研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


国際研究集会の報告書の刊行

『「かたち」再考』表紙

 企画情報部では、前年度の2014年1月10日(金)~12日(日)の3日間にわたって、第37回文化財の保存及び修復に関する国際研究集会「「かたち」再考―開かれた語りのために―」を開催いたしました。本国際研究集会は、有形文化財を研究対象とするスタッフを中心に、ものの「かたち」とは何か、我々は何のために「かたち」に向き合っているのかという根本的な問いを通奏低音にして、「かたち」へのアプローチの方法論をテーマに企画したものでした。そのため、能楽の専門家や和歌の専門家など、いわゆる無形のものを研究対象とする研究者にご参加いただき、各学問分野における「かたち」の認識のあり方を相対化しようと試みました。また、作品を生み出す側に立つアーティストにもご登壇いただき、創作という行為にまつわる感覚を率直にお話しいただいたことも、「かたち」を入り口にしてその内奥に迫ろうとする研究者にとっては新鮮なものであったと思います。
 この度、本国際研究集会での研究発表と討議をまとめ、2014年12月17日に刊行いたしました。本書は平凡社より市販され、書店でもお買い求めいただくことができます。詳細は、次のURLをご参照ください。
http://www.heibonsha.co.jp/book/b186659.html

今泉省彦氏所蔵資料調査

今泉省彦氏の日記資料群

 今泉省彦(いまいずみよしひこ)(1931~2010年)は、戦後前衛美術を陰に陽に支えてきた人物です。画家を志していた今泉は、1950年代に雑誌『作品・批評』などに評論の執筆をはじめ、1958年には雑誌『形象』(のちに『機関』に改称)の創刊に参加しました。この『形象』を通じて、当時の若き前衛美術家たちとの交流を深め、そこで知り合った美術家たちは、1969年に開校した現代思潮社による美術学校「美学校」の講師を担うことになります。今泉は、美学校に開校準備から携わり、1975年に美学校が現代思潮社から独立した際には取締役となって、その運営に尽力してきました。
 今泉省彦氏所蔵資料の一部は、2013年にサウサンプトン大学附属美術館ジョン・ハンサードギャラリーで開かれた「叛アカデミー」展で、美学校関連資料として展示されました。今回は、その企画者のひとりである嶋田美子氏にご紹介いただいた今泉省彦夫人・榮子様のご協力のもと、企画情報部アソシエイトフェロー橘川英規と河合大介が、日記、写真、書籍・雑誌類、書簡からなる資料の調査を行いました。特に、同じ日大芸術学部出身のルポルタージュ絵画で知られる中村宏、『形象』の座談会で知り合い、その「千円札」裁判に深くかかわった赤瀬川原平、前衛グループ・九州派の中心メンバーだった菊畑茂久馬(きくはたもくま)、日本におけるコンセプチュアル・アートの第一人者である松澤宥(まつざわゆたか)といった、のちに美学校で教鞭をとることになる作家たちに関する書簡や文書が比較的多く確認できました。
 これら作家関連資料に加えて、今泉氏自身による1960~62年頃の詳細な日記も残されており、日本の前衛美術がもっとも盛んだったころの貴重な記録が含まれていると考えられます。今後、これらの資料をくわしく調べることで、戦後美術についての研究を進めていく予定です。

新海竹太郎関係資料の受贈とガラス乾板のデータベース公開

新海竹太郎《鐘ノ音》(1924年作)制作のための写真
今回受贈した新海竹太郎関係資料より。竹太郎は《鐘ノ音》制作のために、自分の作品の鋳造をいつも頼んでいた阿部胤斎にモデルになってもらいました。その折に、さまざまな角度からモデルの姿を撮影した写真が残っています。
新海竹太郎関連ガラス乾板データベース、《鐘ノ音》の検索結果

 新海竹太郎(1868~1927年)はヨーロッパで彫刻を学び、《ゆあみ》(1907年作 重要文化財)をはじめとする作品を発表、日本彫刻の近代化に大きく貢献した彫刻家として知られています。昨年11月の活動報告でもお伝えしたように、竹太郎の孫にあたられる新海堯氏より、主にその作品を撮影したガラス乾板一式を当研究所へご寄贈いただいておりましたが、このたび新たに自筆ノートや制作に関する写真・書類等、竹太郎にまつわる資料一式をご寄贈いただくことになりました。同資料については、寄贈を仲介していただいた田中修二氏(大分大学教育福祉科学部准教授)の著書『彫刻家・新海竹太郎論』(東北出版企画、2002年)の中でも言及され、竹太郎の制作活動を解明する上で重要な資料であることが知られています。今回の寄贈を機に、田中氏にはあらためて同資料について、当研究所の研究誌『美術研究』でご紹介いただく予定です。また同資料には竹太郎と親交のあった明治期の仏教美術研究者、平子鐸嶺(ひらこたくれい)(1877~1911年)のノートも含まれており、日本近代彫刻史のみならず仏教美術史の観点からも今後調査を進めていきたいと思います。
 なお昨年ご寄贈いただいたガラス乾板については画像をデジタル化し、当研究所のホームページ上にてデータベースとして公開を始めました。
 (http://www.tobunken.go.jp/materials/sinkai)本サイトは企画情報部研究補佐員の小山田智寛の作成によるもので、竹太郎の作品および竹太郎が郷里の山形で師事した細谷風翁(ほそやふうおう)・米山(べいざん)父子の南画を撮影したガラス乾板182枚のデジタル画像を公開、作品名等の文字検索も可能です。竹太郎の代表作はもちろん、今日では現存しない作品の画像も含まれておりますので、ぜひご活用ください。

イギリス・セインズベリー日本藝術研究所との「日本芸術研究の基盤形成事業」推進のための協議開催

Cathedral Hostryでの講演の様子

 セインズベリー日本藝術研究所(Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Cultures; SISJAC)は、ロンドンより北に車で約2時間、ノーフォーク県のノリッジ(Norwich)という小さな町に所在しています。セインズベリー夫妻によって1999年に設立されたSISJACは、日本芸術文化研究の拠点の一つとして、日本美術史や日本考古学の関係者にはよく知られた存在です。
 セインズベリー日本藝術研究所と東京文化財研究所(東文研)は、2013年7月より「日本芸術研究の基盤形成事業」を立ち上げ、主に欧米の日本美術の展覧会や日本美術に関する書籍・文献の英語情報を収集しています。これまで東文研は、日本美術にかかわる情報を収載した「文化財関係文献データベース」を公開してまいりましたが、これらの情報は日本国内に限定されたものでした。今後は、SISJACの収集した情報を東文研のデータベースに集約し、日本国外における日本美術関連情報も、東文研のデータベース上で検索が行えるようなシステムの構築を目指しております。
 本事業推進のため、2014年10月9日(木)より10月20日(月)までの約10日間、企画情報部の皿井舞がSISJACに滞在し、SISJACスタッフとともに、すでに収集した情報の確認作業や公開に向けての作業内容の手順確認等を行いました。
 また滞在期間中の16日(木)には、SISJACが毎月第3木曜日に行っている講演会Third Thursday Lectureにて、”Buddhist Wooden Sculptures in the Early Heian Period : From a Standpoint of Syncretisation of Shinto with Buddhism”と題した講演を行いました。SISJACに隣接した大聖堂内の講堂において、80人近くものノリッジ市民が日本の平安時代の木彫仏に関する講演に耳を傾けてくれました。講演後にも多くの質問が投げかけられ、日本美術に対する関心の高さを実感しました。

岸田劉生作「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」(東京国立近代美術館蔵)光学調査

岸田劉生作「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」の画像撮影

 企画情報部のプロジェクト研究「近現代美術に関する交流史的研究」では、日本を含む東アジアを中心とする交流に関する調査研究を目的のひとつにしています。
 この一環として、東京国立近代美術館が所蔵する岸田劉生による「古屋君の肖像(草持てる男の肖像)」(1916年)、ならびに「壺の上に林檎が載つて在る」(1916年)の2点の油彩画の光学調査を10月16日に行いました。
 今回の調査では、いずれの作品も岸田劉生がアルブレヒト・デューラー等のヨーロッパ古典絵画から影響を深く受けていた時期の作品だけに、図様だけではなく、技法、表現等の画面の細部を検証するために行われました。
 ヨーロッパ古典絵画にみられる平滑な画面は、テンペラ、油彩等の技法をふまえて積み上げ得られた絵画であったといえますが、岸田劉生は、もとより複製図版からの受容であっただけに、そうした理解があったのかどうか、当時の作品を観察することは、受容史の面からも重要な問題です。撮影にあたっては、画家の筆致や現在の画面の状態を視覚化できるように画面に均一な光を与えるだけでなく、油彩による画面の凹凸が把握できるように作品の左側から鋭角に照らす光を加えて実施しました。(撮影担当:企画情報部専門職員城野誠治)また、同時に反射近赤外線撮影を行いました。このような撮影によって得られた画像から、描き直しや模索などの跡がまったくなく、制作時にまでにかなりイメージを固めた状態で描かれたことが確認できました。
 なお今回の光学調査は、東京国立近代美術館ならびに修復家斎藤敦氏の協力のもとに実施することができたものであり、深く感謝する次第です。またその成果は、『美術研究』に論文「岸田劉生の写実表現と『貧しき者』という芸術家像の形成―岸田劉生の『駒沢村新町』療養期を中心に」(仮題)中で公表する予定です。

第48回オープンレクチャーの開催

講演の様子

 企画情報部では毎年秋に行うオープンレクチャーを、今年は10月31日(金曜日)、11月1日(土曜日)の両日にわたって「モノ/イメージとの対話」を総タイトルに掲げ、午後1時30分より地下セミナー室を会場にして開催いたしました。このオープンレクチャーは日々、文化財に向き合って研究を行うなかで得られた知見の一端を多くの人に知っていただくことを目的として開催しています。今年で48回目となりました。
 1日目は、文化形成研究室長・津田徹英が「一流相承系図(絵系図)の構想と機能」と題し、続いて、名古屋大学大学院教授・伊藤大輔氏が「院政期絵画における二つの美の原理―似絵の成立をめぐって―」題して講演を行いました。晴天に恵まれ108人の聴講となりました。
2日目は、近・現代視覚芸術研究室長・塩谷純が「仙台・昭忠碑、被災から復興に向けて」と題し、続いて、千葉工業大学教授・河田明久氏が「表象と本物」と題し、講演を行いました。塩谷の講演では、実際に修復に携われた高橋裕二氏にご登壇いただき報告をしていただきました。当日はあいにくの降雨となり肌寒い一日となったにもかかわらず55人の聴講がありました。
 両日ともに実施したアンケートの集計から、1日目は91.7%、2日目は83.7%の方々より満足を得たとの回答を頂戴いたしました。

ポンジャ現懇創立10周年記念シンポジウム「For a New Wave to Come Post-1945 Japanese Art History Now」への参加と美術関係図書館・アーカイブ関連施設の視察

シンポジウム2日目(ジャパン・ソサエティ)の様子

 2014年9月12日と13日にわたって、ニューヨーク近代美術館研修室、ニューヨーク大学およびジャパン・ソサエティーにおいて、ポンジャ現懇(PoNJA-GenKon)創立10周年記念シンポジウム「For a New Wave to Come: Post-1945 Japanese Art History Now」が開催されました(ニューヨーク大学東アジア研究部門[トム・ルーサー教授]とポンジャ現懇の共催)。ポンジャ現懇は、日本の現代美術に関心のある英語圏の専門家らに、対話やフォーラムの場を提供することを目的とし、これまでにミシガン大学やゲッティ研究所、グッゲンハイムなど大学や研究機関、美術館などと協力してシンポやパネルディスカッションを開催してきました。筆者は、1日目のワークショップにおいて、「Seeing A Panorama of Sightseeing Art at Tama: Nakamura Hiroshi’s Notebook at Tobunken」と題して、東京文化財研究所が所蔵する観光芸術研究所《観光芸術多摩川展パノラマ図》やその関連の映像を用いて、1964年に開催されたこの野外展を詳細に紹介し、また、当時の美術界における意義についての考察を発表しました。このシンポジウムは、大学院生から第一線の専門家まで16人の研究発表があり、各セッションのパネルディスカッションでは活発な議論が展開されました。
 また、このシンポジウムへの参加と合わせて、美術関係図書館およびアーカイブ関連施設(コロンビア大学C. V. スター東アジア図書館、メトロポリタン美術館ワトソンライブラリー、ニューヨーク近代美術館アーカイブ、ニューヨーク公共図書館アート&アーキテクチャーコレクション)などを視察し、それぞれの機関の担当者と日本美術研究資料についての情報交換を行いました。
 なお今回は、国際交流基金の派遣により、シンポジウムでの発表、関連施設の視察をさせていただきました。

美術雑誌『國華』掲載作品図版の受け入れ

『國華』第1426号表紙

 『國華』は明治22年(1889)に創刊された美術雑誌です。125年を超える歴史をもち、現在1430号もの刊行数を誇っています。1859年にパリで創刊されたガゼット・デ・ボザール(Gazette des beaux-arts)が2002年に廃刊された後は、世界でもっとも古い美術雑誌として知られています。
 ひときわ大きな判型に(刊行当初は四六倍版で、昭和19年以降現在のB4判となる)、図版を豊富に掲載する豪華なスタイルは創刊当初から変わらず、そこには美術の新興に燃えた岡倉天心と高橋健三という2人の創刊者の意気込みが感じられます。また東洋美術史学研究の発展を創刊の目的のひとつにかかげた本誌は、まさに東洋美術史領域におけるもっとも重要な学術雑誌となっています。
 この度9月25日に、『國華』を編集されている國華社より、およそ800号から1200号の各号に掲載された作品の紙焼き図版をご寄贈いただきました。台紙に張り付けられ、整理された図版は、分量にして段ボール箱45箱分にものぼるものでした。
 『國華』に掲載される作品は美術史研究者の厳密な査定を経ており、そうした作品の図版は、東洋美術史を研究するものにとって基礎となる非常に重要なものばかりです。これらの図版は号数順にまとめて当研究所閲覧室のキャビネットに配架いたしました。閲覧室にお越しの皆様には自由にご覧いただくことができますので、貴重な資料をぜひご活用ください。

企画情報部研究会―黒田清輝宛書簡について2件の研究発表

高羲東(コ・フィドン、1886-1965)「程子冠をかぶる自画像」、1915年、東京藝術大学蔵

 企画情報部の文化形成研究室では、プロジェクト研究として「文化財の資料学的研究」を進めています。この研究は、日本を含む東アジア地域における美術の価値形成の多様性を解明することを目的に、基礎的な資料の解析等を行っています。基礎的な資料の一つとして、当研究所が保管する黒田清輝宛書簡約7400件の整理とリスト化を継続的にすすめています。
 その一環であり、同時に研究成果として、黒田清輝宛書簡のなかから、中国、朝鮮等のアジア諸地域から東京美術学校に留学し、黒田に師事した学生たちの書簡、ならびに黒田と深い関係にあった画家藤島武二の書簡に基づく研究会を8月6日に開催しました。研究会では、吉田千鶴子(東京藝術大学)氏が、「黒田清輝宛外国人留学生書簡 影印・翻刻・解題」、児島薫(実践女子大学)氏が「藤島武二からの黒田清輝、久米桂一郎宛書簡について」と題して、それぞれ発表が行われました。前者については、朝鮮からの留学生であった高羲東(コ・フィドン、1886-1965)をはじめとして、東京美術学校で学んだ後にそれぞれの国の美術界で重要な活動をした人物からの書簡等6通について留学生たちの紹介とそれぞれの書簡の内容の検討がありました。また後者では、当研究所が保管する藤島書簡37通、ならびに他機関が所蔵する書簡をもとに、藤島武二が東京美術学校西洋画科に迎えられる折の交信など、これまでの藤島武二研究ではみられなかった黒田、久米と藤島の関係が次第に親密になっていく過程や、美術学校内の人事をめぐる様子が検証、紹介されました。
 今回の両氏による発表にもとづく研究成果は、『美術研究』の「研究資料」として順次掲載する予定です。

7月企画情報部研究会

研究会の様子

 企画情報部では、毎月、研究会を行っています。7月は、29日(火曜日)午後3時より、部内の研究会室において、文化形成研究室長・津田徹英を発表者として、「平安木彫像の内刳りの始源」というタイトルで口頭発表を行いました。今回の発表は、自身が研究代表者となっている科研「近江の古代中世彫像の基礎的調査・研究―基礎データと画像蓄積のために―」(平成24~26年)の成果報告も一部兼ねるものでもあります。当日、研究会には、かつて当研究所の所長であった西川杏太郎氏が参加されました。西川氏は津田の口頭発表の後、ご自身が長年、仏像彫刻の修復の現場に立ち会われて、そこで培われてきた豊富な知見に立脚しながら、発表に対する所見を述べるとともに、あわせて様々なアドバイスをして下さいました。その所見・アドバイスは、専門外の参加者にも非常にわかりやすく魅力的であり、かつ、普段なかなか知り得ない仏像の造像技法に関する専門的な情報を多く含むものであり、それらを惜しみなく披瀝され、発表者はもとより研究会参加者にも非常に貴重な機会となりました。

京都文化博物館での黒田清輝展開催

《智・感・情》の光学調査に基づく画像の展示と、植田彩芳子氏(京都文化博物館学芸員)によるギャラリートークの様子
《昔語り》の原寸大画像

 1930(昭和5)年、洋画家黒田清輝の遺産を基に発足した当研究所は、その功績を顕彰するため黒田記念室を設けて代表作《湖畔》や《智・感・情》をはじめとする作品を展示し、また昭和52年より毎年一回、国内各地の美術館で「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」を開催してきました。2007(平成19)年に作品が東京国立博物館へ移管となった後も同館との共催で各地での巡回展を続けてきましたが、黒田の没後90年となる今年は、《舞妓》や《昔語り》等、たびたび黒田作品の舞台となった京都での開催となり、京都文化博物館を会場に6月7日から7月21日まで行ないました。
 今回の展観では《湖畔》や《智・感・情》といった黒田の作品に加え、当研究所での光学調査による画像もインスタレーション風に展示されました。また当研究所に残っていたガラス乾板をもとに、戦災で失われた大作《昔語り》の原寸大画像(189×307㎝)を展示、その大きさをあらためて実感する機会となりました。開催初日の6月7日には特別講演会「黒田清輝と日本の近代美術」で塩谷が講師をつとめ、6月21日には京都文化博物館学芸員の植田彩芳子氏が「黒田清輝は京都で何を見たか」と題して、最新の研究成果をふまえたレクチャーを行ないました。黒田の留学先にちなんで6月20日には京都市立芸術大学音楽学部生によるフランス音楽のコンサートも開かれるなど、より多くの方が楽しめるイベントもあり、展覧会は好評のうちに終了、例年の巡回展をはるかに上回る4万余の方々にご来場いただきました。
 なお、これらの黒田作品を常時公開する黒田記念館が平成27年1月2日からリニューアル・オープンするのに伴い、このたびの京都展をもって、毎年催してきた巡回展は終了となります。《湖畔》や《智・感・情》にくわえ、《読書》や《舞妓》といった黒田の代表作を一堂に展示し、また従来よりも開館日数を増やしますので、より多くの方々に上野でご鑑賞いただきますよう、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

第38回世界遺産委員会への参加

日本から推薦した資産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に関する審議の様子
会場となったカタール国立会議場のロビー

 第38回世界遺産委員会は6月15日~6月25日、カタールの首都ドーハで開催されました。当研究所では委員会開催前から、世界遺産リスト記載資産の保全状況や、リスト記載への推薦に関する資料の分析を行うとともに、委員会の場では、世界遺産に関わる動向の情報収集を行いました。
 今回の世界遺産委員会では新たに26件の資産がリストに記載され、合計1,007件となりました。アフリカから唯一の記載勧告を受けた推薦だったこともあり、オカバンゴ・デルタ(ボツワナ)が審議順を変更し記念すべき1,000件目として記載されました。日本が推薦し記載された「富岡製糸場と絹産業遺産群」の審議では、日本以外の20の委員国のうち18の国が記載賛成の発言を行い、近代の産業遺産で、技術の交流・融合の証拠であることに多くの国が言及しました。
 また、危機遺産リストについて、3件の資産が記載、1件が除外されました。記載されたうち1件はパレスチナの「パレスチナ:オリーブとブドウの地 エルサレムの南部バティールの文化的景観」で、緊急の登録推薦資産のため自動的に危機遺産リストに記載されています。
 なお、今回の世界遺産委員会では諮問機関から記載延期勧告を受けた13件のうち8件、緊急の登録推薦で不記載勧告を受けた1件、及び情報照会勧告の2件全てが記載されています。専門家集団の諮問機関の勧告を覆しての記載決議の乱発は、委員会の信頼性や透明性にかかわります。東京文化財研究所は委員国の構成やその年によって変化する世界遺産委員会の動向に着目し、調査を継続します。

研究資料データベース検索システムのリニューアル

研究資料データベース検索システム トップページ

 「研究資料データベース検索システム」
 (http://www.tobunken.go.jp/archives/)をリニューアルしました。これは、昨年度、当所アーカイブズ運営委員会のもとに組織されたアーカイブズ・ワーキング・グループで取り組んでいる全所横断的な研究資料アーカイブズ構築の成果の一端が反映されたものです。今回のリニューアルでは、検索システムの操作性、コンテンツの両面で大幅な改定がありました。
 当所の研究資料データベースは、2002年に和漢書と売立目録の所在情報をインターネット上に公開して以来、各部署の蔵書情報や、関連分野の文献 情報・展覧会開催情報・伝統楽器情報などを公開し、文化財研究機関ならではの有効なコンテンツを発信する役割を担ってきました。その一方で、サイト利用者からは「システム内の複数データベースの横断検索」、「複数のキーワードによる掛け合わせ検索」、「検索結果の並び替え」などができるようにしてほしいなど、操作性の改善を望む声が寄せられていました。これまでのサイトは、データベース言語「SQL」とWebアプリケーションフレームワーク「Microsoft aspx」で構築してものでしたが、それを「MySQL」と「WORDPRESS(PHP)」の組み合わせに改め、それらの問題を解決し、操作性を向上させました。
 さらにコンテンツ面では、当所刊行物の掲載論文や記事の情報の収録件数を53万件に増やしました。これまでの収録対象は研究誌『美術研究』、『芸能の科学』、『保存科学』に掲載された論文のみでしたが、さらに各種研究成果報告書、『日本美術年鑑』、『東文研ニュース』、『年報』などを含め、また論文以外の彙報記事も収録したためです。これによって当研究所の研究成果に加えて、研究プロジェクトの進捗状況を伝える記事などへのアクセスも改善されました。
 引き続き、専門性の高い情報にアクセスしやすい環境を整え、効率よく活用できる方向を検討しております。ご利用いただき、お気づきの点がございましたら、本システムの「ご意見・お問い合わせ」フォーム(http://www.tobunken.go.jp/archives/ご意見・お問い合わせ)からご一報いただけますと幸いです。

企画情報部研究会の開催―廉泉の大村西崖宛書簡について

廉泉のポートレート(東京芸術大学美術学部教育資料編纂室蔵)

 企画情報部の近・現代視覚芸術研究室では、日本を含む東アジア諸地域の近現代美術を対象にプロジェクト研究「近現代美術に関する交流史的研究」を進めています。その一環として4月25日の企画情報部研究会では、東京工業大学准教授の戦暁梅(せんぎょうばい)氏に「廉泉(れんせん)の大村西崖(おおむらせいがい)宛書簡について」の題でご発表いただきました。廉泉(1863‐1932)は書画蒐集家、詩人として活躍した近代中国の文人で、数回にわたり来日し、コレクションの展覧や図録の出版を行っています。東洋美術史の泰斗として知られる大村西崖(1868‐1927)に廉泉が宛てた書簡34通が、東京芸術大学美術学部教育資料編纂室に近年寄贈された西崖関連資料の中に含まれており、今回の発表はその調査研究に基づいたものです。廉泉は唐寅(とういん)、文徴明(ぶんちょうめい)、王建章(おうけんしょう)といった明清書画家の扇面1000点余を所持していましたが、書簡にはとくにその扇面コレクションの売却をめぐる内容が多くみられ、文面からは西崖への信頼関係の深さがうかがえます。西崖も大正10(1921)年から翌年にかけての中国旅行の折に、呉昌碩(ごしょうせき)や王一亭(おういってい)といった書画界の著名人への紹介等、廉泉の世話になったことが書簡からわかり、当時の日中文化人の交流をヴィヴィッドに伝える貴重な資料といえるでしょう。研究会には著述家・中国版画研究家の瀧本弘之氏や東京芸術大学美術学部教育資料編纂室の吉田千鶴子氏も参加され、議論を深めていただきました。この廉泉の書簡については、当部編集の研究誌『美術研究』で戦暁梅氏によりあらためて翻刻・紹介する予定です。

東京国立博物館蔵普賢菩薩像の共同調査

普賢菩薩像の画像撮影

 企画情報部では、東京国立博物館に所蔵される平安仏画の共同調査を継続して行っています。これを精度の高い画像で撮影し、絵としての作りを実物の目視で観察できる以上の細部にわたって探ろうとする試みです。これまで虚空蔵菩薩像(国宝)、千手観音像(国宝)の調査を行ってきましたが、3月26日、本年度分として平安仏画の中でも殊に評価の高い普賢菩薩像(国宝)について撮影を行いました。得られた画像は東京国立博物館の研究員と共有して検討し、今後その美術史的意義について検討してまいります。

企画情報部研究会「ウェブ版『みづゑ』の研究と開発―美術史料のデジタル公開と美術アーカイブへの展望―」

Web版『みづゑ』トップページ

 企画情報部では毎月一回、研究情報の共有化のために研究会を行っています。3月は25日(火曜日)2時より、標記のテーマで、文化形成研究室長・津田徹英、アソシエイトフェロー・橘川英規、国立民族学博物館・丸川雄三、国立情報学研究所・中村佳史、同・吉崎真弓が報告を行いました。報告の対象となった『みづゑ』は、1905(明治38)年に創刊され、その後、1992(平成4)年に一時休刊し、2001(平成13)年の復刊を経て、2007(平成19)年に再び休刊した美術雑誌です。約1世紀にわたって刊行され続けた美術雑誌であっただけに、近代日本の美術界に与えた影響は多大であり、資料的価値が高いことはいうまでもありません。しかも明治期刊行分90号までは、入手が困難なうえに、これをまとめて所蔵するところが少なく、東京文化財研究所でも貴重書に準じる扱いとなっています。しかしその一方で公開が強く望まれていた資料でもありました。そこで明治期に刊行された分について、記事等、既に著作権が消滅しているものが多いことをかんがみてWebでの公開を行うことを目指し、企画情報部と国立情報学研究所連想情報学研究開発センターが、それぞれが蓄積するノウハウを持ち寄って2011年から3か年にわたって共同研究・開発を行いました。あわせて、この共同研究・開発は、『みづゑ』をモデルケースとし、文字情報が主となる文化財情報の発信に関して、ひとつの可能性を示すことを念頭に置いて取り組んだものでもあります。もとより、企画情報部研究プロジエクト「文化財の研究情報の公開・活用のための総合的研究」の一環です。そのWeb上での成果公開にあたり、企画情報部内で情報を共有するために開催したのがこの研究会です。なお、共同研究・開発による『みづゑ』のWeb版は、「東京文化財研究所所蔵資料アーカイブズ みづゑ」として公開しております。是非、ご覧ください(http://mizue.bookarchive.jp/

研究会「アート・アーカイヴの諸相」の開催

 研究プロジェクト「文化財の研究情報の公開・活用のための総合的研究」の一環として、2月25日に加治屋健司氏(広島市立大学)、上崎千氏(慶応 義塾大学アートセンター)を招へいし、企画情報部アソシエートフェロー橘川英規を加えて、日本及びアメリカの現代美術のアーカイヴに関する研究会 を当研究所セミナー室で開催しました。
 第1部の個別発表では、加治屋氏がアメリカにあるアーカイヴ機関(スミソニアン美術アーカイヴ、ゲッティ研究所、MoMAなど)を美術史家という 利用者の視点からその利用について、クレメント・グリンバーグの書簡を挙げて紹介、上崎氏は草月アートセンターのエフェメラ資料群データベースを 用いてアーキヴィストの思考性について発表、橘川は画家中村宏氏作成ノートを例に「ライブラリアンによるアーカイヴ資料紹介」を試みました。第2 部では、個別発表を踏まえ、ディスカッションを行い、その中で、それぞれの立場でのアーカイヴの考え方の共通性と差異性が明確に提示されまし た。本研究会には外部聴講者を含めて95名の方に参加していただき、会場の専門家らからも活発に意見が交わされ、改めて「美術研究にとって有益な アーカイヴの在り方」を考え直す良い機会となりました。

新海竹太郎関連ガラス乾板の受贈

新海竹太郎《決心》(1907年作、現存せず)のガラス乾板画像

 新海竹太郎(1868~1927年)はヨーロッパで彫刻を学び、《ゆあみ》(1907年作 重要文化財)をはじめとする作品を発表、日本彫刻の近代化に大きく貢献した彫刻家として知られています。このたび竹太郎の孫にあたられる新海堯氏より、田中修二氏(大分大学教育福祉科学部准教授)を介して、竹太郎の作品および竹太郎が郷里の山形で師事した細谷風翁・米山父子の南画を撮影したガラス乾板一式をご寄贈いただくことになりました。それらの写真は竹太郎本人がカメラマンに依頼して撮影させたもので、明治40(1907)年開催の東京勧業博覧会で一等賞を受賞した《決心》等、現存しない作品の画像も含まれ、竹太郎の制作活動は勿論、日本近代彫刻史を語る上でも貴重な資料といえます。当研究所は、戦前に竹太郎の甥の新海竹蔵氏が作製した遺作写真集を所蔵していますが(資料閲覧室で閲覧可能)、その作製の折にも今回ご寄贈いただいた乾板が用いられたものと思われます。このたびの受贈を機に乾板の全画像をデジタル化し、当研究所ホームページのデジタルアーカイブで公開する予定です。

国際シンポジウムに向けての研究会

 当研究所が主催する国際研究集会「『かたち』再考―開かれた語りのために」の開催に先立ち、当日の議論を深めるため、第一セッションでご発表いただく小沢朝江氏(東海大学、日本建築史)をお招きし、9月9日(火)15時より企画情報部研究会室において研究会を行いました。
 小沢氏は、「近代における「様式」の創造と構築 ―巡幸・巡啓施設をめぐって」の題目で、明治初期の行在所(アンザイショ)や御小休所(オコヤスミショ)といった巡幸施設の建築のかたちを対象に、明治天皇行幸は洋風化された皇室像を印象付けるものであったという一般の理解に反して、用いられたのは和風建築が圧倒的に多かったこと、洋風建築が用いられた場合も置畳・御簾などの調度によって近世までの玉座のかたちが作られたことを指摘され、異文化に由来するかたちを受容する際にも、かたちと人の間の既成の関係が踏まえられていることを明らかにされました。
 建築の分野では、かたちの背後にある人の思惑や受容のあり方の類似性の考察が加わってはじめて分類が可能となることがうかがえ、かたちをめぐる諸分野の考察方法を見直すきっかけとなりました。

企画情報部研究会

第八回白馬会展覧会出品目録

 9月24日、当部研究会において、「新出資料 『第八回白馬会展覧会出品目録』」と題し、植野健造氏(福岡大学人文学部教授)による研究発表がありました。白馬会は、黒田清輝と中心にした明治中期の洋画の美術団体です。1896(明治29)年に第一回展を開催後、1911(明治44)年に開催するまで、13回の展覧会を開催しました。同氏は、これまで白馬会研究をかさねていたのですが、新出の資料は、唯一知られることのなかった第八回展(1903年)の出品目録でした。この八回展には、当時東京美術学校に在学中の青木繁の作品も入選し、最初の白馬賞を受賞していました。しかし、出品目録がこれまで発見されていなかったために、当時の新聞、雑誌等の報道によってその出品作を推察するということにとどまっていました。また、黒田をはじめ、同会会員たちの出品作についても同様な状況でした。それが、この出品目録によって、たとえば青木繁の場合は、「闍威弥尼」等の神話や古代仏教に由来した題名と点数(14点)を知ることができました。今回の発表で紹介された目録は、その点でたいへん貴重な資料といえます。なお、この出品目録は、『美術研究』において「研究資料」として紹介する予定です。

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