研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS
(東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。
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ポスター発表の様子
掲示ポスター
東京文化財研究所は、令和4(2022)年度より文化庁が進める「文化財の匠プロジェクト」の一環である「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に携わっております。令和7(2025)年10月3日、一般社団法人国宝修理装潢師(そうこうし)連盟が主催する第 29 回定期研修会において、本事業の成果である「文化財(美術工芸品)の修理記録データベース」についてポスター発表を行いました。
国宝修理装潢師連盟は、絵画、書跡・典籍、歴史資料といった美術工芸品を中心とした文化財の保存修理を専門に行う技術者の集団であり、現在の加盟工房は10社、所属する登録技術者は約140名に及びます(令和7年時点)。同連盟は、国の選定保存技術である装潢修理技術の保存団体に認定されており、年に一度開催される定期研修会には、各地から多くの修理技術者や専門家が集います(令和7年度の参加者数は376名)。
当日は、朝賀浩・皇居三の丸尚蔵館特任研究員ならびに綿田稔・文化庁文化財第一課主任文化財調査官より、肖像画と水墨画の鑑賞と保存にまつわる講演が行われました。また、各加盟工房により修理事例の報告がなされる中、東京文化財研究所は「文化財(美術工芸品)の修理記録データベースについて―「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」事業報告―」という表題にてポスターセッションに参加し(発表者:山永尚美・小山田智寛・田良島哲・江村知子(文化財情報資料部))、データベース構築にあたっての調査手順、データ構造、収録範囲、今後の展望と課題、またその利用方法について報告しました。
会場では、修理技術者、博物館関係者、美術工芸品の修理を学ぶ大学院生などから多くの質問や感想をお寄せいただき、あわせて様々な理由から近年継承が困難になりつつある修理記録についても情報を得ることができました。こうして得られた知見は本プロジェクトへと還元し、引き続き修理記録の資源化やデータベースの運用に活かしていきたいと考えています。
ジュゼッペ・トゥッチ・コレクションを顕彰する展示(ローマ・文明博物館)
イタリア下院附属歴史公文書館の調査室
アリナーリ写真財団の外観
文化財情報資料部では、日本に関する美術資料およびその背景となる歴史的資料の調査を行っています。令和7(2025)年10月にはイタリアを訪問し、ローマおよびフィレンツェにおいて関連資料の調査を実施しました。
ローマのEUR地区に設立された文明博物館(Museo delle Civiltà)にはかつてイタリア国立東洋美術館およびピゴリーニ国立先史民族博物館の所蔵であったコレクションが収蔵されています。同館の東洋美術部門(Arti e Culture Asiatiche)のピエルフランチェスコ・フェーディ博士と面会し、作品調査および所蔵資料の照会を行いました。基盤となるジュゼッペ・トゥッチのコレクションをはじめ、ラグーザ夫妻のコレクションを含むピゴリーニ・コレクションに関する有意義な情報交換を行うことができました。
そして、ローマのリオーネ・ピーニャ地区にあるイタリア下院附属歴史公文書館(Archivio Storico della Camera dei Deputati)を訪問し、同館ディレクターであるパオロ・マッサ氏と面会しました。面会では、ムッソリーニ政権期における日本との文化交流および美術外交に関する一次資料の所在を確認することができました。これらの資料は、日伊間の外交関係における美術行政の実態を示す貴重な記録であり、当時の文化政策を考察するうえで極めて重要な史料といえます。
同館は、サルデーニャ王国期の1848年に議会活動を支援する目的で創設され、1865年にモンテチトリオ宮殿へ移転後、百年以上にわたり議会の知的基盤として機能してきました。1988年に一般公開が開始され、2007年には上院図書館と連携する「議会図書館センター(Polo Bibliotecario Parlamentare)」が設立されています。
イタリア下院の文書遺産は、1848年から今日に至るまで下院によって作成・取得された原資料および議会政治に関わる私的文書群から構成されており、同館のウェブサイトでは、電子化された目録や写真資料、デジタル・アーカイブなどを閲覧することができますhttps://archivio.camera.it/。
フィレンツェでは、アリナーリ写真財団(Fondazione Alinari per la Photographia)を訪問し、同財団ディレクターであるクラウディア・バロンチーニ氏と面会しました。19世紀にイタリアで最初の写真館として創立されたフラテッリ・アリナーリ社の事業を継承し、写真の保全と写真文化の普及を使命とする同財団は、美術館の開館準備中であり、現在はウェブサイト上で所蔵資料を公開しています。東文研の所蔵する森岡柳蔵旧蔵資料はこのフラテッリ・アリナーリ社による写真が大多数を占めるほか、矢代幸雄によるイタリア美術の写真もまた、同社に所属した写真師との関係が知られています。面会においては、東文研の所蔵するこれらの資料について、また東文研の活動について説明し、情報交換を行いました。
[森岡柳蔵旧蔵資料]
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/2056691.html
今回の訪問を通じて、イタリアにおけるアーカイブは、記録の保存のみならず、「記憶を守る聖域」として位置づけられていることを強く感じました。このような認識は、文化財を「共有知」として扱ううえで、欠くことのできないものであり、知の「共有」と「責任」のあり方を見つめ直す貴重な示唆を得るものとなりました。
川島氏による発表風景
山口氏による発表風景
質疑応答の風景(左:川島氏、右:山口氏)
東京文化財研究所が所蔵する重要な図書コレクションとして「売立目録」があります。売立目録とは個人や名家が所蔵する美術品を「売立会(入札会)」で売却するために作成・配布された冊子で、当研究所には明治時代後期から昭和時代までに発行された売立目録が計2,532冊所蔵されています。これは公的な機関としては日本最大のコレクションで、美術品の来歴調査などに日々活用されています。
この「売立会(入札会)」において、美術品は、世話人・札元による仲介のもと、独自の入札方式で競られました。これは高額を提示して競り上がっていくオークションとは異なり、日本的な商慣習に裏打ちされたものでした。しかし現在、売立目録自体は頻繁に参照されている一方で、その制度的背景や運営の実態については十分に理解されているとは言いがたく、「売立会(入札会)=オークション」と混同される例も少なくありません。日本の美術市場は、欧米とは異なる独自の取引形態のもと、発展・展開してきた点に特徴があります。研究者が美術市場のメカニズムを知り、資料に対する理解を深める機会として第7回文化財情報資料部研究会「美術市場のメカニズムを知る」を令和7(2025)年10月9日に開催しました。
研究会では、研究会の企画者である田代裕一朗(文化財情報資料部)による司会のもと、まず川島公之氏(東京美術商協同組合 理事長、繭山龍泉堂 代表取締役社長)が、「売立、交換会について」と題して日本型の美術市場について解説し、つづいて山口桂氏(クリスティーズジャパン 代表取締役社長)が「オークションについて」と題して欧米型の美術市場を紹介しました。両氏の発表を通じて、日本と欧米における美術市場の構造的な違いが浮かび上がり、また発表後には質疑応答の時間も設けられ、研究者にとって普段深く知る機会がない美術市場のメカニズムを両氏から直接学ぶ貴重な機会となりました。
美術史研究は、美術館・博物館の学芸員や大学教員といった職業的研究者の知見のみによって支えられているものではありません。文化財情報資料部研究会が、こうした多様な視点を取り込み、広く研究に資する知見を獲得する機会となれば幸いです。
(参考)
売立目録デジタルアーカイブに関して:https://www.tobunken.go.jp/japanese/uritate.html
専門端末の予約に関して:https://www.tobunken.go.jp/joho/japanese/library/application/application_uritate.html
筆づくりの様子
筆の里工房の見学
文化財の修復に欠かせない用具や原材料は多岐にわたりますが、後継者や原材料が不足し存続の危機にあります。文化庁は、そのような事態を改善するため、令和2(2022)年より「美術工芸品保存修理用具・原材料管理等支援事業」を開始しました。これを受け、保存科学研究センターは、文化財情報資料部・無形文化遺産部と連携して受託研究「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に取り組んでいます。
本報告では、令和7(2025)年10月21日に実施した、広島県熊野町の筆づくりの現地調査について紹介いたします。
筆は日本において伝統的に用いられる筆記道具の一つですが、美術工芸品の修復でも用いられます。特に漆工品の復元模写に用いられる蒔絵筆は製作できる技術者が少なく、存続が危ぶまれている用具の一つです。初音調度(徳川美術館所蔵)の復元模写事業では、当時の精密な技法を忠実に再現するため、使用する筆も当時と同じ良質のものが求められました。
今回の調査では、筆の里工房と株式会社白鳳堂の2カ所を訪問し、熊野の筆づくりの歴史と技術の概要を把握した上で、実際に筆づくりの現場の視察を行いました。いくつもの工程で丁寧に悪い毛が取り除かれる様子や、たくさんの種類の毛の中から特性を見極めて選定されるところなどを拝見し、使い手が求める理想の書き味にするため作り手がたゆまぬ努力をされてきたことを実感しました。
筆づくりの現場でも用具・原材料の調達については、例に漏れず困難を抱えています。最も重要な毛の調達だけではなく、筆の根元をくくるための苧糸(からむしいと)や、作業工程で必需品となる櫛、軸に用いられる良質な竹など、まだまだ解決していない問題が山積しています。これまで、白鳳堂副会長・髙本美佐子氏率いる作り手と室瀬智弥氏を中心とした使い手である目白漆芸研究所が直接連携をすることで、美術工芸品修復に必要な筆の確保が少しずつ現実的になってきていますが、今後はさらに文化庁と東文研も交えて、より連携を強めながら取り組んでいきます。
開講式後の集合写真
分子模型を使用した基礎科学の講義
廃液処理方法についての講義
保存科学研究センターでは、文化財の修復に関して科学的な研究を継続してきています。令和3(2021)年度より、これらの研究で得た知見を含めて、文化財修復に必要な科学的な情報を提供する研修を開催しています。対象は文化財・博物館資料・図書館資料等の修復の経験のある専門家で、実際の現場経験の豊富な方を念頭に企画されています。
今回で5回目となる本研修は、令和7(2025)年9月30日~10月2日までの3日間で開催し、文化財修復に必須と考えられる基礎的な科学知識について、実習を含めて講義を行いました。文化財修復に必要な基礎化学、接着と接着剤について、紙の科学・劣化、生物劣化への対応、実験器具や薬品の使用上の注意や廃棄の方法などについて東京文化財研究所の研究員がそれぞれの専門性を活かして講義を担当しました。
今年度も全国から多数のご応募をいただきましたが、実習を含む内容のため全員にご参加いただくことは叶わず、16名の方にご参加いただきました。修復技術者の皆様からのご要望を踏まえ、より実践的で現場に役立つ内容を企画しました。限られた時間の中ではありましたが、実際の現場課題に対する科学的な対処方法の提案や、参加者同士の交流、情報交換が活発に行われました。開催後のアンケートでは、「非常に有益であった」との高い評価を多数いただきました。また、今後修復現場で活用したい科学的知見に関する具体的なご要望も寄せられました。これらのご意見を踏まえ、今後も同様の研修を継続的に実施していく予定です。
開講式後の集合写真
保存科学研究センターでは、令和元(2019)年度以降、文化財の保存修復に関する研修事業に力を入れており、海外の専門家を招聘し、関係機関と連携して研修を実施してきました。昨年度までは国立アートリサーチセンターとの共催でしたが、本年度は新たに国立西洋美術館とも協働し、三機関による共同開催として本研修を実施しました。
本年度の研修テーマには、東洋絵画における表装と同様、古くから絵画作品と深い関わりを持つ「額縁」を取り上げました。額縁は、絵画を鑑賞するうえで作品と切り離すことのできない存在でありながら、国内ではその重要性に対する理解が十分に浸透しておらず、保存修復に関する情報も極めて限られているのが現状です。こうした状況を踏まえ、イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館修復課の上級修復士であるバロウ由紀子氏を講師としてお招きし、令和7(2025)年10月29日から31日の3日間にわたり、文化財保存修復に関するワークショップ「額縁の歴史・技法と保存修復について」を開催しました。
午前の講義は当研究所セミナー室で行い、イギリスにおける額縁の歴史や製作技法から、現代の保存修復の実際に至るまで幅広くご講義いただきました(参加者67名)。午後は国立西洋美術館の保存修復室に会場を移し、事前に選ばれた15名の参加者がギルディング、色合わせ、クリーニングなど、イギリスで行われている保存修復技術を実践的に学びました。
また、11月1日には講演会「イギリスと日本における額縁の歴史と保存」を併催し、バロウ氏からはイギリスにおける額縁修復の歴史や修復士の仕事について、東京都美術館学芸員の中江花菜氏からは日本における洋風額縁の歴史についてご講演いただきました(参加者69名)。
三機関の協力によるワークショップ開催は初めての試みでしたが、額縁に関する理論と実践の両面を包括的に学ぶことができ、今後の保存修復の発展に資する有意義な研修となりました。