スタンレー・アベ氏講演会

中国美術史の専門家スタンレー・アベ氏(米国デューク大学教授)を企画情報部来訪研究員としてお迎えしたのを機会に、6月5日(水)14時から17時30分まで、当所地階会議室において、「「中国彫刻」のイメージの形成」をテーマに講演会を開催しました。
アベ氏の発表では、中国には19世紀まで西洋的な「彫刻」という概念がなく、立体造形物はそれに付随する文字が重視されたり、贈答品や骨董品として位置づけられたりと、多様な価値評価がなされていたことが指摘されました。そしてそれらが、近代以降、中国を訪れた西欧人、日本人の収集対象となって美術品という新たな価値を得ていく過程が跡づけられました。
講演後、田中修二氏(大分大学教育福祉科学部准教授)、岡田健(当研究所保存修復科学センター長)をコメンテーターとして行われたディスカッションでは、西欧の「彫刻」概念と出会う以前の中国と日本では、立体造形物の位置づけと価値基準が違い、それらを制作した人々の社会的地位も異なっていたこと、中国では「彫刻」といえば近代以降の制作物という意味合いが強いことなどが明らかになりました。
議論を通じて浮かび上がってきたのは、西洋文化の受容や造形の近代化のあり方の多様性、それを支える歴史的経済的背景などです。講演会には48名が参加し、盛会となりました。
第37回世界遺産委員会

第37回世界遺産委員会は6月16日~6月27日にカンボジアのプノンペン(27日の閉会式のみシエムリアップ)で開催されました。当研究所では、世界遺産リスト記載資産の保全状況や、リストへの記載の推薦に関する資料の分析を事前に行うとともに、筆者を含む5名が委員会に参加し、情報収集を行いました。
今回の世界遺産委員会で新たにリストに記載されたのは19件の資産です。日本が推薦した富士山の審議では、日本以外の20の委員国のうち19の国が記載賛成の発言を行う一方、三保松原を除外する決議案に多くの委員国が反対しました。推薦書などの資料や日本側関係者の説明を通じ、各委員国が富士山や三保松原の価値を十分理解したことが、この結果につながったと考えます。
また、パルミラ遺跡などシリアにある6件の資産が「シリアの世界遺産」として危機遺産リストに記載されました。国内情勢が不安定で保全管理が困難となったためですが、治安の問題で具体的な対応は難しく、効果を得るには時間がかかると思われます。
このほか、リストへの記載について、審議する資産の件数削減、委員国の任期中の自国資産の審議自粛が検討されましたが、反対する委員国が多く、いずれも決定されませんでした。世界遺産委員会ではリストへの記載だけが審議されているのではなく、どの議題も世界遺産の保全には重要です。当研究所は全日程に参加し、関連情報の収集・分析・発信を行っていきます。
結城素明の草稿「芸文家墓所誌稿本」の受贈

日本画家の結城素明(1875~1957年)は、明治中期に自然主義に基づく作風を展開、大正期には平福百穂や鏑木清方らと金鈴社を結成して活躍するなど、近代日本画の革新に貢献した人物として知られています。そのいっぽうで素明は美術に関する著作の数々を残し、資料調査に基づいた実証的な内容は、今日でも価値のあるものとなっています。なかでも『東京美術家墓所考』(1931年)、『東京美術家墓所誌』(1936年)および『芸文家墓所誌』(1953年)は、美術家を主とする文芸家の墓所に関する情報を集成し、その来歴を知る手がかりとなる貴重な文献といえます。
このたび明治美術学会会長で当研究所の客員研究員も務められた青木茂氏より、素明が著した一連の墓所誌の草稿を当研究所へご寄贈いただきました。草稿は刊本と同様、各作家ごとに歿した年月日や享年、経歴が記されていますが、刊行後も加筆を続け、情報を継ぎ足していったあとがうかがえます。集積された草稿の束は厚さ10センチをこえ、素明の墓所誌編纂に対する傾注ぶりがしのばれる資料といえるでしょう。本資料は、当研究所の資料閲覧室にて閲覧することが可能です。
企画情報部2013年度第2回研究会の開催
企画情報部では、5月28日(火)、定例の研究会を行いました。今回は、「四天王寺所蔵六幅本聖徳太子絵伝をめぐる諸問題」として、聖徳太子絵伝について調査チームを組んで活動をされている土屋貴裕氏(東京国立博物館)、村松加奈子氏(龍谷ミュージアム)より発表が行われました。
今回取り上げられた四天王寺六幅本聖徳太子絵伝(重文)は、元亨三年(1323)、井田別所の僧・定意阿闍梨の発願により、南都(奈良)絵所の遠江法橋なる人物が描いたことを述べる裏書があることと合わせ、14世紀初頭以降数多く作られた聖徳太子の中でも重要な作品です。裏書については30年ほど前に活字化されたものによってこれまでそのまま認識されてきましたが、実物の調査を行ったチームの米倉迪夫氏(東京文化財研究所名誉研究員)によれば、裏書は当初のものではなく、その内容についてはなお疑義が残るとするとの見解が裏書の画像とともに示されました(米倉氏は当日ご不在のため土屋氏から論旨の代読)。このあと、土屋氏は絵の詳細な画像を示しつつ、これまで漠然と「南都の絵画」として認識されていたこと自体に疑問を提示し、それがこの時代にすでに様式として実在的なものであったかどうか今一度検討の余地があることなどを発表されました。村松氏は、多くの他の聖徳太子絵伝の中における図像的な関連を示し、聖徳太子絵伝の遺品群における意義について、その重要性が指摘されました。制作も優れた注目すべき作品でありながら本格的に論じられることのなかった本図についての研究が深まる端緒となるでしょう。
黒田清輝「グレーの原」調査

洋画家黒田清輝の遺言によって1930年に開所した「美術研究所」を母体とする当研究所では、黒田をはじめとする日本近代美術の調査研究を大きな柱として来ました。このたび、黒田記念館での展示に活かすことを条件に、黒田清輝筆「グレーの原」(カンヴァス・油彩、29.2×51.4cm)のご寄贈依頼があったことを受けて、5月6日に企画情報部の田中淳、塩谷純、城野誠治、山梨絵美子が同作品の調査・撮影を行いました。この作品に描かれているのは広やかな緑野にふたつの積み藁がある田園風景で、近景の草叢にある赤い花がアクセントになっています。画面右下には「S.K」とサインがあります。制作年は記されていませんが、モティーフと画風からフランス留学中、グレーでの制作を行い、サロン入選を目指していた1890年前後のものと思われます。積み藁が描かれており、黒田が私淑したジャン・フランソワ・ミレーとの関わりも想起される稀少なものです。1891年から93年までフランス公使をつとめ、フランス留学中の黒田に制作の援助をした野村靖(1842-1909)のご遺族に伝えられており、画家の交友関係をうかがわせます。調査結果を公にするとともに、黒田記念館での展示に活用していく予定です。
當麻曼荼羅図(印紙曼荼羅・裏板曼荼羅)の光学調査

當麻曼荼羅図(たいままんだら)は、唐の善導の『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ)に基づく阿弥陀浄土図です。奈良・當麻寺(たいまでら)に伝えられたことから、この名があります。縦横ともに4メートルを超える大作で、通常のように絵絹に描いた絵ではなく、綴織という織りによって図様が表わされています。8世紀のおそらく唐で制作されたものであろうとの見解が最近出ています。しかしながら、千数百年の経年の劣化は否みようがなく、綴織の当初の残存部がどのように、どれほど残っているかは必ずしもはっきりしていませんでした。当研究所企画情報部では昨年奈良国立博物館で特別展「當麻寺」展が開催されたのを機に、同博物館とこの曼荼羅について共同研究を行ってきたところです。
當麻曼荼羅は當麻寺曼荼羅堂の須弥壇(しゅみだん)上の逗子の中に納められた板の裏側に貼り付けたかたちで伝来しましたが、江戸時代、すでに劣化が激しかったため、表面に紙を当て、水を与えて織りを剥離し、掛幅(かけふく)に仕立て直すことが行われました。この掛幅本については昨年12月に調査を行ったところですが、江戸の剥離の際に使われた紙に繊維が残存したものの一部が「印紙曼荼羅」として京都・西光寺に伝来し、一方、もとの板貼りの部分にも剥離されることなく残った織りがあり「裏板曼荼羅」と呼ばれて存在しています。企画情報部では本年5月28日に奈良国立博物館とともに城野誠治、皿井舞が「印紙曼荼羅」の高精細画像調査を、同29日に城野誠治、小林達朗が参加して當麻寺曼荼羅堂の「裏板曼荼羅」のマクロ撮影による調査を行いました。「印紙曼荼羅」は当初の綴織りが構造として認められる部分はわかりにくい状況でしたが、繊維自体の残存は認められました。「裏板曼荼羅」については、現地の物理的制約上、調査できた範囲は一部に限られましたが、なお当初の綴れ織りが残っていることが確認できました。これまでよくわからなかった當麻曼荼羅の実態を知る一歩になったものと思われます。
企画情報部研究会の開催

企画情報部では、平成25年度の第1回研究会が4月30日に開催しました。研究発表では、「華族たちの写真同人誌『華影』と黒田清輝宛小川一真書簡」と題して、斎藤洋一氏(松戸市戸定歴史館)と岡塚章子氏(東京都江戸東京博物館)を迎え、これに田中淳が加わり順次発表しました。
はじめに、斎藤氏より、徳川慶喜、昭武をはじめとする旧大名たち、すなわち明治の華族たちによる写真同人誌『華影(はなのかげ)』(明治36年から41年頃に刊行)について、これまでの調査にもとづく研究成果が発表されました。とくに斎藤氏の調査によれば、『華影』は年に4冊刊行されていたと推察され、中でも明治40年3月から翌年3月の間に刊行された5誌において、投稿された写真に対する黒田清輝、ならびに写真家小川一真(1860-1929)による「印画評」(評価)が掲載されていたことは注目されます。この「印画評」をもとに、田中より、黒田の画家として、また写真家としての小川の評価、ならびに黒田の「写真」観について報告しました。つぎに当研究所が保管する黒田清輝宛書簡のなかから小川一真の書簡(7件)をもとに、小川について研究をすすめている岡塚氏より、黒田と小川の関係について、また華族と小川との関係をもとに明治の写真界についての発表がありました。この研究成果は、『美術研究』第411号(平成25年11月刊行予定)、ならびに次号において公表する予定です。
『横山大観《山路》』の刊行とエントランスロビーでのパネル展示


今春、企画情報部は平成14年より逐次刊行してまいりました『美術研究資料』の第6冊として、『横山大観《山路》』を上梓しました。本書は三年にわたり永青文庫との共同研究として続けてきた、横山大観《山路》についての調査研究の成果をまとめたものです。これまでも調査のつど、本HPでその報告をしてまいりましたが、多くの方々のご協力を得て、このたびようやく研究の全貌を公にすることができました。
本書は、永青文庫が所蔵する《山路》(明治44年作)およびそのヴァリエーションである京都国立近代美術館所蔵の《山路》(明治45年作)を対象として、修理や顔料分析により作品自体から得られた情報と、作品発表時の批評や所蔵の経歴など作品周辺の文字情報を集成したものです。修理や調査にたずさわった荒井経(東京藝術大学)・小川絢子(東京国立博物館)・佐藤志乃(横山大観記念館)・平諭一郎(東京藝術大学)・竹上幸宏(国宝修理装こう師連盟)・野地耕一郎(練馬区立美術館)・林田龍太(熊本県立美術館)・三宅秀和(永青文庫)の各氏および塩谷による執筆で、いずれも作品調査や資料に根ざした手堅いテキストとなりました。ひとつの作品をめぐる調査研究のケーススタディとして、これまでの『美術研究資料』と同様、今後の美術史研究の一助となれば幸いです。なお本書は中央公論美術出版より市販されています。詳細は下記ホームページをご覧下さい。
http://www.chukobi.co.jp/products/detail.php?product_id=635
また本書の刊行にあわせて、3月28日より当研究所1階のエントランスロビーで「横山大観《山路》の調査研究」のパネル展示を始めました。同書に掲載した永青文庫所蔵《山路》の調査画像を中心に、調査研究の概要をパネル展示でご紹介するものです。当研究所の城野誠治が撮影した高精細画像のパネルから、《山路》に使用された顔料のマティエールを実感していただきたく、ご来所の折はぜひご覧下さいますようお願いいたします。
仙台、昭忠碑のブロンズ部移設作業

仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑は、明治35年(1902)、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立されたモニュメントで、現在は宮城縣護國神社の管理となっています。これまでたびたび報告してまいりましたように(2012年1月、6月)、東日本大震災で塔上部に設置されたブロンズ製の鵄が落下し、当研究所に事務局を置く東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会では同碑に対し文化財レスキュー活動を行ってきました。塔周辺や塔上部に散乱したブロンズの破片についてはすでに回収を終えていましたが、長らく手つかずの状態であったブロンズ本体の移設作業をこの2月に実施することができました。
作業は2月4日より開始、屋外彫刻の修復に実績のある㈲ブロンズスタジオと㈲石歩が工事を担当しました。昭忠碑東側正面前の地面に4.5×4mの鋼板床を設置し、2月7日には25t ラフタークレーンによりブロンズ本体を吊り上げて鋼板床上に移動、その後、プラスチック製波板で覆い掛けを作成して2月9日に全作業を終えました。期間中はたびたび雪に見舞われ、除雪をしながらの作業でしたが、幸い7日のブロンズ吊り上げの際は天候に恵まれて、関係者や地元の報道陣が見守る中での実施となりました。また移設により、破断した鵄の首の内部を観察できるようになり、頭部をほぞ構造で接合したことが判明、さらに「明治卅五年十月四日接続頭部/即東京美術学校/紀念日也」の銘文が確認されるなど、昭忠碑を研究する上で貴重な発見もありました。なお今回の作業も、これまでの昭忠碑レスキュー活動と同様、㈲カイカイキキ(代表取締役:村上隆氏)から文化財レスキュー事業に役立てるべく当研究所に贈られた寄付金により行われました。
今回の移設作業でブロンズ部を覆い掛け内に収めたことにより、雨水による破断箇所からのダメージはひとまず防げるようになりました。しかしながら左翼部分の断裂をはじめ、落下により数多の破損をこうむったブロンズの鵄は被災前の雄々しい姿からはほど遠く、また塔上部に残るブロンズ装飾の落下や、雨水の塔内への侵入による塔全体の崩壊といった危険も未だ解決されていない状況にあります。明治期の稀少なモニュメントの保存修復に向けて、今後も引き続き対策を講じていくことが必要です。
靉光「眼のある風景」光学調査にもとづく研究発表

2月26日、企画情報部の研究会において、「靉光(あいみつ)《眼のある風景》をめぐって」と題する大谷省吾氏(東京国立近代美術館主任研究員)による発表がありました。作者である靉光(本名:石村日郎、1907-46)は、独自の造形感覚と堅実な油彩表現によって数々の秀作を残し、1930年代から40年代にかけての日本の近代洋画の歴史のなかで欠くことのできない画家です。その数々の作品のなかでも、この作品は、近代日本美術におけるシュルレアリスムの影響にとどまらず、暗転する時代を背景にした独特の幻想的表現として高く評価されています。
すでに企画情報部では、2010年1月、4月に研究プロジェクト「高精細デジタル画像の応用に関する調査研究」と「近現代美術に関する総合的研究」の共同研究として、東京国立近代美術館とともに光学調査を実施しました。その成果の一部として、原寸大にしたカラー画像と反射近赤外線画像を当研究所内2階に展示しています。
また、その後、この調査に参加した大谷氏は、得られた画像をもとに調査と考察を重ねて、今回の研究発表となりました。大谷氏の発表では、一般的に日本におけるシュルレアリスム絵画の代表作と位置づけられているものの、その影響関係が具体的にはどのようなものだったか、あるいはそもそも何が描かれているのか、不明な点は多いという問題意識からのものでした。とりわけ、反射近赤外線撮影および透過近赤外線撮影が行われ、これにより制作プロセスをある程度推測することが可能となりました。これをふまえ、創作の動機、モチーフ、表現におよぶ作品を読み直し、さらに現在までこの作品をめぐる言説、評価という美術史的な位置づけについても検証し、一点の作品を多角的な視点から考察するという総合的な研究発表でした。
平等院鳳凰堂日想観図扉の光学調査

平等院鳳凰堂の本尊が安置されている裏側、尾廊との出入り口には2枚の開き扉があり、ここに、浄土を思い浮かべるための観法「日想観」をあらわした絵があります。右側の扉には山岳とその中の仏堂などの建築物、左扉には広々とした海と水平線に落ちかかろうとする太陽などを描いています。当然ながら経年劣化によって剥落も多く、いくらか後世の筆も入っていますが、創建当初の絵も、置かれてきた厳しい環境を考えればよく残っているといえるでしょう。平安時代中期の本格的な絵画の遺品は希少で、とても重要なものです。1012年9月、東京文化財研究所では、平等院からの依頼によって、絵の上から後世にとりつけられた落とし鍵の部材がはずされたのを機に、その下に残っている顔料を中心に光学調査を行ったところです。
今回の調査は、それに続くもので、日想観図扉のうちこれまで本格的な光学調査がなされていなかった扉の押し縁(扉本体の四周に材を当てたもの)の部分を中心に行いました。押し縁には、部分的にではありますが、絵具によって当初のものかと思われる宝相華文の装飾が描かれています。2013年1月8~10日にかけ、日想観図本体、また鳳翔館で保存されている鳳凰堂の上品上生図扉断片や天井板の一部なども含め、企画情報部の城野誠治、小林達朗がカラー高精細画像、蛍光画像、赤外線画像を撮影し、保存修復科学センターの早川泰弘が蛍光X線分析による押し縁の絵具の材質調査を行いました。得られたデータについては検討の上、平等院に報告し、今後公表される予定です。
日想観扉は今回の調査の前に、平等院内の環境が整った博物館施設「鳳翔館」に移されており、今後はここで保存公開されます。かわって鳳凰堂現地には日想観図の復元模写が施された新しい扉が設置される予定ですが、前回、今回の光学調査はその復元模写の作成にも大きく寄与することができるでしょう。
宮内庁蔵春日権現験記絵巻の光学調査
春日権現験記絵巻(かすがごんげんげんきえまき)は14世紀初頭、時の左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願し、宮廷絵所の預(あずかり)(長)であった高階隆兼(たかしなたかかね)が絵を描いた全20巻にもわたる大作です。全巻が残されており、しかもその筆致はこの上なく緻密・華麗で、日本絵画史上きわめて貴重な作品です。現在、所蔵者である宮内庁によって2004年に開始された15カ年計画の全面的な解体修理が行われているところです。東京文化財研究所は宮内庁との共同研究として修理前の作品について、順次光学調査・記録を行っており、昨年度までで、20巻のうち計12巻分を調査してきました。
本年度は、さらに巻第4と巻第15の2巻について、2012年12月3日から12月6日まで、東京文化財研究所から企画情報部の城野誠治、小林公治、小林達朗が参加して、可視光、蛍光、反射と透過の二様の赤外線による高精細デジタル撮影を行いました。続いて12月10日から20日にかけては、保存修復科学センターの早川泰弘が、同じ2巻について蛍光X線による絵具の分析データを収集しました。
これまでに得られた膨大なデータについては、将来の保存修理の完了を期にその活用法を宮内庁とともに検討してまいります。
當麻曼荼羅図の光学調査

當麻曼荼羅(たいままんだら)図は、唐の善導の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』に基づく阿弥陀浄土図を中心に浄土教のの説くところを図化した変相図(へんそうず)です。奈良・當麻寺(たいまでら)に伝えられたことから、この名があります。同じ図様の作品が後世にいたるまで非常に数多く描かれ、全国各地に残っていますが、その根本となった今回の調査対象である當麻曼荼羅図は、国宝に指定され、縦横ともに4メートルを超える大作です。8世紀の制作と考えられますが、制作地については、唐とも奈良とも言われます。この根本曼荼羅の大きな特徴は通常のように絵絹に描いた絵ではなく、綴織(つづれおり)という織りによって図様が表わされたものであったことです。しかし1000年を超える経年の劣化は否みようがなく、鎌倉時代と江戸時代に行われた大きな修理によってかろうじてその形をとどめ、その際に加えられた補筆によって図様は伺えますが、地の組織は傷みがはげしく、当初の綴れ織りがどの程度残っているか、またそれはどのようなものであったか、必ずしもはっきりしていませんでした。
本年4月6日より奈良国立博物館において開催される特別展「當麻寺」で長年公開されることのなかった本曼荼羅が展示されるのを機に、これに先立つ2112年12月17日から21日まで、東京文化財研究所企画情報部は奈良国立博物館との共同研究として、奈良国立博物館においてこの曼荼羅の光学的調査を行い、企画情報部から城野誠治、小林公治、皿井舞、小林達朗が参加しました。今回はこの大幅の撮影のための専用レール台を制作し、この上に作品を置いて、高精細デジタルカメラによる撮影を行いました。きわめて緻密な曼荼羅の織りを観察できるよう、全面を150余りに分割して可視光の高精細デジタル画像を撮影したほか、蛍光、赤外による詳細な分割撮影を行い、さらに調査中に原本の綴織が残されていると見られた部分をマクロ撮影で記録しました。当初の綴織の織り目のみえる部分がごく少ないながら見出されたことは、今後の検討・研究の基礎となる成果であると同時に、奈良国立博物館における今回の展覧会に資することとなるでしょう。
東京国立博物館蔵国宝・千手観音像の調査・撮影

企画情報部の研究プロジェクトのプロジェクト「文化財デジタル画像形成に関する調査研究」の一環として、11月1日、東京国立博物館に所蔵される国宝・千手観音像の高精細画像の撮影を行いました。東京国立博物館と当研究所との「共同調査」によるもので、昨年度の国宝・虚空蔵菩薩像の調査に続いての調査となります。今回は東京国立博物館の田沢裕賀氏・沖松健次郎氏のご助力をえて、当研究所の城野誠治が画像撮影を行い、小林達朗、江村知子が参加しました。千手観音像は平安仏画の代表的名品のひとつです。平安時代の仏画は日本絵画史の中でもきわだって微妙かつ細部にわたる繊細な美しさを実現しましたが、それゆえに細部の表現の観察は重要なものになります。今回の撮影画像は肉眼による観察を超えるものがあり、微細な部分に宿された平安仏画独特の美がうかがえるものとなると考えます。得られた情報については今後東京国立博物館の専門研究員を交えて共同で検討してまいります。
企画情報部第46回オープンレクチャーの開催


今年で46回目を迎えた企画情報部オープンレクチャーは、「モノ/イメージとの対話」をテーマに10月19日(金)、20日(土)の両日午後一時半より、当研究所地下セミナー室を会場に開講致しました。このオープンレクチャーでは、文化財や美術作品は動かぬモノでありながら、人々の心のなかに豊かなイメージを育んでいくことを念頭に置いて、そうした「モノ/イメージ」に日々向き合うなかでの新たな知見を、より多くの方々に知っていただくことを目的に開催いたしました。
発表は、所外から、国立台湾師範大学准教授・白適銘氏(19日、発表タイトル「上野モダンから近代文化体験へ―陳澄波が出会った近代日本―」)と、国際日本文化研究センター准教授・丸川雄三氏(20日、「連想が結ぶ美術史の点と線―アーカイブスから見えるもの―」)を迎え、所内からは、企画情報部副部長・山梨絵美子(19日、徳川霊廟を描いた画家たち)、同部長・田中淳(20日、「1912年10月20日・上野・美術」)が行いました。両日ともに天候にも恵まれ、19日は96名、20日は80名の聴講者を得ました。
企画情報部研究会の開催「宮内庁三の丸尚蔵館所蔵春日権現験記絵共同研究の中間報告」
春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ)は14世紀初頭、時の左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願し、宮廷絵所の預(長)であった高階隆兼(たかしなたかかね)が絵を描いた全20巻にもわたる大作で、この上なく優れた筆致もあいまって絵画史上きわめて貴重な作品です。現在、所蔵者である宮内庁によって平成16年(2004)から15カ年もの計画による全面的な解体修理が行われているところですが、これにともない、当研究所は宮内庁との共同研究により修理前の作品について順次光学調査を行っています。
9月25日、企画情報部は研究会を開催してこの調査について中間報告を行いました。宮内庁三の丸尚蔵館からは今回の修理事業を主導されている主任研究員・太田彩氏をお迎えし、この度の修理事業の全体像、修理過程で得られた知見などについてお話しいただき、企画情報部・城野誠治氏からは各種光学調査のうち、主として可視光の高精細画像についてその特性などについて報告が行われました。本調査では、城野氏によって、可視画像のほか反射近赤外、透過近赤外、蛍光の各種デジタル画像調査も行われていますが、現時点で12巻について各種合わせて6700カットあまりの画像情報がすでに蓄積されています。企画情報部・小林達朗からはその一部について美術史的意義の観点から紹介をしました。この調査では、保存修復科学センター・早川泰弘氏による蛍光X線分析による絵具の科学的調査も行われており、得られつつある情報はたいへん貴重なものとなるのは明らかです。これについては、今後宮内庁側と協議のうえ、公開する適切な方法について検討してまいります。
平等院鳳凰堂日想観図扉絵の調査

平等院鳳凰堂は、天喜元年(1053)に成ったあまりにも著名な建造物ですが、その扉や柱の絵も日本絵画史に残るきわめて貴重なものです。このうち本尊・阿弥陀如来像の裏側にあたる、中堂西面から尾廊への出入り口に設けられた二枚の扉には、『観無量寿経』に説かれている日想観の絵が描かれています。剥落も多く、いくらか後世の補筆が入っているとはいえ、図様の主要な部分には創建当初のものを残す重要な作品です。
この左扉下部には閂(かんぬき)を敷居の穴に落としこんで施錠する落とし錠があり、これを支える木製の部材が「エ」字形にとりつけられ、絵のある部分を隠していました。この度、鳳凰堂の修理工事にともなってこの部材が取り外され、隠された部分が現れたのを機に、平等院からの委託によって、この部分を中心として光学調査を行いました。調査は9月4~6日の3日間で、保存修復科学センター・早川泰弘、企画情報部・城野誠治、小林達朗が行いました。
落とし錠の下に残された当初部分と思われる絵具は多くはありませんでしたが、いくらかの痕跡が残っており、これに対して早川が蛍光X線分析調査を、城野が高精細可視画像・反射近赤外線画像・蛍光画像の撮影を主として行いました。得られたデータについては、早い時期に分析、検討し、公表する予定です。
『美術研究作品資料 横山大観《山路》』刊行に向けての研究協議会開催

これまでたびたびお伝えしてきたように、当研究所では平成22年度より永青文庫との共同研究というかたちで、横山大観筆《山路》の調査研究を進めてきました。修理を機に行なった四度の作品調査を経て、いよいよその成果を一書にまとめるべく、調査研究に携わった方々を中心とする研究協議会を8月3日に当研究所で開きました。協議会では、塩谷も含め下記の方々(報告順、敬称略)が《山路》に関する各自の研究テーマについて報告を行い、企画情報部のスタッフも交えて互いに意見を交換しました。
竹上幸宏(国宝修理装こう師連盟)・荒井経(東京藝術大学)・平諭一郎(東京藝術大学)・小川絢子・三宅秀和(永青文庫)・林田龍太(熊本県立美術館)・佐藤志乃(横山大観記念館)・野地耕一郎(練馬区立美術館)
報告の内容は修理報告や調査に基づく作品分析、発表時の批評の再検討など、多岐にわたるものでした。近代日本画の研究で、複数の研究者が一点の作品に絞って多角的に検証を行う試みは 先例がなく、画期的といえるでしょう。その成果は当研究所が逐次刊行してきた『美術研究作品資料』の第6冊としてまとめ、来春に刊行する予定です。
来訪研究員金子牧氏による研究発表
昨年7月から1年間、企画情報部来訪研究員として調査研究を行ってこられたカンザス大学美術史学部アシスタント・プロフェッサーの金子牧氏が来訪期間を終えるにあたり、6月28日に企画情報部研究会において成果発表を行いました。金子氏はアジア太平洋戦争および戦後という時代が美術家たちの制作にどのように表出されるかを追及しておられ、その調査の中で浮かび上がってきた興味深い問題のひとつとして素朴な貼り絵で知られる山下清(1922-71)を巡る評価の変遷に着目し、「「国民的画家」の表出:アジア・太平洋戦争期と戦後の「山下清ブーム」と題して発表されました。
山下清が最初に注目を集めた時期は日中戦争勃発から1年目にあたる1938年から1940年までの二年間で、その頃は知的障害を持ちながら優れた造形力を示す「日本のゴッホ」といった位置づけであったのに対し、戦中を経て再度注目された1950年代半ばには無垢な感性で牧歌的な郷愁を誘うイメージをつむぐ「国民的な画家」として語られていきます。
金子氏はそうした山下清像に、戦争に向かって総力戦体制を構築していった1930年代後半、そして「もはや戦後ではない」と言われ、戦争の記憶が様々な形で甦った1950年代、という二つの時代の社会状況が反映されているのではないか、と指摘されました。
狭義の「美術」という枠を超え、視覚表象の受容のあり方から社会を分析しようとする興味深い試みでした。金子氏は6月末に当所での調査を終え、帰国されました。
第36回世界遺産委員会



第36回世界遺産委員会は、6月24日~7月6日、ロシアのサンクトペテルブルクで開催されました。当研究所では、世界遺産リストに記載されている資産の保全状況や、リストへの記載の推薦に対して、諮問機関が行った評価や勧告内容の要約と分析を事前に行うとともに、筆者を含む3名が委員会に参加し情報収集を行いました。
今回は26件の資産が新たにリストに記載されました。記載延期の勧告から記載の「2段階昇格」資産は2件で前回より減りましたが、情報照会が勧告された資産6件すべてが記載され、諮問機関の勧告が覆される傾向は委員国の改選で緩和されたものの、まだみられるといえます。また、今回記載された資産には鉱山遺跡が3件ありますが、いずれも労働運動や事故など「負の歴史」にも関連し、歴史の暗部に着目する傾向も引き続きみられました。
世界遺産条約は最も成功した条約ともいわれ、190カ国が批准しています。その知名度を象徴する現象として、今回「キリスト生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼の道」が緊急に記載されましたが、記載の推薦は「国家」が行うので、パレスチナが国家であることをアピールするものです。また、マリの世界遺産がイスラム原理主義者により破壊されましたが、これも、世界遺産の破壊という行為が世界に与える影響を考慮したものといえるでしょう。
昨年のパレスチナの世界遺産条約批准によりアメリカの分担金拠出が停止され、最大の拠出国は日本となりました。また今回から、日本は委員国として自由に発言できる立場となったこともあり、日本が果たすべき役割は大きいといえます。当研究所では、国内関係者への情報提供とともに、世界遺産委員会へ日本が貢献するための情報分析などの支援も実施していきたいと考えています。