研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


「富岡製糸場と絹産業遺産群」世界遺産登録10周年記念国際シンポジウムへの参加

会場となったアントニン・レーモンド設計の群馬音楽センター(1961)
パトリシア・オドーネル氏によるキーノートスピーチ(「ヘリテージ・エコシステム」の論点の提案)
4組に分かれて行われたグループディスカッションの様子(グループC)

 令和7(2025)年1月10日と11日、高崎市の群馬音楽センターにおいて、ユネスコ世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」(以下、富岡)の登録10周年を記念する国際シンポジウムが開催され、東京文化財研究所から3名の職員が参加しました。このシンポジウムは、群馬県と日本イコモス国内委員会の共催により、「富岡」の登録後の取組みと意義を振り返るのみならず、「奈良文書」が採択された1994年の世界遺産条約におけるオーセンティシティに関する奈良会議から30年を迎える節目を捉えて、複雑化する21世紀の社会的課題に適応した遺産のオーセンティシティのあり方を問うことがテーマに掲げられました。なお、当研究所が事務局を務める文化遺産国際協力コンソーシアムでは、去る11月に「奈良文書」30周年を記念した研究会とシンポジウムを開催したところです(文末リンク参照)。
 シンポジウムの統括責任者を務めた前イコモス会長で九州大学名誉教授の河野俊行氏の問題意識から、21世紀の社会と遺産をつなぐキーワードとして「ヘリテージ・エコシステム(heritage ecosystems)」が提唱され、プログラムも通常のシンポジウムの形式によらず、招待研究者・専門家によるキーノートスピーチのほか、自主参加の研究者・専門家による4組のグループディスカッションを並行して行うかたちが取られました。招待発表者は8か国14名、自主参加者は19か国約80名に上り、一般参加を加えたおよそ120名の大半を外国からの参加者が占める国際色豊かな会議となりました。
 「ヘリテージ・エコシステム」は、まだ馴染みの薄い概念ですが、このプログラムの中では「地域の豊かな文化的環境を成り立たせる多様な要素の循環関係や有機的な関係全体を意味するもの」と説明されています。キーノートスピーチでは、現在も県内で生糸や絹製品の生産販売を行う碓氷製糸株式会社取締役の土屋真志氏や、蚕を利用した医薬品・ワクチンの研究開発に取り組む九州大学教授の日下部宜宏氏の発表に象徴されるように、「富岡」を今も息づく絹産業の「ヘリテージ・エコシステム」の中に捉え直すことに主眼が置かれ、従来の文化財保護分野の会議とは視点が大きく異なる論点が提示されました。グループディスカッションでは、前イコモス文化的景観国際学術委員会長で造園家のパトリシア・オドーネル氏がキーノートスピーチの中で提案した「ヘリテージ・エコシステム」の考え方に関する四つの論点、1.自身の専門分野や活動領域との関係性、2.新たな機会創出の可能性、3.地域社会や遺産保護にもたらすメリット、4.遺産のオーセンティシティの認識に及ぼす影響、をもとに各組において自由闊達な議論が展開されました。最後に、キーノートスピーチでの問題提起やグループディスカッションの成果などを反映させるかたちで「ヘリテージ・エコシステムに関する群馬宣言」がまとめられ、会議は幕を閉じました。
 当研究所では文化遺産国際協力コンソーシアムの活動とともに、こうした国際会議への積極的な参加を通じて、今後も文化遺産の国際関係に関する情報収集と文化遺産国際協力に係るネットワーク構築に努めていきます。

参考リンク
・文化遺産国際協力コンソーシアム第35回研究会:文化遺産保護と奈良文書-国際規範としての受容と応用- 
https://www.jcic-heritage.jp/news/35seminar_report/
・文化遺産国際協力コンソーシアム令和6年度シンポジウム:「モニュメント」はいかに保存されたか-ノートルダム大聖堂の災禍からの復興
https://www.jcic-heritage.jp/news/2024syoposium_report/

イコモス2024年次総会/学術シンポジウムへの参加

主要な参加者が登壇した学術シンポジウムのオープニングセレモニー
会場となったオウロプレト歴史都市の風景(1980年ユネスコ世界遺産登録)

 令和6(2024)年11月13日~15日にかけて、ブラジル・オウロプレトで開催されたイコモスの2024年次総会/学術シンポジウムに参加しました。イコモス(ICOMOS = International Council on Monuments and Sites)とは、昭和39(1964)年に採択された「歴史的な建造物および場所の保存と修復のための国際憲章(べニス憲章)」のもとに昭和40(1965)年に設立された専門家や学識者等で組織される文化遺産保護の第三者機関(NGO)です。現在では全世界で10,000名以上の会員を擁しており、その活動は、ユネスコの諮問機関として世界文化遺産の価値評価等の審査を行うことでもよく知られています。
 今年の学術シンポジウムは、ベニス憲章採択60周年の節目を捉え、「ベニス憲章の再検討:批判的な見地と今日的課題への挑戦(Revisiting the Venice Charter: Critical Perspectives and Contemporary Challenges)」がテーマに掲げられ、4本の基調講演と4回のラウンドテーブルを中心に、国際的な遺産保護の現状や将来展望について活発な議論が展開されました。その中では、気候変動や人口移動、地域間不平等などの様々な社会問題が関係するようになっている21世紀の遺産保護の潮流にあって、ベニス憲章は国際規範としての役割を十分に果たせなくなっているとの意見が主流を占める結果となり、最後に、ベニス憲章にかわる新しい国際憲章の起草を強く勧告する「オウロプレト文書(Ouro Preto Document)」が採択され、会議は幕を閉じました。
 東京文化財研究所では、今後もこうした国際会議への積極的な参加を通じて、文化遺産保護に関する国際情報の収集と蓄積に努めていきます。

第46回世界遺産委員会への参加

委員会メイン会場「バーラト・マンダパム」
「佐渡島の金山」の審議を見まもる日本代表団

 令和6(2024)年7月21日~31日、第46回世界遺産委員会がインドのニューデリーで開催され、東京文化財研究所から文化遺産国際協力センター3名、文化財情報資料部1名の計4名がオブザーバーとして参加しました。
 委員会では、世界遺産条約の締約国や諮問機関の代表らが一堂に会し、世界遺産の新規登録や保全状況などの審議が行われます。新規登録では、今回24件が新たに登録され、世界遺産の総数は1223件となりました。わが国で大きく報道された「佐渡島の金山」については、イコモスが登録には情報が不十分として範囲の修正などを求める勧告を出していましたが、勧告に対する日本政府の対応を受けて、全会一致で世界遺産への登録が決まりました。保全状況の審議では、高速道路の建設が計画されるイギリスの「ストーンヘンジ」など危機遺産入りを勧告された4資産の記載がいずれも回避された一方、戦禍による破壊が危惧されるパレスチナの「聖ヒラリオン修道院」は、世界遺産登録と同時に危機遺産リストへの記載が決議されました。
 会期中に開催されたサイドイベントでは、様々な加盟国や関係団体から世界遺産を取り巻く最新の動きが紹介されました。また、サイトマネージャーや若手専門家を対象としたフォーラムも同時期に開催され、本会議の外でも、持続可能な遺産管理などの喫緊の課題をテーマとした活発な議論が行われました。
 世界遺産委員会への現地参加は、オンラインでは得難い最新の国際動向を知り得るまたとない機会です。当研究所では来たる11月に「世界遺産研究協議会」を開催するなど、今回の内容を含む情報発信に引き続き取り組んでいきます。

ブータン東部地域の伝統的民家に関する建築学的調査

サクテン集落での調査風景
荒廃が進む領主館の遺構(ポンメイ・ナクツァン)

 東京文化財研究所では、平成24(2012)年以来、ブータン内務省文化・国語振興局(DCDD)と協働して、同国の伝統的民家建築に関する調査研究を継続しています。同局では、従来は法的保護の枠外に置かれてきた伝統的民家を文化遺産として位置づけ、適切な保存と活用を図るための施策を進めており、当研究所はこれを研究・技術面から支援しています。
 今年度第1回目の現地調査を5月11日~23日にかけて行いました。当研究所職員3名に外部専門家2名を加えた5名を日本から派遣し、DCDD職員2名とともに、おもにタシガン・タシヤンツェの東部2県における石造民家調査を実施しました。
 今回対象とした地域は、昨年の同時期に既に訪問しており、その際に調査した3集落で継続調査を行ったほか、新たに3つの集落で調査を行いました。
 最初に訪れたタシヤンツェ県キニ集落では既調査3棟の補足と新規2棟を合わせて同集落内でとくに古いとみられる民家全てについて実測や家人への聞き取りを含む詳細調査を完了しました。
 次に、タシガン県メラ郡のメラ、ゲンゴ両集落では、補足1棟、新規6棟の調査を行いました。いずれも妻入の平屋で、小屋裏の正面側一部を木造外壁の居室とするものが多く、移牧生活を営む少数民族が暮らす当地固有の民家形式です。このような地域色の強い建物の分布を調査した結果、メラ集落全体で67棟を確認でき、とくに集落中心域では棟数の半分ほどを占めることがわかりました。
 その後、同じ民族が暮らす同県サクテン郡を初訪問し、同様の形式の民家がここにも所在することを確認しましたが、宅地を石塀や門で囲む家がみられるなど、集落景観の印象はかなり異なっています。隣接するサクテン、テンマ両村で計5棟を詳細調査し、純木造の小規模民家や製粉用の水車小屋なども含む、貴重な事例を収集することができました。同じ民族の生活圏は隣接するインド北東部に跨っていますが、その地域にも同様の民家がみられるとの情報を得ており、大いに興味を惹かれます。
 このほか、同県ポンメイ村で領主層の古民家2棟を調査しましたが、どちらも無住でうち1棟は石壁が大きく変形するなど荒廃が進み、かなり危険な状態でした。地方の過疎化に伴って今後こうしたケースが急速に増加することが懸念され、すぐに保存の策を講じることも現実には難しいとはいえ、まずは古民家の所在と現状の把握および記録が急務と言えます。
 本調査は、科学研究費助成金基盤研究(B)「ブータンにおける伝統的石造民家の建築的特徴の解明と文化遺産保護手法への応用」(研究代表者 文化遺産国際協力センター長・友田正彦)により実施しました。

カンボジア人専門家招聘「カンボジア・アンコール・タネイ寺院遺跡東門修復竣工記念 技術交流事業」の実施

史跡整備事例(鴻臚館跡)の視察

 東京文化財研究所文化遺産国際協力センターでは、カンボジア王国の世界遺産アンコール遺跡群・タネイ寺院遺跡において、カンボジア政府アンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(アプサラ機構)と約20年間にわたって協力事業を継続しており、令和4(2022)年11月には、両者が協働で進めてきた同寺院遺跡東門の全解体修復工事が竣工したところです。
 これを記念し、令和4(2022)年2月13日~19日にかけて、アンコール遺跡群の保存整備を担うアプサラ機構等の職員を日本へ招聘する技術交流事業を実施しました。今回、来日したのは副総裁のキム・ソティン氏と遺跡保全考古局長のソム・ソパラット氏、および昨年までアプサラ機構と当研究所との協力事業担当を務めたセア・ソピアルン氏(現サンボー・プレイクック機構所属)の3名です。
 14日に「カンボジア・アンコール・タネイ寺院遺跡東門修復竣工記念 研究会 」を当研究所で開催した後、15日~18日にかけて、九州地方、関西地方を巡り、国指定重要文化財建造物保存修理工事現場(旧オルト住宅・旧長崎英国領事館本館ほか9棟・聖福寺大雄宝殿ほか3棟)や史跡整備の事例(国指定史跡鴻臚館跡)等のスタディツアーを行いました。
 研究会やスタディツアーを通じ、遺産保護の研究や現場に関わる両国の専門家が顔を合わせて熱心な議論が交わせたことで、お互いの国の文化遺産の特徴や修理手法、整備方法等の相互理解がさらに深められた有意義な機会となりました。
※本事業は、文化財保護・芸術研究助成財団の助成を受けて実施しました。

世界遺産研究協議会「複雑化する世界遺産をみまもる目」の開催

案内チラシ(表)
研究協議会における討論の様子

 文化遺産国際協力センターでは、平成28(2016)年から世界遺産制度に関する国内向けの情報発信や意見交換を目的とした「世界遺産研究協議会」を開催しています。令和5(2023)年度は「複雑化する世界遺産をみまもる目 -作業指針、事前評価そして影響評価-」と題して、ユネスコ他が昨年とりまとめた遺産影響評価(HIA)の管理者向けガイダンスの話題を中心に、世界遺産の評価のあり方と制度運用に焦点をあてました。令和5(2023)年12月21日に東京文化財研究所で対面開催した今回は、全国から地方公共団体の担当者ら90名が参加しました。
 冒頭、文化遺産国際協力センター国際情報研究室長・金井健からの開催趣旨説明に続き、鈴木地平氏(文化庁)が「世界遺産の最新動向」と題して直近の世界遺産委員会における議論や決議等の報告を行いました。その後、文化財情報資料部文化財情報研究室長・二神葉子が「近年の作業指針の改定とその背景 -対話と信頼性の確保のために-」と題した講演、急務により欠席となった西和彦氏(文化庁)の代役として鈴木地平氏が「世界遺産の文脈における影響評価のためのガイダンス及びツールキット」の内容や留意点に関する講演を行い、最後に中澤寛将氏(青森県特別史跡三内丸山遺跡センター)が「『北海道・北東北の縄文遺跡群』の保全と遺産影響評価」と題して具体的な事例に基づくHIAの意義や課題に関する講演を行いました。さらにこれらを受けて、進化する世界遺産の価値づけやそれに対する影響評価、また今後の課題等について登壇者全員による討論を行いました。
 報告と講演、討論をつうじて、HIAガイダンスの運用にあたっては幅広い関係者(ステークホルダー)や関連制度を取り込む工夫が必要なことを再確認できました。また従来、緩衝地帯やその周辺は資産の「盾」として捉えられてきましたが、近年では、文化遺産的な価値に基づく一体的な発展を目指す地域として考える国も現れてきたようです。こうしたテーマも含め、当研究所では引き続き遺産保護に関する国際的制度研究に取り組んでいきたいと思います。

ブータン中部地域の伝統的民家に関する建築学的調査

古民家における調査の様子
版築造と石造が混在する民家の一例

 東京文化財研究所では、平成24(2012)年以来、内務省文化・国語振興局(DCDD)との協働事業としてブータンの伝統的民家建築に関する調査研究を継続しています。同局では、従来は法的保護の枠外に置かれてきた伝統的民家を文化遺産として位置づけ、適切な保存と活用を図るための施策を進めており、当研究所はこれを研究・技術面から支援しています。
 令和5(2023)年4~5月の東部地域での調査に続き、今年度第2回目の現地調査を10月29日~11月4日にかけて行いました。当研究所職員4名と奈良文化財研究所職員1名に外部専門家2名を加えた7名を日本から派遣し、DCDD職員2名と共同でブムタン・ワンデュポダンの中部2県において調査を実施しました。
 調査対象とした物件の多くは、昨年度行った予備調査で存在を把握していた古民家で、今回新たに発見した物件も含む計11棟について実測や家人への聞き取りを含む詳細な調査を行いました。このうち2棟は西部地域で一般的な版築造、6棟は東部地域に一般的な石造で、3棟は両者の構法が一つの建物に混在しているものです。特にワンデュポダン県東部では古くは版築造が専ら用いられていたところに、時代が下ると次第に石造が卓越していく傾向が見受けられますが、個々の建物における増改築の過程を考察すると必ずしもそのように単純に割り切れない複雑な様相も見えてきました。
 一方、これまでは建築形式や構築技法、改造変遷などを中心に調査してきましたが、今回からはそれに加えて、建物にまつわる伝承や各室内の使われ方といった民俗学的側面にもより留意しながら聞き取り等を行うこととしました。民家形式の発展や地域性の背景にある生活様式をあわせて考察することで、ブータンの伝統的民家がもつ文化遺産としての価値の多様な側面が明らかになることを期待しています。
 なお今回の調査は、科学研究費補助金基盤研究(B)「ブータンにおける伝統的石造民家の建築的特徴の解明と文化遺産保護手法への応用」(研究代表者 文化遺産国際協力センター長・友田正彦)により実施しました。

近現代建築等の保護・継承等に係る海外事例調査Ⅱ―ヨーロッパ諸国での現地調査

近日配布予定の文化省が作成するACRラベル見本(フランス)
「準備段階の文化財」の現代建築作品とされるレンゾ・ピアノ設計の音楽公園オーディトリアム(イタリア)
賃貸住宅として保存改修・運用されているエリック・クリスチャン・ソーレンセン自邸(デンマーク)

 文化遺産国際協力センターでは今年度、文化庁委託「近現代建築等の保護・継承等に係る海外事例調査」として、近現代建築を中心とした建築遺産保存活用の先進的な取組みが行われている諸外国等の事例調査を実施しています。令和5(2023)年9月の台湾に続き、10月3日~13日にかけてフランス、イタリア、デンマークの3か国で現地調査を行いました。
 ヨーロッパでは、平成3(1991)年にヨーロッパ評議会(Council of Europe)が加盟国に対して20世紀建築を保護するための具体的な戦略をとるように勧告し、また平成30(2018)年には世界経済フォーラム(ダボス会議)のヨーロッパ文化担当大臣会合において「建築文化(baukultur)」が社会発展の指針として提示されるなど、ここ30年で近現代建築を社会的資産として捉える認識が定着してきています。こうした社会的な動向の中で、フランスでは平成29(2017)年に近現代建築の保護に特化した「顕著な現代建築ラベル(ACRラベル)」制度を含む新法「創造の自由、建築、文化財に関する法律(LCAP法)」が施行されました。また、イタリアでは、平成13(2001)年に文化財文化活動省内に現代芸術現代建築総局(現在の文化省現代的創造性総局)を設置し、イタリア国内の芸術的価値の高い現代建築作品(準備段階の文化財)を把握するための調査を継続的に実施しています。デンマークでは近現代建築に特化した文化財保護行政の取組みはみられませんが、平成12(2000)年に不動産融資業から派生して設立された民間慈善組織のリアルダニアが投資によるデンマークの建築遺産の保護活動を行う中で、「北欧モダン」を牽引したデンマーク人建築家の設計作品を保存活用する独自の取組みを展開しています。
 今回の調査では、フランス文化省とイタリア文化省、リアルダニアを訪問し、それぞれの近現代建築の保護を目的とした活動の実態や課題、展望等についてインタビューを行うとともに、対象とする近現代建築の保護状況等について現地確認を行いました。それぞれ近現代建築を文化として尊重、発展させようとする意欲的な取組みである一方、いずれの国でも近現代建築が文化財として十分な市民権を得ている状況とはいいがたく、様々な利害関係者との対話や保存活用の実験的な試行を繰り返しながら、近現代建築に適した新たな保護のあり方を模索している様子が確認できました。
 今回の調査結果は、11月中に文献資料に基づく海外の関係法制度等の調査および台湾での現地調査の結果とあわせて調査報告書にとりまとめ、東京文化財研究所のリポジトリでも公開する予定です。

近現代建築等の保護・継承等に係る海外事例調査Ⅰ―台湾での現地調査

華山1914文創園区:廃墟から再生した旧樟脳工場の赤レンガ建物(登録歴史建築)と藤森照信氏のコラボレーションによる茶室
松山文創園区:煙草製造工場(市指定古蹟)の雰囲気をいかした貸アトリエの空間整備

 文化遺産国際協力センターでは今年度、文化庁委託「近現代建築等の保護・継承等に係る海外事例調査」として、近現代建築を中心とした建築遺産保存活用の先進的な取組みが行われている諸外国等の事例調査を実施しています。その一環として、令和5(2023)年9月18日~22日にかけて台湾での現地調査を行いました。
 台湾では、平成12(2000)年の公共建設民間関与促進法や、クリエイティブ産業の振興が盛り込まれた平成14(2002)年の国家発展重点計画を契機として、平成12(2000)年代から平成22(2010)年代にかけて、産業遺産を中心に民間活力を導入した文化財建造物の保存活用が積極的に行われました。今回の調査では、文化部(平成23〈2011〉年までは文化建設委員会)が主導した「文化創意産業園区(以下、文創園区)」のうち、台北市内にある二つの文創園区を訪ね、営業施設としての文化財建造物の管理運営の状況や課題、展望等について管理運営組織へのインタビューを行いました。
 華山1914文創園区は1914年設立の官営酒工場、松山文創園区は1937年設立の官営煙草工場の土地建物を再利用したもので、華山では民間企業等の出資による台湾文創株式会社、松山では台北市傘下の財団法人台北市文化基金会が施設の管理運営を行っています。それぞれ組織体制や運営方針は異なりますが、ともに独立採算で運営されており、特別な場所としての文創園区の社会的認知を広げることで運営基盤の安定と収益の確保を図っている点では一致しています。一方で、建築遺産の保護のうち活用だけが民間の管理運営に託されたことで、遺産保護行政が取りしきる建築遺産の保存との間に様々な行き違いが生じやすくなっている実態も確認することができました。
 今回の調査では文化部文化資産局も訪れて、文創園区の事業評価についても伺いました。文化資産局では、保存は行政の仕事、活用は民間の仕事というような心理的な障壁が生まれてしまったことが、当初の目論見通りに文創園区が進んでいない原因と分析し、既に軌道修正を始めており、平成29(2017)年からは、土地と人々の記憶に結びついている文化資産の包括的な管理活用を社会インフラ整備政策に紐づけた「再造歴史現場(歴史的時間空間の再構築)」計画が進められています。
 文化遺産国際協力センターでは引き続き、対象国の関係機関や有識者からの協力を得ながら欧州諸国での現地調査を行い、文献資料に基づく海外の関係法制度等の調査結果とあわせて調査報告書にとりまとめていく予定です。

ブータン東部地域の伝統的石造民家に関する建築学的調査

タシヤンツェ県キニ村の伝統的石造民家集落
独特な形式を持つタシガン県メラ郡の民家
木造民家の実測調査

 東京文化財研究所では2012年以来、ブータン内務省文化・国語振興局(DCDD、組織改編により旧文化局より改称)と協働し、同国の伝統的民家建築に関する調査研究を継続してきました。DCDDでは、従来は法的保護の枠外に置かれてきた伝統的民家を文化遺産として位置づけ、適切な保存と活用を図るための施策を進めつつあり、当研究所はこれを研究・技術面から支援しています。
 従来は西部地域で一般的な版築造民家を調査対象としてきましたが、今年度からは新たに科学研究費補助金も取得し、中・東部地域に広くみられる石造民家の調査を本格的に開始しました。その第1回現地調査を令和5(2023)年4月25日~5月5日まで行いました。
 当研究所職員4名を派遣し、DCDD職員2名と共同で東部タシガン県から中部ブムタン県にかけての5県で実施した調査では、DCDDによる事前の情報収集で把握されていた物件を中心に建築年代が古いと思われる石造民家を観察し、14棟ほどについて実測や家人への聞き取りを含む詳細調査を行いました。うち3棟は領主層の元邸宅で大規模な3階建建物ですが、これら以外はいずれも平屋または2階建で当初の平面規模もごく小さい建物でした。また、遊牧を生業とする少数民族が暮らすタシガン県メラ郡では、家畜小屋を伴わない平屋の板敷住居といった、他地域にはない固有の民家形式が広く分布することを確認しました。
 今回得られた知見と情報をもとに、さらに調査範囲を広げるとともに、既に存在を把握している古民家の詳細調査も順次行っていく予定です。一方、民家形式の発展や地域性には生活様式の変化や違いが反映していることは言うまでもありませんが、このような観点からの調査研究にも一層注力していく必要があります。空き家や保存状態の悪い建物も少なくない中、貴重な文化遺産が失われないよう、協力を加速していきたいと思います。

ブータンの伝統的石造民家の保存に向けた予備調査

コープ集落の全景(西より望む)
MOU署名式(左:友田東文研センター長、右:ナクツォ・ドルジDoC局長)

 東京文化財研究所(東文研)では、文化遺産としての保護対象を伝統的民家を含む歴史的建造物全般へと拡大することを目指すブータン内務文化省文化局(DoC)を支援し、遺産価値評価や保存活用の方法などについて調査研究の側面からの協力を行っています。新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延に伴う渡航制限により、令和2(2020)年1月以降はオンラインによる協力実施を余儀なくされてきましたが、本年7月に日本、9月にはブータンの渡航制限措置が大幅に緩和されたことを受けて、現地での共同調査を再開することで DoCと合意し、11月5日から15日にかけて東文研職員3名に奈良文化財研究所職員1名を加えた計4名の派遣を行いました。
 今回の現地派遣は、ブータンの東部地域にみられる石造民家建築を主な対象に、その適切な保存活用の基礎となる学術的な総合調査の前段階として、当該地域の集落や民家の基本的な特徴や有効な調査方法を把握・検証することを目的としました。首都ティンプーから比較的アクセスのよい東部中央寄りのトンサ県(Trongsa Dzongkhag)とブムタン県(Bumthang Dzongkhag)を中心に、これまでの政府の調査記録や各県からの情報提供等をもとにDoC遺産保存課(DCHS)があらかじめ選定した集落と民家について、実測や写真測量、住民への聞取り等の調査を行いました。集落形態にも地域ごとの特色があり、中でもトンサ地方南方の特に険しい山間地域にあるトゥロン(Trong)とコープ(Korphu)の両集落は尾根づたいに民家が建ち並び、農村でありながら都市的な集落形態をみせる点が独特です。また、トゥロンの民家はほぼすべてが石造なのに対し、コープでは石造民家と版築造民家が混在し、かつ版築造民家がより古い形式を留めていることが確認できました。他の民家でも、版築造を後に石造で増改築したものが散見されることから、少なくとも今回の調査地域では民家に用いられる構造が版築造から石造へと変遷した様子が窺えます。また石造民家には非常に複雑な増築を繰り返してきたとみられる事例があり、版築造に比べて石造では増築や改修の頻度が高い可能性が考えられます。調査方法に関しては、乱石積の複雑な目地を現し、形状の歪みも多い石造民家では、今回用いた写真測量による記録が効率よく、きわめて有用であることが確認できました。
 調査終了後、ティンプーのDoC庁舎においてブータンの建築遺産保護協力に関する覚書(MOU)の署名式を執り行うとともに、DCHSとの協議を行い、今回の調査結果や今後の協力事業の方向性などについて意見交換を行いました。来年度以降、DCHSとの協働のもと、ブータン東部地域で石造民家建築を対象とした調査研究活動を本格的に展開していく予定です。

世界遺産条約50周年記念・世界遺産リーダーシップフォーラム2022への参加

世界遺産ベルゲン・ブリッゲン地区の町並み(裏側-左-の建物がフォーラム会場となったホテル)
フォーラム会場の様子(グループディスカッションのホワイトボード)

 2022年は、世界遺産条約が1972年の第17回UNESCO総会で採択されてからちょうど50年にあたる節目の年です。この半世紀の間に登録された世界遺産は167カ国・1154件(文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件)に上り、遺産保護に対する意識啓発と共通理解の醸成に大きな役割を果たしてきました。また、毎年開催される世界遺産委員会を中心にして、国境を越えた様々な議論が積み重ねられています。近年、気候変動の脅威に象徴されるこれまでにない難題が持ち上がる中、2016年、世界遺産委員会の諮問機関であるICCROMとIUCNは共同で「世界遺産リーダーシップ(WHL)」プログラムを立ち上げ、世界遺産条約が果たすべき役割の再構築に向けた活動と議論を進めています。
 令和4(2022)年9月21日から22日にかけて、WHLのこれまでの活動の成果を総括し、これからの活動の方向性を展望する「世界遺産リーダーシップフォーラム2022」が、ノルウェー王国の世界遺産都市・ベルゲンで開催されました。参加者は、世界遺産関係の国際機関や各国の世界遺産の管理運営に関係する機関、登録遺産の管理者・コミュニティの代表者など約60名。会議は、これまでの成果を振りかえる第1部、これからの優先課題と行動方針を話しあう第2部、世界遺産の管理運営能力の向上に向けた具体的な行動計画を考える第3部、の3部構成で行われました。筆者は、第2部で日本の状況についてのスピーチを行い、行政的には世界遺産に特化した保護の枠組みはないものの、2019年の文化財保護法改正で導入された「文化財保存活用地域計画」がWHLでの議論と問題意識を共有しており、WHLが目指す文化遺産・自然遺産、また遺産専門家・遺産管理者・コミュニティを包括した総合的な管理能力の向上に資する有効なツールにもなりうる、とする報告を行いました。また第2部では、(1)効果的な管理運営システムの実現に向けて、(2)災害危機管理と気候変動対応に必要なレジリエンス思考とは、(3)遺産影響評価がもたらす変化への備え、の3つのテーマに参加者を分けたグループディスカッションも行われ、参加者同士の活発な議論が交わされました。そして、第3部での議論を経て、WHLは今後、本会議で確認されたような参加者のネットワークを強化し、世界遺産委員会から遺産保護の現場までを継ぎ目なく繋ぐ管理運営能力の開発に焦点をあてることが確認されました。同時に、そのためには各国・各地域の文化・言語に根づいた遺産保護のローカルネットワークとの綿密な連携体制を構築していくことが重要とされています。
 日本は、ローカルネットワークの活動と世界遺産関係の動向との関連が特に弱い国の一つと思われますが、国内の遺産保護の現場を国際社会での活動や議論に直接つなぐことができるようにする努力と工夫が、文化遺産国際協力の新たなかたちとして求められるようになるかもしれません。

世界遺産リーダーシップフォーラムに関するICCROMウェブサイト https://www.iccrom.org/news/norway-renews-commitment-iccrom-iucn-world-heritage-leadership-programme

ブータン内務文化省文化局との合同調査会「ブータン中部及び東部地域の伝統的民家の成立背景と建築的特徴」の開催

座談会でのプブ・ツェリン氏による講話の様子

 東京文化財研究所ではブータン王国内務文化省文化局(DoC)が進める民家建築の保存活用に対する技術的な支援や人材育成の協力に取り組んでいます。令和元年度からは文化庁の文化遺産国際協力拠点交流事業を受託し、DoC遺産保存課(DCHS)との共同調査、また修復や改修を担う現地の人々に対する実習を中心に計画してきましたが、新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延によって現地への渡航が困難となり、令和2年度以降は行政用の参考書や学校用教材の作成など遠隔での実施が可能な内容に振り替えざるをえなくなりました。令和3年度は、新型コロナウイルス感染症の収束を期待して、共同調査を行う準備を整えていましたが、残念ながら実現には至らず、代替措置として令和4(2022)年3月7日、DoCとの合同調査会をオンラインで開催しました。
 会議には、当研究所の事業担当者と協力専門家、DoCの事業担当者ら総勢22名が出席し、ブータン側から共同調査実施の前段階に共有すべき情報として、DCHS主任エンジニアのペマ氏が居住形態に注目したブータン中部及び東部地域の文化的・地域的特性について、また、DCHSアーキテクトのペマ・ワンチュク氏が同地域での民家建築調査の実施に向けた準備状況について発表しました。日本側からはブータンの歴史的建造物の耐震対策について現地で実証的な研究を続けている名古屋市立大学の青木孝義教授が同地域に多い石積造建築物の構造特性とその保存方法と課題について発表し、各発表での出席者からの積極的な質疑もあって、共同調査チームとしての知識の共有を図ることができました。あわせて、ブータンでの調査研究活動を行っている当研究所の久保田裕道無形民俗文化財研究室長とその協力者であるブータン東部タシガン県メラ出身のプブ・ツェリン氏による現地の日常生活や民間伝承に関する座談会形式の講話を行い、同地域に対する風俗的な観点から日本側出席者の基礎的な理解を深めることができました。
 未だに新型コロナウイルス感染症の収束が見通せないなか、文化遺産国際協力拠点交流事業は図書類の制作をもって一つの区切りとしましたが、DCHSとの民家建築の共同調査は、ブータンとの往来の制限がなくなり次第、速やかに実施に移したいと考えています。

『伊藤延男資料目録』の刊行

『伊藤延男資料目録』書影

 東京文化財研究所では、令和3(2021)年9 月に元東京国立文化財研究所長・故伊藤延男氏が所蔵していた文化財保護行政実務等に関する資料一式の寄贈を受け、その整理を進めてきました(2021年9月の活動報告https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/919556.htmlを参照)。寄贈資料は大きく、1)国内の文化財保護関係の業務に関するもの、2)海外の文化財保護関係の業務に関するもの、3)建築史等の研究活動に関するもの、4)文化財保護等の民間活動に関するもの、5)執筆原稿、に分類でき、これに、6)図書、7)写真、を加えた7つの分類のもとに資料を編成し、この度『伊藤延男資料目録』として刊行しました。資料の総点数は2,185点で、現段階では詳細な情報が明らかでないものも含まれていますが、できるだけ早く資料そのものを必要とする研究者等の閲覧に供することが重要との観点から、大分類による整理ができた段階で公開することにしたものです。『伊藤延男資料目録』は当研究所の刊行物リポジトリ(https://tobunken.repo.nii.ac.jp/)でも公開する予定です。本資料が文化財保護に関する研究等に利用され、その発展に寄与していくことを願っています。

伊藤延男氏関係資料の受贈

文化財保護委員会時代の伊藤氏(左から3人目、周りは建造物課職員及び修理技術者の各氏とその家族:右端は伊藤氏の前に建造物課長(1966-1971)を務めた日名子元雄氏、その左隣は当研究所の修復技術部長(1988-1990)を務めた伊原恵司氏)

 去る令和3(2021)年9月13日、昭和53(1978)年4月から同62(1987)年3月までの9年間にわたって東京国立文化財研究所の所長を務めた故伊藤延男氏が所蔵されていた文化財保護行政業務等に関する資料一式が、ご子息である伊藤晶男氏から当研究所に寄贈されました。伊藤延男氏は、戦後の文化財保護の発展を牽引した行政技官・建築史研究者で、特に昭和50(1975)年の文化財保護法の改正で新設された伝統的建造物群保存地区の制度設計では文化庁の建造物課長(1971-1977)として中心的な役割を果たしました。また、我が国の文化財建造物の保存理念と修理方法を積極的に海外に向けて発信し、西欧由来の保存概念であるオーセンティシティが国際的に展開するきっかけとなった平成6(1994)年11月の「オーセンティシティに関する奈良会議」を主導するなど文化財保護の国際分野にも大きな足跡を残しています(詳しくは末尾に掲載した記事をご参照ください)。
 今回、受贈した資料は、伊藤氏が業務として携わった文化財保護の行政実務及び国際協力の一次資料を中心に、建築史及び文化財に関する研究活動や民間活動の諸資料、執筆原稿など多岐にわたります。これらは生涯を通じて旺盛であった同氏の活動を通じて蓄積されてきたもので、体系的に収集、整理されたものではないため、現段階では詳細な情報が明らかではないものが多く含まれていることも確かです。しかし、できるだけ早く資料そのものを必要とする研究者等の閲覧に供することが重要との考えから、資料全体を活動内容で大きく分類し、個々の資料の機械的な整理を終えた段階で公開していく予定です。
 受贈資料の中から、若かりし日の伊藤氏が文化財保護委員会事務局建造物課の同僚らとともに写った写真を紹介します。左から3人目が伊藤氏で、同氏の風貌や同封されていた他の写真との関係から、同氏が文化財調査官として現場で活躍していた昭和40(1965)年頃の撮影と思われます。年報や報告書に載るようなかしこまった写真からはなかなか感じ取ることができない、この写真に写る面々の生き生きとした屈託のない笑顔からは、文化財保護行政もまた高度経済成長の右肩上りの時代の空気とともにあったことが伝わってくるようです。

・斎藤英俊:伊藤延男先生のご逝去を悼む,建築史学 66巻,pp.148-159, 2016:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsahj/66/0/66_148/_article/-char/ja/
・伊藤延男,日本美術年鑑 平成28年版,pp.557-558, 2018:https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809181.html

研究会「東南アジアにおける木造建築遺産の保存修理」の開催

研究会「東南アジアにおける木造建築遺産の保存修理」プログラム

 令和2(2020)年11月21日、東南アジア諸国で行われている木造建築の保存修理の方法や理念をテーマとした研究会をオンラインで開催しました。この研究会は、文化遺産国際協力センターが東南アジアの木造建築をテーマに連続で開催してきたもので、今年はその4回目となります。これまでの3回は、歴史学や建築史学、考古学といった学術的な側面から東南アジアにおける木造建築の実像に迫ってきましたが、今回はこのテーマの研究会の締めくくりとして、当研究所が日々の業務で取り組んでいる文化財保護の実務的な側面に焦点をあてました。
 研究会には東南アジアにおける木造建築の保存修理を担う技術者として、タイ王国文化省芸術局建造物課主任建築家のポントーン・ヒエンケオ氏とラオス・ルアンパバーン世界遺産事務所副所長のセントン・ルーヤン氏、また東南アジア地域の文化遺産保護に精通した専門家としてユネスコ ・バンコク事務所文化ユニットのモンティーラー・ウナクーン氏の参加を得ることができました。ポントーン氏からはタイ国内の文化財に指定された寺院建築、セントン氏からはルアンパバーンの町並みを構成する住居建築を事例にして、文化遺産としての木造建築修理の方針や具体的な方法についてそれぞれ報告があり、モンティーラー氏からはインドネシアやタイで近年行われた木造建築の保存修理やこれに関する人材育成の先駆的取組みが紹介されました。
 研究会の後半には、友田正彦文化遺産国際協力センター長の司会のもと、前半の報告者3名に国宝・重要文化財建造物保存修理主任技術者である文化財建造物保存技術協会の中内康雄氏を加えた計5名によるパネルディスカッションが行われました。その中での議論を通じて、木造建築の保存の考え方や修理の仕方には図らずも多くの共通点があることが改めて確認されるとともに、生産者や職人など伝統的な材料や技術を支える人材の不足が、現代社会の中で伝統木造建築が抱える普遍的な課題であることが認識されました。
 今回の研究会は、もともと当研究所セミナー室で開催する予定で準備を進めていましたが、コロナウィルスの感染拡大の収束が見通せない状況に鑑み、ウェビナー形式に切り替えて開催したものです。従来、実地で開催してきた研究会をオンラインで開催することができたのは一つの収穫といえますが、当方の不慣れに加えて想定外のトラブルもあり反省点が数多く残されたことも確かです。これを機にポストコロナ社会に適したあたらしい研究会等イベントのあり方を模索していきたいと思います。

エントランスロビー展示「カンボジア・アンコール・タネイ寺院遺跡東門の修復」

上部構造を解体した東門のAR展示イメージ(技術協力 山田修(東京藝術大学大学院特任教授))

 当研究所のエントランスロビーでは、私たちが日々取り組んでいる仕事を皆様に広く知ってもらえるように、各部・センターの持ちまわりで年替わりのパネル展示を行っています。2020年度の展示は文化遺産国際協力センターが担当し、長年取り組んでいるカンボジアのアンコール・タネイ寺院遺跡の保存に対する協力の中から、昨年始まった同寺院東門の修復工事を紹介しています。
 カンボジアを代表する大遺跡であるアンコールでは、カンボジアが国内政治の混乱から抜け出した1990年代以降、我が国のほかフランスやアメリカ、インド、中国といった世界各国の全面的な支援によって壮麗な建築群の復旧と復興が進められてきました。タネイ寺院遺跡では国際支援の考え方を一歩前に進め、カンボジア政府のアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)と当研究所が共同で作成した保存整備計画に沿って、カンボジア社会で持続可能な方法での遺跡の修復や整備を進めていこうとしています。東門の修復工事は同計画のもとで行われる初めての本格的な保存整備事業です。APSARAが修復工事の予算の確保と実施を担う一方、当研究所は工事の前に必要となる建築調査や発掘調査を行うとともに、修復の方法や工事の進め方に対する助言や提案を行っています。
 タネイ寺院遺跡の調査では、3Dレーザー計測や写真測量(フォトグラメトリー)など近年の進展が目覚ましいデジタル記録技術を積極的に導入しました。特にフォトグラメトリーは、簡易かつ本格的なソフトウェアが一般向けに商品化されており、現在のカンボジア社会でも汎用性の高い技術として文化遺産保護分野への応用が十分に期待できるものです。今回の展示では現地の雰囲気を身近に感じられるように、こうしたデジタルデータを活用して、AR(拡張現実)やVR(仮想現実)と呼ばれる展示方法にも挑戦しています。こうした展示を通じて、当研究所が取り組んでいる文化遺産保護の国際協力に少しでも関心をもっていただければ幸いです。
https://www.tobunken.go.jp/info/panel200704/index.html

コロナ禍におけるアンコール・タネイ寺院遺跡保存整備のための技術協力の取り組み

東門の基礎構造の補強方法検討図
ICC事務局による東門修復工事の視察(APSARA提供)

 東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業に対する技術協力を継続的に行っています。昨年からはAPSARAと共同で策定した保存整備計画に基づいて、同寺院東門の修復工事に取り組んでおり、APSARAが工事の予算確保や実施を担う一方、本研究所は工事前や工事中の建築調査および考古調査を担うとともに、修復の方法や工程に対する助言や提案を行っています。
 今年に入り、新型コロナウィルスの世界的な感染拡大により諸外国との往来が困難になる中、3月末以降カンボジアへの渡航も事実上不可能になってしまいました。しかし、カンボジア国内では本格的蔓延に至っておらず、通常の業務が継続されている中、日本側の事情だけでAPSARAの事業計画を中断させるわけにもいきません。そこで4月からは、通常のメールによる連絡のみならず携帯端末のメッセージサービスを積極的に活用してリアルタイムな現場の状況把握に努めるとともに、必要に応じて適宜オンライン会議を開催するなど、手探りながらもICT(情報通信技術)を用いた技術協力の取り組みを進めています。
 令和2(2020)年4月21日、2月から3月にかけて現地で行った基礎構造の強度調査等の分析結果の共有と、これに基づく適切な修復方法や構造補強方針に関する意見交換を目的に、APSARAの修復担当チームとのオンライン会議を開催しました。会議には協力研究者である東京大学生産技術研究所の腰原幹雄教授(建築構造)および桑野玲子教授(地盤機能保全)の参加を得て、専門的見地を交えた踏み込んだ議論を行い、当初構法のオーセンティシティの保存と構造的安全性の両立に向けた修復と補強の基本的な方向性について合意を得ることができました。この基本合意のもと、5月と7月にも、それぞれ基礎構造と上部構造について検討するためのオンライン会議を開催し、現場の最新状況と計画図面等の情報を共有しながらの双方向での議論を経て、現段階で最も適切と考えられる具体的な修復・補強方法を決定しました。
 一方、例年6月にAPSARA本部において開催される、アンコール遺跡国際調整委員会(ICC)技術会合も今年は延期となり、ICC事務局による現場視察のみが行われました。この視察にあわせてAPSARAと本研究所は、上記の検討内容を含む事業計画進捗状況報告書を共同で作成、ICC事務局に提出しました。さらに、ICCの専門委員を務める京都大学大学院の増井正哉教授とのオンライン会議を開催し、目下の検討・計画内容について指導助言を得るとともに、アンコール遺跡の国際協力を取り巻く動向等に関する意見交換を行いました。
 このように、図らずも、ICTによる文化遺産の修復協力の可能性を実感できたことは大きな収穫ではあります。とはいえ、文化遺産の保存は、それぞれに独自の価値を有するもの自体が対象である以上、遠隔での情報の共有や対話だけでは自ずと限界があることも確かです。新型コロナウィルス感染症の流行が収束し、再び自由な往来ができる日が一刻も早く戻ることを願ってやみません。

アンコール・タネイ遺跡保存整備のための現地調査IX

基壇の解体
コアサンプリング

 東京文化財研究所では、カンボジアにおいてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)によるタネイ寺院遺跡の保存整備事業への技術協力を継続しており、令和元(2019)年9月より、同遺跡保存整備計画の一環として、東門の修復工事をAPSARAと共同で進めています。令和2(2020)年2月26日から3月18日にかけて、3次元レーザースキャナーを用いた東門基壇の記録および基礎構造の強度調査等を目的に、職員および外部専門家計4名の派遣を行いました。
 2月27日から28日まで、上部構造の解体により露出した基壇および発掘調査を行った基壇外側入隅部の状態を正確に記録するため、東京大学生産技術研究所(東大生研)の大石岳史准教授の協力のもと、3次元レーザースキャナーを用いた基壇の計測を行いました。こののち、基壇内部盛土層の平板載荷試験、およびラテライト下地材等の一軸圧縮試験を予定していましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で外部専門家の派遣を中止せざるを得なくなり、現地では2019年12月に続く第2回目の簡易動的コーン貫入試験のみを実施しました。
 簡易動的コーン貫入試験は、基壇内部盛土層と基壇外縁部の基礎地業層を対象として計11カ所で実施したところ、基壇内部盛土については壁直下部の方が室内中央部(床下)より概して大きい数値を示しました。この要因としては、試験時の気候の違いが影響している可能性はあるものの、壁直下では長期的な建物の自重により版築が締め固められ、現状で上部荷重を支持するのに十分な強度を有していることが推測されます。併せて、最下層の基礎地業を含む断面構造確認のため、ハンドオーガーによるコアサンプリングも行いました。
 後日、3種類の試験体(既存のラテライト旧材、今回修復で劣化部の置換に使用するラテライト新材、据付調整用のライムモルタル)について、東大生研の桑野玲子教授、大坪正英助教の協力のもと、一軸圧縮試験等を行った結果、ラテライト旧材と新材とで顕著な強度差はないことなどが判りました。
 世界的な新型コロナウイルス感染拡大により、当研究所が実施する国際協力事業も未曾有の状況が続いていますが、オンライン会議やデジタルデータ等を積極的に活用しながら、ひきつづき綿密な協力体制を維持できるよう模索しています。

台湾指定古跡・旧日本海軍鳳山無線電信所の調査

現在の旧佐世保無線電信所施設とその周辺(長崎県佐世保市)
旧鳳山無線電信所の中心にある電信室正面(台湾高雄市)

 長崎県の佐世保市と西海市をへだてる針尾瀬戸をみおろす丘陵上にある旧佐世保無線電信所(針尾送信所)は、海軍が大正11(1922)年に建設した長波通信基地の遺構です。わが国のコンクリート構造の草分けとして知られる海軍技師・真島健三郎(1874~1941)が率いた佐世保鎮守府建築科が手がけた、高さ136メートルに及ぶ3基の巨大な電波塔に象徴される上質な鉄筋コンクリート造の建造物群は、当時最高水準のコンクリート技術を示すものとして、平成25(2013)年に重要文化財に指定されています。
 重要文化財の指定後、旧佐世保無線電信所施設(以下、佐世保)を管理する佐世保市では文化財としての保存と活用のための整備を進めています。令和2(2020)年2月12~13日の間、筆者が委員を務める整備検討委員会の活動の一環として、台湾南部の高雄市郊外にある旧日本海軍鳳山無線電信所の調査を行いました。
 鳳山無線電信所(以下、鳳山)は、同じく佐世保鎮守府が手がけた長波通信基地で、佐世保より5年先立つ大正6年(1917)に完成しました。2000年代まで台湾海軍の招待所や訓練所として利用された後、公開施設となり、2010年に台湾の古跡に指定されています。鳳山は、佐世保と同じ組織による設計だけあって、電波塔こそ当時一般的な鉄塔(解体撤去済み)でつくられたものの鉄筋コンクリートが多用され、半径300メートルの円周道路や中心部の主要施設の配置など佐世保と類似した構成になっています。今回の調査で、鳳山は戦後一貫して大規模な更新や改造を要しない教育的施設であったため、主要建物の改変が比較的少なく、日本海軍時代の様相を今も留めていることが確認できました。特に施設の中心にある電信室は佐世保と同形式で、一部火災で消失しているものの、鉄扉や上下窓枠といった建具のほか内部の床や階段など木製の造作が残っており、建設当時のよく姿を伝えています。佐世保の電信室は大戦末期の耐爆化に伴う改造に加え、海上自衛隊及び海上保安庁時代の時々折々の改修も少なくないことから、今後、保存修理の方針を検討する上での有効な参考資料になると考えられます。
 いっぽう鳳山には現地で「十字電台(ラジオ局)」と呼ばれる、その重厚な建築的特徴から作戦指揮所を思わせる特異な建物があるなど、少なからず佐世保との違いもありました。鳳山の整備では、白色恐怖(国民党政府が反体制派に対して行った政治的弾圧)時代に鳳山が政治犯矯正の場所となっていた事実に焦点が当てられており、日本海軍時代については余り注目されておらず、未解明の事柄も多く残されているようです。今後、文化財としての保護を共通項に、佐世保と鳳山の交流を進めていくことで、日台の近代化遺産における保存理念や修理方法の展開にも貢献できるものと期待されます。

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