本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





黒崎彰

没年月日:2019/05/14

読み:くろさきあきら  版画家の黒崎彰は、5月14日、死去した。享年82。職人との協働という浮世絵の伝統を復活させ、様々な手法によって「版」の魅力を追求した黒崎は、現代日本を代表する版画家として「北斎の孫」とも呼ばれた。 1937(昭和12)年1月10日、満州国の大連に生まれる。翌年、母とともに帰国し神戸に住まう。中学生の頃より芦屋市の新制作洋画研究所で伊藤継郎、小磯良平にデッサンや油彩画の指導を受けたのち、京都工芸繊維大学意匠工芸学科に進学。在学中は古書店通いに明け暮れ、浮世絵の魅力に開眼する。62年、京都工芸繊維大学を卒業。65年、初個展開催(ギャラリーカワチ、大阪市)。出品作品はパステルと油彩画であったが、開催直後に友人の詩集の表紙を木版で作ったことをきっかけに、版画家となることを決意する。京都の擦り師達から技法を学び、モノクロームから色を重ね刷りする重層法、色数だけ版をつくる分解法へ進み、色面をダイナミックに対比させる作風に至る。67年、第41回国画会展新人賞受賞。69年、「寓話69」が文化庁買い上げとなる。71年から、摺り師の内山宗平との協働による制作を始める。 70年に第3回クラコウ国際版画ビエンナーレで3席、メダル賞、ワルシャワ国立美術館買上賞を受賞。同年、第7回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。国際展への出品と受賞を重ね、73年のワシントン州立大学での指導以降、各地で講演・技術指導を行う。73~74年、文化庁在外芸術家研修員としてハーバード大学、ハンブルク造形芸術大学に派遣され、映像、写真製版の使用といった新たな手法を学ぶ。また西洋の多色木版画に触れたことを契機として版画史研究に取り組み、『版画芸術』誌上で「西欧多色木版画研究序説」(1976~79年、全10回)を連載。『世界版画全史』(阿部出版、2018年)はこうした版画研究の集大成といえる。80年に韓国に赴き、同地の手漉き紙を知ったことから紙そのものによる表現を追求したペーパーワークの制作を開始する。82年には自らキュレーターを務めた「現代紙の造形・韓国と日本」展を国立ソウル近代美術館で開催した(翌年京都でも開催)。また1992(平成4)年にムンク美術館の助成を受けてオスロ―に滞在し、ムンクの使った和紙について研究した(「Moonshine 月光―E.ムンクの色彩木版画における用紙について―」『京都精華大学紀要』4、1993年)。著書(単著)に『アートテクニック・ナウ13 黒崎明の木版画』(川出書房新社、1976年)、『新技法シリーズ56 現代木版画』(美術出版社、1977年)、『日本の工芸8 紙』(淡交社、1978年)、『新技法シリーズ152 現代木版画技法』(美術出版社、1992年)、『木版画に親しむ』(日本放送出版協会、1993年)、『版画史解剖―正倉院からゴーギャンへ―』(阿部出版、2002年)、『世界版画全史』(前掲)など多数。また2006年に当時までのカタログレゾネとなる『黒崎彰の全仕事』(阿部出版株式会社)が出版される。 63年から71年まで近畿大学建築学科講師、71年から京都工芸繊維大学講師、助教授を経て81年より同教授。83年、ハーバード大学客員教授、ボストン美術館大学客員講師。87年より京都精華大学美術学部教授。2000年紫綬褒章受章。

秀島由己男

没年月日:2018/10/03

読み:ひでしまゆきお  銅版画家の秀島由己男は、10月3日に死去した。享年84。 1934(昭和9)年4月15日、熊本県水俣市に生まれる。本名秀嶋幸雄。50年、水俣市立水俣第一中学校を卒業。卒業後、中学校の美術教師長野勇が主宰する画塾に通いはじめ水彩画の指導を受け、同画塾では後に歌人、小説家となる石牟礼道子(1927-2018)を知る。また卒業した中学校の事務補佐員として働きはじめ、勤務の傍ら、ペン画を描きはじめる。 53年、第1回熊本県水彩画展に「静物」を出品、グランプリを受賞。同年、第8回熊本県美術協会展に初入選。54年、新日本窒素肥料水俣工場の絵画クラブの市民会員として加入、ここで海老原美術研究所(海老原喜之助主宰)から派遣されていた講師から油彩画の手ほどきを受ける。同年、結核と診断され入院、入院中に短歌を学ぶ。57年、東京より帰郷した浜田知明を紹介され、自作のペン画の助言を受ける。61年、この年に銅版画制作を試みた。 63年11月、第18回熊日総合美術展に「霊歌A」等3点のペン画を出品、神奈川県立近代美術館「K氏賞」受賞、同美術館の買い上げとなる。また、同展の審査員だった海老原喜之助を知り、師事する。65年、水俣市から熊本市に転居。65年11月、第20回熊日総合美術展にペン画3点を出品、そのなかの「祖国の霊」で熊日賞受賞、神奈川県立近代美術館の買い上げとなる。同展の審査員であり、同美術館長であった土方定一を介して、翌年3月、南天子画廊で第1回「秀島由己男個展-ペンに依る黒の歌」を開催。67年、浜田知明より銅版画プレス機を譲り受け、本格的に銅版画制作をはじめる。74年4月、『詩画集・彼岸花』(詩、石牟礼道子)、『版画集・わらべ唄』を南天子画廊から出版、また同月、浜田知明とともに銅版画4点を制作した『土方定一童話集 カレバラス国の名高きかの物語』(歴程社)出版。75年、第1回ユベスキュラ・グラフィカ・クリエイティヴァ国際版画トリエンナーレ(フィンランド)に『版画集・わらべ唄』を出品、ディプロマ賞受賞。80年代以降、国内外での評価の高まりとともに、熊本県立美術館、東京都美術館等の各地の美術館での企画展に出品されるようになる。84年東京に移住するが、なじめずに87年に帰郷。85年、『詩画集 静物考』(詩、高橋睦郎)、1989(平成元)年、『版画集 舊約聖書:詩編より(霊歌)』(選文、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。91年10月から11月、熊本市と水俣市にて「秀島由己男自選展」開催。94年4月から翌年3月まで、『熊本日日新聞』に月1回自身の半生をつづったエッセイ「風の舟」を連載。95年1月、大川美術館(群馬県桐生市)にて「魂の叫び 秀島由己男展」開催、ペン画、銅版画等103点出品。97年、『詩画集 われらにさきかけてきたりしもの』(詩、高橋睦郎)を南天子画廊から出版。石牟礼道子の新聞連載小説「春の城」(『熊本日日新聞』1998年4月17日-99年3月1日連載。他に『高知新聞』等6紙に同時に連載。)の挿絵を担当し、300点をこえる作品(内、銅版画239点)を提供した。99年4月、神奈川県立近代美術館別館にて「秀島由己男展」開催、銅版画、ペン画116点出品。 2000年以降、各地の美術館等で回顧展が開催され、主要なものは下記の通りである。 2000年9月、「魂の詩-秀島由己男展」、熊本県立美術館、銅版画等211点出品。 2003年3月「秀島由己男展」、カスヤの森現代美術館(横須賀市) 同年7月「秀島由己男-心の風景」展、八代市立博物館未来の森ミュージアム 2009年8月、「新世界へ…秀島由己男展」、東御市梅野記念絵画館、テンペラ画等45点を出品。 2014年2月、「秀島由己男 創造と探究の生者展」、熊本市現代美術館、作品とともに自身が収集してきたアート・コレクションも初公開された。 2017年2月、コレクション再発見「秀島由己男展」、福島県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館、銅版画等62点出品。 なお没後の2019(令和元)年7月、島田美術館(熊本市)にて「秀島由己男展」が開催され追悼された。 緻密な表現による銅版画、ペン画等、「魂の救済」、「魂の叫び」等と評され、孤独感におおわれた幻想性と文学性に富んだ作品を数多く残したが、秀島にとって創作そのものが鎮魂の祈りであったといえるだろう。時流にとらわれることのない、孤高の版画家だった。

浜田知明

没年月日:2018/07/17

読み:はまだちめい  銅版画家の浜田知明は、7月17日老衰のため熊本市内の病院で死去した、享年100。 1917(大正6)年12月23日、熊本県上益郡高木村(現、御船町高木)に、小学校の校長であった父高田格次郎の次男高田知明(ともあき)として生まれる。1930(昭和5)年、県立御船中学校に入学、同学校で図画科教師富田至誠(1922年、東京美術学校西洋画科卒業)に学ぶ。34年、中学4年を修了して東京美術学校油画科に入学、在学中は藤島武二教室に学ぶ。39年3月、東京美術学校(現、東京藝術大学)油画科を卒業。同年、応召して熊本歩兵第13連隊補充隊に入隊、中国大陸に派遣され、華北山西省にて作戦警備にあたった。43年、兵役満期で復員、東京都豊島区に居住。翌年6月、熊本市で浜田久子と結婚、翌月再度応召、伊豆七島の新島に派遣される。45年終戦にともない復員。戦後は帰郷して、県立熊本商業学校の教員をしていたが、48年に上京。50年、この年から、駒井哲郎、関野準一郎を訪ね、その助言のもと本格的に銅版画を研究しはじめ、自身の戦争体験をモチーフにした銅版画「初年兵哀歌」シリーズの制作をはじめる。51年10月、第15回自由美術家協会展に「壁」、「初年兵哀歌(便所の伝説)」、「初年兵哀歌(銃架のかげ)」、「戦ひのあと」を出品。53年には銀座のフォルム画廊で初個展開催。「初年兵哀歌」シリーズは、54年までに15点制作された。浜田は、後年、「この戦争に生き残ったものとして、それは、私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである。」(「初年兵哀歌」、『現代の眼』207号、1972年2月)と記しているが、この連作が代表作となった。56年には、スイス、ルガノ国際版画ビエンナーレに出品して受賞。同年、第2回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「よみがえる亡霊」、「副校長D氏像」を招待出品、佳作賞受賞。つづいて同年の「世界・今日の美術」展(朝日新聞社主催)にも出品、一躍国内外で注目されるようになった。57年に帰郷、熊本では九州女学院高等学校、福岡学芸大学、熊本大学で非常勤講師を務めながら制作をつづけた。64年、ヨーロッパを訪れ、主にパリに滞在。1年間の滞在を終えて翌年帰国、この年フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員となる。67年より熊本短期大学助教授として勤務(71年に同大学教授となり、87年に定年退職、ひきつづき客員教授、特任教授として務める。)創作では、その後、戦争、原爆、現代社会を、ユーモアを交えながら鋭く風刺する作品を制作しつづけた。また80年代からは、銅版画と並行して彫刻作品も制作するようになった。80年に第39回西日本文化賞(西日本新聞社主催)を受賞、85年には熊本県近代文化功労者として顕彰された。1989(平成元)年には、フランス政府から芸術文化勲章(レジョン・ドヌール勲章シュヴァリエ章)を受章。 他に版画集『わたくしのヨーロッパ印象記』(大阪フォルム画廊、1970年)、『見える人』(同前、1975年)、『曇後晴』(ヒロ画廊、1977年)、『小さな版画集』(同前、1992年)を刊行した他、93年には『浜田知明作品集』(求龍堂)が刊行され、2007年には画文集『浜田知明 よみがえる風景』を刊行した。70年代以降から晩年まで、浜田の生地にある熊本県立美術館をはじめ、各地の美術館で数多くの回顧展が開催され、その主要なものは下記の通りである。 1975年11月、「浜田知明銅版画作品展 銅版画作品1938-1975」、北九州市立美術館 1979年3月、「浜田知明銅版画展」、熊本県立美術館 同年、「浜田知明展」、オーストリアのアルベルティーナ国立素描美術館(ウィーン)、グラーツ州立近代美術館 1980年5月、「浜田知明・銅版画展 からまで」、神奈川県立近代美術館 1993年10月、「浜田知明展」、大英博物館日本ギャラリー 1994年1月、「浜田知明展」、熊本県立美術館 1996年1月、「浜田知明の全容展」、小田急美術館(東京新宿)、富山県立近代美術館、下関市立美術館、伊丹市立美術館 1999年7月、「銅版画憧憬-駒井哲郎と浜田知明の1950年代 コレクションによるテーマ展示」、東京都現代美術館 2001年10月、「浜田知明 版画と彫刻による人間の探究」、熊本県立美術館  2007年6月、「無限の人間愛 浜田知明展」、大川美術館(群馬県桐生市) 2009年6月、「浜田知明展 不条理とユーモア」、北九州市立美術館 2010年7月、「版画と彫刻による哀しみとユーモア 浜田知明の世界展」、神奈川県立近代美術館葉山 2015年8月、「戦後70年記念 浜田知明のすべて」展、熊本県立美術館 2017年9月、「浜田知明・秀島由己男版画展」、大川美術館 2018年3月、「浜田知明 100年のまなざし」展、町田市立国際版画美術館 なお没後の19年4月には、熊本県立美術館にて「浜田知明回顧展 忘れえぬかたち」が開催された。一兵卒としての戦争体験を原点として、戦後から現代まで、人間観察を通して「人間とは」と問いつづけた銅版画家だった。

儀間比呂志

没年月日:2017/04/11

読み:ぎまひろし  生涯にわたり沖縄を描き続けた版画家で絵本作家の儀間比呂志は4月11日、肺炎のため死去した。享年94。 1923(大正12)年3月5日沖縄県那覇市久米町に生まれる。士族であった厳格な父のもとに育つも、もともと絵を描くのが好きだったこともあり、小学校でのちに戦後沖縄美術を代表する画家となった大嶺政寛と出会ったのをきっかけに、画家にあこがれるようになる。一方戦時下の昭和40(昭和15)年頃の沖縄では、日本政府による皇民化政策のもと、方言や琉歌が禁止され、息のつまるような状況であった。さらに父親からも絵を描くことを禁止され、沖縄を離れることを決意。40年5月に家を出、マリアナ諸島のひとつであるテニアン島に行き着き滞在、渡嘉敷守良が座長を務める球陽座で道具方の仕事をしたり、芝居絵を描いたりして暮らした。この沖縄芝居から得たドラマツルギーが、後の絵本制作の原点となる。球陽座はロタ、パラオ、ポナペなど他の島への巡業も盛んに行っており、儀間はロタ島で鉄木の彫刻をしていた杉浦佐助と出会う。その後、テニアン島で杉浦と再会、42年12月に戦況の悪化から球陽座が閉鎖されたのを機に杉浦の弟子となり、カロリナス高地の崖下に丸太を渡して建てた小屋にて寝食をともにしながらデッサンなどを学んだ。杉浦の作品をモデルにしながら、儀間は形の正確な把握よりも、そのものがもつ気の表現に務めたという。43年儀間は徴兵検査の令状を受け、杉浦の勧めもあり帰国。44年海軍へ入隊し、翌45年横須賀にて終戦を迎えた。沖縄の親兄弟は皆亡くなったと聞かされた儀間は、失意のまま大阪へと移り、阿倍野の芝居小屋に道具方として雇われ、舞台風景を描いた。46年夏、大阪市立美術館に付属美術研究所が新設されると、洋画部に第一期生として入学(1951年まで在籍)。須田国太郎らに教えを受けるかたわら、生活のために心斎橋で似顔絵を描いていたという。そのうちに沖縄の母親と兄弟たちが生きていることを知るも、すぐには帰郷せずに精進を重ねる。またこの頃、メキシコ壁画運動の画家、ダビッド・アルファロ・シケイロスやディエゴ・リベラらの絵画に出会い、その表現に強く惹かれた。54年創造美術展へ出品して初入選を果たし、55年堺市展にて会頭賞受賞。翌56年には第11回行動美術展へ「働く女達」で初入選を果たし、以後71年まで毎年出品した。また、同年には戦後初めて沖縄へ帰郷、5月に沖縄・那覇市松尾の第一相互ビルにて個展を開催する。帰阪後には沖縄の現状を伝えるため、肌の色が異なる姉妹が肩を組む姿を描いた作品をその年の平和美術展へ出品する。58年第13回行動美術展へ出品した「働く女」「山原のアンマー」で奨励賞を受賞し、翌59年には第14回展へ出品した「蛇皮線」「龍舌蘭」「民謡」で新人賞を受賞、会友となる。さらに60年の第15回展では「島の踊り」「島に生きる」で会友賞受賞、66年には会員に推挙された。一方で儀間は、行動美術展へ出品をするようになった頃より、東京・上野桜木町に住んでいた上野誠に木版画を学び、56年には浅尾忠男との詩画集『城と車』を刊行。68年には第6回東京国際版画ビエンナーレ展へ「まつりの人々A」「まつりの人々B」を出品する。69年ギャラリー安土にて木版画展を開催、71年には画廊みやざきで版画展を開催した。「沖縄の普及化」を目指していた儀間にとって、安価でより多くの人々の目に触れる版画はうってつけの表現形態であった。さらに儀間は、大人だけでなく子どもに対しても沖縄をアピールしていく必要を感じ、絵本制作にも着手。70年には『ねむりむし・じらあ』(福音館書店)を刊行する。翌71年には『ふなひき太良』(岩崎書店)で第25回毎日出版文化賞を、76年には『鉄の子カナヒル』(岩崎書店)で第23回産経児童出版文化賞を受賞。この間、72年5月には行動美術を脱退、以後木版画をもっぱらの仕事とした。85年米軍撮影の沖縄戦記録フィルムの上映会で、白旗を掲げ米軍に近づく少女の映像に衝撃を受け、沖縄戦をテーマにした絵本の作成に着手。同年『りゅう子の白い旗』(築地書館)を刊行する。海軍に入り、沖縄にいなかった儀間にとって、絵本作りは故郷が受けた苦難を追体験する作業であったという。2005(平成17)年には宮古島のハンセン病療養所での取材をもとにした『ツルとタケシ』(清風堂書店)を、翌06年には石垣島に実在した住民の防衛隊を主人公とした『みのかさ隊奮闘記』(ルック)を刊行。さらに当時リトル・オキナワと呼ばれた南洋の島・テニアンを舞台にした『テニアンの瞳』(2008年、海風社)を番外編として、4冊の絵本は「沖縄いくさ物語」シリーズとしてまとめられた。 没後の18年7月には、沖縄県立博物館・美術館にて「儀間比呂志の世界」が開催された。

深沢幸雄

没年月日:2017/01/02

読み:ふかざわゆきお  版画家で、多摩美術大学名誉教授の深沢幸雄は1月2日、老衰のため死去した。享年92。 1924(大正13)年7月1日、山梨県南巨摩群増穂町(現、富士川町平林)に生まれる。父は朝鮮総督府官吏であり、生後すぐに家族で旧朝鮮堤川(現、大韓民国忠清北道堤川市)へ渡る。中学校時代には、〓凡社の『世界美術全集』で油彩画を知り、画家を志す。18歳まで堤川で過ごし、1942(昭和17)年に東京美術学校(現、東京藝術大学)工芸科を受験。彫金部予科に入学する。彫金部への進学は、父からの要望であったという。同校在学中、岡田三郎助と藤島武二が主宰した本郷絵画研究所に通いデッサンを学ぶ。同所で女子美術専門学校(現、女子美術大学)の学生であった小島咲子と出会い、47年に結婚。49年に同校工芸科彫金部を卒業した後に、妻方の実家がある千葉県市原群鶴舞町に移り住み、50年から78年まで県立市原高等学校の美術教師として勤務。生涯、市原を制作の拠点とし、画業を展開させた。 深沢の画業は、油彩画から出発している。53年には、自由美術家協会展に200号の大作「からたちと裸像」が入選を果たすなど、当初は大型の作品制作に取り組んでいたことがうかがえる。 銅版画の道へ進んだのは、54年からである。深沢は、45年の東京大空襲で右足に打撲傷を負い、その影響で大画面の制作が困難となっていた。そこで、小規模で制作が可能であり、彫金部での経験を生かすことができる銅版画に移行する。独学での技術習得であったが、57年には、ダンテの『神曲』を主題にした「ウゴリーノ」「チェルベロ」などで第25回日本版画協会賞を受賞。また、同年の第1回東京国際版画ビエンナーレでは、「病める詩魂」「汚〓の陽の下に」が入選し、新進作家として頭角を現す。つづけて、58年には、第35回春陽会展で春陽会賞、59年には、第3回シェル美術賞を受賞。60年には、第4回同賞において「愛憎」など10点で神奈川県立近代美術館版画賞を受賞した。 62年に第5回現代日本美術展において「生1」「生2」で優秀賞を受賞するが、これをきっかけにメキシコ国際文化振興会より現地での版画技法の指導の依頼を受け、翌年、メキシコシティに3ヶ月間滞在する。メキシコの人々にあらゆる版画技法の講習を行い、現地の版画界に大きな影響を与えた。そして、深沢自身もメキシコの文化に触れたことで、作品に鮮やかな色彩を取り込むようになる。それらの作品は、65年の第8回サンパウロ・ビエンナーレ展(ブラジル)といった数々の国際的な展覧会に出品された。 そして、最初のメキシコ訪問から11年後の74年と、76年、79年に再び同地を訪問し、メキシコの歴史や世界の人類史から触発された「新大陸のモンゴロイド」シリーズを7年半の歳月をかけて36点発表した。75年には、第43回日本版画協会展に同シリーズの「影(メヒコ)A」「影(メヒコ)B」を出品。また、78年の第46回日本版画協会展に出品した「凍れる歩廊(ベーリング海峡)」は深沢の代表作として知られる。 その一方で、文学作品からインスピレーションを受けた作品を数多く発表している。70年には、詩版画集『春と修羅』を刊行(詩、宮沢賢治。86年にも刊行)。73年には、ポール・ゴーギャン著『ノアノア』を題材とした銅版画集『黒い花』を制作した(1975年に刊行)。82年には、アルチュール・ランボーの詩集『酔いどれ船』に着想を得た詩画集も刊行している。80年代になると、深沢自身と、それを取り巻く周囲の人間をテーマとして「人間劇場」シリーズを発表。生涯に渡り、作風をさまざまに展開し、新たな表現を追及しつづけた。 作家活動の一方で、75年には日本版画協会理事に就任するとともに、現代日本美術展や多くの地方美術展で審査員として関わり版画界の中核を担った。そして、86年から多摩美術大学教授に就任、若手作家の育成などにも尽力した。その功績が認められ、87年に紫綬褒賞、1995(平成7)年に勲四等旭日小綬章を受章している。また、90年には、メキシコ国立版画美術館にて「日本の版画 深沢幸雄展」が行われ、94年にはメキシコ国文化勲章アギラ・アステカを受章。メキシコと日本の版画界の架け橋として、世界的にも認められた。 2007年には、出身地の山梨県立美術館において「深沢幸雄展―いのちの根源を謳う―」が開催。そして、14年には、市原湖畔美術館から『深沢幸雄 市原市所蔵作品集』が発行され、深沢の画業が顕彰された。没後、18年には再び山梨県立美術館において「銅版画の詩人 追悼 深沢幸雄展」が開催。同展カタログは、深沢直筆のノート等の資料が収録され、深沢の画業の全貌を明らかにした。

金守世士夫

没年月日:2016/12/07

読み:かなもりよしお  郷里富山で木版画制作を続けた国画会会員、日本版画協会名誉会員の金守世士夫は、12月7日に死去した。享年94。 1922(大正11)年1月24日、富山県高岡市伏木新島に生まれる。生家は船具などを製作する鉄工場を営んでいた。東京で鉄鋼場を営む叔父を頼り上京し、帝国美術学校図案科に入学してデッサン等を学ぶ。在学中、永瀬義郎著『版画を作る人へ』を読み、版画に興味を抱くが、父の急逝により帝国美術学校を中退。1942(昭和17)年に招集されて半年間、富山連隊に属した後、中国大陸に渡る。46年、南京から復員。同年、当時富山市福光町に疎開していた棟方志功を訪ね、指導を乞うて「私の生活をみること」と言われ、しばしば棟方宅に自作の版画を持参して教えを仰ぐようになる。47年正月、折本形式の作品「版画菩薩曼荼羅」を棟方宅に持参して高い評価を得、棟方の推薦によって同年の国画会工芸部に初出品。翌年同会展に木版本「鶏合」「七福神仙」「分陀利華」「十三仏木印」を出品。その後も同会に出品を続ける。50年、棟方、畦地梅太郎、笹島喜平らと『越中版画』を創刊。同誌は第2号から『日本板画』と改題し、51年に棟方が東京に移住するのを契機に7,8合併号を刊行して休刊。以後、金守が『富山版画』として50年代半ばまで刊行を続けた。50年代に入ると作品の主題を聖書に求めるようになり、50年第24回国画会展に「物語約拿(ヨナ)」「物語我を見る活る者の井戸」を出品し褒状受賞。53年第27回国画会展に「物語イサクの犠牲」「物語エホデ・エグロン王を倒す」「物語アブラハムと三天使」を出品して国画奨学賞を受賞。57年国画会会友となる。58年ニューヨークのセント・ジェームズ教会展で「イサクの犠牲」により3等賞を受賞するが、聖書にある場面を描きながらも棟方の作風と類似しているという評を受け、物語主題から離れるべく、京都の庭を訪れて作風を模索。京都南禅寺の枯山水の庭が夕立の前後で表情を変える様子に「飽くことのない変幻自在の宇宙を発見し」、後に長くテーマとする「湖山」の着想を得た。65年国画会会員となる。68年、バンクーバーとロスアンゼルスでの技術指導のためカナダ、アメリカへ渡る。70年から翌年にかけてサンフランシスコ、ロスアンゼルス、ニューヨークでの個展のため渡米。70年、志茂太郎主宰の日本愛書会から大判で多版多色摺りの「湖山」を刊行。79年1月版画芸術院を設立する。80年、富山市文化功労賞を、81年富山県文化功労賞を受賞。また同年、スイス・バーゼルで個展を開催。82年オーストラリア美術協会の招聘により渡豪して版画指導。84年日中版画文化交流の一因として訪中。86年より88年12月和光ホールで「金守世士夫展」を開催。また、同年から毎年インドネシア・デンハサール市で版画・水墨画の指導に当たる。戦後間もない頃から棟方を介して、浜田庄司、河合寛次郎ら民芸運動に関わった人々の作品にも親しみ、日常生活を彩る版画も数多く制作。54年に畦地梅太郎の誘いによって制作を始め作り続けた蔵書票は人々に親しまれ、1994(平成6)年日本書票協会第4回志茂賞を受賞している。96年カナダ・バンクーバー市立美術学校に木版画指導のため招かれる。同年第43回富山新聞文化賞受賞。版本の作成に当たっては、河童に想を得て棟方が命名した河伯洞の号を用いた。また、棟方や柳宗悦の話を聞くうち民芸に興味を抱くようになって収集を始め、アメリカ先住民の人形やエスキモーの民芸品、アフリカの面や染織品、神像、インドネシアの染織品等のコレクターとしても知られ、「インドネシアの手仕事展」(1994年9月13日から10月31日)を富山市民芸館で開催したほか、自らの版画とアフリカの立体作品を並べた「金守世士夫とアフリカンアート展」(1994年10月15日から11月30日、黒部市美術館)などを開催した。江戸時代から続く越中売薬版画等の伝統を踏まえ、一貫して木版画を制作し、「湖山」の主題を得てからは、山と湖に蝶・花鳥ほかを配して幻想的な作風を示した。版画の複製性よりも木版ならではの表現を探求し、1枚の版木で彫りと摺りを繰り返しながら制作する「彫り進み」技法を多用するのを技法的特色とした。

木田安彦

没年月日:2015/08/13

読み:きだやすひこ  京都の寺社や仏像を主なモティーフとして木版画をはじめ、ガラス絵や水墨画、書等多彩な活動を繰り広げた木田安彦は8月13日、悪性リンパ腫のため死去した。享年71。 1944(昭和19)年2月14日、京都府京都市に生まれる。67年京都教育大学特修美術科構成専攻卒業。在学中の66年に制作したポスターが京都産業デザイン展で市長賞銀賞を受賞。同大学の美術・工芸専攻科(現、大学院)構成学専攻へ進むも退学し、京都市立美術大学(現、京都市立芸術大学)美術専攻科(現、大学院)へ進学。在学中の69年に東京イラストレーターズ・クラブによる全国公募にイラストが入選、同クラブ編集の『年鑑イラストレーション』に掲載される。70年京都市立芸術大学美術専攻科デザイン専攻を修了。同年東京へ移り博報堂制作部に勤務、入社一年目で毎日商業デザイン賞を受賞するなどグラフィックデザイナーとして注目を集める。75年に京都へ戻り、木版画家として作家活動を開始。木版画の棟方志功を意識しつつも洗練された京都人のセンスを活かした画風を追求する。一方でグラフィックデザイナーの田中一光に見出され、77年には田中をリーダーとするセゾングループのクリエイティブスタッフとなるなど、グラフィックの世界でも存在感を示す。田中一光とは2002(平成14)年に田中が没するまで、その薫陶を受けた。また日本画家の下村良之介や彫刻家の辻晉堂、哲学者の梅原猛、ファッションデザイナーの三宅一生らともジャンルを越えて交流。自らの制作においても木版画の他、華麗な色彩によるガラス絵、板絵、水墨、油彩、陶、書と様々な材料と技法により領域を拡げていった。87年に初めての大規模な個展「京都から世界へ ひた走る木版画家 木田安彦展」を東京・池袋の西武アート・フォーラムで開催。2000年に第79回ニューヨークADC賞で銀賞、優秀賞、04年に第17回京都美術文化賞、06年に第24回京都府文化賞功労賞等、国内外の数々の賞を受賞。この間、03年にはNHK大河ドラマ「新撰組!」タイトル版画を制作。04年には、松下電工のカレンダーを20年来手がけてきた縁で、松下電工汐留ミュージアム(現、パナソニック汐留ミュージアム)で「煌めきのガラス絵 木田安彦の世界」展を開催。04年から09年にかけて眼疾と闘いながら最後の木版画連作「西国三十三所」を制作し、09年に京都文化博物館とパナソニック電工汐留ミュージアムで公開、その後も肉筆による作画を続けた。11年に京都市文化功労者に選ばれる。12年にはミネルヴァ書房より『一刀の無限 木田安彦木版画集成』が刊行、また池田20世紀美術館で「木田安彦 祈りの道」展が開催。13年には京都三十三間堂本坊妙法院門跡より法眼位の称号を叙位された。

門坂流

没年月日:2014/04/03

読み:かどさかりゅう  画家・版画家の門坂流は4月3日、胃がんのため東京都内の病院で死去した。享年65。 1948(昭和23)年5月25日、京都市に生まれる。本名は門坂敏幸。父親は熊本県、母親は滋賀県の人。6歳まで京都で育ち、滋賀県に移住。日野川の清流やかまどの炎、風にたなびく稲穂を眺めたり、日光写真や写し絵をして遊び、また製図用パンタグラフを用いてスターのブロマイドを描き写すことをよくしたという。このような幼少期の経験や、高校時代にフェルメールの画集に感銘を受けたことが絵を志す原点となり、68年東京藝術大学油絵科に入学するが、肌に合わず退学。その後、知人の紹介により、雑誌『ワンダーランド』(のちの『宝島』)に連載された片岡義男「ロンサムカウボーイ」の挿画でデビュー。鉛筆・ペン画で創作活動を始め、数多くの雑誌挿絵や書籍装画などで作品を発表する。85年ころからビュランで銅版を刻む感覚と線の鋭さに惹かれ、エングレービングの技法研究をはじめる。88年自身最初の作品集『風力の学派』(ぎょうせい、文・荒俣宏、池澤夏樹、伊藤俊治)を上梓したのちは、エングレービングが創作活動の中心となる。87年には京橋のINAXギャラリーで個展を開催、以後、ガレリア・グラフィカ、不忍画廊、青木画廊などで多くの個展を開催。1998(平成10)年から翌年まで朝日新聞朝刊小説、高樹のぶ子「百年の預言」の挿絵を担当、ルーマニア、オーストリアを取材し、リトグラフ、ペン画、水彩、あるいは銅版画で発表。「エングレービングの第一人者」とも呼ばれ、シャープな線の積み重ねによる流紋を基本要素として描かれた作品は「自然の内包する生命力の顕在化」ともいわれ、高く評価された。 作品集はほかに『水の光景 ビュランによる色彩銅版画集』(ぎょうせい、1990年)、『門坂流作品集 百年の預言』(朝日新聞社、2000年)、『Ryu KADOSAKA DrawingWorks』(不忍画廊、2006年)、『Engraving』(不忍画廊、2013年)があり、「線の迷宮―細密版画の魅力」(目黒区美術館、2002年)、「森羅万象を刻む―デューラーから柄澤斉まで」(町田市立国際版画美術館、2016年)などの展覧会で版画表現を追究した作家のひとりとして作品が展観された。

一原有徳

没年月日:2010/10/01

読み:いちはらありのり  モノタイプの手法で知られる版画家の一原有徳は10月1日、老衰のため死去した。享年100。1910(明治43)年8月23日、徳島県那賀郡平島村(現、阿南市那賀川町)に生まれる。1913(大正2)年、家族とともに北海道虻田郡真狩村阿波団体(現、真狩村富里)に移住。23年、小樽に移住し、株式会社北海道通信社に入社。同年から小樽実修商科学校(夜間)に通学。そこで書道教師だった小林露竹(俳号、露石)の句会に参加し、俳句創作のきっかけとなる。1927(昭和2)年、逓信省小樽貯金支局(現、小樽貯金事務センター)に入局し、以後43年間勤務。この頃から本格的に俳句創作に携わり、句誌に投句を始める。また、31年には休暇を利用しての登山を始める。44年、月寒(札幌)の大砲小隊に入隊。翌年、広島へ転属。その後、小樽の第五船舶輸送司令部暗号班に配属されるも、終戦によって9月に除隊。51年、小樽貯金支局に勤務していた画家須田三代治から油彩画の道具を譲り受け、指導を受ける。同年10月に第5回小樽市美術展に出品し初入選。翌年の第6回同展では北海道新聞社賞、翌々年の第7回同展で文化クラブ賞。54年、須田の友人である国松登の指導のもと、第9回全道展で「峡」が初入選。その後、第12回まで油彩画を出品し、入選を続ける。この頃、パレット代わりにしていた石版石に残ったペインティングナイフの痕跡に注目し、モノタイプ版画の制作を始める。モノタイプ版画は、石版などの上に均一に延ばしたインクをナイフなどで削ぎ落とし、版画紙に転写するもので、方法としては版画に類するものの、一度しか印刷することができないという点で大きく異なる。58年、モノタイプの手法を用いた年賀状が国松の眼にとまり、第32回国画会展にモノタイプ作品を出品。「RON」、「SRO」が初入選を果たす。このことがきっかけで、国画会の版画家河野薫から版画についての基礎知識を教わり、金属凹版作品、いわゆるエディション・シリーズの制作にも本格的に取りかかる。翌59年、第27回日本版画協会展に出品した「轉」が初入選。この作品がアメリカのコレクターであるフランク・シャーマンに買い上げられたことで、当時の神奈川県立近代美術館副館長土方定一の眼にとまる。60年には、土方の推薦によって、世界を巡回した「現代日本の版画展」(神奈川県立近代美術館主催)に「RON」を含む計9作品が出展される。6月には東京画廊において初の個展を開催。その後は、勤務先の仕事の傍ら、北海道を中心に作品を発表する。この間、モノタイプや金属凹版を応用し、糸や金網、機械部品を直接プレスしたり、あるいは、丸鋸の刃やトカゲの皮、するめをそのまま版として用たりするなど、様々な実験を行っている。定年退職後の71年、下山中に遭難し、右大腿骨骨折。その後、3年にわたって三度の手術を受けることになる。退院後の76年、札幌にあるNDA画廊の長谷川洋行から青画廊の青木彪を紹介され、再び東京での個展を開催。これに先立って、『みづゑ』10月号に谷川晃一との対談が掲載されたこともあって、ふたたび脚光を浴びることとなる。翌年、現代版画センター主催の「現代と声」展に選ばれ、企画者である北川フラムの知遇を得る。北川フラムは、その後もいくつかの個展を企画し、89年には『ICHIHARA 一原有徳作品集』を出版する。79年、第2回北海道現代美術展に選定出品された「KIH(a)」で優秀賞。同年、一原が勤務していた貯金局の建物内に市立小樽美術館が開館。また、版画紙を複数枚つなぎ合わせたり、それを円筒形にして立体的な構造物をつくる手法の第一作となる「SON・ZON」が制作されたのもこの年である。この時期には、金属を熱して焼き付ける「Branding」シリーズ、ステンレスの鏡面を歪ませた「SUM」シリーズなどといったオブジェ作品を多数制作。また、83年「無題」(川崎市営競輪場外壁)、84年「炎」(小樽花園公園)、「炎II」(銭函駅前)とモニュメント作品も制作している。その後も多産な制作活動をつづけ、各地で精力的に個展を開く。主な個展は、88年「現代版画の鬼才 一原有徳の世界」展(神奈川県立近代美術館別館)、1997(平成9)年「イチハラ・ステンレス・オブジェ」(市立小樽美術館)、98年「一原有徳・版の世界 生成するマチエール」(徳島県立近代美術館、北海道立近代美術館)、2002年「所蔵作品お披露目展その四・一原有徳展」(武蔵野市立吉祥寺美術館)、12年「追悼・一原有徳 ヒラケゴマ」(同)など。また、主な受賞は、1981年、第4回北海道現代美術展に選定出品された「SON・ZON」によって北海道立近代美術館賞。90年、北海道文化賞受賞。96年、地域文化功労者の文部大臣表彰。2001年、第33回北海道功労賞。11年、市立小樽美術館の三階に一原有徳記念ホールが開設され、同年10月に「没後一年 一原有徳 大版モノタイプ~終わりなき版への挑戦」展が開催された。

品川工

没年月日:2009/05/31

読み:しながわたくみ  版画家の品川工(本名関野工)は5月31日、老衰のため死去した。享年100。1908(明治41)年6月11日、新潟県柏崎市に生まれる。もともと美術に興味はあったものの、銀座で大勝堂という貴金属店を経営していた伯父の勧めで、東京府立工芸学校金属科(現、都立工芸高校)に進む。1928(昭和3)年に卒業し、伯父の紹介で彫金家宇野先眠に師事。しかし、型にはまった彫金の仕事への関心が薄れたため、宇野先眠のもとを去り、兄である品川力とともに東京帝国大学の近くでペリカンという喫茶店を開く(のちのペリカン書房)。そこで、当時帝大生だった立原道造、織田作之助、串田孫一、岡本謙次郎、三輪福松、北川桃雄、宇佐見英治らと出会う。彼らに翻訳してもらったモホイ・ナジの著作に感銘を受け、また、ペリカンの賓客だった晩年の古賀春江の知己を得るなどして、「本当に芸術に目醒めた」という。この頃、紙彫刻、板金、オブジェなど様々な作品を制作していたが、35年に版画家恩地孝四郎に師事したことをきっかけに、本格的に版画制作を始める。39年に一木会に参加。第二次大戦中は、37年に徴用されて株式会社光村原色版印刷所で軍の作戦地図などを作成するかたわら、作品制作を精力的に行い、44年に銀座三越で初の個展を開く。終戦直前に、農商省工芸指導所の玩具研究室長となるが、終戦後に退所し独立。47年日本版画協会第15回展に出品し日本版画協会展受賞。同年第21回国画会展に「海辺」を出品し国画奨学賞を受賞。翌48年にも「海辺の幻想」で国画奨学賞を受賞。二年連続受賞の栄を受け会員に推挙され、翌年から国画会会員。53年東京国立近代美術館で開催された「抽象と幻想」展に「円舞(終曲のない踊り)」を出品。翌54年には、ルガノ国際版画ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、英国国際版画展などの国際展に出品。56年には日本橋高島屋で開催された「世界・今日の美術」展に「家族」を出品するなど、版画家としてのキャリアを積んでいった。また、この頃には、光村原色版印刷所での経験をもとに、写真の印画のプロセスを利用した作品制作を試みている。印画紙の上に色セロファンやインクをおいて感光させるカラーフォトグラムを53年に、ダイトランスファー法(レリーフ法)による写真プリントのプロセスに手を加えて制作したヌード写真を55年に、型紙を使って絵の具を定着させるステンシルの手法を写真の現像プロセスに応用し、型紙から漏れる光で印画紙を感光させて像を定着させる「光の版画」シリーズを翌56年に、それぞれ中央公論画廊での個展でモビールや版画とともに発表した。また、63年には、乾板ガラスを用い、絵具の質の違いや油性絵具と水性絵具の反発によって画面を構成するアンフォルメール(白と黒)を、74年には、感光材を塗った鏡面の上にポジフィルムを載せて感光、硬化させ、他の部分は取り除き、そこに樹脂塗料を塗るという手法で、プリントミラーと呼ばれる作品を制作した。こうした版画の原理にもとづいた実験的作品の制作と並行して、オブジェやモビールも継続して制作・発表し、68年に『たのしい造形 モビール』(美術出版社)を、71年には『新しいモビール・動く造形』(日貿出版社)を出版した。食器や工具を利用したオブジェと、周囲の空気に応じて動くモビールは、版画と並んで品川の制作の中心にあり続けた。73年東京国立近代美術館で開催された「戦後日本美術の展望―抽象表現の多様化」に出品。79年椿画廊「過去と現在」、80年りゅう画廊「品川工・35年の歩み」展と、それまでの業績を振り返る個展を開催。85年『楽しいペーパークラフト』(講談社)を出版。その後の主な展覧会としては、88年「品川工展:素材との対話」(札幌芸術の森センター)、1990(平成2)年「品川工とその周辺の版画家たち」(町田市立国際版画美術館)、96年「現代美術の手法(2)メディアと表現 品川工 山口勝弘」(練馬区立美術館)などがある。また2008年には練馬区立美術館で生誕100年を記念した特集展示「品川工の版画展」が開催された。

萩原英雄

没年月日:2007/11/04

読み:はぎわらひでお  版画家の萩原英雄は11月4日、虚血性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年94。1913(大正2)年2月22日、甲府市相川町に生まれる。21年警察署勤務であった父の赴任地である韓国定州に家族で移住するが、1929(昭和4)年に単身、日本に帰国し日本大学第二中学(現、日本大学附属第二高校)に転入。30年耳野卯三郎に油彩画を学ぶ。32年日本大学第二中学校を卒業し、同年4月に文化学院美術科に入学。同年第9回白日会展に油彩画「雑木林」で、第19回光風会展に油彩画「上り道」で初入選。また、同年の第19回日本水彩画会展に「アネモネ」で初入選を果たす。33年4月東京美術学校油画科に入学。この年にも白日会、光風会に入選するが、東京美術学校の規則として在学中の公募展出品は禁止されていたため、以後、出品していない。この頃は対象を写実的に描写するアカデミックな訓練を受ける一方、セザンヌに心酔し、近隣に住んでいた長谷川利行と34年から知りあって行動を共にして芸術に対する姿勢などに影響を受けるなど、反アカデミズムの傾向を強めた。38年、東京美術学校油画本科を卒業し、高見沢木版社に入社。日本の浮世絵版画の技法等について多くを学ぶ。43年応召により高見沢木版社を退社する。戦災でそれまでの作品を焼失するが、戦後の51年、銀座・資生堂で油彩画による初個展を開催する。53年、肺結核にかかり以後56年1月まで療養生活を送る。この間、リハビリテーションの一環として木版画を手がけ、日本の造形の伝統を再認識して、東洋的な表現を求めるようになる。56年3月に版画による個展を開催。同年、第24回日本版画協会展に「雲」「風」「傷つける牛」で入選。57年第25回日本版画協会展に「渡り鳥」「陽炎」で入選し、同会会友となる。58年第26回同展に抽象的画面を、木版画の平面性から脱した新技法による版で摺り出した「コンポジション≪E≫」ほかを出品し、同会会員となる。同年の第1回国際色彩版画トリエンナーレ(スイス)に「コンポジションR」を出品したほか、第29回ノースウエスト国際版画家展(米国シアトル)に「コンポジションL」を出品するなど、国際展に作品を発表する。60年、第2回東京国際版画ビエンナーレに「石の花(黒)」「石の花(灰)」「石の花(赤)」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。62年、第7回ルガノ国際版画ビエンナーレに「赤の幻想」「藍の幻想」「白の幻想No.1」「緑の幻想」を出品し、浮世絵の空摺り技法を用いたエンボス表現を活かした「白の幻想No.1」でルガノ市長賞(グランプリ)を受賞する。62年第5回現代日本美術展に「鎧える人No.1」「鎧える人No.2」を招待出品。63年、第7回国際日本美術展に「作品A」を招待出品。同年の第5回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「白の幻想No.2」「鎧える人No.6」「鎧える人No.11」を出品し、「白の幻想No.2」でユーゴスラビア科学芸術アカデミー賞を受賞。同年、リュブリアナ近代美術館で「萩原英雄個展」を開催し「石の花(白)」ほか版画30点を展観する。64年には米国フィラデルフィア美術館で個展を開催。65年、第4回クシロン国際木版画ビエンナーレ(スイス)、第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレに出品。66年には第1回クラコウ国際版画ビエンナーレ、第5回東京国際版画ビエンナーレに出品し、後者では「お伽の国No.1」で文部大臣賞を受賞する。67年4月、米国オレゴン州立大学客員教授として招かれ、版画技法の指導をして7月に帰国。同年、第7回リュブリアナ国際版画ビエンナーレで「お伽の国No.12」がリエカ国立近代美術館賞受賞、また、同年チェコスロヴァキア国際木版画展に「お伽の国No.1」「お伽の国No.2」「お伽の国No.17」を出品し、グランプリを受賞する。68年、第1回ユーゴスラビア国際素描展に素描「天使と曲芸Ⅰ」「天使と曲芸Ⅱ」「花の天使」を出品して受賞、70年、第1回バンスカ国際木版画ビエンナーレ(チェコスロヴァキア)に「天使昇天No.3」「天使昇天No.5」を出品して受賞する。86年、郷里の山梨県立美術館で「現代木版画の巨匠・萩原英雄の世界展」が開催され、木版画、油彩画、コラージュなど200点が出品された。1991(平成3)年、日本版画協会名誉会員となる。92年、北海道登別市民会館で「萩原英雄の世界―現代木版画の巨匠展」が開催される。また、同年、第12回バンスカ国際木版画ビエンナーレに「追憶No.11」を招待出品し、名誉賞を受賞する。96年武蔵野市民会館で「萩原英雄―無垢なる世界Vol.1」展、97年、同館で同展Vo.2が開催される。2000年に山梨県立美術館に自らの作品2637点と、収集品のコレクション760点を寄贈。翌年、同館で寄贈品をもとに「作家の眼差し―萩原英雄コレクション展」が開催され、01年には同館で「色彩の賛美歌 萩原英雄全仕事」展が開催された。浮世絵など日本の伝統的木版画技法を踏まえつつ、従来は平面性の強い、複数制作のもの、とされてきた版画に、コラージュによる版木の制作やモノタイプの試みなどにより新たな展開をもたらし、戦後、日本の版画が国際的評価を高めていく中で、その一翼を担った。1977年から84年まで東京学芸大学講師として教鞭を取ったほか、以下のような著書がある。『版画のたのしみ方』(主婦と生活社、1966年)、『現代版画入門』(主婦と生活社、1972年)、『木版画―基礎から創作まで』(主婦と生活社、1980年)、『萩原英雄版画集』(講談社、1982年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.2』(ギャラリー壱山、1986年)、『萩原英雄木版画作品総目録Vol.1』(ギャラリー壱山、1988年)、『日本現代版画 萩原英雄』(玲風書房、1992年)、『美の遍歴』(日本放送出版協会、1996年)

北岡文雄

没年月日:2007/04/22

読み:きたおかふみお  日本と中国の木版技法を融合した作風で知られる版画家の北岡文雄は4月22日、肺炎のため東京都渋谷区内の病院で死去した。享年89。1918(大正7)年1月11日東京都に生まれる。東京美術学校油画科本科3年であった1939(昭和14)年、平塚運一に習い初めて木版画を手がける。この時の作品「静岡風景」は同年の第8回日本版画協会展に出品され、以後同展への出品を続ける。初期の作品は「表現をできるだけ単純にして、対象の核心に迫る表現」が意識され、太い輪郭線に平塚の影響がみられる。42年、平塚主催の「きつつき会」に参加、43年には日本版画協会会員となり、恩地孝四郎や関野準一郎らと知り合う。45年1月新京(現、長春)にあった東北アジア文化振興会に赴任、敗戦後もしばらく安東(現、丹東)に留まり、東京美術学校に留学していた同期の田風と白山芸術学校で再会、中国木刻に出会う。白と黒による劇的リアリズムから受けた衝撃の跡は、本国への引き揚げを描いた「祖国への旅」シリーズ(47年)にみられるが、その表現は政治色や激情を交えない平明なものである。帰国後も、戦前から関わっていた「一木会」(恩地孝四郎主宰)に出席、51年には春陽会会員となる。また続けていた中国木刻風の作品から次第に抽象的作風へと傾いていく。この傾向は50年頃から明確となり、キュビスムや構成主義を経て幾何学的作風へと至るが、やがて再び写実に目覚める。その契機となったのが55年からのフランス留学である。長谷川潔のとりなしでエコール・デ・ボザールのロベール・カミに木口木版を習い、「憩うモデル」「道路工事」等を制作するが本格的な制作は帰国後の60年前後で、北海道の漁村をテーマに「海辺の老人」や「鮭網」等を制作。木口木版と並行して、板目木版による作品も手がけているが、これらは概して幻想性の強い作風となっている。札幌版画協会(現、北海道版画協会)設立にも尽力しており、56年には全道美術協会会員となる。64年フルブライト交換教授として渡米、ミネアポリス美術学校で木版画とデッサンの指導にあたるなどして一年半ほど滞在。この地の風景を描いた「ジョージタウン(ワシントンD.C.)」「樹間」などは幻想性の払拭されたクリアな写実表現となっている。このスタイルは以後北岡の制作の基本となり、日本各地に足を運び風土色溢れる風景版画を次々制作する。78年台北市国家画廊で個展を開いた後、80年には中国政府の招待により北京中央美術学院にて木版図講習と個展を開催。87年に再び同政府より招待され、同美術学院及び、四川美術学院、浙江美術学院にて木版図講習と個展開催。85年の「風土連作」や92~93年の「七曜画譜」といった装飾性の強いモノトーンの連作は、北岡風景版画の集大成ともいえる大作。88年町田市立国際版画美術館にて「北岡文雄木版画展」を開催。1990(平成2)年版画家として初めて日本美術家連盟理事長就任。93年北海道立近代美術館にて「光と風の版風景 北岡文雄の世界」展開催。90年代中頃からは海外の取材も積極的に行い、梅原画廊・NHKサービスセンターの企画により95年から、ユネスコ登録世界遺産自然文化遺産シリーズの制作を始める。97年、勲四等旭日小綬章受章。2006年、日本橋髙島屋にて米寿記念展、09年文芸春秋画廊にて回顧展が開かれる。上記以外にも、生涯を通じて日本国内のみならず、世界各地で精力的に個展を行っている。主な出版物に『木版画の技法』(雄山閣、1976年)、『版木の中の風景 北岡文雄画文集』(美術出版社、1983年)、『北岡文雄 木版画60年 版と造形の探求』(美術出版社、2003年)等がある。

吉原英雄

没年月日:2007/01/13

読み:よしはらひでお  現代日本を代表する版画家吉原英雄は、1月13日膵臓がんのため死去した。享年76。1931(昭和6)年1月3日、広島県因島市に生まれる。17歳のときから近所の画家のもとに出入りし、クレパス画や水彩画、専門書に触れるうち美術の世界に引き込まれ、とりわけパスキンの水彩に惹かれるようになる。浪速大学(現、大阪府立大学)合格後間もなく喀血し入院、病状が快方に向かうと、二科会会員の彫刻家上田暁に弟子入りし、上田も講師を務める大阪市立美術研究所に通うようになる。52年からは、同じく講師であった遠縁の吉原治良のアトリエに通い、本格的に絵を描き始める。芸大・美大への進学志望から転向して、公募展を目指した吉原の初出品は54年の第2回ゲンビ展であった。ゲンビの中心的存在でもあった吉原治良主導の具体美術協会結成に関わるが55年に脱退、瑛九を代表とするデモクラート美術家協会に移る。「イワンの馬鹿」や「断章」、「都会の重心」「空の標識」といったシュルレアリスティックな油彩画を出品する一方、泉茂の影響でリトグラフを始める。57年、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフ「ひまわり」を出品し池田満寿夫とともに入選、泉茂も招待作家として参加したが、これを機にデモクラートは解散する。国際展に入選すること自体が珍しかった当時にあって、58年には第1回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレに「潜水」が入選。この頃から抽象への移行が現れ始め、その決定的作品となる「黒い流れ」は、機械的に描かれた短い線による表現で、続けて複数の円形を並置する構図や版画の紙を破る技法等を試した後、同一画面上で二つの相似した形を並べる方法を取り始める。65年からリトグラフと銅版の併用を始め、鳥の嘴と女性の肉体、原色のストライプを組み合わせた作品を多数制作した後、68年の第6回東京国際版画ビエンナーレに招待出品し同手法による「シーソーI」で文部大臣賞を受賞。米モード誌の写真から引用したスカートの女性モチーフを反復させた構図と鮮やかなブルーが印象的な本作品は、吉原の代表作であると同時に、日本におけるポップアートの記念碑的作品ともいえる。70年、第20回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。その後リトグラフのみによる「ミラー・オブ・ザ・ミラー」シリーズ、70年代後半には銅版による「剥奪されたもの」シリーズ等を展開。78年に京都市立芸術大学教授に就任、若手を育てる一方で、自身は「ガラステーブル」「二つの地平」などのシリーズを手がける。以降晩年にかけて展開された「モノクロームの人々」「樹の聲・人の聲」「二つの地平―残像」などのシリーズではモノクロームの作品が主となる。1994(平成6)年紫綬褒章受章、翌年京都市文化功労者の顕彰を受ける。96年京都市立芸術大学名誉教授に就任。2002年勲三等瑞宝章を受勲。03年大阪市文化功労者の顕彰を受ける。01年町田市立国際版画美術館にて「吉原英雄の世界―色彩の誘惑・形のエロス―」が、05年ふくやま美術館において「吉原英雄:ポップなアート」展が開催された。

南桂子

没年月日:2004/12/01

読み:みなみけいこ  銅版画家の南桂子は、12月1 日午後6時58分、心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年93。本名浜口桂子。1911(明治44)年2月12日、富山県射水郡に生まれる。1928(昭和3)年、富山県立高岡高等女学校を卒業。45年、34歳で東京に移り住み、佐多稲子の紹介で壺井栄に童話を学んだといわれる。49年、第13回自由美術展に油彩画「抒情詩」を出品(出品者名は竹内桂子)。同年油絵を師事した森芳雄のアトリエで浜口陽三と出会う。50年、第2回日本アンデパンダン展、第14回自由美術展に出品する。51年第5 回女流画家協会展に「風景」を出品。その後も同会には52年、53年、55年、56年(出品目録の記載は南佳子)に出品したほか、日本アンデパンダン展(51年、52年)や自由美術展(51年から53年)に、主に油彩画を出品した。52、53年は朱葉会(連立4回と5回)にも出品。53年には東京の丸善画廊で吉田ふじを・友田みね子・南桂子三人展を開催している。54年渡仏、パリでは浜口陽三とともに暮らし、フリードランデルの版画研究所でアクアチントを学ぶようになる。54年に第18回自由美術展に銅版画「占い師」「小鳥と少女」を出品。翌55年、自由美術家協会会員に推される。同年の日本アンデパンダン展にも銅版画を出品した。56年、フランス文部省がアンデパンダン展に出品した「風景」を買い上げる。58年にはユニセフによるグリーティングカードに「平和の木」が採用された。パリにいながら自由美術展には22回まで出品を続ける。50年代末から70年代にかけては東京やリュブリアナの国際版画ビエンナーレ、タケミヤ画廊での銅版画展、国内外で開催される日本の現代版画を扱う展覧会にも多数出品している。この時期、個展はニューヨークやサンパウロ、ハイデルベルグなど各地で開かれ、浜口との二人展を含めて国内でも多数の発表の機会を持った。また、日本版画協会展(59年27回、64年32回、65年33回、66年34回、82年50回)、現代日本美術展(60年4回、64年6回、66年7回、68年8回)、日本国際美術展(61年6回、63年7回、65年8回、67年9回)、国際形象展(69年8回から72年11回まで)などにもパリから出品している。61年から81年まで、パリの画廊と専属契約を交わす。81年にはサンフランシスコに移り、日本に帰国したのは1996(平成8)年だった。南は、硬質な線を用いて少女や樹木、鳥などのモチーフを繰り返し描き、陰影を伴わない静謐で幻想的な空間を作り出した。神奈川県立近代美術館で61年にフリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展が開かれたほか、90年には高岡市美術館で個展が開催された。浜口陽三との二人展は、高岡市美術館では95年に、また練馬区立美術館では2003(平成15)年に、01年には高岡市美術館で宮脇愛子との二人展が開催されている。また、98年には東京・日本橋蛎殻町に美術館「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が開館し、南作品も常設展示される。05年4月には同館で追悼展、06年4月南桂子―bonheur―展が開かれている。70年に谷川俊太郎の詩集『うつむく青年』の装画を手がける。作品集は、手のひらに収まる『限定版南桂子の世界 空・鳥・水…』(美術出版社、1973年)のほか、『南桂子全版画作品集』(中央公論美術出版、1997年)、『南桂子作品集 ボヌール』(リトルモア、2006年)がある。

由木礼

没年月日:2003/11/26

読み:ゆきれい  版画家の由木礼は11月26日12時5分、心筋梗塞のため死去した。享年75。本名上村礼生(うえむら・のりお)。1928(昭和3)年11月7日、東京・芝白金に生まれる。45年3月日本中学を卒業。大学受験を控えた由木を残して家族は福岡県に越していたが、同年4月、父を失ったため由木も福岡に移り住む。47年上京、萩原朔太郎の詩に衝撃を受ける。続いてボードレールやポーに惹かれ、それらを原語で読むためにフランス語と英語を学び、アテネ・フランセに通う。52年同校を卒業、そのまま職員となる。この頃恩地孝四郎や品川工の版画を知り、品川に師事する。53年第21回日本版画協会展に「陽気な風景」「五月の葬式」で初入選。56年、品川が中心となったグラフィック・アート・クラブに参加、グループ展に出品し人的交流を広げ、それを契機に57年サトウ画廊で初個展を開催した。70年第47回春陽展に「デュラの雪」「ホワイトピラミッド」が初入選、76年春陽会会員。ほぼ毎年日本版画協会展と春陽展に作品を発表した。加えて国際木版画展に参加したほか、ニューヨークやトロントなど海外でも個展を開催。81年にフランスのシャロン市立ドゥノン美術館で個展を、翌82年には神奈川県民ホールで土谷武、難波田龍起とともに三人展を開催する。1997(平成9)年、版画集団「版17」を結成、国内外でグループ展を開催した。99年第76回春陽展で岡鹿之助賞を受賞。由木は木版のマティエールを生かし、「時」をよく題材にした。60年代半ばには、その抽象的な形態に地面から立ち上がり長く伸びたゆらめく黒線が現れ、画面は具象と空想が入り混じった空間となった。90年代には色彩豊かなピラミッドをよく描く。そのほか由木は由木式ボールバレンと呼ばれるばれんを開発し、発光する造形作品「カレイドスペクトラ」や絵札「悪魔骨牌」(あくまかるた)も創作している。2005年には『由木礼全版画集』が玲風書房から出版されている。

浜口陽三

没年月日:2000/12/25

読み:はまぐちようぞう  銅版画家で、日本版画協会名誉会員の浜口陽三は、12月25日午後5時41分、老衰のため東京都港区の病院で死去した。享年91。1909(明治43)年4月5日、和歌山県有田郡広村に生まれる。父浜口儀兵衛は、ヤマサ醤油十代目社長。幼少時、父が家業の醤油醸造業に専念するため、一家で千葉県銚子市に移る。上京して中学に通い、1928(昭和3)年中学を卒業、東京美術学校彫刻科塑造部に入学。30年同学校を中退し、渡仏。パリ滞在中は、アカデミー・グラン・ショーミエールなどの美術学校に一時通うが、もっぱら自室で油彩画を描き、海老原喜之助、村井正誠、岡本太郎、森芳雄など、パリの日本人画家たちと交友する。39年、第二次世界大戦勃発のため帰国。戦後、銅版画の技法を学び、51年、銅版画による最初の個展を開催(東京銀座、フォルム画廊)。53年、私費留学生として再渡仏。55年、4色版を使用した最初のカラーメゾチント作品「西瓜」を制作。57年6月、第1回東京国際版画ビエンナーレに「青いガラス」、「水さしとぶどう」を出品、東京国立近代美術館賞受賞。同年10月、第4回サンパウロ・ビエンナーレに「西瓜」等を出品、日本人として初めて版画大賞を受賞。58年1月、第9回毎日美術賞特別賞を受賞。61年6月、第4回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「キャベツ」等を出品、グランプリ受賞。このように果物や身辺の静物をモティーフにした作品は、カラーメゾチンという独自の技法によって、親密でより深い情感をもたらすようになり、それによって国際的にも一躍注目されるようになった。81年、パリから、米国サンフランシスコに移住、同年和歌山県文化賞受賞。85年、日本国内で最初の回顧展となる「浜口陽三展-静謐なときを刻むメゾチントの巨匠」が開催される(東京、有楽町西武アート・フォーラム、国立国際美術館)。86年、勲三等旭日中綬章を受賞。1998(平成10)年、浜口の作品を常設展示する施設として「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」が、東京都中央区日本橋蛎殻町に開館した。没後の2002年9月から03年9月まで、生前作家夫妻により国立国際美術館に寄贈された作品をもとに構成された「浜口陽三展」が、国立国際美術館をかわきりに、千葉市美術館、足利市立美術館、都城市立美術館、熊本県立美術館を巡回している。エスプリにあふれた、簡潔な構図のなかで、奥深い情感をたたえたその版画作品は、技法もふくめて他に類例がないものとして今後も、評価されつづけていくことだろう。

徳力富吉郎

没年月日:2000/07/01

読み:とくりきとみきちろう  版画家で西本願寺絵所12代目の徳力富吉郎は7月1日午後7時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年3月22日、京都市の西本願寺絵所を代々務める徳力家に生まれる。父が森寛斎の門弟であった関係で、幼少時より父の兄弟子にあたる山元春挙に絵の手ほどきを受ける。1920(大正9)年より京都市立絵画専門学校に日本画を学び、入江波光の指導を受けた。在学中の22年、第4回帝展に「花鳥」が入選。翌年の卒業後は土田麦僊の山南塾に入る。その一方、鹿子木孟郎の下鴨画塾にも通いデッサンを学んでいる。1927(昭和2)年第6回国画創作協会展に洋画的写実を取り入れた「人形」「人形とレモン」が初入選し、後者で樗牛賞を受賞。第7回展には日本画的な装飾性を生かした「初冬」「茄子」が入選し、国画奨学金を受ける。28年に国画創作協会が解散すると新樹社の創立に参加。また平塚運一の版画講習会に参加したのをきっかけに京都の麻田辨自、浅野竹二、東京の棟方志功、下山木鉢郎らとグループ「版」を結成し、同人誌『版』を創刊する。新樹社でも日本画とともに版画を出品。29年の第10回帝展に版画「月の出」が入選し、30年から33年まで春陽会にも版画を出品する。31年には麻田辨自、浅野竹二らと版画の大衆化を目指す版画誌『大衆版画』を発刊、二号で終刊となるが、その姿勢は以後も貫かれることになる。戦後は46年に版画製作所を興し、徒弟を養成して産業的版画の量産を始める。51年、京都版画協会を結成。版画工房を主宰。72年に薬師寺吉祥天像の複製版画、また85年に西本願寺西山別院の襖絵を制作している。80年には京都市文化功労者、1992(平成4)年に京都府文化賞特別功労賞を、96年日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受賞。91年には版画普及のため京都版画館を設立。主著・画集に『版画随筆』(三彩社 67年)、『日本の版画』(河原書店 68年)、『徳力富吉郎画集』(安部出版 84年)、『花竹庵の窓から』(京都新聞社 88年)、『もくはん 徳力富吉郎自選版画集』(求龍堂 93年)がある。

内間安瑆

没年月日:2000/05/09

読み:うちまあんせい  木版画家内間安瑆は、5月9日夕刻(現地時間)、米国ニューヨーク市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年、沖縄県出身の両親が移住した米国カリフォルニア州ストックトンに生まれる。1940(昭和15)年に来日、44年早稲田大学建築科を中退して、絵画を独学する。52年頃から木版画制作をはじめる。54年、デモクラート美術協会の青原俊子を結婚。55年、最初の個展(銀座、養清堂画廊)を開催するとともに、日本版画協会会員となる。58年1月、東京銀座の養清堂画廊で泉茂、吉田政次と版画三人展、同年10月、同画廊で利根山光人、駒井哲郎、浜田知明等と「版画八人集」展開催。59年渡米、ニューヨークに住む。以後、日米両国での個展のほか、70年の第35回ヴェネチア・ビエンナーレ、72年のイタリアで開催された第2回国際現代木版画トリエンナーレなど、国際展にも出品をつづけた。しかし、82年に病に倒れ、以後制作は中断していた。代表作となった「Forest Byobu」(81年)にみられるように、多色木版画によって、色彩の豊かさと変化を、繊細な感覚で表現した。これは、浮世絵の伝統的な木版画技法を活用して、多色刷りの「色面織り」と称する独自の技法によって表現されたもので、米国、日本で高く評価された。

畦地梅太郎

没年月日:1999/04/13

読み:あぜちうめたろう  日本版画協会名誉会員の版画家畦地梅太郎は12日午前3時38分、肺炎のため町田市の多摩丘陵病院で死去した。享年96。1902 (明治35)年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村金銅(ふたなむらかなどう、現在の北宇和郡三間町)に生まれる。18(大正7)年、村役場の給仕試験を受けるが不合格となり、村を出る決心をし、長兄を頼って大阪へ向かう。長兄は中国航路の船員をしており、梅太郎も2年あまり船員となった。その後、新聞配達、配送などの仕事をするが、その問、美術学校の生徒が写生をしているのを見かけ、画家に憧れ、日本美術学院の通信教育を受ける。その受講仲間で「七星会」を結成し、グループ展も開催。しかし、23年9月の関東大震災により帰郷を余儀なくされ、1年あまり宇和島で石版印刷や看板屋につとめる。25年、再度上京。七星会会員の山田辰造の紹介で内閣印刷局に勤務する。職場で手近にある鉛板を用いて版画を制作し、下宿の近くに居住していた平塚運一に作品を見せて激励される。また、同郷の知人の紹介でデッサンを学びに行っていた小林万吾にも版画制作を勧められる。27(昭和2)年第7回日本創作版画協会展に初入選。恩地孝四郎や前川千帆らの仕事を手伝うようになり、同年、内閣印刷局を退職。初期には鉛板に細い線で都市風景を描いたプリミティフな作品を制作したが、これ以降木版画を制作するようになる。都市を主要なモティーフに、再現的な描写が行われている。しかし、36年『伊予風景』全10点を刊行するころから都市風景を離れ、自然な山河を描くようになる。そして、37年、草木屋軽井沢店で木活字本の仕事をすることとなり、浅間山を初めて見たのがきっかけとなり、畦地の生涯を貫くこととなった山をモティーフとする制作が始まる。自ら山に登り、山中を歩いて取材している。40年第15回国画会展で二度目の図画奨励賞受賞。43年、版画家旭正秀の紹介で、東北アジア文化振興会勤務のため満州へ渡り、翌年帰国。戦後一時四国の御荘に居住するが、46年に上京し、同年第1回日展に「伐木」を出品。日本版画協会展には9点を出品したほか、国画会展にも出品する。52年国画会展に畦地自身が初めての「山男」を描いた作品と語る「登攀の前」を出品。53の第2回サンパウロビエンナーレ、56年ルガーノ国際版画ビエンナーレ、57年スイスでの第2回国際木版画ビエンナーレに出品し、いずれも好評を得る。この頃から、人物像を簡略化し独自のデフォルメを加えた山男像で広く知られるようになる。50年代に美術界に吹き荒れた抽象の嵐の中、すでに山の版画で地位を築いていた畦地も、画面を単純な幾何学的形態と明快な色面で構成する抽象表現を試みる。しかし、50年代の国際展によって日本の美術界における版画の位置が急上昇するのに伴い、池田満寿夫の登場などこの世界での動きがめまぐるしくなるなかで、60年代前半に畦地は自らの制作に疑問を抱くようになり、画壇での地位を築き社会的にも広く知られて随筆、挿絵の仕事も増えたことも一因となって、66年の日本版画協会展、国画会展以降、公募展に出品しなくなる。67年から3年間続けて新作展を開催し、制作に専念するが、70年7月電気のこぎりで版木を切断中に右親指を負傷。その後1年あまり制作から離れる。72年2月東京京橋のギャラリープリントアートで個展を開催。73年『畦地梅太郎 人と作品』(南海放送)が刊行され、同年9月郷里の愛媛県立美術館で「とぼとぼ五十年展」が開催される。74年2月ストーブのヤカンを倒し全身に火傷を負う。この事故による精神的ショックからしばらく制作を離れる。自ら山歩きをできなくなったため、山男から家族へとモティーフを変え、85年に「石鎚山」「みどり、さわやか」まで制作を続ける。92(平成4)年、画業を回顧する大規模展が町田市立国際版画美術館で「山の詩人・畦地梅太郎展」と題して開催され、同年『畦地梅太郎全版画集』(南海放送、町田市立国際版画美術館)が刊行された。年譜、文献目録は同書に詳しい。また、2001年9月町田市立国際版画美術館で「生誕百年記念 畦地梅太郎展 山のよろこび」が開催されている。

平塚運一

没年月日:1997/11/18

読み:ひらつかうんいち  日本版画界の長老であった木版画家の平塚運一は11月18日午後6時17分、急性心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。享年102。明治28(1895年10月17日、島根県松江市の宮大工の家に生まれる。大正2(1913)年、松江商業学校を中退。同年、石井柏亭の洋画講習に参加して絵に興味を抱き、同4年に上京して柏亭に師事し、また、版画技術を伊上凡骨に学ぶ。同5年第3回二科展に「出雲のソリツコ舟」「雨」で初入選、同年第3回院展に「出雲風景」「麓の小山」で初入選する。版画の全制作過程をひとりで行う「自画自彫自摺」により、作品のオリジナリティーを高める近代版画の先駆者のひとりであり、同7年日本創作版画協会の創立に参加した。昭和2(1927)年、『版画の技法』を出版。このころから山本鼎の農民美術運動に参加して版画講師として全国をめぐった。同3年棟方志功らとともに版画雑誌「版」を創刊。同5年国画会会員となり、同6年国画会版画部を創設した。同10年より東京美術学校で講師をつとめ、木版画を指導する。戦後は黒と白のコントラストを生かした力強い作風で裸婦や風景を多く描いた。同37年に米国に渡り、ワシントンに定住して制作、発表を続けるとともに、日本の伝統的な木版技術の普及につとめた。平成3(1991)年、長野県須坂市に平塚運一版画美術館が開館。同7年に帰国。翌8年横浜の平木浮世絵美術館で「平塚運一展百寿記念」が開かれた。

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