本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





水谷美三

没年月日:1977/12/29

彫金工芸師水谷美三は、12月29日脳血センのため京都市中京区、大宮病院で死去した。享年75。雅号美興。明治35年4月12日京都市下寺町の彫金師初代水谷源治郎の子として生まれ、二代目としてその業を継いだ。昭和35年京都知事技能最優秀賞、同45年京都市長技能最優秀賞、46年労働大臣技能最優秀賞など受賞。主要作品豊川稲荷御本堂角柱根巻波に亀文彫金 大正13年 源治郎、美三京都東本願寺山門丸柱根巻唐獅子文彫金 昭和初年 源治郎、美三国会議事堂御便殿内装飾金物彫金 昭和6年 源治郎、美三京都祇園祭り山鉾蘭縁並房掛金物彫金 昭和6年~昭和13年 源治郎、美三伊勢神宮御神殿内装飾金物彫金 昭和27年 美三大阪四天王寺金堂内丸柱御旗金具(幡)錺彫金 昭和33年 美三、醒洋(3代)高野山奥院燈籠堂内舎利塔壱基彫金 昭和40年 美三、醒洋中尊寺金色堂須弥壇孔雀金物彫金2点他 昭和43年 美三、醒洋

水清公子

没年月日:1977/12/25

洋画家水清公子は、12月25日老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年76。明治34年3月3日兵庫県姫路市に生まれ、兵庫県立高等女学校を卒業し、黒田重太郎に師事、戦前は関西美術院関係者で創設された白亜会に所属し昭和4年同会会員となり、同6年全関西展で朝日賞を受賞、翌7年無鑑査となった。同10年第22回二科展に「水蓮」で初入選し、以後同展に出品、同17年第29回展に「太田の沢」を出品して会友となった。戦後は同22年第二紀会創立に参加して同人となり、翌年第2回第二紀展に「母子像」と「美人草」を出品し同人努力賞を受賞した。以後同展に出品を続けた。人物や花を得意とし、京都の女流洋画家の草分け的存在であった。

鷲田新太

没年月日:1977/12/25

洋画家、光陽会元代表鷲田新太は、12月25日心筋こうそくのため東京都三鷹市武蔵境の日赤病院で死去した。享年77。明治33(1900)年9月19日、滋賀県野洲郡に生まれる。本名新一。大正8年兵庫県豊岡中学校を卒業し、同13年上京、川端洋画研究所で初めて木炭デッサンを学ぶ。昭和2年第5回春陽会展で「冬枯れ」が初入選、同4年東京美術学校師範科受験のため同舟社研究所に通ったが受験に失敗、同8年伊藤快彦の紹介で安井曾太郎に師事、この年新世紀美術協会展に出品、また第21回二科展に「冬日風景」が入選。同10年、美術雑誌『美之国』の編集員(筆名篠原巣一郎)となり編集に携わる。同11年川端龍子の知遇を受け、龍子主宰の「青龍社」の運営事務にあたった。同13年安井曾太郎門下生による「連袖会」第1回展に出品以後作品発表を断念した。戦後、同31年に光陽会に所属(翌年会員)、同年の第4回展から毎年出品を続けた。同43年第16回光陽会展に「河童不動」で文部大臣奨励賞、美術報知賞を受賞、また同年光陽会代表となった。同47年、71歳で初の個展を東京下村画廊、大阪フジヰ画廊で開催、独自のグワッシュによる「工場風景」や「俑人像」で注目された。翌年5月から約1年間パリに渡り制作に打込む。同50年「ピエロとその妻」等3点が東京国立近代美術館に所蔵され、翌51年東京フジヰ画廊で「サンハイトウ風景」「モンマルトルの坂道」「パリの裏通り」など60余点による「鷲田新太滞欧作品展」が開催された。

北川隆蔵

没年月日:1977/12/19

洋画家北川隆蔵は、12月19日死去した。享年67。雅号嚠三。明治42年10月1日滋賀県東浅井郡に生れ、太平洋美術学校、本郷研究所に学んだ。昭和18年第30回光風会展に「勤勞」が初入選し、以後戦後も同会に出品し、入選30回に及び、昭和45年同会々員となった。そのほか白日会、日展にも出品し、日展には昭和22年第3回展に「白い服」が初入選し、以後入選19回に至り、昭和51年同展会友となった。主要作品「水に生きる」(昭和50年)、「池畔」(昭和51年)ほか

横山大玄

没年月日:1977/12/04

日本画家横山大玄は、12月4日心筋コウソクのため東京都台東区の自宅で死去した。享年79。本名善信。京都伏見に生れ、東京の中学を卒え東京美術学校日本画科を卒業した。昭和初年故横山大観の夫婦養子となり、大観没後は自宅を大観記念館として開放し、大観の作品や資料を公開、その館長をつとめていた。院展には昭和8年第10回院展で初入選し、昭和27年第37回院展「竹林」で院友となり、第59回「弥生」で特待となった。

古家新

没年月日:1977/11/29

洋画家、行動美術協会創立会員古家新は、11月29日急性肺炎のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年80。明治30年6月19日兵庫県明石市に生まれ、京都高等工芸学校図案科を卒業。大正10年大阪朝日新聞に入社し、学芸部に所属、挿絵、スケッチ等を手がけた他、現在も用いられている週刊朝日の表紙文字を残し、昭和16年退社した。この間、大正15年第13回二科展に「入江」と他1点が初入選し以後同展への出品を続け、昭和12年二科会会友に推挙され、「夕月」他を出品同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品、同16年会員となりこの年の第28回展に「桜と城址」他を出品した。また、昭和3年から翌年にかけて渡欧、仏、伊、蘭等に滞在した。戦後は、同20年11月に結成された行動美術協会に創立会員として参加、翌年の第1回展に「霧」など3点を出品、以後同展へ出品を続けた。同36年には小豆島にアトリエを設け、以後の制作はこのアトリエでなされた。同36年、大阪市民文化賞を、翌37年には大阪府芸術賞を受賞、同51年には紺綬褒章を受けた。また、没後梅田近代美術館主催で遺作展(同53年10月31日-11月19日)が催された。行動展の出品作には、他に「波野」(第10回)、「早春の段々畠」(第18回)、「日の出」(第24回他)などがある。

大久保実雄

没年月日:1977/11/28

洋画会、二紀会理事、武蔵野美術大学評議員大久保実雄は、11月28日悪性リンパ腫のため東京立川市の立川共済病院で死去した。享年66。明治42年2月20日佐賀県伊万里市に生まれ、昭和8年帝国美術学校本科を卒業、同12年第8回独立展に「海浜」が初入選した。戦後は、同25年第4回展から二紀展に出品し同32年同人となり、同35年第14回展に「赤牛の群れ」「黒牛の群れ」を出品し同人優賞を受け翌年二紀会委員となった。同46年第25回展には「サーカスの人たち1」「サーカスの人たち2」を出品して鍋井賞を受賞、翌年二紀会理事に加えられ同50年「冬日」「絵のある部屋で」を出品し菊華賞を受賞した。また、この間武蔵野美術大学評議員をつとめた。二紀展への出品作には、他に「曲馬出場」(第11回)、「対話」(第19回)、「夜の家族」(第26回)などがある。

藤原建

没年月日:1977/11/25

備前焼の作家で岡山県重要無形文化財認定者藤原建は、11月25日急性心不全のため備前市の自宅で死去した。享年53。大正13年岡山県和気郡に生まれる。本名健。昭和21年復員後陶芸を志し、同29年北大路魯山人の下で修業、翌30年築窯した。同35年日本伝統工芸展に初入選、以後連続入選し、同37年には日本陶磁協会賞を受賞、同年デンマーク日本工芸展に出品した。同39年、日本工芸会正会員となり、翌40年には一水会正会員となる。同42年、陶歴20年を記念して「藤原建作陶展」(東京日本橋高島屋)を開催して「緋襷花入」「窯変徳利」などを出品した。同45年自宅に大窯を築き、同48年には岡山県重要無形文化財の指定を受けた。なお、備前焼人間国宝藤原啓の甥にあたる。日本伝統工芸展への出品作に「備前花入」(第10回)、「備前緋襷鉢」(第14回)などがある。

宮入行平

没年月日:1977/11/24

刀匠で重要無形文化財保持者の宮入行平は、11月24日心不全のため長野県上田市小林脳外科病院で死去した。享年64。本名堅一。大正2年、祖父の代からつづく坂城町の鍛冶屋に生まれた。刀匠として出発したのは、昭和12年24歳の時で、東京赤坂の刀匠栗原昭秀の日本刀鍛錬所に入門し、翌13年の処女作が大日本刀匠協会展で名誉賞となった。同15年には同展文部大臣賞を受賞した。戦後は郷里坂城町で作刀を始め、30年の日本刀剣保存協会主催の日本刀作刀の第1回美術審査会から同34年まで連続5回にわたり“日本一”の特賞を独占し、昭和38年3月、刀匠の重要無形文化財(人間国宝)として二人目の指定となった。その作風は豪壮堅実な相州伝といわれ、特に“古刀”の地はだは風格があり、独特なものといわれる。現在では奈良県の月山貞一氏とともに刀剣では二人だけの人間国宝で、戦後を代表する刀鍛治であった。

逸見梅栄

没年月日:1977/11/14

曹洞宗大本山総持寺宝物殿館長、元多摩美術大学教授、文学博士逸見梅栄は、心筋硬塞のため11月14日横浜市緑区の青葉台病院で死去。享年86。明治24年5月11日、山形県西村山郡谷地町(現河北町)に生まれ、大正6年東京帝国大学文科大学梵文学科卒業。同10年より3年間、曹洞宗留学生としてインドに滞在、昭和4年より3年間及び同13年より3年間、有栖川宮奨学金を高松宮家より受け、同9年東京帝国大学より文学博士の学位を授与された。昭和12年より同15年まで、毎年3ヶ月華北・満蒙に研究旅行を行った。昭和10年多摩帝国美術学校創立以来、同校が多摩造形芸術専門学校、多摩美術大学と改称改組せられたのちまで、ひき続き教授として在職し、美術学部長を勤めた。なお駒沢大学、立正大学、高野山大学、鶴見女子大学等に出講した。昭和45年に河北町名誉町民となり、同47年インドのタゴール誕生賞を受けた。勲三等瑞宝章受章。 インド美術、仏教美術研究の先駆者であり、主たる著述に『印度仏教美術考・建築篇』(昭和3年)、『印度美術図案集成』(9年)、『印度思想・美術思想』(岩波講座・東洋思潮、同)、『東洋文化の源泉・印度文化の源泉』(同、10年)『印度に於ける礼拝像の形式研究』(学位論文、東洋文庫論叢21、同)、『印度古代美術・資料ト解説』(16年)、『印度美術』(高田修と共著、19年)、『満蒙北支の宗教美術』(8巻、18年~)、『仏像の形式』(45年)、『中国喇嘛教美術大観』(50年)等がある。

前田青邨

没年月日:1977/10/27

日本画家前田青邨は10月27日老衰のため東京文京区本郷の順天堂医大附属病院で死去した。享年92。本名廉造。なお葬儀は29日鎌倉市の円覚寺で密葬が行われ、11月9日東京中央区築地本願寺で、日本美術院葬による本葬が執行された。青邨は、明治18年岐阜県恵那に生れ、小学校の頃から画才を示して、早くより画道への志をたてた。当初14才で上京するが、病のため一旦帰省し、満16才で再上京した。当時大和絵に造詣深い大家であり、また新聞小説に新味ある挿絵を描いて、時代の寵児でもあった梶田半古の画塾に入った。その頃、先輩に小林古径がいて、二人は小堀靹音門下の安田靱彦、松本楓湖門の今村紫紅らによる紅児会へ明治40年頃参加する。青邨は明治35年日本絵画協会日本美術院連合共進会へ「金子家忠」(三等褒状)が初入選するが、紅児会グループの人たちも同展への出品者であって、岡倉天心の指導を仰ぐこれら気鋭の青年作家たちはそのまま、再興院展への参加とつながっていく。青邨の日本美術院への参加は、師の梶田半古が院の幹部でもあったことからその宿縁ともいえるわけだが、再興院展以後における青邨の目覚ましい活躍は、瞠目すべきものがある。日本美術院は大正から昭和にかけて、さらに激動的な戦後にわたり、官展に対抗して日本画の理想を着実に発展させた。天心の意図した日本画の伝統に基盤を置いた新しい日本画の創造を、青邨らは深く追求しいわゆる新古典主義の作風を展開した。青邨の作品を概観すると、明治期は時代の一般的な傾向でもあった歴史画にはじまり、大正に入ってからは旅行による取材の、写生にもとづく風景画の作品が多く、「朝鮮之巻」「京名所八題」「燕山の巻」「イタリー所見」等が制作された。大正期にはこのほか、大正11年古径とともに日本美術院留学生として渡欧し、大英博物館で顧愷之筆と伝えられる「女史箴図巻」の模写など行い、大いに画嚢をこやすが、日本美術の優秀性を再確認するという日本画家としての根本的問題の解決を得、この研修旅行が画家としての転機をもたらしたと考えてよいであろう。昭和になってからは、5年に前年の院展出品作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞を受賞し、10年には帝国美術院会員となり、戦後昭和30年には文化勲章を受領し、世に大きく認められた。そして作品の上では、大正の写生による風景画に対し、昭和期には鋭い写生と、新しい大和絵風の技法による独特の肖像画の制作が声価を高めた。また晩年には東京芸術大学教授として後進の育成にあたり、文化財行政面でも、文化財保護委員会専門審議会委員、法隆寺金堂壁画再現模写事業総監督、高松塚古墳壁画模写総監督など委嘱され、これらに尽力するところ少なくなかった。青邨はまた若い頃から美術雑誌その他に直截な文章を載せているが、これらを集成した随筆集「作画三昧」(昭和53年新潮社)があり、日本経済新聞紙上連載の「私の履歴書」(昭和44年1月日本経済新聞社)も、同社から刊行されている。そのほかの著書に、スケッチによる「日本の兜」(昭和32年10月中央公論美術出版)がある。年譜明治18年(1885) 1月27日、岐阜県恵那郡に父前田常吉、母たかの二男として生まれる。本名廉造。生家はその頃、木曾への入口である街道筋に面し、乾物商をいとなむ。明治24年 4月、中津川尋常高等小学校に入学。明治30年 3月、中津川尋常高等小学校を卒業する。明治31年 母死去。上京し、叔父の経営する本郷根津の下宿屋「東濃館」に寄宿。明治32年 4月、本郷京華中学に入学。この頃、健康を害し、静岡県吉原の知人宅で2ケ月程療養生活を送り、一旦郷里に帰郷。明治34年 秋、再上京、親戚のつてで尾崎紅葉を知り紅葉のすすめで梶田半古の塾に入る。当時塾頭に小林古径がいた。明治35年 塾では古画の習得と同時に、写生に励み、また有職故実についての研究もつむ。この頃、師半古から「青邨」の雅号をもらう。「金子家忠」(3等褒状)第12回日本美術院・日本絵画協会共進会(初入選)明治36年 国学院大学聴講生になり、古典文学を学ぶ。半古の代筆で小栗風葉の新聞小説「青春」の挿絵を描き、また徳田秋声の連載小説の挿絵も描いた。「防箭」(褒状)第5回内国勧業博覧会。「夕顔」(1等褒状)第14回日本美術院・日本絵画協会共進会。「小碓」第15回日本美術院・日本絵画協会共進会明治37年 住居を半古塾から本郷菊坂の下宿の移す。明治39年 巽画会研究会に参加。「天照皇大神」(銅牌)第3回真美会展。「春遊」日本絵画展(日本美術院主催)。「粧ひ」(1等)廿日会明治40年 紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らの俊英と研究をともにすすめる。「御輿振」(3等賞牌)東京勧業博覧会明治41年 「囚はれたる重衡」国画玉成会展(3等賞第1席)明治43年 国画玉成会幹事となる。「市」第11回紅児会展。「竹取物語」(絵巻)「鶏合せ」第12回紅児会展明治44年 横浜の豪商原富太郎(号三渓)より研究費の援助を受ける。「菅公」「鉢の木」第15回紅児会展。「法華経」「竹取」(褒状)第5回文展。「辻説法」日本美術社展明治45年 紅児会々場で岡倉天心から「にごりを取りなさい」との批判をうけ発奮する。11月、荻江節の家元初代荻江露章の妹、松本すゑと結婚。この年、健康を害し、神奈川県平塚に転地療養する。「椿」「須磨」第17回紅児会展。「二曲屏風」第18回紅児会展。「御輿振」(画巻)(3等賞)第6回文展大正2年(1913) 8月、紅児会解散。9月、長女千代子誕生。「橋合戦」「蝦蟇仙人と鉄拐」第19回紅児会。「月下洗馬」大阪高島屋月百幅会大正3年 10月、日本美術院同人に推挙される。神奈川県藤沢石上に移転する。この頃、小山栄達、磯田長秋、吉田白嶺らと絵巻物研究会を創める。「つれづれ草鼎の巻」(銅牌)東京大正博覧会「竹取」(其1=1段-12段、其2=13段-18段)(絵巻)「湯治場」(其1、其2、其3)再興記念日本美術院第1回展大正4年 朝鮮に旅行する。6月、次女正子誕生。「朝鮮の巻」(画巻)第2回院展。「渡船場」松屋東都大家新作展大正5年 神奈川県鶴見に転居。小林古径と関西に旅行する。「京名所八題」(八幅対、本願寺、三十三間堂、清水、祇園会、先斗町、四条大橋、上賀茂、愛宕山)第3回院展。「曳船」大阪高島屋双幅画会。「戦の巷」「丹霞焼仏」高島屋三都大家新作展大正6年 4月23日、梶田半古死去。神奈川県渡辺山に転居。「切支丹と仏徒」(双幅)第4回院展。「地獄変相」「江の島詣」日本美術学院記念展。「元寇殲滅」立太子礼奉祝文官献納画帖。「厳島舞楽」琅★洞展。「厳島詣」三越新作絵画展。「船」「武将」「立葵」日本美術院同人作品展大正7年 3月、大阪高島屋で、初の個展開催。3月、長男裕造誕生。日本美術院評議員に推される。「社頭」日本美術院同人展。「六歌仙」三越東西大家新作画展。「維盛最期之巻」(画巻)第5回院展大正8年 中国に旅行する(往路上海、南京、蕪湖、漢口、宜昌、新潭等で、復路は漢口、北京、奉天、朝鮮を経由する)。「早春」「晩秋」(双幅)日本美術院同人展。「燕山之巻」(画巻)第6回院展。「★魚」琅★洞展。「遊魚」三越絵画展。大正9年 延暦寺より伝教大師絵伝「根本中堂落慶供養の図」を委嘱され、小林古径と共に比叡山に赴く。日本美術院同人らと瀬戸内海写生行。「根本中堂落慶供養の図」比叡山延暦寺に納入「秋風五丈原」第7回院展。「入唐」琅★洞、院同人高野紀行展。大正10年 「鯰」「地獄変相」日本美術院同人米国巡回展。「遊魚」(六曲一双)第8回院展。大正11年 10月26日日本美術院留学生として、小林古径と共に約1年間泰西美術研究のため渡欧する。マルセーユ到着後、ローマに赴き、フィレンツェほかイタリア各地美術館を見学し、ついでパリに滞在している。「赤坂離宮御苑」東京府より英国皇太子へ献上大正12年 ロンドン滞在中、東北大学の依嘱によって、中国古代名画として有名な「女史箴図巻」(顧愷之筆)を、所蔵する大英博物館で古径と分担して模写を行う。模写実施に当っては、当時ロンドン滞在中の東北大学教授福井利吉郎の斡旋による。ロンドンから再びイタリアに赴き、さらにエジプト、その他各地を巡って8月22日帰国した。顧愷之筆「女史箴図巻」(模写)大正13年 「花賣」「彦火火出見尊」(絵巻)第11回院展。「沙魚」「摂政官御慶事記念東京府献納瑞彩帖。「芥子」尚美堂展大正14年 3月、長男裕造(8歳)をジフテリアで失う。4月、三女日出子誕生。11月、「女史箴図巻」(模写)の展観を行う。「やなぎはや」第10回日本美術院試作展。「伊太利所見」(三幅対)(ペルジャの山上市)(フローレンスの朝)(ポンテベッキヨの雨)第12回院展。「礼讃」尚美堂展大正15年 第1回聖徳太子奉讃美術展の鑑査委員となる。「漢江の朝霧」「漢水の夕」(双幅)第1回聖徳太子奉讃美術展。「冬瓜」尚美堂展。「瀬満王」東京会展。「五月雛」白日荘現代50大家新作展。「東海道」郷土美展。「芥子」松屋東西会昭和2年 3月、四女照子誕生。「羅馬使節」「西遊記」(画巻)第14回院展。「芥川」中央美術社主催東西大家展。「山幸海幸」(双幅)三越京都大家新作展。「祭日」尚美堂展昭和3年 この年再び健康を害し、夏の間那須鮎ケ瀬別荘に療養生活を送る。「祝い日」御即位記念御下賜品として依頼を受ける。「朝鮮の風俗」大婚25年奉祝文武官献上画帖「踊」尚美堂展。「あまご」白日荘展昭和4年 「洞窟の頼朝」第16回院展。「住吉詣」銀座美術園新作展。「粟」尚美堂展。「雪」東京会展。「那須スケッチ」第14回日本美術院試作展昭和5年 第2回聖徳太子奉讃美術鑑査委員。前年作「洞窟の頼朝」で第1回朝日賞受賞する。ローマ日本美術展に前年の「洞窟の頼朝」出品。日本美術院経営者に推挙される。「罌粟」(六曲一双)第17回院展。「大嘗祭」明治天皇聖徳絵画館。「鵜飼」「愛茶」第1回七絃会展昭和6年 「縫取」第2回七絃会展昭和7年 「石棺」第19回院展。「扇面散し」第3回七絃会展昭和8年 「鵜飼」「初茸」日本美術院同人展。「鵜飼」(三幅対)第20回院展昭和9年 満州国建国三周年記念美術展の審査員として渡満する。帰途熱河を回る。「鷹狩」(六曲一双)第21回院展(李王家買上)「武将弾琵琶」(満州国皇帝献上画)「絃上」日本美術院同人展。「大柿手に入る」第5回七絃会。「粧ひ」日本美術院試作展。「白鷺」東京会「乗合船」角谷二葉新作画展昭和10年 6月、帝国美術院改組され、その会員となる。「毛抜形」第19回日本美術院試作展。「唐獅子」(六曲一双)岩崎家よりの御即位記念献上画。「秋深し」「鷺」第6回七絃会展。「真鶴沖」第1回踏青会展昭和11年 2月、改組第1回帝回美術院展審査員。「観画」第1回新帝展。「白河楽翁」第23回院展。「唐獅子」(衝立)「蘭陵王」「白鷺」第2回踏青会展。「楯無」日本創作画協会展。「応永の武士」日本美術学院記念展。「原の白隠」「魚」第7回七絃会展昭和12年 6月、帝国芸術院会員に推挙される。「清正」第8回七絃会展。「名犬獅子」(畠時能)松島画舫新作展。「楽翁」(双幅)「凱旋武将」高島屋新作展昭和13年 5月、日満美術展審査のため二度目の渡満をする。帰途は新京から大同に赴く。10月、第2回新文展審査員。「大同石佛」第25回院展。「大楠公」第9回七絃会展。「鴨」「兎」高島屋新作画展昭和14年 歌舞伎座上演「太閤記」(吉川英治原作)の舞台装置担当。この年、北鎌倉に画室竣工。第3回新文展審査員。「朝鮮五題」(五面)第26回院展。「熊野御難航」(画巻一合作肇国創業絵巻ノ内)紀元2600年奉讃展。「猫」「豊公」第10回七絃会「洞窟の頼朝」三越日本画展。「豊公」高島屋新作画展昭和15年 歌舞伎座にて「続太閤記」の舞台装置担当。紀元2600年奉祝美術展審査員。「鵜」第27回院展。「阿修羅」紀元2600年奉祝美術展。「菊」第11回七絃会展。「月輪」昭和16年 「静物」第12回七絃会「椿」第1回尚絅会展昭和17年 「奎堂先生」第29回院展。「祝日」満州国建国十周年慶祝記念献納展。「凱旋の旗手」「静物」日本美術院同人軍用機献納作品展。「清正」日本画家報国会軍用機献納展。「関ヶ原の家康」第13回七絃会展。「陣中愛茶」高島屋現代名家新作展昭和18年 第6回新文展の審査員となる。昭和19年 7月、帝室技芸員に推挙される。「牡丹」「激流」「おぼこ」戦艦献納帝国芸術院会員美術展。「景清」「鉢」陸軍献納帝国芸術院会員美術展昭和20年(1945) 郷里中津川に疎開。8月、疎開先で終戦を迎え、11月、北鎌倉の自宅に戻る。昭和21年 第1回日本美術展覧会(日展)審査員。前年海軍兵学校よりの依頼画「大楠公」を湊川神社に納入する。「二日月」第1回日展。「魚絞」第31回院展。「大楠公」湊川神社奉納昭和22年 3月、柴田ギャラリーでスケッチ展開催。「郷里の先覚-夜明前の香蔵と景蔵-」(双幅)第32回院展。「豊公」「応永の武者」「かちかち山」(画巻)昭和23年 「洞窟の頼朝」第1回清流会展。「水鉢」五月会展昭和24年 1月、法隆寺金堂壁画焼損。「猫」「風神雷神」第34回院展。「真鶴沖」第2回清流会展昭和25年 12月、文化財保護委員会専門審議会委員。「鯉」(三面)第35回院展。「山鳥」第3回清流会展昭和26年 12月、東京芸術大学日本画科主任教授。「Y氏像」(安井曾太郎)第36回院展。「赤絵」日本美術協会展。「山吹」第4回清流会展昭和27年 4月、「古径・靱彦・青邨代表作展」(於銀座松屋)開催。「湯治場」第37回院展。「絵島詣」第5回清流会展昭和28年 「耳庵老像」(松永安左衛門)第38回院展「伊勢遷宮図」伊勢神社へ奉納昭和29年 10月、古稀記念「前田青邨展」(於東京銀座松屋、朝日新聞社主催)開催。「紅梅」(二曲半双)第39回院展昭和30年 6月、「前田青邨作品集」(大塚巧芸社)が前年の古稀展を記念して刊行される。11月、文化勲章受賞。郷里中津川市名誉市民となる。「出を待つ(石橋)」(二曲半双)第40回院展。「石橋」皇居仮宮殿饗応の間、壁面用に制作。「愛茶」「川の幸」第8回清流会展昭和31年 4月、東京芸術大学陳列館で「文化勲章受章記念前田青邨教授作品展」開催。7月、日本美術家連盟会長に推挙される。ブリジストン美術館の美術映画「前田青邨」が制作開始される。「浴女群像」第41回院展。「宇治川」第9回清流会展。昭和32年 川合玉堂に代り、皇后陛下の絵の指導役となる。文化財専門審議会委員を辞す。五月、「前田青邨写生展」(於銀座松屋)開催。「日本の胄」(中央公論美術出版)出版。ブリヂストン映画「前田青邨」完成。「プランセス」第42回院展。「洞窟の頼朝」日本美術院十大家名作展。「梅日和」第1回高樹会展昭和33年 「動物の舞踏会」「鵜」第29回ベニスビエンナーレ国際美術展。「みやまの四季」(六曲半双)第43回院展。「秋の花」第6回薫風会展昭和34年 1月、東京芸術大学日本画科主任教授を定年退職し、同大学名誉教授となる。「御水取」(御水取を迎える奈良の旧家、總別火(行事の支度)が堂の役人衆、わらび餅の茶屋・籠り堂・湯屋・食堂・行法を待つ参籠衆、鈴を振る咒師、御水取(若狭井)、松明をみる群衆、松明のぼる、内陣の幕をしぼる堂童子、達陀の行法、社頭の終了報告、二月堂は明けゆき)第44回院展。「遊魚」第11回清流会展。「景清」巨匠日本画展。昭和35年 5月、訪中日本画家代表団の団長として約1ケ月間、中国を旅行する。9月、「中国を描く前田青邨展」(於東京日本橋高島屋・日中文化交流協会・朝日新聞社主催。「赤い壁」(天壇)「黄色い屋根」(紫禁城)。「南の街」(広州)中国を描く前田青邨展。「貝」第12回清流会展。「魚」第4回恵下会展。「駒勇む」昭和36年 中津川市で恵下会記念展開催。10月、喜寿記念前田青邨展(於東京日本橋高島屋・朝日新聞社主催)。12月、「前田青邨作品集」(喜寿記念画集)が大塚巧芸社から刊行される。「白頭」、「洋犬」第46回院展、「牡丹」第13回清流会展昭和37年 9月、「前田青邨先生喜寿記念陶展」(荒川豊蔵賛助出品。香合、小品置物、茶碗絵付等)(於日本橋三越)「石棺」午前時」第47回院展。「紅白梅」ローマ日本文化会館壁面用昭和38年 「出羽の海部屋」(画巻)「鯉」第48回院展。「静物」(赤絵皿にリンゴ)「ペルシャの鉢」昭和39年 2年前依頼された日光二荒山神社宝物館壁画の完成を記念して、日光二荒山神社壁画完成記念「前田青邨壁画と発掘宝物展」(於東京日本橋三越)が開催された。「K氏像」「椿」「山霊感応」日光二荒山神社宝物館壁画昭和40年 「千羽鶴」「薔薇」「奥の細道」昭和41年 郷里中津川市に前田青邨記念館が設立される。「前田青邨展」(於横浜高島屋、朝日新聞社主催)「転生」(平櫛田中)第51回院展。「三浦大介」山種美術館開館記念展。「ペンギン」第1回神奈川県美術展昭和42年 法隆寺寺壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任。前田班は「10号大壁(薬師浄土)」「3号小壁(観音菩薩)」「12号小壁(11面観音)」の三面を担当し制作する。「胡猫」第22回日本美術院春季展。「蓮台寺の松蔭」第52回院展昭和43年 「大物浦」第53回院展昭和44年 「徒然草」(二面)第24回日本美術院春季展。「異風行列の信長」第54回院展。「須磨」第21回清流会展。「熊野詣」第21回白寿会展「真鶴ケ浜」「蘭陵王」「燃える水献上」「川魚」昭和45年 新宮殿「石橋の間」壁面として、昭和30年に仮宮殿のために謹作した「石橋」に加筆し新たにその左右に「紅牡丹」「白牡丹」の二面を制作する。「腑分」第55回院展。「新石橋」(「紅牡丹」「白牡丹」)「連雀」「梅日和」「八橋」昭和46年 「米寿記念前田青邨展」(於3.30-4.4東京日本橋高島屋、4.13-4.18大阪高島屋、4.20-4.25名古屋松坂屋。朝日新聞社主催)11月、すゑ夫人(荻江露友)が古典荻江節継承者として日本芸術院第三部会員となる。「知盛幻生」第56回院展。「応永の武者」「宋磁壺紅白梅」「晩秋(1)」昭和47年 「前田青邨作品集」(朝日新聞社)刊行。高松塚古墳壁画模写の総監督を委嘱される。「鴨」日本美術院春季展昭和48年 高松塚古墳石室に入室。「奈良の鶴の子」日本美術院春季展。「水辺の春暖」「土牛君の像」第58回院展。「大楠公」五都展昭和49年 春、高松塚古墳壁画模写が完成。東京国立博物館で内示が行われる。2月、ローマ法皇庁からの依頼によりバチカン美術館に納める「細川ガラシヤ夫人像」を完成、東京国立近代美術館でその贈呈式が行われる。「富貴花」第59回院展。「古事記」(絵巻)日本美術院春季展。「細川ガラシヤ夫人像」バチカン美術館昭和50年 5月14-7月6 東京国立近代美術館において「前田青邨展」が開催される(現存作家の個人形式展として「平櫛田中展」についで2回目の企画)。「鶺鴒」日本美術院春季展昭和51年 6月5-7月4 京都市美術館において「前田青邨展」(京都市(財)日本文化財団・京都新聞社・近畿放送主催)開催。昭和52年 10月27日、老衰のため死去。戒名は画禅院青邨大居士。「桃花」日本美術院同人小品展。「晩秋」五都展昭和54年 3月17日、前田青邨先生筆塚建立供養会施行(於鎌倉市東慶寺)。9月、前田青邨 三周忌記念展(於東京日本橋高島屋)

片岡華江

没年月日:1977/10/22

蒔絵師、国の無形文化財保存技術者(螺鈿)である片岡華江は、10月22日急性心不全のため川崎市の高津中央病院で死去した。享年88。明治22年8月20日東京都台東区に生まれる。本名照三郎。同38年東京美術学校教授川之辺一朝に入門し螺鈿文様の制作をはじめ、大正元年大正天皇並びに皇后御召車内部と食堂車の鏡縁の螺鈿文様を作製、同3年東京美術学校漆工科の螺鈿彫鏤技術の講師を委嘱され、昭和18年までつとめた。この間、昭和3年東京美術学校監造御飾棚螺鈿鳳凰菊文様を作製したのをはじめ、翌4年伊勢神宮式年祭にあたり、御櫛函、轆轤函の銀平文、雲鳥文を神宮司庁の監修によって作製、同年皇太后職の依頼により東京美術学校監造紫檀造果物棚の螺鈿柘榴文様を作成、同6年には東京美術学校監造国会議事堂皇族室扉ならび御帽子台の螺鈿文様を作製した。戦後の同32年、文化財保護委員会の依頼により螺鈿技術記録を作成、同年無形文化財保存技術者に認定された。同34年第6回日本伝統工芸展出品作「螺鈿鷺之図手筋」が文化財保護委員会買上となり、同年宮内庁侍従職の依頼で壺切御剣の鞘の螺鈿を修理。同37年教王護国寺蔵重要文化財刻文脇息一基並びに彩画曲物笥一式を保存修理、同39年には国宝中尊寺金色堂の保存修理に伴う宝相華文様螺鈿を作製した。同41年勲五等瑞宝章を受賞した。

宮川淳

没年月日:1977/10/21

美術評論家、成城大学助教授宮川淳は、10月21日肝臓がんのため東京世田谷区の厚生会玉川病院で死去した。享年44。昭和8年3月13日東京市大森区で生まれ、同12年外交官であった父の任地モスクワへ赴き同14年帰国、同20年4月には同じく父の任地哈爾浜へ伴われ哈爾浜日本中学校に転入、同21年引揚帰国後、東京都立大学付属高校を経て、同30年東京大学文学部美学美術史学科を卒業した。同年日本放送協会に就職したが、同38年4月評論「アンフォルメル以後」で美術出版社の第4回芸術評論賞を受賞し、同40年日本放送協会を退職した。同年4月成城大学講師となり西洋美術史を担当、同44年助教授となった。また、同43年7月に最初のヨーロッパ研究旅行に出かけたのをはじめ、同45年、48年、51年にも主にパリを中心にヨーロッパ各地を旅行したが、同51年2月から4月にかけて、パリ滞在中発病し、入院手術を行い帰国した。また、この間同46年には東京大学教養学部非常勤講師、翌47年から49年まで東京都立大学人文学部非常勤講師をつとめた。西洋美術史研究とともに前衛美術評論で活躍し、著書に『セザンヌとスーラ』(美術出版社1961年)『マティス』(平凡社世界名画全集別巻、1962年)『鏡・空間・イマージュ』(美術出版社1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(エディシオンエパーヴ、1967年)『引用の織物』(筑摩書房1975年)、『美術史の言説』(中央公論社1978年)があるほか、訳書に『イヴ・ボンヌフォア詩集』(思潮社)などがある。なお、没後成城大学教授となった。

大舘健三

没年月日:1977/10/14

洋画家、一水会会員大舘健三は、10月14日死去した。享年75。明治35年11月25日東京都に生まれ、大正9年川端画学校に入り藤島武二に師事、同11年東京美術学校西洋画科入学し、在学中太平洋画会、聖徳太子奉讃展に出品、昭和2年同校を卒業する際奨励賞を受け、引き続き研究科へ進んだ。翌3年和田英作教室の制作助手となった。同4年一水会に初入選し、以後同展へ出品を続け、戦後の同21年一水会会員となった。この他、日展、美術団体連合展などにも出品、同44年には山元好信と二人展を開催、5回展まで続け、同46年には六悠会を創立し制作発表した。戦後の一水会への出品作には、「童踊」(第9回)、「ふたり」(第15回)、「二女による構成」(第28回)、「閑庭」(第36回)などがある。

二瓶大三

没年月日:1977/10/11

洋画家、日本水彩画会会員二瓶大三は、10月11日脳血栓のため死去した。享年65。大正元年12月12日福島県岩瀬郡に生まれ、昭和7年福島県師範学校を卒業し、同13年県立相馬女子高校教論となり美術を担当した。同15年日本水彩展に初入選、同31年第33回春陽会展に「二本松雪景」が初入選、同41年春陽会会友に推挙され、同42年には第55回日本水彩展に「沼尻高原」「古城」を出品して会友奨励賞(美術報知賞)を受賞、翌年日本水彩画会会員となった。同46年東南アジアに写生旅行に出かけたのをはじめ、その後、印度、ネパール、イタリア、シルクロード、南フランスへと同51年まで写生旅行を重ねた。代表作に水彩の「月見草の咲く高原」、油絵の「安達太良山の四季」がある。

近馬勘吾

没年月日:1977/09/27

洋画家、太平洋美術会委員近馬勘吾は、9月27日死去した。享年83。明治27年9月21日岡山市に生まれ、同45年上京、翌大正2年に太平洋画会に入り中村不折、岡精一に師事、以後戦前、戦後を通じて同会と共に歩み、戦後は同会展の審査員をはじめ、太平洋美術学校で指導にもあたった。この間、大正11年から翌年にかけてロシアへ渡りアレキサンドルフスクなどに滞在、昭和36年には渡仏巡遊した。戦後の太平洋画会展出品作に、「或る日のエチュード」(52回)、「庭に来る鳥」(56回)、「礎石の人と」(60回)、「妻」(69回)など。

小寺健吉

没年月日:1977/09/20

洋画家、日展参与、光風会名誉会員小寺健吉は、9月20日肝臓がんのため東京飯田橋の警察病院で死去した。享年90。俳号村鳥。明治20(1887)年1月8日岐阜県大垣市に生まれる。同39年東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾、和田英作、黒田清輝に指導を受け、同44年卒業。翌年光風会第1回展に「日比谷音楽」「花」を出品、以後同展に出品を続け、大正3年第3回展に「女」など4点を出品して今村奨励賞を受賞、同13年会員となった。また、大正2年第7回文展に「秋近く」が初入選、続いて第8回「浅草の夏の真昼」、第9回「水のほとり」で褒賞を受けた。その後も文展、帝展に入選を重ね、大正12年と昭和2年に各々一年余り渡欧。昭和3年、第9回帝展出品作「南欧のある日」で特選を受け、翌年は無鑑査出品、以後推薦となった。同8年光風会評議員となる。以後、光風会、新文展に出品を続けたほか、同15年の紀元2600年奉祝美術展に「細雨」を出品、同18年第6回新文展出品作「山狭」は黒田子爵奨励資金買上となった。戦後は、光風会、日展、美術団体連合展などで制作発表を行い、同25年第6回日展ではじめて審査員(以後5回)をつとめた。同40年「画業50年記念展」(日本橋・三越)を開催する。同45年日展参与となり、同52年文展以来の永年の出品活動に対して日展から顕彰状が贈られた。同年『小寺健吉画集』(日動出版部)が刊行される。初期は後期印象派風のタッチで装飾性の強い画風を示したが、やがて写生画風に転じた。戦後の代表作に「雪の夜明(蔵王)」(第48回光風会展)、「枝柿と花の静物」(第7回新日展)、「青果市場(シンガポール)」(昭和40年)、「陶器造りの庭」(同42年)などがある。

杉浦一郎

没年月日:1977/09/20

洋画家、旺玄会常任委員杉浦一郎は、9月20日死去した。享年61。大正5年6月15日東京都豊島区に生まれた。戦後の昭和27年旺玄会第6回展に「屋上より」を出品、以後同会に制作発表を行い、同30年第9回展に「大海」「外房風景」を出品して会友、同33年第1回展から通算して第24回展としたこの年の出品「球場盛夏」「未完成画室」で会友努力賞を受賞、翌年会員となった。同37年旺玄会委員となり、同39年には常任委員となった。旺玄会の他、日本山林美術協会会員でもあった。旺玄会常任委員としての出品に「黄色の卓布」(34回)、「回転木馬」(37回)、「シェルブールの窓」(40回)などがある。

新規矩男

没年月日:1977/09/17

西洋美術史家、東京芸術大学名誉教授、遠山記念館附属美術館館長の新規矩男は、9月17日、心筋コウソクのため埼玉県所沢市の国立西埼玉中央病院で死去した。享年70。新規矩男は、明治40年(1907)7月30日、三重県名賀郡に生まれ、三重県立上野中学校から広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校へすすんだが、健康をそこねて陸士を中退、大正15年第一高等学校文科丙類へ入学、昭和4年3月卒業、同7年3月、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。昭和7年4月東京美術学校講師となり、フランス語及び西洋文学を担当したが、昭和9年(1934)12月、アメリカ合衆国ニューヨーク市メトロポリタン美術館東洋部助手となり渡米、同11年(1936)12月まで滞米、勤務した。昭和12年ヨーロッパ諸国を歴遊して帰国し、同年4月東京美術学校に復帰、フランス語を担当、同13年2月講師を嘱託、同14年4月からは西洋工芸史をも担当した。昭和21年12月東京美術学校教授、同27年3月東京芸術大学美術学部教授となり、西洋美術史、西洋工芸史を講じ、昭和50年4月、定年退官した。その間、昭和34年4月~37年4月東京芸術大学附属図書館長、同40年12月~42年12月東京芸術大学美術学部長、同45年4月~47年2月東京芸術大学芸術資料館長、同47年2月~50年3月東京芸術大学附属図書館長をつとめた。 そのほか、昭和30~45年には、数回にわたって東京女子大学、名古屋大学、京都大学、東京大学の各文学部の非常勤講師として西洋美術史を講義した。これらの教育活動のほか、戦後の海外学術調査に重要な役割をはたし、昭和31~32年、同34年の二次にわたる東京大学イラク・イラン遺跡調査団(団長江上波夫)には副団長として参加、昭和41年、43年の東京芸術大学中世オリエント学術調査団(トルコ洞窟協会壁画の調査)では2次ともに団長の任をつとめた。また、昭和26年から同50年まで、美術史学会常任委員に選出され、そのうち、昭和44年6月~50年6月のあいだは同学会代表委員の任にあった。昭和44年以降、国立西洋美術館美術品購入委員を委嘱され、昭和45年5月には財団法人遠山記念館付属美術館館長(非常勤)を嘱託され、昭和50年4月東京芸術大を定年退職してからは同美術館の常勤館長の職にあり、また武蔵野美術大学非常勤講師として西洋美術史を講義していた。没後、勲二等に叙せられ、フランス政府から勲章を贈られた。主な著書、論文は下記のとおりである。(『』は著書、訳書。「」は論文)「古代埃及の陶器」陶器講座 雄山閣 昭和11年『英国芸術史』 英米文学語学講座 研究社 昭和16年7月「ルネサンス美術発達の様式的考察」日伊文化研究第14号 昭和18年9月『ヴァザリ美術家伝』(共訳) 青木書房 昭和18年9月「マネと印象派」美術4月号 美術出版社 昭和21年「クールベ作『ルー川の洞窟』について」美術研究第154号 昭和24年5月「古代エジプトの壁画」三彩第40号 昭和25年3月「15世紀イタリアの工芸」世界美術全集第16巻 平凡社 昭和25年8月「モロー、カリエール、ラファエリ、コッテなど」世界美術全集第24巻 平凡社 昭和25年9月「16世紀のイタリアの工芸」世界美術全集第17巻 平凡社 昭和26年1月「エジプト・ティス時代の美術」世界美術全集第2巻 平凡社 昭和26年8月「メソポタミア初期王朝時代の美術」世界美術全集第2巻 平凡社 昭和26年8月「バビロニアの美術」世界美術全集第3巻 平凡社 昭和27年8月「エジプトの建築」世界美術全集第4巻 平凡社 昭和28年9月「エジプトの工芸」世界美術全集第4巻 平凡社 昭和28年9月「メソポタミア先史大洪水文化」世界美術全集第1巻 平凡社 昭和28年7月「エジプト先史文化」世界美術全集第1巻 平凡社 昭和28年7月「ゴシックの工芸」世界美術全集第13巻 平凡社 昭和29年2月「イスラムのガラス、金工、象牙」世界美術全集第10巻 平凡社 昭和29年11月『古代世界』美術ライブラリー みすず書房 昭和31年6月『マネ』ウィレンスキ・ローゼンスタイン著 平凡社 昭和32年12月「東大新政の『メソポタミア初期王朝時代男子頭首像』について」東洋文化第26号 平凡社 昭和33年12月「メソポタミア王朝時代の遺跡と文化」世界考古学大系第10巻 平凡社 昭和34年1月「アッカド王朝、新シュメール時代の遺跡と文化」世界考古学大系第10巻 平凡社 昭和34年1月「古典時代の工芸(ガラス工芸、金属工芸、彫玉)」世界考古学大系第14巻 平凡社 昭和35年3月「古代エジプトの美術と工芸」世界考古学大系第13巻 平凡社 昭和35年12月「エジプトの神殿建築」世界美術全集第5巻 平凡社 昭和35年9月「マジョリカ陶器」世界陶磁全集第15巻 河出書房 昭和35年6月「ピエロ・デラ・フランチェスカ」世界美術全集第30巻 角川書店 昭和36年1月「中部イタリアの絵画」世界美術全集第30巻 角川書店 昭和36年1月『ルネッサンスのイタリア画家』ベレンソン著(共訳) 新潮社 昭和36年6月「工芸総説」玉川百科大辞典第18巻 誠文堂新光社 昭和36年9月「アマルナ美術」古代史講座第12巻 学生社 昭和37年2月「ファハリアン1タペ・スルヴァンの発掘」東京大学イラク・イラン遺跡調査団報告書4共同編著 東大東洋文化研究所 昭和38年3月「帝国文明-バビロニア・アッシリアの文明」世界の文化・西アジア 河出書房 昭和41年4月「古代エジプトの歴史と文化」世界の文化・エジプト 河出書房 昭和41年12月「カイロ美術館」世界の美術館・編著 講談社 昭和45年1月『クールベ』 平凡社 昭和46年『ピエロ・デラ・フランチェスカ』 平凡社 昭和46年「工芸」ブルタニカ国際百科辞典第7巻 昭和48年5月「地中海文明の誕生」大系世界の美術第4巻 学習研究社 昭和48年8月「古代西アジア美術の母胎」大系世界の美術第2巻 学習研究社 昭和50年4月「メソポタミアの美術-アッシリアと新バビロニア」大系世界の美術第2巻 学習研究社 昭和50年4月

亀高文子

没年月日:1977/09/16

女流洋画家の草分けの一人、亀高文子は、9月16日急性心筋こうそくのため西宮市の兵庫医科大学病院で死去した。享年91。明治19(1886)年7月8日、水彩画家渡辺豊次郎(豊州)の子として横浜に生まれる。同35年女子美術学校本科西洋画科に入学、同40年卒業し、この年父豊州のもとに出入りしていた小杉未醒の紹介で満谷国四郎に入門、また太平洋画会研究所に入って中村不折にデッサンの指導を受けた。同年東京府勧業博覧会に「杉の森」、翌年41には太平洋画会第7回展に「音無川」を出品し、同42年第3回文展に出品した「白かすり」が初入選し褒状を受けた。以後文展帝展に出品を続けたが、大正7年与謝野晶子らと女性だけの洋画家集団朱葉会を創立し同会展に制作発表を行った。同12年神戸に移住し、同15年同地に赤艸社女子絵画研究所を創立、昭和4年朱葉会を退会し、翌5年には兵庫県美術家連盟の創立に参加し会員となった。戦時中の同18年赤艸社を閉鎖したが、戦後同24年西宮市に移転して赤艸社を再開した。同37年兵庫県文化賞を、同46年には西宮市民文化賞を受賞した。また、同50年「亀高文子自選展」(西宮市大谷記念美術館)を開催した。戦前の代表作には、第12回文展「ダニエルの話」、第2回帝展「椅子による少女」、第5回帝展「少女と小猫」などのほか、第3回朱葉会展「カナダの少女」などがあり、戦後では昭和46年兵庫県文化賞受賞者展に出品した「風景(六甲連山)」「あじさい」などがある

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