本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





北蓮蔵

没年月日:1949/12/21

洋風画家北蓮蔵は、12月21日渋谷区の自宅に於て食道癌のため逝去した。享年74。明治9年岐阜市に生れ、上京して同22年から山本芳翠の生巧館画塾に学び、次で同27年黒田清輝、久米桂一郎の天真道場に入り、更に同30年東京美術学校に入学、翌31年卒業した。夙く白馬会に加わり、同展覧会に「魚売り」(第2回)「遺児」(第4回)等を発表した。彼は山本芳翠の薫陶によつて演劇の背景製作をよくし、同43年から大正3年まで帝国劇場背景主任として活躍した。昭和2年渡欧、各国を巡遊して同5年帰国。官展に於て無鑑査であつた。その代表作に明治神宮絵画館の「岩倉具視公病床行幸図」がある。

徳川義恭

没年月日:1949/12/12

東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。

森脇忠

没年月日:1949/10/13

洋画家森脇忠は京都の自宅で10月13日胃癌のため死去した。享年62。明治21年島根県に生れ、大正3年東京美術学校を卒業した。大正3年以来文展に出品帝展に特選を受け無鑑査となつた。華畝洋画会に属し、又、三高、京都高等工芸学校の講師などをつとめた。

村山しげる

没年月日:1949/09/13

新漫画派集団同人村山しげるは9月13日東京麻布の実兄宅で心臓麻痺のため死去した。享年39。本名を繁といい、明治44年に東京に生れ、新鋭漫画グループ・新漫画派集団等によつて雑誌等に活躍した。

上村松園

没年月日:1949/08/27

明治、大正、昭和三代にわたつて多くの秀れた美人画をのこした上村松園は8月27日奈良県生駒郡の別邸唳禽荘で肺臓癌のため逝去した。享年75才。松園は本名を常子、明治8年京都市の茶補上村太兵衛の二女に生れ、14才の時京都府画学校に入学、鈴木松年の指導をうけた。翌年松年が退校するに当り共に退学、正式に松年の門に入る。第3回内国勧業博に「四季美人図」を出してみとめられ、折から来朝中の英国コンノート殿下の買上げとなつた。その後松年の許可を得て、幸野楳嶺に就き傍ら漢学を市村水香、詩を長尾雨山に学んだ。楳嶺没後は社中と共に竹内栖鳳に師事、その間男子に伍しての烈しい精進ぶりはよく知られる所である。この頃のものには「清少納言」「義貞聴琴」等歴史風俗が多く、後年の洗練された技巧に対し、鈴木派の生硬な筆致がみられる。明治40年文展開設されるや連年秀作を発表、大正期の「深雪」「花がたみ」「焔」など情懐深いものから晩年昭和期の「草紙洗小町」「夕暮」など手堅い様式化へ発展、技巧は円熟し、洗練された色調と共に他の追随を許さぬ画風を示した。昭和16年芸術院会員、19年帝室技芸員、23年には文化勲章を受けた。昭和20年以降は奈良郊外唳禽荘にこもり作画三昧の日日を送つていたものである。略年譜明治8年(1才) 4月23日京都市に生る。厳父太兵衛2月逝去。明治14年(7才) 仏光寺内開智小学校に入学。明治21年(14才) 京都府画学校に入学。明治22年(15才) 画学校退学鈴木松年の門に入る。明治23年(16才) 第3回内国勧業博覧会「四季美人図」出品褒賞(英国コンノート殿下御買上となる)。日本美術協会「美人吹笛図」明治24年(17才) 日本美術協会「美人詠歌図」京都御苑内、日本青年絵画共進会「美人観月」明治25年(18才) 京都御苑内、春季絵画展「美人納涼」明治26年(19才) 松年の許可を得て幸野楳嶺に師事。日本美術協会「美人弾吹図」3等賞銅牌。米国シカゴ博農商務省下命「四季婦人図」明治27年(20才) 日本美術協会「美人掲簾図」出品、褒状2等。明治28年(21才) 幸野楳嶺死去、竹内栖鳳に師事する。日本美術協会「古代美人図」褒状2等。第4回内国勧業博覧会「清少納言」褒賞。京都御苑日本青年絵画共進会「義貞聴琴図」3等賞。明治29年(22才) 日本美術協会春季展「暖風催眠」褒状1等。日本美術協会秋季展「婦人愛児図」褒状1等。明治30年(23才) 日本美術協会秋季展「梅花粧図」3等賞銅牌。日本絵画協会「頼政賜菖蒲前」2等褒状 京都御苑内全国婦人製作品展「美人観音」1等褒状明治31年(24才) 京都御苑内京都絵画共進会「一家団欒」3等銅牌。日本美術協会「古代上臈図」3等賞銅牌。新古美術品展「重衡朗詠」3等銅牌。明治32年(25才) 京都新古美術品展「人生の花」3等賞。全国絵画共進会「美人図」「孟母断機」。日本美術協会「官女図」褒状2等。明治33年(26才) 日本絵画協会8回絵画共進会「花ざかり」銀牌。パリ万国博覧会「母子」銅牌。京都新古美術協会創立10周年回顧展「軽女惜別」2等銀牌。明治34年(27才) 京都新古美術品展「園裡浅春」1等褒状。第1回岐阜絵画共進会「吹雪」銅牌。絵画研究大会「半咲図」銅牌。昭和35年(28才) 日本美術院「時雨」3等賞。日本美術協会「少女図」3等賞銅牌。信太郎(松篁)生る。明治36年(29才) 第5回内国勧業博覧会「姉妹三人」2等銀賞2席。北陸絵画共進会「春の粧」銅牌。明治37年(30才) 新古美術品展「遊女亀遊」4等賞。セントルイス万国博「春の粧」銀賞。明治38年(31才) 新古美術品展「花のにぎはひ」3等銅牌。明治39年(32才) 新古美術品展「柳桜」3等銅牌。京都市初音小学校へ「税所敦子孝養図」を寄贈。明治40年(33才) 日本美術協会「虫の音」3等賞銅牌。北陸絵画共進会「花のにぎはひ」1等賞。第1回文展「長夜」3等賞。明治41年(34才) 2回文展「月かげ」3等賞。北陸絵画共進会「桜がり」1等金牌。新古美術品展「秋の夜」3等銅牌。明治42年(35才) ロンドン日英博「花見」。ローマ万国博「花の賑ひ」金牌大賞。新古美術品展「虫の音」3等銅牌。明治43年(36才) 第4回文展「上苑賞秋」3等賞。京都新古美術品展「人形つかひ」2等銀賞。10回巽画会「花」2等銀賞。明治44年(37才)「吹雪」「新粧」大正2年(39才) 第7回文展「蛍」3等賞。「化粧」大正3年(40才) 大正博覧会「娘深雪」2等銀賞。第8回文展「舞仕度」2等賞。大正4年(41才) 第9回文展「花がたみ」2等賞。大正5年(42才) 第10回文展「月蝕の宵」推薦。文展会場にて皇太后宮行啓、御前揮毫を命ぜられ「古代舞姫」謹作。大正6年(43才) 秋、皇太后宮京都へ行啓、公会堂にて「初春図」御前揮毫。大正7年(44才) 12回文展「焔」「天人」皇太后文展行啓の折「紅葉がり」御前揮毫。大正11年(48才) 4回帝展「楊貴妃」大正15年(52才) 聖徳太子奉賛展「娘」。8回帝展「待月」昭和3年(54才) 御大典記念御用画「草紙洗」昭和4年(55才) 伊太利日本画展「伊勢大輔」「新蛍」昭和5年(56才) 高松宮家御用画「春秋」二曲一双昭和6年(57才) ドイツ、ベルリン日本画展「虫ぼし」出品、同国政府の希望により同国々立美術館へ寄贈、同年7月同国より2等赤十字章を授けられる。昭和7年(58才) 「虹を見る」「蛍」昭和8年(59才) 高松宮家御用画「春秋」(双幅)昭和9年(60才) 京都市展「青眉」。15回帝展「母子」政府買上。母堂仲子刀自逝去。昭和10年(61才) 1回春虹会「天保歌妓」東京三越展「鴛鴦髷」「土用干」。京都1回五葉会「夕べ」。東京高島屋展「春苑」。昭和11年(62才) 2回春虹会「春宵」。京都2回五葉会「時雨」「柳蔭納涼」。文展招待展「序の舞」政府買上。京都表装展「秋の粧」昭和12年(63才) 3回春虹会「春雪」。学習院御用画「夕べ」。1回文展「草紙洗小町」政府買上。皇太后御用画「雪、月、花」昭和13年(64才) 2回文展「砧」東京高島屋珊々会「緑雨」4回春虹会「移らう春」昭和14年(65才) 5回春虹会「春鴬」珊々会「風」京都美術倶楽部30周年記念「鼓の音」昭和15年(66才) 6回春虹会「櫛」珊々会「若葉」春芳堂展「春便」本山幽篁堂展「春芳」三越展「冬雨」画室社展「春光」東西名家新作展「むしの音」ニユーヨーク万博「鼓の音」昭和16年(67才) 珊々会「夕べ」京都市展「晴日」7回春虹会「春に詠ず」5回文展「夕暮」11月約1ヶ月間中支旅行。芸術院会員に任ぜられる。昭和17年(68才) 満州国献納画「婦人愛児」昭和18年(69才) 「新蛍」「烈女はつ」6回文展「晴日」朝日新聞関西邦画展「晩秋」昭和19年(70才) 「牡丹雪」「待月」。帝室技芸員拝命。昭和20年(71才) 2月奈良県平城へ移転。昭和23年(74才) 高島屋白寿会「庭の雪」10月25日芸術院第一部日本画会員13氏と共に賜餐、11月3日文化勲章拝受。昭和24年(75才) 松坂屋巨匠展「初夏の月」絶筆、8月27日逝去、叙従4位。

下村為山

没年月日:1949/07/10

疎開先の富山県西礪波郡に於て脳溢血のため逝去。享年85。本名純孝、慶応元年愛媛県松山に生る。明治20年前後本多錦吉郎、小山正太郎に就て洋画を学び同23年の第3回内国勧業博覧会に「慈悲者の殺生図」を出品して褒状を受けた。はじめ明治美術会に加つて、その展覧会に出品したが、同30年頃から日本画に転じ、南画家として知られた。又正岡子規の門に入り、内藤鳴雪、高浜虚子等と共に俳句を学び、その方面でも知られていた。

小林徳三郎

没年月日:1949/04/19

春陽会々員小林徳三郎は、4月19日豊島区の自宅で急逝した。享年66。明治17年広島県に生る。幼名藤井嘉太郎、後母方の伯父小林徳三郎の養子となり、襲名す。号天徳堂。明治42年東京美術学校を卒業、大正元年フユウザン会の創立に加わり、これに出品した。その後島村抱月の芸術座の舞台装飾主任となり、大正5、6年頃に至つた。同8年院展洋画部に「鰯」を出品、その後同展に発表した。大正12年春陽会第1回展に「鰯」その他を出品、その後毎回出品、大正15年同会々院に推された。昭和8年以来病に罹り、房州館山に療養生活の傍ら制作した。同11年帰京、同14年頃から多く江の浦に滞在、多数の作品を生んだ。昭和20年戦災のため箱根強羅に移り、同24年帰京したが、この年急逝した。その主な作品に「子供」(昭和2年)「金魚を見る子供」(同3年)「小卓子」(同6年)「へちま」(同7年)「窓辺の子供」(同11年)「河口湖夕照」(同15年)「江の浦残照」(同16年)「郊外落日」(同24年)等がある。

笹川臨風

没年月日:1949/04/13

国史学支那学等で知られた笹川臨風は4月13日東京本郷の自宅で死去した。享年80。本名を種郎といい、明治3年東京に生れ、同29年東大国史科を卒業した。明治43年頃より中央公論などで美術批評に活躍し、美術関係の著書としては「日本絵画史」等がある。再興日本美術院には院の幹理として尽力した。

田中松太郎

没年月日:1949/03/10

美術印刷に功労のあつた田中松太郎は3月10日死去した。享年87。号を半七・★籟といい、文久3年富山県に生れた。印刷研究のために西洋を巡り、日本の印刷技術及び三色版印刷に一進歩をもたらし、昭和16年毎日新聞社から印刷功労賞を受けた。パンの会の会員でもあつた。

長野草風

没年月日:1949/02/06

日本美術院同人の長野草風邪は2月6日横浜市の大橋家別荘で脳溢血のため逝去した。年65。明治18年10月4日東京に生れ、名は守敬、維新の閣老安藤信正の孫にあたり、5才頃母方の大叔母長野家の養子となつた。14才頃から邨田丹陵につき、20才頃川合玉堂に師事、草風と名のる。紅児会に入つて研究すると同時に、文展に出して早くもみとめられ「六の華」(1回)は3等賞、「朝と夕」(7回)は褒状となつた。大正3年院展再興とともにこれに参加し、同5年9月同人に推された。以後院展を舞台として活躍、大正12年、14年には支那旅行を企て画嚢を肥している。代表作には大正15年聖徳太子奉讃展の「高秋霽月」などがあげられる。

牧野伸顕

没年月日:1949/01/25

元内大臣牧野伸顕は1月25日千葉県葛飾郡の自宅に於て逝去。享年89。維新の元勲大久保利通の次男として生れ、外務書記官を出発点として官界に入り、内政外交の要職を経て、第一次大戦後講和全権委員、宮内大臣、内大臣を歴任した。美術行政にも関心を持ち、明治39年西園寺内閣の文相に任ぜられかねての抱負に従い、美術行政家、美術家とはかつて同40年文部省に美術審査委員会を創立し、文部省美術展覧会を開設して美術の発展に貢献した。また大正13年黒田清輝の逝去に際し、その遺言執行人となり久米桂一郎、正木直彦、矢代幸雄等と協議して、わが国唯一の美術研究所(現在文化財保護委員会所管)を創立した。

中山岩太

没年月日:1949/01/20

全日本写真連盟理事、国画会同人中山岩太は1月20日脳溢血で死去した。享年55。明治28年福岡県に生れ、大正7年東京美術学校写真科を卒業した。同年渡米して加州美術学校に学び、ニユーヨークで開業した。更に大正15年渡仏し、フエミナ誌の嘱託として活躍した。昭和2年に帰朝、同4年芦屋に移り、構成的な写真その他多くの試みを発表していた。

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