本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





岡田新一

没年月日:2014/10/27

読み:おかだしんいち  建築家の岡田新一は10月27日、東京都内にて呼吸不全のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年、茨城県水戸市に生まれる。48年旧制静岡高等学校卒業、東京大学工学部建築学科、同大学院に進学し、57年に修士課程修了後、鹿島建設株式会社に入社。同社設計部在籍中にイェール大学建築芸術学部大学院に留学、63年修了後Skidmore Owings and Merrill設計事務所(ニューヨーク)に出向。65年鹿島建設株式会社理事・設計部企画課長。 69年、最高裁判所新庁舎設計競技に参加して最優秀賞を獲得。「法と秩序を象徴する正義の殿堂として、この地位にふさわしい品位と重厚さを兼ね備えると共に、その機能を果たすに足りる内容を持つこと」を要件としたこのコンペには、丹下健三チームをはじめ217点の応募があったが、5年前の国立劇場コンペ(竹中工務店設計部一等当選)に続いて建設会社設計部の案が選ばれたことは、高度成長期における設計組織の台頭を象徴する出来事として、建築界に少なからぬ衝撃を与えた。 コンペの規定に従い独立して株式会社岡田新一設計事務所を設立したのち、74年に竣工した最高裁判所庁舎は、7棟からなる巨大建築で、白御影石貼りの壁がそそり立つ外観が威圧的にすぎるとの批判も巻き起こした。翌75年に日本建築学会賞に選ばれた同庁舎は、岡田の代表作品となるとともに、以後における、警視庁本部庁舎(1980年)、岡山市立オリエント美術館(1981年)、東京大学医学部付属病院(1982年基本計画)といった、大規模な公共建築を中心に設計活動を行う方向性と、石材などを多用した重厚な作風を確立する契機ともなった。JA25 SHIN’ICHI OKADA 特集岡田新一(1997年、新建築社)には、最高裁判所庁舎以来、当時までの代表的作品が収録されており、2008(平成20)年には岡山県立美術館開館20周年特別展として、「建築家岡田新一と岡山県立美術館20年」が開催された。 都市計画や国土計画等の分野でも、審議委員等の立場も含めて発信を行ったほか、「都市を創る」(彰国社、1995年)、「病院建築:建築におけるシステムの意味」(彰国社、2005年)など、設計にあたっての考え方やプロセスを体系化して著述・公開することにも力を注いだ。訳書に、「SD選書11 コミュニティとプライバシィ」(S.シャマイエフ、C.アレキザンダー著、鹿島出版会、1978年)がある。 89年米国建築家協会(AIA)名誉会員、96年には「宮崎県立美術館及び一連の建築設計」に対して日本芸術院賞及び恩賜賞受賞、04年芸術院会員、10年日本建築学会名誉会員。08年には旭日中綬章を受章している。

赤瀬川原平

没年月日:2014/10/26

読み:あかせがわげんぺい  美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川の進路に決定的な影響を及ぼす。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。同級には、荒川修作、岩田信市などがいた。55年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退。57年から日本アンデパンダン展、58年から読売アンデパンダン展に出品。58年には道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していた。 59年4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受ける。60年、吉村と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川は、廃物を利用したオブジェを制作していた。その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、62年8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川個人の作品としては、梱包作品や模型千円札がある。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まり、65年11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。70年4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定する。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、70年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられる。 68年に燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動をおこなう。70年、今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表。また、69年から『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始した「現代野次馬考」シリーズや70年から『朝日ジャーナル』に連載を開始した「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに70年代半ばまで取り組む。78年、最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表。79年、尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となり、81年、「父が消えた」で芥川賞受賞。83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがある。1998(平成10)年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなる。 初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家であった。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられた。赤瀬川自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)がある。また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしている。

上野アキ

没年月日:2014/10/12

読み:うえのあき  美術史家で東京文化財研究所名誉研究委員の上野アキは、10月12日、癌のため、死去した。享年92。 1922(大正11)年9月15日に生まれる。父上野直昭は、京城帝国大学教授、大阪市立美術館長、東京藝術大学学長等を歴任した美術史家、母ひさは、大正3年に音校のヴァイオリンを卒業したヴァイオリニストであった。姉のマリは、美術史家吉川逸治の妻となった。24年から1927(昭和2)年までの約2か年半、父がドイツに留学したため、鎌倉の祖父母の家に預けられた。その後、父が京城帝国大学教授となったので、27年8月から38年10月まで、京城で暮らした。この間に、父と共に慶州や仏国寺等を訪れ、石窟庵など見学した。 40年3月、私立桜蔭高等女学校を卒業。同年4月に東京女子大学高等学部に入学し、42年9月に同校を第3学年で繰り上げ卒業した。41年2月に大阪市立美術館長となった父が、この時期、夙川のアパートメントに住んでいたので、卒業後、1か月あまり、ここに居候し、寺や美術館などを見て歩いた。当時進められていた法隆寺の壁画模写を見学し、聖林寺の聖観音、新薬師寺の香薬師等を観た。 42年11月に美術研究所の臨時職員に採用された。当時の所長は、前年の3月に京城帝国大学を定年退職した田中豊蔵であった。43年までは資料室に属し、その後、資料室を離れて、美術研究の編集を担当した。そのうち戦争が激しくなったため、美術研究所は、黒田清輝作品などを疎開させねばならなかった。44年8月に黒田清輝作品とガラス原板を東京都西多摩郡小宮村及び檜原村に疎開させた、また、45年5月末に、図書、焼付写真、その他の資料を山形県酒田市に疎開させ、さらに7月、牧曽根村、松沢世喜雄家倉庫、観音寺村村上家倉庫、大沢村後藤作之丞家倉庫に分散し、疎開させた。上野は、東京に残留し、黒川光朝とともに美術研究を担当し、紙の手当や印刷所探しなどに追われた。 終戦直後は、美術研究所の復興に忙しかった。46年4月4日、図書、焼付写真が研究所に戻り、同年4月16日に黒田清輝作品、写真原板が研究所に戻った。職員が総出で整理に当たり、同年5月20日に美術研究所の復興式を挙行した。上野は、48年4月に国立博物館附属美術研究所の常勤の事務補佐員となり、49年4月に国立博物館附属美術研究所の研究員(文部技官)となった。51年1月に文化財保護委員会附属美術研究所資料部に配属、52年4月に東京文化財研究所美術部資料室に配属された。60年、高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(1959年3月刊行)によって、第50回日本学士院賞恩賜賞を共同研究者として受賞した。62年以降、『東洋美術文献目録』(1941年刊行)に次ぐ目録の編纂事業が始まり、上野は、辻惟雄、永雄ミエ、江上綵、関口正之らとともにこの事業に参画した。69年3月に『日本東洋古美術文献目録 昭和11〜40年』が刊行された。69年4月に東京国立文化財研究所美術部主任研究官となり、76年4月に東京国立文化財研究所美術部資料室長となった。77年4月、東京国立文化財研究所情報資料部の創設に伴い、文献資料研究室長となった。84年3月に辞職し、東京国立文化財研究所名誉研究員となった。 上野の研究テーマの一つは、中央アジア古代絵画史研究である。当初、上野は大谷探検隊の収集品について研究を進め、とりわけ新疆ウイグル自治区トルファン地区の遺跡出土品の研究を、ヨーロッパや中国の報告書をもとに行った。68年に東京国立博物館に東洋館が開館し、大谷探検隊収集品が収蔵、展示されたことにより。上野の研究に拍車がかかった。73年には、「中央アジア絵画における東方要素とその浸透についての検討」のテーマで科学研究費を受け、国内所在の中央アジア絵画及び模本類の調査を進め、かつ敦煌絵画研究の成果を踏まえて、中央アジア絵画に見られる東方要素の考察を進めた。また、龍谷大学や天理参考館が所蔵する伏羲女媧図を外国所在の類品と比較して、墓葬画としての特質を抽出した。上野は、海外の美術館や博物館が所蔵する中央アジア関連遺品や現地調査も積極的に行った。66年7月から9月にかけて、大英博物館、ギメ東洋美術館、ベルリン国立美術館(インド美術館)の所蔵品、さらにニューデリーの国立博物館が所蔵するスタイン資料の調査を行った。76年10月から12月には、文部省の在外研究員として、アメリカとヨーロッパの美術館や博物館を訪ね、中央アジアの遺品を調査し、とくにドイツ探検隊のル・コックの手元を離れた壁画断片類の所在地、現状、元位置等を詳細に研究した。79年にはトルファン、80年には敦煌を訪ね、中央アジア絵画の研究を深めた。 上野の研究のもう一つのテーマは、高麗時代の仏画の研究である。上野は、76年から2か年、科学研究費による研究「朝鮮の9〜16世紀の仏教美術に就ての総合的研究―特に日本国内の所蔵品調査を中心として―」に参画し、高麗時代の仏画を重点的に調査して、高麗仏画独特の表現や技法を解明した。77年10月に韓国芸術院で開催された第6回アジア芸術シンポジウムに参加し、「日本所在の韓国仏画」と題して成果の報告を行い、大きな関心を集めた。研究成果は、その後、81年刊行の『高麗仏画』収載の論文や作品解説にまとめられた。主な著作「西域出土胡服美人図について」『美術研究』189(1957年)「装飾文様」高田修編『醍醐寺五重塔の壁画』(吉川弘文館、1959年)「喀喇和卓出土金彩狩猟文木片」『美術研究』221(1962年)「トルファン出土彩画断片について」『美術研究』230(1963年)「古代の婦人像―正倉院樹下美人図とその周辺」『歴史研究』13-6(1965年)「トユク出土絹絵断片婦人像」『美術研究』249(1967年)「敦煌本幡絵仏伝図考(上)」『美術研究』269(1970年)「エルミタージュ博物館所蔵ベゼクリク壁画誓願図について」『美術研究』279(1972年)『東洋美術全史』(共著、東京美術、1972年)「敦煌本幡絵仏伝図考(下)」『美術研究』286(1973年)「アスタナ出土の伏羲女媧)図について(上)」『美術研究』292(1974年)「アスタナ出土の伏羲女媧図について(下)」『美術研究』293(1974年)「アスターナ墓群」『中国の美術と考古』(六興出版、1977年)「キジル日本人洞の壁画―ル・コック収集西域壁画調査(1)」『美術研究』308(1978年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(上)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』312(1980年)「キジル第3区マヤ洞壁画説法図(下)―ル・コック収集西域壁画調査(2)」『美術研究』313(1980年)「高麗仏画の種々相」『高麗仏画』(朝日新聞社、1981年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第1巻』(翻訳)(講談社、1982年)『西域美術―大英博物館スタインコレクション― 第2巻』(翻訳)(講談社、1982年)Spread of Painted Female Figures around the Seventh and Eighth Centuries, Proceedings of the Fifth International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property -Interregional Influences in East Asian Art History, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. 10.「絵画作品の諸問題」 龍谷大学三五〇周年記念学術企画出版編集委員会編『佛教東漸 祇園精舎から飛鳥まで』(龍谷大学、1991年)「父上野直昭のこと」財団法人芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会編『上野直昭日記 東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻 別巻』(ぎょうせい、1997年)「アスターナ出土の絵画と俑」『エルミタージュ美術館名品展―生きる喜び―』新潟県立近代美術館 2001.7.6〜9.5、ATCミュージアム(大阪市) 2001.9.15〜11.4

澤村仁

没年月日:2014/10/04

読み:さわむらまさし  建築史家で九州芸術工科大学名誉教授の澤村仁は、10月4日15時26分肺炎のため死去した。享年86。 1928(昭和3)年11月16日、東京都に生まれる。49年旧制静岡高等学校理科卒業後、東京大学工学部建築学科に入学。54年同学科卒業後、東京大学数物系大学院建築学コースに進学、指導教官である太田博太郎博士や藤島亥治郎博士の薫陶を受けながら、当時社会的な課題とされた農民の生活改善の一環で始められた農家住宅に関する建築学的調査に参加するとともに、四天王寺(大阪)や毛越寺(岩手)などの古代寺院の伽藍の発掘調査にも加わり、検出遺構について現存する古社寺との比較研究と合わせ、出土瓦の類型に関する分析を行うなど考古学的研究にも強い関心を持った。 59年同大学院博士課程単位取得満期退学後、浅野清博士の勧めもあって大阪市難波宮址顕彰会に入会し、山根徳太郎博士の指導の下、難波宮跡の発掘調査研究に従事した。会では、これまでに培った都城や寺院など古代遺跡の調査の経験から遺構配置の計画性を見抜き、測量技術を駆使して調査範囲の異なる区域の検出遺構等断片的なものを図上で繋ぎ、後期難波宮大極殿、内裏回廊基壇など重要遺構の性格を明らかにするなど大きな成果を上げ、同遺跡の調査研究ならびに保存に大いに貢献した。これらの業績によって、70年、「難波宮跡発掘調査の業績」として山根徳太郎博士らと昭和44年度日本建築学会賞(業績賞)を共同受賞した。 62年、平城宮の調査研究が本格化し始めた時期に奈良国立文化財研究所に入所、以後平城宮跡の発掘調査はもとより全国の主要遺跡の発掘調査に参加し、当時始まったばかりの大規模発掘調査の手法確立に貢献するなど遺跡研究にも精通した建築史学者の一人として活躍する。63年「延喜木工寮式の建築技術史的研究ならびに宋営造法式との比較」により東京大学より工学博士号が授与される。64年から平城宮跡発掘調査部第三調査室長等を歴任、70年同部遺構調査室長となる。 73年7月、九州芸術工科大学(現、九州大学)環境設計学科教授に就任し、1992(平成4)年3月退官するまで日本建築史及び都市史等の講座を担当した。この間、九州、山口地方の民家や町並み、近世社寺建築の調査など精力的に行ったほか、文化財保護行政にも積極的に関わり、調査委員として鹿児島県の民家調査や福岡・佐賀・大分等の近世社寺建築調査を担当した。さらには城下町長府(山口県下関市)、英彦山宿坊(福岡県添田町)、城下町秋月(福岡県甘木市)、有田町(佐賀県)などの町並調査では主任調査員を務めた。そして、祁答院家、二階堂家住宅や善導寺本堂ほか(福岡)、薦神社神門(大分)等近世社寺建築など重要な建築遺構や秋月城下町や有田焼の生産で知られる有田の町並などの保存にも尽力し。退官後は名古屋に転居し、93年4月愛知みずほ大学教授に就任、99年まで教鞭をとった。 澤村は、教育者であるとともに、研究者として建築史と考古学の狭間とも言うべき研究領域に立って、70年代後半以降急速に拡大した地域開発事業にともなう発掘調査等にも積極的に従事し、検出した建築遺構の平面形式や出土部材の分析などから上部構造を推定し遺跡の性格等について総合的に考察したほか、検出遺構の復元模型の製作にあたっても建築史家として指導的な役割を果たした。調査研究に関わった主な遺跡に、前述の遺跡のほか大宰府政庁、鴻臚館などがある。後者ではともに主要遺構の復元模型製作を手がけ、後の遺跡の調査研究にあたって大きな足跡を残したことでも知られる。 主な著書として、『薬師寺東塔』(奈良の寺10 岩波書店、1974年)、『日本建築史基礎資料集成4 仏堂Ⅰ』(共著、中央公論美術出版、1981年)、『民家と町並み 九州・沖縄』(日本の美術290 至文堂、1990年)、『日本古代の都城と建築』(中央公論美術出版、1995年)、『日本建築史基礎資料集成5 仏堂Ⅱ』(共著、中央公論美術出版、2006年)など多数ある。

辰野登恵子

没年月日:2014/09/29

読み:たつのとえこ  画家で、多摩美術大学教授の辰野登恵子は、9月29日、転移性肝癌のため死去した。享年64。 1950(昭和25)年1月13日、長野県岡谷市に生まれる。68年3月、長野県諏訪二葉高等学校を卒業、同年4月東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻に入学。72年3月、同大学を卒業、同年4月同大学大学院美術研究科油画専攻に進む。74年3月、同大学院修士課程修了。 在学中から、ポップアート、ミニマルアートの隆盛に敏感に呼応しながら、無機的なフォルムの連続のなかに不意にあわわれる差異や断絶を表現した作品(シルクスクリーン等)を発表していた。その後、1980年代から絵画表現に取り組み、絵画の平面性を意識しつつ、断片的で、かつ具体的なフォルムに依拠しながら現代「絵画」の可能性を切り開いていった。その表現とは、当時のニュー・ペインティングの流行とは一線を画して、ミニマルアート以後硬直化した平面表現に、「絵画」を構成する線やフォルム、色彩の持つ本来の豊かさと深さを提示するものであり、新鮮な衝撃をもって注目されるようになった。84年11月、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 メタファーとシンボル」展に出品。(同展は、国立国際美術館に巡回)。1989(平成元)年、ゲント市立現代美術館(ベルギー)で開催の「ユーロパリア ’89ジャパン現代美術展」に出品。94年2月、ゲストキューレターにアレクサンドラ・モンローを迎え、企画された横浜美術館の「戦後日本の前衛美術」展(Japanese Art after 1945:Scream against the Sky)に出品(同展は、米国ニューヨークのグッゲンハイム美術館、並びにサンフランシスコ現代美術館を巡回。)同年、第22回サンパウロ・ビエンナーレ(日本側コミッショナー:本江邦夫)に遠藤利克、黒田アキとともに出品。95年9月、東京国立近代美術館にて「辰野登恵子 1986-1995」展を開催。10年間にわたる絵画作品39点等による個展を開催し、現代における「絵画」表現のひとつの指針を示すものとして評価された。翌年、第46回芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。2003年、多摩美術大学客員教授となり、翌年から同大学教授となる。12年8月、国立新美術館にて「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」展を開催。翌年、第54回毎日芸術賞受賞。 90年代以降、華やかな色彩と重厚なテクスチャーに支えられた大画面の空間に、球体、矩形、波形等、きわめてシンプルなフォルムの連環を大胆に描き続けていたが、その背後にはプライヴェートなイメージの増幅、変容ばかりではなく、現代美術、あるいは平面表現の動向に対する批判的、戦略的な造形思考と意図がこめられていたといえる。しかも新作においては、つねに新しい試みが示され、今後の可能性を大いに期待されていた。没後、追悼する展示が、下記にあげるように辰野作品を所蔵する公立美術館等で数多く開催された。こうした現象は、美術関係者にとどまらず多くの人々が、辰野の作品に現代における「絵画」表現の可能性を見出しつつ、現在の美術の側から問い直しを促したものであり、いかにその早逝が惜しまれたことがわかる。「辰野登恵子追悼展」(市立岡谷美術考古館、長野県岡谷市、2015年3月6日-5月10日)「トリコロール 辰野登恵子展」(Red and Blue Gallery、東京都中央区、同年9月1日-10月17日)「所蔵作品展 辰野登恵子がいた時代」(千葉市美術館、同年7月7日-8月30日)「MOMASコレクションⅢ 特集展示 辰野登恵子-まだ見ぬかたちを」(埼玉県立近代美術館、同年10月10日-2016年1月17日)「辰野登恵子 版画1972 1995」展(ギャラリー・アートアンリミテッド、東京都港区、2015年12月5日-2016年1月15日)「MOTコレクション コレクション・オンゴーイング 特別展示:辰野登恵子」(東京都現代美術館、2016年3月5日-5月29日)「辰野登恵子 作品展」(ツァイトフォトサロン、東京都中央区、同年3月15日-5月7日)「辰野登恵子の軌跡 イメージの知覚化」展(BBプラザ美術館、兵庫県神戸市、前期同年7月5日-8月7日、後期8月9日-9月19日)「宇都宮美術館コレクション展 特集展示 辰野登恵子 愛でられた抽象」(宇都宮美術館、同年7月31日-9月4日)

河田貞

没年月日:2014/09/17

読み:かわだ さだむ  奈良国立博物館名誉会員の河田貞は9月17日、急性心筋梗塞で死去した。享年79。 1934(昭和9)年12月3日、宮城県に生まれる(本籍は多賀城市)。63年に東北大学大学院文学研究科美術史学修士課程修了ののち、東北大学文学部助手、サントリー美術館学芸員を経て、67年(昭和42)7月1日付で奈良国立博物館に着任、73年4月工芸室長となる。87年4月に学芸課長に昇任。1990(平成2)年3月に奈良国立博物館を辞すまで同館の工芸担当者として正倉院展ほかの重責を担うとともに、同館を研究活動の拠点とした。奈良国立博物館名誉会員。91年より92年まで帝塚山大学教養学部教授を務めた。 河田の専門は日本古代・中世の漆工・螺鈿研究が中心であるが、関連分野としての文様研究はもとより、日本に留まらず広く東アジアを見据えた研究を行った。学術研究の成果として、単著には『絵馬(日本の美術92)』(至文堂、1974年)、『根来塗(同120)』(1976年)、『螺鈿(同211)』(1983年)、『仏舎利と経の荘厳(同280)』(1989年)、『黄金細工と金銅装(同445)』(2003年)、共著に『大和路―仏の国・寺の国 日本の道(1)』(毎日新聞社、1971年)、『弘法大師』(講談社、1973年)、『六大寺大観 西大寺』(岩波書店、1973年)、『春日大社釣灯籠』(八宝堂、1974年)、『日本の旅路 奈良 大仏造立―華麗な天平の遺宝』『同 正倉院の宝物―絹の道のロマン』(千趣会、1975年)、『当麻町史』(同町教育委員会、1975年)、『大和古寺大観4 新薬師寺・白毫寺・円成寺』(岩波書店、1977年)、『同5(秋篠寺・法華寺ほか)』(1978年)、『同7(海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺)』(1978年)、『同2(当麻寺)』(1978年)、『経塚遺宝』奈良国立博物館編(1977年)、『鎌倉室町の美術』(大日本インキ化学工業株式会社、1978年)、『法華寺(古寺巡礼)』(淡交社、1979年)、『新薬師寺(同)』(1979年)、『当麻寺(同)』(1979年)、『西大寺(同)』(1979年)、『興福寺(同)』(1979年)、『東大寺(同)』(1980年)、『法華経の美術』(佼正出版社、1981年)、『高野山のすべて』(講談社、1984年)、『仏舎利の荘厳』(同朋社、1983年)、『高麗・李朝の螺鈿』(毎日新聞社、1986年)、『法華経―写経と荘厳』(東京美術、1988年)、『釈尊の美術(仏教美術入門2)』(平凡社、1990年)、『御物 皇室の至宝』9(毎日新聞社、1992年)などがある。論文も多岐に及んでおり、「牛皮華鬘雑考―旧教王護国寺蔵品を中心として―」『MUSEUM』213(1968年)、「紫檀塗について」『同』318(1977年)、「春日宮曼荼羅舎利厨子と携帯用舎利厨子について」『同』335(1979年)、「正倉院宝物に関連する近年の新羅出土遺物」『同』369(1981年)「忍辱山円成寺の如法経所厨子―如法堂における十羅刹女・三十番神併座方式をめぐって―」『元興寺仏教民俗資料研究所年報』4(1971年)、「春日大社蒔絵笋の意匠」『染織春秋』61(1976年)、「日本における蓮文様の展開」『日本の文様』25(1976年)、「春日大社本殿の絵馬板について」『国宝・春日大社本殿修理工事報告書』(1977年)、「復元太鼓の彩色文様」『春日』20(1977年)、「春日赤童子と稚児文殊と」『同』25(1979年)、「仏舎利荘厳具編年資料(稿)」『一般研究(C)仏舎利荘厳具の研究 報告書』(1979年)、「正倉院宝物とシルクロード」『染織の美』7(1980年)、「称名寺の朱漆塗大花瓶台について」『三浦古文化』28(1980年)、「高麗螺鈿の技法的特色」『大和文華』70(1981年)、「慕帰絵詞にみる調度と器物」『慕帰絵(日本の美術187)』(1981年)、「正倉院宝物とシルクロード―多彩なる西域の影―」『太陽(正倉院シリーズ1)』(1981年)、「「根来」の美」『古美術』59(1981年)、「漆芸における切箔・切金技法」『サントリー美術館二十周年記念論文集』(1982年)、「仏舎利の荘厳・経の荘厳」『仏具大辞典』(1982年)、「和紙文化と仏教」『別冊太陽』40(1982年)、「X線透過写真による漆芸品の考察―仏教関係螺鈿遺品を中心として」『漆工史』3(1982年)、「神馬図絵馬について―春日大社本社神殿絵馬板を中心として―」『悠久』12(1983年)、「弘法大師ゆかりの工芸品」『古美術』67(1983年)、「韓国新安海底発見の遺物から―和鏡・漆絵椀・紫檀材―」『同』70(1984年)、「特別鑑賞 シルクロ-ド大文明展 シルクロ-ド・仏教美術伝来の道」『同』87(1988年)、「天平写経軸弘考」『日本文化史研究』7(1984年)、「二つの片輪車蒔絵螺鈿手箱」『國華』1098(1986年)、「法隆寺法会の楽器―聖霊会関係用具を中心に―」『法隆寺の至宝』10(小学館、1989年)、「長谷寺能満院に伝わる尋尊の四方殿舎利殿」『佛教藝術』86(1972年)、「法華経絵意匠の展開―平家納経経箱の装飾文を中心として―」『同』132(1980年)、「わが国上代の写経軸」『同』162(1985年)、「わが国仏舎利容器の祖形とその展開」『同』188(1990年)、「納経厨子と経櫃」『日本美術工芸』374(1969年)、「藤原時代のガラス(瑠璃)」『同』409(1974年)、「酒器「太鼓樽」」『同』512(1981年)、「シルクロ―ドの残英「金銀花盤」―今年の「正倉院展」から―」『同』614(1989年)、「天平の精華(2)―金銀鈿荘唐大刀と螺鈿紫檀琵琶― 第四十二回正倉院展にちなんで」『同』626(1990年)、「特集・正倉院展(下) 螺鈿紫檀五絃琵琶の語るもの」『同』638(1991年)、「特集・正倉院展(下)称徳天皇奉献の「狩猟文銀壷」」『同』650(1992年)、「正倉院「木画紫壇棊局」雑考」『同』662(1993年)、「「紫檀金鈿柄香炉」をめぐって」『同』674(1994年)、「高台寺蒔絵と桃山の室内装飾」『日本のルネッサンス(下)草月文化フォーラム』(1990年)、「Histolical Background of Japanese Urushi Techniques」『International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property - Conservation of Urushi Objects-』(1995年)、「古墳時代の馬具 朝鮮半島から倭国へ」『日本の国宝(週刊朝日百科)』35(1997年)、「瑞巌寺蔵水晶六角五輪塔仏舎利容器について」『東北歴史博物館研究紀要』1(2000年)、「藤原道長による金峯山埋経の荘厳」『帝塚山芸術文化』5(1998年)、「正倉院宝物にやどる国際性」『同』9(2002年)、「法華経の工芸」「高麗美術館研究講座・抄録 法隆寺再建時の仏教工芸品にみる百済・新羅の余映」『高麗美術館館報』87(2010年)など。このほか研究報告として、「調査報告1 玉虫厨子の調査から」『伊珂留我』2(1984年)、「上代における請来仏具の研究(中間報告)」『鹿島美術財団年報 平成2年度』(1991年)がある。また、奈良国立博物館外の展覧会に際して図録に総論・概説・特論を多く執筆している。すなわち「法華経の荘厳」『法華経の美術』(頴川美術館、1978年)、「山王信仰の美術」『山王信仰の美術』(同、1982年)、「西域のいぶき」「さまざまな供養具」『法隆寺 シルクロード仏教文化展』(1988年)、「シルクロードの息吹―法隆寺濫觴期の仏教工芸―」『法隆寺の世界 いま開く仏教文化の宝庫 開館10周年記念展』(大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料、1991年)、「法隆寺における聖徳太子信仰遺品と江戸出開帳の霊仏・霊宝」『法隆寺秘宝―再現・元禄江戸出開帳―展』(サントリー美術館、1996年)、「国宝 梵鐘」『比叡山延暦寺の名宝と国宝梵鐘展』(佐川美術館、1999年)、「金色堂の荘厳」『国宝中尊寺 奥州藤原氏三代の黄金文化と義経の東下り』(同、2004年)、「中国国家博物館所蔵 盛唐期の工芸品と正倉院宝物」『中国国家博物館所蔵 隋唐の美術 正倉院宝物の故郷を辿る展』(同、2005年)などがそれである。そして、14年には愛知県陶磁美術館の企画展「高麗・李朝(朝鮮王朝)の工芸―陶磁器、漆器、金属器―」(会期8月23-10月26日)を監修し、好評を博したが、その開催中の他界となってしまった。

中島徳博

没年月日:2014/08/28

読み:なかじまのりひろ  漫画家の中島徳博は、8月28日、大腸がんのため神奈川県横浜市の病院で死去した。享年64。 1950(昭和25)年7月12日、鹿児島県鹿児島市に生まれる。小学校のとき赤塚不二夫の少女マンガに感動し、漫画家を志す。鹿児島実業土木科2年次在学時に貸本マンガでデビュー。69年に卒業後、大阪にでて看板製作会社に住み込みで働きながら制作を続け、70年「悪友伝」が『週刊少年ジャンプ』(以下『ジャンプ』)の新人賞に準入選し、上京する。『ジャンプ』に72年39号より、遠崎史朗の原作を得て「アストロ球団」の連載を開始、76年26号まで続いた(全5巻、1999年、太田出版)。「超人」たちが繰り広げる「1試合完全燃焼」試合ではクライマックスが毎週のように続く。本作は、「巨人の星」以後の野球漫画に描かれてきた「スポ根」の系譜だが、次第に超人たちの奇想天外なプレイが熱狂的な読者を獲得し、70年代初期の「ジャンプの傑作」である。その後、77年から79年まで、『ジャンプ』に四国土佐を舞台に男気を描いた学園もの『朝太郎伝』(全11巻、集英社、1978年)、77年から79年まで、『月刊少年ジャンプ』にはみ出し刑事のコンビのアクション劇『バイオレンス特急』(全5巻、同、1979年)を発表。青年漫画誌『週刊プレイボーイ』に「バイオレンス・ロマン」をキャッチに九州男児の喧嘩道を描いた『がくらん海峡』(全5巻、集英社、1979年)等を手がけた。中島の漫画は決して洗練された描画とはいえないが、勢いのある画風が特色で、特にアクションシーンのスピード表現における線の重層的な黒さが持ち味である。

米倉斉加年

没年月日:2014/08/26

読み:よねくらまさかね  俳優、演出家で絵本作家としても知られた米倉斉加年は8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため福岡市内の病院で死去した。享年80。 1934(昭和9)年7月10日、福岡市に生まれる。戸籍上の本名は米倉正扶三(まさふみ)だが、小学校時代から斉加年を名のる。57年に西南学院大学英文科を中退して上京、劇団民藝の水品演劇研究所に入所し宇野重吉に師事する。59年に劇団青年芸術劇場(青芸)を結成して活躍したが、64年に退団して民藝に戻る。66年にベケット「ゴドーを待ちながら」等の演技で第1回紀伊国屋演劇賞を受賞、74年の金芝河の「銅の李舜臣」以来演出も手がける。88年にも「ドストエーフスキイの妻を演じる老女屋」での演技で第23回紀伊国屋演劇賞を受賞。商業演劇の世界でも、舞台「放浪記」で林芙美子の友人白坂五郎役を長年にわたり演じた。2000(平成12)年に劇団民藝を退団後、07年に劇団海流座を立ち上げ、代表を務めた。映画「男はつらいよ」シリーズやNHK大河ドラマ「国盗り物語」「風と雲と虹と」「花神」等にも出演し、存在感のある演技で広く知られた。 演劇活動の傍ら、生活費の助けとして元々好きだった絵を描くようになり、69年から翌年にかけて月刊誌『未来』に絵と雑文を連載。これが注目され、野坂昭如『おとなの絵草紙 マッチ売りの少女』(1971年)をはじめとする絵本の仕事に携わるようになる。75年には奥田継夫の童話『魔法おしえます』(偕成社)の絵を担当し、翌年のボローニャ国際児童図書展・子供の部でグラフィック大賞を受賞。さらに同年出版、自作の文と絵による『多毛留』(偕成社)が77年の同展・青少年の部でグラフィック大賞を受賞する。竹久夢二の大衆性を愛し、市井に生きる“絵師”を自任、その作風は繊細な描写の中に諷刺の毒を効かせたものであり、英国の画家ビアズリーのそれを髣髴とさせる。画集に『憂気世絵草紙』(大和書房、1978年)、『masakane 米倉斉加年画集』(集英社、1981年)、『おんな憂気世絵』(講談社、1986年)がある。

宮脇愛子

没年月日:2014/08/20

読み:みやわきあいこ  彫刻家の宮脇愛子(本名、磯崎愛子)は8月20日、膵臓がんのため横浜市内の病院で死去した。享年84。 1929(昭和4)年9月20日に生まれる。幼い頃から身体が弱く、戦時中の勤労動員でも自宅療養することが多かったという。また、丈夫になるようにと幾度か名を変えており、幼稚園の頃には貴子、女学校時代までは幹子という名前だった。46年3月小田原高等女学校(現、神奈川県立小田原高等学校)卒業、52年3月日本女子大学文学部史学科卒業。卒業論文では桃山美術を扱った。学生時代には義理の姉であった画家の神谷信子を介して知り合った洋画家・阿部展也のもとへ通っていたというが、親戚に絵描きはひとりでたくさんだといわれていたことから、描いた作品を発表しようという考えはなかったという。53年には文化学院にて阿部に学び、一方で同じく義姉を通じて知り合った美術家の斎藤義重に作品を発表することの意義を諭され、作品は人に見せなければ駄目だと考えるようになる。57年、アメリカへ短期留学し、カルフォルニア大学ロサンゼルス校とサンタモニカ・シティ・カレッジにて絵を学ぶ。59年12月、東京の養清堂画廊にて初の個展を開催。個展には1点を除き同年に制作された作品19点が展観され、絵具にエナメルや大理石の粉末をまぜて作り上げた色面に描線を刻み込む表現は、レリーフや鎌倉彫のようだと評された。同年夏にはインドを経由してウィーンを訪れ世界美術家会議に参加、その後ミラノに滞在した。ミラノでは阿部の紹介でエンリコ・バイが保証人になったといい、フォンタナら若い芸術家グループと親交を持ったという。61年ミラノのミニマ画廊にて個展開催、翌62年1月には日本での2度目となる個展を東京画廊にて行った。絵具に大理石の粉を混ぜ、同じようなパターンをパレットナイフで画面に並べていくという方法で描かれた作品は、このとき来日していたフランスの画商、アンドレ・シュレールの目に留まり、宮脇はシュレールと契約、1年間パリに滞在して作品制作と個展を行った。パリではマン・レイらと交際し、63年、パリからの帰国に際して立ち寄ったニューヨークにそのまま滞在、66年帰国した。この間、64年にはニューヨークのベルタ・シェーファー画廊にて個展を開催、そのときのカタログにはマン・レイが序文を寄せている。66年11月には銀座・松屋で開かれた「空間から環境へ」展へ出品、このとき初めて磯崎新と知り合う。展覧会へは三角形を重ね合わせ、平面における遠近法を立体で表現したような作品を出品。また、同じ頃より真鍮のパイプを用いた作品の制作を開始、67年3月には東京画廊にて個展を行った。真鍮の角筒や円筒を組み合わせ、人工照明ないしは自然光による光の効果を演出した作品には、油彩により平面に光が分布する状態を捉えようとしていたという以前の作品からの立体への展開が見られるとされた。同年10月にはアメリカのグッゲンハイム美術館で開催されたグッゲンハイム国際彫刻展へ出品、真鍮の角筒を組み合わせた作品は美術館買い上げ賞に選ばれる。翌68年11月、第5回長岡現代美術館賞展へ音の出る作品「振動」を出品、70年5月には60年代の総決算となる個展をポーランドのウッジにて開催した。また、この頃宮脇は素材によってテーマを決めて制作をしていたといい、ガラスの透明感を損なわないため切るのではなく割るという方法を採った「MEGU」シリーズや、三角形の金属や石の板に展覧会をする国の言葉で「Listen to your portrait」と刻んだ「Listen to your portrait」シリーズを制作している。72年、建築家の磯崎新と結婚。同年、辻邦生『背教者ユリアヌス』で初めて装丁を手がけた。76年9月には東京のギャラリー・アキオにおいて個展を開催、翌77年には第7回現代日本彫刻展へ三角柱を三つに割り、距離をとって三角形に配置した「MEGU-1977」を出品、北九州市立美術館賞を受賞。またこの頃には、精神的な行き詰まりから写経をするような気持ちで描いていたという「スクロール・ペインティング」シリーズが制作されている。78年10月には磯崎新の指揮の下、パリのルーヴル宮殿内にある装飾美術館で開催された「日本の時空間―」へ参加、「うつろい」をテーマとした部屋で、後に「A Moment of Movement」と題された、真鍮の屏風のような作品を展示した。その後、ニューヨークのポート・オーソリティから彫刻のコンペティションに招待されたのを機に、虚空に線を描くかのようにのびのびとした自由な魂、中国語でいう「気」を表したいと実験的な制作を繰り返し、79年12月の東京画廊における小品展へその模型を出品、翌80年3月、愛知県一宮市の彦田児童公園に、後に宮脇の代名詞ともなる「うつろひ」シリーズの第1作目となった「UTSUROI」が設置された。このときの作品は2本のパイプを撓わせたもので、工場であらかじめつくったものを設置したという。5月には名古屋のギャラリーたかぎで「宮脇愛子1960-1980」が開催、新作として、ステンレスワイヤーで先の「UTSUROI」とほぼ同じ形の作品を展示する。このときには素材をワイヤーに変更したため、設置は会場において宮脇自身の手で行われた。81年7月、第2回ヘンリー・ムア大賞展へ12本のワイヤーからなる「うつろい」を出品、エミリオ・グレコ特別優秀賞受賞。82年には第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にて「うつろい」で第1回土方定一賞を、86年には第2回東京都野外現代彫刻展にて「うつろひ」で東京都知事賞をそれぞれ受賞。85年にはパリのジュリアン・コルニック画廊で個展を開催する。この個展をきっかけに、ラ・デファンス地区のグランダルシュ(新凱旋門)そばの広場に「うつろひ」を設置することとなり、1989(平成元)年に完成。翌90年には、92年のバルセロナオリンピックへ向けて磯崎新の設計で建てられたサンジョルディ・スポーツ・パレス前の広場にも「うつろひ」が設置された。94年には磯崎新の設計による岡山県の奈義町現代美術館に、荒川修作、岡崎和郎とともに作品を設置。97年、突然病に倒れるが、翌98年に神奈川県立近代美術館で開催された個展には、「うつろひ」を新たに水墨で表現した連作を制作、出品する。2001年には奈義町現代美術館において「墨によるうつろひドローイング 宮脇愛子展」が開催された。12年にはギャラリーせいほう、ときの忘れものの二会場にて59年から70年代の作品に焦点を絞った個展を開催、14年3月にはカスヤの森現代美術館にて個展を開き、初期の作品から最新の絵画作品までが展観された。 絵画から彫刻へ、油彩から真鍮、ガラス、スチールワイヤーへとその技法や素材をさまざまに展開させた宮脇だが、「しつこいくらいに一生貫き通す自分の思想がなければ、アーティストとはいえないでしょうね。」と語っているように、一貫して同じコンセプト、宮脇のいう「あらぬもの」を見ようとする姿勢で制作を続けた。

元村和彦

没年月日:2014/08/17

読み:もとむらかずひこ  出版社邑元舎を主宰し、写真集の出版を手がけた写真編集者の元村和彦は、8月17日に死去した。享年81。 1933(昭和8)年2月11日佐賀県川副町(現、佐賀市)に生まれる。51年佐賀県立佐賀高等学校を卒業後、国税庁の職員となり佐賀、門司、武蔵野、立川、世田谷の各税務署に12年にわたって勤務する。60年、東京綜合写真専門学校に3期生として入学、卒業後引き続き1期生として同校研究科に進み、校長の重森弘淹、教授を務めていた写真家石元泰博らに師事した。 70年、W.ユージン・スミスが日本で取材した際に助手を務めた写真家森永純の紹介で、スミスと知り合い、スミスの写真展「真実こそわが友」(小田急百貨店他)の企画を手がけた。同年秋に渡米、スミスの紹介で写真家ロバート・フランクを訪ね、写真集出版を提案し同意を得る。71年、邑元舎を設立し、72年10月、『私の手の詩 The Lines of My Hand』を刊行。杉浦康平が造本を手がけた同書は、フランクの16年ぶりの写真集として国内だけでなく海外でも広く注目され、後に一部内容を再編したアメリカ版およびヨーロッパ版が刊行された。その後フランクの写真集としては、87年に『花は…(Flower Is…)』、2009(平成21)年には『The Americans, 81 Contact Sheets』を刊行した。邑元舎からは他に森永純写真集『河―累影』(1978年)が出版されている。97年、邑元舎の出版活動に対して、第9回写真の会賞を受賞。 20世紀後半の最も重要な写真家の一人であり、58年の写真集『アメリカ人』が、その後の写真表現に大きな影響を与えたにもかかわらず、映画製作に移行して写真作品を発表していなかったロバート・フランクに、元村は新たな写真集を作らせ、結果的にフランクに写真家としての活動を再開させることになった。これは写真史上、特筆すべきものである。フランクとの親交は生涯にわたって続き、写真集の原稿として提供されたものの他、折に触れてフランクより贈られた作品等により形成された元村のフランク作品コレクションは、元村の晩年、東京、御茶ノ水のギャラリーバウハウスにおける数次にわたる展示で紹介され、その中核である145点の作品が、16年に東京国立近代美術館に収蔵された。

高村規

没年月日:2014/08/13

読み:たかむらただし  写真家の高村規は、8月13日心不全のため死去した。享年81。 1933(昭和8)年5月15日東京市本郷区駒込林町(現、文京区千駄木)に生まれる。父は鋳金家高村豊周、祖父は彫刻家高村光雲、彫刻家で詩人の高村光太郎は伯父。58年日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中の56年に高村光太郎が死去、翌年開催された「高村光太郎遺作展」(三越日本橋本店)のために、初めて光太郎の彫刻作品を撮影する。同じく57年に刊行された彫刻写真集『高村光太郎』(高村豊周他編、筑摩書房)の写真を担当、筑摩書房嘱託となり、雑誌『太陽』のグラビア撮影などを担当する。大学を卒業した58年より伊藤憲治デザインルームに勤務、59年よりフリーランスとなる。広告やファッションなど幅広い仕事を手掛ける一方、日本広告写真家協会には設立初期より加わり、後に同協会副会長(1985-89年)、会長(1998-2002年)を歴任、日本写真協会理事(1999-2003年)を務めるなど写真業界団体における活動にも尽力した。また71年より長く金沢美術工芸大学で非常勤講師として教鞭を執った。 美術作品の撮影にも取り組み、とくに全作品の撮影を担当した『高村光太郎彫刻全作品』(六耀社、1979年)や『光太郎と智恵子』(共著、新潮社、1995年)などの高村光太郎・智恵子夫妻に関する写真の仕事の他、父、祖父の仕事を集成する『高村豊周作品集 鋳』(筑摩書房、1981年)、『高村規全撮影 木彫 高村光雲』(中教出版、1999年)などの写真集を上梓、また「高村光太郎 彫刻の世界」展(銀座和光、1981年)、「光太郎の巴里」(キヤノンサロン、東京、大阪、福岡他、1989年)、「木彫 高村光雲」(文京シビックセンター、2003年)などの個展を開催するなど、高村家の芸術家をめぐる撮影をライフワークとして数多く手掛け、75年以来、高村光太郎記念会理事長も務めた。 2004(平成16)年旭日小綬章を受章。また同年文京区区民栄誉賞を受賞した。

登石健三

没年月日:2014/07/30

読み:といしけんぞう  IIC(国際文化財保存学会)名誉会員(Honorary Fellow)、文化財保存修復学会名誉会員、東京文化財研究所名誉研究員、物理科学者の登石健三は肺炎のため7月30日に死去した。享年100。 1913(大正2)年9月5日に広島県の江田島で生まれ、第三高等学校を卒業した後、大阪帝国大学理学部物理学科に進んだ。卒業後、1936(昭和11)年3月に当時の理化学研究所に就職、長岡半太郎博士の助手となり、「本を書くより研究に励め」の長岡の指導の下、分光スペクトルの研究に没頭した。42年に招兵され戦後のシベリア抑留も含めて49年11月に帰国した。50年理学博士(大阪大学)。㈱科学研究所(旧理化学研究所)に復職して高峰研究室に属し、芳野富彌とともに『分光化學分析用基準スペクトル表』(1952年、㈱科学研究所)をまとめた。52年10月に、できたばかりの東京文化財研究所に転職し、文化財保存のための物理学応用研究を始めた。当時の東京文化財研究所は現在の東京国立博物館の地下と通用門近くの木造の小屋にあった。保存科学部長は建築史の関野克で、登石は物理研究室長を務め、コバルト-60など放射性同位元素を用いた文化財の透視調査を始めた。当時の放射線透視調査で有名なものは、中尊寺金堂の巻柱、日光東照宮陽明門の側壁、鎌倉大仏の欠陥調査などがある。中尊寺金色堂のX線調査から、部材それぞれに漆を塗って仕上げたのちに組み立てたものと分かり解体修理が決定したなどの成果を挙げた。また当時は文化財を船便で移動しており、赤道付近で長期間の高温高湿度に曝されカビ発生のおそれがあったが、乾燥剤をある程度湿らせたもの(「科研ゲル」(当時の英語名称はKakew))を密閉容器内に入れて湿度を制御する新しい手法を開発し、『古文化財の科学』や“Studies in Conservation”などの学会誌に研究成果を発表した。調湿剤を用いた密閉容器内の湿度調節は、今日では輸送用の梱包容器や密閉展示ケースなどで日常的に用いられており、この功績に対して78年に紫綬褒章を受けた。また見城敏子と共に打ち立てのコンクリートから発生するアルカリ物質の油絵への影響を世界で初めて指摘し、その研究成果により2004(平成16)年5月にはIIC(国際文化財保存学会)の名誉会員(Honorary Fellow)となった。また、より良い展示・収蔵環境を実現するため、日本の気候風土を考慮した保存環境研究を行い、保存環境整備に努めた。72年の高松塚古墳壁画発見時には保存施設整備に関わり、在職最後は虎塚古墳(茨城県)などの装飾古墳の保存に携わった。75年に61歳で東京国立文化財研究所を退官し、78年に名誉研究員となった。そのほか、75年4月より東海大学講師、国学院大学講師、株式会社寺田倉庫顧問、任意団体日本文化財研究所顧問、76年より千葉県文化財審議会委員、飛鳥保存財団委員、77年より船橋市文化財審議会委員、78年より日本考古学研究所所長、80年より船橋市野外彫刻設置委員会委員、85年には川崎市日本民家園協議会委員を務めた。88年4月から99年3月まで財団法人文化財虫害研究所(現、公益財団法人文化財虫菌害研究所)理事長、87年から99年まで古文化財科学研究会(現、文化財保存修復学会)の会長を務めるなど、文化財保存修復に関する教育、行政への協力、学会の発展に尽力した。84年に勲三等瑞宝章を叙勲し、その逝去にあたり14年8月29日閣議決定で正五位の位記追贈を受けた。職務上での発明として62年 密閉梱包内の相対湿度をほぼ恒常に保つ方法、65年 正規投影撮影装置、66年 被写体の等高線群を各線につき等しい倍率で写す方法などの特許がある(本人著書より)。登石は常にユーモアにあふれた態度で周囲と接し、世の中に対してウィットに富んだ見方を持ち、また自身のことを先人が手をつけなかった分野を研究したハイエナ流の仕事の仕方と表現していたが、現代に生きる我々に対して、周りに同調するのではなく「各人が自分の見識をしっかりと持つこと」が大事である、と最後の執筆である『百年賛歌-登石健三の生涯』(根本仁司編、岩波ブックセンター、2014年)に記している。10年に逝去した山〓一雄と双璧をなした文化財保存科学の黎明期を支えた偉大な研究者であり、その研究成果は文化財を取り巻く環境を制御する基本技術となっている。

永田力

没年月日:2014/07/27

読み:ながたりき  画家の永田力は、7月27日腎臓がんのため死去した。享年90。 1924(大正13)年、長崎県に生まれる。中学卒業後、画家を志し上京、同舟舎に学ぶ。1943(昭和18)年中国東北部に渡りシベリヤ経由でパリをめざすが、一時昭和製鋼所報道班(自筆別文献では「満洲製鉄」とも)に務める内、応召がかかる。敗戦後ソビエトで抑留生活を送る。収容所では馬の毛で筆をつくりロシア兵を描いたという。復員後の48年上京する。53年風間完らと「エンピツの会」を結成、東京の美松画廊で3年続けグループ展を開催。57年日本天然色映画の設立に参加。その後、岩谷書店発行の雑誌『宝石』編集部で働きながら絵画制作を続ける。公募展では、49年第20回第一美術協会展に「街」、「駅前」、「議事堂風景」(第一美術賞受賞)を出品。51年には総会に改革案を提出するも否決されることで退会し、第15回自由美術展に「風景」を出品し会員になる。同展には67年まで出品。この間、メンバーの自由美術家協会から主体美術協会への分裂騒動のなか、自由美術の事務局を担っていたため、退会を遅らした事情がある。その後、アークラブに属し、無所属となる。国際展では57年第1回アジア青年美術家展でフライシュマン賞を受賞。スイスのグレッフェン・トリエンナーレ、ドイツのライプチッヒ世界風刺画ビエンナーレ等に出品。60年『図解された洋画の技法集 別冊アトリエ』64を上梓する。水上勉の小説『飢餓海峡』(62年、『週刊朝日』連載、講談社さしえ賞受賞)の挿絵をはじめ、『オール読物』や『週刊新潮』等でも挿絵を寄稿した。63年、67年、69年、70年、72年、73年、75年、79年と8回東京の南天子画廊で個展を開催。1995(平成7)年に東京のギャラリーミキモトで個展を開催。ピエロや芸人たちをモチーフに、人間の孤独、悲しみの情感を描くことに取り組んだ。96年から芸術研究をジャンル横断的に行なう「東方藝術思潮会」を主催した。

堀友三郎

没年月日:2014/07/07

読み:ほりともさぶろう  染色家の堀友三郎は7月7日、肺炎のため死去した。享年90。 1924(大正13)年、堀朋近・順の三男として大阪市に生まれる。(本籍は石川県)。1941(昭和16)年関西学院中学部卒業。多摩帝国美術学校(現、多摩美術大学)図案科に入学。3年次より同校図案科染色教室を専攻。木村和一に師事。学生時代には母方の叔父である洋画家の中村研一の自宅で過ごす。もう一人の叔父である洋画家の中村琢二との関わりもあり、制作態度の異なる両叔父に影響を受けながら育つ。 44年、第31回光風会展に「紅型バラ」を出品し初入選。学徒動員を受け、9月に兵役、金沢へ入隊する。翌年の45年、9月に復員。多摩帝国美術学校図案科染色教室を不在卒業。その後は、師である木村和一主宰の染人社、東京染織作家協会、真赤土工芸会の各会員として活躍する。56年、32歳の時に第42回光風会展に「早春譜」を出品。第12回日展に「瀬戸の潮」を出品し、初入選。後に、同作品はソ連政府の買い上げとなり、レニングラード美術館に収蔵される。58年、第44回光風会展に「海」を出品。光風工芸賞を受賞し、光風会会友に推挙される。同年、第1回新日展に「伊豆の海」を出品。60年、第3回新日展に出品した「造船」(石川県立美術館蔵)が、特選並びに北斗賞を受賞。その後、采匠会展、日本現代工芸美術展でも作品を発表。64年、第50回光風会展に「湖畔の映」を出品。光風工芸会員賞を受賞。67年からは、第53回光風会展、第6回日本現代工芸美術展、第10回新日展で審査員を務める。翌年の68年には日展会員に推挙される。同年、横浜シルク博物館展の審査員も務める。その後も審査員などを歴任し、71年、東京家政大学非常勤講師に就任。75年、51歳の時に第61回光風会展に出品した「雪景」で杉浦非水賞を受賞。翌年からは朝日カルチャーセンター(新宿)の講師に就任。以後、30年にわたり務める。77年には花山研究所講師に就任。78年、現代工芸美術家連盟を脱退し、日本新工芸家連盟を創立、総務委員となる。東京家政大学講師を辞任する。79年、第65回光風会に「語らいを」を出品し、第65回光風会特別記念賞を受賞。同年、妻の紀子が逝去する。80年、『のり染パネル制作』(美術出版社)を出版。81年、社団法人日本新工芸家連盟初代理事に就任。82年、第20回采匠会展に作品を発表。同展を最後に解散。84年、光風会幹事、日展評議員に就任。85年、第7回日本新工芸展に「岩手の山にかゝる虹」を出品、内閣総理大臣賞を受賞。同年、多摩美術大学染織デザイン科主任教授に就任。川徳デパート(岩手・盛岡)やギャラリー・スペース21(東京・新橋)で個展を開催。日本新工芸家連盟脱退。86年、光風会理事に就任。紺綬褒章を受章。87年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。『堀友三郎丸紋図案集』(六芸書房)を出版。同書は染につかう型紙を意識して型の繋ぎ目を考えながらデザインをまとめたという。さらに、九谷焼の徳田八十吉の自宅で絵皿に絵付けをしたことを想いだし、丸紋に九谷焼のような縁紋様が加えられている。1989(昭和64年・平成元)年には財団法人中村研一記念美術館初代館長、常任理事に就任。翌年の90年、明日へのかたち展に作品を発表。石川県立美術館で「堀友三郎特別展」が開催される。紺綬褒章を受章(2回目)。93年、財団法人福沢一郎記念美術財団理事就任。95年、多摩美術大学を定年退職し客員教授となる。多摩美術大学付属美術館において退職記念展が開催される。翌年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で個展を開催。退職後も、精力的に作品を発表しながら、各展覧会で審査員を歴任する。2000年、ギャリ―白雲(大阪)、ギャラリータマミジアムにて個展を開催。勲四等瑞宝章を受章。国立台湾工芸研究所で講演を行うなど、国内外で活躍をする。01年、東急百貨店本店(東京・渋谷)で喜寿記念展を開催。翌年、脳梗塞で倒れる。以後、失語症のリハビリを続けながら制作を続け、病前同様に審査員も務める。04年、光風会展に「雪凌」を出品。同会を定年退職し、名誉会員となる。第36回日展に「蔵王」を出品。日展参与になる。文芸春秋画廊(東京・銀座)にて個展を開催。05年、杉並より調布に転居する。07年、調布市文化会館にて「堀友三郎展」(調布市文化・コミュニティ振興財団主催)が開催される。09年、『堀友三郎 染色画集』(求龍堂)を刊行。 堀の作風は50年代中頃から60年代は初期の抽象形態による構成的な作風、その後、80年代前半にかけては具象が曲線を中心とした抽象の中に溶け込む画風、その後、実景の追及に大別されると評されている。毎日デッサンを欠かさず、デザインの発想の根本には「写生」があると学生に諭し、絵描き以上のデッサン力がないと良いデザイナーにはなれないと力説していたという。堀は自らの考えとして、工芸作品はしっかりとしてデザインと優秀な技術が伴わないと良い作品とはならない。いくら発想が良く、デザインの素晴らしいものができても技術的に難点があっては作品にならない。デザイナーであると共に職人でなければいい仕事は望めないという言葉を残している。 晩年に至るまでの多くの作品は石川県立美術館に所蔵されている。

河原温

没年月日:2014/06/27

読み:かわらおん  現代美術作家の河原温は、6月27日にニューヨークで死去した。生没年月日は公表されていないが、2015(平成27)年にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開催された大規模な個展「河原温――沈黙」の図録に、上記の日付における略歴として「29,771日」と記されており、享年81であったと思われる。 河原温は、1951(昭和26)年に愛知県立刈谷高等学校を卒業して上京し、独学で絵画の制作を開始した。翌52年から56年頃までの約5年間に、日本美術会と読売新聞社のそれぞれの主催による二つのアンデパンダン展、「ニッポン」展、デモクラート美術展などの公募展やグループ展において、またタケミヤ画廊等で開催した何回かの個展を通じて、精力的に絵画作品の発表を行っている。この時期の河原の作品は、ロボットやマネキンを思わせる記号化された人体表現、遠近法を強調した空間表現、不規則多角形の変形カンヴァスや変形紙面の使用を特徴とし、非人間的でSF的な状況を不条理なユーモアとともに描出した具象的な絵画(油彩画および素描)であった。中でも「浴室」シリーズと「物置小屋の中の出来事」シリーズという二つの鉛筆素描連作(いずれも東京国立近代美術館蔵)は、戦後の閉塞した社会状況を象徴し、時代を代表する傑作として高い評価を受けている。油彩画としては「孕んだ女」(1954年、東京国立近代美術館蔵)や「黒人兵」(1955年、大原美術館蔵)などがある。 戦後世代を代表する新進画家として注目を集め、活躍が期待された河原だったが、少数の観客しか目にしない展覧会での作品発表という形式に限界を感じ、より広範な観客が鑑賞できる媒体として、50年代後半から「印刷絵画」の可能性を模索するようになった。これは、作家自身が製版・印刷の工程を監理しながら制作する、オフセット印刷による絵画で、作者自身によって書かれたテクスト「印刷絵画」(『美術手帖』誌155号、臨時増刊「絵画の技法と絵画のゆくえ」、1959年)に詳細が論じられている。 しかしながら、結局のところ河原は、全く新しい展開を求めて59年9月に日本を離れ、メキシコ、ニューヨーク、パリでの滞在を経て、64年秋からはニューヨークに定住することになる。この間の63年以前の作品についてはほとんど知られていないが、64年にパリおよびニューヨークで制作されたドローイングが200点ほど現存する。これらは言語をテーマにした作品やインスタレーション作品のプランが多く、50年代の東京時代の作品とは、すでに全く異なるものであった。65年にニューヨークで制作された作品は、カンヴァス上に文字を描いた作品や暗号を用いた作品であり、そして翌66年1月からは、単色の地のカンヴァスに白い活字体の文字で日付を書いた絵画作品、いわゆる「日付絵画」(「Today(今日)」シリーズ)の制作が始められることになる。 「日付絵画」は、ただ単に日付を描いた絵画ではなく、いくつかの規則に則って制作されているが、そのうち最も本質的なものは、描かれた日付の24時間のうちに制作が開始され、描き終えられなければならないというものである。すなわち、その正式タイトルが「Today(今日)」であることからもわかるように、描いている作家にとって、描かれる日付は常に「今日」でなければならないのであり、描き終えられなかった場合は破棄される。それゆえ、一枚一枚の「日付絵画」は、作家がその日付の日に生存し制作したという、一種の存在証明のようなものとなる。日付は、作家がその日に滞在していた都市における公用語の一つを用いて書かれており、カンヴァスの大きさは、8×10インチから150号大までの8種類の中から選ばれている。画材はリキテックス社のアクリリック(アクリル絵具)で、赤と青は既成の絵具を混色せずに用いているのに対し、ダークグレーに見えるその他の画面の色彩は、その都度絵具を調合して色を出している。それゆえ、一見同じように見えるダークグレーの画面には様々な色調が認められ、「日付絵画」が作家の感情や気分、意識の状態を反映した「絵画」として制作されていることがわかる。絵画は自作のボール紙製の箱に納められ、箱の内側にはその日の新聞が貼り込まれている。「日付絵画」は、文字通り河原ライフ・ワークであり、亡くなる前年の13年までの間に3000点近い数が描かれたと言われる。 「日付絵画」に続き、河原は60年代の後半から、一連の自伝的な作品を制作した。その日に読んだ新聞記事をスクラップした「I READ」(1966年-95年)、起床した時刻をスタンプで記した絵葉書を友人に宛てて送り続ける「I GOT UP」(1968年-79年)、その日に会った人物の名前を会った順にタイプ打ちした「I MET」(1968年-79年)、その日に行った経路をゼロックス・コピーの地図の上に赤線で記録した「I WENT」(1968年-79年)がそれである。 一方、存在証明的な意味が最も強いのは、電報による作品「I AM STILL ALIVE」(1970年-2000年)で、「私はまだ生きている」という意味の英文の電報を間欠的に友人や知人に宛てて打電するものである。とはいえ、発信時点での発信者の存在証明は、受信者の時空におけるその不在を同時に喚起する。受信した時点で本当に「私はまだ生きている」かどうかはわからないのである。この構造は「日付絵画」とも通じるものである。というのも、66年以降、河原は、展覧会のオープニングなど公式の場に姿を見せることはなく、写真も公表していないので、描かれた日付の時点における作者の存在証明は、そのまま「日付絵画」の鑑賞者にとっての作者の不在をあらわにするからである。 「日付絵画」と一連の自伝的な作品のように、河原自身の生と密接に結びついた作品とは異なり、時間と人類を巨視的に捉えた作品が、「100万年」である。1ページに500年分の西暦の年号をタイプアウトし、それを2000ページ、つまり100万年分続けて、10巻からなる年号簿とした書物の形の作品で、過去編(1970年-71年)と未来編(1980年-98年)が制作された。人類そのものの発生から、現在を経て、その消滅までをも包含する時間が可視化されたこの作品は、見る者を超越的で宇宙的な視点に誘う。 晩年の河原温は、「日付絵画」の制作を続ける傍ら、展覧会への参加を極力限定し、最終的には二つのプロジェクトのみが残ることになった。一つは「100万年」の朗読のプロジェクト(1993年-)で、展覧会などの会場で「100万年」の一部を俳優や一般の参加者などが朗読したり、録音して出版したりするものである。もう一つは「純粋意識」(1998年-)と題された「日付絵画」を幼稚園に展示するプロジェクトで、人間に社会性が刷り込まれる以前の幼児期に「日付絵画」を直接的に経験させることを意図して、世界の20カ所以上で実施されてきた。これらはいずれも、他者の意思により、作者の不在のもとでも、おそらくは死後においても、実施することができるプロジェクトである。 「日付絵画」以降の河原温の作品は、文字や数字を用いているため、コンセプチュアル・アートの代表的な作例とされることが多い。しかしながらそれは、日々目覚めては眠りにつく人間の生を意識の明滅と捉え、それを誕生から死までの時間に、さらには人類の発生と滅亡という次元にまで敷衍するもので、個人的なものや日常的なものと普遍的なものや宇宙的なものとを直感的に結びつける、極めて独創的な形式であった。瞑想的な作品は、世界中で高く評価され、大きな影響を与えている。

井上正

没年月日:2014/06/14

読み:いのうえただし  日本彫刻史の研究者である井上正は6月14日、肝臓癌により死去した。享年85。 1929(昭和4)年1月12日、長野県飯田町(現、飯田市)箕瀬において井上善一の三男として生まれる。35年飯田尋常高等小学校大久保部入学、41年長野県飯田中学入学、43年海軍飛行予科練入隊、45年終戦により予科練除隊、47年長野県飯田中学四年修了、第四高等学校文科甲類入学、50年東京大学文学部美学美術史学科に入学、53年同大学文学部大学院特別研究生、56年同大学文学部助手、63年文化財保護委員会事務局美術工芸課(文部技官)に着任、67年京都国立博物館学芸課美術室に移動、翌68年同館学芸課資料室長に昇任、79年同館学芸課学芸課長に昇任、87年同館を退職する。京都国立博物館名誉館員。同年、奈良大学文学部文化財学科教授に就任、1989(平成元)年飯田市美術博物館長を兼務、93年奈良大学総合研究所長に就任、95年奈良大学を退職し、佛教大学文学部仏教学科教授に就任、2000年佛教大学を退職し、京都造形芸術大学芸術学部教授に就任、06年京都造形芸術大学を退職、飯田市美術博物館の館長職も退くが、引き続き同館の顧問を引き受ける。 井上は、67年に刊行が開始された『日本彫刻史基礎資料集成』(中央公論美術出版社)の平安時代造像銘記篇、これに続いて73年より刊行がなされた重要作品篇の作例報告に携わり、「善水寺薬師如来坐像」「神護寺薬師如来立像」をはじめとする21件について分担執筆を行うほか、68年から刊行が始まった『奈良六大寺大観』全14巻(岩波書店)では彫刻24件、工芸ならびに文様46件の解説を、続く『大和古寺大観』では2巻・当麻寺(1978年)と6巻・室生寺において彫刻4件、工芸2件の解説を担当するなど、今日に至る日本彫刻史の基礎・基盤研究に大きな足跡を残した。その一方で、井上の研究の対象作品・方向性については、81年に勤務先である京都国立博物館刊行の『学叢』3に発表した「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」を契機として、その前・後で大きく志向を異にしている。すなわち、それ以前の研究においては平等院鳳凰堂阿弥陀如来像以降の定朝様式の展開を中央・地方に及んで実作例に臨んで研究成果を積み重ねるとともに、定朝の父とされる康尚とその時代の作風の解明に心血を注いだ。代表的な論文として「浄厳院阿弥陀如来像に就いて」『國華』791(1958年)、「法界寺阿弥陀如来坐像」『同』834(1962年)、「遍照寺の彫刻と康尚時代」『同』846(1962年)、「東福寺同聚院不動明王坐像」『同』848(1962年、のち改稿したものを、『不動明王像造立一千年記念誌』に収載)、「浄瑠璃寺九躰阿弥陀如来像の造立年代について」『同』861(1963年)、「関東の定朝様彫刻」『関東の彫刻研究』(学生社、1964年)、「誓願寺毘沙門天像」『國華』907(1967年)、「藤原時代の二王像―旧蓮台寺像を中心に―」『佛教藝術』80(1971年)、「法金剛院阿弥陀如来像について」『國華』940(1971年)、「万寿寺阿弥陀如来坐像について」『MUSEUM』246(1971年)、「皇慶伝説の仏像―池上寺、如願寺―」『日本美術工芸』412(1973年)、「皇慶伝説の仏像―円隆寺―」『同』413(1973年)、「雙栗神社周辺の仏像」『同』414(1973年)、「三つの毘沙門天―京都市中に伝わる」『同』415(1973年)、「童顔の仏・菩薩―本山寺聖観音立像と真如堂阿弥陀如来立像―」『同』417(1973年)、「摂津・安岡寺の千手観音像」『同』418(1973年)、「藤原彫刻のプロポーションについて」『同』421(1973年)、「焼失壬生地蔵尊」『同』422(1973年)、「横川中堂の聖観音像」『同』423(1973年)、「旧巨椋池周辺の仏像」『學叢』1(1979年)、「康尚時代の彫刻作例三種」『同』2(1980年)などをあげることができる。集英社『日本古寺美術全集』所載の「和様彫刻の成立と展開」(15巻・平等院と南山城の古寺、1980年)、ならびに「定朝以後の諸相」(6巻・神護寺と洛北の古寺、1981年)、筑摩書房『日本美術史の巨匠たち(上)』(1982年)に執筆した「定朝」は、いずれもそれまでの研究を集大成した感がある。また、この時期にあっては、これらの研究と併行して工芸ならびに文様研究にも関心があったことが「飛鳥文様の一系列」『美術史』24(1957年)、「春日大社平胡―について―平安工芸の編年的考察 其一」『國華』867(1964年)、「春日神筝考―平安工芸の編年的考察 其二」『同』883(1965年)、「檜扇二種―平安工芸の編年的考察 其三」『同』894(1966年)、「平安時代装飾文様の展開について」『佛教藝術』67(1968年)、「東洋における雲気表現の衰滅」『月刊文化財』149(1976年)などの論文から窺がわれる。 一方、81年に「“檀色”の意義と楊柳寺観音菩薩像―檀像系彫刻の諸相」(上掲)を発表し、ことに「檀色」という概念を深く掘り下げたことで「檀像」の概念を広く捉え直すとともに、それまで基準となる作例との比較・対比が難しく漠然と十世紀頃と認識されることの多かった平安木彫の諸作例について、都鄙を問わず積極的に取り上げて再考を促し、制作年代についても従来漠然と考えられてきた年代より大きく引き上げる試みを行った。その際、これらを「古密教系彫像」「霊木化現仏」「感得」という視点から論じ、檀像研究のありように一石を投じた。この井上の研究により八・九世紀の木彫像研究が以後、活況を呈し、その見方・考え方は後続の彫刻史研究者に少なからず影響を及ぼすこととなった。この時期の代表論文には上掲の論文に続く「観菩提寺十一面観音立像について―檀像系彫刻の諸相Ⅱ」『学叢』5(1983年)、「愛知高田寺薬師如来坐像について―檀像系彫刻の諸相Ⅲ―」『同』6(1984年)、「法華寺十一面観音立像と呉道玄様―檀像系彫刻の諸相Ⅳ―」『同』9(1987年)がそれに当たる。さらに『日本美術工芸』には続々と関係作例の紹介を兼ねた論文が発表された。当時、彫刻史研究者の間で同誌への関心が著しく跳ね上がった。そして、これらの研究を俯瞰するものとして87年には至文堂『檀像(日本の美術253)』が、91年には岩波書店『七〜九世紀の美術 伝来と開花(岩波日本の美術の流れ 二)』が上梓された。なお、『日本美術工芸』に掲載された論文の多くは、のちに『古佛―彫像のイコノロジー―』(法蔵館、1986年)、『続古佛―古密教彫像巡歴』(同、2012年)に収録された。ただし、93年1月から翌年12月にかけて「古仏への視点」の副題のもと集中的に『日本美術工芸』の誌上において在地の古仏紹介を兼ねて発表された諸論文については未収である。すなわち、「和歌山東光寺薬師如来坐像」『同』652、「和歌山法音寺伝釈迦如来坐像」『同』653、「天部か神像か―法音寺・東光寺の例―」『同』654、「和歌山薬王寺十一面観音立像」『同』655、「和歌山満福寺十一面観音立像」『同』656、「島根南禅寺の仏像群(一〜三)」『同』657〜659、「島根禅定寺の仏像群」『同』660、「島根巖倉寺聖観音立像」『同』661、「島根仏谷寺の仏像群」『同』662、「島根大寺薬師の仏像群」『同』663、「島根清水寺十一面観音立像 付・大寺薬師仏像群(続)」『同』664、「滋賀鶏足寺仏像群(一〜二)」『同』665・666、「滋賀黒田観音寺伝千手観音立像」『同』667、「滋賀来現寺聖観音立像」『同』668、「大阪久安寺薬師如来立像」『同』669、「大阪常福寺千手観音立像」『同』670、「新潟宝伝寺十一面観音立像(水保の観音)」『同』671、「岩手天台寺仏像群」『同』672・673、「秋田の霊木化現像(上)―中仙町小沼神社―」『同』674、「秋田の霊木化現像(下)―土沢神社、談山神社、白山神社―」『同』675がそれらに当たる。この一連の研究を踏まえつつ井上の関心が神像彫刻研究へと向かったことは、「神仏習合の精神と造形」『図説 日本の仏教6 神仏習合と修験』新潮社、1989年)、「霊木に出現する仏―列島に根付いた神仏習合―」『民衆生活の日本史・木』(思文閣出版、1994年)、「神護寺薬師如来立像と神応寺伝行教律師坐像―怨霊世界の造形について―」『佛教大学 仏教学会紀要』7(1999年)などから窺がうことができる。 井上の著作を網羅した目録は、『続古佛―古密教彫像巡歴』(上掲)の巻末に収載されているが、あわせて詳細な年譜を付したものが『文化財学報』13(奈良大学文学部文化財学科、1995年)、『佛教大学 仏教学会紀要』7(上掲)、『伊那』1039(伊那史学会、2014年)に収められている。ことに『伊那』には生前、井上の謦咳に親しく接した安藤佳香、櫻井弘人、織田顕行、林英壽によるそれぞれの思い出と追悼文、および、実妹の清水好子による「井上家と兄・井上正のこと」を併載している。

外山ひとみ

没年月日:2014/06/01

読み:とやまひとみ  写真家、ジャーナリストの外山ひとみは6月1日、急性骨髄性白血病のため東京都内の病院で死去した。享年55。 1958(昭和33)年9月1日静岡県富士市に生まれる。静岡県立吉原高校卒業。高校時代に写真部に所属し写真を撮り始める。79年東京写真短期大学(現・東京工芸大学)卒業。この年、自費出版で写真集『家』を刊行。以後、フリーランスの写真家として人物取材を中心に雑誌などに発表する。 さまざまな社会的テーマに取り組み、90年代にはアジアに関心を広げ、1994(平成6)年から95年にかけてはインドシナ半島を小型バイクで縦断してヴェトナムを取材、個展「ヴェトナム・ドリーム」(コニカプラザ、東京、1995年)を開催、97年にはヴェトナムと日本で写真展「ヴェトナム颱風」を同時開催した。 写真および文章による著作を数多く発表、主なものに『MISS・ダンディ―男として生きる女性たち』(新潮社、1999年)、『ヴェトナム颱風』(新潮社、2003年)、『平成の舞姫たち』(モーターマガジン社、2010年)、『ニッポンの刑務所』(講談社、2010年)、『女子刑務所―知られざる世界』(中央公論新社、2013年)、『All Color ニッポンの刑務所30』(光文社、2013年)など。刑務所の取材には20年以上にわたってライフワークとして取り組み、国内数十か所の刑務所や少年院のドキュメンタリーを通じて、受刑者の生活だけでなく、犯罪の背景や司法制度の問題など幅広い観点から日本社会の一面を描き出す仕事として評価された。

市村緑郎

没年月日:2014/04/27

読み:いちむらろくろう  彫刻家で日本芸術院会員、埼玉大学名誉教授の市村緑郎は4月27日、間質性肺炎のため死去した。享年78。 1936(昭和11)年4月21日、茨城県下妻市に生まれる。62年東京教育大学(現、筑波大学)教育学部芸術学科彫塑専攻を卒業。在学中の61年に第4回日展へ「遠碧」を出品、初入選を果たす。62年第38回白日会展に「トルソーⅠ、Ⅱ」が初入選し白日賞を受賞。また同年より東京都立大泉高等学校で教鞭を取る。67年白日会会員に推挙。71年埼玉大学教育学部に助手として着任し、翌年に講師、83年に教授となり、2002(平成14)年に定年退官するまで彫刻実技、彫刻理論を中心に学生を指導、講座運営に尽力する。74年第4回日彫展、76年第6回日彫展で努力賞、77年第7回日彫展で日彫賞を受賞。77年文部省短期在外研究員として渡欧、イタリアを中心にヨーロッパの彫刻と美術教育について研究する。78年改組第10回日展で「腰掛けている人」、翌年第11回展で「腰掛けている女」で特選を受賞。82年第2回高村光太郎大賞展で「バランス」が佳作賞、84年第3回同大賞展で「融化A」が優秀賞を受賞。同賞の受賞をきっかけに屋外彫刻にも積極的に取り組み、86年には高村光太郎大賞の後を受けた第1回ロダン大賞展で「雲」が優秀賞、88年第2回同大賞展で「日は西に―明日へ」が彫刻の森美術館賞を受賞する。この間87年に日展会員に推挙。88年第64回白日会展で「明日に」が吉田賞を受賞、その後も同会の95年第71回展で「記憶」が長島美術館長賞、2002年第78回展で「こしかけているひとⅡ」が中澤賞と受賞を重ねる。89年第3回現代日本具象彫刻展で「森の詩」が大賞を受賞。94年第26回日展で「リラ」が日展会員賞を受賞。01年日展評議員に就任。02年に埼玉大学を定年退官し名誉教授となり、崇城大学芸術学部教授に就任。03年には「空遠く」で第35回日展内閣総理大臣賞を受ける。一貫して塑造による人体像を追究し、強い構築性をベースとした滑らかな肢体が生み出す無駄のない造形性による作品を発表した。また中央での精力的な活躍のみならず、地域への貢献という点でも埼玉県展の審査員や代表委員等の要職を歴任し、市民文化の向上に寄与した。06年、前年の第37回日展出品作である「間」で日本芸術院賞を受賞、08年日本芸術院会員となる。同年日展理事(09年に常務理事)、日本彫刻会理事(12年に理事長)に就任。没後の2016年に『市村緑郎彫刻作品集』(求龍堂)が刊行された。

中野玄三

没年月日:2014/04/21

読み:なかのげんぞう  嵯峨美術短期大学元学長かつ名誉教授で、仏教美術史家の中野玄三は、4月21日、鼻腔悪性黒色腫のため、京都府城陽市の病院で死去した。享年90。 1924(大正13)年1月1日、佐賀県唐津市に生まれる。翌年の年末に、40代だった父・範一が突然亡くなると、身重の母・てる子は玄三を含め5人の子を引き連れて上京。日中戦争勃発後の1939(昭和14)年12月、予科士官学校に入学。以後、職業軍人の道に進むことを余儀なくされた。43年に陸軍航空士官学校を卒業すると、陸軍少尉に任官してただちに飛行部隊二八戦隊に入隊し、中国東北部の温春に駐屯。その後、千葉県東金飛行場へと戦隊は移動し、そこで敗戦を迎えた。 46年、公職追放令のために公職に就くことができなかった中野は、敗戦時に駐屯していた千葉県東金で農家の下働きをし、その後東京の工場で働くこととなった。幼い頃の最年長の姉や兄弟の死、陸軍士官学校同期生の戦死、敗戦という戦中戦後にかけての体験が中野の心を深くえぐり、脅迫的なまでの死の対する恐怖心が植え付けられることとなり、この観念が中野の研究の基調をなしていた。 将来の展望をもてなかった20代前半のある日、中野は東京国立博物館を訪れてみたという。このふとした訪問が人生の大きな転機となった。その後博物館に足を運ぶようになり、52年4月に開催された博物館友の会主催の第2回「春の旅行」に参加して関西の国立博物館や寺社仏閣をめぐった。このときに「関西の大学に入り直して、本格的に美術の勉強をしてみたい」と心ひそかに思ったという。すでに同年3月に会社を退職しており、大学受験を後押しする条件が内外ともに揃っていた。 持ち前の集中力を発揮して、53年4月に京都大学文学部に入学。貪欲に勉学にいそしみ、人より10年遅れての青春であった。史学科国史学専攻へ進学。 57年に卒業後、京都府教育庁文化財保護課へ就職。後進の美術史研究者に大きな影響を与えた「八世紀後半における木彫発生の背景」(『悔過の芸術』所収、初出は1964年)は、修理のために神護寺薬師如来立像が国宝修理所へと搬出される際に立ち会った経験が端緒となった。生涯にわたって研究の柱の一つとなった『覚禅鈔』などの密教図像に出会うのも京都府時代のことであった。東寺観智院の聖教調査で新義真言宗開祖の覚鑁の著作を発見したことが、60年の「山越阿弥陀図の仏教思想史的考察」に結実。これが学術誌に掲載された最初の論文である。 67年4月、京都府庁から奈良国立博物館へと転職。69年から3年間かけて勧修寺本『覚禅鈔』を調査。平行して『覚禅鈔』諸写本の総合的な調査も精力的に行った。当時、京都市立芸術大学教授であった佐和〓研が主導した密教図像調査に参加し、その成果は69年の『仏教藝術』70号「素描仏画特集号」となり、中野も「覚禅伝の諸問題」ほかを寄稿して覚禅鈔および覚禅に関する基礎的事項を明らかにした。 71年には「社寺縁起絵展」を担当。かねてより縁起絵に関心を寄せていたが、京都府時代の多くの調査経験もまた縁起絵の世界への興味をより一層かきたて、「社寺縁起絵展」の成功へとつながる。また奈良博時代には、仏教美術に関する網羅的な情報の収集と公開をするという『国宝重要文化財 仏教美術』刊行事業を担当。この壮大な事業は、残念ながら中野の配置換えにより未完に終わったが、公刊された巻からは京都府時代に培った調査・研究・編集の能力が如何なく発揮されていることがうかがわれる。 74年4月、奈良国立博物館から京都国立博物館へ配置換え、美術室長となる。以後、84年の退官まで、学芸員が総掛かりで準備する特別展や、個人研究の成果公開の場として重視されていた特別陳列にほぼ毎年のように携わった。折しも京博所蔵になった東寺伝来の十二天画像の研究に取り組み、77年4月に特別展「十二天画像の名作」を開催。奈良博時代以来の『覚禅鈔』調査の成果が79年7月の特別展「密教図像」、同年10月末の特別陳列「不動明王画像の名品」展に結実。あわせて78年11月には金剛峯寺所蔵の「応徳涅槃図」の修理完成披露を兼ねた「涅槃図の名作」展、82年1月には「源頼朝・平重盛・藤原光能像」展。また配置換え当初は近世絵画の担当であったことから80年6月と翌年7月には特別陳列「探幽縮図」展を開催。中野の実に幅広い関心のさまがよく表われている。最後の特別陳列となったのが82年8月の「六道の絵画」展であった。卒業論文以来、一貫して追求してきた六道絵をテーマにした総決算としての特別陳列であった。 84年4月から3年間は京都文化短期大学(現、京都学園大学)、同年4月から1994(平成6)年3月まで嵯峨美術短期大学(現、京都嵯峨芸術大学。91年〜94年は学長)の教壇に立った。この間、名古屋大学や京都大学の非常勤講師も勤めており、中野の謦咳に接した研究者の卵は多かった。擬音語擬態語を用いながら繰り広げられる朴訥とした語り口が魅力的だったという。 この時期には『大山崎町史』『山城町史』など数多くの市町村史の編纂事業に携わったほか、佐和〓研の急逝後中断していた大覚寺聖教調査が中野を団長として91年に再開され、翌年には嵯峨天皇遠忌の記念行事の一環として大覚寺乾蔵収蔵の聖教目録が刊行された。この事業を母体に95年には歴史学の研究者による大覚寺聖教・文書研究会が発足、翌年には歴史学、仏教史学、美術史学の研究者がメンバーである覚禅鈔研究会へと解消発展した。この一連の事業・研究は、聖教が歴史学一般にも有用な史料であることが広く理解されるようになる先駆的な役割を果たすものであった。 「私は研究者同志がお互いに相手を批判する論文を書くことは、研究に活力を与えるよい慣例だと思う」(中野「私と若き研究者との出会い」[中野玄三・加須屋誠・上川通夫編『方法としての仏教文化史』勉誠出版、2010年])と明言するように、病気を押しながらも、中野は、最期まで、反論には再反論でこたえ、真摯に研究に向き合う姿勢を貫いた。 本稿は、中野の生い立ちと人柄、その研究の意義と研究史上の位置づけを、愛情をこめて論じた加須屋誠「中野玄三論」(中野玄三・加須屋誠『仏教美術を学ぶ』思文閣出版、2013年)に多くを負っている。 主な著書は以下のとおり。 『悔過の芸術』(法蔵館、1982年) 『日本仏教絵画研究』(法蔵館、1982年) 『日本仏教美術史研究』(思文閣出版、1984年) 『来迎図の美術』(同朋舎出版、1985年) 『日本人の動物画』(朝日新聞社、1986年) 『六道絵の研究』(淡交社、1989年) 『続日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2006年) 『続々日本仏教美術史研究』(思文閣出版、2008年)

内山英明

没年月日:2014/04/14

読み:うちやまひであき  写真家の内山英明は4月14日、脳出血のため死去した。享年65。 1949(昭和24)年12月7日静岡県菊川町(現、菊川市)に生まれる。76年東京綜合写真専門学校中退。日本各地で旅役者や傀儡師を取材、78年の「粧像記」(銀座ニコンサロン)、81年「日本劇場・梅沢家の人々」(新宿ニコンサロン)などで発表し評価される。80年代には自らと同世代である30代の作家や音楽家などの表現者の撮影、また80年代後半からは「迷宮都市」というテーマで世界各地の都市の撮影に取り組んだ。1992(平成4)年から2年にわたり、日本で初めて性行為によるHIV感染を公表した平田豊の支援活動に関わるとともに、彼を取材した『いつか晴れた海で―エイズと平田豊の道程』(吉岡忍との共著、読売新聞社、1994年)を刊行。 93年に東京の未来的な都市空間を撮影する過程で地下施設を取材、これをきっかけに都市の地下空間をテーマとする撮影に着手。それらの仕事をまとめた2000年の個展「JAPAN UNDERGROUND 地下の迷宮 II」展(銀座ニコンサロン、2000年)により、第25回伊奈信男賞を受賞。同年写真集『JAPAN UNDERGROUND』(アスペクト)を刊行。同シリーズはこれ以降08年の第4集まで刊行され、その第3集『JAPAN UNDERGROUND3』および、夜の都市風景をテーマとする『東京デーモン』 (ともにアスペクト、2005年) により、第25回(2006年)土門拳賞、また都市の地下に取材した一連の仕事により、06年日本写真協会賞年度賞を受賞した。 13年には、東日本大震災による福島原発の事故以前から日本各地で原子力関連の実験施設や研究所に取材を重ねていた作品による個展「アトムワールド」(新宿ニコンサロン)を開催するなど、都市やその地下に取材した90年代以降の一連の仕事は、いずれも文明史的なスケールを持ち、同時代に対する鋭い洞察をはらんだ仕事として高く評価された。 上記以外の主な写真集に『等身大の青春―俵万智』(深夜叢書社、1989年)、『都市は浮遊する』(講談社、1993年)、『東京エデン』(アスペクト、2007年)などがある。

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