近代中国の書画史学―令和6年度第4回文化財情報資料部研究会の開催

 1920、30年代は日本と中国の美術交流を考えるうえで、きわめて重要な時代です。この少し前、日本では大村西崖(1868~1927)や中村不折(1866~1943)などによって中国絵画史学が形成されつつありました。近年、東京美術学校教授であった西崖が遺した『中国旅行日記』等の史料によって、日中の美術交流の諸相が明らかにされつつありますが、日中双方の社会情勢および美術界の動向をふまえた研究がもとめられています。
 令和6(2024)年7月23日に開催された文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部客員研究員の後藤亮子氏が「余紹宋と近代中国の書画史学」と題した研究発表を行いました。後藤氏は西崖の『中国旅行日記』の研究に長年従事し、その調査の過程で、この時期が中国美術史学の展開においても重要な時代であったことに着目しました。そこで、日本への留学経験があり『書画書録解題』(1931年刊)の著者である余紹宋(1883-1949)に焦点をあて、余紹宋と日本との関わりと近代中国の書画史学の形成について論じました。
 余紹宋は1920~30年代前後に活躍した史学家です。その著書『書画書録解題』は、中国の書画関係文献に関する初の専門解説書かつ必須参考文献として今日も高く評価される一方、余紹宋その人についての情報は極めて限られる状況が長く続きましたが、近年『余紹宋日記』その他の資料が公開され、中国の近代化におけるその役割が研究対象となりつつあります。余紹宋は明治38 (1905)年に日本に留学し、法学を修め、帰国後は官僚となりました。大正10(1921)年には政府の司法次長となります。いっぽうで湯貽汾(1778~1853)の孫に絵を学び、画史や画伝を博捜して徐々に美術界にも足跡を残すようになりました。昭和2(1927)年には官職を退き、学者、書画家、美術家として生きました。 
 後藤氏は、余紹宋の生涯とかれの画学研究、さらに書画の実践をたどりながら、先述の『書画書録解題』のみならず、『画法要録』(1926年刊)、美術報『金石書画』(1934-37年刊)などの著作を読み解き、中国美術史学における位置づけを検討しました。日本を通して西洋的知見を習得した余紹宋が国故整理運動と呼ばれる復古的なアプローチで伝統的な中国書画文化にクリティカルな目を向け、それが中国美術研究の近代化の礎石のひとつとなったと論じました。研究会は所外の専門家の方々にもご参会いただき、近代中国および日本における中国美術史学、東洋美術史学の成立過程に関する有意義な意見交換が行われました。

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