(天保15年・1844)の記録を紹介し、探幽様式の孔子像が制度的基準として扱われていたことを明らかにしました。また、各藩に伝わる作例には独自の解釈や装飾が加えられる例もあり、規範が一方的に固定されるのではなく、継承と変容の両面が見えてくる点が強調されました。さらに近世後期には、呉道玄様式や中世的要素を参照する傾向も現れ、探幽様式が唯一の規範でなくなっていく動向についても触れられました。
つづいて小野真由美(文化財情報資料部日本東洋美術史研究室長)が「狩野常信の詠歌活動に関する一考察」と題し、狩野常信(1636~1713)の文芸活動について報告しました。常信は木挽町狩野家の当主であると同時に優れた歌人でもありました。和歌会への参加記録や歌集を通してみると、詠歌活動は大名や文化人との交流を広げ、狩野家における地位の向上に寄与したことがうかがえます。また、和歌と画業との関わりを検討することで、画家であり歌人でもあった常信像を改めて評価する試みがなされました。
今回の二つの発表は、狩野派における規範の形成とその継承、そして絵師個人の個性や独自性に光を当てるものでした。規範性を静的にとらえるのではなく、時代や地域に応じて変容する動的な姿を見出す契機となり、有意義な研究会となりました。今後も狩野派研究を、規範と個性の双方から捉える視座へと発展させていきたいと考えています。
受贈図書の一部
資料閲覧室では、このたび陶磁史研究家であった吉良文男氏(1941~2022)の旧蔵図書を受贈しました。
美術専門出版社であった座右宝刊行会に入社し、斎藤菊太郎氏のもと「編集者」として活動を始めた吉良氏は、『世界陶磁全集』(1975年~全22巻)、そして『世界美術大全集』東洋編(1997年~ 全18巻)などの編集に携わりながら、世界各地を取材し、編集と研究(陶磁史)を両輪で展開させていきました。昭和59(1984)年には後に東南アジア陶磁史上重要な発見となるタイ北西部のターク県メーソート出土の陶磁器をいちはやく現地から日本に報告したことでも知られています。多岐に渡る業績のなかでも特に東南アジア陶磁史、韓国陶磁史の研究にとりわけ大きな足跡を残し、東洋陶磁学会常任委員を長く務め、また平成11(1999)年には第20回小山冨士夫記念賞を受賞されました。
文化財情報資料部では、このたびご遺族のご協力をいただきながら、プロジェクト「日本東洋美術史の資料学的研究〔シ02〕」の一環として、令和7(2025)年1月に田代裕一朗研究員が、香川の自宅に遺された旧蔵図書の調査をおこない、東南アジア陶磁、韓国陶磁に関する外国書を中心にその一部を受贈しました。これらのなかには、日本国内の図書館に所蔵がなく、研究所が唯一の所蔵機関となる図書も含まれています。一連の資料は、巨視的に見た時、単に陶磁史の領域に留まらず、アジア文化の理解にも役立つ日本唯一の手がかりにもなると思われます。日本における中核的な文化財研究機関として、目先の意義や成果だけを追い求めるのではなく、長期的な視座に立って、先学が積み上げた遺産を大切に継承し、日本の「知」に資することができれば幸いです。
学術的に非常に貴重な資料をご寄贈くださったご遺族様にこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。
セミナーの様子(山下好彦氏撮影)
新作舞踊「螺鈿扉の舞 日タイの喜楽」
実物を用いた制作用具や材料に関する解説
令和7(2025)年9月10日、タイ・バンコクのワット・ラーチャプラディットでのタイ文化省芸術局(以下、「芸術局」)主催の学術セミナー「ラーチャプラディット 美の鑑賞」に二神葉子(文化財情報資料部文化財情報研究室長)が参加しました。ワット・ラーチャプラディットは1864年にラーマ4世王が建立した王室第一級寺院で、拝殿の窓や出入口の扉には、寺院建立と同時期に日本で制作された漆塗りの部材がはめ込まれています。東京文化財研究所は扉部材について、修理への技術的な支援と調査研究を行うとともに、同寺からの受託で、修理後の扉部材を現地保存するための調査研究を実施しています。
セミナーは芸術局のパノムプート・チャントラチョート局長の開会挨拶で始まりました。午前の第1部は「芸術の継承と創造、二つの国の遺産」と題し、漆扉部材の修理事業について同寺の僧侶や芸術局の専門家が報告を行い、日本側からは、二神が漆扉部材の修理及び調査研究事業のコンセプトについて報告しました。また、「統合から創造的な着想へ、未来への拡大」と題された午後の第2部では、いずれも東京文化財研究所の職員が参加した、扉部材の現地保存に関する令和7(2025)年6月の調査や、令和6(2024)年11月のタイ北部での材料調査の概要を芸術局の専門家が報告しました。日本側からは、漆扉部材に用いられた伏彩色螺鈿技法の特殊性について山下好彦氏(漆工品保存修復専門家・研究者)が報告、令和6(2024)年6月に芸術局と共同で行った、伝統的な材料に関する日本での調査について二神が報告しました。
当日はこのほか、扉部材や材料に関する実物やパネル展示、芸術局による新作舞踊「螺鈿扉の舞 日タイの喜楽」の発表、屋台での和食の提供などのアトラクションもあって、盛況を博しました。筆者にとっても、東京文化財研究所の活動についてタイの幅広い関係者に報告する機会として有意義な一日となりました。
セッション3のディスカッション
津寬寺での座禅の体験会
令和7(2025)年9月17日・18日に大韓民国のソウルで開催された国際フォーラム「2025 World Forum for Intangible Cultural Heritage」に当研究所の石村智(筆者)が参加しました。
この国際フォーラムは大韓民国国家遺産庁とアジア太平洋無形文化遺産国際情報ネットワークセンター(ICHCAP)の共催により毎年開催されているもので、今回のテーマは「無形文化遺産の経済的活動を探る(Exploring Economic Activities of Intangible Cultural Heritage)」で、無形文化遺産の経済的な側面に関して議論が行われました。
フォーラムは、アハメド・エイウェイダ(Ahmed EIWEIDA)氏による基調講演と、セッション1「無形文化遺産の経済的価値を探る(Exploring the Economic Value of ICH)」、セッション2「コミュニティ中心の経済的活動と持続可能な開発(Community-Based Economic Activities and Sustainable Development)」、セッション3「無形文化遺産の倫理的な商業化(Ethical Commercialisation of ICH)」、特別セッション「地域の視点:韓国における無形文化遺産の経済的活動(Local Perspectives: Economic Practices of Intangible Cultural Heritage in Korea)」によって構成され、世界各地の専門家(シンガポール、東ティモール、香港、ネパール、インド、インドネシア、マレーシア、ボツワナ、フィリピン、日本、そして大韓民国)が、発表者もしくはモデレーターとして参加しました。
筆者はセッション3で「保護しながら振興する:日本における工芸技術の二つの指定制度(Protecting while promoting: Two designation systems for traditional crafts in Japan)」と題した発表を行いました。日本の工芸技術においては、文部科学省の「文化財保護法」による重要無形文化財の指定制度と、経済産業省の「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」による伝統的工芸品の指定制度があり、前者は工芸技術の保護を主な目的としているのに対し、後者はその振興を主な目的としています。しかし両者は矛盾するものではなく、相互に補完しながら工芸技術の存続に貢献しているという状況を説明しました。
セッション3のディスカッションでは、無形文化遺産と知的財産権に関する課題も議論されました。とりわけ無形文化遺産がコミュニティの手を離れ、過度な商業化や脱コンテキスト化の状況に陥ってしまうことへの懸念が表明されました。筆者は、日本の伝統工芸に関して、外国から安価な模倣品が輸入されることへの危惧について説明しました。また以前、外国の有名人が自分のデザインしたブランドに「Kimono」という名称を付けようとしたため、日本国内から大きな批判の声が上がったことを紹介しました。さらにこのディスカッションでは無形文化遺産と人工知能(AI)との関係についても言及されましたが、こうした問題はまだ日本では本格的に議論されていないと筆者は感じました。
日本でも「文化財の活用」というスローガンが叫ばれて久しいですが、今回のフォーラムに参加して、保存と活用の両立は依然として重要な課題であることを再確認しました。その上で、コミュニティが主体的にその保存と活用に関わることで、その文化財/文化遺産の価値をより高めることが出来る可能性についても、考えるきっかけとなりました。
なお本フォーラムの会場はソウル市街地の北にある津寬寺(Jingwansa)という仏教寺院でした。開会式では「水陸齋(Suryukjae)」と呼ばれる仏教儀礼のデモンストレーションが行われ、また昼食には伝統的な精進料理が振舞われました。さらに最終日のフォーラム終了後には座禅の体験も行われました。