研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


イストリア地方における壁画保存に向けた共同研究に関する事前調査

聖ニコラス教会
スクリルジナの聖マリア教会

 クロアチアの北西部に位置するイストリア地方は、スロベニア、イタリアを含む3か国の国境が密集しており、古代ではローマ帝国、中世ではヴェネツィア共和国、近世ではハプスブルク帝国とたびたび支配者が替わってきた歴史があります。
 この地域では、中世からルネサンス期にかけて教会に壁画を描く文化が花開き、数多くの作品が誕生しました。しかし、それらの保存について注意が向けられるようになったのは19世紀後半と遅く、オーストリア=ハンガリー帝国の文化遺産管理局の活動がきっかけでした。その後、20世紀に入り大戦や紛争の時を経て、1995年以降にようやく落ち着きを取り戻すと、クロアチア共和国政府によって文化財のための保存研究所が設立されます。この研究所とイストリア考古学博物館による共同調査が始まるに至って、この地域に特有の壁画の総称として「イストリア様式の壁画」という言葉が誕生しました。
 令和5(2023)年3月1日から7日にかけて、イストリア歴史海事博物館のスンチツァ・ムスタチ博士やザグレブ大学のネヴァ・ポロシュキ准教授の協力のもと、イストリア地方の主要な教会約20箇所を訪問し、壁画に関する実地調査を行いました。その過程で、制作技法や保存状態に関するデータアーカイブの作成や、今後に向けた保存修復方法の検討などについての技術的協力が求められました。イストリア地方には、確認されているだけでも約150件にも及ぶ教会壁画が現存しています。このかけがえのない文化遺産を未来の世代に引き継ぐためにも、関連する分野の専門家とネットワークを構築しながら、国際協働の確立に向けて取り組んでいきます。

ウルビーノ大学カルロボー 基礎応用科学部との協力合意書の締結

カルカッニーニ学長表敬訪問
学内施設の様子

 イタリアは数多くの文化遺産を有し、その保存修復においても世界を牽引してきました。そんな同国の保存科学分野の中でも幾多の業績を挙げてきたのがウルビーノ大学カルロボー 基礎応用科学部です。このたび、東京文化財研究所では、同部との間で文化遺産の保存修復に係る研究協力に関する合意書を締結しました。その内容は包括的なもので、世界各地の文化財を対象に保存修復計画策定に向けた科学分析調査や保存修復技法・材料の開発で協力するとともに、ワークショップ等を通じて研究者の相互交流を図ることなどを想定しています。
 令和5(2023)年2月17日に同大学を訪問し、ジョルジョ・カルカッニーニ学長と今後の協力関係について意見交換を行いました。また、基礎応用科学部のマリア・レティッツィア・アマドーリ教授案内のもと学内施設を見学し、目下取り組まれている文化遺産保存に向けた分析調査についての説明を受けました。
今後、両機関の専門性を活かした研究協力を通じて、単なる分析データの収集といったレベルに留まることなく、具体的な文化遺産の保存へと繋がる活動を展開していきたいと考えています。

イタリアにおける震災復興活動に関する調査

収蔵中の被災文化財
応急処置の様子

 東京文化財研究所では、平成29(2017)年よりトルコ共和国において文化財の保存管理体制改善に向けた協力事業を続けてきました。令和5(2023)年2月6日、トルコ南東部を震源とする地震が発生し、同国及びシリア・アラブ共和国を中心に甚大な被害が発生し、文化遺産の保存状態にも影響が出ています。当面は人道支援を優先すべきでしょうが、近い将来、文化財の保存修復分野においても国際的な支援が必要とされることが予測されます。
 一方、中部イタリアでは、1997年、2009年、2016年と立て続けに大地震が発生し、被災した文化遺産の復興活動が今なお続けられています。同様の文化遺産を有するトルコやシリアへの今後の支援検討に活かすとともに、今後起こりうる不測の事態にどう対処すべきかを学ぶため、令和5(2023)年2月13日から16日にかけてマルケ州とウンブリア州で調査を実施しました。スポレート市に所在するサント・キオード美術品収蔵庫は、自然災害発生時の文化財の避難先、また、応急処置を行うための場として1997年の震災後に建設された施設です。現在も約7000点に及ぶ被災文化財が収蔵され、国家資格をもつ保存修復士によって応急処置が進められていました。
 イタリアでは、度重なる経験を経て、被災直後のレスキュー活動からその後の対処に至るまでの組織体制や手順が整えられてきました。こうした文化財分野に係る震災からの復旧・復興活動において先進的な取組みを続ける国から学ぶべきことは多くあります。さらに調査を続けながら、今後の活動に役立てていきたいと思います。

文化遺産国際協力コンソーシアム第32回研究会「中央ヨーロッパにおける文化遺産国際協力のこれまでとこれから」の開催

第32回研究会の案内チラシ
第32回研究会の様子

 文化遺産国際協力コンソーシアム(東京文化財研究所が文化庁より事務局運営を受託)は、令和5(2023)年1月28日に第32回研究会「中央ヨーロッパにおける文化遺産国際協力のこれまでとこれから」をウェビナーにて開催しました。
 ロシアのウクライナ侵攻によって大きな被害を受けている文化遺産に対する国際協力を考える上では、同国が位置する地域の地理的・文化的な特徴を知り、歴史背景にも十分に配慮する必要があります。このような観点から、ウクライナを含む中東欧や南東欧地域について学ぶとともに、同地域の文化遺産に関する日本の国際協力活動を振り返り、さらに今後の協力のあり方について考えることを目的としました。
 篠原琢氏(東京外国語大学)が「中央ヨーロッパという歴史的世界」、前田康記(文化遺産国際協力コンソーシアム)が「中央ヨーロッパに対する国際支援と日本の国際協力」、嶋田紗千氏(実践女子大学)が「セルビアの文化遺産保護と国際協力」、三宅理一氏(東京理科大学)が「ルーマニアの歴史文化遺産とその保護をめぐって」のタイトルで、それぞれ報告しました。
 これらの講演を受け、金原保夫氏(文化遺産国際協力コンソーシアム欧州分科会長、東海大学)のモデレートのもと、講演者を交えて行われたパネルディスカッションでは、相互理解に立脚した国際協力の重要性や、持続的な文化遺産保護に結びつけるための現地人材育成や組織体制づくり支援の必要性などが指摘され、活発な意見が交わされました。本研究会の詳細については、下記コンソーシアムのウェブページをご覧ください。
https://www.jcic-heritage.jp/news/32nd-seminar-report/

バハレーンにおける歴史的なイスラーム墓碑の3次元計測

バハレーン国立博物館での調査

 東京文化財研究所は長年にわたり、バハレーンの古墳群の発掘調査や史跡整備に協力してきました。令和4(2022)年7月に現地を訪問してバハレーン国立博物館のサルマン・アル・マハリ館長と面談を行った際に、モスクや墓地に残されている歴史的なイスラーム墓碑の保護に協力してほしいとの要請がありました。現在、同国内には約150基の歴史的なイスラーム墓碑が残されていますが、塩害などにより劣化が進行しています。
 この要請に応えた新たな協力活動の第一歩として、令和5(2023)年2月11日から16日にかけて、バハレーン国立博物館とアル・ハミース・モスク(Al-Khamis Mosque)所蔵の墓碑を3次元計測しました。写真から3Dモデルを作成する技術であるSfM-MVS(Structure-from-Motion/Multi-View-Stereo)を用いた写真測量を行い、バハレーン国立博物館所蔵の20基、アル・ハミース・モスク所蔵の27基の計測を完了しました。石灰岩で作られた墓碑は写真測量との相性が良く、作成した3Dモデルからは写真や肉眼で見るよりもはるかに明瞭に墓碑に彫られた碑文を視認することができます。これらのモデルは、今後、広く国内外からアクセスできるプラットフォームに公開し、墓碑のデータベースとして活用していきます。
 来年度以降、さらにバハレーン国内の他の墓地にも対象を広げて3次元計測作業を進めていく予定です。

世界遺産研究協議会「文化財としての『景観』を問いなおす」の開催

案内チラシ(表)
研究協議会における討論の様子

 文化遺産国際協力センターでは、世界遺産制度とその最新動向に関する国内向けの情報発信や意見交換を目的とした「世界遺産研究協議会」を平成28(2016)年から開催しています。令和4(2022)年度は、「文化財としての『景観』を問いなおす」と題し、環境や領域の保全を理念の一つとするユネスコ世界遺産と、点から面への転換を目指すわが国の文化財保護の接点として「景観」に着目しました。昨年度、一昨年度は、コロナ禍のためオンライン配信とせざるを得ませんでしたが、今回は参加人数を50名に制限しながらも令和4(2022)年12月26日に東京文化財研究所で対面開催しました。
 冒頭、西和彦氏(文化庁)が「世界遺産の最新動向」について講演した後、金井健(東京文化財研究所)より開催趣旨を説明しました。つづく第Ⅰ部では、研究職の立場から惠谷浩子氏(奈良文化財研究所)が「日本における文化的景観の特質」、松浦一之介(東京文化財研究所)が「景観としての世界遺産:範囲設定とその根拠法」、また第Ⅱ部では、行政職の立場から植野健治氏(平戸市)が「協働による景観保護の可能性」、中谷裕一郎氏(金沢市)が「金沢の文化的景観の価値を活かした景観まちづくり」について、それぞれ講演しました。その後、登壇者全員が日本の文化財保護制度における景観の位置づけなどについて討論しました。
 講演と討論をつうじて、わが国では文化財としての景観が概念や制度の上で非常に限定的に捉えられているのに対し、特にヨーロッパでは都市計画、環境保全、農業政策などの国土利用に広く位置づけられている実態が明らかになりました。日本では文化財保護と都市計画が別々の歩みを進めたことが、今なお面的な保護の遅れに大きく影響しているとの指摘もありました。このようにわが国では複雑な課題を抱えた「景観」のテーマも含め、当センターでは引き続き遺産保護の国際的制度研究に取り組んでいきたいと思います。

国際シンポジウム「考古学と国際貢献:バーレーンの文化遺産保護に対する日本の貢献」および「バーレーン考古学をめぐって」の開催

バーレーンに残るディルムンの古墳群
東京シンポジウムの講演者と参加者

 中東のバーレーンは、東京23区と川崎市をあわせた程度の小さな島国ですが、魅力ある文化遺産を数多く有しています。とくに今から4千年前頃には、バーレーンはディルムンと呼ばれ、メソポタミアとインダスを結ぶ海洋交易を独占して繁栄したことが知られています。この時代だけで7 万5 千基もの古墳が造られ、それらは19世紀末以来、多くの研究者を惹きつけてきました。この古墳群は、2019年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
 東京文化財研究所は長年にわたり、ディルムンの古墳群の史跡整備や発掘調査に協力してきました。そして、今年度からは新たに、バーレーンに残されている歴史的なイスラーム墓碑の保存にも協力を開始することとなりました。
 2022年は、日本とバーレーンの外交関係樹立50周年という記念の年にもあたります。そこでこのたび、本研究所は金沢大学古代文明・文化資源学研究所と共催で、国際シンポジウム「考古学と国際貢献:バーレーンの文化遺産保護に対する日本の貢献」(12月11日、会場:東京文化財研究所)と「バーレーン考古学をめぐって」(12月14日、会場:金沢大学)を開催しました。これらのシンポジウムでは、バーレーンの国立博物館館長のほか、バーレーンで発掘調査を行っているデンマーク隊、フランス隊、イギリス隊の隊長、日本の考古学や保存科学の専門家が一堂に会しました。
 東京のシンポジウムではバーレーンにおける各国による発掘調査の歴史や日本の専門家による発掘や保存修復活動が紹介され、金沢のシンポジウムでは各国隊による最新の発掘調査成果がおもに紹介されました。
 本研究所は、今後もバーレーンの文化遺産の保護に様々な形で協力していく予定です。

アンコール遺跡世界遺産登録30周年記念式典および国際調整委員会への参加

式典の様子
ポスター展示(中央が東文研事業の紹介)

 東京文化財研究所では、カンボジア・アンコール遺跡群のタネイ寺院遺跡においてアンコール・シエムレアプ地域保存整備機構(APSARA)との協力事業を継続しています。
 アンコールは1992年にユネスコ世界文化遺産に登録され、その後日本を含む各国による本格的支援協力が開始されました。支援の対象は遺跡の保存修復にとどまらず、その観光活用や人材育成を含む体制整備、さらには周辺地域の持続的発展に向けた計画策定やインフラ整備等々、多岐にわたります。紆余曲折を経ながらも、アンコールは押しも押されもせぬ世界的観光地となり、カンボジア経済にとって最重要の外貨収入源の一つになっています。同時にそれは、様々な課題を抱えつつも、世界遺産の保護と活用における国際協調の成功事例として大いに評価されています。
 令和4(2022)年12月14日早朝、アンコールワット参道前にて「アンコール世界遺産登録30周年記念式典」が挙行され、筆者もこれに参加しました。大勢の僧侶による読経に始まり、伝統舞踊も交えた荘厳な儀式でしたが、会場では私たちの事業も含むこれまでの国際協力の歩みを振り返るポスター展示も行われました。
 翌15日と16日にはそれぞれ、アンコール国際調整委員会(ICC)の第36回技術会合と第29回本会合がシエムレアプ市内で開催されました。毎年恒例のこの会議もコロナ禍ではオンライン主体での開催が続きましたが、ようやく国内外の専門家や関係機関代表が一堂に会しての対面開催が実現し、多くの事業の進捗が報告・共有されるとともに、各国関係者が旧交を温める場としての役割がようやく戻ってきたことに感慨を新たにした次第です。

ルクソール(エジプト)での壁画及び考古遺物保存に係る共同研究に向けた事前調査

岩窟墓壁画保存修復作業現場での調査
現地保存に係る保存修復事例の調査(ハトホル神殿)

 ルクソールは、古代エジプト史の時代区分における新王国時代に首都テーベがおかれていた場所であり、トトメス1世やツタンカーメンなど歴代の王が眠る王家の谷やカルナック神殿をはじめ数多くの葬祭殿が残されています。これらの遺跡群は、消滅した文明を今に伝える重要な痕跡であることなどが評価され、「古代都市テーベとその墓地遺跡」として1979年に世界遺産に登録されました。ナポレオンによる1798年のエジプト遠征に端を発して大きく飛躍することとなったエジプト文明に係る研究は、現在も国際的な規模で進められており、毎年興味深い発表や報告が続いています。ルクソールも例外ではなく、各所で盛んに発掘調査が進められ、新たな遺跡や遺物の発見があとを絶ちません。
 これに伴い問題となっているのが、考古学調査後の保存と活用についてです。近年では、発掘調査で発見された遺跡や遺物を地域の観光振興等に活用すべく、文化財として整備・処置することが義務付けられるようになりました。しかし、時間と予算の制約の中で応急的に行われた不適切な処置によって、却って対象物を傷めてしまう事例が少なくありません。
 こうした問題の改善に向けた支援の可能性を探るため、令和4(2022)年12月12日から24日にかけて、ルクソール博物館及びルクソール西岸岩窟墓群を対象にした実地調査を行いました。その結果、博物館に収蔵された考古遺物の保存管理に係る処置方法や、現地保存を前提とした岩窟墓壁画の保存修復方法の検討について、現地専門家より協力が求められました。今後、緊急性の高い研究テーマを絞り込むための調査を継続し、国際協働事業に繋げていくことを目指します。

国際研修「ラテンアメリカにおける紙の保存と修復」2022の開催

実習風景

 『国際研修「ラテンアメリカにおける紙の保存と修復」』は、平成24(2012)年度よりICCROM(文化財保存修復研究国際センター)とCNCPC-INAH(国立人類学歴史機構 国立文化遺産保存修復調整機関、メキシコシティ)との3者共催でCNCPCにて実施しています。令和4(2022)年度は11月9日から22日にかけて、アルゼンチン、ウルグアイ、コロンビア、スペイン、チリ、ブラジル、ペルー、メキシコの8カ国から計9名の文化財保存修復専門家を研修生として迎え、開催しました。
 東京文化財研究所が前半の5日間(9日から14日)を、後半の5日間(16日から22日)はCNCPCが担当しました。日本の紙保存技術の基礎をテーマとした前半では、技術の保護制度に関する解説から始まり、道具材料など材料学、国の選定保存技術「装潢修理技術」の基本的な情報までを講義形式でまず紹介しました。また、これに続く実習では、装潢修理技術のうち海外文化財にも適応性が高い技術や知識を、裏打ちなどの作業を通して伝えました。後半はラテンアメリカにおける和紙の応用をテーマとして、材料の選定方法から洋紙修復へのアプローチ手法までを、メキシコやスペインの専門家らが教授しました。
 新型コロナウイルス感染症の拡大以降初の対面開催でしたが、参加者の協力のもと基本的な感染対策を徹底し、無事に研修を終えることができました。本研修を通じて参加者が日本の伝統技術のエッセンスを掴み、自国の文化財保護へと役立てていくことを期待しています。

ブータンの伝統的石造民家の保存に向けた予備調査

コープ集落の全景(西より望む)
MOU署名式(左:友田東文研センター長、右:ナクツォ・ドルジDoC局長)

 東京文化財研究所(東文研)では、文化遺産としての保護対象を伝統的民家を含む歴史的建造物全般へと拡大することを目指すブータン内務文化省文化局(DoC)を支援し、遺産価値評価や保存活用の方法などについて調査研究の側面からの協力を行っています。新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延に伴う渡航制限により、令和2(2020)年1月以降はオンラインによる協力実施を余儀なくされてきましたが、本年7月に日本、9月にはブータンの渡航制限措置が大幅に緩和されたことを受けて、現地での共同調査を再開することで DoCと合意し、11月5日から15日にかけて東文研職員3名に奈良文化財研究所職員1名を加えた計4名の派遣を行いました。
 今回の現地派遣は、ブータンの東部地域にみられる石造民家建築を主な対象に、その適切な保存活用の基礎となる学術的な総合調査の前段階として、当該地域の集落や民家の基本的な特徴や有効な調査方法を把握・検証することを目的としました。首都ティンプーから比較的アクセスのよい東部中央寄りのトンサ県(Trongsa Dzongkhag)とブムタン県(Bumthang Dzongkhag)を中心に、これまでの政府の調査記録や各県からの情報提供等をもとにDoC遺産保存課(DCHS)があらかじめ選定した集落と民家について、実測や写真測量、住民への聞取り等の調査を行いました。集落形態にも地域ごとの特色があり、中でもトンサ地方南方の特に険しい山間地域にあるトゥロン(Trong)とコープ(Korphu)の両集落は尾根づたいに民家が建ち並び、農村でありながら都市的な集落形態をみせる点が独特です。また、トゥロンの民家はほぼすべてが石造なのに対し、コープでは石造民家と版築造民家が混在し、かつ版築造民家がより古い形式を留めていることが確認できました。他の民家でも、版築造を後に石造で増改築したものが散見されることから、少なくとも今回の調査地域では民家に用いられる構造が版築造から石造へと変遷した様子が窺えます。また石造民家には非常に複雑な増築を繰り返してきたとみられる事例があり、版築造に比べて石造では増築や改修の頻度が高い可能性が考えられます。調査方法に関しては、乱石積の複雑な目地を現し、形状の歪みも多い石造民家では、今回用いた写真測量による記録が効率よく、きわめて有用であることが確認できました。
 調査終了後、ティンプーのDoC庁舎においてブータンの建築遺産保護協力に関する覚書(MOU)の署名式を執り行うとともに、DCHSとの協議を行い、今回の調査結果や今後の協力事業の方向性などについて意見交換を行いました。来年度以降、DCHSとの協働のもと、ブータン東部地域で石造民家建築を対象とした調査研究活動を本格的に展開していく予定です。

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵に使用された彩色材料の調査

機那サフラン酒本舗鏝絵蔵
剥離・剥落箇所

 新潟県長岡市にある機那サフラン酒本舗鏝絵蔵は、大正15(1926)年に創業者である吉澤仁太郎(よしざわ・にたろう)からの発注により、左官・河上伊吉(かわかみ・いきち)が仕上げを手掛けたものです。鏝絵は木骨土壁の軒まわりや戸を中心に配されており、漆喰を主材に盛り上げ技法を用いながら大黒天や動植物を立体的に表現しています。また、赤色や青色の彩色が施されており、色彩によるコントラストが立体的な視覚効果を生んでいます。
 これらの鏝絵は、雨風にさらされる過酷な環境下に置かれていますが、今日に至るまでに経過した約100年という時間を考えれば比較的良好な状態が保たれています。鏝絵を構成する主要な材料である漆喰が持つ特性や左官技術の高さに加え、この鏝絵を大切に守り伝えようと尽力されてきた方々がいたからこそと言えるでしょう。
しかし、それぞれの鏝絵を個別に観察してみると、局部的に漆喰や彩色の剥離・剥落といった傷みがみられます。そこで、所有者である長岡市の依頼のもと、令和4(2022)年11月11日に現地を訪問し、近い将来必要になると想定される保存修復に向けた事前調査の一環として、彩色や漆喰のサンプリング調査を行いました。サンプリング調査は「破壊調査」とも呼ばれるように対象物の一部を採取して行うものです。「破壊調査」と聞くと、「=よくないこと」というイメージを持たれる方も多いかもしれませんが、決してそうではありません。なぜなら、表層面からだけでは得ることのできない信頼性の高い情報を得ることが可能となり、それに伴い保存修復の安全性と確実性をより高めるからです。
 大切に守られてきた鏝絵蔵を次の100年に繋げていくことを念頭に、本調査の分析・解析結果を有効に活用しながら、具体的な保存修復の立案に役立てていきたいと思います。

文化庁主催「令和4年度文化的景観実務研修会」他への参加

葛飾柴又の文化的景観
旧「川甚」新館での全国文化的景観地区連絡協議会の様子

 文化遺産国際協力センターは、ユネスコ世界遺産をはじめとする文化遺産の保護についての国際的な動向や情報を日本国内で共有することを目的とした「世界遺産研究協議会」を平成29(2018)年から開催しています。令和4(2022)年度は、「文化財としての『景観』を問いなおす」と題し、近年わが国でも重要性が高まってきている面的な文化財の保護を取り上げます。このような背景から、国内における景観保護の潮流を理解するため、文化庁が10月27日~29日に開催した「文化的景観実務研修会」および「全国文化的景観地区連絡協議会」に参加しました。
 二つの会は、大都市に所在する文化的景観としては国内初の選定となった葛飾柴又で開催されました。研修会では、文化的景観の魅力発信や観光まちづくりに関する二つの事例発表の後、参加者がグループに分かれて実地を歩きながら、文化的景観の情報を内外の人が共有する(その魅力を知る)ための課題について調査し、その解決にむけての発表と討議を行いました。ついで協議会では、柴又の文化的景観の特質に関する基調講演、川魚の食文化の継承に関する三つの事例報告の後、本テーマに関する登壇者による討論が行われました。
 文化的景観の意義を次世代へ繋げるには、行政機関のみならず地域住民や関係者の主体的な参画が鍵となります。今回の研修会および協議会では、日々の生活に根ざした「生きた文化財」としての文化的景観を活用する手法に焦点が当てられました。言うまでもなく、こうした活用と車の両輪のような不可分的関係にあるのが保護であり、その制度や手段です。このことを念頭に今年度の世界遺産研究協議会では、文化的景観や歴史的街区など景観的な価値をもつ世界遺産が海外でどのような法的根拠の下に保護されているのかを明らかにし、わが国の「景観」保護の将来について展望したいと考えています。

令和4年度シンポジウム「気候変動と文化遺産―いま、何が起きているのか―」の開催

パネルディスカッションの様子

 文化遺産国際協力コンソーシアム(東京文化財研究所が文化庁より受託運営)は10月23日、東京大学農学部弥生講堂一条ホールにおいて令和4年度シンポジウム「気候変動と文化遺産―いま、何が起きているのか―」を開催しました(文化庁及び国立文化財機構文化財防災センターとの共催)。
 今回のシンポジウムでは、歴史上の気候変動と人間社会とのかかわりから気候変動を考え、気候変動下で有形、無形の文化遺産が直面している問題を共有、議論することで、文化遺産のより良い未来のための国際協力の可能性を探ることを目的としました。
 冒頭の青柳正規・文化遺産国際協力コンソーシアム会長のあいさつでは、気候変動を前提とした文化遺産保護における国際的な協調と連携の強化という来たるべき課題に対して、まずは多くの人々が気候変動と文化遺産の関係を正しく理解することがその第一歩となることが強調して述べられました。
 続いて、気候変動と文化遺産に関連した研究に関する講演として、中塚武・名古屋大学大学院環境学研究科教授から「古気候学から見た過去の気候適応の記憶としての文化遺産の可能性」、ウィリアム・メガリー・イコモス気候変動ワーキンググループ座長から「我々の過去を未来へ:文化遺産と気候変動の緊急事態」、石村智・東京文化財研究所無形文化遺産部音声映像記録研究室長から「気候変動と伝統的知識:オセアニアの事例から」と題して、それぞれに異なる視点から気候変動と文化遺産を捉えた発表が行われました。
 後半のパネルディスカッションでは、園田直子・国立民族学博物館教授をモデレーターに、上記の講演者に建石徹・文化財防災センター副センター長を加えた4人のパネリストによる討論が行われました。建石副センター長による東日本大震災を事例とした文化財防災の取り組みと課題の紹介の後、会場も交えて、気候変動が文化遺産保護の活動に与える影響や文化遺産をかたちづくる伝統的な知識が気候変動対策の鍵となる可能性など様々な意見が交わされました。そして、最後の高妻洋成・文化財防災センター長による閉会のあいさつでは、引き続き多くの人々の知恵を集めながら、この課題に取り組んでいくことの重要性が確認されました。
 本シンポジウムの詳細については、下記コンソーシアムのウェブページをご覧ください。
令和4年度シンポジウム「気候変動と文化遺産―いま、何が起きているのか―」を開催しました|JCIC-Heritage

国際シンポジウム「メソポタミアの水と人」の開催

写真:イラクと中継を結んでのディスカッション

 東京文化財研究所とNPO法人メソポタミア考古学教育研究所(JIAEM)は、令和4(2022)年10月22日(土)に「メソポタミアの水と人―文化遺産から暮らしを見直す―」と題した国際シンポジウムを共催致しました。本シンポジウムは、令和元(2019)年に続く2度目の共催事業であり、いまだ外国研究機関の活動が制限されているイラクをはじめとしたメソポタミア地域の考古学研究ならびに現代の暮らしに目を向け続け、理解を深めるとともに、将来的な考古学調査の再開や国際協力を見据える活動の一環であります。
 メソポタミア文明を育んだ大河・ティグリス川とユーフラテス川は現在、地球規模の気候変動の影響に加えて、上流に位置する隣国によるダム建設などのあおりを受け、水量が激減しているという問題に直面しています。本シンポジウムでは、駐日イラク共和国大使館 特命全権大使アブドゥル・カリーム・カアブ閣下をお招きし、メソポタミア文明期から脈々と続く人々の生活と両大河の関わりと、現在の大河流域のイラクの窮状について基調講演をいただきました。続いて、越境河川における水資源管理、古代メソポタミア地域の水利、伝統的な船造りの方法とその伝承、かつて豊富な湧水で栄えたバーレーンの歴史と現在、というテーマで多方面から「水」をキーワードに発表が行われました。シンポジウム後半には、イラク現地と中継を結び、イラク人専門家から、古代遺跡での水利に関する調査成果や、水とともに生きる南イラクの水牛の危機的状況を発表していただきました。最後に発表者全員で行われたディスカッションでは、かつてイラクの地でどのような水利事業が行われていたのか発掘成果を確認するとともに、様変わりする河川の状況に人々はどう対処していくことが出来るかが話し合われました。
 古代から現代にいたる幅広い問題を扱い、日・英・アラビア語の3か国語で行われた本シンポジウムは、「水」という我々の生活の核となるテーマを掲げたことで、学術的な内容に留まらず、現地の声に耳を傾け人々の暮らしを議論する貴重な機会となりました。このような会を積み重ねることで、新たな国際協力の課題が見出されていくことでしょう。

古墳の石室及び石槨内に残存する漆喰保存に向けた調査研究

石槨内に残存する漆喰

 令和4(2022)年10月20日に、広島県福山市にある尾市1号古墳を訪れ、福山市経済環境局文化振興課協力のもと、石槨内に残存する漆喰の保存状態について調査を行いました。古墳造営に係る建材のひとつである漆喰は、その製造から施工に至るまで特別な知識及び技術を要することから、当時における技術伝達の流れを示す貴重な考古資料といえます。こうした理由から、国外では彩色や装飾の有無に関わらず、漆喰の保存に向けた取り組みが行われることは珍しくありません。一方、国内でも、高松塚古墳やキトラ古墳だけではなく、漆喰の使用が確認されている古墳が40ヶ所以上にものぼることはあまり知られていません。その多くは文化財に指定されていますが、保存に向けた対策が講じられることは少なく、風化や剥落によって日々失われてゆく状況が続いています。
 尾市1号古墳の漆喰は国内でもトップクラスの残存率を誇り、未だ文化財指定を受けていないことが不思議なくらいです。さらに、単に漆喰が残っているというだけではなく、保存状態の良い箇所では、造営時に漆喰が塗布された際にできたと考えられる施工跡までもが確認でき、当時使われていた道具類を特定するうえでの貴重な手掛かりになるものと思われます。今回の調査では、保存状態や保存環境を確認したうえで、材料の適合性や美的外観といった文化財保存修復における倫理観と照らし合わせながら、持続可能な処置方法を検討しました。
 文化財の活用は以前にも増して強く求められるようになってきています。これに伴い、文化財の継承の在り方も今一度見直すべき時期に差し掛かっているといえるでしょう。古墳に残された漆喰もしかり、朽ち果て、失われてゆく現状を見直し、今後の活用にも繋がりうる適切な保存方法と維持管理の在り方について、国外の類似した先行事例も参照しつつ、検討を重ねていきたいと思います。

国際研修「紙の保存と修復」評価セミナー2022の開催

シンポジウムの様子

 東京文化財研究所とICCROM(文化財保存修復研究国際センター)は、平成4(1992)年度より国際研修「紙の保存と修復」(JPC)を共催しています。各国の文化財保護への和紙のさらなる活用をめざし、海外より専門家を招いて、和紙の製造工程から修復技術までを体系的に学ぶ機会を提供してきました。
 本年度は、9月5、6、7、12日の全4日間にわたりオンラインで評価セミナーを開催しました。修了生から発表を募り、JPCで学んだ知識や技術の活用実態を把握しました。このような振り返りは、本事業としては2回目となります。
 発表では、裏打ち技術を使っての建築関係資料の修復や、和紙の手漉きから着想を得たイランやマレーシアでの紙漉きワークショップなど、JPCを端緒として各国の事情に合わせた研究や応用が進んでいることがうかがえました。また、講師の指導や日本の工房見学を通じて欧米とは異なる文化財修復へのアプローチに触れ、自身の修復作業に対する考え方や姿勢に影響があったとの報告もありました。研修内容のみならず、JPCのコンセプトや、実践に重きを置いた技術移転のカリキュラムや教授法なども高く評価されており、その後の学生指導や工房での後人育成に方法論の面でも貢献していることがわかりました。最終日のシンポジウムでは、発表内容を確認したほか、和紙や道具の流通をめぐる問題点を共有しました。
 修了生にとってJPCは文化財の保存修復に関わる者としての人生を変える経験だったと総括することができ、当研究所が今後も本研修を継続していくことの意義を再認識させられました。

第31回文化遺産国際協力コンソーシアム研究会「技術から見た国際協力のかたち」の開催

第31回研究会の様子
第31回研究会のロゴ

 文化遺産国際協力コンソーシアム(東京文化財研究所が文化庁より事務局運営を受託)は、令和4(2022)年8月28日に第31回研究会「技術から見た国際協力のかたち」をウェビナーにて開催しました。
 新たな技術の導入によって、文化遺産に関わる様々な作業が効率化・高精度化されるとともに、調査・研究手法や国際協力のあり方そのものにも変化がもたらされています。本研究会は、日本が関わる文化遺産国際協力の現場における具体的事例を紹介しつつ、多様な社会的・文化的背景のもとで行われる活動の中で私たちは次々と現れる新技術にいかに向き合うべきか、について議論することを目的としました。
 はじめに亀井修氏(国立科学博物館)による「社会における技術の変化:テクノロジーとどのように向き合うか」と題する報告で技術の特質について概観した後、下田一太氏(筑波大学)による「複数国の協力による技術導入:カンボジア・ライダーコンソーシアムの設立による遺産研究と保護」で複数国協力による大規模な技術導入の事例、野口淳氏(金沢大学)による「身近な最新技術で文化遺産保護を広める:誰もが取り組める計測記録を目指して」で汎用的技術の導入を通した人材育成の事例が、それぞれ報告されました。
 これらの講演を受けて、亀井氏と友田正彦事務局長(東京文化財研究所)のモデレートのもと、講演者を交えたパネルディスカッションが行われ、活発な意見が交わされました。本研究会の詳細については、下記コンソーシアムのウェブページをご覧ください。
https://www.jcic-heritage.jp/20220909seminarreport-j/

世界遺産条約50周年記念・世界遺産リーダーシップフォーラム2022への参加

世界遺産ベルゲン・ブリッゲン地区の町並み(裏側-左-の建物がフォーラム会場となったホテル)
フォーラム会場の様子(グループディスカッションのホワイトボード)

 2022年は、世界遺産条約が1972年の第17回UNESCO総会で採択されてからちょうど50年にあたる節目の年です。この半世紀の間に登録された世界遺産は167カ国・1154件(文化遺産897件、自然遺産218件、複合遺産39件)に上り、遺産保護に対する意識啓発と共通理解の醸成に大きな役割を果たしてきました。また、毎年開催される世界遺産委員会を中心にして、国境を越えた様々な議論が積み重ねられています。近年、気候変動の脅威に象徴されるこれまでにない難題が持ち上がる中、2016年、世界遺産委員会の諮問機関であるICCROMとIUCNは共同で「世界遺産リーダーシップ(WHL)」プログラムを立ち上げ、世界遺産条約が果たすべき役割の再構築に向けた活動と議論を進めています。
 令和4(2022)年9月21日から22日にかけて、WHLのこれまでの活動の成果を総括し、これからの活動の方向性を展望する「世界遺産リーダーシップフォーラム2022」が、ノルウェー王国の世界遺産都市・ベルゲンで開催されました。参加者は、世界遺産関係の国際機関や各国の世界遺産の管理運営に関係する機関、登録遺産の管理者・コミュニティの代表者など約60名。会議は、これまでの成果を振りかえる第1部、これからの優先課題と行動方針を話しあう第2部、世界遺産の管理運営能力の向上に向けた具体的な行動計画を考える第3部、の3部構成で行われました。筆者は、第2部で日本の状況についてのスピーチを行い、行政的には世界遺産に特化した保護の枠組みはないものの、2019年の文化財保護法改正で導入された「文化財保存活用地域計画」がWHLでの議論と問題意識を共有しており、WHLが目指す文化遺産・自然遺産、また遺産専門家・遺産管理者・コミュニティを包括した総合的な管理能力の向上に資する有効なツールにもなりうる、とする報告を行いました。また第2部では、(1)効果的な管理運営システムの実現に向けて、(2)災害危機管理と気候変動対応に必要なレジリエンス思考とは、(3)遺産影響評価がもたらす変化への備え、の3つのテーマに参加者を分けたグループディスカッションも行われ、参加者同士の活発な議論が交わされました。そして、第3部での議論を経て、WHLは今後、本会議で確認されたような参加者のネットワークを強化し、世界遺産委員会から遺産保護の現場までを継ぎ目なく繋ぐ管理運営能力の開発に焦点をあてることが確認されました。同時に、そのためには各国・各地域の文化・言語に根づいた遺産保護のローカルネットワークとの綿密な連携体制を構築していくことが重要とされています。
 日本は、ローカルネットワークの活動と世界遺産関係の動向との関連が特に弱い国の一つと思われますが、国内の遺産保護の現場を国際社会での活動や議論に直接つなぐことができるようにする努力と工夫が、文化遺産国際協力の新たなかたちとして求められるようになるかもしれません。

世界遺産リーダーシップフォーラムに関するICCROMウェブサイト https://www.iccrom.org/news/norway-renews-commitment-iccrom-iucn-world-heritage-leadership-programme

「タンロン-ハノイ皇城世界遺産研究・保存・活用の20年」国際シンポジウムへの参加

シンポジウムの様子

 ハノイはかつてタンロンと呼ばれ、11世紀冒頭に初のベトナム統一国家である李朝が樹立されて以来、大半の時代を通じ首都であり続けてきました。都心に立地するタンロン皇城遺跡は、皇帝の住まいであり政治支配拠点でもある宮殿群があった場所で、存在は知られていたものの、近代に軍施設となったことで往時の宮殿遺構は失われたと考えられていました。
 ところが、その一角を占める国会議事堂の建て替えに伴う2002年からの大規模な発掘調査で、李朝期を含む各時代の宮殿基壇等の遺構や関連遺物が大量に出土し、ベールに包まれていたタンロン皇宮の実像の一端が明らかになりました。保存が決まった遺跡は建都千年にあたる2010年に世界遺産に登録されました。ベトナム政府の求めに応じて日本は本遺跡の研究と保存に2006年から協力しており、筆者は2008年から13年まで建築学および保存管理分野の支援ならびに協力事業の全体運営を担当しました。
 調査開始から20年の節目にあたり、2022(令和4)年9月8~9日の両日、ハノイ市とユネスコハノイ事務所の共催による「タンロン-ハノイ皇城世界遺産研究・保存・活用の20年」国際シンポジウムが現地で開催されました。政府機関やユネスコ、ICOMOS、ICOMの代表や国内外専門家が多数参加し、各分野の研究成果を共有するとともに、今後の保存活用に向けた課題等をめぐって20本を超える報告と討議が行われました。筆者は「タンロン皇城遺跡保存に係る日越国際協力」の題にて発表し、討議のコメンテーターも務めました。
 本遺跡をめぐっては、現存する後黎朝期(16世紀以降)の基壇上に中心建物の敬天殿を復元したいという声が以前からありますが、今回もその根拠資料に関する報告が複数あり、研究の進展が強調されました。一方で、この基壇上と前方にはフランス植民地時代の軍司令部建物が建っているため、宮殿の復元にはその撤去または移設が必要となります。これら後世の建物も世界遺産登録の際に認められた「顕著な普遍的価値」(OUV)を構成する遺跡の重層性を示す証拠物にほかならないことから、OUVの変更なしに復元を実行するのは困難と思われます。シンポジウムの終盤ではこのことが議論の焦点となり、熟議の結果、復元構想を盛り込んだ整備マスタープランの提案は見送られ、さらに検討を継続するとの議事要旨が採択されました。
 日越協力事業は既に終了していますが、関係者の一員として、本遺跡の保存整備をめぐる動向を引き続き注視していきたいと思います。

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