漆工専門家 三木栄のタイでの活動-同時代の資料を中心に-第9回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 明治時代の日本と同様、19世紀後半から20世紀の初めにかけてのタイでも、様々な分野の外国人専門家が政府機関で働いており、その中には日本人もいました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)漆工科の卒業生である三木栄(1884~1966)もその一人で、明治44(1911)年にタイに渡り、同年に宮内庁技芸局(現在の文化省芸術局の前身)に着任、その後は国立の美術学校の教員や校長を務めるなど、昭和22(1947)年に日本に帰国するまで漆工の分野で活躍しました。令和5(2023)年3月2日に開催された文化財情報資料部第9回研究会では三木栄について、標記のタイトルで二神葉子(文化財情報資料部文化財情報研究室長)が発表しました。
 三木栄は上記の経歴から、戦前の日タイ交流の分野で取り上げられることの多い人物です。しかし、タイでの活動内容に関する言及は、タイ渡航直後に携わったラーマ6世王戴冠式の玉座制作のほか、宮殿の修理などの大規模事業にとどまり、日常業務の詳細には触れられないことがほとんどでした。そこで、同窓会誌『東京美術学校校友会月報』(以下、『校友会月報』)に三木が寄稿した近況報告を主に用いて、日常的に携わっていた仕事を読み解きました。
 『校友会月報』の記事からは、大正6(1917)年には三木が日本から取り寄せた材料を潤沢に用いて、国王の日常使いの品物に蒔絵などの日本の技法で装飾を施していたことが読み取れました。一方で同じ時期、装飾を施す対象やタイの気候に応じて材料や技法を工夫していたことも記されています。三木栄は日本の漆工の技術と柔軟な応用力に加え、真剣に仕事に取り組む姿勢によってタイで受け入れられ、行政改革による人員削減の影響もあって、大規模工事の監督業務を含む重要な仕事に携わることになったと考えられます。本発表は三木栄のタイでの活動に関する中間報告で、今後さらに検討を進め報告書にまとめる予定です。

to page top