本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





金重素山

没年月日:1995/12/27

読み:かねしげそざん  備前焼作家の金重素山は12月27日午後5時50分肺炎のため岡山県赤磐郡山陽町の病院で死去した。享年86。明治42(1909)年3月31日、岡山県備前市伊部1531に備前焼窯元金重楳陽(慎三郎)を父として生まれる。本名七郎左衛門。父が幼時に死去したため、兄の金重陶陽に陶芸を学び、昭和2(1927)年より陶陽の助手として専ら窯焚をつとめる。大本教を信仰し、同26年陶陽窯を離れるにあたって大本教主出口直日の招請により京都府亀岡市の大本教本部の大本窯、花明山窯を制作の場と定めた。同34年大本教本部京都府綾部の鶴山窯に築窯して独立。同39年岡山市円山に登窯を築窯した。桃山時代の伊部焼「緋襷」に魅せられその再現に力を注ぎ、独自の窯を考案して焼成を試み、同40年電気窯による「緋襷」制作を創案して翌年それを完成させた。同42年東京日本橋壺中居にて「緋襷」のみの個展を開催した。同45、47年東京日本橋三越で個展を開催。同49年山陽新聞文化賞受賞。同53年天満屋岡山店にて「金重素山展」を開催する。同57年伊部に牛神下窯を築く。同58年岡山県指定重要無形文化財保持者の認定を受けた。同59年東京、大阪、名古屋にて「備前 金重素山展」を開催するとともに岡山高島屋で「金重素山展」を開催。平成2(1990)年松阪屋本店、三越本店にて「傘寿金重素山展」を開催。同年伝統文化保存振興への貢献に対して文化庁長官表彰を受ける。同3年天満屋岡山店にて茶陶展を開催し、同年岡山県文化賞受賞。同6年三木記念賞を同7年備前市功労賞を受賞した。昭和50年、54年に日本陶芸展に推薦出品したほか、兄陶陽一門の展覧会に協賛出品しているが、特定の団体に所属せず、茶陶を中心に独自の作陶を続けた。桃山風のおおらかなフォルムと緋襷の焼成により、風格ある作風を示す一方、伝統的備前焼きの進展に寄与した。

中村善種

没年月日:1995/12/26

読み:なかむらよしたね  独立美術協会会員の洋画家中村善種は、12月26日正午、肺気しゅのため京都市左京区の自宅で死去した。享年81。大正3 (1914)年2月15日、和歌山市に生まれ、昭和13(1938)年に和歌山師範学校専攻科を卒業、この年の第8回独立美術協会展に「カンナと糸杉」が初入選、同協会会員の森有材に師事した。同17年の第12回展に出品した「竹」、「栗鼠」によって独立賞を受賞。戦後もひきつづき同展に出品し、同24年に会員となった。同41年の第34回展に出品した「作品A」、「作品B」によってG賞受賞。この時代には、一時象形文字や甲骨文字をヒントにした土俗的な抽象表現を試みていた。同49年に京都市立芸術大学教授となり、同56年から平成6年まで大手前女子大学教授として指導にあたった。昭和59年、京都府文化賞、同61年には京都市文化功労賞、さらに翌年には和歌山市文化賞を受賞した。同60年に『中村善種画集』を刊行した。近年、都会の一隅の情景、あるいはそのかたすみに、おきすてられた事物がモチーフとなり、それらをプリズムのなかで交錯させたかのように虚実を織りまぜながら構成し、現代的な心象風景にしたてた作品を毎回出品していた。

昆布一夫

没年月日:1995/12/23

読み:こんぶかずお  国選定文化財保存技術保持者の漆濾紙製作者昆布一夫は12月23日午前9時37分肺炎のため死去した。享年72。大正12(1923)年1月28日奈良県吉野郡吉野町大字窪垣内に窪増太郎の三男として生まれる。幼年時から家業の宇陀紙の小版製造を手伝いながら、紙漉きの技術を学ぶ。尋常高等小学校卒業後、京都の金物店に勤め、戦後一時大阪の日本アルミに勤務するが、昭和22年2月3日紙漉きを生業とする昆布家に養子結婚し、妻京子とともに本格的に吉野紙の製作を始めた。吉野紙は薄手の楮紙でありながら、紙の腰がつよいため江戸時代より漆や油の塵を濾す紙として用いられてきた吉野地方の特産品であった。戦後、需要が減少し漉き手が減少していくなかで、昆布一夫も昭和47年に美栖紙製造に生産の中心を移す。しかし、漆工芸には必需品であるところから、伝統的な技法による漆漉紙の製作も続け、同53年5月国選定文化財保存技術保持者に認定された。高度成長期に伝統的紙漉き技法が急速に衰退するなかにあって伝統的技法を継承することに尽力した。

黒田久美子

没年月日:1995/12/21

読み:くろだくみこ  光風会会員、女流画家協会設立会員の洋画家黒田久美子は12月21日午前9時10分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。大正3(1914)年8月11日父生野源太郎、母初恵の長女として東京都小石川に生まれる。鉄道局員であった父の転任により仙台、名古屋、東京と転居。この間大正末年のころ名古屋第二師範附属小学校在学中に絵画に強い興味を抱くようになる。昭和4(1929)年金城女学校を病気のために休学中に遠山清に油画、パステル画を習う。翌年名古屋市展にパステル画「バラ」で入選。同年病気のため金城女学校を中退する。同6年中村研一に入門し、翌7年中村の紹介により岡田三郎助の女子研究所に入る。同8年第20回光風会展、および春台展に初入選。以後同展に出品を続け、同11年春台展に「鎧戸前」を出品して受賞。また、同年新文展鑑査展に「タイプライターのある静物」で初入選する。同12年洋画家黒田頼綱と結婚。同14年第26回光風会展に「庭」を出品して三星賞を受賞。翌年第27回同展に「しき松葉」を出品してI氏賞を受賞し会友に推挙される。また同年紀元2600年奉祝展に「夏の日」を出品。以後光風展、新文展に出品を続け、同20年敗戦後の光風会復興に参加して同会会員となる。同21年春に開催された日展に「二月の日」、同年秋の第2回日展に「ひがん花咲く頃」を出品し、同24年まで日展に出品を続けるが、翌年より日展を退く。この間同22年三岸節子らとともに女流画家協会を設立し同会会員となる。同35年第14回女流画家展に「タぐれの病院」を出品して船岡賞受賞。花や人形を配した静物画を好んで描き、対象の形態をデッサン風に捉える黒い輪郭線を完成作に生かし、緑、青、空色、赤などの原色で画面を構成して明澄な画風を示した。団体展のほか、同25年を皮切りに資生堂ギャラリーで3度、日本橋丸善画廊で2度個展を開催し、同32年から13固にわたり高島屋で黒田頼綱・久美子二人展を開催した。同56年からは世田谷美術館での世田谷展にも毎年出品している。著書に『静物の描き方』(昭和35年、アトリエ社)、『パステル画風景の描き方』(同46年アトリエ社)などがあり、同60 年「黒田頼綱・黒田久美子画集』(フジアート)を刊行している。

金重道明

没年月日:1995/12/20

読み:かねしげみちあき  日本工芸会正会員の陶芸家金重道明は、12月20日午前5時58分、呼吸不全のため岡山市の病院で死去した。享年61。昭和9(1934)年4月1日、岡山県和気郡伊部町に、備前焼の人間国宝となった金重陶陽(本名勇)の長男として生まれた。同30年、金沢市立美術短期大学工芸科を卒業、父陶陽のもとで学びながら、作陶をはじめた。当初、伝統的な備前焼からの脱却をはかるために、鋭利で、不定形なフォルムをもったオブジェを制作していた。同35年から翌年にかけて渡米、その後は轆轤を使用しながら、備前の伝統である陶土と窯変を基本にした器物を制作するようになった。以後、国内外の陶芸展に出品をかさね、同44年に日本工芸会正会員になり、同46年には第3回金重陶陽賞を、同55年には日本陶磁協会賞をそれぞれ受賞した。平成2(1990)年には、岡山県重要無形文化財に選ばれた。

矢野文夫

没年月日:1995/12/16

読み:やのふみお  長谷川利行の評伝を著し、自らも詩、画をよくした矢野文夫は12月16日午前9時33分、肺炎のため川崎市の川崎市立井田病院で死去した。享年94。明治34(1901)年5月16日、神奈川県小田原市に生まれる。同40年一家で上京し、同41年東京市立麻布尋常高等小学校に入学。大正3(1914)年、同校を卒業して麻布中学へ入学する。同5年一家で本籍のある岩手県一関市に移るのに伴い、県立一関中学へ転校する。同8年同校を卒業して早稲田大学文学部予科に入学。同11年ローマ・カトリック教に興味を抱き、一関の天主公教会へ通い、同教会の神父を介してボードレールの生涯を知り、フランス語を学んで原書に接する。同年家庭の事情により大学を中退する。同12年5月仙台の河北新報社記者となるが同年12月に退社。翌年10月読売新聞社に入社し婦人部記者となるが翌14年9月に退社する。この頃より雑誌「詩聖」「詩と音楽」などに寄稿。同15年1月「婦女界」に入社し編集にたずさわる。このころ画家長谷川利行を知る。翌年9月「婦女界」を退社して詩作、評論活動に入る。昭和3(1928)年詩集『鴉片の夜』(香蘭社)を刊行。同9年ボードレール詩集『悪の華』の全訳本を耕進社より、また長谷川欣一との共著『ボオドレエル研究』を叢文社より刊行する。同10年文学、美術、映画を対象とする雑誌「美術手帖」(美術手帖社)を主宰創刊。同11年自ら経営する邦画社より「月刊邦画」「美術及美術人」を創刊する。同16年前年に死去した長谷川利行についての著『夜の歌―長谷川利行とその芸術』を邦画社から刊行。同18年出版界の企業整備により他社数社と合同して株式会社愛宕書房を創立してその取締役となる。この頃社団法人日本文学報国会会員となる。戦後、同24年前後は小説を多数著したが、同25年「芸術新聞」(芸術新聞社)を創刊し、翌年は戦前に5巻まで刊行しながら戦中の雑誌統合で廃刊になった「美術検討」を改題復刻する生活美術誌「色鳥」を創刊するなど、美術評論活動を再開する。また、同28年最初の個展「矢野茫土個展」を東京上野松坂屋で開催し、以後作品の発表もたびたび行う。同35年モデル小説『放水路落日―長谷川利行晩年』(芸術社)を刊行。同37年従来主宰していた「らーる(L’ART)」を改題し「色鳥美術ニュース」として芸術社から主宰創刊。同51年『放水路落日―長谷川利行晩年』に若干のエッセイを加えて改題した『野良犬―放浪画家・長谷川利行』(芸術社)を刊行する。その後もたびたび開催される長谷川利行の展覧会企画に参加、協力するとともに、自らの制作を個展で発表している。平成6(1994)年10月岩手県一関文化センターで「矢野茫土展」が開かれたほか、没後も同センターで同8年7月に「矢野文夫と茫土の世界展」が開かれ、同9年1月には東京ストライプハウス美術館で「茫土・矢野文夫全貌展」が開かれた。年譜、著作などは同展図録に詳しい。

秋元清弘

没年月日:1995/12/15

読み:あきもときよひろ  日展評議員の洋画家秋元清弘は、12月15日午後6時、呼吸不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年73。大正11(1922)年10月3目、現在の東京都中野区本町に生まれ、昭和15(1940)年東京府立第六中学校を卒業、東京美術学校油画科に入学、田辺至に師事した。同19年に同学校卒業。戦後は、同23年から高校の美術教師をしながら、創作活動をつづけ、同30年の東光展にて奨励賞をうけ、同32年同会会員となった。また、同31年の第12回日展に「海辺」が初入選、以後毎回出品をつづけ、同40年の第8回日展では「室内」が特選となり、同46年の改組第3回展でも「青い服」が再び特選となった。以後日展には、無鑑査、委嘱出品をつづけ、同55年に会員となった。平成6(1994)年に日展評議員となった。

舟木徳重

没年月日:1995/12/09

読み:ふなきのりしげ  日展評議員の洋画家舟木徳重は、12月9日午前5時、肺がんのため東京都東村山市の東京白十事病院で死去した。享年77。大正7(1918)年1月18日に東京は日暮里町に生まれ、昭和17(1943)年に東京美術学校油画科を卒業。同年の第29回光風会展に「自画像(夏)」が初入選。戦後も同会に出品をつづけ、同23年の第34回展に「S君」、「静物」を出品、光風賞を受賞、翌年から会員となり、同会の評議員をつとめたのち、同41年に退会。一方、日展には、同21年の第2回展から出品し、同27年の第8回に、コスチュームの女性を手堅い描写でまとめた「黒衣」が入選、岡田賞を受賞。以後、無鑑査、出品委嘱による出品をつづけ、同39年に会員、同51年に評議員となった。平成5(1993)年の第25回展に、ナイーヴな表現ながら、陽光に映える半島が黄色に描かれ、空も海ものどかなひろがりが感じられる「春の海」が最後の出品となった。

西尾善積

没年月日:1995/12/04

読み:にしおよしづみ  日展参与の洋画家西尾善積は、12月4日午後3時45分、呼吸不全のため東京都練馬区の東海病院で死去した。享年83。明治45(1912)年4月10目、京都市に生まれ、昭和14(1939)年に東京美術判交油画科を卒業、在学中の同13年の第2回新文展に「肘つく女」が初入選。藤島武二、川島理一郎に師事。同18年の第30回光風会展に「ジャンパーの老人」、「新聞を読む」が入選、光風賞を受賞。戦後も、同会の会員として審査員、評議員などをつとめ、同45年に退会。一方、同22年の第2回日展に「モデル」が入選、特選となり、以後同26年の第7回展から同32年の第13回展まで、日展に出品委嘱。同33年から35年まで、フランスに留学。帰国後は、日展において審査員、評議員をつとめ、平成5(1993)年に参与となった。平成元年の第21回展に明るい色彩と童画的な表現による「ポポリ展望」を出品、そして翌年の第22回展に出品した「永遠の都(ローマ)」が同展への最後の出品となった。

井上長三郎

没年月日:1995/11/17

読み:いのうえちょうざぶろう  自由美術家協会会員の洋画家井上長三郎は11月17日午前2時20分、呼吸不全のため千葉県流山市の東葛病院で死去した。享年89。明治39(1906)年11月3日、神戸市浜崎通り4丁目に生まれる。同41年両親とともに大連に移り、大正13(1924)年4月まで大陸で過ごす。この間同11年に『回想のセザンヌ』を読み、啓発されるとともに絵画に興味を抱くようになる。帰国後、東京谷中の太平洋洋画研究所に通L¥中村不折に師事。鶴岡政男、靉光らと交遊する。昭和元(1926)年、第13回二科展に「風景」で初入選。翌年1930年協会展に「習作(風景)」を出品して奨励賞を受賞。同年第14回二科展に「樹下清流」を出品する。以後両展に出品を続け、同5年第5回1930年協会展に「森の道」を出品して再度奨励賞を受賞。同年太平洋画会研究所が閉鎖されることとなり、同所を退く。同6年第1回独立美術協会展に「風景」「森」「厓」を出品して「森」で独立美術協会賞を受賞。同10年同会会員となる。同13年夫人とともに渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに入りデッサンの研鎖に勉める。この間、セザンヌ生誕100年記念展を見、その制作がプッサンらの古典絵画を基礎として継承していることに触発された。同15年イタリア旅行ののち帰国し、同年美術文化協会に参加。同18年太平洋洋画研究所時代の友人であった靉光、鶴岡政男、松本竣介らとともに新人画会を結成。同年第4回美術文化協会展に出品した「埋葬」が軍当局の検閲により撤去され、同年9月の決戦美術展に靉光との共作「漂流」を出品したが「敗戦的」という理由から展示1日にして撤去される。同19年山梨県北巨摩郡へ疎開。同21年日本美術会の創立に参加し、同会の主催による日本アンデパンダン展に出品。また、同22年新人画会が自由美術家協会と合流したため、同会へも出品する。同25年からは読売新聞社主催の日本アンデパンダン展にも出品。「葬送曲」「東京裁判」など社会批判を含む作品を発表して注目された。一方この頃から堅実な構成力を示す静物画を描き始めている。同26年東京日本橋高島屋で「井上長三郎作品展」を開催。同27年第1回展より日本国際美術展に、同29年第1回展より現代日本美術展に出品。同30年代半ばから、激しくデフォルメさせた人体の構成による諷刺性の強い作品が制作されるようになり、同41年から「紳士シリーズ」が始められた。同55年、在住作家として板橋区立美術館で「井上長三郎展」が開催された。西洋絵画に継承される古典を認識し、自らに流れ込む東洋絵画の古典を国際化した現代に生かすべく試み、形を明確にすることを重視し、色彩の使用を自ら制限して制作する姿勢を保った。『井上長三郎画集』(昭和50年、時の美術社)、『画論集 井上長三郎』(同51年、中央公論事業出版)などが刊行されているほか、画集『靉光』(昭和40年、時の美術社)を執筆するなど画友霊靉光、松本竣介などについての著述もある。

向井潤吉

没年月日:1995/11/14

読み:むかいじゅんきち  行動美術協会創立会員で民家を描く画家として知られた洋画家の向井潤吉は11月14日午前5時30分、東京都世田谷区弦巻の自宅で急性肺炎のため死亡した。享年93。明治34(1901)年11月30日、京都市下京区仏光寺通柳馬場西入東前町406番地に生まれる。生家は代々宮大工に従事し、潤吉の父才吉は東本願寺の建築にもたずさわったほか、職人を抱えて輸出向け刺繍屛風や衝立の制作をも行っていた。大正3(1914)年京都市立美術工芸学校予科に入学するが、在学中に油彩画に強い興味をいだき、同校を中退して画業を手伝いながら関西美術院に学ぶ。沢部清五郎、都鳥英喜に師事。同8年関西美術院での友人たちと麗日会を開催。また同年第6回二科展に「室隅にて」で初入選する。同9年5月に上京して新聞販売店に住み込み、新聞配達の仕事をしながら川端画学校に通う。同年第7回二科展に「八月の鉢」が入選。同年京都に帰り、翌年春大阪高島屋呉服店図案部に勤務し始める。同年12月京都の歩兵第38連隊に入営するが2ヶ月で除隊し、再び高島屋に勤務する。翌15年第13回二科展に6年ぶりに「葱の花」を出品して入選し、本格的に画家を志した。昭和2年秋、シベリア経由で渡欧し、アカデミー・ドラ・グラン・ショーミエールに通う。翌年サロン・ドオトンヌに出品する。同5年1月帰国。滞欧中にドイツ・イタリア・スペイン・オランダなどを訪ねている。帰国の年、京都大毎会館で個展を開いたほか、東京、大阪、京都の画廊でも個展を開催。同年の第17回二科展に「力土達」等11点を特別出品し樗牛賞を受賞、同8年同会会友、同11年会員に推挙される。同12年秋中国に個人の資格で従軍し翌年5月中村研一らと上海に赴き上海軍報道部の委嘱により記録画を作成する。同13年大日本陸軍従軍画家協会設立とともに同会会員となり、同14年陸軍美術協会の結成に伴い同会会員となる。同15年紀元2600年奉祝展に「黄昏」を出品し、同年昭和洋画奨励賞を受賞する。同16年二科会評議員となる。また同年国民徴用令により報道班員としてフィリピンに赴く。同18年ビルマ方面に従軍して同19年8月に帰国する。戦中に日本の民家の図録を見てその美に注目し、終戦後は民家を描き続けようと志し、同20年秋に新潟県川口村をモティーフとした「雨」を制作して以後、終生民家を描いた。終戦まもなく再興した二科会には参加せず、行動美術協会を結成してその創立会員となる。以後行動展を中心に、日本国際美術展、現代日本美術展、日本秀作美術展などにも出品。同34年再度渡欧し10ヶ月ほど滞在。同41年訪中日本美術家代表団の一員として訪中し北京、上海、蘇州などを訪ねる。同49年3月京都府立文化芸術会館で民家を描いた作品約50点による自選展を聞いたほか、5月には東京銀座のセントラル美術館において初期からの画業を90点でふりかえる「向井潤吉還流展」を開催。翌年横浜高島屋で「向井潤吉民家展」を開催し70余点を展示する。昭和8年から世田谷区弦巻町に居住し、同57年同区名誉区民となった。同61年世田谷美術館において「向井潤吉展」を開催、年譜、参考文献などは同展図録に詳しい。平成4年自宅兼アトリエとともに300余点の作品を世田谷区に寄贈したのを受け、世田谷美術館内に向井潤吉アトリエ館が設置された。同年「向井潤吉アトリエ館開館記念展 郷愁と輝き・向井潤吉と民家」が開かれている。その土地の気候、風土、人々の暮らしが作り上げてきた民家のかたちを写実的にとらえ、失われていく景観を描きとどめた。スケッチによってアトリエで完成させる方法をとらず、現地での制作を重視した。描かれた民家は北海道から鹿児島まで1500に及ぶ。

若松光一郎

没年月日:1995/11/07

読み:わかまつこういちろう  新制作協会会員の洋画家若松光一郎は11月7日午前6時、急性心不全のため死去した。享年81。大正3(1914)年8月8日福島県いわぎ市常盤湯本三函179に生まれる。福島県立磐城中学に学び、東京美術学校入学を志して同7年に上京。川端画学校に入り、同校顧問であった藤島武二宅へ赴いて直接師事する。昭和8(1933)年東京美術学校西洋画科に入学。藤島武二に師事して同13年に同校を卒業する。在学中の同12年第2回新制作派協会展に「人物」で初入選。以後同展に出品を続け、同16年第6回同展に「石の村」「巌」「船」を出品して新作家賞を受賞。同18年同会協友となる。同19年召集により入隊。同年第9回新制作派展戦時美術展に「五月」「つりぼり」「緬羊の小屋」を出品して岡田賞を受賞。同27年から29年まで結核のため療養。病気が回復し始めたころから湯本の自宅で絵を教え始め、同会を「ユマニテ会」と名付けて、ユマニテ展を毎年間崖する。同31年第20回新制作展に「小田炭坑A」「小田炭坑B」「石炭をはこぶ女」を出品して同会会員となる。同48年7月から3週間ヨーロッパ旅行。同56年春にもヨーロッパへ赴く。初期には油彩によって人物、風景、静物を描き、対象の再現描写にとどまらず、形態を簡略化して構築的な制作を行った。1960年代に入ると、抽象表現へと移行し、油彩のみならず、和紙、日本画の顔料などを用い、時にコラージュをも含む独自の技法による作品が制作されるようになった。同60年いわぎ市立美術館で「若松光一郎―半世紀の歩み」展が開催されており、年譜、作風の展開については同展図録に詳しい。

澤柳大五郎

没年月日:1995/11/03

読み:さわやなぎだいごろう  東京教育大学名誉教授で早稲田大学でも教鞭を取った西洋美術史家澤柳大五郎は11月3日午前6時4分、心不全のため東京都小平市の公立昭和病院で死去した。享年84。明治44(1911)年8月23日東京都豊島区目白町に生まれる。昭和10(1935)年東北大学法文学部を卒業。美学美術史学を専攻し、同年より同13年3月まで同学部美学美術史学研究室助手をつとめる。同年11月より同18年10月末日まで文部省日本文化大観編集会嘱託となり、同年11月より帝国美術院附属美術研究所嘱託となった。同24年東京教育大学助教授となり、同28年同大学教授となった。ギリシャ、ローマ古代美術、特に葬礼に関する視覚資料を中心に調査・研究。同34年文部省在外研究員として渡欧し同36年帰国する。また、同41年レバノン、トルコ、ギリシャ、イタリアを訪れている。同43年東京教育大学を停年退職し、同大名誉教授となる。同年より早稲田大学文学部教授となって同57年停年退職するまで同大学で教鞭を取った。

吉田穂高

没年月日:1995/11/02

読み:よしだほだか  日本美術家連盟理事、日本版画協会理事の版画家吉田穂高は11月2日午後零時23分、腹部大動脈りゅう破裂のため東京都立川市の国立病院東京災害センターで死去した。享年69。大正15年9月3日東京都北豊島郡滝野川町に洋画家吉田博、ふじをの次男として生まれる。兄は版画家の吉田遠志。東京高等師範学校付属小学校、同中学校を経て昭和19年第一高等学校(旧制)理科甲類に入学する。同20年同校理科乙類に転類。このころから油彩画の制作を始める。同23年日本美術会主催第2回日本アンデパンダン展に油彩画「こむら」「秋」「あくびから」を初出品する。翌年読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展に油彩画を出品。同年第一高等学校を卒業する。この後も日本美術会、読売新聞社主催の二つのアンデパンダン展に出品を続け、この間同27年第20回日本版画協会展に「太陽」「星」「夕陽の街の女の子」「ハッパの子」を出品して日本版画協会会員となる。同30年米国の美術館からの招待により渡米する兄に随行してアメリカに渡り、後、キューパ、メキシコを旅行。メキシコの古代文明、特にマヤ文明の遺跡で受けた感銘が、後の制作に指針を与えた。具象表現から生命感をテーマとした抽象版画へと作風に変化が表れるようになる。同31年第1回シェル美術賞に「石と人」で応募し3等賞を受賞する。同32年母ふじを、妻で版画家の千鶴子とともに世界一周旅行をし、滞在先で大学・美術館における木版画制作の講義、デモンストレーションを行ったほか、ロスアンゼルスのランドウ画廊で個展を開催した。同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に「ポリネシアン」を出品。同36年1月現代写真展1960年(東京国立近代美術館)に写真「旅情・マドリッドの町はずれ」を出品。このころ写真に興味を抱き、「カメラ毎日」などの写真誌に作品を発表する。同年第1回パリ青年ビエンナーレに出品、この年リトグラフを試みる。同年37年スイス・ルガーノ国際展に「たまものA」などを出品して受賞。同年38年第5回ユーゴスラヴィア国際グラフィック・ビエンナーレ(通称・リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に出品し、以後同展に出品を続ける。同年アメリカ、中南米を旅行。この年、リトグラフと木版の併用技法を試みるとともに、このころアメリカで隆盛していたポップ・アートに触発されて現代にモティーフを得た作品を制作するようになる。同40年、写真製版によるリトグラフ、シルクスクリーンなど多様な技法を試み、翌年3月の銀座養清堂における個展でそれらの作品を発表。同41年コラージュによる「現代の神話」シリーズを始める。同43年を東京都電機健保会館のレリーフ壁画を制作。同44年より52年まですいどーばた美術学院(のち創形美術学校)版画科講師をつとめる。同45年写真製版による亜鉛凸版と木版の併用技法を試み、以後これを主な技法として「LANDSCAPE」シリーズの制作を始める。画面に多くのモティーフがひしめく、喧騒な画面から一転して音や動きの感じられない風景画へと移行した。同47年オーストラリア外務省の「文化賞計画」の招待によりオーストラリアを訪れ、美術学校、美術館を視察するとともに、木版画技法の紹介、作品展示を行う。同年第2回ソウル国際版画ビエンナーレに「沈黙の風景」「水辺の神話」「真昼の神話」を出品して大賞を受賞する。同48年第1回世界版画コンペティションに「NINJAPOINT」を出品して第1部特別エディション賞を受賞。同年より家をモティーフとした「現代の神話」シリーズの制作を始める。同49年ポーランドクラコウ国際版画ビエンナーレ、第2回ノルウェー国際版画ビエンナーレ、第6回イビサ・ビエンナーレ(スペイン)に出品。同51年詩画集『東天の虹』(詩・堀口大学、版画・吉田穂高)が弥生書房から刊行される。同年メキシコを旅行し、ニューヨーク、ロスアンゼルスを経て帰国。また同年第5回リエカ国際オリジナルドローイング展(ユーゴスラヴィア)に「扉のある風景A.B」を出品して国際審査員名誉賞を受賞する。同52年国際交流基金からの派遣によりグアテマラ、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジェラスの中米の国々を訪問して日本の現代版画について講演を行うとともに木版技法のデモンストレーションを行う。同年秋第1回日中友好美術家訪中団として中国を訪問する。同年日本美術家連盟によるアジア現代美術視察・調査の一環としてタイ、インドネシアを訪問。同61年キューバ芸術家連盟の招きでキューバを訪れ、帰途メキシコに立ち寄る。同62年「サンミゲル旧一番通り」により山口源大賞を受賞。同63年町田市立国際版画美術館で「吉田穂高版画展」が開催され、平成7(1995)年4月にはハンガリー美術アカデミーで「吉田穂高大回顧展」が開催された。また、歿後の平成9年1月には居住地であった三鷹の三鷹市美術ギャラリーで「吉田穂高展」が開かれた。伝統技法の紹介により国際交流にも貢献しつつ、古典的木版技法を写真、リトグラフなど多様な技法と併用して新たな表現の可能性を探り、現代の感性に訴える知的な画面構成を行った。著作も多く、主要著書に『たのしい造形』(美術出版社 昭和43年)、『版画 新技法読本』(駒井哲郎らと共箸、美術出版社 昭和38年)、『版画の技法』(駒井哲郎らと共著、美術出版社 昭和39年)などがある。

河北倫明

没年月日:1995/10/30

読み:かわきたみちあき  美術評論家で文化功労者の河北倫明は10月30日午前3時45分心不全のため、東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年80。大正3(1914)年12月14日福岡県浮羽郡山春村に生まれる。久留米市立篠山尋常小学校を経て、昭和6(1931)年福岡県立明善校を修了。同10年旧制第五高等学校を卒業して京都帝国大学文学部に進学し、同13年同大哲学科を卒業して同大学院に進学する。同18年帝国美術院付属美術研究所(現・東京国立文化財研所)助手となり、日本近代画家の調査・研究に取り組む。戦後、同23年ころより日本近代美術史に立脚した現代美術評論活動を盛んに行うようになった。同23年同郷の洋画家青木繁の調査・研究成果として『青木繁』(養徳社)を刊行。また、同年『近代日本画論』(高桐書院)を刊行して、個々の作家、作品についての調査・研究に基づぎながら、史的流れのうえにそれらを位置づける日本近代絵画史の新たな方向を提起した。同27年国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)事業課長となり、日本で最初の近代美術館の運営に尽力。また、美術評論の分野でもその活性化と相互の連絡を目的として同29年美術評論家連盟を結成し、事務局長に就任した。同38年3月東京国立近代美術館次長となる。同42年5月美術交流展覧会のためソヴィエト連邦を訪れる。以後も、美術による国際交流のため中国、西欧、アメリカ、南米等を訪れる。同44年2月京都国立近代美術館館長となって、関西方面の美術館活動にも深く関わるようになり、同45年大阪万博では同博覧会美術館委員をつとめた。同57年美術館連絡協議会理事長に就任し、歿するまで全国の美術館運営、学芸員の調査・研究の奨励に寄与した。同61年10月より平成6(1994)年まで美術評論家連盟会長をつとめる。昭和61年京都国立近代美術館館長を退き、京都芸術短期大学の設立に尽力して翌62年6月同大学学長となった。平成元(1989)年1月より同4年6月まで横浜美術館館長をつとめ、この間同3年より同7年3月まで京都造形芸術大学学長をもつとめた。また、平成元年私財を投じて全国の若手の美術館学芸員、美術研究者の活動を支援すべく「倫雅美術奨励賞」を創設。同5年より式年遷宮記念神宮美術館館長、同7年より京都造形芸術大学名誉学長となった。主要著書に『日本の美術』(昭和33年 社会思想研究社出版部)、『大観』(同37年 平凡社)、『村上華岳』(同44年 中央公論美術出版)、『坂本繁三郎』(同49年 中央公論美術出版)、『河北倫明美術論集』全5巻(昭和52-53年 講談社)、『近代日本絵画史』(高階秀爾と共著 昭和53年中央公論美術出版)、『河北倫明美術時評集』全5巻(平成4-6年 思文閣出版)がある。

古橋悌二

没年月日:1995/10/29

読み:ふるはしていじ  パフォーマンスグループ「ダムタイプ」の演出家でありパフォーマーのメディア・アーティスト古橋悌二は、10月29日午後2時45分、敗血症のため死去した。享年35。昭和35(1960)7月13日、京都市に生まれ、同55年京都市立芸術大学に入学、同61年同大学大学院構想設計科修士課程を修了。在学中の同59年に芸術集団「ダムタイプ(DUMB TYPE) 」を結成、活動を開始。この集団は、古橋を中心にデザイナー、作曲家、コンピュター・プログラマ一、ヴィジュアル・アーティストなどによって構成され、インスタレーション、パフォーマンス、ビデオ、出版など、多彩なメディアを駆使して、表現を展開することが目的とされていた。同63年、パフォーマンス「PLEASURE LIFE」により京都市芸術新人賞を受賞。このパフォーマンスは、国内だけではなく、ニューヨーク、ロンドン、コペンハーゲン等でも上演された。平成4(1992)年には、テクノロジーを駆使するはずの人間が、ロボット化していることを洗練された手法で表現したビデオドキュメント「pH」を発表、この作品も国内外で発表、上演され、イタリア、ドイツで受賞し、高く評価された。同年からは、エイズをめぐるさまざまな思考を、コンピューター・グラフィックスによる映像と、ノイズのはいった音楽、スクリーンに写しだされるメッセージ、そしてパフォーマンスによって構成された「S/N」を発表、同7年の第2回読売演劇大賞選考委員特別賞、日本文化デザイン賞を受賞した。同年、ニューヨーク近代美中術館のVideo Space展に出品されたインスタレーション「Lovers 永遠の恋人たち」が遺作となった。 

坂本光聡

没年月日:1995/10/22

読み:さかもとこうそう  真言三宝宗管長、清荒神清澄寺法王で鉄斎研究家の坂本光聡は10月22日午前9時15分、心不全のため自宅である兵庫県宝塚市米谷清シIの清荒神清澄寺で死去した。享年68。昭和2(1927)年10月22日清澄寺内に藤本元一の長男として生まれる。本名清一。同15年12月清澄寺第37世法主、坂本光浄に随い得度し、坂本家に入籍して坂本光聡と改名する。同22年種智院大学を卒業。同27年真言三宝宗宗務長・清澄寺副住職に就任する。先代法主が傾倒した富岡鉄斎の研究と作品収集を続け、同40年『世界の鉄斎』を刊行。同44年12月研究誌「鉄斎研究」を創刊した。同45年清澄寺境内に鉄斎作品の収蔵庫「蓬莱庫」を築造し、同50年4月には同じく境内に鉄斎美術館「聖光殿」を開館。同45年より、日本各地で鉄斎展を開催し、その作品紹介に努め、同61年には中国巡回「鉄斎展」を開催するのに伴い、上海、北京に赴いた。また、同63年ベルギーで開催された「ユーロパリアジャパン ’89」に参加して鉄斎展を開くなど、圏内にとどまらず、国際的に鉄斎作品の紹介を行った。陶芸にも造詣深く、荒川豊蔵の作品収集でも知られる。

榎倉康二

没年月日:1995/10/20

読み:えのくらこうじ  東京芸術大学教授の美術家榎倉康二は10月20日午後6時30分、東京都世田谷区の自宅で倒れ急死した。享年52。昭和17(1942)年11月28日東京に生まれる。同36年私立独協高等学校を卒業して、同37年東京芸術大学油画科に入学。同41年、同科を卒業して同大学大学院油画科に進学。また、同年より同48年まで、すいどーばた美術学院非常勤講師をつとめる。この間、同42年東京のイトー画廊でグル一プ.ルモン第1回展を開催。同43年に大学院を修了する。同44年を東京の椿近代画廊で第1回個展「The ceremony of walking(歩行儀式)」を開催。同45年第10回日本国際美術展に、同46年第10回現代日本美術展、第7回パリビエンナーレに出品。早くから物質相互の浸透、物質と人間の関係などに興味を抱き、同45年東京村松画廊での個展「The Infinit Zone(不定地帯)」、同46年東京のウォーカー画廊での個展「湿質」、同47年田村画廊での「榎倉康二提示場」などで制作を発表。同49年ドイツのアーへン市立美術館で個展を開催し「予兆―海・肉体」他を発表する。同51年ときわ画廊で個展「不定領域」を開催、また第2回シドニー・ビエンナーレに出品する。同53年東京画廊で個展「干渉率」を開催した。同55年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。同56年東京芸術大学美術学部講師となり、同58年同助教授となる。平成4年ボローニア市立近代美術館での「70年代日本の前衛展」に出品。同5年東京芸術大学美術学部教授となった。同年世田谷美術館での「70年代日本の前衛 抗争から内なる葛藤へ」展、同7年北九州市立美術館、広島市現代美術館での「1970年―物質と知覚」展などに出品していることから知られるように、作家活動の初期から鋭い感性で自らの生きる時代の問題に切り込む制作を発表し続けた。80年代には「FIGURE」のシリーズを、90年代には「干渉」のシリーズを制作。オブジェやインスタレーションから平面やタブローへと作品形態の中心が移行したが、ものごとのはじまりや生成、ないしは存在することそれ自体を、「浸透」「干渉」などを鍵としてとらえようとする試みは一貫していた。

丸木位里

没年月日:1995/10/19

読み:まるきいり  日本画家の丸木位里は、10月19日午前11時15分、脳こうそくのため埼玉県東松山市の自宅で死去した。享年94。明治34(1901)年6月20日、現在の広島県広島市安佐北区安佐町に生まれ、飯室高等尋常小学校卒業後、絵を独学、大阪出て一時大阪精華美術学院に学んだのち、大正12(1923)年上京して同郷の田中頼璋の天然画塾に入門したが、この年の関東大震災により広島にもどった。広島では、広島県美術展覧会に出品していたが、昭和9(1934)年に再び上京、落合朗風主宰の明朗美術研究所に入門した。同11年の第8回青龍社展に「池」が初入選、翌年の第9回展にも「峡壁」が入選した。また、この頃、同じ広島県出身の靉光と親交し、同11年広島市で開催された第1回藝州美術協会展にともに出品した。同14年歴程美術協会結成に参加したが、同年の第2回展に出品した後、岩橋英遠、船田玉樹とともに脱退した。翌年福沢一郎の勧誘をうけて、唯一の日本画家として美術文化協会結成に参加、同21年の第6回展まで、出品をつづけた。また、同16年に二科展に出品していた赤松俊子と結婚。同20年、広島に原爆が投下されたことを知ると、数日後には肉親の安否をたしかめるために広島に行き、遅れてきた妻とともに惨状を目のあたりにしながら被災者の救護にあたった。戦後は、原爆の記憶がうすれていくことの批判をこめて、「原爆の図」第一部「幽霊」を完成させ、「八月六日」と改題して同25年の日本美術会主催第3回日本アンデパンダン展に出品した。このシリーズは、俊子との共同制作で同30年までに第10部が完成し、各種の展覧会にそのつど出品された。またその間、国内はもとより、同25年と同31年には、この作品をたずさえて、ヨーロッパ各国、中国などで世界巡回展を開催し、各地で反響をよんだ。同30年代からは、日本アンデパンダン展のほか、毎日新聞社主催により隔年で開催された現代日本美術展、日本国際美術展(東京都美術館)などに毎回出品した。同42年には、埼玉県東松山市の自宅の敷地内に原爆の図丸木美術館が開館、また同年第9回サンパウロ・ビエンナーレに出品した。同51年、第2回从展に、妻俊(同31年に改める)との共同制作による「南京大虐殺の図」、翌年の第3回展には「アウシュビッツの図」を出品。同54年には、第3回反ファシズムトリエンナーレ国際具象展(ブルガリア)に俊との共同制作「三国同盟から三里塚まで」を出品、大賞を受賞。同55年の第6回从展に「水俣の図」、同58年の第9回从展に「沖縄の図」のシリーズを出品した。このように、「原爆の図」シリーズ(同57年までに15部が完成)を起点に、社会性の強い作品を制作しつづけた一方、中国、ヨーロッパ各地を写生旅行し、その作品をもとに俊との三人展をたびたび開催し、剛胆な水墨表現を一貫して追求していた。

佐野猛夫

没年月日:1995/10/02

読み:さのたけお  京都市立芸術大学名誉教授で日本芸術院賞受賞のろうけつ染作家の佐野猛夫は10月2日午前4時26分、がん性腹膜炎のため京都市左京区の石野病院で死去した。享年81。大正2(1913)年10月22日、滋賀県守山町(現守山市)に生まれる。母あいの生家は西陣の刺繍業者であった。長浜尋常高等小学校在学中の大正12年ころから絵に熱中するようになり、同14年同校を卒業した翌年、京友禅の仕事をしている京都の兄宅に同居する。昭和2(1927)年京都市立工芸学校図案科に入学。山田江秀、山鹿健吉(清華)らに師事する。同5年ころより懸賞図案に応募し入賞する。同7年京都市立美術工芸学校を卒業。一時服飾図案を志したが、創作図案の道を選び、同8年第20回商工省工芸美術展図案部に創作図案「祭礼の図額」で初入選。同年第14回帝展に「大阪天満祭ノ図鑞染壁掛」で初入選。翌年の帝展には落選するが、同年山鹿清華の東宝劇場大緞帳制作に参加したことから、以後東京、大阪、神戸などで緞帳制作に携わるようになる。同10年1か月ほど沖縄に滞在して紅型や沖縄の工芸を学ぶ。同年に開設された京都市美術展に「鑞染壁掛琉球ノ女」を出品。また同年京都市美術工芸学校卒業の新人染織家集団「木旺社」の結成に参加する。同11年蒼潤社第1回美術工芸展で工芸奨励賞受賞。同12年第2回京都市展に「請雨の図染額」を出品して市長賞を受賞、同年第1回新文展に臈纈染四曲屏風「鳴禽の図」を出品。同13年第2回工芸院展に風呂先屏風「沼」を出品し工芸院賞を受賞。同15年紀元2600年奉祝展に出品するとともに、山鹿清華、皆川月華、稲垣稔二郎らによって結成された京都染織繍芸術協会に参加。同17年第7回京都市展に「土に遊ぶ染屏風」を出品して市長賞受賞。翌年より日本美術及工芸統制協会により戦時下の統制が始まるが、文部省より特別待遇の査定を受け、独自の研究を継続する。同19年奉祝京都市展に「屏風雛二題」を出品して受賞。戦後、同20年第1回京展に「木綿を織る」を出品して市長賞第二席となり、以後も同展に出品したほか、翌年から開催された日展にも参加。同21年秋、第2回日展に臈纈屏風「童女の図」を出品して特選となる。同23年初個展を京都河原町三条の朝日会館で開催。同年は京展、日展に出品せず新匠工芸会展に「蠟染布」を出品して新匠工芸会賞を受賞し同会会員に推される。また、同年京都府主催輸出工芸美術展において「蠟染更紗布」「立花壺文広幅染布」で商工大臣賞を受賞。同27年小合友之助が日展処遇問題により新匠会を退会したため、日展、新匠会を退くが、小合自身からも、また岩田藤七、高村豊周らからも日展復帰を促され、同29年第10回日展に臈纈「風景屏風」を出品して特選受賞。この頃多様な布地を用いたり、実用性を離れた自由な表現を試みたりし、昭和30年代半ばを過ぎると自然物の写実に基づく図案化から抽象図案へと展開を示した。同36年京都市立芸術大学工芸科染織専攻の助教授に就任、同38年同教授となった。同39年より自由な蠟の操作を求めてバック・ワックス技法による制作を試み、同42年京都市立美術大学のインドネシア調査旅行に参加してジャワ・パリ島を中心に染織技法の調査を行うなどして、研究を進めた。同44年第1回改組日展に「黒い潮」を出品して文部大臣賞受賞。同48年第4回改組日展に「噴煙の島」を出品して日本芸術院賞を受賞、同49年社団法人日本学士会よりアカデミア賞を受賞する。同51年よりたびたび日展常務理事をつとめたほか、同57年京都工芸美術作家協会理事長に就任した。同58年京都工芸界の高度な水準の維持に貢献し、優れた創作と育成活動をしたことが評価されて京都新聞文化賞を受賞。同63年京都府文化賞特別功労賞を受賞した。平成2(1990)年京都府文化芸術会館の主催により自選回顧展を開催。同3年作品集『佐野孟夫蠟染作品』(ふたば書房)を刊行した。伝統的な臈纈染を基礎に、より自由な表現を目指して多様な技法の研究により独自の手法を築き、水、潮をモティーフとした抽象的な作品に斬新な感性を示した。昭和41年より下村良之介、辻晋堂らとともに版画グループ「八ピキの泉」展に参加し銅版画も制作。著書に『染織入門』(昭和44年、保育社)、エスキース集『佐野猛夫倉創作の周辺』(同51年、マリア書房)がある。

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