研究者、平子鐸嶺のノートが伝えること――文化財情報資料部研究会の開催

平子鐸嶺ポートレート(明治41(1908)年撮影)
平子鐸嶺のノートより、昭和元(1926)年に焼失した高野山金剛峯寺、金剛王菩薩像のスケッチ。鐸嶺は仏像の耳のスケッチをよく行っています。

 平子鐸嶺(1877~1911年)は明治30年代から40年代にかけて活動した、仏教美術の研究者です。明治36(1903)年より帝室博物館(現在の東京国立博物館)に勤務、法隆寺の再建論争に加わるなど、当時の研究の第一線で活躍しましたが、明治44(1911)年、数え年35歳の若さで亡くなりました。
 当研究所では鐸嶺と親交のあった彫刻家、新海竹太郎(1868~1927年)の関連資料を平成26(2014)年に受贈しましたが、その中には鐸嶺自筆の調査ノートが含まれていました。令和元(2019)年5月31日に開催された文化財情報資料部研究会では、「資料紹介 東京文化財研究所架蔵 平子鐸嶺自筆ノート類について―」と題して、津田徹英氏(青山学院大学)が仏教美術史の見地から、この鐸嶺のノート類についての報告を行いました。
 ノートには、鐸嶺が関西の寺院で写し取った、仏像や仏画のスケッチが多数残されています。なかには現在失われてしまった仏像のディテールを写したものもあり、今日の研究者の知り得ない貴重な情報を伝えてくれます。また「巧藝史叢」と題した和綴の帳面には、おそらく当時の解体修理に鐸嶺が立ち会って記録したと思われる仏像の銘文が認められ、こちらも再び修理を行わないかぎり実見することのできない銘文を伝える、稀有な資料といえるでしょう。
 津田氏の発表後は、近代彫刻を専門とする田中修二氏(大分大学)より新海竹太郎と鐸嶺との関係について、近代の仏教美術研究史に詳しい大西純子氏(東京藝術大学)より当時の鐸嶺をめぐる研究者のネットワークについてご説明いただき、情報交換を行いました。また情報学が専門の丸川雄三氏(国立民族学博物館)も交え、本資料の公開・活用のあり方について意見を交わしました。

to page top