本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





川上四郎

没年月日:1983/12/30

童画会の長老川上四郎は、12月30日午後0時30分、心不全のため、新潟県南魚沼郡の自宅で死去した。享年94。明治22年(1889)11月16日、新潟県長岡市に生まれ、東京美術学校西洋画科本科で藤島武二に学ぶ。大正2年同科を卒業後、独協中学に奉職したが、同5年、コドモ社に入って童画家となり、同社の雑誌「童話」を舞台として活躍した。児童画の芸術的地位を高めるため、童画という名称を作り、日本童画家協会を結成、のち、日本童画会々員となる。講談社絵本童謡画集『アリババ』『アラジン』、小学館幼年文庫『良寛さま』ほか、多くの児童書に挿絵を描き、昭和12年、野間挿絵奨励賞を受賞する。精神性の強い牧歌的な農村風景、風物に定評があった。

田畑喜八〔4代目〕

没年月日:1983/12/27

友禅染の四代田畑喜八(本名田畑起壱郎)は12月27日午後3時33分、じん不全のため、京都市中京区の丸太町病院で死去した。享年75。明治41(1908)年9月1日京都市中京区で、三代田畑喜八の長男として生まれた。京都市立絵画専門学校、同研究科を卒業。日本画を西山翠嶂に、染織全般を父三代田畑喜八に就いて修得した。第二次大戦中、京染技術保存有資格者として商工省より認証を受け、その会長の父を補佐した。昭和21年1月に、父より家督を譲り受けた。昭和29年文部省の委嘱で父と共に友禅染の技術・作品保存のため、その記録作品を作成した。 日本工芸会の設立発起人、日本染織作家協会設立発起人代表等、第二次大戦後の染織工芸会に盡力、貢献した。主要作品は、訪問着「白夜」(昭和54年秋期日本染織作家展文部大臣賞)、訪問着「春光」(同年春期同展)、訪問着「暁」(同年秋期同展)、訪問着「薫風」(昭和56年同展)など。著作に「小袖」(三一書房)、「色と文様」(光村推古書院)がある。

小村平八

没年月日:1983/12/23

日本芸術家協会連合会理事長の洋画家小村平八は、12月23日午後5時10分、脳コウソクのため名古屋市の自宅で死去した。享年84。明治32(1899)年4月2日、愛知県一宮市に生まれ、大正8年愛知県第一師範学校本科を卒業。昭和4年文部省中・高等学校教育検定試験西洋画用器画科に合格。翌年武蔵野音楽学校ピアノ科を修了、声学も学ぶ。油絵は石川寅治に師事し、その主導になる示現会に出品。54年同会会員となる。日展、独立、創元、大湖、光風の各展にも出品。名古屋芸術大学で洋画講師をつとめたほか、愛知県私学協会文化部長、同県私学審議会委員などもつとめ、教育界にも貢献した。代表作には同27年第8回日展に出品し初入選となった「東山植物園温室内」などがある。

菊地芳一郎

没年月日:1983/11/30

雑誌「美術グラフ」創刊・主宰者菊地芳一郎は11月30日、脳こうそくのため死去した。享年74。明治42(1909)年4月14日、栃木県鹿沼市に生まれる。大正12年3月高等小学校を卒業し、同14年小学校教員となるが、昭和6年退職する。同9年9月、美術誌「美術林」を創刊、同10年同誌を「時の美術」に改題し、同16年出版統制により廃刊するまで続刊する。同27年9月「美術グラフ」を創刊し、没するまで同誌を発行した。また、その主宰する時の美術社から美術関係の著作を世に送り続け、自らも『戦後15年の日本美術史』『戦後美術史の名作』『昭和史の日本画家』などの著書を出版。美術評論やジャーナリズムの方面で活躍した。

鳰川誠一

没年月日:1983/11/29

独立美術協会会員の洋画家鳰川誠一は11月29日午後8時30分、肺ガンのため、東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年86。明治30(1897)年7月6日、千葉県茂原市に生まれ、修生中学校を卒業する。絵を独学し昭和8年第3回独立展に「果物篭ノアル静物」で初入選、以後同展に出品を続ける。また、白日会にも出品し、同11年第13回展では「花」「静物」でF氏賞を受け、翌年白日賞を受賞して同会会友となり、同17年第19回展まで出品を続ける。同17年第12回独立展に「残雪」を出品して独立賞を受賞。同23年同会会員となる。同47年国際形象展に招待出品し、同年ブリュッセル、アントワープで個展を開き、ヨーロッパ芸術展では朱賞を受賞して国際的にも活躍した。同51年第1回蒼樹会展で文部大臣賞受賞。同57年には「鳰川誠一展」が千葉県立美術館で開かれ、翌58年には「鳰川誠一水墨画展」がメキシコ国立美術館で開かれた。油彩、水彩、パステル、水墨など多種の技法、材料を自由に駆使し、多様な作風を示す。多くの代表作を含む作品が千葉県立美術館に所蔵されている。

藤川栄子

没年月日:1983/11/28

女流洋画家の長老で二科会理事の藤川栄子は、11月28日午後2時2分、直腸ガンのため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年83。明治33(1900)年10月25日、香川県高松市に生まれる。旧姓坪井。香川県立高松高等女学校を卒業し奈良女子高等師範学校文科に入るが大正9年中退。同12年早稲田大学文学部聴講生3年を修了する。同年二科会彫刻部の指導的存在にあった藤川勇造と結婚、藤川に絵を学ぶ。昭和2年第14回二科展に「サボのある静物」で初入選。以後同展に出品を続け、同11年第23回展では「三人の裸女」で特待賞をうけ同13年同会友、同22年同会員となる。同33年第43回展では「野」「のび」で、同35年第45回展では扇面流しを抽象的、現代的にとらえ直した「ちらす」「かける」で会員努力賞をうける。同45年第55回展では「紫の箱」で青児賞、同57年第67回展では画中に2枚の静物画を描いた「静物(未完)」で内閣総理大臣賞を受けた。また昭和のはじめには1930年協会展にも出品し同5年に1930年賞を受賞。同22年には三岸節子らと女流画家協会を創立している。サロン・ドートンヌ、サロン・コンパレゾンにも出品。戦前は裸婦を多く描き堅実な写実に定評があったが、次第に対象を幾何学的形体に分割してとらえるようになり、一時は抽象へと傾斜した。晩年は再び具象にもどり、酒脱な構図・色彩をみせた。

山口進

没年月日:1983/11/25

日本版画協会名誉会員で木版画界の長老であった山口進は、11月25日午前2時25分、急性肺炎のため、長野県伊那市の天竜河畔病院で死去した。享年86。明治30(1897)年1月25日、長野県上伊那郡に生まれ、大正5年長野中学を卒業。同9年より15年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝、中川紀元らに師事。日本美術学校にも通うが中退している。同12年日本創作版画展、日本漫画展に初入選。油絵を手がけ、帝展、光風会展、太平洋画会展にも出品する。同14年旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を教える。昭和2年ロスアンゼルス国際版画展に出品。翌3年には「鯉幡作り」他の油絵で第6回春陽会展に初入選し、同12年まで同会に油絵の出品を続ける。同4年日本創作版画協会々員となり、同6年同会が日本版画協会となるにおよんで同会員となる。同8年『山口進版画集』を出版。同16年仏印巡回日本絵画展、同18年海軍省献納版画展に出品する。同20年、第一高等学校を退職して郷里の伊那谷に帰り、制作に専念する。信州の山岳を題材とした木版画で知られ、彫りぼかしと刷りぼかしを併用して、力強い構成力と柔らかさを合わせ持つ独自の作風を築いた。代表作には「木曾駒ケ岳馬の背」(1970年)などがあり、作品の多くは、町田市立博物館に収蔵されている。

白井晟一

没年月日:1983/11/22

深い思索に裏付けられた独自の様式をうちたてた建築界の巨匠白井晟一は、11月22日午後11時、脳内血シュのため、京都市東山区の京都第一赤十字病院で死去した。享年78。明治38(1905)年2月5日京都市に生まれ、青山学院中学を経て京都高等工芸学校を卒業。22才でドイツへ留学し、ハイデルベルク大学、ベルリン大学で哲学、美術史を学ぶ。ハイデルベルク大ではヤスパースに師事。帰国後の昭和10年ころから建築設計を始め、独学。処女作河村邸をはじめ、歓喜荘などドイツ住宅の伝統をひく住宅建築を戦前には多く手がける。戦後は同36年第4回高村光太郎賞を受けた東京浅草の善照寺ほか群馬県松井田町役場、秋田県雄勝町役場など公共施設の建築設計をよくし、佐世保の親和銀行本店では西欧のロマネスク建築を思わせる安定した量感の中に高い精神性を盛りこみ、同43年日本建築学会賞、翌44年毎日芸術賞、同55年日本芸術院賞をうけた。この様式は、建築物の機能と周囲の景観に適応しつつ、単なる様式上の西欧の模倣や、機能のみを重視する方向を否定する形で展開し、若い建築家たちに強い刺激と影響を与えた。晩年の代表作には、同55年の東京都渋谷区松涛美術館、同56年の芹沢銈介美術館がある。書もよくし、顧之昏元と号して『顧之居書帖』を出版している。

榎本雄斎

没年月日:1983/11/22

浮世絵研究家、日本浮世絵協会理事の榎本雄斎は、11月22日午前11時、急性心不全のため京都市下京区の自宅で死去した。享年72。明治44(1911)年1月1日、兵庫県に生まれる。本名文雄。新興キネマ監督部勤務を経て、吉川幸次郎、楢崎宗重に師事し浮世絵研究を始める。昭和44年、写楽は版元蔦屋重三郎であるとし、綿密な資料をあげて蔦屋の業績を顕彰した『写楽-まぼろしの天才』を出版して写楽研究に新局面を開き話題を集めた。長く京都に住み、関西方面の浮世絵研究に尽くすところがあった。

青木進三朗

没年月日:1983/11/21

肉筆浮世絵の研究家青木進三朗は11月21日午前5時、脳出血のため東京都新宿区の伴病院で死去した。享年55。昭和3(1928)年1月5日徳島県麻植郡に生まれる。徳島県立麻植中学校を卒業し、同20年阿波銀行に入行、同30年から同45年まで同行各支店長を歴任する。この間同31年より浮世絵研究家金子孚水に師事し、浮世絵研究を始める。同45年同行を辞して上京、浮世絵研究、鑑定を業とし、同48年中国での北斎展、同年のアメリカ浮世絵世界大会、同51年フランスでの北斎展など、海外への浮世絵紹介にも力を尽くした。同49年アメリカ、フリア美術館に留学。初期風俗画と北斎・広重の研究をライフワークとした。著書に『浮世絵手鑑』『内筆浮世絵集成』『肉筆浮世絵美人画集成』などがある。

大竹康市

没年月日:1983/11/20

象設計集団代表のひとりであった建築家大竹康市は11月20日、サッカー試合中にクモ膜下出血で倒れ急逝した。享年45。同年同月初め死去した建築家渡辺洋治は大竹の長兄にあたる。昭和13(1938)年5月2日宮城県仙台市に生まれる。同37年東北大学工学部建築学科を卒業し早稲田大学理工学部建築学科大学院に入学、吉阪隆正に師事する。同39年同科を修了した工学修士となり、U研究室に勤務する。同年一級建築士の資格を取得。同47年、富田玲子、樋口裕康らと株式会社象設計集団を設立し代表取締役に就任する。ル・コルビジェのモダニズムに第三世界の視点を加えた吉阪の思想を受け継ぎ、主に沖縄を舞台に前衛的な活動を展開、同47年象グループを結成する(同53年Team Zooと改称)。同51年今帰仁村公民館で芸術選奨文部大臣賞新人賞、同年沖縄県北部のムラづくりマチづくり計画で日本都市計画学会賞、名護市庁舎で同54年全国公開設計競技第一位、同56年日本建築学会賞を受賞する。また、同53年アメリカの10都市で開催された「日本建築の新しい波展」、同56年デンマークで開かれた「ポストモダニズム展」に出品。同46年から早稲田大学専門学校講師をつとめていた。建築だけでなく、環境を考慮した地域計画をも国内外で手がけ、幅広く活動する。中、高、大学でサッカー部キャプテンをつとめるほどのサッカー愛好家であった。

島多訥郎

没年月日:1983/11/20

日本美術院同人、元多摩美術大学教授の日本画家島多訥郎は、11月20日肺炎のため栃木県下都賀郡の自宅で死去した。享年85。本姓島田。明治32(1899)年6月24日栃木県鹿沼市に生まれ、はじめ文学を志望して早稲田大学文学部へ進むが大正8年中退し、郷倉千靭に師事して日本画を学ぶ。同13年日本美術院展第11回展に「杉」が初入選、昭和5年第17回展にも再入選し、同8年日本美術院院友となる。戦前は樹々を専らテーマとした。戦後も院展への出品を続け、同25年35回展に「鶏」、36回展に「残雪と山羊」、37回展に「河原」で連続奨励賞を受け、同28年第38回展に「月雪の山」で佳作、引き続き39回展に「爐火」、40回展に「石と魚」で奨励賞を受けた後、同32年第42回展では「森と兎」を出品し日本美術院賞、大観賞を受賞、同年日本美術院同人に推挙された。さらに、同44年院展第54回展で「海と溶け合う太陽」で文部大臣賞を受賞する。また、翌年の第55回展出品から島田を島多と変えた。明るい色彩と抽象的形体による作風は、院展内では異色なものであった。

福本和夫

没年月日:1983/11/16

マルクス主義理論家で、昭和初年のプロレタリア美術運動にも大きな影響を及ぼした福本和夫は、11月16日肺炎のため神奈川県藤沢市の自宅で死去した。享年89。明治27(1894)年鳥取県東伯郡に生まれ、大正9年東京帝国大学法学部政治学科を卒業、同11年から文部省在外研究員として欧米に留学、ヨーロッパのロシア革命後の雰囲気の中でマルクス主義研究に専念し、同13年に帰国する。帰国後、マルクス主義の日本移植のために活発な執筆活動を展開し、特に当時支配的だった山川均の理論を痛烈に批判したいわゆる急進的な福本イズムは、日本プロレタリア文芸連盟(大正14年)から労農芸術家連盟、前衛芸術家連盟(ともに昭和2年)へと分裂をくり返すプロレタリア芸術運動の展開に大きな影響を与えた。一方、獄中にあった戦前の昭和16年、高見沢版北斎画の「凱風快晴」を差し入れてもらったことから北斎芸術及び浮世絵に関心を寄せるようになり、戦後、『北斎の芸術』(昭和22年北光書房)、『北斎と写楽』(同24年、日高書房)、『北斎と印象派、立体派の人々』(同30年、昭森社)、『北斎と近代絵画』(同43年、フジ出版社)等を発表するに至っている。また、戦後は戦前から着想した日本ルネサンス史論の執筆に力を注ぎ、同42年東西書房から上梓した。その他、フクロウ、捕鯨などの研究でも知られる。

藤原啓

没年月日:1983/11/12

伝統工芸、備前焼の人間国宝である陶芸作家藤原啓は、11月12日肝臓ガンのため岡山市の岡山大学医学部付属病院で死去した。享年84。本名敬二。古金重陶陽による古備前焼復興を受けて、備前焼に新風をもたらした藤原啓は、明治32(1899)年2月28日岡山県和気郡に農家の三男として生まれた。はじめ文学を志し、私立閑谷黌中退後、大正8年上京し博文館編集部に勤める。同15年までの博文館時代は、「文章世界」の編集に従事する側ら西條八十ら詩人との交友を深め、自らも二冊の詩集『夕の哀しみ』(大正11年)『壊滅の都市』(同13年)を刊行した。また、早稲田大学英文科の聴講生に入り坪内逍遥に教えを受け、藤島武二が指導する川端洋画研究所でデッサンを学んだりしたが、同12年に片山哲、河上丈太郎らとの交際が始まり、荒畑寒村にマルクス思想を学ぶに及んで社会主義運動に身を投じた。その後、日活映画脚本部、新潮社「婦人之国」編集、博文館「新青年」編集などに携わったが、昭和12年、文学・思想両面における自己の才能に悲嘆して強度の神経衰弱に陥り、静養のため帰郷した。翌13年、穂浪在住で正宗白鳥の弟正宗敦夫に勧められて作陶に手を染め、はじめ正宗の紹介による陶工三村梅景に基礎的な指導を受けた。同16年には金重陶陽を知り、その指導下に技術上の進展を見せ、金重にはその後ながく兄事する。戦後の同23年、国の指定による丸技作家の資格を得て自信を深め、以後本格的に作陶生活に入る。同28年、東京での初の個展を開催し、翌年には北大路魯山人の斡旋により東京・日本橋の高島屋で個展を開催した。同31年第3回日本伝統工芸に「備前平水指」を出品、以後同展への出品を続け、また同年日本工芸会正会員に推挙される。同32年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定され、翌33年日本工芸会理事となる。同33年プラハ国際陶芸展に「備前壷」で受賞。伝統工芸展をはじめ、現代国際陶芸展(国立近代美術館、朝日新聞社 同39年)、日本陶芸展(毎日新聞社、同46年第1回)などに出品した他、しばしば個展を開催した。また、同38年山陽新聞賞、岡山県文化賞、中国文化賞(中国新聞)、同48年三木記念賞(岡山県)をそれぞれ受賞、同45年には国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同51年備前市初の名誉市民となり、同年郷里に財団法人藤原啓記念館が設立され、同56年には岡山県初の名誉県民の称号を受けた。同56年には朝日新聞社主催で「藤原啓のすべて展」が東京、大阪他で開催され、同年『藤原啓自選作品集』(朝日新聞社)を刊行する。陶陽が旧窯元の家に生まれ桃山時代の作風を目指したのに対し、より素朴な鎌倉時代の作風を追求し、文人的気質に根ざした豪放で重量感あふれる「無作為」の作陶に自己の領域を拓いた。長男雄も陶芸作家。

勝見勝

没年月日:1983/11/10

我国のデザイン評論の草分けでありグラフィックデザイン社編集長をつとめていた勝見勝は、11月10日午後3時ころ、東京都渋谷区の仕事場で死去しているのを発見された。享年74。死因は脳イッ血とみられる。明治42(1909)年7月18日、東京都港区に生まれる。昭和7年東京帝国大学文学部美学科を卒業し、同9年同大学院を修了する。同年横浜専門学校教授となり、同14年商工省産業工芸試験所所員を経、戦後は美術評論、著作を業としてアトリエ社顧問をつとめる。同25年ころからデザイン評論の分野で多彩な活動を展開し、「工芸ニュース」「商業デザイン全集」などの編集顧問、世界商業デザイン展顧問、日本デザイン学会設立委員をつとめ、同29年には桑沢デザイン研究所、同30年には造形教育センターの創立に参加する。同34年、季刊誌「グラフィックデザイン」を創刊。翌35年には日本で初めての世界デザイン会議の実現に尽力し、同39年の東京オリンピックではデザイン専門委員長としてその業績を国際的に認められ、以後日本万国博覧会、沖縄海洋博覧会、札幌・モントリオール冬期オリンピックなどのデザイン計画、絵文字による標識を手がけて、実践面でも活躍した。54年東京教育大学講師となり、以後東京大学、東京芸術大学などでも教鞭をとる。また著作も多く、『現代のデザイン』『子供の絵』『現代デザイン入門』などの編著書、『ポール・クレー』『インダストリアル・デザイン』(H・リード著)などの訳書がある。同42年毎日デザイン賞、同52年東京アートディレクターズクラブ功労賞、同53年日本インダストリアルデザイナー協会功労賞、同57年毎日デザイン賞特別賞、同58年国井喜多郎産業工芸賞特別賞を受賞している。

渡辺洋治

没年月日:1983/11/02

渡辺建築事務所所長の建築家渡辺洋治は、11月2日午前9時18分、クモ膜下出血のため、東京都千代田区の日大駿河台病院で死去した。享年60。大正13(1924)年6月14日、新潟県直江津市に生れる。昭和16年同県立高田工業学校を卒業し、22年まで日本ステンレス株式会社に勤務、同19年より船舶兵として従軍する。同22年久米建築事務所へ移り、同30年より33年まで早稲田大学理工学部建築学科吉阪(隆正)研究室助手を務め、同33年渡辺建築事務所を開設する。この間同27年、一級建築士の資格を取得。同34年より没年まで早稲田大学講師を務めた。代表作には糸魚川市善導寺をはじめ常識破りの鉄の造形で国際的にも注目された東京新宿の第3スカイビル、龍の砦などがあり、最高裁判所庁舎設計コンペで第2位(優秀賞)、万国博覧会本部ビル設計コンペで第2位、北海道百年記念塔競技設計で佳作を受賞している。「反乱を試みる異色の建築家」と呼ばれた。

大島辰雄

没年月日:1983/10/19

美術評論家でフランス文学の紹介と翻訳でも知られる大島辰雄は、10月19日心筋こうそくのため東京都目黒区の自宅で死去した。享年73。明治42(1909)年12月20日東京都港区に生まれ、東京外国語学校を中退。戦中は仏領インドネシアでアリアンス・フランセーズに勤務し、戦後はフランス図書に勤めた。フランス文学の紹介のほか、昭和30年代前後から主に西洋近・現代美術に関する執筆、翻訳活動を展開し、また、映画にも深い関心を示した。「芸術新潮」への執筆に「ピカソのデッサン帖」(125号)、「囚われの画家・シケイロス」(147号)、「ビュッフェの博物誌」(170号)、「タントラ・アートと現代美術」(267号)、「ビュッフェの地獄篇-私的覚書」(328号)などがあるほか、「陶工ミロ発生と始源の詩」(小原流挿花14-2)、「映画とシュールレアリスム」(同15-5)などがある。単行図書に『ダリ』(美術出版社)『ピカソ』(みすず書房)他。

後藤学

没年月日:1983/10/17

日本工芸会理事の彫金作家後藤学は、10月17日午後6時28分、心筋こうそくのため高松市の香川県立中央病院で死去した。享年76。明治40(1907)年2月18日香川県高松市に生まれる。本名学一。大正14年より北原千鹿に師事し、東京美術学校金工科で清水南山、海野清に学ぶ。昭和6年第12回帝展に「銀花瓶」で初入選。同年東美校を卒業。翌7年より香川県立工芸学校金工部で教鞭をとる。同33年香川県立高松工芸高等学校長および同県漆芸研究所長となり、同42年同校長を退いてのちは上戸女子短期大学で講師をつとめた。この間、帝、文、日展に出品、入選をかさね、同32年からは日本伝統工芸展にも参加し同39年第11回展では彫金印箱「虫の音」で奨励賞を受けた。鉄や銅合金板を薄く打出した地に蹴彫り風の線彫り、透彫、布目象嵌などを用いて文様を施し、古典的で繊細な作風を示した。

村松乙彦

没年月日:1983/10/13

日本美術家連盟監事、日展評議員の日本画家村松乙彦は、10月13日午前2時45分、腹膜炎のため東京都大田区の東邦大学医学部付属大森病院で死去した。享年71。大正元(1912)年9月26日愛知県北設楽郡に生まれる。静岡県立浜松第一中学校を卒業後、太平洋美術学校油絵科に学ぶが中退、日本美術学校日本画科を卒業する。児玉希望に師事し、昭和16年第4回新文展で「珊瑚礁の渚」が初入選、戦時中は海軍報道班員として活動した。戦後同21年第2回日展より出品し、同24年第5回日展「浮嶋の朝」同26年第7回日展「快晴」は共に特選を受賞する。翌年無鑑査、同28年より依嘱出品となり、同33年第1回新日展で委員、同35年審査員をつとめ、同37年日展会員となった。この後たびたび審査員をつとめたが、同41年より評議員となり、「月の庭」(1969年改組第1回日展)「しれとこ」(1973年5回日展)等を発表している。風景を背景に置いた穏健な人物画をよくした。同36年に1年間渡欧、また日本美術家連盟の監事をつとめた。

高取静山

没年月日:1983/10/05

高取焼宗家11代の女流陶芸家高取静山は、10月5日午後3時55分、脳出血のため大分県日田市の日田中央病院で死去した。享年75。明治40(1907)年11月28日、福岡県朝倉郡に生まれる。本名静。日本大学国文科を卒業。小野賢一郎に師事し、秀吉の朝鮮出兵の際黒田長政が連れ帰った陶工・八山を始祖とし明治維新によってとだえていた幸田藩御用窯高取焼を再興すべく、父富基と共に昭和13年個展を開くが、その会期中に父の急逝にあい一時休窯する。同32年再び窯を開き河村蜻山に師事。翌年遠州流宗家12代小堀宗慶に師事し、高取焼11代を襲う。始祖の故国である韓国との交流にも力を注ぎ、同48年ソウルで個展を開催、同53年には韓国の少年を陶工修業のために招いた。薄作りで、沈んだ渋みのある地に釉薬をかけ、釉なだれの面白さと色合いの妙を出す高取焼の伝統をいかし、茶入、水指、茶盌など多くの茶器を制作した。日本陶磁協会員。著書に『炎は海を越えて』(平凡社)がある。

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