文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む

黒田清輝(左)と五姓田義松(右)
「文展出品者親睦会出席者紀念撮影」(『美術新報』12巻2号 大正元年12月)より

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部では所外の研究者のご協力をあおぎながら、その翻刻と研究を進めていますが、その一環として4月21日の部内研究会では、神奈川県立歴史博物館の角田拓朗氏に「黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む―人間像、東京美術学校、明治洋画史」と題して研究発表をしていただきました。
 明治前期を代表する洋画家の五姓田義松(1855~1915年)は、角田氏による展覧会や研究書を通して、近年その再評価・再検討が進められています。町絵師の家に育った義松は黒田清輝よりも早く渡仏し、サロンに入選するなどその才能を発揮しますが、明治22(1889)年の帰国後は目立った活動もなく、美術の表舞台からは忘れられた存在として扱われてきました。今回の発表は、黒田清輝に宛てられた明治41年以降の書簡25通を通して、これまで語られることの少なかった義松の後半生にメスを入れようとするものでした。書簡の多くは自らの旧作を東京美術学校に売却しようと、同校教授の黒田に仲介を頼む旨が記されています。一世代上の義松らに取って代わり、当時の洋画壇を牽引していた黒田ですが、黒田が奉職した東京美術学校の洋画コレクションには義松の滞欧作《操芝居》をはじめとする明治前期の洋画が数多く含まれており、明治前後期を通しての洋画の流れを概観することができます。角田氏の発表は、義松と黒田の立場の違いを越えた交流に、明治洋画史の形成という積極的意義を見出そうとする試みであり、その経緯を伝える書簡類の重要性にあらためて気づかされました。

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