本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
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没年月日:1978/12/23 大手前女子大学教授・「史迹と美術」主幹、文学博士川勝政太郎は、12月23日、京都市京大附属病院で肺炎のため死去した。享年73。明治38年5月22日、京都市中京区に生れ、大正12年京都市立第一商業学校卒業。昭和初年頃より天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術を研究。昭和3年9月スズカケ出版を創立し、「古美術史蹟・京都行脚」を出版、23歳の時である。昭和5年11月「史迹美術同攷会」を設立主宰、雑誌「史迹と美術」を発刊した。刊行後50年、没後もなお継続刊行され500号を超える。この間多くの学者が寄稿し、考古、美術史界に貢献した。とくに石造美術研究の分野で学問的体系を確立した川勝の指導を仰ぎ、全国の遺品が紹介され、新たな学問分野の基礎をさらに固めた。昭和12年より14年末まで、重要美術品等認定の関連調査につき、文部省嘱託となる。昭和15年4月、京都大学文学部史学科考古学選科に入学、18年3月卒業、この間梅原末治博士に師事した。昭和18年10月、近畿日本鉄道の嘱託に就任、大和中心の古美術調査研究を行った。昭和20年5月京都市文化課嘱託、昭和29年、財団法人京都史蹟会理事となる。昭和33年平安京の研究により文学博士の称号を受ける。昭和34年大阪工業大学教授に就任。昭和36年2月より41年3月まで文部省文化財専門審議会専門委員(臨時)を委嘱される。昭和44年大手前女子大学教授に就任。48年11月多年に亘る石造美術の研究により紫綬褒章を受章。広範な実地調査に基づく研究の成果は多数の論文として「史迹と美術」誌を中心に発表され、単行図書も多い。主要著書は下記の如くである。古美術・史蹟京都行脚 昭和3. 9 スズカケ出版部京都美術大観の内編 昭和8. 4 スズカケ出版部古建築入門講話 昭和9. 6 スズカケ出版部石造美術概説 昭和10. 3 スズカケ出版部石造美術 昭和14. 2 スズカケ出版部京都古銘聚記(共著) 昭和16. 3 スズカケ出版部燈籠・手水鉢 昭和17. 8 河原書店大和の石造美術 昭和17. 10 天理時報社日本の石仏 昭和18. 6 晃文社梵字講話 昭和19. 2 一條書房石造美術と京都(京都叢書) 昭和21. 5 高桐書院京都古蹟行脚 昭和22. 1 臼井書房古建築鑑賞 昭和22. 8 河原書店京都石造美術の研究 昭和23. 6 河原書店「大和路新書」室生・当麻・南山城・東大寺 昭和27年-29年 綜芸舎史蹟行脚・京都 昭和30. 7 京都出版社日本石材工芸史 昭和32. 1 綜芸舎京都古寺巡礼 昭和39. 4 社会思想社石の奈良 昭和41. 12 東京中日新聞出版局石造美術入門 昭和42. 5 社会思想社歴史と文化・近江 昭和43. 4 社会思想社京都の石造美術 昭和47. 6 木耳社燈籠 昭和48. 2 集英社石造美術の旅 昭和48.10 朝日新聞社石仏の大和路 昭和49. 6 朝日新聞社日本石造美術辞典 昭和53. 8 東京堂出版「近畿日本ブックス」伊賀 昭和54. 2 綜芸舎
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没年月日:1978/12/22 洋画家、春陽会会員横堀角次郎は、12月22日肺炎のため東京文京区の東京医科歯科大学付属病院で死去した。享年81。号は木黄。明治30年2月17日群馬県勢多郡に生まれ、前橋中学から東京芝の正則中学校に転校し大正3年卒業した。卒業の年頃から油絵を描き始め、同級の椿貞雄と岸田劉生を訪ね、翌年の巽画会第15会展に出品した「自画像」で三等賞銅牌を受賞、また劉生の草土社創立に木村荘八、椿らとともに参加した。銅6年、劉生に従って鵠沼に転居したが、同12年の関東大震災により一時帰京後東京に戻った。この間、同9年に小石川の野島邸で最初の個展を開催。同12年春陽会第1回展に「鵠沼風景」「静物」を出品し春陽会賞を受賞、翌年の第2回展にも同賞を受賞して次年より無鑑査となり、昭和5年春陽会会員となった。また、大正13年には三岸好太郎、鳥海青児等と麓人社を結成、翌年は東大安田講堂の壁画制作に小杉未醒の助手として従事した。昭和18年半年間渡満し、熱河省、ハルピンなどで絵画指導並びに写生を行った。戦後は同30年欧米各地を、同47年アメリカ・メキシコを旅行、この間美術団体連合展(同22年、毎日新聞社主催)に出品。同27年に水墨画展(上野、松坂屋)を開催、同43年には中川紀元、宮田重雄、水谷清等と墨彩会を結成し同49年まで毎年ギャルリ・アルカンシェル(新宿)で水墨画展を開催したほか、同35年以降隔年で銀座資生堂画廊で個展を開催した。主要作品には、郷里の赤城山を描いた一連の作品(「早春の赤城」昭和23年等)の他、「川べり」(大正12年)「東大三四郎池」(昭和35年頃)などがある。
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没年月日:1978/12/19 洋画家、春陽会々員上野春香は、12月19日心不全のため東京世田谷区の自宅のアトリエで死去した。享年82。明治29年2月3日札幌市で生まれ、昭和3年から2ヶ年洋画研究のため渡仏し同7年から春陽会に出品、同15年同会々員となった。戦前戦後を通じて6回ヒマラヤを訪ねその風景を描いた。随筆集に『紋白蝶』(同52年)がある。春陽会主要出品作品昭和7年 第10回展 巴里青風車町風景昭和11年 第14回展 東山早春昭和14年 第17回展 ヒマラヤ昭和17年 第20回展 瑠璃塔(北京)昭和26年 第28回展 黄色い河昭和34年 第36回展 工場と鉄屑昭和43年 第45回展 カンチェンヂュンガ昭和46年 第48回展 アンナプルナヒマール昭和51年 第53回展 雨後(ポカラにて)
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没年月日:1978/11/28 古代裂の研究復原者として知られる龍村平蔵は、11月28日急性心不全のため、京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年73。本名謙。明治38年4月28日大阪市に生まれ、京都第三高等学校を卒え(文科乙類)、昭和4年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。この年4月より翌年8月まで、欧州各国にゴブラン織など研究のため遊学し、同9年龍村織物美術研究所を創設した。翌10年国宝調査委員会委員嘱託となり、昭和12年には東京帝室博物館の裂類(大宝相華唐草文錦、鴛鴦唐草文飾鹿文錦等)の復元、研究をはかった。昭和23年国宝調査委員となり、同25年には文化財専門審議会専門委員をつとめ、また京都市立美術大学、京都工芸繊維大学の講師となり、後進の育成にもあたった。昭和41年には宮内庁より正倉院宝物の古裂の調査を依嘱された。この年二代目平蔵を襲名し、43年には新急転長和殿「春秋の間壁面(清光)(寂光)」のタペストリーを制作し、この年さらに興善寺所蔵の(光樹対鹿錦)の復元研究及複製を完了し、複製の過程を「幻の錦」と題し、NHKTVにより放映された。46年には古代錦の研究で貞明皇后記念蚕糸学術賞を受賞した。昭和51年株式会社龍村平蔵織物美術研究所を創設し、雅号を光翔として、新作品には旧名謙に由来する象形文字「受益」の落款を織り込むことにした。
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没年月日:1978/11/17 日本画家真道黎明は、11月17日肝硬変のため京都市北区の富田病院で死去した。享年81。本名重彦。明治30年5月21日熊本県宇土市に生れ、同44年上京して日本学園に入学した。大正4年より日本画を学び、日本美術院に入った。同6年第4回院展に「桐の花」が初入選し、大正10年日本美術院同人に推挙された。横山大観、安田靫彦、小林古径などに教えを受け、堅山南風に師事した。終始院展を発表の場とし、昭和50年の院展出品作「壺」では内閣総理大臣賞を受賞した。代表作に「春日山」(第6回)「埃及幻想」(第40回)「藐姑射の神入」などがある。なお大正9年中国、朝鮮に東洋古美術研究のための旅行をしており、昭和4年から5年にかけ欧米を巡遊し、各地に個展を開いている。昭和47年にはインド・ネパールにも遊んでいる。
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没年月日:1978/11/17 洋画家、二紀会会員青木一夫は、11月17日肺気腫のため神戸市の自宅で死去した。享年71。明治40年9月23日神戸市に生まれ、昭和3年兵庫県御影師範学校本科第一部を卒業。同5年二科展に初入選、戦前まで同展に出品を続けた。戦後の同22年二紀会に招待出品、翌23年同人に推挙され同年の第二回展に出品した「お盆の日の肖像」「女の卓」で同人賞を受賞、以後没年まで同展に出品した。同51年二紀会会員となる。同41年と45年の二回渡欧した。二紀展への出品作に「作品」(30回)、「パリのカフェ」(32回)など。
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没年月日:1978/11/13 彫塑家、日展会員阿部正基は、11月13日肺ガンのため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年66。大正元年10月1日宮城県仙台市に生まれ、旧制中学卒業後商工省工芸指導所に学んだ。また、斎藤素巌に師事し構造社研究所に学び構造社展に出品した。昭和18年第6回文展に「立像」が初入選、戦後は日展に出品を続け、同29年第10回日展に「雲」を出品し特選を受け、翌年の第11回展に「木立」を無鑑査出品。同31年の第12回展で「空港」が特選を受賞した。同35年日展会員となり、翌年日展審査員をつとめた。改組日展への出品作に「黙」(第1回)、「若い女」、(第2回)、「私」(第5回)、「行雲」(第6回)、「坐る」(第7回)、「憩う」(第8回)、「私の作」(第9回)などがある。
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没年月日:1978/11/08 彫刻家、日展参与の佐々木大樹は、11月8日心臓衰弱のため東京調布市の山田病院で死去した。享年88。本名長次郎。明治22年12月25日富山県下新川郡に生まれ、大正年東京美術学校彫刻科本科木彫部を卒業、引き続き研究科に進み翌年終了した。大正9年第2回帝展に出品した「誕生の頃」が初入選で特選を受賞、同11年第4回帝展出品作「供養」が特選、同年開催された平和記念東京博覧会に出品した「話」が銀賞をそれぞれ受賞した。昭和3年、第9回帝展に無鑑査出品した「紫津久」で帝国美術院賞を受賞。また、同12年には「塙保巳一の像」をヘレン・ケラー女史に贈った。同13年新文展第2回展を最初に、以後文展、日展の審査員を11回つとめた。この間、同5年に結成された日本木彫会に所属し、同展にも出品し、また同9年帝国美術学校教授(翌年多摩帝国美術学校教授)となった。戦後日展で、同27年参与、同33年評議員、同48年参与となった。また、同26年から同41年まで、多摩美術大学教授をつとめ、同32年には同大学理事となった。出品目録帝展大正9年 第2回 「誕生の頃」大正10年 第3回 「融合」大正11年 第4回 「供養」大正13年 第5回 「私の内在」大正14年 第6回 「中如」昭和2年 第9回 「浄坐」昭和3年 第9回 「紫津久」昭和4年 第10回 「楠公の像」昭和5年 第11回 「相韻」昭和6年 第12回 「天津風」昭和7年 第13回 「虎」昭和8年 第14回 「讃童心」昭和9年 第15回 「姫の像」文展昭和13年 第2回 「蒼生」昭和14年 第3回 「常坐」昭和17年 第5回 「華」昭和18年 第6回 「雲上一角」昭和19年 文部省戦時特別美術展覧会 「大伴家持★」日展昭和21年 第2回 「観音」昭和22年 第3回 「朝霞」昭和24年 第5回 「N姫の讃」昭和25年 第6回 「碧無限」昭和26年 第7回 「獅子」昭和27年 第8回 「無方」昭和28年 第9回 「菩薩頭」昭和29年 第10回 「聖乗」昭和30年 第11回 「観音」昭和31年 第12回 「出美」昭和32年 第13回 「森の曲」昭和33年 第1回 「心象」昭和34年 第2回 「誕生仏」昭和35年 第3回 「大地に」昭和36年 第4回 「獅子」昭和37年 第5回 「如来」昭和38年 第6回 「天飛」昭和39年 第7回 「想見」昭和41年 第9回 「菩薩考」昭和42年 第10回 「虎」昭和43年 第11回 「心象」昭和44年 改組1回 「定念」昭和45年 改組2回 「菩薩頭」昭和46年 改組3回 「暁の讃」昭和47年 改組4回 「みのり」昭和48年 改組5回 「如来」昭和49年 改組6回 「O氏の像」昭和50年 改組7回 「菩薩像」昭和51年 改組8回 「蝶々」昭和52年 改組9回 「菩薩試作」
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没年月日:1978/11/08 洋画家、新世紀美術協会会員江原全秋は、11月8日胃ガンのため鎌倉市の清川病院で死去した。享年85。本名全秀。明治26年10月14日東京本所に生まれ、東京経済大学を卒業。昭和30年に結成された新世紀美術協会に創立会員として参加、以後同展へ出品を続け、同48年の第18回展に出品した「フルーツ」で和田賞、同50年の第20回出品の「支那服の女」で大久保賞を夫々受賞した。
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没年月日:1978/10/30 洋画家土橋醇は、10月30日急性心不全のため福島県郡山市の太田総合病院付属さが乃病院で死去した。享年69。明治43年8月17日東京市小石川区に生まれ、昭和13年東京美術学校油画科卒業後渡仏、アカデミー・ランソンに学んだ。同15年帰国しベトナム、カンボジア、ラオスへ外務省から派遣さる。その後光風会展にも出品し同21年会員となり、27年光風特賞を受賞したが、同28年再度渡仏し48年に帰国するまでの20年間パリで制作を続け、主にサロン・ドートンヌ、サロン・ド・メ展に作品を発表した。また、第2回東京国際版画ビエンナーレ展(35年)、第6回日本国際美術展(36年)にそれぞれ招待出品したほか、パリ国際現代美術展(38年)、カーネギー国際展(39年)などにも出品、この間毎年パリ、ニューヨークなどで個展を開催した。同48年帰国後は東京で制作した。作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館他いくつかの欧米の美術館にも収蔵されている。主要作品には「流れる星(白)」「流れる星(黒)」(40年)「白光」「自影」(48年)「希望の星」(壁画53年)など。著書に『南方の古代文化と芸術』、随筆集に『南へ還る』がある。
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没年月日:1978/10/25 もと東京芸術大学教授、独立美術協会会員の島村三七雄は、10月25日午前0時25分、食道ガンのため東京板橋区日大附属板橋病院で死去した。享年74。島村三七雄は明治37年(1904)大阪市に生まれ、昭和4年東京美術学校西洋画科を卒業、同年フランスへ留学、昭和11年まで滞在した。その間、フレスコ画法を修得、またサロン・ドーンヌ、サロン・デ・ザルチスト・フランセなどに出品した。帰国後は昭和15年第10回独立展に出品、独立美術協会会友となり、同20年同会会員となった。昭和32年東京芸術大学美術学部講師として壁画フラスコ画法の指導を担当、同41年助教授、同42年教授に任じられ、同46年停年退官した。昭和42年には前年の作品「巽橋」で日本芸術院賞を受賞、没後、勲四等旭日章叙勲した。 略年譜明治37年(1904) 7月9日、大阪市北区に父玉造、母ハルの長男として生まれる。生家は2代続いた漢方医であった。大正13年 3月、大阪府立天王寺中学校を卒業、4月、東京美術学校西洋画科に入学。昭和3年 10月、帝展第9回に「読書」入選。昭和4年 3月、東京美術学校西洋画科を卒業、在学中は藤島武二教室に学んだ。4月、小西フサノ(松江市出身、のち服飾デザイナー)と結婚。5月、渡仏。9月、サロン・ドートンヌに「午後」が入選。昭和5年 パリ国立美術学校ルシアン・シモン教室に入学。昭和7年 3月、パリ国立美術学校を中退し、アカデミー・ランソンでフレスコ画法を学ぶ。学資を得るためにO.D.Vギヨンネの壁画制作助手となる。昭和8年 4月、サロン・デ・ザルチスト・フランセに「幼児の思い出」入選。昭和9年 サロン・デ・ザルチスト・フランセに「ユゲット・トノン嬢肖像」入選、マンション・オノラブル賞受賞。昭和10年 サロン・デ・ザルチスト・フランセに「日本大使館付武官澄田中佐像」入選。9月、帰国。在仏時代にルーブル博物館でマネ「オランピア」、モーリス・ドニ「水浴」、セザンヌ「カルタ遊び」、ドガ「競馬場にて」、ルノアール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、チチアン「聖家族」を模写。昭和12年 3月、日本橋三越で滞欧作品展開催、67点を出品、3点に撤去命令。昭和14年 第3回海洋美術展に「5月の東京湾」出品。昭和15年 5月、第4回日本壁画会展にフレスコ画「英霊に捧ぐ」「工業の日本」出品。会員となる。第10回独立美術展に「村婢」「支那楽」「駅」出品、独立賞をうけ、会友となる。紀元2600年奉祝展「万寿山昆明湖」出品。昭和16年 第18回白日会展に「東安市場」(大阪市立美術館蔵)出品。第11回独立展「安住」「粥」第1回大日本航空美術展「渡洋爆撃」第5回日本壁会展「東亜」「秋」第5回海洋美術展「渡洋」(招待作品)昭和17年 第12回独立展「野」「小婢」第19回白日会展「南方の女達」第6回日本壁会展「南方を偲ぶ(南方果実9)昭和18年 第13回独立展「熱戦」「敢斗」「猛攻」第3回大日本航空美術展「整備」(逓信大臣賞受賞)陸軍美術展「砲撃」海軍美術展「司令塔の近藤信竹大将」第10回白日会展「母子」昭和19年 第14回独立展「爐」「厨房」「クラリネットを吹く男」「裁縫師」第21回白日会展「浪高き夕」昭和20年 10月、独立美術協会会員となる。昭和22年 第15回独立展「田園賦」「サンカトリーヌの祭日」昭和23年 第16回独立展「カナペの裸婦」「足を拭う女」「裸婦」「銀座スケッチ」昭和24年 第17回独立展「裸婦A」「裸婦B」「裸婦C」昭和25年 第18回独立展「ねむる裸婦」「鏡の前」昭和26年 第19回独立展「裸婦」「横たわる裸婦」「海辺」昭和27年 第20回独立展「裸女」「青いクッション」昭和28年 第21回独立展「港の夏」「真鶴港」昭和29年 第22回独立展「伊豆の漁師」昭和30年 第23回独立展「愁」「真鶴港」「娘と魚」昭和31年 第10回新樹会展「室内」昭和32年 第25回独立展「樹陰の裸婦」7月、第11回新樹会展に「春」出品、会員となる。9月、東京芸術大学美術学部講師に任ぜられる。25周年記念独立展「秋」「小鳥屋と子供」昭和33年 第26回独立展「裸婦」「自転車」第12回新樹会展「秋」「加茂川」昭和34年 独立春季展「舞妓」第27回独立展「八坂」「鵜飼」「祇園」第13回新樹会展「三月堂」「大池の葦」昭和35年 第28回独立展「高瀬川」「囃子」第14回新樹会展「長良川」「菖蒲」昭和36年 第29回独立展「鳩と少年」「春秋」第15回新樹会展「白毫寺村」「舞妓」「桜」昭和37年 第30回独立展「梅」「舞妓」第16回新樹会展「梅」昭和38年 第31回独立展「都をどり仕度部屋」「菖蒲」第17回新樹会展「舞妓」「先笄の舞妓」「梅」昭和39年 第32回独立展「舞妓集まる」(G賞受賞)「舞妓化粧」第18回新樹会展「舞妓の化粧」第1回欅会展「都をどり楽屋」昭和40年 4月、東京都美術館運営審議会員を委嘱される。第33回独立展「舞妓憩う」「天満天神大太鼓」第19回新樹会展「菖蒲」「憩う舞妓」第2回欅会展「あやめ」「菖蒲」昭和41年 第34回独立展「巽橋」第20回新樹会展「菖蒲」「三月堂」「鵜飼」「舞妓」第3回欅会展「鼓」「向日葵」6月、東京芸術大学美術学部助教授。昭和42年 4月、「巽橋」により日本芸術院賞をうける。第35回独立展「廊下」「仮縫」第21回新樹会展「舞妓化粧」「菖蒲」第4回欅会展「菖蒲」「紅」昭和43年 第36回独立展「部屋の舞妓」「舞妓」第22回新樹会展「舞妓化粧」「加留多遊び」第5回欅会展「アネモネ」(1)「アネモネ」(2)昭和44年 4月、東京芸術大学美術学部教授に任ぜられる。第37回独立展「舞妓の生活(1)」「同(2)」第23回新樹会展「菖蒲」「舞妓(舞妓容浴中浴外)」第6回欅会展「菖蒲」昭和45年 第24回新樹会展「菖蒲(1)」「同(2)」「憂う舞妓」第7回欅会展「舞妓化粧」昭和46年 3月、東京芸術大学を停年退官する。第39回独立展「祇園まち」(都美術館蔵)第25回新樹会展「舞妓」「菖蒲」「鼓(都をどり囃子)」昭和47年 第40回独立展「花見町」第9回欅会展「舞妓」「鼓」昭和48年 12月文化庁高松塚古墳保存対策調査会委員を委嘱される。第41回独立展「都をどり(1)」「同(2)」第27回新樹会展「鼓」「祇園」「囃子」「花菖蒲」第10回欅会展「花菖蒲」「舞妓二人」「鼓」昭和49年 第42回独立展「祇園」第28回新樹会展「妓打つ舞妓」「菖蒲」第11回欅会展「舞鼓鏡の前」「菖蒲」昭和50年 第43回独立展「都をどり楽屋」「のれんの前」第12回欅会展「節分の舞妓」「鏡の前の舞妓」昭和51年 第44回独立展「舞妓二人」第30回新樹会展「舞妓」(化粧する舞妓)昭和52年第45回独立展「祇園まち5時」第14回欅会展「都をどり」「舞妓化粧」昭和53年10月25日午前0時25分、食道ガンのため東京板橋区の日大附属板橋病院で死去。
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没年月日:1978/10/22 漆工家、女子美術大学教授福岡縫太郎は、10月22日食道ガン及び肺しゅようのため東京都中野区の武蔵野遼園病院で死去した。享年78。号萍哉。明治33年9月1日東京日本橋に生まれ、昭和3年東京美術学校漆工科選科を卒業、直ちに同校助手となる。同5年、日本漆工会から派遣されベルギー、フランス、ドイツへ留学、同年助手を辞した。翌年帰国し、同7年大阪府商工技手となり大阪府工業奨励館に同15年まで勤務し、同年から同18年まで商工省工芸指導技師として勤めた。同18年、社団法人大日本工芸会(同年社団法人日本美術及工芸統制協会となる)業務部第一課長(査定課長)に就任、同21年依願退職した。戦後は、同27年通商産業技官となり工業技術院産業工芸試験所に勤務、同34年にはインドへ出張した。同35年退職後、(株)高島屋嘱託(46年まで)となり、翌36年インドへ、38年にはヨーロッパ、アラブ連合へ出張した。また、同36年女子美術短期大学、同39年東京芸術大学の非常勤講師をつとめ、同41年にはJETROからアメリカへ出張しメキシコ工芸の調査にあたり、同年女子美術大学教授となった。この間、日展、ニュークラフト展、日本伝統工芸展などに作品を発表するとともに、蒔絵工芸の指導にあたり、また文化庁文化財保護委員会専門委員、日本漆工協会理事などをつとめた。主要作品に彫漆額皿「海」(同17年)、漆器パネル「幻想」(同26年)、花クルス蒔絵盛器(同51年)などがある。
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没年月日:1978/10/16 日本画家館岡栗山は、10月16日心不全のため、秋田県南秋田郡五城目町の湖東総合病院で死去した。享年81。本名豊治。五城目町出身で、秋田師範を中退後京都に出て近藤浩一路に師事した。昭和8年院展に初入選し、同11年には「雨後」で横山大観賞を受賞した。同14年には日本美術院々友に推挙され、43年には日本美術院特待になっている。37年にはまた秋田県文化功労賞を授与されている。
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没年月日:1978/10/12 日本画家中庭煖華は、10月12日心不全のため、大阪市住吉の阪和病院で死去した。享年77。本名幸一。明治34年2月15日兵庫県養父郡に生れ、大正4年(1915)画家を志して横浜に出た。大正8年川端画学校に入学し、山村耕花に学んだ。同12年の関東大震災により大和当麻寺中坊に寄留し、翌年京都において小林柯白に師事した。第12回院展に「牡丹」が初入選し、寂明と号した。ついで下村観山、安田靫彦に師事し、靫彦師より煖華号をもらった。昭和17年法隆寺金堂の解体修理に伴う壁画模写に参加、荒井寛方班に加わり10号壁画(薬師浄土図)の模写にたずさわった。昭和20年戦災により横浜の居宅が焼失したため、法隆寺に転居し専ら仏画制作にあたった。昭和28年模写の仕事を修了し、山内より眞如庵に転居し、同35年には当麻曼茶羅厨子模様模写に従事した。翌年第46回院展「花と観音」により日本美術院特待推挙となり。第63回院展「論議台」が絶筆となった。またこの年文化庁創設10周年記念にあたり、表彰をうけた。代表作「花と実」(昭16、28回院展)、「浄安」(昭40、第50回院展)など
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没年月日:1978/09/29 大東文化大学名誉教授、財団法人出光美術館常務理事杉村勇造は、9月29日午後8時15分、びまん性汎細気管支炎のため、東京都港区の虎の門病院で死去した。享年77。号は丁父。明治33年11月1日、東京市深川区に生まれ、大正8年財団法人無窮会漢学研究生となり、国学、漢学の指導を受け、同13年同会会長平沼騏一郎の斡旋により3年間北京に留学し、金石学を馬衡に書誌学を徐鴻宝に学んだ。昭和2年外務省文化事業部による北京東方文化事業総委員会の図書籌備員となり、人文科学研究所図書館の設立に従事、同7年満洲国立図書館、国立奉天博物館の開設に携わり、『纂組英華』を刊行した。同8年満日文化協会常務主事、同16年同協会常務理事となった。その間熱河に赴いて『満洲文大蔵経』などの稀覯書を発見、その整理保存に努め、輯安の高句麗墓陵、丸都城址、興安嶺の遼代帝王陵、遼陽の漢墓等の調査に参加し、『旅順博物館図録』の編集刊行に当たり、建国大学講師を委嘱された。昭和19年社団法人満洲芸文協会理事(美術局長兼翻訳処長)となり、同21年9月東京に引揚げた。同22年8月国立博物館嘱託、同24年6月文部技官に任命、同26年2月考古課土俗室長、同33年2月資料課図書室長を歴任、同37年東京国立博物館を定年退職した。昭和41年9月、出光美術館顧問、同43年大東文化大学教授となり、中国・日本文化史、美術史、中国語を講じ、同47年同学図書館長、同年出光美術館理事、のち常務理事となり、同50年5月大東文化大学名誉教授の称号を授与された。その間東京大学文学部、熊本大学法文学部及び文学部、日中学院の講師を委嘱され、昭和32年、41年、48年の3回訪中した。中国在住は22年に亙り、中国人学者に知己頗る多く、中国に調査研究に往来した日本人学者とも親交あり、流暢な中国語と相俟って、日中の文化交流と友好に生涯尽瘁した。美術関係の主要著作としては、『乾隆皇帝』(昭和36年、二玄社)『古代中国の美』(仏像、土偶、銅器・玉器の3冊。同37、38年、美術出版社)、『徐文長・石濤・趙之謙』(同39年、求竜堂)、『文房四宝』(全4冊。同47年、淡交社)、『清の官窯』(同48年、平凡社)、『遼の陶磁』(同49年、平凡社)がある。歿後昭和55年に刊行された『八十路―杉村勇造遺稿集』は、戦後の訪中日記、中国在住時代の回想、年譜、著作目録等を収めている。
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没年月日:1978/09/25 日本画家小林巣居人は、9月25日肝臓ガンのため茨城県新治郡の筑波大学付属病院で死去した。享年81。本名善。明治30年3月29日茨城県稲敷郡に生まれ、農業補修学校に学んだ。その後画家を志し、小川芋銭に学んだ。大正7年春、芋銭の紹介により平福百穂に師事した。昭和3年日本美術院試作展に「遅稲田」が初入選し、同年秋の日本美術院展に「竹林」が初入選した。昭和6年院友となったが、在籍8年にして昭和12年9月同志と新興日本美術院を結成し、その創立会員となった。同展は第二次大戦により中絶するが、昭和25年社団法人新興美術院を再興し、翌年6月第1回再興新興美術院展を開催した。以後同展並びに個展をもって制作活動をつづけた。代表作に「遊魚」(昭9)「岩」(昭15)「土機光象画巻」(昭18)「山なし画巻」(昭16)「よだかの星」(二曲一双)(昭12)「新色樹葉」(二曲一双)(昭13)等があり、新しい日本画創造のため力を傾け、近代日本画のアウトサイダーとして活躍した。なお昭和23年には武蔵野美術大学(旧帝国美術学校)教授となり、後進の育成にもつとめた。略年譜明治30年(1897) 3月29日、茨城県稲敷郡、農業小林菊次郎、なをの第五子三男として生まれた。本名善。明治36年(1903) 長戸尋常小学校。(現竜ヶ崎市立長門小学校)に入学。明治44年(1911) 長戸農業補修学校修了。大正6年(1917) 画家を志し、牛久城中に住む小川芋銭を訪ね、持参のスケッチを見てもらう。芋銭は、この年の春に日本美術院の同人となっていたが、弟子はとらず、上京を勧める。大正7年(1918) 春、上京し、芋銭の紹介で、芋銭と同じ珊瑚会の同人平福百穂に師事する。のち書生として住込む。大正8年(1919) 8月、世田谷三宿に、百穂の画塾白田舎が新築され、そこに移る。この頃、百穂より巣居の号を、芋銭より枝上人の号をもらう。大正10年(1921) 2回中央美術展(竹の台陳列館)に「初秋の朝」(中央美術賞)「唐黍」初入選。大正11年(1922) 平和記念東京博覧会「仔兎」。3回中央美術展(三越)「白鷺」。大正12年(1923) 1回茨城美術展「兎」大正13年(1924) この年、白田舎を出て、世田谷区玉川瀬田の農家の離れを借り、自炊生活に入る。大正14年(1925) 3月10日、同門の白田舎熟成満村観音子と結婚、府下荏原郡駒沢に居を構える。2回茨城美術展「樫の新芽」(県賞)。大正15年(1926) 長男玄一生まれる。昭和2年(1927) 3回茨城美術展「粟」(県賞)。次男登生まれる。昭和3年(1928) 13回日本美術院試作展「遅稲田」初入選。15回日本美術院展「竹林」初入選。11月24日、長男玄一死去。昭和4年(1929) 4回茨城美術展に「もろこし」(県賞)。10月、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)開校し、日本画科長の百穂を援け、助手として勤める。学校勤務の関係から、住居を豊多摩郡に移す。昭和5年(1930) 2回聖徳太子奉賛美術展「森の朝」。8月、長女なつみ出生。17回院展「唐黍」「谿間早春」。昭和6年(1931) 5回茨城美術展「宿鴉」(県賞、無鑑査推薦)。18回院展「渚」院友推薦となる。昭和7年(1932) 三男恒吉生まれる。19回院展「麥の丘」。昭和8年(1933) 6回美術展「游魚」(無鑑査出品)。20回院展「入日」10月30日、師平福百穂没す。昭和9年(1934) 18回院試作展「雪の林」。21回院展「游魚図」。昭和10年(1935) 茨城会館会館記念茨城美術展「牛」(無鑑査出品)。この年、春から夏にかけ、千葉県銚子の海鹿島にある、篠目家の別荘潮光庵に住む小川芋銭と起居を共にし、芋銭の制作の手伝いをする。昭和11年(1936) 7月、母なを死去。23回院展「こぶし」。昭和12年(1937) 院展院友展(松坂屋)「鴨」。9月17日、茨木衫風、保尊良朔、吉田澄舟、田中案山子、内田青薫、小林三季、鬼原素俊、芝垣興生、森山春笑、鈴木三朝、菊池公明、そして巣居の日本美術院院友12名は、同院を脱退し、『自由拘束なき新興清新なる芸術を揚達する』目的を以て、新興美術院を結成する。昭和13年(1938) 1回新興美術院展「苗木の春」「朝霧」「夕霞」。12月17日、小川芋銭没。この年、秋、府下北多摩郡武蔵野町吉祥寺に家とアトリエを新築する。昭和14年(1939) 2回新興展「青嵐」、新興同人小品展「柿」「秋菜」。昭和15年(1940) 3回新興展「岩」、新興院同人小品展「川鳥」。昭和16年(1941) 2月、新興美術院の井ノ頭研究所成り、研究部員となる。4回新興展「やまなし」(宮沢賢治の童話に取材)、岩三部作「暖(春)」「霧(夏)」「雪(冬)」。6月、新興大阪展終了後、芋銭の理解者であり、姻戚にあたる兵庫県丹波の西山邸を訪ね、暫時滞在し、芋銭作品を研究する。昭和17年(1942) 5回新興展「潮光国土(其一、其二、其三、其四)」「火(高熱炎)」「水(溪水底)」昭和18年(1943) 6回新興展に「土機光象巻(上下)」茨木衫風、田山案山子とともに新興美術院を脱退宣言する。しかし、会の運営そのものも、戦時下の混乱のもとで、翌7回展をもって中断する。昭和19年(1944) 9月、銚子海鹿島潮光庵で独居生活に入る。昭和21年(1946) 栃木県那須郡馬頭に住む金子正一郎方で終戦を迎える。この年夏、茨城県新治郡高浜町に移住する。昭和23年(1948) 武蔵野美術大学(元帝国美術学校)の教授に就任する。昭和24年(1949) 3月~10月、再度、海鹿島潮光庵にて独居生活をする。 昭和25年(1950) 10月、茨木、田中、鬼原、芝垣、保尊と巣居人(戦後、巣居から改める。)の旧新興美術院同人六人(三季は日本美術院に復帰し、森山、内田、吉田は既に他界)に、横田仙草、岡田魚降森が加わり、新興美術院を再興する。昭和26年(1951) 1回再興新興美術院「よだかの星(宮沢賢治文より)」、秋季展「岩上雲」。この年、武蔵野美術大学教授を依願退職する。昭和27年(1952) 2回再興新興展「新色樹葉(一)」「新色樹葉(二)」「新色樹葉(三)」、再興新興秋季小品展「鬼蓮」。7回茨城県展の審査員となる。以後、審査委員、運営委員を歴任、出品を続ける。昭和28年81953) 3回再興新興展「海」。秋季新興展「残雪昭和29年(1954) 4回再興新興展「水辺(画巻)」。秋季新興展「小径」。昭和30年(1955) 5回再興新興展「夜の樹」「落葉」。秋季新興展「初夏」「流陰」。12月、新興美術院が社団法人となり、常任理事に就任する。昭和31年(1956) 6回再興新興展「海辺浅春」「海辺晩春」。12月、世田谷区玉川瀬田町434に移る。昭和32年(1957) 7回再興新興展「溪氷」。昭和33年(1958) 1月、1回小林巣居人日本画展(日本橋三越、以下三越個展と略す)「水郷の雪」「雪解ける」「早春の山」ほか。8回新興展「海鵜」。昭和34年(1959) 10回秀作美術展「海鵜」(招待出品)。2回三越個展「浅春」「雪後」「樫若葉」ほか。美術家会館建設展(日本橋高島屋)「游魚」。9回新興展「径」秋季新興展「柳」昭和35年(1960) 3回三越個展「水郷十題」。水郷高浜を描いた「春の雨」「杜」「二本の木」「朝」「夕」ほか。10回新興展「水辺夏」「水辺冬」。15回記念茨木美術展覧会「秋の水」(審査員出品)。昭和36年(1961) 11回新興展「寒さえる」。4回三越個展「白鷺」「三日月」「水辺」ほか。10回五都展「鵜」。昭和37年(1962) 12回新興展「湖」。5回三越個展、水郷の四季の推移を描いた12作「浅春」「冬の水」「水路」「雨止む」「水葵」ほか。昭和38年(1963) 7回二本国際美術展「雲」13回新興展「水郷六月」6回三越個展水郷の水をテーマとした、「朝」「夕」「明るい夜」ほか。昭和39年(1964) 6回現代日本美術展「三月の雲」14回新興展に「水辺の木」7回三越個展に「秋立つ」「冬」「月冱」ほか。昭和40年(1965) 15回新興展「冬の干拓」8回三越個展「静かな日」「風の日」「しぐれる日」ほか。11月9日~18日、20回茨城県美術展に審査員として「晩夏」を出品、20回を記念し、功労者の一人として感謝状をうける。昭和41年(1966) 16回新興展「風なぐ夕」秋季新興展(銀座ヤマト画廊)「冬の日」1回茨城県芸術祭美術展覧会「冬田」昭和42年(1967) 17回新興展「水辺夕」「水辺暁」(文部省買上)9回三越個展「水辺画巻」「うす日」ほか出品。秋季新興展(銀座画廊)「みづうみ」昭和43年(1968) 18回新興展「水辺の若草」秋季新興展(二本美術協会)「ゆき」昭和44年(1969) 1回茨城新興展「水辺画巻」19回新興展「水辺の雨」秋季新興展「潮だまり」10回三越個展「水辺」「雲かげ」「雪後」ほか出品。昭和45年(1970) 20回新興展「春泥(1)」「春泥(2)」10月25日~31日、秋季新興展に「秋出水」を出品する。昭和46年(1971) 21回新興展「氷とける」「雲流れる」9月、茨城県の美術新興に尽した功績により、第8回いばらぎ賞(茨城新聞社)受賞。10月11日~17日、秋季新興展に「明るい夜」を出品する。昭和47年(1972) 22回新興展「雨ふる」(東京都美術館買上)12月1日~7日、秋季新興展(上野の森美術館)に「風にとぶカラス」を出品する。昭和48年(1973) 23回新興展「きりはれる」秋季新興展「みぞれ」昭和49年(1974) 24回新興展「樫若葉」秋季新興展「アシと雲」昭和50年(1975) 25回新興展「明るい夜と潮だまり」秋季新興展「なぐ」12月、石岡市高浜町795に転居。昭和51年(1976) 26回新興展「水辺揺」秋季新興展「春雪」昭和53年(1978) 28回新興展「水辺晨月」この作品は病のため完成にいたらず、空の部分は三男恒吉(新興美術院常任理事)が仕上げて出品。9月25日、肝臓ガンのため、入院加療中の筑波大学病院にて死去、同日付で、芸術文化に対する功績により勲四等瑞宝章を受ける。昭和54年(1979) 29回新興展「みぞれ」(昭和48年秋季新興展出品)が遺作出品される。昭和55年(1980) 9月、小林巣居人遺作展が茨城県立美術博物館にて開催され、作品64点、資料として、遺品、スケッチブック等が展観される。(本年譜は茨城県立博物館開催「小林巣居人遺作展」図録収載の年譜を再録させて頂いた。)
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没年月日:1978/09/17 洋画家、二科会員伊藤研之は、9月17日肝硬変のため福岡市の齋藤外科病院で死去した。享年71。明治40年4月6日福岡市に生まれ、昭和8年早稲田大学文学部(仏文科)を卒業。在学中の昭和5年1930年協会展、ついで翌6年第18回二科展に「風景」が初入選し、洋画家を志し二科展に出品を続けた。同15年第28回二科展出品作「湖」で特待賞を受賞、同年渡支し上海に居住、同21年帰郷以後福岡市に居住した。この間、同16年に二科会々友となる。同22年から再建二科展に出品、23年第33回展に出品した「海辺」「子供の夢」「野」で二科賞を受賞、同27年会員に推挙された。同34年第44回展出品作「甲冑の人」「人」で会員努力賞を受賞。また、福岡県文化会館壁画(39年)、飯塚市文化会館壁画(41年)、福岡県職員会館黒田莊壁画(42年)などの壁画も制作した。製作のかたわら地域文化への貢献も大きく、同42年以来福岡市文科連盟理事長をつとめ、同45年西日本文化賞、同51年福岡市文化賞を受賞した。この間、同31年から46年まで九州大学工学部建築学科の講師、同46年から52年まで精華女子短大教授をつとめた。二科展への出品作には、他に「道に迷った子供」(37回)、「海近い街」(57回)、空地の少舎」(60回)などがある。
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没年月日:1978/09/11 旧東京国立博物館次長の田内靜三は、9月11日胃がんのため、東京新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。明治33年12月31日高知市に生まれ、昭和4年東北帝国大学法文学部を卒業、同年9月文部省専門学務局学芸課に勤務した。その後、昭和11年北海道帝国大学予科教授、同14年中央気象台人事課長、同20年大阪大学事務局長等を歴任し、昭和26年東京國立博物館次長となった。同37年停年退職したがこの間、フランス政府よりレジヨン・ドヌール五等勲章を受賞した。退職の翌年共立女子大学教授となり、昭和40年には財団法人明治村副館長となった。また同43年には社団法人日本工芸会理事長となった。大学では独逸文学を専攻し、街国文学一般に通じていた。詩作をつづけ、晩年には友人片山敏彦と共訳によりフランツ・ヴェルフェル『ベルナデットの歌』を出版した。
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没年月日:1978/09/05 今世紀初頭西本願寺が西域に派遣した大谷探検隊の第三次隊員吉川小一郎は、9月5日老衰のため京都市西京区シミズ外科病院で死去した。享年93。明治18年5月23日京都下京区に生れ、植柳小学校卒業後山本亡羊塾で漢学を学び、34年西本願寺室内部勤務、大正6年同絵表所勤務となり、仏表具に従事、昭和39年絵表所を株式会社とし、その代表取締役となって翌年引退した。この間明治39年大谷光瑞に従って満州で古蹟調査を行い、44年5月には消息を断った第三次大谷探検隊員橘瑞超捜索のため西域に赴いた。10月より4箇月敦煌に滞在して調査を行い、ここで橘と邂逅、橘の帰国後単独でトゥルファンの調査発掘を行った。その後西進してカシュガル、コータンを経てタクラマカン砂漠の横断を敢行、更に天山を越えてイリからウルムチに出、トゥルファン、安西、包頭経由、北京から大正3年7月帰国した。3年余の探検旅行では綿密な日記を残し、多数の古美術、経巻、古文書類を収集して、我国の西域研究の発展に寄与した。この功績により、昭和38年紫綬褒章を受け、41年勲三等瑞宝章を授与された。西域探検に従事した各国探検隊の最後の生存者で、晩年にはその温容を慕って西域愛好者が集り、貴重な体験談の記録ものこされている。
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没年月日:1978/09/04 彫刻家、新制作協会会員武次郎は、9月4日脳卒中のため横浜市旭区の自宅で死去した。享年65。大正2年2月26日山形市に生まれ、昭和13年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業、同年から兵役に召集され同20年解除された。在学中の第11年第11回国画会展に「首、習作」が初入選、翌年の第12回展にも「首、習作」が入選した。戦後の同21年から新制作協会に出品、翌22年11回展の出品作で新作家賞を受賞し会友となり、同27年会員となった。また、同50年の第10回神奈川美術展から招待出品した。翌51年、東京美術学校昭和13年卒業生による東美第13年会第1回彫刻部委員となり出品した。同52年には東京国立美術展覧会場建設を促進させる会委員となる。この間、同46年と51年に渡欧した。主要作品に、「トルソー」(同27年)、「首M」(同42年)、「少女2」(同45年)、「N夫人像」(同49年)、「男」(同49年)など。
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