梅原龍三郎

没年月日:1986/01/16
分野:, (洋)

 昭和洋画の巨匠、文化勲章受章者の梅原龍三郎は、1月16日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。故安井曽太郎とともに昭和洋画界の双壁をなし、恵まれた資質が自ら成熟し豪華絢爛たる独自の芸術境を拓いた梅原は、明治21(1888)年3月9日、京都市下京区に、染呉服業を営む梅原長兵衛の子として生まれた。兄姉は七・八名いたというが多くは早世し、事実上次男、末子であった。はじめ龍三郎、のち良三郎と改め、26歳のとき再び龍三郎を名のった。同36年、京都府立第二中学校を三年で中退し、伊藤快彦の画塾鐘美会で洋画の手ほどきを受け、同年聖護院洋画研究所設立にともない鐘美会も併合されたため、同研究所、さらに同39年創設の関西美術院を通じ安井曽太郎らとともに浅井忠の指導を受ける。同41年田中喜作とともに渡欧し、パリのアカデミー・ジュリアンでバッセの教室に通うが、到着早々その作品に接し感動したルノワールを、翌年カーニュに訪れ以後師事した。同年、ルノワールに勧められブルターニュに赴き、同地で斉藤豊作、和田三造と交友、秋からはアカデミー・ランソンに通った。同44年ピカソを知りそのアトリエを訪問、また、プラド美術館でティツィアーノ作品の自由模写などを行う。翌45年から帰国直前にかけて盛んに制作した。大正2年、ルノワールの影響を示す初期の代表作「首飾り」を制作し帰国。同年、白樺社主催で梅原良三郎油絵展覽会をヴィーナス倶楽部で開催、滞欧作110点他を出品し画壇に大きな衝撃を与えた。翌3年二科会創立に会員として参加、また、新設された巽画会洋画部の審査員をつとめる。その後、一時画風を模索したが、同5年作の「ナルシス」あたりで独自の画風をつかんだ。同6年二科会を退会。同9年再渡欧し、サロン・ドートンヌのルノワール回顧展に接した。翌年帰国後鎌倉市に居住し、長与善郎、岸田劉生との親交をはじめる。同11年春陽会創立に会員として参加したが、同14年劉生の意見に同調し春陽会を脱会、翌年川島理一郎らと国画創作協会に入り第2部(洋画部門)を創設し、さらに昭和3年同協会第1部(日本画)解散にともない、国画会を結成し主宰するに至った。同8年、後藤真太郎が組織した清光会に安井らと会員として参加し、以後同展へも出品する。同10年、帝国美術院会員(12年帝国芸術院会員)となり、同19年には東京美術学校教授に就任、また、帝室技芸員に任じられた。この間、同8年から台湾、鹿児島、同14年に北京をはじめて訪れ、とくに北京へは同17年まで5回赴き、国画会展に「桜島(青)」(10回)、「竹窓裸婦」(13回)、「雲中天壇」(15回)、「北京秋天」(18回)など戦前の代表作を発表した。戦後は、同21年の第1回日展審査員をつとめたが、翌年から国画会の日展不参加を表明した。また、同26年には国画会名誉会員となって会の運営から離れた。翌27年安井とともに東京美術学校を退官、同年共に文化勲章を受章する。同年、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレ展の国際審査員をつとめた。戦後間もなくから、富士と浅間を題材にとりくみ、琳派や南画の伝統を摂取した豊かな装飾性と自在なフォルムによる、生命感あふれる絢爛たる画風を展開、安井の写実主義との画風の対照を示しながら、安井・梅原時代を築きあげた。同31年第30回国画会展に久しぶりに出品し、絵具をチューブから絞り出し直接描く手法をみせ話題を呼んだ。同32年、前年作「富士山図」で第27回朝日文化賞を受賞。一方、同年日本芸術院会員を辞任した。日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回から出品し、また、同27年以来しばしば渡欧し、ヴェニスやカンヌの景観を好んで描いた。同44年東京国立近代美術館へ自作「自画像」など14点を寄贈、同48年にはフランス政府からコマンドール勲章を授与され、翌年、ルノワール作品ほかの愛蔵品を国立西洋美術館などに寄贈した。同35年の画業50年記念回顧展をはじめ、多くの回顧企画展が開催され、画集も数多く刊行された。同59年、文集『天衣無縫』を出した。没後自筆の遺言状が明らかにされ、「葬式無用弔問固辞する事 梅原龍三郎 生者は死者の為に煩わさるべからず」とあった。この遺言に従い公的な葬儀、告別式は行われず、1月18日午後1時から東京都新宿区の自宅で冥福を祈る集いが行われた。また、遺作の管理、遺作展の開催などについては、故人の遺志により河北倫明に一任され、昭和63年3月初期から晩年までの作品187点による梅原龍三郎遺作展が東京国立近代美術館で開催された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(315頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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