本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





イサムノグチ

没年月日:1988/12/30

世界的な彫刻家として活躍した日系米人イサム・ノグチは、12月30日午前2時半(日本時間同日午後4時半)肺炎のため入院中のニューヨーク大学付属病院で死去した。享年84。1904(明治37)年11月17日、英米詩壇にヨネ・ノグチとして知られた詩人野口米次郎とアメリカの女流作家レオニー・ギルモアの長男として、ロサンゼルスに生まれる。1906(明治39)年家族とともに帰国、少年期を過ごし、小学校卒業後1918(大正7)年渡米する。1919年(以下西暦で略記)より翌年にかけて彫刻家ガストン・ボーグラムに彫刻を学び、25年ナショナル・スカルプチャー・ソサエティの会員となる。同22年ニューヨーク・コロンビア大学に入学、薬学を学び、27年卒業する。この間、在学中の24年よりレオナルド・ダ・ヴィンチ芸術学校に学び、27年コロンビア大学卒業後、グッゲンハイム奨学金を得て渡仏。ブランクーシに師事しそのアトリエに出入りする一方、パリのグラン・ショーミエール、アカデミー・コラロッシに学ぶ。翌28年いったん帰米し、ニューヨークのユージン・シェーン・ギャラリーで初個展を開催。30年再渡仏、さらに日本、北京、ベルリン、モスクワを経て31年帰米する。この間、日本で宇野仁松に陶芸、北京で斉白石に水墨を学ぶ。帰米後、35年マーサ・グラハム舞踏団の舞台装置を制作。同35年から翌年にかけてメキシコに滞在し、41年にはアーシル・ゴーキーとアメリカを横断旅行している。38年AP通信ビル玄関に設置するステンレス・スティールのレリーフ・コンペで1等賞を受賞、一躍名を知られる。戦後51年女優山口淑子と結婚(55年離婚)。52年広島市の依頼により設計した平和記念碑が、抽象的すぎることなどを理由に採用を拒否されるといったこともあったが、54年の「あかり展」は、紙、竹、鉄による彫刻として話題を集める。56年から58年にかけてパリ・ユネスコ本部の日本庭園、61年から64年にかけニューヨーク・チェイス・マンハッタン銀行の庭、70年大阪万博噴水、77年シカゴ・アート・インスティテュート噴水、82年カリフォルニアの彫刻庭園「カリフォルニア・シナリオ」の設計、84年フィラデルフィア・ベンジャミン・フランクリン記念のための「ライトニング・ボルト」などを制作。舞台美術からインテリアデザイン、石彫と幅広く活躍する。National Institute of Arts and letters,American Achademy of Arts and letters,American Achademy of Arts and Science,Architectural Leagueなどの会員でもあった。61年ニューヨークのロングアイランドにアトリエを構え、85年にはクィーンズ区ロングアイランドシティに「イサム・ノグチ・ガーデン・ミュージアム」を完成。マンハッタン・イースートサイドの自宅マンションから同館へ通い、同館と香川県木田郡牟札町に設けたアトリエを拠点に世界を飛び回る多忙な生活を送った。当初、その活動は日米の中間で定位置を確保できなかったが、終戦直後ニューヨーク近代美術館で行なわれた「14人のアメリカ人展」に選ばれ世界的に名を知られるようになり、86年のヴェネツィア・ビエンナーレにはアメリカを代表して出品。68年ホイットニー美術館で回顧展、80年には同美術館50周年記念イサム・ノグチ展を開催している。東西両洋を融合させた作品は「三次元に書かれた書」とも評され、晩年の石彫は自然の性質を生かし枯淡の妙味を示した。代表作は上記のほか、広島の平和大橋、イスラエルのエルサレム国立美術館(60-65年)、メキシコ市の浮き彫り記念碑(35-36年)などがあり、著書に『イサム・ノグチ ある彫刻家の世界』(69年)がある。86年第2回京都賞精神科学・表現芸術部門賞、88年春の叙勲で勲三等瑞宝章、87年レーガン大統領より国民芸術勲章を受賞している。88年12月初めよりイタリアのティエトラ・サンタ市のアトリエで制作し、ニューヨークに戻った16日、疲労による肺炎のためニューヨーク大学病院に入院。23日から悪化し集中治療を受けていた。没後89年2月大阪ガレリア・アッカでブロンズによる新作展が開催された。晩年はマンハッタンのマンションに一人住まいだったが、東京に実弟の写真家野口ミチオ、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェに妹のアイリス・スピンデンがいる。

加藤孝一

没年月日:1988/12/28

二科会評議員の洋画家加藤孝一は、12月28日午前11時25分、肺がんのため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年80。明治41(1908)年12月8日愛知県瀬戸市に生まれる。瀬戸窯業学校を卒業。昭和13(1938)年第25回日本水彩画会に「花」で初入選。19年第9回新制作派展に初入選する。戦後、21年北川民次に師事し、同年第31回二科展に「瀬戸物作り」で初入選。以後同展に出品をつづけ、32年同会会友、45年会員となる。54年第64回二科展に「通り裏の風景」を出品して会員努力賞を受賞。59年二科会評議員となる。実景に取材しながら、その再現描写にとらわれず、遠近、大小関係を自在に変化させ幾何学的形体に簡略化したモチーフにより明快でユーモラスな作風を示した。

小野勝年

没年月日:1988/12/20

文学博士、元奈良国立博物館学芸課長、元竜谷大学教授の小野勝年は12月20日午後9時45分、急性心不全のため奈良市高畑本薬師寺町626の自宅で死去した。享年83。明治38(1905)年12月1日、長野県上伊那郡辰野町大字小野に生れる。県立松本中学校、松本高等学校を経て、昭和2年に京都帝国大学文学部史学科に入学、この後病気の為2年間休学し昭和8年論文「両税制度の一考察」を提出し卒業。同年京都帝国大学大学院に入学、研究テーマを支那中世文化に据え、同年より昭和18年5月まで同大学文学部副手を務めた。この間昭和12年10月より、同15年3月まで、外務省在支特別研究員として中国に留学し、華中・華北・東北・蒙古等の史蹟の調査を行い、中国美術・考古の研究を進め、その後も昭和20年6月の現地召集まで華北交通株式会社嘱託や華北綜合調査研究所員として中国史蹟の調査・研究を継続した。 戦後は一時、郷里長野県の日野青年学校教官、日野中等学校教諭を務め、昭和23年8月から昭和42年3月の退官に至るまで奈良国立博物館で過した。奈良国立博物館においては昭和27年8月に学芸課工芸室長兼資料室長となり、昭和36年4月に学芸課考古室長、昭和39年9月より学芸課長を任ぜられ、考古室長事務取扱を兼務した。この奈良博時代には、研究の関心が中国と日本の接点にまで拡げられ、円仁を中心とする入唐僧の研究を中心に成果が発表された。この間、昭和18年に村田治郎(『日本美術年鑑昭和61年版』参照)を隊長として行なわれた北京郊外の居庸関雲台保存調査の結果である『居庸関』(京都大学工学部)の「第5章雲台浮彫細部の意匠」を担当し、『居庸関』に対して昭和34年5月に学士院賞を受け、昭和37年3月には京都大学より『円仁入唐求法の研究』によって文学博士の学位が授与された。そして奈良博時代の締め括りとして、昭和41年に中心となって担当した「大陸伝来仏教美術展」は大きな反響を呼んだ。 奈良博退官後、昭和42年4月から昭和55年3月に至るまでは龍谷大学及び大学院で東洋史学、博物館学とその実習の指導に当った。後進の教育には、奈良博時代より力を尽し、奈良女子大学・京都大学・京都大学大学院・関西大学・関西大学大学院・京都女子大学・大阪大学・大阪学芸大学・奈良教育大学・愛知学院大学・追手門学院大学・大阪女子大学など多くの大学・大学院で東洋文化史・博物館学を講じた。また、昭和36年から奈良県文化財保護審議会委員などを務め、文化財保護行政にも貢献した。これらの業績に対して、昭和51年11月には勲四等旭日小授章を授与され、没後の平成元年1月には正五位に叙せられた。 研究業績は多く、先に述べた分野の他、書道史・芸能史・工芸史・考古学にまで及んでいる。以下、主要な著書・編書をあげておく。○『北支那に於ける古蹟・古物の概況』(共著) 興亜宗教協会刊 昭和16年3月○『五台山』(共著) 座右宝刊行会刊 17年10月○『蒙疆陽高縣漢墓調査略報-蒙疆陽高縣古城堡漢墓調査略報-』(共著) 大和書院刊 18年11月○『金城堡-山西臨汾金城堡史前遺蹟-』 北京華北綜合調査研究所刊 20年6月○『蒙疆考古記』(共著) 学芸社星野書店刊 21年11月○『法隆寺の壁畫とその模写事業』 国立博物館奈良分館刊 24年9月○『下高井-下高井地方の考古学的調査-』 長野県教育委員会刊 28年12月○『高句麗の壁畫』(『中国の名画』) 平凡社刊 32年6月○『世界美術全集』第15巻中国4隋・唐 角川書店刊 36年11月○『入唐求法巡札行記の研究』第1巻~第4巻 鈴木学術財団刊 39年~44年○『請来美術』 奈良国立博物館刊 42年11月○『石像美術』(『日本の美術』第45号) 至文堂刊 45年2月○『慶州と奈良』 奈良市刊 45年4月○『阿倍仲麻呂とその時代-日中友好の先覚者-』 奈良市刊 53年10月○『龍門二十品』(『書迹名品集成』第4巻) 同朋舎刊 56年7月○『褚遂良・雁塔聖教序』(『書迹名品集成』第7巻) 同朋舎刊 56年7月○『入唐求法行歴の研究-智證大師円珍篇-』上・下巻 法蔵館刊 57年○『中国隋唐長安寺院史料集成』 平成元年2月尚、詳細な業績等に関しては、喜寿を機に編まれた『小野勝年博士頌寿記念東方学論集』を参考にされたい。

小磯良平

没年月日:1988/12/16

文化勲章受章者、日本芸術院会員、東京芸術大学名誉教授の小磯良平は、12月16日肺炎のため神戸市東灘区の甲南病院で死去した。享年85。戦前戦後を通じ、清潔、典雅で気品ある婦人像を描き続け、独自の写実の世界を拓いた小磯は、明治36(1903)年7月25日神戸市に貿易商岸上文吉の次男として生まれた。大正14年小磯吉人の養子となり小磯姓を名のる。兵庫県立第二中学校在学中から上級の田中忠雄らと交わり油彩画や水彩画に親しんだ。詩人の竹中郁も同級の友人であった。大正11年東京美術学校西洋画科に入学、同期には荻須高徳、牛島憲之、山口長男らの俊秀が揃い、翌年から藤島武二教室に学んだ。在学中の同14年第6回帝展に「兄弟」が初入選、翌年の第7回帝展では「T嬢の像」で特選を受けるなど早くから画才を発揮し、昭和2年西洋画科を首席で卒業した。卒業制作は中学の同級竹中をモデルにした「彼の休息」であった。卒業の年、同期生らと上杜会を結成、第1回展に「裸婦習作」等を発表した。昭和3年から同5年の間渡仏し、パリでグランド・ショミエールへ通った。この間、山口、荻須、中村研一らと交友、ヨーロッパ各地をしきりに旅行し、制作より美術作品の見学に多く時間を費した。作家では、ドガの作品に啓示を受けたのをはじめ、ロートレック、セザンヌ、マティス、ドランに関心を示した他、古典にも多くを学んだ。同4年、サロン・ドートンヌに「肩掛けの女」が入選。翌5年帰国後、全関西洋画展に滞欧作を特別出品、第11回帝展に「耳飾」を発表、また光風会会員に迎えられた。同7年第13回帝展に「裁縫女」で特選を受け、同9年には帝展無鑑査となったが、同10年の帝展改組に際してはこれに反対する第二部会に所属し、翌11年新文展発足とともに光風会、官展を離れて、同年猪熊弦一郎、脇田和らと新制作派協会(のち新制作協会)を創立、第1回展に「化粧」などを発表した。同13年陸軍報道部の依嘱により中村研一らと上海へ赴き、その後も中国、ジャワなどに従軍し戦争画を描いた。同15年、前年作の「南京中華門の戦闘」で第11回朝日賞を受賞、同17年には前年作「娘子関を征く」で第1回芸術院賞を受けた。同20年6月5日の神戸空襲でアトリエを失い、以後再三の転居を余儀なくされたが、同24年現在の神戸市東灘区住吉山手7-1に住居とアトリエを新築した。戦後は、同25年東京芸術大学講師、同28年同教授となり、翌29年神奈川県逗子市新宿4-1696にアトリエを構えた。制作発表は新制作展の他、日本国際美術展、現代日本美術展へもそれぞれ第1回展から出品し、同33年第5回現代日本美術展に「家族」で大衆賞を受賞した。また、東京芸術大学版画教室の新設(同33年)にも尽力し、同39年には自ら銅版画展を開催した。同46年東京芸術大学を退官、同大学名誉教授の称号を受け、翌47年住居を神戸市に移した。同48年愛知県立芸術大学客員教授となる。同年、赤坂迎賓館の壁画制作を依嘱され、「絵画」「音楽」を主題に制作着手し翌年完成を見た。同54年文化功労者に選任され、同57年日本芸術院会員となる。翌58年文化勲章を受章した。的確な線描と知的な構成、清澄な色調と静謐典雅な作風を打ち立て、洋画壇で最も人気を集めた作家でもあった。作品は他に、「踊り子」(昭和13年)、「斉唱」(同16年)、「三人立像」(同29年)、「舞妓」(同36年)、「働らく女」(同43年)、「黒い衿の女」(同52年)などがある。また、戦前から石川達三、舟橋聖一らの新聞小説挿絵を手がけ、戦後も山崎豊子『女の勲章』などの挿絵を描いた。国立国際美術館評議員をつとめ、神戸市名誉市民でもあった。同63年8月兵庫県立近代美術館に「小磯良平記念室」がオープンした。存命中の画業展としては、昭和62年1月から兵庫県立近代美術館他で開催した「小磯良平展」が最も新しく、かつ内容の充実した展観としてあげられる。葬儀は、12月19日神戸市の日本基督教団神戸教会で執行された。

森蘊

没年月日:1988/12/14

庭園文化研究所長、元奈良国立文化財研究所建造物研究室長森蘊は、12月14日午後10時48分、急性ジン不全のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で死去した。享年83。数年前に軽い脳梗塞で倒れ、回復後、この3月に再び倒れていた。明治38(1905)年8月8日、東京都立川市に生まれる。一高卒業後、昭和7年東京帝国大学農学部林学科を卒業し、同大学院に進学、9年修了する。この間、昭和8年5月内務省衛生局嘱託となり、13年1月より厚生省体力局施設課に勤務、国立公園を担当するこの部局で、庭園などにも関する実務の基礎を築く。また昭和7年頃より京都、鎌倉、平泉などの庭園や遺跡を調査し、昭和13年「京都に残る平安期の庭園遺跡を訪ねて」(『庭園』20-3)、「枯山水」(『宝雲』23)を発表。14年1月発足した『建築史』に同人として参加し、「法金剛院の庭園について」(第1巻1号、2号)をはじめ、19年の終刊まで執筆を続ける。また14年「平安時代前期庭園に関する研究」(『建築学会論文集』13、14)、14~16年「泉殿、釣殿の研究1~3」(『宝雲』)など、建築と一体化した庭園史研究を進める。16年厚生省から転じて東京市技師となり、19年井之頭公園自然文化園園長に就任。20年1月には海軍技師となり、ボルネオ民政部員として南ボルネオ地方の原始住居や農業園芸などの調査にあたる。21年5月復員後東京都の農事試験場に勤務。22年5月より一時東京植木株式会社に研究部長として勤めたのち、同年8月国立博物館嘱託となり、修理課で文化財保護に携る。25年文化財保護法成立により文化財保護委員会が設立され、修理課は同委員会の建造物課となった。この間、20年7月戦前の庭園研究の集大成として『平安時代庭園の研究』を刊行。戦後は桂離宮の研究に取り組み、25年「桂離宮古書院について」(『建築史研究』3)、26年「桂離宮古図について」(同8)、26年『桂離宮』(創元選書)などを発表する。27年奈良国立文化財研究所が新設され、建造物研究室の初代室長に就任。奈良に移って以後、桂離宮、修学院離宮のより精密な研究を進め、29年『修学院離宮の復元的研究』(奈文研学報第2冊)、30年「修学院離宮造営に利用された建物と地形について」(『文化史論叢』奈文研学報第3冊)を発表、両離宮の研究により、29年東京工業大学より工学博士号を授与され、34年には日本建築学会賞を受賞した。その後も庭園と建築を一体化させた研究を進め、旧興福寺大乗院についてまとめた34年『中世庭園文化史』(奈文研学報第6冊)、37年『寝殿造系庭園の立地的考察』(同学報第13冊)、近世庭園についても41年『小堀遠州の作事』(同学報第18冊)などを著す。42年奈良国立文化財研究所を退官したのち、京都市に庭園文化研究所を設立。浄瑠璃寺、忍辱山円成寺、法金剛院、白水阿弥陀堂、平泉毛通寺、和歌山城紅葉溪などの庭園を発掘、復元したほか、唐招提寺、薬師寺などの庭園の設計も行なった。49年『庭ひとすじ』で毎日文化賞を受賞し、このほか46年『奈良を測る』、61年『作庭記の世界』などを刊行している。

喜多川平朗

没年月日:1988/11/28

古代絹織物“羅”の復元や宮中の儀式などに使う有職織物の第一人者で人間国宝の喜多川平朗は、老衰による呼吸不全のため、11月28日午後6時27分京都市左京区の自宅で死去した。享年90。明治31(1898)年7月15日京都市に生まれ、本名同じ。応仁の乱後、京都西陣に集まった織屋の中でも由緒ある機家俵屋に生まれ、17代目を継いだ。同家は江戸末期には有職織物も手がけており、また父喜多川平八も西陣の名匠であった。初め画家を志望し、大正10年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。卒業後兵役につき、同12年除隊後家業を継ぐことを決意、父平八のもとで修業を始める。同時に染織史や染織技術史の研究を志す。当事、有職織物製織の俵屋と装束調達の高田が有名だったが、その高田義男も大正末年頃より古代染織の研究を志し東京のほか京都にも織工場を新設したため、昭和初年より自らも自営、高田と協力して研究を始める。昭和3年昭和天皇即位大典儀式用の装飾、装束織物を製織し、翌4年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝織物、6年新築された国会議事堂衆議院、貴族院の玉座や装飾織物などを製織。宮中や神宮、神社への調達用の織物も数多く手がける。また昭和初年より10年代にかけて帝室博物館が行なった古代染織品の復元模造事業でも、調査製作監督高田義男とともに製織主任としてこれに携わる。主な復元模造作品は次のものである。 正倉院裂数10点、国宝・鎌倉鶴岡八幡宮女衣五領、国宝・熊野速玉大社神服類38点、国宝・熱田神宮一ノ御前及び四ノ御前神服類各一具・装束類7点、重文・伝護良親王鎧直垂一領、毛利家伝来鎧直垂、重文・高台寺蔵太閣所用陣羽織一領、東寺舎利会装束二領、手向山八幡宮伝来新靺鞨の袍一領、重文・高野山天野社伝来水干一領、重文・宇良神社蔵肩裾縫箔一領等。 第2次大戦激化による応召、復員ののち数年間は不遇の時期が続いたが、28年第58回伊勢神宮式年遷宮の御神宝装束織物を制作。31年には、中国古代の織物で奈良~平安期に織られ室町以降衰微した「羅」(網目状の透けたからみ織りの薄地の絹織物)の再現による人間国宝に認定、さらに35年には「有職織物」によっても人間国宝に認定され、2つの技術保持者となった。42年西陣織工業組合による西陣五百年記念式典に際して文化功労者賞を受賞。43年キワニス文化賞を受賞し、45年京都市文化功労者となる。49年には文化庁により記録映画「有職織物・喜多川平朗の業」が撮影された。また日本伝統工芸会会員でもあった。

香取正彦

没年月日:1988/11/19

平和を祈願する一連の梵鐘づくりで知られる鋳金家で、重要無形文化財保持者(人間国宝)の香取正彦は、11月19日午後1時10分、じん不全のため東京都新宿区の国立医療センターで死去した。享年89。明治32(1899)年1月15日、鋳金家香取秀真の長男として東京小石川区に生まれた香取は、大正5(1916)年より9年まで太平洋画会研究所で洋画を学ぶが、同9年東京美術学校鋳造科に入学して鋳金に専念し、14年同校を卒業。昭和3(1928)年第9回帝展に「魚文鋳銅花瓶」で初入選。同5年第11回帝展に「鋳銅花器」を出品して特選、翌6年第12回帝展では「蝉文銀錯花瓶」で再度特選を受賞し、また同年の第18回商工省工芸展に「銀錯直曲文花瓶」を出品して商工大臣賞二等賞を受賞する。同7年第13回帝展に「金銀錯六方水盤」を出品して3年連続特選となり、同年の第19回商工省工芸展でも一等賞を受賞。戦後も日展に出品し、27年第8回日展出品作「攀竜壷」で翌28年日本芸術院賞を受賞。一方、戦時下に多くの鐘が金属供出のため破壊されたことに衝撃を受け、25年より父秀真と共に平和を祈願する梵鐘づくりを始め、33年米国サンディエゴ市に贈る「友好の鐘」、38年比叡山延暦寺阿弥陀堂の梵鐘、39年池上本門寺の梵鐘、42年広島原爆記念日使用の「広島平和の鐘」など150鐘を越す鐘を制作。また、34年ビルマ国へ贈る仏像を制作してビルマへ渡ったのをはじめ、35年栄西禅師像、43年鎌倉瑞泉寺本尊金銅釈迦牟尼仏など仏像、仏具の制作にもあたり、奈良薬師寺薬師三尊、鎌倉大仏などの修理も手がけた。52年重要無形文化財保持者に認定され、63年には芸術院会員に選ばれる。中国を含む広い古典に学び、伝統にもとづいた端正な形体の中に、モダンなデザイン感覚を生かした清新な作風を示した。

藤岡通夫

没年月日:1988/11/19

日本近世建築史の調査研究および復元、保存に尽力した建築家、建築史学者の藤岡通夫は、11月19日午後7時40分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年80。明治41(1908)年7月31日、東京都文京区に生まれる。父は美術史家の藤岡作太郎。昭和7(1932)年東京工業大学建築学科を卒業して同科助手、14年同助教授となる。戦中、東南アジアを訪れて建築を調査し、18年に『アンコール・ワット』(彰国社)『アンコール遺跡』(三省堂)を刊行。24年、東京工業大学に「天守閣建築の研究」を提出して博士号を受ける。戦後は、26年東京工業大学教授となり教鞭をとる一方、文化財保護委員となり、城郭、遺構研究の蓄積をもとに和歌山城(33年)、小田原城(35年)、熊本城(35年、56年)ほかの外観復元を行なうなど建造文化財の保護に尽力する。研究分野では、京都御所の調査を中心に近世の内裏建築、近世住宅史研究に取り組み、『京都御所』(彰国社、31年、新訂版、中央公論美術出版、62年)、『角屋』(彰国社、30年)、『三溪園』(三溪園事務所、33年)、『桂離宮』(美術文化シリーズ、中央公論美術出版、40年)などを刊行する。東京工業大学を停年退官して同校名誉教授となるとともに日本工業大学建築学科で教鞭をとり、のち同学学長をつとめた。この時期には、ネパール王宮建築を主要な研究対象とした。自ら設計も行ない、昭和33年以降建造文化財の復元、保存に主にたずさわる以前は、東京都内を中心に寺院建築の設計を手がけている。東京都文京区本郷真浄寺本堂は、平屋根、椅子式の合理的寺院建築の先駆的な例として注目される。(詳細な業績・著作目録は1989年9月刊『建築史学』13号に掲載されている。)

清水幸太郎

没年月日:1988/11/15

長板中形の重要無形文化財保持者(人間国宝)の染色家清水幸太郎は、11月15日午後7時40分、心不全のため葛飾区の自宅で死去した。享年91。明治30(1897)年1月28日、長板中形の型付師であった清水吉五郎を父に、東京本所に生まれる。同43年本所堅川尋常高等小学校を卒業後、父のもとで家業の修得にあたり、昭和11(1936)年、父の死去によりその号であった松吉を襲名する。同27年東京長板本染中形協会主催の競技会に出品し、金賞および銀賞を受賞。同29年第1回日本伝統工芸展に出品し、以後第15回までほぼ毎年出品を続ける。長板中形は、型付けに長板を用い、布地の表裏両面に染色するもので、表裏の文様を合わせる修練が必要なうえ、小紋と比較して二倍手間がかかり、かつ木綿という素材の性格から普段着として普及し高価なものとはならなかったため、職人の数が減少した。その中にあって伝統技法を守り、昭和30年重要無形文化財保持者に認定された。長板中形京追掛網代小松文浴衣、長板中形京追掛朱竹文浴衣などが東京国立近代美術館に所蔵されている。

今井憲一

没年月日:1988/11/12

独立美術協会会員の洋画家今井憲一は、11月12日午前4時22分、心不全のため京都市中京区の京都民医連中央病院で死去した。享年80。明治40(1907)年11月13日、京都市に生まれる。昭和3(1928)年津田青楓洋画塾に入り、翌4年第16回二科展に「東山一隅」「百合の花」で初入選し、同8年まで同展に出品する。津田青楓塾が東京へ移るに際し、8年独立美術京都研究所を北脇昇らと共に創立する。10年第5回独立展に「山蔭の杜」で初入選。以後同展に出品を続ける。15年第10回展に「湿地帯」を出品して独立美術協会賞を受賞し23年同会会員となる。京都市展にも出品し、10、13、14年に受賞する。戦前、戦後を通じて京都にあって活躍し、38年より48年まで京都美術大学教授、49年より52年までPL学園女子短大教授をつとめ、52年京都府美術工芸功労者として顕彰される。戦前から超現実主義的作風を示し、風景と静物を組み合わせて独自の画風を示す。

竹原竹次郎

没年月日:1988/11/05

文化財建造物保存技師竹原竹次郎は、11月5日午後9時15分、肺こうそくのため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年76。大正元(1912)年10月15日富山県に生まれる。昭和6年3月私立帝国工業教育会建築科通信教育課程を修了後、宮大工松井角平に師事。伝統的な社寺建築技術と修理技術を学ぶ。昭和17年株式会社飛島組に勤務し、木造建築の設計施工に携わる。18年海軍施設部に入隊、22年5月復員後、再び宮大工の仕事に戻り、同年6月富山県高瀬神社の増改築を行なう。26年兵庫県斑鳩寺三重塔の保存修理工事に修理助手として携わって以降、同じく修理助手として28年富山県護国八幡宮本殿、29年石川県妙成寺開山堂の保存修理工事を行なう。続いて同29年鹿児島県八幡神社本殿の保存修理工事に工事主任としてあたり、30年から始まった日光二社一寺の昭和大修理では、56年3月まで20数年間にわたって工事主任として工事を指揮。まず30年輪王寺本堂の保存修理工事から始め、36年本地堂調査設計工事、38年同本地堂保存修理工事、以後42年経蔵、鼓楼、鐘楼、五重塔、附鐘舎、上社務所の調査設計工事を経て、44年二荒山神社中宮祠本殿、拝殿、46年経蔵、鼓楼、48年鐘楼、50年五重塔、52年附鐘舎、53年上社務所の保存修理工事をそれぞれ行なった。この間、42年財団法人日光社寺文化財保存会技師となり、56年工事終了まで後継者養成のための技術者講習会の講師として後進の育成にあたっている。57年1月には、財団法人文化財建造物保存技術協会嘱託となった。57年1月以降は、同年1月千葉県新勝寺三重塔、9月竜正院本堂、10月神奈川県関家住宅などの保存修理に工事監督としてあたった。53年6月文化庁創設10周年記念功労者として表彰された。

福留章太

没年月日:1988/11/04

国画会会員の洋画家福留章太は、11月4日、急性肺炎のため鳥取県立厚生病院で死去した。享年75。大正元(1912)年12月3日高知市に生まれる。本名福留五郎。昭和27年より山崎姓となる。昭和7(1932)年北神商業学校を卒業し、8年東京美術学校油画科に入学する。南薫造に師事し、13年同校を卒業。15年第15回国画会展に「真鶴風景」で初入選。18年第18回同展に「風景」「蓮」を出品して褒状受賞。22年第21回同展に「ゼリスト」「ゆあみ」「池畔」「茶山花」を出品して国画奨学賞を受賞し、24年同会会員となる。22年より鳥取県に居住し、国画会展のほか県展、市展に出品を続ける。45年欧米を巡遊。46年より61年まで鳥取女子短期大学幼児教育学科教授をつとめた。代表作に「構える」「増幅する」「アントロポス」のシリーズがある。

二重作龍夫

没年月日:1988/10/31

太陽美術協会会長の洋画家二重作龍夫は、10月31日午前5時45分、肺炎のため静岡県富士宮市の国立療養所富士病院で死去した。享年72。大正5(1916)年1月8日、茨城県水戸市に生まれる。熊岡美彦の主宰する画塾に学び、熊岡らの創立になる東光会に出品。昭和11年帝展に「静物」で初入選。14年東光会展で東光賞を、17年国画会展で褒状を受賞する。32年第13回日展に「裸婦と二匹の仔犬」を出品して特選となる。44年ル・サロン展銅賞、ニース・フランス国際展グランプリ賞金メダル、ニューヨーク国際展金賞、45年ル・サロン展銀メダル、46年同展金メダル、47年同展芸術院賞、フランス国際展国際芸術絵画大賞、とフランスを中心に欧米で受賞を続ける。「ベニスの馬」「ベニスの船」「ベニスの宮殿」などベニスに取材した作品で評価され、この他、ドン・キホーテや富士なども好んで題材とする。フランス国際展副会長をつとめ、フランス政府よりシュバリエ・レジオン・ドヌール勲章を受けた。

島あふひ

没年月日:1988/10/30

女流画家協会会員の洋画家島あふひは10月30日、老衰のために死去した。享年91。明治29(1896)年11月3日徳島県小松島市に、石丸桂の二女として生まれる。大正2(1913)年徳島県立高等女学校を卒業し、同年島亮二と結婚。一時、島成園に日本画を学ぶ。12年に上京し翌13年より川端画学校に入る。15年前田寛治の主宰する前田写実研究所に入り、中央美術展、一九三〇年協会展に出品。昭和2(1927)年第14回二科展に「N嬢の像」で初入選し以後12年まで同展に出品する。12年第1回展より一水会展に出品。また同年七彩会を設立する。18年東京・青樹社で個展を開催。戦後は、21年に一水会展に出品して同会会員となるが、翌22年より二紀会に参加。23年女流画家協会が設立されるとその第一回展から出品する。37年第9回同展に「太海」「冬小立」「黄樹」を出品してM夫人賞受賞。同年一水会を退く。38年十一会に入会し以後その同人展に出品を続ける。41、42年東京・資生堂画廊で個展を開き、49年には同画廊で回顧展を開催した。人物、風景を多く主題とし、簡略化された形態と豊麗な色調を示す。女性洋画家の草分けとして活躍した。

渡辺一郎

没年月日:1988/10/27

国画会会員の洋画家渡辺一郎は、10月27日午後7時30分、心不全のため神戸市中央区の神鋼病院で死去した。享年76。明治45(1912)年4月17日、東京に生まれる。東京美術学校に入学し藤島武二に師事。在学中の昭和11(1936)年第1回新文展に「少女座像」で初入選。同12年東京美術学校を卒業ののちフランスへ渡り約2年間滞在。15年第27回光風会展に滞欧作「モレーの寺院」「巴里の裏町」を出品してI氏賞を受賞。また、同年2600年奉祝展に「若き水産学徒の像」を招待出品する。16年第4回新文展に「種蓄場」を出品。戦後は32年より国画会展に出品し、34年同会会友、37年会員となる。戦前は対象に即した写実的作品を描いたが、のち、抽象に転じ、晩年は対象を大胆にデフォルメしたユーモラスで洒脱な具象画を描いた。 国画会展出品略歴第31回展(昭和32年)「工事(コンクリート)」、35回(36年)「建設機械A」「建設機械B」、40回(41年)「作品66-12」、45回(46年)「作品71-J.N.-A」、50回(51年)「Collage歩行者優先」、55回(56年)ちから持ち」

佐藤潤四郎

没年月日:1988/10/23

日本クラフトデザイン協会初代理事長、ガラス工芸研究会初代会長をつとめたガラス工芸家佐藤潤四郎は、10月23日午後6時1分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学附属病院で死去した。享年81。明治40(1907)年9月26日、福島県郡山市に生まれる。昭和2(1927)年福島県立安積中学校卒業。太平洋美術学校を経て東京美術学校工芸科鍛金部に入り、同9年卒業して東京市立小石川高等小学校の図面手工科教員となる。この頃金工界の新鋭であった北原千鹿に誘われ工人社の同人となる。11年各務クリスタル製作所に入社。13年第2回新文展に「硝子花瓶」で初入選し、以後、第3、4回展にも出品。戦後も日展に出品し、22年第3回日展に「クリスタル花器」を出品して特選、27年日展審査員となる。幾何学文様によるモダンなデザインで注目され、また鉄のフレームの中に透明ガラスを吹き込む独自の技法でガラス工芸界に新境地を開いた。29年、アメリカ・コーニング社主催東洋デザインコンテストに「埴輪(人物)」を出品して一等賞受賞。31年日本デザイナークラフトマン協会(現・日本クラフトデザイン協会)の創立に参加し、その初代理事長となる。47年、各務クリスタル製作所を退職し、翌48年茨城県笠間市に「ひつじ窯」を開窯して陶器の製作を始める。50年、ガラス工芸研究会の発足に際し、初代委員長となる。51年、『ガラスの旅』を出版。翌52年、同書の刊行、および永年の業績により財団法人工芸財団より国井喜太郎賞受賞、また、53年には窯業協会より功労賞を受賞する。透明ガラスを主体に、洗練された詩情ある作風を示した。著書に『ガラス-窯と火と風-』(昭和54年)、『比伊止呂造法』(59年)などがある。

市川加久一

没年月日:1988/10/01

旺玄会常任委員の洋画家市川加久一は、10月1日午前10時59分、脳内出血のため大阪府守口市の関西医大病院で死去した。享年82。明治38(1905)年10月17日、三重県鈴鹿市に生まれる。大正14(1925)年三重師範学校を卒業。昭和3(1928)年上京して太平洋画会研究所に入り、高間惣七に師事する。翌4年国際美術協会国内展に出品。6年槐樹社展に出品する。8年東光会が設立されるとその第1回展から参加するが、11年高問惣七らと共に同会を退き主線美術協会の設立に参加する。14年第1回美術文化協会展に出品。17年第5回新文展に「夏の庭」で入選。戦後は25年から旺玄会に出品し、28年第7回展に「二人」「静物」を出品してクサカベ賞受賞、29年第8回展では古橋会賞を受け、同年旺玄会委員に推挙されるとともに、関西旺玄会を設立する。32年三重県立博物館主催による個展を開催する。36年渡欧。58年『市川加久一画集』を刊行する。初期には写実にもとづく具象画を描いたが、戦後間もなくは立体派に学んだ構築的形体把握から簡略化した画面へと転じ、頭部を楕円で表わし目鼻を描かない独自の人物像を組み合わせた群像を多く描いた。

池田遥邨

没年月日:1988/09/26

旅を愛し漂泊の画人といわれた文化勲章受章者の日本画家池田遥邨は、9月26日午前零時55分、急性心不全のため京都市上京区の相馬病院で死去した。享年92。明治28(1895)年11月1日、池田文四郎、鹿代の長男として岡山県浅口郡に生まれ、本名曻一。45年大阪に出て松原三五郎の天彩画塾に入塾、洋画を学ぶ。大正3年第8回帝展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選、以後も水彩を描き続ける。一方、この間大正2年小野竹喬を識り、同7年より独学で日本画を研究。同7年第12回文展に6曲1双の屏風「草取り」を出品するが落選する。これを機に、翌8年竹喬を頼って京都に出、竹内栖鳳の画塾竹杖会に入塾する。知恩院に仮寓しながら、「遥村」と号し、同8年の第1回帝展に日本画「南郷の八月」が入選した。引続き、9年第2回帝展に「湖畔残春」が入選。翌10年京都市立絵画専門学校に入学し、この頃よりムンク、ゴヤらの影響を受ける。同年「颱風来」を制作し、12年には鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京を写生。翌13年第5回帝展に大震災を生々しく描写した「災禍の跡」、14年第6回帝展に「貧しき漁夫」など、社会派的な作品を出品するが、ともに落選した。また13年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科へ進み、15年修了。13年帝展落選後、1年間の放浪の旅に出、昭和3年には安藤広重の版画に傾倒し東海道を踏破する。同4年にも日本全国を旅行し、それぞれ同7年「東海道五十三次図会」、9年「日本六十余州名所図会」の作品にまとめあげた。この間、昭和3年第9回帝展「雪の大阪」、5年同第11回「鳥城」がともに特選を受賞。次いで7年第13回帝展「大漁」、9年第15回「浜名湖今切」など、独特の鳥瞰図法による明るい色彩の画風へと移行する。戦後、26年第7回日展「戦後の大阪」など一時抽象風の作品を描いたのち、単純化された画面構成の象徴的作風へ移行。34年第2回新日展出品作「波」により、翌年日本芸術院賞を受賞。さらに45年第2回改組日展「寥」、47年同第4回「囁」など、縹渺な作品を制作する。晩年は俳人種田山頭火の世界を好んで題材とし、59年第16回日展「うしろ姿のしぐれてゆくか山頭火」などを発表した。また、昭和11年より24年まで京都市立絵画専門学校(のち京都市立美術専門学校)で教え、11年上村松篁らと水明会、12年浜田観らと葱青社を結成。28年には自ら画塾青塔社を組織し、後進の指導にあたった。27年日展参事、33年同評議員、49年参与、52年顧問に就任。47年初の京都府美術工芸功労者、48年京都市文化功労者となり、58年京都府文化賞特別功労賞を受賞。51年日本芸術院会員、59年文化功労者となり、62年文化勲章を受章した。このほか、48年より奈良教育大学で講師として教え、55年作品、スケッチ489点を倉敷市に寄贈した。著書に53年『池田遥邨随筆』、作品集に48年『池田遥邨画集』などがある。 年譜明治28年 11月1日、鐘ケ淵紡績工務係技手をつとめる池田文四郎と鹿代の長男として岡山県に生まれる。本名、曻一。生まれて間もなく、父の転勤で大阪府北河内郡に一家は移住する。明治31年 この頃、父の転勤に伴い大阪市の天満橋筋あたりに移住する。明治33年 父の転勤に伴い、福岡県大牟田に移住する。明治35年 4月、大牟田尋常小学校に入学する。明治36年 父の転勤に伴い、一家で上海に渡り、本願寺経営の開導小学校2年生に転校する。明治37年 父が鐘ケ淵紡績から福島紡績大阪本社に転じたため日本に帰り、父の姉がいた大阪・堺市に移住、南旅篭尋常小学校3年生に転校する。明治39年 4月、堺市宿院尋常高等小学校に入学する。明治42年 父が福島紡績福山工場長として転勤したため、一家で広島県福山町に移り、福山尋常高等小学校4年生に転校する。明治43年 3月、福山尋常高等小学校を卒業する。4月、広島の中学校を受験の日、スケッチに出かけて試験を放棄する。初夏、忠田嘉一の紹介で、単身大阪に出て松屋町にあった松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強を始める。大正2年 この年、福山で、水彩画約30点による初めての個展を開催する。小野竹喬と出会う。大正3年 10月、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選。大正5年 10月、兵役中、第10回文展に水彩画「衛戌病院」を出品したが落選。大正7年 10月、日本画に興味を持って独学で制作した、六曲一双屏風「草取り」を第12回文展に出品したが落選。大正8年 4月、小野竹喬をたよって京都に出て竹内栖鳳の画塾に入り、知恩院崇泰院に仮寓する。と号す。10月、第1回帝展に日本画「南郷の八月」を出品し入選。大正9年 10月、第2回帝展に「湖畔残春」が入選。大正10年 1月、小野竹喬の仲人で真塚品子と結婚する。4月、京都市立絵画専門学校別科に入学し、あわせて京都市立外国語学校仏文科(夜間)にも通う。この頃から、ムンクやゴヤの影響を受ける。10月、第3回帝展に「枯れつつ夏は逝く」を出品したが落選。この年、第1回芸術院展に「颱風来」が入選。京都で初めての個展(京都府図書館)を開催。大正11年 3月、朝鮮・慶州、満州・ハルビンに旅行する。10月、第4回帝展に「風景」が入選。この年、京都市立外国語学校を中退する。大正12年 9月、鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京をスケッチしてまわり、約400枚を描く。この年、四国を旅行。大正13年 3月、京都市立絵画専門学校を卒業し、さらに研究科へ進む。10月、第5回帝展に大震災跡に取材した「災禍の跡」を出品したが落選。大正14年 10月、第6回帝展に「貧しき漁夫」を出品したが落選。大正15年昭和元年 3月、京都在住の岡山県出身の画家、小野竹喬、鹿子木孟郎らとを結成、発会式を挙げる。京都市立絵画専門学校研究科を修了。5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に「林丘寺」が入選。この頃から画号をからに改める。10月、第7回帝展に「南禅寺」が入選。昭和2年 10月、第8回帝展に「華厳」が入選。昭和3年 4月、東海道写生旅行を決行。10月、第9回帝展に「雪の大阪」が入選、特選となる。昭和4年 6月、パリ(6/1~7/25)及びブリュッセルで開催の日本美術展に「雪の日」を出品。10月、第10回帝展に「京の春宵」を無鑑査出品。昭和5年 3月、2回目の東海道写生旅行をする。第2回聖徳太子奉讃美術展に「錦小路」を出品。7月、翌年1月からベルリンで開催予定の日本美術展国内展に「鴨川春宵」を出品。10月、第11回帝展に「烏城」が入選し、特選となる。昭和6年 3月、帝展推薦となる。8月、10月から11月にかけてアメリカ・オハイオ州トレドで開催予定の日本画展国内展に「閑居」を出品。10月、第12回帝展に「祇園御社」を出品。この年、「東海道五十三次図絵」を完成。昭和7年 10月、第13回帝展に「大漁」を出品。昭和8年 5月、竹杖会ただ一度の塾展となった竹杖会大研究会が開催され、「鴨川」を出品。10月、第14回帝展に「巨椋沼」を出品。 昭和9年 10月、第15回帝展「浜名湖今切」を出品。この年、「日本六十余州名所」の大半が完成。竹杖会の解散に伴い、葱青社を結成。昭和10年 10月、帝国美術院の松田改組により、無鑑査に指定される。昭和11年 5月、京都市立絵画専門学校助教授となる。11月、文展招待展に「日光山」を出品。を結成、日本画壇の革新を目指す。昭和12年 10月、徳岡神泉らと六人会を組織。第1回文展に「江州日吉神社」を出展。昭和13年 3回目の東海道写生旅行をする。7月、京都でが開催される。10月、第2回文展に「日吉三橋」を出品。『東海道五十三次図絵』を芸艸堂から出版。昭和14年 4月、ニューヨーク万国博覧会に「拾翠池」を出品。7月、朝鮮においてを開催。10月、中国に渡り、杭州、揚州、蘇州などをスケッチ旅行する。昭和15年 11月、紀元二千六百年奉祝展に「肇国之宮居」を出品し、宮内省買い上げとなる。秋、目黒雅叙園襖絵揮毫のため竹杖会会員とともに東上、1カ月にわたって制作、遥邨は「東海総行脚」を描く。昭和16年 1月、伊勢神宮から熊野三山を巡拝する。12月、葱青社解散。昭和17年 1月、九州の諸神社を巡拝し、出雲大社に参詣。10月、第5回文展に審査員として「三尾四季之図」を出品、政府買い上げとなる。昭和18年 9月、神社を描いた作品を集めた『池田遥邨作品集』を刊行。10月、第6回文展に「吉野拾遺」を出品。昭和19年 11月、戦時特別文展に「伊勢神宮」を出品。昭和20年 11月、第1回京展に「金閣・銀閣」を無鑑査出品。昭和22年 10月、第3回日展に審査員として「雪の神戸港」を出品。昭和23年 10月、第4回日展に「白鷺城を想う」を出品。昭和24年 7月、京都市立美術専門学校助教授を退職する。10月、第5回日展に「鳴門」を出品。昭和25年 第6回日展に「金閣追想」を出品。昭和26年 10月、第7回日展に審査員として「戦後の大阪」を出品。昭和27年 10月、日展参事となり、第8回日展に「幻想の明神礁」を出品。昭和28年 3月、画塾を結成、主宰する。10月、日展評議員となり、第9回日展に「灯台」を出品。この年、岡山大学教育学部講師となる。昭和29年 10月、第10回日展に審査員として「瀧」を出品。昭和30年 10月、第11回日展に「銀砂灘」を出品。文部省買い上げとなる。昭和31年 10月、第12回日展に「溪」を出品。昭和32年 11月、第13回日展に審査員として「石」を出品。昭和33年 6月、岡山後楽園延養亭の能舞台鏡板に「松竹」を描く。11月、社団法人となった第1回新日展に審査員として「灯台」を出品。昭和34年 11月、第2回新日展に「波」を出品。昭和35年 3月、前年の日展出品作「波」で昭和34年度日本芸術院賞を受賞。11月、第3回新日展に審査員として「沼」を出品。昭和36年 11月、第4回新日展に「大王崎」を出品。昭和37年 11月、第5回新日展に「古刹庭上」を出品。昭和38年 11月、第6回新日展に審査員として「雪庭」を出品。この年、紺綬褒章を受章。昭和39年 11月、第7回新日展に「雪の神戸」を出品。昭和40年 11月、第8回新日展に「飛石」を出品。昭和41年 5月、岡山で小林和作と二人展(金剛荘)を開催し、日本画のほか模写を出品する。11月、第9回新日展に「叢」を出品。昭和42年 11月、第10回新日展に「明星」を出品。この年、大阪市立美術館運営委員となる。昭和43年 11月、第11回新日展に「海底」を出品。昭和44年 11月、日展が改組され、第1回展に審査員として「堤」を出品。昭和45年 11月、第2回改組日展に「寥」を出品。昭和46年 10月、京都市主催に10点が出品される。11月、第3回改組日展に「閑」を出品。昭和47年 3月、この年制定された京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。10月、『池田遥邨画集』をマリア書房から刊行する。11月、第4回改組日展に「囁」を出品。この年、岡山大学構師を退職する。昭和48年 6月、紺綬褒章を受章。11月、第5回改組日展に「谿」を出品。京都市文化功労者に選ばれる。昭和49年 7月、『池田遥邨集』(現代作家デッサンシリーズ)が中外書房から出版。11月、日展参与となり、第6回改組日展に「礎石幻想」を出品。昭和50年 11月、第7回改組日展に「群」を出品。昭和51年 10月、第8回改組日展に「影」を出品。12月、日本芸術院会員に選ばれる。昭和52年 10月、日展顧問となり、第9回改組日展に「海鳴り」を出品。11月、勲三等瑞宝章を受章する。昭和53年 7月、紺綬褒章を受章。11月、第10回改組日展に「川」を出品。昭和54年 10月、第11回改組日展に「堰」を出品。昭和55年 9月、岡山県の文化発展に尽くした功績により、第13回岡山県三木記念賞を受賞。10月、郷里倉敷市に作品、スケッチ489点を寄贈。これを記念して、岡山で開催。11月、第12回改組日展に「錦帯橋」を出品。昭和56年 10月、第13回改組日展に「稲掛け」を出品。昭和57年 3~5月、京都、岡山、大阪、東京で開催。10月、第14回改組日展に「朧夜」を出品。11月、『池田遥邨の履歴書 聞き書き・エッセイ』出版(京都書院)。昭和58年 3月、新しく制定された京都府文化賞特別功労賞を受賞。10月、第15回改組日展に「芒原」を出品。紺綬褒章を受章。11月、倉敷市立展示美術館が開館し、遥邨常設展示室で寄贈作品による池田遥邨展開催。昭和59年 4~5月、東京、大阪、京都、岡山(高島屋)において新作個展開催。『池田遥邨画集』が京都書院から出版される。11月、文化功労者の表彰を受ける。第16回改組日展に「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」を出品。昭和60年 11月、第17回改組日展に「鉄鉢の中へも霰山頭火」を出品。昭和61年 1月、(愛媛県立美術館)開催。5月、東京で(渋谷東急)開催。11月、京都、神戸、岡山でが開催 第18回改組日展に「雪へ雪ふるしづけさにをる 山頭火」を出品。12月、倉敷市名誉市民となる。不整脈を訴え入院、翌年4月まで病床に臥す。昭和62年 11月、第19回改組日展に「あすもあたたかう歩かせる星が出ている 山頭火」を出品。姫路で(姫路市立美術館)開催。文化勲章を受章。受章後体調を崩し、心臓疾患のため上京区の京都府立医科大学附属病院に再度入院、翌年5月中旬まで病床に臥す。昭和63年 4月、高島屋美術部創設80年記念が京都、東京、岡山で開催。8月、風邪のため制作を中断する。倉敷市に作品、スケッチ211点を寄贈。9月24日みたび入院するが、9月26日午前0時55分、急性心不全のため、京都市上京区の相馬病院で死去する。(『池田遥邨遺作展』1989年京都国立近代美術館図録より抜粋)

矢崎虎夫

没年月日:1988/09/24

日本陶彫会副会長の彫刻家矢崎虎夫は、9月24日午前2時45分、胸部動脈りゅう破裂のため東京都小平市の自宅で死去した。享年84。明治37(1904)年7月25日、長野県茅野市に生まれ、大正12(1923)年諏訪中学校を卒業して上京、平櫛田中に師事する。昭和4年日本美術院展に初入選。5年第17回同展に「雷鳥」を出品する。6年東京美術学校彫刻科を卒業。9年日本美術院展に「小諸の母」を出品して試作賞受賞。戦後も院展に出品し、28年第38回展に「若き髪」を出品して佳作(白寿賞)、29年には「浴光立女」で、34年には「立女習作」で奨励賞(白寿賞)を受賞する。39年渡欧しオシップ・ザッキンに師事。41年日府展に「雷電像」を出品して文部大臣賞受賞。55年第1回高村光太郎大賞展に「サリーを着た女」を出品して優秀賞、57年同展には「阿修羅」、59年同展には「やまなみ」を出品して同じく優秀賞を受ける。木彫を中心にブロンズ、石膏など多様な素材を使い、仏典や歴史に取材した題材を多く手がける。受賞作のほかに、パリ・バンセンヌ公園の「雲水群像」、川崎大師の「釈迦像」、諏訪湖の「八重垣姫像」、長野市の「大観音像」などの代表作がある。

朝吹四郎

没年月日:1988/09/18

日本建築家協会会員の建築家朝吹四郎は、9月18日午前8時26分、心不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年72。大正4(1915)年10月26日、東京都築地明石町に生まれる。慶応義塾幼稚舎を経て同普通部を昭和8年に卒業。英国に渡り13年ケンブリッジ大学を卒業し建築学士の称号を得る。24年朝吹設計事務所を開設。32年日本建築家協会会員となる。フィンランド大使館のほかビルマ、ベルギー、インド、マレーシア、カンボジア、ニュージーランド等各国の大使館を設計したほか、石橋記念館、ブリヂストン芝浦ビル、富士急ハイランド・リゾート、富士急富士宮ビル等の公共建築、ブリヂストン三河台社宅、三菱銀行賢島荘など公共住宅建築の設計を多く担当する。35年ベルギー国よりシュバリエ・ド・ロルドル・ド・ラ・クーロンヌ勲章を、41年にはカンボジア国よりオフィシエ・ソワタラ勲章を受章する。

to page top