吉田光甫
没年月日:1986/12/29日本工芸会正会員の染色作家(手描友禅)吉田光甫は、12月29日心筋こうそくのため滋賀県志賀町の自宅で死去した。享年70。本名弘。大正5年7月23日京都市に生まれる。昭和5年関谷雨溪の門に入り友禅を学び、同11年独立した。戦後の同39年、日本伝統工芸展に初入選し、以後同展に出品、同43年日本工芸会正会員となった。同46年には、第8回日本工芸会染織展で優秀賞を受賞する。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
日本工芸会正会員の染色作家(手描友禅)吉田光甫は、12月29日心筋こうそくのため滋賀県志賀町の自宅で死去した。享年70。本名弘。大正5年7月23日京都市に生まれる。昭和5年関谷雨溪の門に入り友禅を学び、同11年独立した。戦後の同39年、日本伝統工芸展に初入選し、以後同展に出品、同43年日本工芸会正会員となった。同46年には、第8回日本工芸会染織展で優秀賞を受賞する。
佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。
抽象画家オノサト・トシノブは11月30日、急性肺炎のため桐生市の自宅で死去した。享年74。本名小野里利信。明治45(1912)年6月8日長野県飯田市に生まれ、大正11年から群馬県桐生市に住む。昭和6年津田青楓洋画塾に入り、同10年第22回二科展に初入選する。同年、津田洋画塾出身の野原隆平、浅野恒、山本直武と4名で黒色洋画展を結成したが、翌年展覧会開催後退会し、同12年自由美術家協会の創立に参加した。同15年の制作「黒色の丸」は、当時試みられることの少なかった構成主義的内容をもつ作品として注目された。翌16年応召し、戦後は同23年迄シベリアに抑留された。帰国後、錯視的な空間をつくる独特な抽象画を展開、同28年タケミヤ画廊で初の個展を開催した。同29年の国立近代美術館主催「抽象と幻想」展、同31年の「世界・今日の美術」展などに出品。また、同31年には自由美術家協会を退会し、以後個展を中心に制作発表を行った。同38年、第7回日本国際美術展に「相似」で最優秀賞を受賞する。同39年にはグッゲンハイム賞国際美術展、第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ展、翌40年にはニューヨーク近代美術館の「新しい日本の絵画・彫刻展」、チューリッヒ市立美術館の「現代の日本美術展」への出品をはじめ、海外展へ数多く出品し国際的評価を得た。同53年、文集『実在への飛翔』(叢文社)を刊行する。
文化功労者、日本芸術院会員、日展顧問の洋画家高光一也は、11月12日午後4時41分、くも膜下出血のため石川県河北郡の金沢医大病院で死去した。享年79。明治40(1907)年1月4日、石川県金沢市に生まれ、大正14年石川県立工業学校図案絵画科を卒業。小学校教師を経て、昭和4(1929)年第16回二科展に「卓上静物」で初入選。同年より中村研一に師事する。7年第13回帝展に「兎の静物」で初入選し画業に専念する。12年第1回新文展に「藁積む頃」を出品して特選となり、14年第1回聖戦美術展に「叢中忘己」を出品して陸軍大臣賞受賞。21年光風会会員となり、同年金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)の創立に参加する。22年第3回日展に「南を思う」を出品して特選となる。27年第38回光風会展に「裸婦」を出品して光風相互賞受賞、28年金沢市文化賞受賞。29年渡欧し翌年帰国する。38年第6回新日展に「収穫」を出品して文部大臣賞受賞。39年再び渡欧する。46年、前年の第2回改組日展出品作「緑の服」などにより日本芸術院賞受賞。48年スペイン、50年ポルトガル、53年サウジアラビア、55年にはフランス、イタリア、ギリシア等を旅行して取材し、得意としていた人物像に異国趣味を導入する。59年石川県立美術館、東京大丸デパートで回顧展を開催。61年文化功労者に選ばれた。また、昭和22年金沢美術工芸専門学校講師となり、以後26年金沢美術工芸短期大学教授、30年金沢美術工芸大学教授となり44年同校を退官して名誉教授となるまで長く美術教育にも尽くした。日展に出品を続け46年日展理事に就任。文筆もよくし、仏教書『生活の微笑』(37年)、『近作画集と歎異鈔ノート』(49年)などを著し、『高光一也自選画集』『高光一也画集』を刊行している。
「わだつみ会」の再建などでも知られた社会・文化評論家の安田武は、10月15日午後10時25分こう頭がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年63。大正11(1922)年11月14日東京府北豊島郡に生まれる。昭和16(1941)年京華中学校を卒業して17年上智大学英文科に入学するが、18年学徒出陣し20年ソ連軍と闘って捕虜となり、22年1月帰国。上智大学へ復学する。23年上智大学を退学して法政大学国文科へ転入学するが同年中退。24年『きけわだつみのこえ』に衝撃を受け、出版関係の仕事に従事しつつ執筆活動を続け、34年「わだつみ会」の再建に加わったほか、38年『戦争体験』、42年『学徒出陣』を出版する。また、第二次世界大戦を風化させまいとする姿勢から独自の文化論を持ち、市井の生活を基盤として息づく日本の伝統に目を向け、芸人や職人の型に関する評論活動を行なった。著書に『日本の美学』(45年)、『芸と美の伝承』(47年)、『型の文化再興』(49年)、『を読む』(54年)などがある。
パリ在住の洋画家荻須高徳は、10月14日午前2時(日本時間同10時)パリ市18区の自宅近くのアトリアで制作中死去した。享年84。戦前・戦後を通じ半世紀以上フランスに滞在し、パリの古い街並などを描き続け、フランスで最もよく知られた日本人画家の一人であった荻須は、明治34(1901)年11月30日愛知県中島郡に生まれた。愛知県第三中学校を卒業し、大正9年画家を志して上京、川端画学校で藤島武二の指導を受け、翌10年東京美術学校西洋画科に入学した。同期に小磯良平、牛島憲之、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らがいた。卒業の年の同15年、フランスから帰国中の佐伯祐三を山口長男と訪ね、佐伯に鼓舞されてフランス留学を決意し、同年山口とともに渡仏した。パリでは佐伯の側らで制作を進め、当初は画風の上で佐伯の強い影響を受けて出発した。しかし、昭和2年佐伯没後は、ユトリロの作品に強くひかれる。翌3年からはサロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンに出品を続け、同11年サロン・ドートンヌ会員となる。この間、同6年にパリのカティア・グラノワ画廊で個展を開催したのをはじめ、以後ジュネーヴ、ミラノなどでも個展を開いた。また、同11年作の「プラス・サンタンドレ」がフランス政府買上げとなり、翌12年のサロン・ドートンヌ出品作「街角」がパリ市買上げとなった。同14年第2次世界大戦勃発にともない翌年帰国し、新制作派協会会員に迎えられ、同年の第5回同協会展に滞欧作が特別陳列された。同17年には陸軍省嘱託として仏領インドシナなどに派遣される。同23年、日本人画家としては戦後はじめてフランスへ渡り、以後パリを中心に制作活動を展開、同26年、サロン・ド・メに招待出品したのをはじめ、サロン・ド・テュイルリやヨーロッパ各地での個展で制作発表を行う。パリの街角を独自の明快で骨太な筆触で描き続けた作品は、広くパリ市民にも愛された。同31年、フランス政府からシュヴァリエ・ド・レジオン・ドヌール勲章を受章、同49年にはパリ市からメダイユ・ド・ヴェルメイユを受けた。同54年、パリ市主催でパリ在住50年記念回顧展が開催される。また、松方コレクションの日本返還やゴッホ展日本開催に協力するなど、日仏文化交流にも尽した。一方、日本では同29年第5回毎日美術賞特別賞を受賞、同30年に神奈川県立近代美術館、翌年ブリヂストン美術館でそれぞれ回顧展が開催され、同37年には国際形象派結成に同人として参加した。また、同40年、17年ぶりに一時帰国した。同55年、東京新聞紙上に連載したパリ生活の回想をもとに『私のパリ、パリの私』を刊行、中日文化賞を受けた。翌56年、文化功労者に選任される。同58年、郷里の稲沢市に稲沢市荻須記念美術館が開館した。戦後の作品に「サン・マルタンの裏町、パリ」(同25年)、「路に面した家・パリ」(同30年)などがある。葬儀は10月17日モンマルトル墓地で執行され、画家のジャン・カルズー、アイスビリー、カシニョル、ワイスバッシュ、シャプランミディをはじめ、本野盛幸駐仏大使ら在パリ日本人会など三百人余が参列した。また、没後日本政府から文化勲章が追贈された。
一水会常任委員の洋画家池辺一郎は、10月13日午後4時15分、老衰のため東京都千代田区の日比谷病院で死去した。享年81。明治38(1905)年6月11日、東京に生まれる。麻布中学校を卒業し、昭和7年に渡仏。アカデミー・グラン・ショーミエールなどで学び13年に帰国する。21年一水会に参加して会員となり一水会賞を受ける。27年第14回一水会展に「けやき並木」「けさん夫妻と牛」「東京風景」を出品して会員優賞を受賞し同会委員に推される。同年第8回日展に「三人」を出品して岡田賞受賞。以後も日展、一水会展に出品を続ける。フォービスムの影響を受けた明るい色彩を用い、人物画にはドラン風の、風景画にはゴーギャン風の作風がうかがえる。文筆もよくし、著書に『近代絵画のはなし』(40年、南窓社)、『ルドン』(50年、読売新聞社)などがある。
日本美術院評議員の日本画家樋笠数慶は、9月23日正午、急性心不全のため東京都町田市の自宅で死去した。享年70。大正5(1916)年3月18日、香川県高松市に生まれ、本名数慶。高松第一中学校を卒業後、郷倉千靭に師事する。昭和16年第28回院展に「雨季」が初入選。戦後、日本美術院内部の研究会和泉会で、前衛芸術や抽象芸術なども研究した。31年第41回院展で「夕暉」が奨励賞を受賞し、32年第42回院展「鵜」は日本美術院賞を受賞。続いて、33年同第43回「白映」が日本美術院次賞、35年第45回「華翳」が奨励賞、36年第46回「春雪」は再び日本美術院賞を受賞し、36年日本美術院同人に推挙された。自然の移ろいを静視した風景・花鳥画を描き、37年第47回院展「懼」、38年第48回「神話」などを出品。47年第57回「暉晨」が内閣総理大臣賞、58年第68回「春潮」は文部大臣賞を受賞した。また日本美術院評議員をつとめていた。
創画会会員で京都市立芸術大学教授の日本画家上原卓は、7月27日午前5時2分呼吸不全のため京都市北区の京都警察病院で死去した。享年60。大正15年5月6日京都府に生まれる。本名同じ。京都市立美術工芸学校を経て、昭和23年京都市立美術専門学校日本画科を卒業する。24年創造美術展に「幻想」が初入選し、26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後同会に出品。29年第18回新制作展に「麦(A)」「麦(B)」「午後」を出品し、新作家賞を受賞する。続いて、33年同第22回展「風船」「家族」「樹精」、34年第23回「水辺」「木」「丘」、35年第24回「池」「花と栗」「蓮池」により、3年連続して同じく新作家賞を受賞。36年同会会員となるとともに、同年の第25回新制作展出品作「竹林」は文部省買上げとなった。また現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、41年第7回現代日本美術展「草曼荼羅」は優秀賞を受ける。49年新制作協会日本画部が独立して創画会を結成して以後は、同会に出品した。この間、38年京都市立美術大学講師、45年京都市立芸術大学助教授、50年同教授となり、後進の指導にあたった。51年にはイタリアで中世フレスコ画を模写している。身辺な自然を題材に写実的描写の作風を展開した。
ピエロの画家として知られた二科会理事の洋画家塙賢三は、7月25日午後3時29分持病の気管支ぜんそくのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年70。大正5(1916)年3月31日茨城県新治郡に生まれる。生家は菓子の製造卸し商を営み、父は菓子職人であった。昭和4(1929)年土浦尋常高等小学校を卒業し家業を手伝う。同7年上京して電器店の店員となり東京電機大学の夜学に通って電機工学を学ぶ。同12年帰郷して郷里に塙電業社を興す。同18年藤島武二に師事した洋画家福田義之助を知り、アトリエに出入りして油絵を学ぶ。翌19年第1回日本アンデパンダン展に「日の出る街」「森」で初入選。20年には「初秋の丘」で白日展に初入選。翌21年第31回二科展に「風景」で初入選し以後二科展に出品を続ける。24年第34回二科展に「希望」を出品して岡田賞を受け、家業を廃して画業に専念する。25年同展に「埋葬」ほかを出品して二科会創立35周年記念賞受賞。28年二科会友となる。29年より銀座の数奇屋橋公園の路上で作品を展観するロード展を伊賀勇高らと行ない、33年には北海道から九州への日本縦断路傍展を敢行。同年夏渡米し34年にはニューヨークで個展を開催。ヨーロッパ、エジプト、中近東を経て同年帰国する。昭和30年代後半よりサーカスやピエロを画題とするようになり、37年二科会員となる。49年第53回二科展に「語らい」「球に乗った道化」を出品して会員努力賞受賞。45年春、渡仏しスペイン、モロッコなどを巡遊して制作する。童心を失なうことをおそれ、童画的な夢のある作風の中で喜びや悲しみを表わそうとし、幅広い支持を得る。54年二科会評議員となり、61年5月末同会理事に推挙される。没後の63年東京銀座松屋で塙賢三遺作展が開かれ、画集『道化に生きる』が刊行された。
淡雅、静謐な画風で広い支持を得た洋画家福井良之助は、7月9日午前8時32分、クモ膜下出血のため神奈川県相模原市の北里大学病院で死去した。享年62。大正12(1923)年12月15日、東京日本橋に生まれる。昭和11(1936)年聖学院中学校に入学し、光風会会員であった島野重之に師事。19年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。21年第41回太平洋画会展に「みちのくの冬」で初入選、一等賞を受賞し、29年第18回自由美術家協会展に「窓」を出品して佳作賞を受ける。のち団体から離れ無所属となる。34年日本橋画廊で孔版版画による第1回個展を開きアメリカの画商らに認められ、37年ニューヨークのウエイ画廊で個展を開いたのをはじめとして海外でも作品を発表。36年より日本国際美術展、37年より現代日本美術展、東京国際版画ビエンナーレ展、38、40年リュブリアナ国際版画展に出品するなど版画家として知られるようになる。また、40年より国際形象展、47年より潮音会展に油絵を出品。渋く淡い色彩で花、風景、少女を描いて枯淡な詩情ある作風を示し、その素描力には定評があった。50年代には舞妓のシリーズを制作し虚実あいなかばする幻想的な美しさで新境地を開いた。『福井良之助作品集』(43年美術出版社、48年求龍堂、56年講談社)、素描集『鎌倉の道』(58年日本経済新聞社)が刊行されている。
東京国立博物館評議員、武蔵野美術大学名誉教授、元奈良国立文化財研究所所長の田沢坦は、7月1日午前11時43分、脳内出血のため川崎市宮前区の聖マリアンナ病院で死去した。享年84。明治35(1902)年1月21日、神奈川県横須賀市に生れる。大正14年に東京帝国大学文学部美術史学科を卒業し、同学大学院に3ケ年在学の後、昭和3年6月に東大史料編纂所嘱託となる。同7年7月、文部省国宝保存に関する調査計画等の嘱託、同17年8月、美術研究所(現、東京国立文化財研究所)所員に任ぜられ、同22年5月、東京国立博物館資料課長、同26年2月、同館工芸課長となる。同28年2月、前年4月に設立された奈良国立文化財研究所々長に任命され、同34年6月からは東京国立文化財研究所美術部長を37年4月まで務めた。その後、37年4月より49年3月まで、武蔵野美術大学教授、49年3月には武蔵野美術大学名誉教授となった。またこの間には、共立女子専門学校(昭和3年4月~昭和17年3月)、東京女子大学(昭和7年9月~昭和17年9月)、東京大学文学部(昭和17年4月~昭和29年3月)に講師として出講し、美術史教育にも力をつくした。さらに、昭和41年5月より57年6月まで、財団法人元興寺文化財研究所所長・常務理事をつとめ、文化財保護審議会専門委員(第一分科会絵画彫刻部会・第二分科会建造物部会)、東京国立博物館評議員、畠山記念館評議員、佐野美術館理事なども務め、活躍の場は広きにわたった。その研究も日本美術の各時代、分野にわたるもので、昭和8年9月に大岡實と著した『図説日本美術史』(岩波書店)がよくその性格を示している。本書は多くの人に愛され、同31年11月に改訂版が出された。その他業績には以下のようなものがある。「飛鳥以前」(座右宝2)、「飛鳥奈良時代の絵画と工芸」(月刊文化財21)、「飛鳥時代の工芸上・下」(国博ニュース4、5)、「工芸の形姿」(MUSEUM22)、「平安時代工芸美術の特色」(『日本の文化財』1巻 第一法規)、「桃山時代の工芸上・下」(国博ニュース51、52)、「江戸時代の工芸」(月刊文化財132)「日本彫刻小史」(アルス・グラフ6)、「平安初期に於ける木造彫刻の興隆に関して上・下」(美術研究128、129)、「浄土教の普及と阿弥陀堂」(月刊文化財56)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(日本諸学振興委員会研究報告13)、「鎌倉時代の彫刻に就て」(大和文化研究2)、「東大寺中性院本造菩薩(弥勒)像」(美術研究212)、「鎌倉大仏に関する史料集成稿」(美術研究217)、『南無阿弥陀仏作善集』(奈良国立文化財研究所史料第1冊)、「南無阿弥陀仏作善集註解稿1」(武蔵野美術大学研究紀要1)、「薬師寺の絵画」(『薬師寺』実業之日本社)、「大陸文化の影響」(『世界美術全集』6巻 角川書店)など。
二紀会理事長、日本芸術院会員の洋画家田村孝之介は6月30日午後9時45分、胃かいようのため東京都渋谷区の中央鉄道病院で死去した。享年82。明治36(1903)年9月8日、大阪市に生まれる。本名大西孝之助。大正9年上京して太平洋画会研究所に学ぶが、翌年大阪に帰り小出楢重に師事。同13年小出らが信濃橋洋画研究所を創立すると同所で修学し、ひき続き小出、鍋井克之の指導を受ける。同年第1回大阪市美術協会展に「静物」を初出品、同15年第7回中央美術展に出品し中央画界に登場する。昭和2年第14回二科展に「裸婦立像」「風景」で初入選。同11年同展に「薄衣」「噴水」「海風」を出品して奨励を受賞。翌12年二科会員に推される。戦後は二科会再建に参加せず宮本三郎らとともに9人の創立会員をもって二紀会を結成し、以後同会に出品を続ける。27年渡欧しフランス、オランダ、ベルギー、イタリア、スペインなどを巡って翌年帰国、同37年渡米し、7ケ月滞在の後ヨーロッパをまわって38年10月帰国する。以後たびたび渡欧し、ヨーロッパ風景を多く描く。49年宮本三郎の死去に伴い二紀会理事長に就任。59年日本芸術院会員となり、60年文化功労者として顕彰された。フォーヴ的な明るい色彩と装飾性を特色とする。著書に『スケッチの技法』(昭和33年、美術出版社)、『大阪 わがふるさとの……』(藤沢恒夫と共著、同34年、中外書房)があり、52年には『田村孝之介画集』(日動出版)が刊行された。
日本建築学会名誉会員、元日本建築家協会会長で日本の近代建築の第一者であった前川國男は、6月26日午前9時50分、心不全のため東京港区の虎の門病院で死去した。享年81。明治38(1905)年5月14日、新潟市に生まれ、昭和3(1928)年東京帝国大学工学部建築学科を卒業。同年4月フランスに渡りパリのル・コルビュジェ建築事務所に入り近代建築を学ぶ。同5年帰国し、東京レーモンド建築事務所に入る。同10年前川國男建築設計事務所を設立して独立。公共建築の分野で近代建築運動を展開し、戦後は31年のブリュッセル万国博日本館、36年の東京文化会館の設計のほか、国際文化会館、京都会館、慶応大学病院、東京海上ビル、熊本県立美術館、福岡市美術館、東京都美術館、山梨県立美術館、国立西洋美術館新館、宮城県美術館などを設計し、28年を皮切りに30、31、36、37、41年の6回にわたり日本建築学会賞を受賞。この間の34年より37年まで日本建築家協会会長をつとめた。37年朝日文化賞、38年国際建築家協会オーギュスト・ペレー賞と受賞を続け、43年「近代建築の発展への貢献」により日本建築学会大賞を受ける。埼玉県立博物館の建築では閑静な樹林の中に劇的な空間を創出したとして高く評価され、46年度第13回毎日芸術賞、48年度日本芸術院賞を受賞、49年、東京海上火災本社ビルの設計に際し皇居前の美観論争をくりひろげて話題となった。自然や人間と調和する建築をめざし、建築材料にも工夫をこらし、タイルで外装した多くの公共建築を手がけた。61年の国立国会図書館増築が最後の仕事となった。
寺社建築の修理の名工として知られた竹原吉助は、6月23日午前11時40分、消化管出血のため大阪府富田林市の富田林病院で死去した。享年93。明治27年長野県に生まれる。宮大工の工匠に師事し、大工道具の曲尺を使い微妙な曲線を再現しながら寺院や神社の設計図を自在に引く古式規矩術を学ぶ。明治40年、14歳の時より数多くの文化財の修理に携わり、長野県善光寺本堂の修理をはじめとして、法隆寺東大門、同寺五重塔、住吉大社本殿(いずれも国宝)など、百棟以上の建造物の解体修理を手がけた。昭和51年文化庁が初めて行なった選定保存技術の選定に際しては、有形文化財等関係の規矩術(古式規矩)の保持者として全国第1号の選定保存技術保持者に選ばれた。また、大阪府文化財保護審議会委員もつとめていた。
郷里大分県にあって独自の歩みを続けていた国画会会員の洋画家宇治山哲平は、6月18日午後零時40分、悪性リンパ腫のため大分県別府市の国立別府病院で死去した。享年75。明治43(1910)年9月3日、大分県日田市に生まれる。本名哲夫。昭和3(1928)年県立日田中学校を卒業し、家で画作に熱中。同5年日田工芸学校描金科に入学し蒔絵の技術を習得して同6年に卒業。同年大分県日田漆器株式会社に入り漆工・木工のデザインを担当する。同7年第2回日本版画協会展に「水郷の夏」で初入選。10年第10回国画会展に版画「秋酣」で初入選。13年「山肌A、B、C」ほかを出品して新興美術家協会賞を受け同会会員となる。14年より国画会展に油絵を出品するようになり、同17年第17回国画会展に「山峡紅葉」「山」を出品して褒状受賞。18年国画会会友、19年同会員となる。22年に12年より勤務していた西日本新聞社を退社し大分県立日田工芸試験所に入所する。25年、国画会の杉本健吉、香月泰男らと型生派美術協会を結成する。この頃、福島繁太郎に認められ、26年より34年までフォルム画廊で毎年個展を開く。飛鳥、天平の美術にひかれ、古典美術の研究を進め、中国、アッシリア、エジプトなど世界の古美術へと視野を広め、39年オリエントからエジプトへと遊学。このころから円や三角形などの幾何学的形体による画面構成を始め、「絶対抽象の世界」を目ざすようになる。46年第12回毎日芸術賞受賞。48年第32回西日本文化賞を受賞。油絵具に方解石を混ぜた独自のマチエールで白地に明快な図形をちりばめ、静かで明るい、リズミカルな抽象画を描く。36年大分県立芸術短大教授となってより長く美術教育に従事し、46年同大学長に就任、48年同大を退いたのち別府大学教授となった。61年東京赤坂のサントリーホールの壁画「響」を制作、同年の国画会展に出品した「大和心」が最後の作品となった。著書に『美について想う』(45年、壱番館画廊刊)などがある。
国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化勲章受章者、東京芸術大学名誉教授の漆芸家松田権六は、6月15日心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年90。“うるしの鬼”とも称された漆芸の第一人者松田権六は、明治29(1896)年4月20日石川県金沢市に生まれ、既に7歳の時から仏壇職人の兄孝作について蒔絵漆芸を習い始めた。大正3年石川県立工業学校(漆工科描金部)を卒業し上京、同校教師藤岡金吾の紹介で六角紫水を訪ね、同年東京美術学校漆工科に入学、秋から紫水宅に美校卒業の年まで寄宿した。同8年美校を卒業し、志願兵として1年間入隊する。翌年除隊後、東洋文庫で朝鮮楽浪出土の漆芸品の修理に携わった。同14年、紫水と大村西崖の勧めで並木製作所(パイロット万年筆の前身)に入社し、万年筆やパイプなどに蒔絵を施し世界に広めた。同15年、高村豊周、山崎覚太郎らと工芸グループ无型を結成、また、日本工芸美術会結成に参加した。昭和2年、並木製作所を退き東京美術学校助教授に就任、この頃、美術校長正木直彦の紹介で益田孝(鈍翁)を知る。同5年第11回帝展に「多宝塔」を無鑑査出品、同8年には欧州各国へ出張しイギリスではダンヒル商会にパイプの漆加工を指導した。同11年日本漆芸院を結成、また、板谷波山、六角紫水らと皐月会を結成する。一方、同6年帝国議会議事堂御便殿漆工事に携ったのをはじめ、同14年には法隆寺夢殿内に新調された救世観音の厨子の漆塗装監督をつとめたりした。同18年東京美術学校教授。同20年戦災に遇い自宅を全焼する。戦後は第2回日展から審査員をつとめ、第11回展まで出品したが、日展におけるいわゆる創作工芸になじまずその後日展から離れた。この間、同22年日本芸術院会員となる。同30年重要無形文化財(蒔絵)保持者に認定され、、社団法人日本工芸会創立に際し理事に就任。以後主に日本伝統工芸展に制作発表を行い、同37年日本工芸会理事長に就任した。翌38年東京芸術大学を停年退官し、名誉教授となり、同年文化功労者に選ばれた。同39年『うるしの話』(岩波新書)を刊行、同書で翌年第19回毎日出版文化賞を受賞する。一方、同25年日光二社一寺文化財保存委員会委員となったのをはじめ、国宝中尊寺金堂や正倉院等の保存修理などを指導した。同49年日本漆工会結成に際し顧問に就任、同51年には文化勲章を受章する。日本と中国の古典技法研究に根ざしながら、漆工芸技術の近代化につとめ豊かで格調高い作品を数多く発表した。代表作に「鶴蒔絵硯箱」(昭和25年、第6回日展)、「有職文蒔絵螺鈿飾箱」(同35年)などがある。同53年東京国立近代美術館で「松田権六展」が開催される。金沢市、輪島市名誉市民でもあった。没後、6月19日東京都文京区本駒込3-19-17の吉祥寺において、日本工芸会葬(葬儀委員長細川護貞)で葬儀がとり行われた。
裸婦の作家として知られた洋画家原精一は、5月3日午後6時57分、急性肺炎のため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。明治41(1908)年2月27日、神奈川県藤沢市の遊行寺・真浄院住職の長男として生まれる。大正12(1923)年6月、藤沢の藤嶺中学校(現・藤沢高校)在学中に第1回円鳥会を見、萬鉄五郎の作品に感嘆して間もなく萬に師事するようになる。同年川端画学校にも通う。翌13年第3回円鳥会に「風景、水彩」を初出品。昭和元(1926)年藤嶺中学を卒業。同年より中学の先輩である鳥海青児に絵を学び、同年新設された国画創作協会洋画部に「四月風景、水彩」で初入選。同2年には第5回春陽会に「冬田」で初入選し以後同会に出品を続ける。同11年第14回同展に「シュミーズの女」など13点を出品して春陽会賞受賞。翌12年同会会友に推される。同年応召し、翌13年「戦場スケッチ」により第2回佐分賞受賞。同17年中国より帰還し、第20回春陽会展に「胡弓」など9点を出品して同会会員に推される。同18年再び応召し21年タイでの抑留生活を終えて帰国する。同23年国画会に推薦会員として入会。以後、国画会展、現代日本美術茨、日本国際美術展などに出品。同42年国画会を退会。47年、38年の第2回展より出品していた国際形象展の同人となる。この間、同32年4月より翌年10月までの渡欧を皮切りに40年、45年と渡欧を重ねその後もヨーロッパ、東南アジア等へ旅する。50年には女子美術大学教授に就任し、美術教育にもたずさわった。一貫して裸婦を描き、女体の力動感を描き出そうとした。素速く適確なデッサンには定評があり、『原精一デッサン集』(40年、美術出版社)、『原精一素描集』(54年)、『原精一画集』(58年、日動出版)が刊行されている。
ホテル・パシフィック東京などで知られる建築家西澤文隆は、4月16日午前9時58分、心不全のため大阪府豊中市の国立刀根山病院で死去した。享年71。大正4(1915)年2月7日、滋賀県愛知郡に生まれ、昭和11年第三高等学校を卒業。同15年東京帝国大学建築科を卒業して坂倉準三建築研究所に入る。同18年フィリピンに渡り、戦後の21年坂倉準三建築研究所に復帰する。42年大阪府青少年野外活動センターの設計により日本建築学会賞受賞、44年11月、坂倉準三死去に伴い坂倉建築研究所を改めて開設しその代表取締役となる。60年6月「神宮前の家(白倉邸)」ほか一連の住宅建築により59年度日本芸術院賞受賞。日本建築学会、日本建築家協会のほか大阪府建築士会、アシカビ会(伊丹市を研究しよくする会)にも所属して活躍し、49年大阪府知事賞、59年伊丹市民文化賞を受賞する。代表作には、他に、前橋市庁舎、円形舞台で知られる兵庫県芦屋市のルナ・ホールなどがあり、著書に『西澤文隆小論集1~4』(昭和49~51)、『伝統の合理主義』(56年)、『家家』(59年)、『西澤文隆の仕事』(63年)がある。
戦前の前衛美術及びプロレタリア美術運動の推進者の一人として活躍した岡本唐貴は、3月28日急性心不全のため東京都線馬区の自宅で死去した。享年82。岡本は明治36(1903)年12月3日、岡山県倉敷市に生まれる。本名登喜男。大正9年上京し、同11年東京美術学校彫刻科塑造部に入学するが、翌年中退した。同12年第10回二科展に立体派の影響を示す「静物」他で初入選。同13年には前衛集団アクションに加わり、アクション第2回展にデ・キリコやカッラの形而上絵画を参考にした「失題」を出品する。同年、三科造形美術協会結成に参加し、翌14年第1回三科展に「ペシミストの祝祭」(昭和48年復元)、第2回展に「ルンペンプロレタリアA」「同B」を出品。三科解散後は浅野孟府、矢部友衛らとグループ造型を結成する。昭和4年、日本プロレタリア美術家同盟(PP)結成とともに中央委員となり、同年の第2回プロレタリア美術大展覧会に「争議団の工場襲撃」を出品、同作は300号位の大画面で、ダイナミックな群像表現に成功したプロレタリア美術の一例とされる。同8年には小林多喜二のデスマスクを制作した。翌9年、PPの後身のJAPが解散し、以後は研究グループを結成し活動する。戦後は、同21年現実会を結成、また日本美術会の創設にも参加し、日本アンデパンダン展、平和美術展などに出品する。同37年全ソ美術家同盟の招きでソ連を訪問。翌38年日本橋・白木屋で回顧展を開催する。同43年、丸木位里らと創作画人協会を結成するが、同45年には退会し、以後は旧作の復元に同49年まで費した。漫画家白土三平(本名岡本登)は子息である。