野島康三

没年月日:1964/08/14
分野:, (写)

国画会会員野島康三(号・熈正)は、39年(1964)8月14日、神奈川県葉山の自宅において死去した。享年75才。明治22年(1889)浦和市に生れ、慶應義塾在学中から写真研究に入り、写真家として成功し、かたわら洋画を春陽会展、国画会展に出品、また大正期、昭和初期には岸田劉生、万鉄五郎、富本憲吉梅原龍三郎などの後援者・蒐集家として美術界に貢献した。
略年譜
明治22年(1889) 2月12日銀行家野島泰次郎の長男として浦和市に生れる。
明治38年 慶應義塾普通部に入学。
明治40年 写真を始める。第2回写真品評会、東京写真研究会第1回展に出品する。
明治43年 東京写真研究会に入会する。
大正元年 病気のため慶應義塾大学を退学する。
大正4年 三笠写真館を開設する。
大正8年 兜屋画堂を開設し、関根正二、村山槐多の遺作展を開催するとともに、中堅作家の発表の場とする。
大正9年 兜屋画堂を閉鎖する。三笠写真館を移譲し、野々宮写真館を東京・九段下に開設する。
大正11年 東京小石川竹早町の自邸を開放して、岸田劉生、万鉄五郎、小林徳三郎富本憲吉などの個展を開催する。
大正13年 第2回春陽会展に洋画を出品し入選する。
昭和元年 国画創作協会の第2部(洋画)開設に関与し、油絵を出品して同会会友に推される。日本写真会第2回展に富本憲吉柳宗悦の肖像を出品する。
昭和2年 第6回国画創作協会展に出品する。野島主催の野々宮写真展を開催。
昭和3年 国画創作協会第1部解散し、梅原龍三郎が第2部を国画会と改称して発足するのを助け、評議員として参加する。
昭和4年 国画会に裸婦など出品。
昭和7年 自費を投じ写真雑誌「光画」を発刊。伊奈信男、木村伊兵衛、中山岩太などなど編集に当り近代写真の樹立を目ざす。小石川自邸に李朝陶磁器展及び日本古民芸展を開催。
昭和8年 写真の個展開催(銀座紀伊国屋ギャラリー)12月「光画」廃刊。
昭和9年 銀座三昧堂にて写真の個展を開催。
昭和10年 慶応大学カメラクラブ顧問および全日本写真連盟委員となる。
昭和11年 福原信三夫妻とハワイ旅行。
昭和14年 福原信三と国画会に写真部を創設。
昭和28年 第2回写真の日(6月1日)に日本写真協会より表彰される。
昭和38年 日本フォトセンター(株)相談役としてパークスタジオ建設を後援。
昭和39年 8月14日神奈川県葉山一色の自邸で永眠。75才。11月23日より1週間有楽町フォトサロンでフジ・フィルムの協力と国画会、日本写真会、野々宮会、一色会の共催によって野島康三回顧遺作展を開催した。なお故人の遺志により、一美術愛好家として国画会の絵画、彫刻、写真、版画、工芸の5部門に「野島賞」を設定した。

出 典:『日本美術年鑑』昭和41年版(114頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「野島康三」『日本美術年鑑』昭和41年版(114頁)
例)「野島康三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8974.html(閲覧日 2024-04-20)

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