本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:2005/12/18 読み:みたにけいぞう 元株式会社東京美術倶楽部社長の三谷敬三は、12月18日午前6時56分、心不全のため川崎市内の病院で死去した。享年89。1916(大正5)年11月20日に生まれ、1934(昭和9)年3月に東京府立工芸学校を卒業後、自動車製造株式会社(現在の日産自動車株式会社)に入社。戦後同社を退社、戦時中休業していた家業の美術商三渓洞を継ぎ、営業を再開した。47年には株式会社三渓洞に組織変更し、代表取締役に就任。一方、51年には東京美術商協同組合の専務理事になり、59年には同組合の理事長、75年には顧問に就任した。また、53年に株式会社東京美術倶楽部の鑑査役、57年に同社常務取締役、69年に代表取締役社長、87年から1995(平成7)年まで代表取締役会長を勤めた。その間、77年から82年まで東京美術倶楽部鑑定委員会委員長を務め、また69年から87年まで五都美術商連合会の代表を務め、斯界において長年にわたり取りまとめ役に精励した。その業績に対して、80年11月に藍綬褒章を受章、87年11月には勲四等旭日小綬章を叙勲した。
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没年月日:2005/12/17 読み:やぎゅうふじお 美術評論家の柳生不二雄は12月17日、死去した。享年80。1925(大正14)年8月10日、東京府豊多摩郡大久保町に生まれる。1948(昭和23)年学習院高等科文科を卒業。50年慶応義塾大学法学部を卒業。平凡社での『世界美術全集』編集を機に知り合った美術評論家の土方定一に誘われ、51年日本で最初の公立近代美術館として新設をひかえた神奈川県立近代美術館に勤務、副館長の土方らと開館に尽力し、59年まで在職。その後彫刻家の関敏の紹介で、63年から70年まで日本橋で開廊していた秋山画廊の運営に中川杏子と携わり、当時画廊で扱われることの稀だった彫刻(立体造形)、とりわけ抽象彫刻を主体とした展覧会を企画、土谷武、若林奮、堀内正和、江口週、最上寿之といった作家を取り上げた。74年から85年まで神奈川県立県民ホールでギャラリー課長として勤務。持ち前のバランス感覚を発揮し、絵画や版画、彫刻の領域で活躍する中堅から大家クラスの個展を集めて行う「現代作家シリーズ」や、県在住の版画家を母体に無審査、無償制度の「神奈川版画アンデパンダン展」、工芸の中でも美術的な傾向の強い工芸家と地元の工芸家による作品展にギャラリー側の企画を組み合わせる「日本現代工芸美術展」を三本柱に展覧会を開催。特に彫刻に関しては開館5周年記念「現代彫刻の歩み」展を企画、彫刻の県民ホール・ギャラリーという美術界の評判を印象づけた。また秦野や小田原、平塚で県市共催の野外彫刻展の運営や審査に携わった。83年から1993(平成5)年まで美術雑誌『三彩』に「彫刻のあるまちづくり」を連載、大企業や自治体、再開発地域や商店街などが彫刻・立体造形を屋内外に盛んに設置するようになる中で、全国を歩き野外彫刻の試みを伝えた。85年から87年まで横浜市市民文化室、87年から財団法人横浜美術振興財団に勤務。その傍ら86年から2005年まで『神奈川新聞』の「美術展評」を担当。97年に発足した屋外彫刻調査保存研究会にはその準備段階から参加し、04年まで初代会長を務めて研究会の方向性を作り上げた。著書に『ルネ・ラリック』(PARCO出版 1983年)がある。
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没年月日:2005/12/17 読み:むらこしのぶる 村越画廊社長の村越伸は12月17日午後6時26分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日、横浜市に生まれる。父は商船の機関長。横浜の本町尋常高小卒業後、母の知己を頼り14歳で古物商の芝・本山幽篁堂に丁稚奉公に入り、主人の本山豊実のもと古美術の基礎を身につける。また本山の知人だった吉田幸三郎の知遇を得、その義弟である速水御舟や、村上華岳、横山大観らの作品に惹かれ、日本画を中心とした新画商の道を志す。1943(昭和18)年に兵役につき、復員後の48年に銀座で画商として再出発。51年旧友の山本孝、志水楠男とともに東京画廊を拠点として営業、サム・フランシス、フンデルトワッサー等、現代美術をも扱う。56年銀座8丁目の並木通りに村越画廊を開設。59年横山操、加山又造、石本正の三作家による日本画のグループ展轟会(後に平山郁夫が参加)をスタートさせ、74年まで16回開催し、美術界に新風を吹き込んだ。71年日本画商相互会の会長(82年再選)、83年東京美術商協同組合理事長に就任。78年には評論家吉村貞司の提案により、多摩美術大学で横山操、加山又造の教えを受けた小泉智英、中野嘉之、松下宣廉、米谷清和によるグループ野火を発足させ、88年まで毎年開催した。1990(平成2)年藍綬褒章を受章。92年パリのギメ美術館に対する尽力を評価され、フランス政府からシュバリエ勲章を授与される。95年勲四等瑞宝章受章。著書に自叙伝『眼・一筋』(実業之日本社、1986年)がある。
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没年月日:2005/12/03 読み:たなかあつこ 国内外で活動した現代美術作家の田中敦子は12月3日午後3時55分、肺炎のため奈良市の病院で死去した。享年73。田中は、1932(昭和7)年2月10日に大阪市に生まれ、50年3月樟蔭高等学校卒業、美術大学受験準備のため大阪市立美術館付設美術研究所に入所。翌年、京都市立美術大学に入学するが、秋には退学し、再び上記の研究所に通うこととなり、後に夫となる金山明を知り助言をうけるようになった。金山、白髪一雄、村上三郎等によって52年に結成された0会展に54年に参加出品。55年に金山、白髪、村上とともに吉原治良の「具体」に参加、同年10月第1回具体美術展(東京、小原会館)に出品。56年10月第2回具体美術展(同上)に「電気服」及び「電気服」のための素描を出品。57年4月、第3回具体美術展(京都市美術館)に「電気服」等を出品した。およそ200個ほどの様々な色に着色された電球、管球が点滅する服と電気コードにおおわれた「電気服」によって、さまざまなパフォーマンスをくりひろげて具体美術の作家のなかでも一躍注目された。その後も、舞台においてさまざまな色の衣裳に変化する「舞台服」、さらに「電気服」からの展開としてエナメル塗料による平面作品を制作するようになった。その間、来日したフランスの美術批評家ミシェル・タピエ、サム・フランシス等との交流から、平面作品に制作の中心が移行していった。画面には、大小さまざまな円形が色鮮やかに描かれ、電気コードをおもわせる線が縦横に絡みあう絵画を描くようになった。しかし、それも「絵画」というにはいささか異なる表現であり、平面上での絵具を用いた持続的で同時に変化を求めた実験ともいえるものであった。80年代に入ると、国内外での旺盛な個展活動とともに、81年9月開催の「現代美術の動向1 1950年代-その暗黒と光芒」(東京都美術館)、83年5月開催の「1920-1970 日本のダダ/日本の前衛」(東京大学教養学部美術博物館)、86年12月開催の「JAPON DES AVANT GARDES 1910-1970」(パリ、ポンピドーセンター)など、日本の現代美術を回顧する展覧会には、必ずといってよいほど欠かせない作家として出品された。この傾向は、90年代にも引きつがれ、現代美術及びその活動の基点となった「具体美術協会」の意味の検証が繰り返されるなか、その芸術の評価がつねに論議されていきた。2001(平成13)年3月には、「田中敦子 未知の美の探求 1954-2000」(芦屋市立美術館、静岡県立美術館に巡回)が開催され、その一貫した実験精神の展開の全貌が回顧され、日本の戦後及び現代美術において特異な位置にある作家を総括的に評価する試みとなった。
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没年月日:2005/11/27 読み:わきたかず 新制作派協会創立会員の洋画家脇田和は11月27日午前8時35分、心筋梗塞のため東京都中央区の病院で死去した。享年97。1908(明治41)年6月7日、東京氏赤坂区青山高樹町17番地に生まれる。父勇は貿易商社脇田商行を経営し欧州、東南アジアからの輸出入を行っていた。1921(大正10)年青南尋常小学校を卒業して青山学院中等部に入学。同院では当時、白馬会の画家小代為重が図画教師をしており、小代から油彩、木炭デッサンの指導を受ける。23年7月、姉夫妻が三菱商事ベルリン駐在となるのに伴い、青山学院を中退して同行して渡欧。24年ドイツ帝室技芸員のマックス・ラーベスに師事し、その紹介でミューラー・シェーンフェルト画塾に通う。25年ベルリン国立美術学校に入学しエーリッヒ・ウォルスフェルト(1884-1956)の教室に入る。1926(昭和元)年夏、南ドイツを旅行し、ホドラー、デューラー、ゴッホなどの作品に感動する。27年6月夏休みに一時帰国し翌年2月まで滞在。この間、写真に興味を持つ。28年春に帰国し、4月からカール・ミヒェルの教室でリトグラフ、エッチング、アクアチントを、オスカール・バンゲマンの教室で木口木版を学ぶ。同校で銅メダルを受賞し、学校内に単独のアトリエを与えられる。30年、ベルリンの自由美術展(フラウエ・クンストシャウ)にデッサンを出品。同年9月、美術学校より金メダルを授与され同校を卒業。同月18日に父が死去したことにより、急遽帰国の途に着き、10月東京に帰着し、その後10年間、父の会社を継いで会社を経営する一方、画業を続ける。31年、母の紹介により水彩画家春日部たすくを知る。32年第28回太平洋画会展に「風景」で初入選。また第19回光風会展に「風景」「静物」で初入選し、船岡賞を受賞。第13回帝展に「白い机の静物」で初入選する。この頃、大野隆徳研究所に夜間通い、人体デッサンを行う。33年、第20回光風会展に「静物A」「静物B」「閑窓」「アコーディオン」を出品し、光風会賞を受賞して会員に推挙され、また、日本水彩画会20周年展にパステルの風景画を出品して同会会員に推挙される。同年、第14回帝展に「大漁着」で入選。34年第21回光風会展に「椰子の実と子供」「ニッカーの子供」「ユニフォームの子供」を出品。日本水彩画展にも出品を続ける。35年第22回光風会展に「三人」「母子」「ドアマンと子供」を出品し、光風特賞を受賞。同年10月松田文相による帝展改組に反対して、在野展として開設された第二部会に参加し「ピクニック」「父子」を出品。「ピクニック」は特選となり昭和洋画奨励賞を受賞する。36年第23回光風会展に「画室の一隅」を出品し、二度目の光風特賞受賞。5月、春日部たすくと共に満州を旅行。旅行中の7月、新制作派協会設立への参加を電報で打診される。7月25日、猪熊弦一郎、伊勢正義、小磯良平、内田巌、佐藤敬らと新制作派協会を創立。官展の次代を担うと期待されていた若手作家が反官展を標榜し、清新な制作を唱う団体として注目される。これに伴い、光風会を退会。同年11月に行われた第1回新制作派協会展に「ジャズバンド」「ダンス」「二人」を出品。また、「前進」「向上」を表現した協会のロゴマークをデザインする。以後、生涯にわたって同会を中心に作品を発表する。38年5月、上海軍報道部の委嘱による記録画作成のため上海へ赴く。39年第1回聖戦美術展に「呉淞鎮敵前上陸」を出品。40年紀元2600年奉祝展に「夫婦と犬」を出品。41年「大東亜建設に捧ぐ」をテーマに展示された第7回新制作派協会展に「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」を出品。43年9月、フィリピン、マニラ陸軍報道部勤務となり、44年8月に帰国。45年新制作派協会員らとともに神奈川県相模湖付近の藤野村に集団疎開。同地で芸術家村を構想し、藤田嗣治、文士石坂洋次郎らも加わって制作のかたわら、楽団を結成し演奏活動などを行うなどして49年まで滞在する。46年、民主主義美術を目標に設立された日本美術会の創立に参加。47年第一回美術団体連合展に新制作派協会も参加し脇田は「猫と子供」を出品。また、同年第11回新制作派協会展に「少女と妖精」「草笛」等を出品。50年、今泉篤男企画による檀会に参加し、資生堂ギャラリーでの檀会美術展に出品する。51年6月、開廊したばかりのタケミヤ画廊で滝口修造の企画により小品展を開催し、10月には戦後の日本人美術家の国際展参加としては初めての出品となる第1回サンパウロ・ビエンナーレに「子供のカーニバル」を出品、以後、52年のサロン・ド・メ、ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、53年の第2回国際現代美術展(ニューデリー)など、国際展にも積極的に参加する。54年、最初の画集となる『日本現代画家選Ⅲ 16 脇田和』(美術出版社)を刊行。55年第3回日本国際美術展に「あらそい」「鳥追い」を出品し、「あらそい」で最優秀賞を受賞。翌年、この作品によって第7回毎日美術賞を受賞する。56年3月よりアメリカ国務省人物交流部の招聘により3ヶ月間アメリカ各地を視察。6月より半年間、パリ郊外に滞在。この間、第28回ヴェネツィア・ビエンナーレに11点出品し、美術評論家のアラン・ジュフロアの高い評価を受け、9月には第1回グッゲンハイム国際美術賞の日本国内賞を「あらそい」で受賞。12月にはパリからニューヨークに移り、57年4月、ニューオーリンズ、ニューメキシコ、ロスアンゼルス、ハワイを巡って帰国。59年より東京藝術大学版画教室非常勤講師、64年同助教授、68年同教授となって、70年、同学を退官。72年井上靖の詩による詩画集『北国』『珠江』(求龍堂)を刊行。74年、東京セントラル美術館で「脇田和作品展1960-1974」を開催。同年、『画集脇田和1960-1974』(求龍堂)を刊行。この頃から今泉篤男、岡鹿之助の意見などにより個人美術館の構想を持つ。76年から心筋梗塞をわずらい、79年に手術。82年『脇田和作品集』(美術出版社)刊行。86年神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館で「脇田和展」を開催。87年、ハワイ経由で渡米し、パリ、バルセロナを周り、ベルリン等ドイツの諸都市を訪れる。1989(平成元)年より軽井沢のアトリエ敷地内に個人美術館設立を計画し、91年6月「脇田美術館」を開館して館長に就任するとともに、美術館から『脇田和作品集』『随筆集え・ひと・こと』を刊行。92年、パリ日動画廊、バーゼル・インタナショナル・アートフェアにて脇田和展開催。96年10月パリの吉井画廊で個展を開催し、同月パリ、ニューヨークに赴く。98年平成10年度文化功労者に選ばれ、99年東京藝術大学名誉教授となった。晩年に至っても新制作協会展には出品を続けたほか、99年脇田和回顧展(神戸市立小磯記念美術館)、2002年脇田和展(世田谷美術館)など大規模な個展を開催した。初期から子供を重要なモチーフとして再現描写にとどまらない詩的な画面を構成し、戦後は、鳥をも好んで画中に取り入れて、平和や人と自然の関わりなどといった抽象的な概念を象徴的に描いた。作品の芸術性を指標としない画壇の政治性に批判的な姿勢を保ち続け、誠実で真摯な制作態度を貫いた。 新制作協会出品歴 1回(36年)「ジャズバンド」「ダンス」「二人」、2回「瀞」「渓」「森」、3回「水辺」「立つ座る」「チャアチャン」「静物」「樹陰」、4回「窓辺」、5回「海浜」、6回「母への絵」「子供」「幼児と子供」、7回「画室の子供」「二人」「椅子に倚る」「幼児」「子供と兵隊」「寝る子」、8回「画室の子供」「花持つ子供」「子供」、9回出品するも題不明、10回「沐浴する児」「なつめ・女・猫」「子供と兎と花」「南の子供」「豆柿の静物」「猫・児・花」、11回「少女と妖精」「草笛」「ファウンの子供」「石の庭」、12回「女と猫」「子供と猫」「女と花」「子供と花」「三人」「静物」、13回「浴室」「二人」「小さいヴァイオリン」、14回「花に来る天使」「子供の手品師」「子供はトランプが好き」、15回(以後新制作協会展)、16回「桃太郎」「魚網」「捕虫網」「金太郎」、17回「慈鳥」「放鳥」、18回「貝殻と鳥」「西瓜と貝殻」、19回「水槽の鳥「鳥と住む」「鳥と横臥する女」、20回「花を持つ」、21回「緑園」、22回「庭」「花・鳥・人」「女と鳥」、23回「飛翔」「翼」「相思樹の実」、24回「解体する五つの顔と鳥」「断層の人と鳥」、25回「蚤の市のグリーダア・プッペ」「スタニーポイントの女陶芸師」、26回「不出品、27回「きんぎょ」「つた」「はげいとう」、28回「化粧台と猫」「窓(ベニス)」「赤い窓」「三つの顔と鳥」、29回「巣・石・葉」「雨(三題ノ一・二・三)、30回「空に叫ぶ」「キャンドルと天使」「土偶と鳥」「三粒の豆」、31回「デリカテッセン」「カシミールの織子」、32回「鳥寄せ」「羽音」、33回「窯場の朝」「窯場の夜」、34回不出品、35回「鳩舎」「鳥花苑」、36回「薔薇園」「輪花」、37回「雷鳥」「鶉」、38回「茨の冠と薔薇の花」、39回「雲崗石仏」、40回不出品、41回「かたつむり」、42回「幼き日の虫干し」、43回不出品、44回「かくれんぼ」(文化庁買上)、45回「ポンコツ車を誘導する鳥」、46回「車はまだ走っている」、47回「画家は毎日シャツを取り替える」「今日の選択」、48回「亜熱帯の漂流物」「ALOHA」、49回「暖帯」「緑雨」、50回「鳥の来る道」、51回「燃える楽譜」、52回「帰ってきた楽譜」「荷ほどき」、53回「E子のコレクション」「隠袋」、54回「花開く」「芽吹き」、55回「秋色」「黄色い鳥」、56回「鳥飼いの収集物」「鳥の閑日」、57回「移り香」、58回「比翼」「連理」、59回「二つの安居」「さつきまつ」、60回「一つ咲く花」「遺された壺」、61回「双鳥」「四色の季節」、62回「来い来い鳥よ」「おいでおいで」、63回「土の香」「夜わの鳥」、64回「画房夢想曲」「漂鳥」、65回「志野」「織部」、66回「窯出しを祝う」「黄瀬戸の感触」
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没年月日:2005/11/23 読み:とくがわよしのぶ 徳川美術館館長で尾張徳川家21代当主の徳川義宣は11月23日午前5時5分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去した。享年71。1933(昭和8)年12月24日、伯爵堀田正恒の六男正祥として東京都渋谷区上智町に生まれる。尾張徳川家20代当主義知の長女三千子と結婚して徳川家の養子となり、義宣と改名した。56年、学習院大学政経学部経済学科を卒業し、東京銀行に就職。57年からは財団法人徳川黎明会の評議員、60年から同会理事を歴任。61年には東京銀行を退職し、62年から徳川黎明会徳川美術館担当理事、67年から同会専務理事をつとめた。この間東京大学農学部林学科研究生として林業を学ぶかたわら、東京国立博物館研究生となって美術史を学んで学芸員資格を取得した。76年からは徳川美術館館長を兼務、93年からは没した義父にかわって徳川黎明会会長をつとめた。そのほか日本工芸会顧問、東京都重要文化財所有者連絡協議会会長、全国美術館会議副会長、漆工史学会副会長、日本博物館協会理事、愛知県博物館協会理事、日本陶磁協会理事、茶の湯文化学会理事、東洋陶磁学会常任委員などをつとめた。徳川美術館に伝えられた尾張徳川家コレクションの保存に尽力するにとどまらず、研究を美術館活動の中心に据え、旧大名家コレクションを収集して館蔵品を増強し、87年には地元政財界の協力のもと展示室と研究室を充実させる美術館の増改築を実現させるなど、徳川美術館を個性の際立つ日本有数の私立美術館に育てあげた手腕と実績は特筆される。私立美術館博物館の地位向上ひいては日本の博物館活動の振興に寄与するところが多く、91年には博物館法制定40周年文部大臣表彰と日本博物館協会顕彰を、2002年には文化庁長官表彰をうけた。美術史学や歴史学など幅広い分野に造詣が深く、とくに源氏物語絵巻と徳川家康文書の研究で第一人者として知られた。なお、93年までの履歴と著作は『徳川義宣氏略歴 著作目録』(徳川義宣氏の還暦に集う会編集発行、1994年)に詳しい。
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没年月日:2005/11/20 読み:むらかみさんとう 書家で文化勲章受章者の村上三島は11月20日、心不全のため大阪府吹田市の病院で死去した。享年93。1912(大正元)年8月25日、瀬戸内海の愛媛県大三島に生まれる。本名正一(まさかず)。15年大阪府三島郡吹田町(現、吹田市)に移る。中学時代に股関節カリエスを病んだことがきっかけとなって書の道に入り、1927(昭和2)年大阪八幡筋の書家片山萬年に師事。31年大阪市立泉尾工業学校を卒業。同年京都の平安書道会に隷書作品を初出品、翌年優秀賞を受け、以後3年連続して受賞する俊英ぶりを発揮。そのかたわら儒学の私塾洗心洞で漢詩・漢文の素読を習う。37年頃より明末清初の文人王鐸の書風に惹かれるようになり、43年大日本書道報国会近畿支部展覧会に王鐸調の作品で応募、漢字部門第一席となる。これを機に辻本史邑と出会い、45年より師事。48年書部門が新設された第4回日展に「杜甫九日詩」で入選し、翌年特選を受ける。55年書道研究集団である長興会を結成。64年柴静儀詩「秋分日憶子用済」で日展文部大臣賞、68年杜甫詩「贈高式顔」で日本芸術院賞を受賞。三島の書はいずれの字体も自然な筆脈、おだやかな筆致で、情趣豊かな作風を見せる。王羲之の書法を習いつくした練度の高い筆技で、王鐸の草書連綿体に独自の解釈を加え、また後年には良寛に憧れ、奔放で躍動感溢れる作風を築く。篆、隷、楷、行、草の各書体で創作する希少な作家でもあった。61年に日本書芸院理事長に就任。82年郷里大三島に村上三島記念館を建設。85年芸術院会員となる。中国を再三訪れて日中書道交流にも努め、1993(平成5)年上海博物館の特別顧問・特別研究員に就任。同年文化功労者となる。94年話し言葉を作品化する“読める書”を提唱し、「川端文学を書く村上三島展」を開く。また翌95年から読売書法展に平易で読みやすく、かつ美しい調和体部門を設けるなど書道の裾野を広げることにも尽力した。98年には文化勲章を受章。編書に『王鐸の書法』(二玄社 1979~82年)。没後の2007年に大阪と東京の高島屋で回顧展が開催されている。
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没年月日:2005/11/19 読み:とうのよしあき 美術評論家で、多摩美術大学名誉教授の東野芳明は、1990(平成2)年に病に倒れて永らく療養していたが、11月19日午後0時15分、東京都杉並区の病院で急性心不全のため死去した。享年75。1930(昭和5)年9月28日東京に生まれ、54年東京大学文学部を卒業、同年「パウル・クレー論」により第1回『美術評論』新人賞を受賞。57年には、『グロッタの画家』(美術出版社)を刊行。58年、60年にヴェネツィア・ビエンナーレのアシスタントとして渡欧、その折の欧米での見聞をもとに『パスポート No.328309 アヴァンギャルドスキャンダルアラカルト』(三彩社、1962年)を刊行した。60年代には、既成の表現をはなれた現代美術の動向を「反芸術」と名づけ、議論をまきおこした。抽象表現主義以後のアメリカ現代美術を中心とする紹介と旺盛な美術評論活動のかたわら、67年から多摩美術大学において教鞭をとり、同大学において新しい芸術の受容層の育成のために芸術学科創設に尽力し、それは81年に開講した。その間、78年から80年にかけて、マルセル・デュシャン本人の許可のもと、彼の代表作である「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも」(1915-23年、フィラデルフィア美術館蔵)のレプリカ制作を東京大学と共同で行うプロジェクトの中心として、「東京ヴァージョン」(東京大学教養学部美術博物館蔵)として完成させた。60年代から80年代にかけて、その評論活動は、同時代の欧米美術の紹介にとどまらず、混迷する現代美術の状況を音楽、演劇等広く文化史的な視野からとらえつつ思索をつづけ、つねに今日的な問題を提起しつづけたことは特筆に値するものであった。翻訳、画集等の編集は数多く、また評論集等の主な著作は下記のとおりである。『現代美術―ポロック以後』(美術出版社、1965年)、『ジャスパー・ジョーンズ そして/あるいは』(美術出版社、1979年)、『裏切られた眼差:レオナルドからウォーホールへ』(朝日出版社、1980年)、『曖昧な水 レオナルド・アリス・ビートルズ』(現代企画室、1982年)、『ロビンソン夫人と現代美術』(美術出版社、1986年)、『ジャスパー・ジョーンズ アメリカ美術の原基』(美術出版社、1986年)、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』(美術出版社、1990年)
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没年月日:2005/10/19 読み:やまだじょうざん 陶芸家で「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者の三代山田常山は、10月19日午後5時6分、転移性肝がんのため愛知県常滑市の病院で死去した。享年81。1924(大正13)年10月1日、愛知県常滑市に祖父・初代山田常山、父・二代常山と二代続く急須づくりを専門とする陶家の長男として生まれる。本名は稔。祖父は妥協を許さない厳しさと精緻な作風で名工と謳われ、父もその技を継承した名手として名を馳せた陶工であった。その二人に少年のころから基礎的な陶技を学び、中学に入るころには急須づくりを始める。1941(昭和16)年、愛知県立常滑工業学校窯業科を卒業。翌年、常滑にある愛知県陶器試験場に入所し、窯業に関する専門知識を学ぶ。46年からは本格的に修業するため、父・二代常山に師事する。48年、同志と常滑工芸会を設立。同年、第1回常滑陶芸展で「朱泥茶注」が常滑町長賞を受賞し、作家としてのデビューを果たす。また、この頃から父の号であった小常山を名乗る。58年、ブリュッセル万国博覧会の日本第三部陶器類でグランプリを受賞。同年、第5回日本伝統工芸展で横手タイプの朱泥の急須が初入選し、以後、同展を中心に活動を展開する。初入選は朱泥の急須であったが、その後は朱泥土に二酸化マンガンを混ぜ込んだ紫泥や烏泥、自然釉の急須を出品しつつその存在を知らしめていく。61年、名古屋の百貨店で初の個展を開催。また同年に父の死去に伴い、三代常山を襲名する。三代常山の急須は、地元で産出される粘りの強い朱泥土(田土)を用い、本体、注口、把手、蓋のすべてを、轆轤を使って成形し、それらを組み立ててつくり上げる。技法からみると、朱泥土をベースとした、朱泥、紫泥、烏泥に加え、象牙色の白泥、古常滑を祖とする自然釉や、土そのものの風合いを生かした焼き締めによる南蛮などがある。また、表面の装飾を伴う技法では、窯変を利用した緋襷や、常滑独特の海藻を用いた藻掛、炭化焼成する燻しに加え、梨の肌を思わせる梨皮や、糸を巻いたような糸目、櫛状の道具で線を引いた櫛目などがある。形のバリエーションは広く、胴部が算盤の玉のように張り出した算盤形や、鎌倉期の古常滑の壺を思わせるような肩が大きく張った鎌倉形、そのほかにも野菜や果物をはじめ、身近にあるさまざまなものから着想を得た形などがあり、煎茶具として用いる伝統的なものから、北欧のデザインに触発されたモダンなものまで、100種類以上を優に超える。また把手の付き方では、注口と一直線上に把手が付く茶銚、一般によく知られる横手や把手がなく注口だけの茶注、把手がなく注口が胴部に受け口のように付く宝瓶、注口が胴部と一体となった絞り出し茶注がある。これらには古典に敬意を表しながら、形や意匠などを試行錯誤で探った成果がしっかりと映し出され、すべてに卓越した轆轤技術があってこそ生み出される、手づくり急須のスタイルが確立されている。1993(平成5)年、日本陶磁協会賞受賞。翌年の94年には、「陶芸 ロクロによる手造り朱泥急須技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。96年、勲五等瑞宝章受章。97年には愛知県陶磁資料館で「常滑急須―山田常山三代展」が開催され、その全貌とともに、祖父や父の作品も紹介される。98年には「常滑焼(急須)」の重要無形文化財保持者に認定。2004年、旭日小授章を受章する。また三代常山は、早くから後進の指導にも積極的で、75(昭和50)年に「常滑『手造り急須』の会」が設立されると会長に就任し、30年に亘り模範的な活動を通して技術の継承に尽力し、多くの後進を育て上げるとともに、急須の発展に貢献した。
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没年月日:2005/09/22 読み:しもやまはじめ 静岡県立美術館館長の下山肇は9月22日午後4時58分、静岡市内の病院で死去した。享年59。1945(昭和20)年東京都に生まれ、70年京都大学文学部美学美術史学科を卒業。兵庫県立近代美術館学芸員となり、76年京都大学大学院修士課程美学美術史学科を修了、79年同博士課程を修了。同年京都市美術館学芸員となり、84年5月から静岡県教育委員会美術博物館設立準備室に勤務して、コレクション形成や1994(平成6)年設立のロダン館の設置などに尽力した。静岡県立美術館開館後は、86年度から88年度まで静岡県立美術館学芸課長をつとめ、89年4月より同課長と部長を兼務、96年4月同部長となった。この間、「エルミタージュ美術館名作展―ヨーロッパの風俗画」(91年)、「ロダンと日本」(2001年)などを企画。2001年4月に尾道大学芸術文化学部教授となった。05年6月1日、静岡県立美術館館長に就任。同年2月、現職のまま死去した吉岡健二郎前館長の後任として赴任したばかりであった。ノルウェーの画家エドワルド・ムンク、京都で活躍した日本の洋画家須田国太郎についての論考がある。著書に『ムンク』(日経ポケットギャラリー、1993年)、『巨匠たちの自画像』(マヌエル・ガッサー著、桑原住雄と共訳、新潮選書、1977年)がある。
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没年月日:2005/09/18 読み:はまなかしんじ 美術史家で川越市立美術館学芸員の濱中真治は9月18日、自宅で急逝した。享年43。1962(昭和37)年4月10日、熊本県玉名市で生まれる。81年熊本県立玉名高校を卒業して佐賀大学教育学部特設美術科に入学。82年同大学を中退して翌年東京藝術大学美術学部芸術学科に入学。1990(平成2)年同大学大学院美術研究科芸術学科日本東洋美術史専攻を修了し、山種美術館に学芸員として就職する。それまで感覚的な言葉で語られがちだった近代日本画の実証的研究に努め、典拠となる美術資料の収集・編纂に力を入れた。その成果は本業の傍ら助力を惜しまなかった『日本美術院百年史』の編纂、速水御舟をはじめとする作家展カタログの文献目録や年譜に反映された。また「三人の巨匠たち―御舟・古径・土牛」展(96年)や「美人画の誕生」展(97年)の図録テキストでは、「新古典主義」や「美人画」といった近代日本画を語る上で当為とされる概念の問い直しを試みている。2002年川越市立美術館準備室に転職し、同館の立ち上げに尽力。同館開館後は小茂田青樹ら川越ゆかりの作家展を手がけた。97年から99年まで恵泉女学園大学で非常勤講師を勤める。遺稿集として、濱中真治論文集刊行会編『日本画 酔夢抄』(2006年)がある。
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没年月日:2005/08/28 読み:よねだかん 日本画家の米陀寛は8月28日午前7時4分、多発性脳こうそくのため宇都宮市の病院で死去した。享年88。1917(大正6)年栃木県宇都宮市に生まれる。1936(昭和11)年下野中学(現、作新学院高等学校)を卒業し、神奈川県横須賀市の海軍航空技術廠科学部に入所。同年中村岳陵に入門するが、37年日中戦争の勃発に伴い現役入隊し、41年までの四年間にわたり中国大陸を転戦する。除隊した翌年の43年第6回新文展に「好日」が初入選。44年戦況の悪化により再応召を受け、飛行機整備兵として入隊。終戦後は宇都宮に戻り、同地で画家としての本格的な道を歩み始める。しばらく日展や院展、創造美術展春季展に出品、入選するも、50年代より日展への出品を重ね、67年第10回新日展で「牛」が特選、69年改組第1回日展で「北辺」が特選・白寿賞を受賞、82年日展会員となる。この間、67年「老人と軍鶏」で日春展奨励賞を受ける。その他文化庁現代美術選抜展、山種美術館賞展等に出品。個展は78年銀座松屋、81年銀座・北辰画廊、上野東武(創作陶芸個展)、88年二荒山神社宝物殿などで開催。戦前の一時期を除き、一貫して宇都宮を足場に活動を続け、“牛の米陀”と呼ばれるほどに実在感溢れる牛馬を多く描いた。いっぽう59年川治温泉・柏屋ホテル大浴場陶壁「牡鹿」を制作以来、全国各地の学校、病院、会館、図書館、ホテル等、益子焼による陶壁画を手がけた。その他81年日光二荒山神社男体山山頂鎮座1200年祭記念の大絵馬、83年宇都宮二荒山神社斎館襖絵を制作、また日光東照宮の絵馬の原画を十数年来描くなど、幅広い活動を展開した。81年栃木県文化功労賞受賞。84年『米陀寛画集』(下野新聞社)刊行。1999(平成11)年には宇都宮美術館で回顧展が開催されている。
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没年月日:2005/08/28 読み:せきぐちまさお 日本画家で日本美術院評議員の関口正男は8月28日午前7時10分、肺炎のため埼玉県毛呂山町の病院で死去した。享年92。1912(大正元)年9月6日、東京に生まれる。1927(昭和2)年、東京府立第三中学校(現、都立両国高等学校)を卒業。33年頃、再興日本美術院同人の荒井寛方に師事、寛方門下の研究会浩然社で研鑽を積む。43年第30回院展に「小姐」が初入選。45年師寛方が急死し、その後は堅山南風に師事。戦後初めて開かれた46年第31回院展から入選を続け、47年院友となる。仏画の第一人者荒井寛方から学んだ確かな技巧を土台とし、さらに南風の指導により明快な作風を特色とした。60年代半ばより「飛鳥幻想」(64年第49回展)、「幻想火の国」(65年第50回展)等、目を古代へと向ける。66年第51回展出品作「塔」が奨励賞を受け、同年特待となる。さらに72年第57回展出品作「浄土涌現」で奨励賞、74年には法隆寺夢殿を描いた第59回展出品作「斑鳩の浄土」で日本美術院賞を受賞する。75年第60回展出品作「四天曼陀羅」以降も奨励賞受賞を重ね、83年同人に推挙された。1990(平成2)年、第75回展出品作「熊野」で文部大臣賞、95年第80回展出品作「吉祥天」で内閣総理大臣賞を受賞。96年日本美術院評議員となる。98年勲四等瑞宝章を受章。2000年にミュージアム氏家で「荒井寛方仏画の系譜―関口正男展」が開催されている。
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没年月日:2005/08/16 読み:うちだあきと 東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長の内田昭人は8月16日午後11時6分、肺炎のため東京都西東京市の病院で死去した。享年55。1949(昭和24)年11月1日、埼玉県に生まれる。75年早稲田大学大学院理工学研究科(建設工学専攻)修士課程修了。81年東京大学大学院工学系研究科(建築学専攻)博士課程修了。工学博士、一級建築士。80年2月1日、奈良国立文化財研究所に採用。埋蔵文化センター研究指導部保存工学研究室研究官、平城京宮跡発掘調査部計測修景調査室研究官を歴任した後、埋蔵文化財センター研究指導部主任研究官に昇任、2000(平成12)年には保存工学研究室長に就任した。その間、史跡藤ノ木古墳の整備、史跡手宮洞窟や史跡フゴッペ洞窟の保存に従事するなど、構造力学の専門家として史跡の保存整備に貢献した。また、特別史跡平城宮跡朱雀門の復原など古代建物の復原にも力を注いだ。さらに、伝統的木造建築物の耐震性能に関する研究では、多くの五重塔にて常時微動測定を実施し、五重塔の構造と固有振動数の相関について解析を行った。特に五重塔の耐震性能では多くの研究成果を発表しており、99年にNHK教育テレビの「視点・論点」に出演、「五重塔の耐震性」について解説を行っている。02年4月、東京文化財研究所修復技術部応用技術研究室長に異動になった後は、五重塔の耐震性能に関する研究を継続するとともに、「文化財の防災計画に関する調査研究」の主担として文化財建造物の防災情報システムの構築などを行った。奈良国立文化財研究所および東京文化財研究所在任中は、精力的に論文執筆・講演等を行うとともに、古建築の鑑賞方法に関する随筆を執筆するなど、文化財の活用にも大きく貢献した。主な著書としては、「フレッシュを化学する」(「11建築物の保存」、大日本図書、1991年)、「発掘を科学する」(「建築や石室の健康診断」、岩波新書、1994年)、平尾良光・松本修自編「文化財を探る科学の眼-第六巻 古代住居・寺社・城郭を探る」(「五重塔の構造と揺れ」、国土社、1999年)、「奈良の寺-世界遺産を歩く」(岩波新書、2003年)などが挙げられる。
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没年月日:2005/08/11 読み:うえのやすお 日本画家で創画会会員、多摩美術大学名誉教授の上野泰郎は8月11日午後4時58分、肺炎のため東京目黒区の病院で死去した。享年79。1926(大正15)年1月6日、東京都豊島区に染色家の父斌郎、松岡映丘門下の日本画家である母の間に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校日本画科に入学、山本丘人の指導を受ける。48年同校日本画科を卒業。同年結成された創造美術の第1回展に初入選し、以後同展に出品、50年第2回春季展で春季賞、第3回展で佳作賞、51年第3回春季展で研究賞を受賞する。51年創造美術が新制作協会日本画部となって以後は新制作展に出品し、52年第16回展、54年第18回展、57年第21回展で新作家賞、59年同会会員となる。60年第4回現代日本美術展出品の「善意の人々」が神奈川県立近代美術館買上げ、65年第8回日本国際美術展出品の「漂民」が文部省買上げとなる。68年ヨーロッパ、その後も世界各地を巡遊、66年日本美術家連盟委員、69年多摩美術大学教授となる。74年新制作協会より離脱し、旧日本画部会員による創画会結成に参加。81年日本橋高島屋で個展開催。85年信濃デッサン館館主窪島誠一郎の肝煎りで、池田幹雄・大森運夫・小嶋悠司・滝沢具幸・毛利武彦・渡辺学と地の会を結成。1996(平成8)年多摩美術大学を定年退職。同年日本美術家連盟理事長に就任(~2000年)、在任中、完全学校週五日制の導入にあたり美術教育の重要性を訴えるなどの活動を行った。98年東京・千代田の聖イグナチオ教会新聖堂のステンドグラスを制作。イコンの影響を受け、敬虔なクリスチャンとして宗教的な視点から人間の“いのち”の意味を問う作品を、筆ではなく指で絵の具を塗りこめる独特の手法で描き出した。2001年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。
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没年月日:2005/07/18 読み:なかがわまさあき 写真家の中川政昭は、7月18日脳出血のため、東京都江東区の自宅で死去した。享年61。1943(昭和18)年10月6日岡山県真庭郡久世町(現・真庭市)に生まれる。戦後、兵庫県芦屋市に転居し、甲南中学、同高等学校を経て、67年甲南大学文学部卒業。少年時代より映画や写真に関心を持ち、大学在学中の65年頃、写真を本格的に撮り始めた。大学卒業後、広告制作会社勤務を経てフリーランスの写真家となり、ファッション関連の広告写真などを手がけるかたわら、カメラ雑誌に作品を発表するようになった。74年、『アサヒカメラ』に掲載されたヌード作品「かもめ」が「フォトキナ1974」(ドイツ・ケルン)の招待作品となる。「周縁の街から」(新宿および大阪ニコンサロン)など81年に開催した3つの個展により、82年、第32回日本写真協会賞新人賞を受賞。以降、都市とヌードをモティーフとする作品を中心に、晩年に至るまで、国内外で個展を開催、またグループ展にも多く参加した。80年代にはポートフォリオ形式の写真集『刺青』(日本芸術出版社、1983年)、『頌(ほめうた)-海辺にて-』(日本芸術出版社、1985年)を刊行している。70年代末に大判ポラロイドを用いた制作を始め、ピンホールカメラと大判ポラロイドの組み合わせによる肖像写真「高僧」シリーズなど、独自の手法を試みた。またピンホールカメラの発展として、空気をレンズ兼フィルターとして使用する撮影システム「Air Filter System」を開発するなど、写真をめぐる原理的な思考と実践を深めた。80年代後半からは、破壊したガラスネガからプリントした作品や、フィルムに物理的な加工を施し、ガラス瓶に封入したり、光源や光ファイバー等と組み合わせたりした立体作品を制作、「光学画像」としての写真と人間の視覚の接点をさまざまなかたちでさぐる仕事を展開した。制作と並行し、80年代初めより、光学、電子工学などをも視野に入れた画像を巡る基礎的な研究を続け、画像技術についての著述、講演を多く行う。1989(平成元)年からは桑沢デザイン研究所の非常勤講師として「画像文化論」を講じた。97年には光学、電子関連の専門家、評論家らと「画像文化研究会」を結成、主宰した。またインターネットにも早くから関心を示し、桑沢デザイン研究所でのインターネットを介した遠隔授業などにもとりくんだ。
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没年月日:2005/06/24 読み:かとうしゅんとう 陶芸家で「陶芸 灰釉(かいゆう)系技法」の愛知県指定無形文化財保持者の加藤舜陶は、6月24日午後1時24分、呼吸器疾患のため愛知県瀬戸市の病院で死去した。享年88。1916(大正5)年7月13日、愛知県瀬戸市で最も古い窯業地のひとつとして知られる赤津に、製陶業を営む父・二代春逸、母・としの長男として生まれる。本名は辰(しん)。生家は祖父・初代春逸の命名により屋号を舜陶園といい、その祖父は茶陶を得意とし、父は割烹食器を主に生産していた。1933(昭和8)年、瀬戸窯業学校4年修業の後、病気のため中退し、37年頃から作陶を始めるが召集を受ける。戦後、いち早く家業を復活させるとともに、個人作家としての制作も志し、三代春逸を名乗るべきところ、生まれ年の辰年にあやかり窯名を龍窯とし、舜陶園から名をとり舜陶と号する。50年の第6回日展に「黒い壺」が初入選し、以来、日展や日展系の団体展を発表の場とする。日展では瀬戸伝統の技法である織部、志野、伊羅保、鉄釉など、年ごとに技法の異なる作品を発表して注目を集め、60年の第3回新日展では「線彩花器」(現、花器「湖上の月」)で特選・北斗賞を受賞。受賞作は当時の瀬戸で盛んに使われた石炭窯が用いられたが、その窯の燃料を家業の製品と自身の作品とで使い分け、製品には石炭を、作品には薪を用いて作陶を行う。またこの頃より、石炭窯に薪を用いた灰釉作品の制作に本格的に乗り出し、土の素材感を生かした赤褐色の器体に緑色の釉薬が流れる一群の作品を生み出す。ところがしばらくすると、公害を理由に瀬戸では石炭窯の使用ができなくなり、ガス窯による灰釉作品の制作へと移行。これが転機となり、酸化コバルトを下地に灰釉を掛けた碧彩をつくり出し、灰釉技法の幅を広げる。その後、80年代に入ると、透明感ある釉調が特徴となる瀬戸伝統の御深井釉の研究に没頭。器面に線彫りや陰刻を施して酸化コバルトを象嵌する方法や、白化粧を施した後に掻き落としにより模様を描く方法など、次々に新しい技法を取り込んで灰釉の表現の幅を広げる。82年に日展評議員となり、同年、愛知県芸術文化功労賞を受賞。87年には勲四等瑞宝章を受章する。1990(平成2)年、第12回日本新工芸展で内閣総理大臣賞、翌年、第23回日展においても灰釉花器「悠映」で内閣総理大臣賞を受賞する。94年には「陶芸 灰釉系技法」で愛知県指定無形文化財保持者に認定される。2000年、中国陶磁器をはじめ、韓国、タイ、ベトナム、イランなど、作陶の源泉として収集したアジア地域の古陶磁コレクションのすべてを愛知県陶磁資料館に寄贈。同年、「加藤舜陶古陶磁コレクション―その作品とともに」が開催される。06年には瀬戸市美術館で「加藤舜陶回顧展」が開催され、その全貌が紹介される。長年にわたり、日展や新聞社が主催する公募展の審査員を務め、また、地元の瀬戸陶芸協会会長を歴任されるなど、後輩の指導・育成にも尽力した。
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没年月日:2005/06/05 読み:みずたにいさお 美術家の水谷勇夫は6月5日午後6時29分、腹部大動脈瘤破裂のため愛知県半田市の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日名古屋市の果物商の家に生まれる。独学で絵を学び、1942(昭和17)年電信第10連隊に入隊して中国へ赴き、そこでの不条理な戦争体験を契機に人間をテーマとした制作を決意。46年の復員後は闇屋をしながら絵を描き、50~51年新制作協会の名古屋グループ、52~54年美術文化協会に所属。55年には匹亜会を結成するも翌年には退会。58年の村松画廊での初個展以降、数々の個展発表にくわえて読売アンデパンダン展や毎日新聞社主催の現代日本美術展に出品、「超現実主義の展開」展(東京国立近代美術館 60年)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館 64年)、「国際超現実主義展」(オランダ・ユトレヒト市、64年)といった企画展への出品も多く、また針生一郎企画による第1回「これが日本画だ!」展(日本画廊 66年)、翌年の第2回展への出品は、戦後日本画の改革者としてのイメージを定着させた。その一方で60年に土方巽の舞台美術を手がけ、土方や大野一雄といった舞踊家と親交を結ぶなど幅広い活動を展開。65年には長良川河畔で開催された「岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル」で土俗的なテラコッタ作品を発表、70年代には公害を含めた人間社会の危機を意識し、テラコッタ作品を四日市コンビナートや海岸、山村等に置く行動芸術「玄海遍路」を始める。80年代には真冬に雪の山中に入り、紙に胡粉と墨を流して自然の冷気で凍結させる“凍結絵画”を制作。1993(平成5)年名古屋市芸術賞特賞を受賞し、これを記念して翌年『水谷勇夫作品集』を刊行。98年には池田20世紀美術館で「水谷勇夫 50年の造形の軌跡 終りから始りから」が開催。2000年には体の不調もあり愛知県阿久比町のケアハウスに居を移すも、同施設を制作の拠点として最期まで精力的に活動を続けた。
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没年月日:2005/06/02 読み:もといしゅんたろう 彫刻家で碌山美術館顧問の基俊太郎は6月2日に死去した。享年81。1924(大正13)年鹿児島県名瀬市(現、奄美市)に生まれる。1943(昭和18)年東京美術学校彫刻科彫塑部予科に入学、教授の石井鶴三、助教授の笹村草家人の感化を受ける。49年再興第34回院展に「首習作」が初入選。翌年東京美術学校彫刻科を卒業。同年石井鶴三教室にイサム・ノグチを迎えた折、基の「杉山晸勇像」を見て「私もこういうのが作りたいけれど私には出来ません。これはジャコメッティですね」と推奨される。同年この「杉山晸勇像」が院展に入選し、日本美術院院友に推挙される。57年石井鶴三を中心とする法隆寺金堂雲斗雲肘木の復元事業に携わる。53年東京芸術大学彫刻科石井教室の助手となる。55年第40回院展に「夏の人」を出品、日本美術院同人に推挙される。58年碌山美術館開館のために笹村草家人とともに助力。桂離宮の庭園を精緻に調べ、独自の住空間理論を得た基は60年芸大講師を辞し渡米、61年ハーバード大学大学院造園科で特別講義「空間の概念と形式について」を行う。渡米中に日本美術院彫塑部の解散を知る。帰国後、造形の本質を見つめ、美術運動や団体に拘ることなく独自の空間論からなる彫刻、建築、テラコッタ、鉄による造形等、幅広い制作活動を展開していく。また造形論や故郷奄美大島の環境と自然について明晰な評論を残した。84年には碌山美術館の顧問となり、晩年には同館の収蔵庫や絵画展示棟等の建設に尽力した。
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没年月日:2005/05/23 読み:いしだてつや 私的なイメージを通して現代社会におかれた孤絶した人間存在を表現して注目されていた美術家の石田徹也は、5月23日に急逝した。享年31。1973(昭和48)年6月16日に静岡県焼津市に生まれる。1992(平成4)年3月静岡県立焼津中央高校を卒業、同年4月武蔵野美術大学伝達デザイン科に入学。在学中の95年10月に第6回グラフィックアート「ひとつぼ展」グランプリ受賞、翌年3月には第63回毎日広告デザイン賞で優秀賞を受賞。同年、同大学を卒業。97年3月の第64回毎日広告デザイン賞で奨励賞受賞。同年9月、JACA日本ビジュアル・アート展でグランプリ受賞。98年10月、キリン・コンテポラリーアワードで奨励賞受賞、同月の第7回リキテックス・ビエンナーレでも奨励賞受賞。99年9月、銀座ギャラリーQ&QS(東京・銀座)で個展開催。2001年2月のVOCA展2001では奨励賞を受賞するなど、早くから注目されていた。同賞受賞作「前線」は、自身の分身ともみえる無表情な青年と白髪の幼児がベンチにたたずむ情景を描いており、荒涼とした心象風景にとどまらず、現代社会のなかで疲弊し、排除された人間の在りようを表現した作品であった。没後の06年6月、『石田徹也遺作集』(求龍堂)が刊行され、また同年9月にはNHK新日曜美術館「悲しみのキャンバス・石田徹也の世界」が放映されたことによりひろく知られるようになった。07年3月には焼津市教育委員会から特別表彰され、同年7月には静岡県立美術館県民ギャラリーにて「石田徹也―悲しみのキャンバス」展が開催された。その作品の画面には、つねに自画像のように自己イメージが投影され、独特の幻想性と設定のユニークさによって現代の社会に生きる青年が抱く痛みと悲しみを伝えるとともに、管理社会のなかで生きる人間の閉塞感を告発する、鋭くも繊細な表現者であり、その急逝が惜しまれる。
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