研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


第6回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 10月25日に開催した本年度第6回の文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部広領域研究室長・小林公治が物質文化史の立場から、「慶長期後半から寛永期前半にかけて流行した漆器文様・技法―絵画資料と伝世漆器との対話―」と題する発表を行いました。この発表では、まず川越市喜多院が所蔵する重要文化財職人尽絵屛風の「蒔絵師」図、そして喜多院本系職人尽絵であるサントリー美術館本・前川家本の同図の描画内容とを比較・検討の上、これら諸本の制作が17世紀前半であるというこれまでの見解を再確認し、さらに徳川美術館が所蔵する重要文化財の「歌舞伎図巻」と「邸内遊楽図(相応寺屛風)」などを対象に、これまでの諸論で指摘されていないいくつかの観点から、その景観年代を、前者は慶長期末から元和期初め(1610年代)にかけて、後者は寛永期前半頃(寛永7(1630)年前後)と見るのが妥当であること、またこれらの風俗画には当時の生活実態がかなり克明・正確に描写されていると認め得ることを指摘しました。
 その上で、これらの絵画には大ぶりの葡萄文や藤文を持つ漆器、銀蒔絵技法の漆器がたびたび描かれていることから、慶長期後半から寛永期前半にかけての17世紀前半にはこうした漆器文様・技法が流行していた可能性が高く、また大ぶり葡萄文や藤文を描く伝世の蒔絵漆器や南蛮漆器、また銀蒔絵漆器についても、この時期の作である蓋然性が高いという見方を提示しました。
 近世初期風俗画の描画内容・表現と歴史実態との関係については、これまでも美術史学者や歴史学者などによる様々な見解がある未解決の問題ですが、本研究発表後の討議でも特にこうした点が取り上げられ、参加者それぞれの立場からの活発な議論が行われました。

山下菊二関連資料の受入

山下昌子旧蔵資料の一部

 画家山下菊二(1919-1986)夫人である山下昌子氏(1926-2014)の旧蔵資料を関係者から9月30日付でご寄贈いただきました。山下菊二は昭和時代を代表する画家のひとりで、その作品や関連作品、資料などは、これまでに板橋区立美術館、神奈川県立近代美術館、徳島県立近代美術館に寄贈されておりますが、この度、当研究所にご寄贈いただいた資料は、昌子氏が逝去するまで手元に置いていたものになります。分量は、書架の長さにしておよそ6メートルになり、このなかには、菊二が撮影したと思われる写真、作品の材料として切り取られた資料など作家の研究・理解の重要な手がかりとなるものだけでなく、第二次世界大戦に応召し従軍した際や東宝映画教育映画部に勤務していたころの写真資料など広く日本近代史を考えるうえでも貴重な資料も含まれています。
 当部ではこれまでも新海竹太郎や香取秀真ら近代美術家のアーカイブズを受け入れ、資料閲覧室などを通して利用に供していますが、今回ご寄贈いただいた山下昌子旧蔵資料も個人情報、プライバシー、あるいは資料保全の問題を配慮しつつ、来年3月ごろから閲覧できるよう整理を進めております。

EAJRS(日本資料専門家欧州協会)第27回年次大会「日本資料図書館の国際協力」への参加

EAJRS(日本資料専門家欧州協会)第27回年次大会の様子

 9月14日から17日にわたって、ルーマニアのブカレスト大学中央図書館において、EAJRS(日本資料専門家欧州協会)の年次大会が開催されました。EAJRSは、おもにヨーロッパなどで日本研究資料を取り扱う図書館員、大学教員、博物館・美術館職員などの専門家で構成されているグループで、今年の年次大会は「日本資料図書館の国際協力」と題され、11のセッションにて、日本研究の歴史、日本資料コレクション形成史、日本人司書海外派遣事業、海外日本研究司書招へい事業、デジタル・ヒューマニティーズの最新動向、和古書保存プロジェクトなど多岐にわたる発表・報告が行われました。(詳細はEAJRSサイト(http://eajrs.net/)を参照ください)。筆者の発表は、「東京文化財研究所における「文化財に関する専門的アーカイブの拡充」 : 『日本美術年鑑』のコンテンツを国際的学術基盤へ」というタイトルで、本年度取り組んでいるOCLCへのデータ提供など情報発信に関する事業を紹介するもので、発表後の意見交換では、当所が蓄積してきた研究情報の発信を期待する声が数多く寄せられました。また大会期間中には、会場ロビーにて、関連機関・会社による展示ブースが設置され、本会ならではの情報共有・広報活動が行われました。最終日17日の総会では、来年2017年大会がノルウェーのオスロに決定し、今大会は終了しました。日本文化財情報のアクセシビリティ向上について多くの示唆を得ることができ、また日本研究情報発信という大きな枠組みになかでの当所のアーカイブ活動を考える、よい契機となりました。

文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛、養母貞子の書簡を読む

黒田清輝と養母の貞子
黒田清輝宛、明治19(1886)年7月9日付貞子書簡(部分)

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部ではその翻刻と研究を進めていますが、なかには黒田の家族との間で交わされた書簡の類も含まれています。そのような家族間のやりとりにも目を向けようと、8月30日の部内研究会では当部研究補佐員の田中潤氏が「黒田清輝宛、養母黒田貞子書簡の翻刻と解題」と題して研究発表を行ないました。
 黒田貞子(1842~1904年)は清輝が養嗣子となった黒田清綱の妻で、養母として清輝を幼少期より育てた女性です。フランス留学中に清輝が貞子宛に送った書簡については、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版、昭和41(1966)年)の中ですでに翻刻され知られていましたが、今回の研究会では貞子が清輝に宛てた書簡70余通が紹介されました。黒田の貞子宛書簡がそうであったように、貞子の書簡も平易なかな文字で口語体を交えて記されています。内容も留学中の黒田へ家族の近況を事細かに知らせるものが多く、また夫清綱の意向を伝えるなど、父子間の潤滑油の役割を果たしていたようです。とりわけ法律家を志して渡仏した清輝が画家への転身を決心した際には、「ま事ニゝゝゝよいおもひつきだよ」(明治19(1886)年7月9日付書簡)と清綱とともにその背中を後押ししているのが注目されます。そんな養父母の心の支えがあってはじめて画家・黒田清輝は誕生した、といっても過言ではないでしょう。今回の研究会は、黒田の画業を語る上で、家族の絆もまた重要な位置を占めていることを再認識する機会となりました。

「美術工芸品を中心とする文化財情報の国内外への発信にかかる基盤形成事業」の実施に 関する協定の締結

OCLC WorldCat 検索結果画面

 東京文化財研究所は、2016年6月27日、国立西洋美術館と「美術工芸品を中心とする文化財情報の国内外への発信にかかる基盤形成事業」の実施に関する協定を締結しました。国立西洋美術館は実業家松方幸次郎のコレクションを基に1959年に設立され、その所蔵品データベースは、美術史研究で求められる要件を兼ね備えたものとして、国内外の専門家にその規範となるものと高く評価されています。このたびの協定の目的は、国立西洋美術館がもつ情報発信の手法と経験を活用して、当研究所がインターネット上で公開している日本国内の文化財情報の発信を強化することにあります。協定締結に基づく最初の事業として、当研究所が編集発行する『日本美術年鑑』に収録されてきた「日本国内で刊行された展覧会カタログに掲載された文献の情報」を、世界的な図書館サービス機関OCLC (Online Computer Library Center, Inc.) に提供することを計画しています。このような事業により、海外における日本美術に関する研究情報へのアクセ ス環境の改善に取り組んでいきます。

第40回世界遺産委員会への参加

会場となったイスタンブール・コングレス・センター
審議の様子

 第40回世界遺産委員会は2016年7月10日からトルコのイスタンブールで開催され、当研究所からは2名の職員が参加しました。
 国立西洋美術館を構成資産に含む「ル・コルビュジエの建築作品」は2009年以来3回目の審議で、今回は諮問機関が世界遺産一覧表への記載を勧告していたため、翌日の審議がほぼ確実となった7月15日夕方には、関係者の間でも記載への期待が高まりました。しかし、15日夜から16日未明にかけての軍によるクーデター未遂の影響で、16日の審議は中止、1日遅れて17日に記載が決議されました。審議時間短縮のため記載勧告案件では委員国の発言が認められず、この推薦に対する各国の意見を聞けなかったのは残念です。
 ところで、今回の世界遺産委員会での審議対象の推薦から、諮問機関による中間評価が関係締約国へ通知されるようになりました。評価を受けて締約国は推薦書を改訂し、最終評価に臨むことが可能です。締約国の対応は分かれました。推薦を取り下げる締約国がある一方、推薦書を大幅に改訂して審議に臨み、諮問機関の勧告を覆して記載が決議された例もあり、今後も推薦とその評価のあり方を巡っての議論が続くと思われます。
 なお、委員会の会期は7月20日までの予定でしたが、17日でいったん中断されました。委員会は2016年10月24日~26日にパリのユネスコ本部で再開され「紀伊山地の霊場と参詣道」を含む世界遺産一覧表記載資産の軽微な範囲の変更や、作業指針の改訂などに関する審議が行われる予定です。

文化財情報資料部研究会の開催―栗原玉葉に関する基礎研究

栗原玉葉《噂のぬし》大正3年、『第八回文部省美術展覧会出品絵葉書』より
栗原玉葉《清姫物語 女》、大正10年、『第三回帝国美術院展覧会出品絵葉書』より

 6月28日、文化財情報資料部では、「栗原玉葉に関する基礎研究―その生涯と作品について―」と題して、田所泰(文化財情報資料部)による発表が行われました。
 大正期に文部省美術展覧会(文展)などを中心に活躍した日本画家・栗原玉葉は、幼い少女や芝居に取材した女性像などを描いた作品を多く残しています。生前は東京一の女性画家と目され、京都の上村松園に対して東京の栗原玉葉とまで呼ばれる存在でしたが、現在では知名度も低く、研究もほとんどされていません。田所の発表では、図版の残っている展覧会出品作品を中心に玉葉の画業を概観し、その上で作品に見られる表現の変遷や、当時の画壇における玉葉の位置づけについて考察しました。美術雑誌や展覧会図録等のほかに、女性向け雑誌に掲載された作品の写真図版から、多くの現存作品の制作年や展覧会出品歴が明らかとなり、それらを踏まえて画業を概観したことで、玉葉が大正5(1916)年頃を境に画題を幼い少女像から芝居などに取材した女性像へと変化させていったことがわかりました。また、晩年の玉葉作品には、師である松岡映丘からの影響が、とくに色彩面に強く現れていることを示し、とりわけ金泥の使い方では、それまでには見られない独特の表現が試みられていることを指摘しました。こうした自身の制作のほかに、玉葉は多くの弟子を抱え、他の女性画家とともに女性日本画家団体・月耀会を結成するなど、当時の画壇、とりわけ女性画壇において大きな役割を果たしていたことが明らかとなりました。
 なお、今回の研究会には、コメンテーターとして、玉葉に詳しい長崎歴史文化博物館の五味俊晶氏をお招きしました。五味氏からは玉葉研究の現状や、長崎に現存する作品、また玉葉のご遺族などについて、貴重なご教示をいただきました。そのほか、実践女子大学の児島薫氏、佐倉市立美術館の山本由梨氏を交え、「女性画家」や「美人画」といった問題に関して、活発な意見交換が行われました。

「特別展 生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠」の開催

展覧会会場―黒田清輝のアトリエ再現と《昔語り》下絵類の展示
展覧会会場―東京駅帝室用玄関壁画再現のコーナーから《智・感・情》を望む

 日本美術の近代化のために力を尽くし、また当研究所の設立に大きく寄与した洋画家、黒田清輝(1866-1924)が生まれてから今年は150年目にあたります。これを記念して3月23日から5月15日まで「特別展 生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠」が東京国立博物館平成館で開催されました。開所以来、黒田の調査研究を継続して行なってきた当研究所も主催者としてその企画構成にたずさわり、これまでの研究成果を反映した展覧会となりました。
 本展では《読書》や《湖畔》といったなじみ深い代表作はもちろん、フランス留学中の作品にはじまり、黒田が主導した白馬会や文展の出品作、晩年の小品に至るまで200点余の黒田作品が一同に集結しました。また本展ならではの試みとして、黒田が留学中に影響を受けたフランスの画家の作品や、黒田と関わりのあった日本の洋画家の作品もあわせた展示を行ないました。とくにフランス絵画については、ゲストキュレーターにフランス近代美術を専門とする三浦篤氏(東京大学)をむかえ、黒田が私淑したジャン・フランソワ・ミレーの《羊飼いの少女》(オルセー美術館蔵)や黒田の師であるラファエル・コランの《フロレアル(花月)》(同館蔵、アラス美術館寄託)などフランスからの出品もあり、黒田をはじめとする日本の洋画家の作と比較することで、黒田が西洋美術の本流から何を学び、日本へもたらそうとしたのかをうかがう、よい機会となりました。
 本展では黒田のオリジナル作品をご覧いただく一方で、《朝妝》や《昔語り》といった戦災により焼失した作品については原寸大の画像を展示しました。とくに黒田の構想のもとに大正3年に完成した東京駅帝室用玄関の壁画は、昭和20年の空襲により焼失しましたが、残された写真をもとに当時の東京駅の映像も交えて、その雰囲気を体感するコーナーを設けました。
 お花見の季節からゴールデンウィークにかけての会期で、また各メディアでご好評をいただいたこともあり、本展は約18万2千人もの方々にご来場いただきました。本展を機に、日本近代美術における黒田の存在の大きさをあらためて実感していただけたのではないかと思います。本展は黒田の画業と生涯を総覧する機会となりましたが、その一方で当研究所が所蔵する黒田宛書簡など、黒田清輝についてはこれから解明すべき資料も残されています。当研究所では今後とも黒田に関する調査研究を進め、その成果を『美術研究』誌上やウェブサイトを通じて公開してまいりたいと思います。

文化財情報資料部研究会の開催―「滋賀・鶏足寺 七仏薬師如来像の造像をめぐる一考察」

研究会の発表の様子

 文化財情報資料部では所員だけでなく、他機関の研究者を発表者に向かえ、毎月1回、美術工芸品を中心とした文化財を考察対象する研究会を開催しています。5月は31日(火曜日)に開催いたしました。発表は東京国立博物館アソシエイトフェローの西木統政(にしきまさのり)氏を迎え、標記のタイトルでのご発表をいただきました。
 今回取り上げた滋賀・鶏足寺(けいそくじ)伝来の木造七仏薬師如来立像は、現存する七仏薬師如来像の稀有な作例として存在は早くから知られていましたが、これらを考察の対象として本格的に取り上げることはほとんどありませんでした。
 発表では、七尊各像の現地における実査による知見を踏まえ、本七尊像が天台系の七仏薬師如来立像の遺例であるとの認識のもと、漆箔を用いない素木(しらき)像であることに留意して、その規範を比叡山延暦寺一乗止観院根本中堂内に安置されていた木造の七仏薬師如来立像(逸亡)に求めるとともに、その当地での再現であるとの認識のもと考えるところを披瀝していただきました。
 発表後は研究会に参加者との活発な質疑応答・意見交換をあわせて行いました。

研究会「アート・アーカイヴのいま」の開催

研究会の様子

 研究会「アート・アーカイヴのいま」を5月14日に開催しました。この研究会は、現代ドイツのアート・アーカイヴ活動を主導するアーキヴィストで美術史学者ビルギト・ヨース氏(カッセル・ドクメンタ・アーカイヴ次期所長、ニュルンベルク・ドイツ民族博物館・ドイツ芸術アーカイヴ前所長、ベルリン・学術アカデミー・アーカイヴ前所長)をお迎きして、「アーカイヴ」の意義と課題を問うことを趣旨とするものでした。
 当日は、まず前田富士男氏(中部大学客員教授、慶應義塾大学名誉教授)から「芸術図書館とアーティスト・アーカイヴ―ドイツの伝統と〈アイコニック・ターン〉」と題してドイツにおけるアーカイヴの歴史などを紹介いただき、ヨース氏のご講演「ドイツにおけるアート・アーカイヴ―その概要」ではドイツの代表的なアート・アーカイヴを「Archives of Artists‘ Personal Papers」「Regional Art Archives」「Art Archives Focused on Particular Subjects」「Museum Archives」「Archives for Individual Artists」「Documentation Centers」に分類し、それぞれの特徴、設立背景などをご紹介いただきました。全体討議では、聴講者との活発な質疑応答が交わされ、ドイツと日本で共通する課題も挙がり、盛況裡に閉会いたしました。また研究会に先立って、ヨース氏ら関係者に、当研究所の資料閲覧室、書庫の視察をしていただき情報交換を行いました。
 なお、この研究会はアート・ドキュメンテーション学会美術館図書室SIGと当研究所との共催で、神奈川県立近代美術館と吉野石膏美術振興財団の後援をいただき、またJSPS科学研究費補助金「ミュージアムと研究機関の協働による制作者情報の統合」(研究代表者丸川雄二氏(国立民族学博物館))の一環の催事でもありました。研究会全体のモデレータは、川口雅子氏(国立西洋美術館)、皿井舞(当研究所文化財情報資料部)が務めました。

文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む

黒田清輝(左)と五姓田義松(右)
「文展出品者親睦会出席者紀念撮影」(『美術新報』12巻2号 大正元年12月)より

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部では所外の研究者のご協力をあおぎながら、その翻刻と研究を進めていますが、その一環として4月21日の部内研究会では、神奈川県立歴史博物館の角田拓朗氏に「黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む―人間像、東京美術学校、明治洋画史」と題して研究発表をしていただきました。
 明治前期を代表する洋画家の五姓田義松(1855~1915年)は、角田氏による展覧会や研究書を通して、近年その再評価・再検討が進められています。町絵師の家に育った義松は黒田清輝よりも早く渡仏し、サロンに入選するなどその才能を発揮しますが、明治22(1889)年の帰国後は目立った活動もなく、美術の表舞台からは忘れられた存在として扱われてきました。今回の発表は、黒田清輝に宛てられた明治41年以降の書簡25通を通して、これまで語られることの少なかった義松の後半生にメスを入れようとするものでした。書簡の多くは自らの旧作を東京美術学校に売却しようと、同校教授の黒田に仲介を頼む旨が記されています。一世代上の義松らに取って代わり、当時の洋画壇を牽引していた黒田ですが、黒田が奉職した東京美術学校の洋画コレクションには義松の滞欧作《操芝居》をはじめとする明治前期の洋画が数多く含まれており、明治前後期を通しての洋画の流れを概観することができます。角田氏の発表は、義松と黒田の立場の違いを越えた交流に、明治洋画史の形成という積極的意義を見出そうとする試みであり、その経緯を伝える書簡類の重要性にあらためて気づかされました。

当研究所名誉研究員中村傳三郎旧蔵資料の受入

中村傳三郎旧蔵資料の一部

 当研究所名誉研究員中村傳三郎(1916-1994)の旧蔵資料を、ご遺族の中村徹氏から4月30日付でご寄贈いただきました。傳三郎は、1947年から国立博物館附属美術研究所(現東京文化財研究所文化財情報資料部)に奉職し、1978年の退官までに当研究所に在籍された近代日本彫塑の研究者で、オーギュスト・ロダン、荻原守衛、平櫛田中、新海竹太郎、北村西望らの作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査を行い、日本近代彫塑史における実証的研究の先鞭をつけました。また彫塑・立体造型を主とする同時代美術の動向の調査研究にも従事し、批評活動も展開して、作家の創作活動に大きく寄与しました。今回ご寄贈いただいた資料は、1)碌山美術館出版物・碌山美術館関係書類、2)荻原碌山関係資料、3)高村光雲・光太郎・豊周関係資料、4)新海竹太郎関係資料、5)二科会七十年史関係資料、6)美術研究所・東京国立文化財研究所関係資料、7)開国百年記念文化事業会関係資料、8)「日本金属造形作家展」関係資料で構成され、いずれも近現代彫塑史研究の重要な資料です。
 こういった特定の人物や組織によって生成された文書群(アーカイブズ)は、研究資源としての価値を広く認められており、関係者の間で近年さかんに、どのように散逸を防ぎ、活用する環境を整え、また後世へ遺すかといった議論が行われています。当部ではこれまでにも矢代幸雄、梅津次郎、川上涇、久野健、高田修、田中一松ら元職員のアーカイブズを積極的に受け入れ、科学研究費助成事業「諸先学の作品調書・画像資料類の保存と活用のための研究・開発―美術史家の眼を引き継ぐ」(研究代表者:田中淳、基盤研究(B)2009-2012年度)の取り組みなどによって整理を進め、資料閲覧室を通して利用に供してきました。今回ご寄贈いただいた中村傳三郎旧蔵資料も個人情報、プライバシー、あるいは資料保全の問題を配慮しつつ、今年9月ごろに公開できるよう整理を進めております。

田中淳副所長の退職記念講演会

岸田劉生について語る田中淳副所長

 当研究所内の研究者間で行なわれる総合研究会の一環として、本年度をもって退職する田中淳副所長の講演会が3月1日に催されました。田中は平成6年より当研究所に在籍して近現代美術の調査研究にたずさわり、とくに明治から大正にかけての日本の近代洋画について数々の論考を発表、『太陽と「仁丹」 1912年の自画像群・そしてアジアのなかの「仁丹」』(ブリュッケ、平成24年)等の著作があります。
 「近代日本美術の基層をめぐって―岸田劉生を中心に」と題した講演は、洋画家の岸田劉生と、劉生をとりまくコレクターとの関係を、創作活動を支える「基層」としてとらえ、考察するという、上記著作でも貫かれた数年来の研究姿勢に根ざしたものでした。現在の住友グループの基礎を築き、また美術品収集家としても知られた住友春翠の長男である住友寛一や、当研究所の前身である美術研究所の所員だった尾高鮮之助らとのネットワークのなかで、洋画家の劉生が明清画や浮世絵といった東洋美術へと傾倒する様子が、地道な調査に基づく諸資料によって浮き彫りにされました。
 講演会には所員の他、当研究所で田中とともに調査研究にあたった研究所OBの方々にも大勢お出でいただきました。講演の後に催された懇親会は、さながら同窓会のような和やかな雰囲気に包まれました。
 なお田中副所長は退職後、当研究所名誉研究員、文化財情報資料部客員研究員として、引き続き当研究所のためにご協力いただくことになります。

平成27年度における東文研アーカイブワーキンググループの活動

 東京文化財研究所では、2013年度よりアーカイブワーキンググループを発足し、当所が取り組んできたさまざまな文化財研究の成果を、より広く効果的に発信していくことに一層の力を入れることとなりました。
 その一環として2014年度には、当所が蓄積してきた膨大な研究情報や情報資源を整理して公開を促進するために新しいシステムの構築を行い、さらに既存の所蔵資料データベースの検索システムを「東文研総合検索」(http://www.tobunken.go.jp/archives/)としてリニューアルいたしました。利用者からは、文化財に関する諸情報の検索が便利になったため、アクセスできる情報の幅が広がった等の感想を得ています。
 2015年度には、1930年の開所より現在まで当所が刊行してきた研究成果物の全貌を把握できるよう、当所のウェブサイト上に「東京文化財研究所刊行物一覧」(http://www.tobunken.go.jp/japanese/publication/)のページを設けました。今後はこの研究成果の一覧を軸にしながら、ウェブ公開の可能な刊行物に関しては、順次PDFなどを掲載することとなっています。またそうした研究成果は、当所のウェブサイト上だけではなく、国立情報学研究所が推進している「オープンアクセスリポジトリ」にも搭載し、より多くの人々に利用していただきやすい環境を整備いたします。
 また昨今では、オープンサイエンスに関する方針が内閣府より出されるなど、自然科学に関する学術情報のオープン化についても新たな局面が訪れつつあります。刊行物という媒体には掲載できなかった、自然科学の実験データや有用な挿図などの扱いについても、アーカイブワーキンググループで積極的に議論していく予定です。

企画情報部研究会の開催―「狩野山雪筆「武家相撲絵巻」一巻について」

企画情報部研究会

 企画情報部では所員だけでなく、他機関の研究者を発表者として迎え、毎月1回、美術工芸品を中心とした文化財を考察対象にした研究会を開催しています。3月は29日(火)に東京国立博物館絵画・彫刻室主任研究員・山下善也氏に標記のタイトルでご発表をいただきました。この絵巻は両国・相撲博物館に所蔵される全長12メートルを超えるものです。これまでこの絵巻の存在は周知されるまでには至っていませんでしたが、山下氏が京都国立博物館在職中に企画された特別展覧会「狩野山楽・山雪」(会期は平成25年3月30日~5月12日)において、山雪の作と認めて出陳・公開がなされ、漸くその存在が知られるようになった作品です。
 今回の発表では、まず本作が漢画題の作品で形成されてきた山雪のイメージを変える和の画題であることに注目しつつ、「河津掛け」ほか様々な相撲の決まり手の一瞬とそれを観戦する人々の様子を切り取って描いた諸場面を順次仔細に眺めながら、そこに描かれた人物表現の、ことに面貌描写に山雪の特徴を見出すとともに、山雪の嗣子・永納による奥書に着目し、山雪の支持層の問題に及んでの本作の成立事情について、氏の考えるところを披瀝いただきました。

ゲッティ研究所(アメリカ)と協定書を締結

調印式の様子

 東京文化財研究所は、2016年2月9日、アメリカ、ロサンゼルスにあるゲッティ研究所と日本美術の共同研究推進に関する協定書を締結しました。ゲッティ研究所は実業家ポール・ゲッティ氏の遺産を基に1984年に設立され、美術を中心とする芸術の研究と国際交流を行っています。このたびの協定は、今後5年間に渡り、両機関における日本美術の研究者交流、美術史の日英語の文献の翻訳と出版、日本美術に関するデジタル情報のGetty Research Portalへの公開を行なおうとするものです。
 調印式でゲッティ研究所長のトーマス・ゲーケンス博士は「本協定を重要なものと位置付けており、今後、両機関にとって有益な事業が行われることを希望しています」と述べました。また、東京文化財研究所の亀井所長は「日本国内で所蔵する美術資料と、海外での日本美術の評価についての情報交換をすることは大変有意義な日本文化の発信であり、今後の発展に繋げたい」と応じました。調印後、両機関の当該事業担当者間での現場レベルの協議が行われました。
 東京文化財研究所では今回の協定締結に基づき、今後、両機関の研究交流、英語圏の日本美術史研究に資する日本美術研究書の翻訳および現在ウェブ公開している研究情報の国際標準化を進めていく予定です。

企画情報部研究会の開催―光琳の「道崇」印作品について―

 2016年2月23日(火)、企画情報部研究会において、江村知子(文化遺産交際協力センター)による「光琳の「道崇」印作品について―尾形光琳の江戸滞在と画風転換」と題した研究発表がおこなわれました。
 尾形光琳(1658-1716)が画中に捺す印章には、年代による変遷があるとされ、光琳の初期の代表作「燕子花図屛風」(根津美術館)に捺されるのは「伊亮」印、晩年の傑作「紅白梅図屛風」(MOA美術館)に捺されるのは「方祝」印です。「道崇」印は、「伊亮」印と「方祝」印の間の時期に用いられた印章で、光琳は、この時期、数回にわたり江戸に滞在し、画風転換を果たしたとされます。「道崇」印を有する作品には、宝永2年(1705)の軸芯墨書のある「四季草花図巻」(個人蔵)、「波濤図屛風」(メトロポリタン美術館)、「躑躅図」(畠山記念館)などがありますが、今回の発表では従来ほとんど知られていなかった6曲1隻の「白梅図屛風」(フリーア美術館蔵)を取り上げ、その表現に、晩年の「紅白梅図屛風」へとつながる要素があることが指摘されました。「白梅図屛風」の画面は損傷が多く、筆致にも試行錯誤の跡が顕著ですが、光琳は、江戸滞在期に水墨画の表現を習得したようで、そうした問題とも関連する可能性があります。発表後は、印の改号や、屛風の形状、水墨表現との関連性などについて活発な議論が交わされました。今後は、「白梅図屛風」の詳細な調査が待たれます。
 なお、尾形光琳「白梅図屏風」(フリーア美術館)は、下記のウェブサイトで画像が見られます。 http://www.asia.si.edu/collections/edan/object.php?q=fsg_F1905.19

英国セインズベリー日本藝術研究所におけるプロジエクト協議と田中副所長の講演

セインズベリー日本藝術研究所主催のThird Thursday Lectureで講演する田中副所長

 イギリス・ロンドンの郊外、ノリッジに所在するセインズベリー日本藝術研究所(Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures; SISJAC)は東京文化財研究所と2013年7月にプロジェクト「日本芸術研究の基盤形成事業」を立ち上げ、以来、欧米の日本美術の展覧会や日本美術に関する書籍・文献の英語情報の収集を行っています(これらの文献情報については当研究所の「総合検索」において検索が可能です。http://www.tobunken.go.jp/archives/文化財関係文献(統合施行版)/)。
 本事業に関する、今年度の進捗状況の確認と次年度以降の事業の継続について、副所長・田中淳と企画情報部文化財アーカイブズ研究室長の津田徹英は、2月16日から21日の日程で渡英し、SISJAC総括役所長・水鳥真美氏ならびに入力スタッフと協議を行いました。
 あわせて滞在中の18日(木)には、SISJACが毎月第3木曜日に行っているThird Thursday Lectureにおいて、田中が“The Portrait, painted in 1916”のタイトルで岸田劉生の肖像画をめぐっての講演を行いました。講演はSISJACに隣接する中世の大聖堂に付属して新しく建てられた木造のレクチャールームを会場にして行われました。聴講は100人近くに及び、用意された席はほぼ満席の状態でした。聴講者はいずれも熱心に講演に耳を傾け、日本の近代美術への関心の高さが窺がわれました。

研究会「美術史家矢代幸雄における西洋と東洋」の開催

研究会の様子

 企画情報部では当研究所の前身である美術研究所の設立に大きな役割を果した矢代幸雄が西洋美術史、日本・東洋美術史の分野で果した役割を多角的に検討する研究会「美術史家矢代幸雄における西洋と東洋」を、1月13日に「ベレンソンと矢代幸雄をつなぐ両洋の美術への視点」(山梨絵美子、当所企画情報部)、「東洋人の眼から見たサンドロ・ボッティチェリ―矢代の1925年のモノグラフ」(ジョナサン・ネルソン、ハーヴァード大学ルネサンス研究所)、「矢代幸雄著『受胎告知』を再読する」(越川倫明、東京藝術大学)、「矢代幸雄の絵巻研究」(髙岸輝、東京大学)、「矢代幸雄と1930-45年代の中国美術研究」(塚本麿充、東京大学)というプログラムで、美術史家・高階秀爾氏をコメンテーターにお招きして開催しました。
 ネルソン氏は矢代が大著『サンドロ・ボッティチェリ』によって西洋美術史学に作品の部分写真による様式分析という新しい方法をもたらしたこと、その方法が明治期の日本の美術雑誌の図版やその製作過程に源を持つことを指摘され、越川氏は帰国後に西洋美術史家として矢代が著した『受胎告知』が、日本における西洋キリスト教美術のイコノグラフィー研究の先駆的事例であったこと、また、同書がウォルター・ペイターの審美主義を直接的に受け継ぐものであることを指摘されました。髙岸氏は日本美術史家として絵巻の特殊な画面形式を世界の美術の中にどう位置づけるかという点に強い関心を示した矢代の絵巻研究者としての位置づけを述べられ、塚本氏は欧米、日本、中国で各々異なる中国美術史観が確立されている現状を指摘され、矢代が1935-36年のロンドン中国芸術国際展覧会を経験し、欧米の中国美術ブームと日本における唐物研究を折衷させる中国美術史観を確立させたことの影響について述べられました。発表後、ディスカッションが行われ、洋の東西をまたいで国際的に活躍した矢代のしごとの意味を再考する場となりました。

企画情報部研究会の開催―「「紅白芙蓉図」改装の可能性と受容について」

企画情報部研究会

 企画情報部では、2015年12月22日、研究会を開催し、保存修復科学センターの石井恭子が「「紅白芙蓉図」改装の可能性と受容について」と題して発表を行いました。中国・南宋時代の絵画で李迪の落款(1197年)がある東京国立博物館蔵の国宝・「紅白芙蓉図」に関するものです。発表では赤外線やX線などを含む各種光学調査による細部の描写や後世の補彩に関する知見が報告され、また、残された損傷の詳細な地図から考えられる改装の可能性が述べられました。両図にはそれぞれ大きな縦折れの痕跡があります。現在は白と赤の芙蓉図が掛幅装の対幅として伝えられていますが、この縦折れと補彩からは、はじめこの絵が画巻として作られたものであり、トリミングされた上で掛幅とされた可能性が考えられます。さらに江戸時代初めにはすでに各図が独立したものであったと考えられ、日本で独自の価値が付加されたことも言及されました。両図の大きな二本の縦折れは、各図等間隔で、通常の画巻に生じる縦折れと性質が異なっています。これが生じたことにはどのような可能性が考えられるか、画巻であったとすると現状の落款に疑問が生じないか、など興味深い問題点が明らかになり、このような諸点について活発な議論を行うことができました。

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