研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


広島県熊野町の筆製作に関する現地調査

筆づくりの様子
筆の里工房の見学

 文化財の修復に欠かせない用具や原材料は多岐にわたりますが、後継者や原材料が不足し存続の危機にあります。文化庁は、そのような事態を改善するため、令和2(2022)年より「美術工芸品保存修理用具・原材料管理等支援事業」を開始しました。これを受け、保存科学研究センターは、文化財情報資料部・無形文化遺産部と連携して受託研究「美術工芸品修理のための用具・原材料と生産技術の保護・育成等促進事業」に取り組んでいます。
本報告では、令和7(2025)年10月21日に実施した、広島県熊野町の筆づくりの現地調査について紹介いたします。
 筆は日本において伝統的に用いられる筆記道具の一つですが、美術工芸品の修復でも用いられます。特に漆工品の復元模写に用いられる蒔絵筆は製作できる技術者が少なく、存続が危ぶまれている用具の一つです。初音調度(徳川美術館所蔵)の復元模写事業では、当時の精密な技法を忠実に再現するため、使用する筆も当時と同じ良質のものが求められました。
 今回の調査では、筆の里工房と株式会社白鳳堂の2カ所を訪問し、熊野の筆づくりの歴史と技術の概要を把握した上で、実際に筆づくりの現場の視察を行いました。いくつもの工程で丁寧に悪い毛が取り除かれる様子や、たくさんの種類の毛の中から特性を見極めて選定されるところなどを拝見し、使い手が求める理想の書き味にするため作り手がたゆまぬ努力をされてきたことを実感しました。
 筆づくりの現場でも用具・原材料の調達については、例に漏れず困難を抱えています。最も重要な毛の調達だけではなく、筆の根元をくくるための苧糸(からむしいと)や、作業工程で必需品となる櫛、軸に用いられる良質な竹など、まだまだ解決していない問題が山積しています。これまで、白鳳堂副会長・髙本美佐子氏率いる作り手と室瀬智弥氏を中心とした使い手である目白漆芸研究所が直接連携をすることで、美術工芸品修復に必要な筆の確保が少しずつ現実的になってきていますが、今後はさらに文化庁と東文研も交えて、より連携を強めながら取り組んでいきます。

令和7年度「文化財修復技術者のための科学知識基礎研修」の開催

開講式後の集合写真
分子模型を使用した基礎科学の講義
廃液処理方法についての講義

 保存科学研究センターでは、文化財の修復に関して科学的な研究を継続してきています。令和3(2021)年度より、これらの研究で得た知見を含めて、文化財修復に必要な科学的な情報を提供する研修を開催しています。対象は文化財・博物館資料・図書館資料等の修復の経験のある専門家で、実際の現場経験の豊富な方を念頭に企画されています。
 今回で5回目となる本研修は、令和7(2025)年9月30日~10月2日までの3日間で開催し、文化財修復に必須と考えられる基礎的な科学知識について、実習を含めて講義を行いました。文化財修復に必要な基礎化学、接着と接着剤について、紙の科学・劣化、生物劣化への対応、実験器具や薬品の使用上の注意や廃棄の方法などについて東京文化財研究所の研究員がそれぞれの専門性を活かして講義を担当しました。
 今年度も全国から多数のご応募をいただきましたが、実習を含む内容のため全員にご参加いただくことは叶わず、16名の方にご参加いただきました。修復技術者の皆様からのご要望を踏まえ、より実践的で現場に役立つ内容を企画しました。限られた時間の中ではありましたが、実際の現場課題に対する科学的な対処方法の提案や、参加者同士の交流、情報交換が活発に行われました。開催後のアンケートでは、「非常に有益であった」との高い評価を多数いただきました。また、今後修復現場で活用したい科学的知見に関する具体的なご要望も寄せられました。これらのご意見を踏まえ、今後も同様の研修を継続的に実施していく予定です。

「文化財保存修復に関するワークショップ―額縁の歴史・技法と保存修復について―」および「文化財保存修復に関する講演会―イギリスと日本における額縁の歴史と保存―」の開催報告

開講式後の集合写真

 保存科学研究センターでは、令和元(2019)年度以降、文化財の保存修復に関する研修事業に力を入れており、海外の専門家を招聘し、関係機関と連携して研修を実施してきました。昨年度までは国立アートリサーチセンターとの共催でしたが、本年度は新たに国立西洋美術館とも協働し、三機関による共同開催として本研修を実施しました。
 本年度の研修テーマには、東洋絵画における表装と同様、古くから絵画作品と深い関わりを持つ「額縁」を取り上げました。額縁は、絵画を鑑賞するうえで作品と切り離すことのできない存在でありながら、国内ではその重要性に対する理解が十分に浸透しておらず、保存修復に関する情報も極めて限られているのが現状です。こうした状況を踏まえ、イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館修復課の上級修復士であるバロウ由紀子氏を講師としてお招きし、令和7(2025)年10月29日から31日の3日間にわたり、文化財保存修復に関するワークショップ「額縁の歴史・技法と保存修復について」を開催しました。
 午前の講義は当研究所セミナー室で行い、イギリスにおける額縁の歴史や製作技法から、現代の保存修復の実際に至るまで幅広くご講義いただきました(参加者67名)。午後は国立西洋美術館の保存修復室に会場を移し、事前に選ばれた15名の参加者がギルディング、色合わせ、クリーニングなど、イギリスで行われている保存修復技術を実践的に学びました。
 また、11月1日には講演会「イギリスと日本における額縁の歴史と保存」を併催し、バロウ氏からはイギリスにおける額縁修復の歴史や修復士の仕事について、東京都美術館学芸員の中江花菜氏からは日本における洋風額縁の歴史についてご講演いただきました(参加者69名)。
 三機関の協力によるワークショップ開催は初めての試みでしたが、額縁に関する理論と実践の両面を包括的に学ぶことができ、今後の保存修復の発展に資する有意義な研修となりました。

フノリの安定供給に向けての現地調査・現地協議

採取場でのフノリ生育の様子
上対馬漁協との協議

 保存科学研究センターでは、文化庁から「美術工芸品に用いられる用具・原材料の調査」研究委託を受け、文化財情報資料部・無形文化遺産部とともに事業を遂行しています。令和7(2025)年5月13日-14日にフノリと呼ばれる材料の調査のため、長崎県対馬市を訪れました。
 フノリは紅藻類フノリ科フノリ属をまとめた呼び名でマフノリとフクロフノリが主に活用されています。フノリを脱色し天日干しして板のような状態にしたものを板(いた)布(ふ)海苔(のり)といいます。板布海苔の状態・あるいは海藻の状態のまま煮溶かして作った糊は、美術工芸品の製作(織物・漆喰・筆など)や文化財修復の現場で多く使われます。特に文化財修復では、洗い流せば水に溶けてきれいに取り除けるというフノリの特性が大変重宝され、作品の表面保護の「表打ち」に用いられています。表面の汚れも同時に取り除く効果があるため、文化財修復においてなくてはならない材料のひとつです。
 しかしその一方で人材不足や環境変化による収穫量の減少により、フノリを入手するのが難しくなってきています。
 糊として使われるフノリのほとんどは対馬や五島列島で採取されています。この度の調査では、文化庁の岡村一幸氏と、板布海苔製造の貴重な担い手となっている株式会社大脇満蔵商店の大脇豊弘氏とともに、長崎漁業協同組合連合会の担当者同行の上で漁業協同組合のある上対馬町と美津島町を訪問しました。フノリの用途とその重要性について漁民の方へ東文研からお話しし、長崎県対馬振興局農林水産部対馬水産業普及指導センターの才津真子氏からは安定供給のための手法のご紹介をして頂きました。これらを元に検討協議も行いましたが、長崎県からご教示のあった増殖の取り組みに非常に関心をもって下さり、大変貴重な話し合いの場となりました。その後、採取場の視察も行い、生育状況の調査も行いました。
 用具・原材料の調達が困難になっている今、様々な分野の機関が連携・協力しながら進めていくことの重要性を改めて認識する貴重な機会となりました。

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