研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


海外日本美術資料専門家(司書)の招へい・研修・交流事業2015(通称JALプロジェクト)への視察受入など

JALプロジェクト 当研究所視察の様子

 JALプロジェクト(実行委員長:加茂川幸夫東京国立近代美術館館長)は、海外で日本美術資料を扱う専門家(図書館員、アーキビストなど)を日本に招へいして、日本の美術情報資料や関連情報提供サービスのあり方を再考することなどを目的とし、昨年度からスタートした事業です。本プロジェクトに、当研究所から山梨企画情報部長、橘川研究員が実行委員を委嘱され、橘川は招へい者への事前現地ヒアリング、研修ガイダンス、国内関連機関視察への随行を行いました。
 事前ヒアリングは、水谷長志氏(本プロジェクト実行委員、東京国立近代美術館)とともにベルリン国立アジア美術館図書館のコルデゥラ・トライマ氏、プラハ国立美術館のヤナ・リンドヴァー氏を担当し、10月3日、5日に現地での日本美術情報の状況に関してヒアリング、視察を実施しました。
 日本にお越しいただいた資料専門家9名は、11月16日から23日まで、東京・京都・奈良・福岡にある関連機関を視察いただきました。当研究所には同月18日にご訪問いただき、資料閲覧室などで図書資料、作品調査写真、近現代美術家ファイル、売立目録に関する資料・プロジェクトを紹介したのち、当研究所研究員らとディスカッションを行いました。さらに、今年度は「海外における日本美術関係資料担当者との交流会」を実施し、国内関連機関関係者との面会の機会を提供いたしました。これは昨年の招へい者からの要望に応えたもので、28名の参加を得て、和やかな雰囲気のなか、専門家ならではの活発な情報交換が行われました。
 研修最終日となった同月27日に、東京国立近代美術館講堂で公開ワークショップが開催され、昨年度に引き続き、招へい者から日本美術情報発信に対する提言が行われ、文化財情報の国際的な発信のあり方について再検討する良い契機となりました。

企画情報部研究会の開催―徳川吉宗が先導した視覚と図像の更新について―

『古画備考』巻二十六 岡本善悦肖像 (東京藝術大学附属図書館所蔵)

 11月24日(火)、企画情報部では、加藤弘子氏(日本学術振興会特別研究員)を招いて「徳川吉宗が先導した視覚と図像の更新について―岡本善悦豊久の役割を中心に―」と題した研究発表がおこなわれました。
 江戸幕府の第8代将軍である徳川吉宗(1684~1751)は、革新と復古の両面を兼ね備えた政治家として著名ですが、美術の分野でも、中国の宋・元・明の名画の模写やオランダ絵画を輸入させ、また、諸大名が所蔵する古画の模写や珍獣の写生を命じたことが確認されます。そうした古画の模写や写生をおこなった画家として挙げられるのが、同朋格として吉宗に仕えた岡本善悦豊久(1689~1767)です。加藤氏は、東京国立博物館が所蔵する「板谷家絵画資料」の中に、善悦の末裔にあたる彦根家旧蔵の約270点の粉本類が含まれることを紹介し、それらの存在から、善悦が吉宗の意向を狩野家や住吉家に伝え、視覚と図像を指導していく役割を果たした可能性を指摘されました。こうした問題は、吉宗の絵画観を解明するとともに、善悦を通して吉宗の絵画観が粉本として蓄積され、その後の狩野派の画風などに影響を与えたことを示唆するものでもあります。発表後は、善悦の役割とともに、善悦と同じく吉宗の側近であった成島道筑との関係などについても活発な意見が交わされました。今後は、実際の絵画作品が少ない善悦の、さらなる作品紹介などが待たれます。

レスキューされた文化財、その後――仙台、昭忠碑修復の現状レポート

東京、ブロンズスタジオでの昭忠碑修復の様子(平成27年11月7日)翼をひろげたブロンズの鵄が、背を下にして置かれています。後方のボードに留めた被災前の写真を参考にしながら、破砕した断片を繋ぎ合わせていきます。

 この活動報告でもたびたびお伝えしたように、平成23年(2011)3月の東日本大震災で被害を受けた多くの文化財に対し、当研究所に事務局を置く東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会はレスキュー活動を各所で行なってきました。仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑もそのひとつで、明治35年(1902)、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された同碑は、震災により高さおよそ15メートルの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄が落下する被害を蒙り、救援委員会による文化財レスキュー事業の対象として、ブロンズ破片の回収や鵄本体の移設作業が行なわれました。平成26年の同事業終了後は宮城県被災ミュージアム再興事業として修復が実施され、今年度は破損した鵄の部分を東京、箱根ヶ崎にあるブロンズスタジオへ移動して接合する作業が進められています。ここでは、11月7日に同スタジオで行なった見学にもとづき、その修復の様子をレポートしたいと思います。
 破損した鵄は今年の6月3日と7月10日の二度に分けて、東京へ搬送されました。まず行われたのは、ブロンズ接合の前段階として、破損した鵄の最も大きな部分(約5.1トン)の内側に充填されていたコンクリートや鉛を取り除く作業でした。それらは鵄と石塔をつなぐ鉄心として入れられたレールを固定し、また鵄部分の重量のバランスを取るために満たされていたものです。これを約3カ月かけて取り除いた後、破砕したブロンズの本格的な接合作業に入ることになりました。震災前の調査で撮影された画像をもとに元の形を復元していくのですが、鵄の頭部や羽先などは粉砕した状態にあり、ジグソーパズルのような作業が進められています。
 高さ15メートルの塔の上に総重量5トン以上もある巨大な鵄の彫刻を据え付けた昭忠碑の建設は文字通り力技というべきものでしたが、ブロンズスタジオの高橋裕二氏によれば、修復作業を進めていく中で、現在は機械で製造されるような細かな部品を手技でひとつひとつ加工し作り出すなど、当時の丹念な仕事の様子がうかがえるとのことです。修復を通して、同碑の建設に携わった明治の人々のいとなみが改めて浮かび上がってきたといえましょう。この接合作業は次年度にかけて進められ、完了後は再び仙台に戻ることになりますが、一方で石塔部分について雨水の侵入による劣化が問題となっています。震災から5年が経とうとしていますが、同碑の保存修復をめぐって未だ課題は多く、長期的な取り組みが必要とされています。

畑正吉フランス留学期の写真資料受贈

畑正吉のセルフ・ポートレート。明治43(1910)年撮影。鏡にカメラのレンズを向け、シャッターを押す自分の姿を撮影したもの。原板中の書き込みから、日本の文化人がよく滞在したパリのホテル・スフローで撮影したことがわかります。

 彫刻家の畑正吉(1882‐1966)は、東京美術学校(現、東京芸術大学)や東京高等工芸学校(現、千葉大学)の教授を務め、造幣局賞勲局の嘱託として記念メダルやレリーフなどを制作した人物です。明治40(1907)年から43年にかけて農商務省海外実業練習生として渡仏、パリのエコール・デ・ボザールに日本人彫刻家として初めて合格し、彫刻を学びました。その留学の折の原板12点が畑正吉のご遺族のもとに伝えられており、このたび正吉の孫にあたる畑文夫氏よりご寄贈いただくことになりました。原板には畑正吉のセルフ・ポートレートをはじめ、安井曾太郎や藤川勇造といった、当時パリに滞在していた日本人美術家と撮影した写真が残され、異国での交友のあとをしのばせる大変貴重な資料といえましょう。これらの原板資料についてはあらためてデジタル撮影を行ない、ウェブ上にて画像を公開する予定です。(「畑正吉フランス留学期写真資料」として2017年4月21日公開)

企画情報部「第49回オープンレクチャー モノ/イメージとの対話」の開催

会場の様子

 企画情報部では、10月30日(金)、31日(土)の2日間にわたって、オープンレクチャーを当所セミナー室において開催しました。日頃の研究の成果を広く一般に講演の形で発信するものとして毎年行われており、今回で第49回を迎えました。本年は当所研究員2名に加え、外部講師2名を迎え、各1時間余の講演が行われました。
 第1日目は、皿井舞(企画情報部主任研究員)「仁和寺阿弥陀三尊像と宇多天皇の信仰」、増記隆介(神戸大学准教授)「十世紀の画師たち―東アジア絵画史から見た「和様化」の諸相―」。皿井は宇多天皇が造立した阿弥陀三尊像について、その図像的特色とこれが宇多天皇を中心とする宗教史的歴史的背景といかに関わっているかを述べ、増記氏は中国における10世紀頃の山水画の変化を史料から読みとり、その日本への影響について考察されました。第2日目は、安永拓世(企画情報部研究員)「与謝蕪村の絵画に見る和漢」、吉田恵理(静岡市美術館学芸係長)「池大雅の山水画を考える―二つの「六遠図(りくえんず)」を手がかりに―」。安永は江戸時代の代表的な画家である与謝蕪村の絵画において「和」と「漢」が彼の表現の中でどのように意識され、混交され、実作品にどのように表れているかを述べ、吉田氏は蕪村と並ぶ江戸画家・池大雅が描いた「六遠図」を中心に、それが中国の絵画理論を源としながらもユニークなものであること、日本的「文人画家」としての大雅の絵がどのように形成されていったかを諸作品の筆法、また作品に関わった人々との関連によって講演されました。
 第1日目は138名、第2日目は109名の多くの聴衆を迎え、アンケートに回答いただいた方のうち、「大変満足した」と「おおむね満足だった」が合わせて8割以上と好評をいただきました。

/ 小林達郎)

国際シンポジウム「日本美術史研究の現在―グローバルな視点から」への参加

 様々な分野でグローバル化が課題となっている中で、美術史学においても「世界美術史」や「グローバル美術史」への試みがなされるようになっています。そうした状況を踏まえてハイデルベルク大学東アジア美術研究所の主催により、国際シンポジウム「日本美術史研究の現在―グローバルな視点から」が10月22日から24日まで、ハイデルベルク大学のカールジャスパー・センターで行われました(http://sharepoint2013.zo.uni-heidelberg.de/zo-conference-hub/conf-iko/histories-of-japanese-art/SitePages/Home.aspx)。同シンポジウムは石橋財団がハイデルベルク大学への日本からの日本美術史客員教授派遣する支援をする「石橋財団日本美術史客員教授制度」の創設10周年を記念したもので、1「世界の創出―空想の日本」、2「東アジアからの輸出美術品の拡散」、3「20世紀初頭の芸術界における日中関係」、4「日本美術と公衆の語り」、5「欧米における東洋美術品収集と世界美術史の形成」、6「戦後美術の同時代性」、7「国際展における「日本」」の7つのパネルによる構成で、22名の研究発表と各パネルでの討論、クリスティン・グート氏(ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)Christine Guth (Royal College of Art and V&A Museum, London)とタイモン・スクリーチ氏(ロンドン大学)Timon Screech (SOAS, London) の2名による基調講演が行われました。当所から山梨が招かれて参加し、パネル5で「ダーウィン著『種の起源』と世界美術史の始まり」(インゲボルグ・ライヘル氏、フンボルト大学、Ingeborg Reichle , Humboldt University, Berlin)、「ドイツ帝国における東洋美術品収集と世界美術史の状況」(ドリス・クロワッサン氏、ハイデルベルク大学、Doris Croissant , Heidelberg University)に先立って「美術商林忠正―欧米と日本の異なる「美術」概念のはざまで」というテーマで発表しました。3日間の発表と討論を通じて、大航海時代以後、人、物、知識・情報の移動が激しくなり、日本美術品や日本美術史についても様々な地域で異なる語りがなされてきたことが明らかになりました。シンポジウムの報告書は2017年に刊行される予定です。

9月企画情報部研究会

志村氏、秋本氏と聴講者との間で熱く交わされる画絹・絹糸に関する情報交流

 月例の企画情報部研究会では、9月29日(火)に、研究プロジェクト「美術の表現・技法・材料に関する多角的調査研究」の一環として、絹織制作研究所の志村明氏に「絹生産における在来技術について」の標題のもとご発表をいただきました。あわせて、同研究所の秋本賀子氏にコメンテーターとしてご出席いただきました。志村氏は近代以前の伝統的織絹の復元に日々携わっておられます。研究会のテーマとなった画絹については日本絵画の基底材であり、美術史研究者はもとより日本絵画の修復に日々携わる者にとっても非常に親しい存在です。聴講者は美術史の研究者にとどまらず、日本絵画の修復に携わる者など多岐にわたり、その分野への関心の高さが窺がわれました。
 今回の研究会では、今日まで残るさまざまな時代の画絹類を実際に調査され、それにもとづいて技術復元を行われた過程で知り得た画絹、絹糸に関する様々な知見をお話いただきました。研究会では最初に志村氏から絹糸に関する基本的な情報をご提示いただき、適宜、秋本氏にコメントをしていただきながら、聴講者から質疑を行い、これに志村氏が応答していただくという形式で進めました。そのなかで、絹糸の太さ(径)に関する単位と思われていた「d(デニール)」が絹の容量に関る単位であること、実際に復元した伝統的技術によって生成された画絹を微細に観察しながら、経糸と緯糸によって構成される織目(空隔)の密度と裏彩色の関係など、われわれ研究者が自明のことと思っていた画絹、絹糸に関する知識が非常に誤解・誤認をともなうものであったことに気づかされ、認識を改める機会を得ることができたように思います。
 この質疑・応答をもって進行した研究会は2時間を超えるものでしたが、志村氏よりご提示いただいた画絹・絹糸に関する情報・知識は非常に新鮮でした。また、志村氏、秋本氏によって制作された厚みや織り目の密度の異なる画絹、砧で打ち込んだ練り絹(絹布)の現物を手にとって、それらの感触を実感することができた経験も、今後、絵画研究に携わってゆくうえで有意義なものとなりました。

久野健白鳳会講演録の寄贈

 故・久野健(1920~2007)氏は1944年に当研究所の前身である美術研究所に入所され、1982年に退官されるまでの38年間にわたって仏像彫刻研究に従事されてきました。退官後は自宅に隣接して仏教美術研究所を設立し主宰され、長年にわたって収集された資料を研究者に提供されてきました。久野氏の没後は、ご遺族より、氏が手ずから書き込まれた調査ノート類、写真資料類をご寄贈いただきました。それらは主に国内外に所在する仏像彫刻に関するものです。件数にして7,480 件にものぼり、2015年3月から「久野健寄贈資料」として当研究所の資料閲覧室にて公に供しています。
 久野氏は、仏教美術研究所において仏教美術愛好者を募って白鳳会を結成し、会員向けの現地見学会や講演会を熱心になされていたことが、調査ノートに挿み込まれていた告知案内状の類から知られていました。しかし、どのような講演内容であったかについては不明でした。ところが、このたび白鳳会の運営を手伝われていた高橋寿守氏から、白鳳会で行われた講演録の寄贈の申し入れがあり、その受け入れが9月に完了いたしました。これは久野健氏が白鳳会で講演された度毎に、会員が分担して講演のテープ起こしを行い、久野氏が内容に目を通されたうえで、会員に向けて配布されていた講演録を一括したものです。これによって白鳳会で久野氏が講演された内容を具体的に窺がうことが可能となりました。なお、この講演録は「久野健寄贈資料」の一環として登録し公開をいたします。

一乗寺蔵・国宝天台高僧像の画像調査

調査風景

 企画情報部では2015年8月24・26日に、兵庫県・一乗寺の所有する国宝・聖徳太子及天台高僧像(全10幅)のうち奈良国立博物館に寄託されている高僧像7幅について、東京文化財研究所のもつデジタル画像技術を用いて高精細カラーおよび近赤外線画像調査を同館で行い、城野誠治、皿井舞、小林達朗が参加しました。これらの作品については、当研究所と奈良国立博物館が共同研究の対象として調査を重ねてきたところですが、今回の調査はこれを補足するものです。既に得られた各種画像とあわせ、これらは作品の今までにない詳細な情報を含むものであり、これまでの成果を出版によって公開する準備を進めています。

企画情報部研究会の開催―黒田清輝宛の岡田三郎助書簡をめぐって

岡田三郎助直筆の葉書 明治29年12月5日付
岡田八千代代筆による書簡(部分) 明治44年6月30日付

 当研究所は創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、企画情報部では所外の研究者のご協力をあおぎながら、その翻刻と研究を進めていますが、その一環として8月31日に、黒田とともに日本近代洋画のアカデミズムを築いた岡田三郎助の書簡についての部内研究会を行ないました。発表者とタイトルは以下の通りです。

  • 高山百合氏(福岡県立美術館学芸課学芸員)
    「黒田清輝宛岡田三郎助書簡 翻刻と解題」
  • 松本誠一氏(佐賀県立博物館・佐賀県立美術館副館長)
    「岡田八千代の小説から見た岡田三郎助像」

 岡田三郎助直筆の書簡は「将来国宝にする値打ちがある」と黒田清輝が語るほど、岡田は自分で手紙を書くことが稀であったといいます。今回の高山氏の発表でも、黒田宛の岡田名による書簡群に筆跡のばらつきがあることが示され、代筆者の検討が行われました。そうした代筆者の一人である妻の八千代は、小説家・劇評家としても活躍しています。松本氏の発表では、八千代代筆による黒田宛書簡とともに、自身の夫婦観を投影した新出の小説原稿も紹介しながら、画家に嫁いだ妻の目線による岡田三郎助像が浮き彫りにされました。概して差出人直筆の一次資料として重視される近代の書簡ですが、今回の研究会では代筆というケースを通して書簡資料の難しさ、そして代筆者との関係をも読み解くことで、差出人をめぐる新たな人間模様を映し出す面白さを再認識する機会となりました。

2015東アジア文化遺産保存国際シンポジウム in 奈良 ―ポスター展示

ポスター会場風景
iPadを使いながらの説明

 8月26日から29日まで、「2015東アジア文化遺産保存国際シンポジウム in 奈良」が、奈良春日野国際フォーラム甍~I・RA・KA~で開催され、27日と28日の2日間の専門家会議プログラムにおいてポスター発表を行いました。「文化財研究情報アーカイブの構築―東京文化財研究所の取り組み」と題して、(1)情報資源の活用とシステム構築(2)ホームページで公開中の所蔵資料データベース検索システムのリニューアル(Wordpressを利用して個々のデータベース毎の検索からデータベースを横断的に検索し一括で結果を表示するように変更)(3)研究資料データベースの公開(既存の各種画像やテキストコンテンツを、Wordpressを利用することで検索を容易にし、また、未公開だった画像などを順次公開しコンテンツを追加)(4)国内外との連携(英国セインズベリー日本藝術研究所との連携やアメリカ・ゲッティ研究所との共同研究の予定)(5)今後の展開、などの発表でした。
 発表は、ポスター掲示に加えて、iPadやタブレットPCを利用したデモンストレーションも行い、また聴講者にも試用いただくことで、リニューアルした総合検索と所蔵資料データベースの取り組みを、より具体的に、分かりやすく理解いただくような方法で行いました。
 聴講者からは、そのコンテンツが増えていることや検索がしやすくなったことを把握でき活用の幅が広がったという感想をいただくとともに、大規模なポータルサイトへの情報提供や、類似する資料を扱った他機関とのさらなる連携を期待する意見を伺うことができました。いずれも東アジア文化遺産あるいは文化遺産保存、情報システムの専門家ならではの示唆に富んだもので、当研究所の資料群の国内外への発信の取り組みにおける有効な情報交換となりました。

『美術研究』掲載論文等のPDF公開

 『美術研究』は昭和7年(1932)1月、当研究所の前身である帝国美術院附属美術研究所において、当時所長であった矢代幸雄の構想・提唱により第1号を刊行しました。以来、今日まで、広くアジアを視野に収めて文化財に関する論文、図版解説、研究資料等を掲載し、文化財研究を国内外で牽引してまいりました。そのバックナンバーのWeb上での公開については、全所的アーカイブの一環として、また、かねてより評価委員会での公開についての意見・要請を承けて、それに応えるべく企画情報部では公開の準備を進めてまいりました。
 このたび、1号から200号までの掲載論文等の著作権者もしくは著作権継承者に連絡をとり、承諾を得たものから順次、「東文研総合検索」において検索、web上での本文閲覧ができるようにいたしました。なお、今回は早期にWeb上で論文・記事等の本文を閲覧できる環境を作ることを優先したため、同誌収載の社寺や美術館・博物館等の所蔵品の口絵・挿図は、個別に所蔵者からの公開許可をとることをせず、マスキング処理をほどこしました。200号までの著作権者不明分については、所定の手続きをおこなうともに、それ以降の号についても順次公開できるように作業を進めているところです。PDFでの公開を機に、広く『美術研究』が活用されること願うものであります。

第39回世界遺産委員会への参加

世界遺産委員会の会場となったボン世界会議センター(WCCB)
審議風景

 第39回世界遺産委員会は6月28日~7月8日、ドイツのボンで開催されました。筆者らは委員会に参加し、その動向について調査を行いました。
 今回世界遺産リストに記載された24件の資産の内訳は、文化23に対し複合1、自然0、ヨーロッパ・北米の12に対し、北部のアラビア語圏を除くアフリカでは0と、種類や地域間の格差が拡大しました。一方、鉄道橋や港湾倉庫群、窒素肥料やコンビーフという当時の世界的輸出品の工場などの産業遺産が記載され、文化遺産の多様性は増しています。やはり産業遺産である明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(日本)の審議では各委員国の発言は行われず、決議案に脚注を加える改訂を行い採択の後、日本と韓国がその内容についてそれぞれ声明を読み上げる、通常とは異なる方法がとられました。危機遺産リストからは1件が抹消されましたが、ハトラ(イラク)、サナア旧市街、シバームの旧城壁都市(イエメン) の3件が加わりました。地震で被災したカトマンズの谷(ネパール)は、状況把握の必要性や、ネパールが記載を望まないことを理由に記載されませんでした。
 ところで、今回審議された推薦では、推薦内容に関して諮問機関と締約国との間でこれまでより多くの対話が行われました。諮問機関の勧告はより肯定的になり、彼らの評価が低い推薦は、委員会で勧告を大きく覆されることはありませんでした。また、推薦書作成などに対し、締約国の求めに応じて諮問機関や世界遺産センターが技術的支援を行うアップストリーム・プロセスが制度化されました。このように、世界遺産リストへの記載に関する支援が手厚くなる一方、支援を活用していない締約国があることも世界遺産センターや諮問機関から指摘されています。世界遺産センターは業務効率化に努めていますが、限界があります。世界遺産の枠組みの維持に自らの協力が不可欠なことを、全締約国が認識する必要があります。

美術史家上野アキ氏関連資料の受贈

 1942年11月から1984年4月まで当研究所の前身である東京国立文化財研究所に奉職された美術史家上野アキ氏は2014年10月12日に逝去されました。上野氏はキジル石窟や敦煌の壁画など西域美術を専門に研究されました。また、高田修、伊東卓治、柳沢孝、宮次男との共同研究「醍醐寺五重塔の壁画研究」で1960年に学士院恩賜賞を受賞し、柳沢とともに同賞初めての女性の受賞者となりました。このたび、ご遺族から、今後の研究への活用のため、上野氏の調査ノートや関連資料および蔵書の一部を当研究所にご寄贈いただくこととなりました。西域美術史研究の足跡などを知る貴重な資料群です。これらは整理の後、公開していく予定です。

企画情報部研究会の開催―伝祇園南海筆「山水図巻」とメトロポリタン美術館所蔵の画帖について

メトロポリタン美術館所蔵「近代日本画帖」のうち河鍋暁斎「うずくまる猿図」
©The Metropolitan Museum of Art Charles Stewart Smith Collection, Gift of Mrs. Charles Stewart Smith, Charles Stewart Smith Jr., and Howard Caswell Smith, in memory of Charles Stewart Smith, 1914

 6月4日に企画情報部月例の研究会が、下記の発表者とタイトルにより開催されました。

  • 安永拓世(当部研究員)「伝祇園南海筆「山水図巻」(東京国立博物館蔵)について」
  • 富澤ケイ愛理子氏(セインズベリー日本藝術研究所)「在外コレクションにみる近代日本画家とその作画活動―メトロポリタン美術館所蔵「近代日本画帖」(通称「ブリンクリー・アルバム」)の成立と受容を中心に」

安永は、和歌山から中辺路・本宮・新宮を経て那智滝へと至る、熊野の参詣道を描いた江戸時代の画巻である伝祇園南海筆「山水図巻」を題材に、地理的にかなり正確な熊野の描写と、表現上の特徴から、絵の筆者と伝承される祇園南海(1676~1751)筆の可能性について、南海の新出作品との比較などから考察しました。また、日本の初期文人画における中国絵画学習や、新たな実景表現との関連性についても指摘しましたが、この図巻が下絵なのかといった問題や、同時代絵画との関わりについても、出席者から様々な意見が寄せられました。
 富澤氏の発表は、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する「近代日本画帖」の調査に基づくものでした。この画帖は現在一枚ずつに切り離されていますが、全部で95面からなり、河鍋暁斎や橋本雅邦、川端玉章といった明治時代に活躍した7名の日本画家が手がけています。富澤氏の研究により、ディーラーのフランシス・ブリンクリー(1841~1912)が当初、河鍋暁斎に100枚の画帖制作を依頼したものの、明治22(1889)年に暁斎が没したことにより、他の6名の画家が制作を分担した経緯が明らかにされました。明治25~26年に来日したアメリカ人実業家チャールズ・スチュワート・スミスがブリンクリーよりこの画帖を購入し、その後スミスの遺族がメトロポリタン美術館に寄贈、今日に至っています。
 なおこの画帖のうち、河鍋暁斎が描いた12面が東京丸の内の三菱一号館美術館で開催されている「画鬼・暁斎」展(2015年6月27日~9月6日)で里帰りし、その下絵(河鍋暁斎記念美術館蔵)とあわせて展示されています。精緻な筆づかいは画帖の中でも傑出して見応えのあるものですので、この機会にぜひご覧ください。

シンポジウム「美術資料情報における大規模化と高度化」への登壇

シンポジウム「美術資料情報における大規模化と高度化」への登壇

 6月6日(土)、アート・ドキュメンテーション学会の年次大会の一環として、シンポジウム「美術資料情報における大規模化と高度化 ── グローバルなデジタル化戦略と学術的専門研究の接点を問う」が国立西洋美術館講堂で開催され、当研究所から田中淳副所長、皿井舞企画情報部主任研究員が発表者として参加しました。本シンポジウムは、国際的に要請されている美術資料情報の大規模化を視野に入れ、国内の情報の専門化・高度化という課題について、関連機関の状況を確認しつつ、議論を深めることを目的としたものでした。
 まずは、国立西洋美術館、オランダ国立美術史研究所(RKD)および当研究所の3アーカイブの構築―東京文化財研究所の取り組み」と題して、当研究所の歴史、アーカイブ活動やデジタル・コンテンツを紹介し、グローバルな水準での情報提供の試み(セインズベリー日本藝術研究所、ゲッティ研究所との連携など)について報告をしました。個々の報告ののちに、報告者によるパネル・ディスカッション、馬渕明子氏(独立行政法人国立美術館理事長)による基調講演などが行われました。
 本シンポジウムは、美術資料情報をめぐる今日の状況において、本研究所が長年に渡って蓄積・保存してきた美術や文化財に関する情報・資料を、いかに研究活動において有効なものであるかを国内外の関係者に改めて提示するとともに、他機関の先駆的な活動を知ることによって、グローバルな水準での情報提供について多くの示唆を得るものでありました。

対談:「かたち」の生成をめぐって―イケムラレイコの場合

対談風景

 ドイツ・ベルリン在住のアーティスト、イケムラレイコ氏の公開対談を、6月9日(火)に行いました。これに先立って、2014年1月に企画情報部では、「「かたち」再考―開かれた語りのために」という国際シンポジウムを開催し、このシンポジウムでもイケムラ氏にご登壇いただきました(詳しくは、報告書を刊行しておりますのでご覧いただけますと幸いです。http://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/120647.html)。
 今回はその第2弾となり、企画情報部の山梨絵美子と皿井舞とがイケムラ氏に質問を投げかけ、それにイケムラ氏が応えるという三者の対談形式でお話を聞いてまいりました。最新作の「うさぎ観音」という高さ3メートルを超えるテラコッタ像の制作コンセプトを皮切りとして、技法、素材やメディアの選択、あるいはコンセプトを実現するための工夫といった実践的なお話に加えて、制作の姿勢、創造の際の内面や葛藤、アートを通して目指す境地など、つくるという営みを、率直に、ぞんぶんに、語ってくださいました。
 絵を描くとき、「対象と自らとが一体化したその瞬間をつかまえる。描きたいのは、ものではない。対象が自分と体につながっている、そういう感覚を捉えたい。それが自分と世界のつながりであり、経験であり、それを絵にするのだ」という言葉が印象的でした。
 対談の内容は、東京文化財研究所のホームページ上で公開する予定にしております。どうぞご期待ください。

アメリカ・ゲッティセンター訪問と共同研究のための協議

Getty Museum
Getty Research Institute 概観

 6月16~17日の2日間、田中淳副所長、企画情報部の皿井舞は、フィラデルフィア在住ビデオアートの研究者である足立アン氏の協力を得て、世界的規模で美術資料や美術研究情報の発信を主導するゲッティ研究所(Getty Research Institute : GRI)を訪問し、共同研究を模索するための協議を行いました。これは、昨年2014年の10月にゲッティ研究所長のトーマス・ゲーケンズ博士をはじめとするスタッフ4名ほかが当研究所を視察されたことを受けて、具体的に連携内容について協議することとなったものです。
 ゲッティ研究所は、ロサンジェルスのサンタモニカの海岸とUCLAのキャンパスを見下ろす小高い丘の上にあります。ゲッティ研究所のほか、ゲッティ保存研究所(Getty Conservation Institute)、5つのパビリオンをもつゲッティ美術館などを擁する複合施設となっており、ゲッティセンターと総称されています。
 ゲッティセンターの設立者ジャン・P・ゲッティは、21世紀の革新的なデジタル技術は、芸術と人文学、自然科学を融合させることを可能にするもので、ゲッティセンターはそのプラットフォームを提供しなければならないという理念を掲げています。その理念にしたがって、ゲッティ研究所は、すべての美術資料へのアクセスを統合するという協力的モデルの形成をめざし、アメリカ国内の各美術館や研究所のみならず、ヨーロッパの美術館・研究所と連携しながら、さまざまなプロジェクトを有機的にまとめ上げていました。
 皿井は、”Approaches to the Creation of Japanese Cultural Properties Database at National Research Institute for Cultural Properties, Tokyo; Tobunken”と題したプレゼンテーションを行い、トーマス・ゲーケンス所長をはじめとして、各部門の主要スタッフに、現在、東文研が取り組んでいる文化財の研究情報の発信について紹介しました。
 当研究所の美術資料デジタルアーカイブや美術家に関するデータベースなどは、ゲッティと連携可能なコンテンツである可能性が高く、ゲッティ研究所のスタッフにも好評を博しました。最終的には両研究所が連携を進めるということで合意を得て、これから覚書を取り交わすこととなります。
 世界につながるゲッティ研究所のポータルサイトから、東文研のデジタルコンテンツが検索できるようになれば、日本の美術や文化財に関する情報が、世界のより多くの方に利用していただけるようになることは間違いありません。引きつづき、今後も東文研の情報発信強化に努める所存です。

矢代幸雄/バーナード・ベレンソン往復書簡等のオンライン展示

「Yashiro and Berenson」オンライン展のトップページ

 当研究所の所長をつとめた美術史家矢代幸雄(1890-1975)は、1921年に渡欧し、同年秋からフィレンツェでルネサンス美術研究家バーナード・ベレンソン(1865-1959)に師事します。師の様式比較の方法を学んで英語の大著『サンドロ・ボッティチェリ』(1925年)を著し、国際的に認められました。1925年に帰国後は、当研究所の前身である美術研究所の設立に参画し、同所を拠点にベレンソンの方法論を用いた東洋美術史編纂に尽力、戦後は大和文華館の開館に準備から関わり、初代館長をつとめました。当研究所では、矢代とベレンソンの往復書簡に関する調査研究を進めて来ましたが、ベレンソンの旧宅を所屋とするハーバード大学ルネサンス研究センターおよび越川倫明氏(東京藝術大学)と共同でこの往復書簡全点114通の翻刻や関連文献等を掲載したウェブ上でのオンライン展示「Yashiro and Berenson-Art History between Japan and Italy」を、6月30日に開始しました(http://yashiro.itatti.harvard.edu/)。往復書簡、書簡に登場する人物一覧、『サンドロボッティチェリ』(1925年)、『私の美術遍歴』(7~10章、1972年)の英訳を含む矢代の著作の英語版、矢代についての論考、ベレンソンによる東洋美術に関する著作、矢代の描いた水彩画やスケッチを含むギャラリーという章立てで、二人の美術史家の交流をうかがえる資料群をご覧いただけます。矢代と書簡からはベレンソンと矢代の個々の活動や師弟関係のみならず、1920年代から50年代までのルネサンス美術研究および東洋美術研究の国際的状況がうかがえます。

企画情報部研究会の開催―南紀下向前の長澤蘆雪―

研究会の様子

 6月30日(火)、企画情報部では、マシュー・マッケルウェイ氏(コロンビア大学)を招いて「南紀下向前の長澤蘆雪―禅林との関わりをめぐって―」と題した研究発表がおこなわれました。
 江戸時代の中期に活躍した画家である長澤蘆雪(1754~99)は、師である円山応挙の代役として、天明6年(1786)から翌7年にかけて紀州の南(南紀)にある禅宗寺院をいくつか訪れ、わずか数か月の間に大量の襖絵を描いたことで知られています。この南紀での経験は、蘆雪が独自の画風を獲得する大きな契機となりましたが、南紀下向以前の蘆雪の動向や学画状況については、不明な点も少なくありません。マッケルウェイ氏は、現在、海外で所蔵されている蘆雪作品の賛者や合作などの詳細な分析から、蘆雪が南紀に下向する以前より、斯経慧梁や指津宗珢といった妙心寺の禅僧と親交があったことを指摘し、それらを念頭に、蘆雪が南紀の寺院で描いた襖絵の画題を検証することで、妙心寺の襖絵から何らかの着想源を得た可能性を指摘されました。南紀以前の作例が少ない蘆雪研究の現状にあって、非常に有意義で魅力的な説が提示され、発表後には、マッケルウェイ氏が紹介された在外の蘆雪作品についても、活発な意見交換がおこなわれました。こうした在外作品の紹介は、東京文化財研究所にとっても重要な情報となりましたし、また、今後のさらなる研究の進展も期待されます。

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