本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
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没年月日:1951/12/29 日展参事、日本彫金会顧問北原千鹿は、郷里高松市にて肋骨カリエス加療中脳症を併発12月29日逝去した。享年64歳。本名千禄。明治20年5月16日香川県高松市に生れ、44年3月東京美術学校彫金科を卒業、大正3年より10年まで東京府立工芸学校の教諭を勤めた。昭和2年、3年、4年帝展に続けて特選となり、同5年推薦となつた。昭和6年以来、帝展、文展、日展の審査員数度をつとめ、24年日展参事に挙げられていた。一方、昭和2年より日本美術協会展の審査員をも長くつとめた。戦後24年4月母校香川県立工芸学校復興のため小倉右一郎校長の懇望により帰郷、若い後進の指導に2年間当つた。彫金の大家として、一種稚拙味のある技法から高雅な匂いを漂わせる数々の名品を生んだ。又、大正末から昭和初めにかけて新工芸研究会「旡型」の同人として活躍し、別に工人社を創めて彫金界の有力な新人作家を誘導育成した。略年譜明治20年 高松に生る。明治39年 香川県立高松工芸学校卒業。明治44年 東京美術学校彫金科卒業。大正5年 東京府立工芸学校に教鞭をとる。大正10年 同校を辞す。昭和元年 東京府商工展審査員。昭和2年 日本美術協会審査員。第8回帝展に「花置物」特選。昭和3年 「羊置物」帝展特選。昭和4年 「兜置物」帝展特選。昭和5年 帝展推薦となり「ブラツケツト」出品。昭和6年 帝展審査員「銀の皿」。昭和7年 同展審査員「十二支文象嵌皿」出品。昭和8年 帝展出品「双魚置物」。昭和9年 帝展審査員「壁掛蛙」。昭和11年 文展出品「鶴文金彩花瓶」、秋の文展に審査員となり「金彩鹿文花瓶」出品。昭和12年 文展出品「夏の山草金彩壷」。昭和13年 文展審査員「鶉文銀彩壷」出品。昭和14年 文展出品「花瓶」。昭和15年 奉祝展出品「山壁掛」。昭和16年 文展審査主任「黄銅壷」出品。昭和17年 文展出品「銅押出し鳩置物」。昭和18年 文展審査員。昭和19年 戦時特別展出品「金地毛彫篁土讃仰文筥」。昭和21年 第1回日展出品「毛彫山水図流金金銅花瓶」第2回日展審査員「水瓶」。昭和22年 日展出品「蛙群聴教金銅華曼」。昭和24年 日展出品「透文印箪司」。昭和25年 日展出品「金冠」。昭和26年 12月29日高松にて逝去。
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没年月日:1951/12/18 前衛画壇に活躍した美術文化協会々員北脇昇は、肺結核のため12月18日逝去した。享年50歳。明治34年名古屋に生れ、大正6年京都同志社中学を中退して同8年鹿子木洋画塾に入塾、昭和5年津田青楓塾に転じた。はじめ二科展、独立展に出品したが昭和14年美術文化協会の創立と共に参加、会員となつた。常に京都にあつて同地の前衛画界の推進に尽力し、昭和8年独立美術京都研究所、同10年新日本洋画協会、同12年京都青年美術家クラブ、翌13年創紀美術協会等の創設或は結成に当り中枢的役割を果した。戦後22年日本アバンギャルド美術人クラブ会員となり、また京都新美術人協会の創立や23年日本美術会京都支部長として関西前衛画壇に貢献するところ大であつた。
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没年月日:1951/12/16 元文展審査員、日展出品依嘱広島滉人は、12月16日世田谷区の自宅で没した、享年62歳。明治22年徳島県に生る。本名新太郎、旧号晃甫。香川県立高松工芸学校を経て、東京美術学校日本画科に学び、明治45年卒業した。在学中同窓萬鉄五郎、平井為成等とアブサント会を組織して展覧会を催した。大正8年帝展に「秋の野々宮」「青衣の女」を出品して後者に特選が与へられ、翌年の「夕暮の春」も再び特選となつてその名を高めた。同13年「落葉の丘」を出品し、帝展推薦となり、同14年、審査員に挙げられた。その後も屡々帝展或は新文展の審査員となつた。この間、昭和5年明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「外国使臣謁見の図」を完成し、この年日独展覧会委員として渡独、のち欧州各国を巡歴し、同7年帰国した。官展のほか青々会、三春会等にも出品した。その初期の人物画は浪漫的な傾向が強かつたが、次第に写実的な花鳥画に移つた。略年譜明治22年 徳島県に生る。明治40年 香川県立高松工芸学校卒。明治45年 東京美術学校日本画科卒。大正8年 第1回帝展に「青衣の女」(特選)「秋の野々宮」出品。大正9年 第2回帝展「夕暮の春」出品特選。大正13年 第5回帝展に「落葉の丘」出品、帝展推薦。大正14年 帝展審査員。大正15年 第7回帝展「双鵠」出品。昭和2年 第8回帝展「翠陰」。昭和3年 帝展審査員。昭和4年 第10回帝展「惜春余情」出品、無鑑査。伊太利ローマ展「浮巣」。昭和5年 帝展審査員。明治神宮絵画館壁画「外国使臣謁見の図」完成。日独展覧会委員として渡独。昭和6年 ベルリン民俗学博物館、ロンドン大英博物館、パリ、ギメ博物館の中央アジア壁画を模写。昭和7年 独、英、仏、伊、和、白、西等を巡歴帰国、帝展審査員、第13回帝展に「山葡萄の実」を出品。昭和8年 朝鮮展審査員として渡鮮。昭和9年 帝展審査員。昭和11年 文展委員、「あさがほ」を文展に出品。昭和13年 文展審査員。昭和14年 第3回文展に「蓮」出品。昭和16年 第4回文展に「赤装女」出品。昭和19年 戦時特別文展に「国花」出品。昭和21年 第2回日展に「春景」出品。昭和22年 第3回日展に「梅の図」出品。昭和24年 第5回日展に「窓辺静物」出品。昭和25年 第6回日展に「秋圃」出品。昭和26年 12月16日没
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没年月日:1951/12/15 日本画専門雑誌の発行者として知られた斎田元次郎(号素州)は12月15日肺炎にて渋谷区の仮寓先で逝去した。享年58歳。明治26年8月17日兵庫県多紀郡に生れ、国学院大学師範部を出、はじめ新聞社社会部美術記者として大正8年より昭和6年末まで、やまと新聞、時事新報、読売新聞の各社に勤めた。昭和7年より雑誌「塔影」や「国画」を編輯発行し、美術ジャーナリズムの一方向を堅持し、戦後「純美」を主宰した。
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没年月日:1951/11/08 日本画家玉村方久斗は11月8日杉並区の自宅に於て逝去した。享年58歳。明治26年京郡市に生る。本名善之助。京都美術工芸学校を経て同絵画専門学校を卒業した。昭和5年方久斗社を起し、同10年同志と綜合団体新興美術家協会を組織した。のち美術新協と改称し、毎秋公募展を開催したが、これは、同18年歴程美術協会、明朗美術連盟と合同した。晩年振わなかつた。
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没年月日:1951/10/27 日展参事、京都学芸大学教授太田喜二郎は、脳出血のため10月27日京都市上京区の自宅に於て逝去した。享年68歳。明治16年12月1日京都市に生れ、同36年東京美術学校西洋画科に入学して黒田清輝の薫陶を受け、同41年卒業した。同年ヨーロツパに遊学して白耳義国ガン市立美術学校に入学、傍らエミール・クラウスに師事した。新印象派の画風を習得して大正2年帰国した。翌3年大正博覧会に「赤き日傘」を出品して2等賞を受けたのをはじめ、文展に新印象派風の明るい作品を出品して2等賞を受け、同5年文展推薦となつた。この時代の作品に「帰路」「薪」「桑摘み」などがある。大正8年帝展開始以来しばしば審査員を仰せ付けられたが、次第に点描的な作風から写実的な印象主義に移り、京都の山水や田園風物をしきりに描いた。新文展日展にも屡々審査員となり、昭和25年日展参事に挙げられた。またはやくから光風会に出品して会員となつた。教育方面に於てもはやく京都市立絵画専門学校、京都帝国大学工学部の講師を嘱託され、昭和22年から同24年にわたり京都市立美術専門学校教授となり、同25年には京都学芸大学教授に任ぜられた。また昭和9年紫野洋画研究所を創立して後進を指導していた。略年譜明治16年 京都市に生る。明治35年 京都府立第一中学校卒業。明治36年 東京美術学校西洋画科に入学。明治41年 同校卒業。渡欧、白耳義国ガン市立美術学校入学、傍らエミール・クラウスに師事。大正2年 帰国。大正3年 大正博覧会へ「赤き日傘」を出品し2等賞を受く。第8回文展へ「麦刈」「帰路」「子守」出品2等賞を受く。大正4年 第9回文展に「薪」「少女」「暖き日]出品2等賞を受く。大正5年 第10回文展に「桑摘み」「夏の朝」を出品推薦となる。大正6年 京都市立絵画専門学校講師を嘱託さる。大正8年 帝国美術学院美術展覧会審査委員被仰付。同展に「薮」「夏の昼」出品。大正9年 帝展審査員被仰付。京都帝国大学工学部講師を嘱託さる。大正10年 帝展審査員被仰付。同展に「老椎の花」「洛北の農家」出品。大正11年 帝展審査員被仰付。平和記念東京博覧会審査委員。大正13年 帝展審査員被仰付。大正14年 帝展に「初秋の朝」「庭に立つ女」出品。大正15年 帝展審査員被仰付。昭和4年 帝展審査員被仰付。昭和5年 帝展審査員被仰付。昭和8年 帝展審査員被仰付。昭和9年 帝展審査員被仰付。京都府風致委員を嘱託さる。紫野洋画研究所を創立す。明治神宮絵画館壁画「黄海海戦図」完成。昭和11年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる昭和13年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。昭和14年 文部省美術展覧会審査委員を嘱託さる。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展審査員を嘱託さる。昭和22年 京都市立美術専門学校教授に補せらる。昭和24年 第5回日本美術展覧会審査員を嘱託さる。京都市立美術専門学校教授解任。昭和25年 日展参事となる。日展第二科審査員を依嘱さる。京都学芸大学教授に任ぜらる。昭和26年 脳出血のため京都市の自宅に於て逝去。
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没年月日:1951/10/24 馬の洋画家として知られていた倉垣辰夫は頚部腫瘍のため10月24日順天堂病院で逝去した。享年51歳。明治34年6月10日兵庫県多城郡に生れ、大正15年東京美術学校西洋画科卒業、昭和5年第11回帝展に「曲馬団」が初入選して以来、官展に作品を発表、戦後日展第5回に「競馬」第6回に「スタート前」を出品、第7回出品の「牧馬」が絶作となつた。馬に取材したその作品は堅実な写実画風であつた。
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没年月日:1951/10/13 美術印刷業者として著名だつた大塚巧芸社々長大塚稔(号、鈍重)は病を得て10月13日伊豆網代の療養先にて逝去した。享年64歳。明治21年1月1日長野県浅間山麓に生れ、幼にして両親を喪い、12歳にて単身上京、具さに辛酸を嘗めつつ克苦勉励、写真技術及びコロタイプ印刷術を習得した。大正8年神田裏に大塚巧芸社を創業、同年日本美術院関係の出版物一切の依嘱を受けた。続いて宮内省、内務省、文部省等より美術印刷物及び貴重な文献類多種の複製を下命され、同18年文部省より技術保存証を受領した。同16年より3年を費し、郷里上田郊外に独力にて信州夢殿を建立し宝蔵の国宝救世観音像を安置した。美術を深く愛好し、名画の複製、美術図書の出版多数に亘つた。戦後株式会社大塚巧芸社を復興し、没後なほ遺業が続けられている。
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没年月日:1951/10/07 二科会創立委員の一人であつた斎藤豊作は10月7日Venvelle, Luche-Pringe Sarthe Franceの自宅に於て死去した。享年72歳。明治13年埼玉県に生れ、明治38年7月東京美術学校西洋画科選科を卒業した。翌39年フランスに留学、ラファエル・コランに学び同45年春帰国、同年光風会第1回展に滞欧作「初冬」「残れる光」を出品、翌年秋第7回文展に「夕映の流」「落葉かき」を出品、強い色彩、点描派風のタツチによる作品は当時の画壇に注目された。作品の傾向は印象派風のものであつた。大正3年石井柏亭、山下新太郎、津田青楓等と二科会を創立、監査委員として活躍した。同年の二科第1回展には「初冬の朝」第2回展に「春の夕」「初夏の雨」「夏の夕」「水草」「農家の裏庭」「雨後の海」を出品した。その後暫く出品はなく、第6回展に「残雪」「雨後の夕」「朝」を出品したが、其の後再び渡仏、同地に定住し日本画壇を離れて了つた。彼地でも制作を続けてゐたが、作品は殆ど発表する事なくフランス画壇と接触がなかつた。
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没年月日:1951/08/26 独立美術協会々員富樫寅平は8月26日病気のため逝去した。享年45歳。明治39年2月27日新潟県新発田市に生れ、大正11年4月新発田商業卒業後1930年協会展に出品入選した。昭和3年5月画家志望にて上京、二科技塾に入り同7年退塾まで本格的な油絵の勉強につとめた。同6年第1回独立美術協会展に入選し、以後毎回出品今日に至つた。その間同12年「水浴」で独立賞を受け、同14年会友に推され、同18年会員に挙げられた。同会の中堅会員として毎回力作を出品、嘱目されたが業半ばにして没した。
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没年月日:1951/07/28 春陽会々員、京都市立美術大学助教授国盛義篤は7月28日ランドリー氏麻痺のため入院中逝去した。享年54歳。明治30年5月6日広島県山県郡に生れ、大正12年広島一中を経て京都市立絵画専門学校卒業、在学中関西美術院にてデッサンを学んだ。同13年第2回春陽会展に初入選し、その「橋」および翌14年の「坂道」、15年の「水辺初夏」が連続春陽会賞となり、昭和9年会員に推挙されて今日に至つた。昭和22年京都市立美術専門学校助教授、24年教授となり、25年同校学制改革により大学に昇格、その助教授に任ぜられ、絶えず京都にあつて後進の指導に当つた。作風は終始写実に立脚し、初期に於ては卒直素朴、深い色調乍ら温くふくよかであり、後期に至り漸次温雅な渋い美しさをたたえ静かで重厚な画面を創つた。
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没年月日:1951/07/22 漆工芸家、日展参事高井白陽は狭心症のため7月22日中野区の自宅で逝去した。享年55歳。本名栄四郎。明治28年10月16日新潟市に生れ、大正8年東京美術学校漆工科卒業。昭和2年帝展初入選以来出品、その間特選2回、無鑑査となり昭和16年文展審査員、同21年、同22年、同24年日展審査員となり、更に26年審査員を拝命中急逝した。尚20年5月より23年、新潟県に疎開中越後工芸美術会の発展に尽力するところがあつた。
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没年月日:1951/07/11 日展依嘱日本画家森守明は7月11日食道癌のため逝去した。享年59歳。明治25年6月17日京都市伏見区深草伏見稲荷神社社家守信の次男として生れた。明治43年京都市美術工芸学校を卒業、続いて京都市立絵画専門学校に学び、大正12年卒業した。在学中第4回帝展に「遊仙洞」が初入選し、以後帝展、文展に出品し続けた。その間、第8回帝展「雨後」、第11回帝展「弘法大師」が夫々特選となり、昭和5年推薦となつた。又大正15年母校、美術工芸学校の教諭、昭和15年絵画専門学校の講師となり、後進の育成につとめた。一方、西山翠嶂塾の中心的存在であり、同塾青甲社展第1回以来毎回出品し、没年5月の青甲社創立30周年記念展に「町の裏道」を出品したが間もなく病臥し、これが絶作となつた。
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没年月日:1951/07/09 美術出版界に名のあつた芳川赳は7月9日脳溢血のため豊島区の自宅で逝去した。享年55歳。明治28年10月20日長崎県島原市に生れ、県立島原中学を経て明治大学卒業、出版界に入り各種の著書を発行したが、雑誌「美術春秋(月刊)」「日本画傑作年鑑」等の編輯発行者として知られ、戦後は「美術鑑賞」を発行した。
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没年月日:1951/06/29 建築界の権威遠藤新は6月29日心臓病のため東大付属病院で逝去した。享年62歳。明治23年福島県相馬郡に生れ、大正3年東京帝大工科を卒業。大正5年帝国ホテル設計の為来日中のフランク・ロイド・ライトに師事、伴われて同8年渡米、翌年帰国、同11年迄帝国ホテル設計監督中のライトの助手として働いた。同12年建築事務所を開設した。昭和7年渡満、同20年まで内地、満洲の両地で設計及び監督を続けた。同21年帰国、目白ヶ丘教会(25年)の作品を最後として長逝した。主要作品年譜は左記の通りであるが、ホテル、学校、寄宿舎、アパート、クラブ、住宅、事務所、店鋪、病院、教会等広般に亘る作品がある。大正11年 旧自由学園(東京目白)大正11年 山邑氏邸(芦屋)(以上はライトとの共同設計)大正12年 日比谷アーケード(東京日比谷)大正12年 旧陶々亭(東京日比谷)大正12年 東大YMCA(東京本郷)昭和4年 甲子園ホテル(兵庫県甲子園)昭和6年 梁瀬自動車ビル(東京日本橋)昭和7年 横浜女子商業学校昭和10年 現自由学園女子部(東京都北多摩郡)昭和11年 現自由学園男子部昭和11年 満洲中央銀行クラブ(新京)昭和16年 満洲中央銀行住宅集団(新京)昭和25年 目白ヶ丘教会(東京目白)(以上年代判明のもののみ)
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没年月日:1951/06/01 洋画壇の長老小代為重は、昭和26年6月1日世田谷区の自宅において老衰のため逝去した。享年88。文久3年10月11日佐賀市に生れた。旧姓中野、小代家を継ぐ。明治8年上京慶応義塾幼稚舎に入り、本科に至つて中途退学し工部省修技校に学んだ。洋画は郷里の先輩百武兼行の指導を受けた。明治16年千葉師範学校、千葉中学校、千葉女子師範学校教諭となり、同19年工部大学校雇、同21年東京電信学校助教に任ぜられた。同22年明治美術会の創立に加つて会員となつたが、同29年白馬会の結成に参与して、その会員となつて作品を発表した。同33年パリに遊学、帰途ベルギー、オランダ、イギリスを巡歴したが、その後作品は少い。同34年以来青山学院中学部及青山女学院等に教鞭をとつた。白馬会時代の作品は、黒田清輝の感化を示し、その作風は明るい外光派風である。
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没年月日:1951/05/22 陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は5月22日脳溢血のため北区の自宅で逝去した。享年62歳。明治22年5月17日長野県下伊郡郡に生れ、大正7年3月東京美術学校を卒業、同11年7月帝室博物館に入つて以来昭和13年11月監査官補を退くまで勤務し、引続き学芸委員を仰付かつた。同15年1月重要美術調査委員を依嘱され、戦後25年12月文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前東京美術研究所、又日本陶磁協会にも関係した。
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没年月日:1951/05/03 高島屋取締役飯田新太郎は5月3日京都市に於て逝去した。享年67歳。明治17年飯田新七の長男として京都市に生れた。同42年早稲田大学商科を卒業、家業に就き、大正15年取締役に就任、同年より2ケ年の間欧米を巡遊した。晩年居を京都に定め、美術工芸の技術向上に意を用い、斯界に貢献した。
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没年月日:1951/04/16 漆工芸家小野為郎は、4月16日胃がんのため新潟県岩船郡の自宅で逝去した。享年54歳。明治31年3月26日新潟に生れ、はじめ版画をよくし、昭和2年ロスアンゼルス国際版画展に「スノーランド」入選、同年第8回帝展第二部に「北越の冬」が初入選した。つづいて翌3年には帝展第二部に漆刻画「越後獅子」が入選したが、昭和7年以降は帝展第四部(工芸)に出品を転じ、以来漆工作品を帝展、文展、日展に出品、入選20数回を重ね、この道の権威であつた。終始越後にあり、郷土色の濃い作品をみせ、代表作に前記「越後獅子」や昭和13年ニューヨーク、ロスアンゼルス万国博出品の「漆春秋棚」などがある。
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没年月日:1951/03/30 閨秀日本画家の新人として嘱望された日本美術院々友、春泥会々員高橋米子は3月30日逝去した。享年38歳。大正2年1月2日堺市に生れ、日本美術院同人中村貞以に師事、昭和18年院展に「白扇」が初入選し以来毎回院展に出品し今日に至つたが、主として人物画に佳作多く、殊に戦後断然頭角を現し、23年「小憩」で次年度無鑑査、25年試作展「室内」で奨励賞をうけ、同年院展では秀作「白い花」によつて美術院賞、大観賞に挙げられるなど、その長足の躍進ぶりは注目に価したが、期待も空しく惜しくも夭折した。
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