本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





椿貞雄

没年月日:1957/12/29

国画会々員椿貞雄は、12月29日千葉大学附属病院でホドキン氏病のため逝去した。享年61歳。自宅船橋市。明治29年2月10日米沢市に生れた。大正2年上京、正則中学校に転入したが、岸田劉生の個展に感動し、同3年劉生に師事した。大正4年草土社の結成に参加、更に巽画会、院展洋画部、二科会或は初期春陽会に出品する等、つねに岸田劉生と行動を共にし、作品も岸田の影響を最もつよくうけた。また、白樺同人武者小路実篤、長与善郎と識り、その人生観、芸術観は終生椿に大きな感化を与えた。昭和4年国画会に招かれて会員となり没年迄同会に所属、出品を続けていた。略年譜明治29年 2月10日山形県米沢市に生れた。大正2年 上京。大正3年 岸田劉生に師事する。武者小路実篤、長与善郎、木村荘八、河野通勢等と相識る。大正4年 岸田、木村とともに草土社を結成。大正9年 第1回個展を京都で開催。大正10年 9月、東京で最初の個展を開催。大正11年 岸田、中川一政等と春陽会の創立に参加。昭和2年 岸田、武者小路、長与などの提唱で第1回大調和展創立、為に春陽会を退会。昭和3年 第2回大調和展をひらき同会解散する。昭和4年 河野通勢とともに招かれて国画会々員となる。昭和7年 渡欧、ルーベンス、レンブラントに感銘し、この年帰国。昭和8年 4月銀座紀国屋ギャラリーで滞欧作品展開催、第8回国展「家族」。昭和15年 朝鮮、満州に旅行、紀元二六〇〇年奉祝展委員となる。昭和20年 群馬県碓氷郡に疎開、翌年迄滞在。昭和25年 第24回国展「蛙図」。この年孫の像を多くかく。昭和29年 この年から4年間、鹿児島、長崎を好み同地に写生旅行をくりかえす。昭和31年 第30回国画会展「孫二人」「工場裏」「孫」。昭和32年 第31回国展「桜島風景」「泰山木」。第5回目の長崎旅行より帰京、11月千葉大学附属病院に入院。12月29日逝去。病名ホドキン氏病。昭和33年 4月第32回国展で遺作40余点を陳列。

吉田種次郎

没年月日:1957/12/04

社寺修理技師、無形文化財指定保持者吉田種次郎は12月4日、奈良市の自宅で逝去した。享年87歳。明治4年9月12日奈良市に生れ、同36年より昭和27年迄国宝建造物の修理に、工事設計監督に従事していた。法隆寺南大門、西円堂細殿、東院鐘楼の解体修理のほか、県下社寺の修理にたずさわり、その規矩術の研究により、昭和27年無形文化財の指定保持者に認定され、また同30年2月多年の功績に依り紫綬褒章をうけている。32年12月4日勲5等に叙せられ瑞宝章を授与された。

大河内夜江

没年月日:1957/11/27

日本画家大河内夜江、本名政宜は11月27日没した。享年64歳。明治26年山梨県に生れ、京都絵画専門学校を卒業、菊池契月に師事した。大正10年第3回帝展に「山水」が初入選となり、同6回展に「八瀬早春図」を出品した。第7回展では「秋の大原」が特選となり、更に第8回展に無鑑査出品した「たにまの春」で再び特選を得た。その後無鑑査待遇をうけ新文展まで出品をつづけた。第二次大戦後は日本美術展覧会(日展)委員に挙げられたが、晩年は日展への出品はなく、作品発表も殆どみられなかつた。

服部有恒

没年月日:1957/11/24

旧日展運営会参事、日本画院同人服部有恒本名謹一は、11月24日、目黒区大原国立第二病院で肺臓疾患のため逝去した。享年67歳。自宅杉並区。明治23年10月9日名古屋市に生れた。大正4年3月東京美術学校日本画科を卒業、松岡映丘に師事し、歴史画を学んだ。大正10年第3回帝展に「弘誓の稚児」が初入選となつて以来、官展に出品をつづけ、第二次大戦後は日展に拠り、日展参事、審査員をつとめた。作品は終始、大和絵人物画を専門とし、数少い、歴史画家の一人として注目されていた。 昭和10年には松岡映丘を盟主として、新興芸術の創造をめざす国画院を結成したが、13年3月松岡映丘の死去に際し研究所を残して解散、同年新に、官展系有志とともに日本画院を創立、没年まで同人として同展にも出品していた。昭和17年南方諸島を遊歴、又昭和11年以来武蔵野美術学校教授であつた。作品略年譜大正10年 第3回帝展「弘誓の稚児」初入選。大正14年 第6回帝展「安芸守清盛」特選。大正15年 第7回帝展「輪廻」無鑑査。昭和3年 第9回帝展「大塔宮」特選。昭和4年 帝展推薦となる。昭和8年 第14回帝展審査員となる。昭和9年 「豊公出陣」名古屋市庁舎。昭和11年 文展審査員。11月同招待展「堀川夜討」。昭和13年 第2回文展審査員「時宗と祖元」。昭和27年 日展運営会参事となる。第8回日展審査員「赤駒」。昭和28年 第9回日展「六代」。昭和29年 第10回日展「淀殿」。昭和30年 第11回日展審査員「細川夫人」。昭和31年 第12回日展「遊華童女」。昭和32年 11月24日没。

川瀬巴水

没年月日:1957/11/07

木版画家川瀬巴水、本名文治郎は、大田区の自宅に於て胃癌のため逝去した。享年75歳。明治16年5月18日東京市芝区に生れた。14歳の折、川端玉章門下の青柳墨川に、のち更に荒木寛友について日本画を学んだが、両親の反対で一両年で中絶、家業の組糸業に従事していた。その後家業衰微し、26歳のとき鏑木清方のすすめで葵橋の旧白馬会研究所に通い、洋画の基礎を学び、約2年後、清方の許に入門した。この間岡田三郎助を知りその指導をうけている。巽画会、烏合会の展覧会に出品受賞したこともあるが、大正7年、伊東深水の木版画「近江八景」をみて版画に興味をおぼえた。たまたま、渡辺版画店の知遇を得て、新版画創作の情熱を抱いていた両者は協力して新作に努めることとなつた。大正7年「塩原おかね路」「塩原畑下り」「塩原塩釜」3点の木版画を同店から初めて出版した。当時、主として洋画家系の唱える自画、自刻、自摺の創作版画運動に対し、浮世絵以来の伝統的木版技術を現代に生かそうとして、橋口五葉、伊東深水、巴水等の新様式の版画が生れたのであつた。この年以来巴水は版画作成をめざし、しかも風景画一途の制作に入つていつた。全国を旅行し、作画し、処女作以来木版画出版467点に及んでいる。昭和28年、文化財保護委員会により、木版技術保存のため制作記録を作成、永久保存することとなり、巴水は「増上寺の雪景」を制作、その間の記録がとどめられた。なお版画出版は殆ど渡辺版画店であつたが、「伊せ辰」「川口酒井合版」など他の版元からの出版もある。没後の33年、全作品、日記、制作日誌を含む「川瀬巴水」(楢崎宗重著 渡辺版画店発行)が出版される。作品略年譜大正7年 「塩原おかね路」「塩原畑下り」「塩原塩釜」の3点を初めて渡辺木版画店より出版。大正8年 「塩原あら湯路」「伊香保の夏」等仙台、十和田湖方面に旅行。大正9年 房州、金沢、塩原へ旅行、「旅みやげ」第1輯完成、「松島桂島」「石積む船」「井頭残雪」等、版画家としての地位を確立する。大正10年 関西、北越地方旅行、「旅みやげ」第2輯完結。「谷中の夕映」「宮嶋晴天の雪」等。第1回新作版画展ひらき39点出品。大正11年 九州へ旅行。「日本風景選集」36枚の大作にかかる。「雪の増上寺」等。白木屋で第2回新作版画展。大正12年 関東大震災で写真帖188冊すべて焼失 関西以西へ長期写生旅行に出る。大正14年 雑誌「日本及び日本人」の東京復興百景に20図をかく。唯一の美人画「ゆく春」を描く。大正15年 東北地方旅行。「日本風景選集」完成。昭和3年 四国、九州へ旅行。「池上本門寺」「星月夜(宮島)」等。昭和5年 郷土会15回展で巴水版画展を行い、127点出品。「馬込の月」等。昭和6年 「日光華巌の滝」「中禅寺歌ヶ浜」。昭和7年 東北、北海道に旅行。第3回現代創作版画展に97点出品。近代浮世絵版画展に74点出品。米国トレード博物館日本版画展に出品。昭和8年 「日本風景集東北篇」24図完成。日本美術協会第93回展「冨士川の夕」(銅賞)。「松島材木島」「奥入瀬の秋」。この年から翌年にかけ、肖像画を思いたち、多くのスケッチをする。昭和10年 「平泉中尊寺」「薩捶峠の冨士」この頃から数年間不調の時代つづく。昭和14年 朝鮮に旅行「扶余落花巌」「平壌の春」。昭和19年 塩原に疎開「吉田の冨士」(大判)。昭和23年 帰京、池上に居住、日本橋三越で巴水肉筆展開く。昭和25年 気分転換のため2、3役者絵を制作。昭和28年 記録の措置を講ずべき無形文化として木版技術の記録保存が計画され、制作者に選ばれる。昭和30年 銀座松屋の現代版画五人展に加わる。昭和32年 「平泉金色堂」(絶筆)。楢崎宗重「川瀬巴水」(渡辺版画店出版)により作成。

伊藤信夫(しのぶ)

没年月日:1957/10/22

行動美術協会々員伊藤信夫は、明治40年3月21日北海道函館市に生れ、大正14年北海道庁立函館商業学校を卒業した。その後画家としての道を歩み、昭和7年第10回春陽会展に「冬日午後」「造船所」が初入選となり、以後毎年同展に作品を発表していた。しかし、昭和13年第25回二科展に「丘を望む風景」を送つてから二科会に移り、17年第29回展の「兄と弟」に依り二科会々友に推挙された。戦時中二科会は解散し、戦後再結成が行われたが、20年二科会を離れ、旧二科会同志たちと行動美術協会を結成してその会友となつた。21年創立第1回展に「父母の像」「木材搬出」「海浜の人々」を出品、友山荘奨励賞を受け、翌22年第2回展の「石切場」「大通り風景」「樹陰」により同会々員に推されている。作品は風景、或は人物・静物を配した風景画が多く、31年「砂上静物」「海浜静物」を最後として、32年10月22日没した。作品は他に全道美術協会展にも出品していた。自宅は札幌市。

木村杏園

没年月日:1957/08/22

日本画家木村杏園、本名久治は、8月22日幽門狭搾症のため、京都市上京区の自宅で逝去した。享年72歳。染色家木村雨山の兄にあたる。明治18年8月18日石川県金沢市に生れた。初め金沢の南画家大西金陽について学び、大正9年頃から京都に出て橋本関雪に師事した。その後中国に遊学、南画の研鑽に努め、水墨、淡彩による山水花鳥を得意とした。大正11年第4回帝展に「山水二題」を発表して以来、帝展、日本南画院展、聖徳太子展その他に入選を続け、日展創設後は同展に作品を送つていた。また日本名勝絵百図を制作発表し、黄檗山万福寺方丈広間の襖絵「瀟湘八景」等の大作もある。作品略年譜大正11年 第4回帝展「山水二題」初入選。大正14年 第4回南画院展「嵯峨二題」。大正15年 第7回帝展「抗州風景」。昭和3年 京都大礼博「金剛山」。名古屋大典博「峡谷」。昭和5年 聖徳太子奉讃美術展「耶馬渓」。昭和8年 第14回帝展「渓澗」。昭和10年 第15回南画院展「春光麗日」。昭和13年 15年まで日本名勝絵百図を志し全国を探勝写生し紀元二六〇〇年紀念個展を開く。昭和24年 第5回日展「秋」。昭和26年 第7回日展「深秋」。昭和28年 第9回日展「璃流渓」翌年にかけて宇治黄檗山万福寺方丈広間襖絵「瀟湘八景」「千羽鶴」を製作。昭和29年 第10回日展「飛弾の秋」。昭和30年 第11回日展「耶馬渓」。昭和32年 金沢市の大谷派東本願寺金沢別院山門再建に際し楼上に「瑞竜」を描く。

村雲大樸子(たいぼくし)

没年月日:1957/07/27

日本画家村雲大樸子、本名毅一は7月27日、世田谷区の自宅で胃癌のため逝去した。享年64歳。明治26年8月3日東京市赤坂区に生れた。明治45年3月岐阜県立中学を卒業、大正4年慶応大学を中退し、プロレタリヤ文学研究を志した。村田実、宇野四郎等の「とりで」社に参加、演劇美術の研究に従事し、赤坂溜池の洋画研究所にも学んだ。大正3年、名古屋の石川柳城につき南画を学び、5年から7年迄南画研究のため中国各地を遍歴した。帰国後塩川文鵬を師とし、一方プロレタリヤ美術運動に参加、玉村善之助等と大正10年高原会を起し、更に12年には太田聴雨等と第一作家同盟を組織、またプロレタリヤ芸術家を含む美術家出版従業者組合、政治研究会組織などにも加わり、プロレタリヤ文芸連盟委員長をつとめるなど美術、演劇の運動に挺身していた。昭和6年川合玉堂の門に入り、長流画塾、戊辰会展に作品を発表し、官展には昭和11年改組第1回帝展に「啓蟄」、13年第2回文展に「郊外風景」を出品している。17年には青鸞社を起し以後同展に作品を送つていたが戦後は29年銀座松屋で第1回の個展をひらいた。また日本美術会の創立に参与して同委員をつとめる他、日ソ親善協会、アジア連帯委員会に参与、日中友好協会理事となるなど左翼の立場から国際文化交流に尽していた。30年別府貫一郎、岡本唐貴等と点々会を創立、毎年同展に出品した。晩年は「桃花源記」(29年)「帰去来兮辞巻」(32年)など円熟した作風をみせていた。なお昭和30年以来「惲南田・甌香館画跋」を池田醇一と共訳し、10回に亘り三彩(70号-84号)に連載している。

川合玉堂

没年月日:1957/06/30

日本画家、日本芸術院会員川合玉堂は、6月30日心臓喘息のため東京都青梅市の自宅で逝去した。87歳。明治6年11月24日、愛知県葉栗郡に生れた。本名は芳三郎、晩年の別号に偶庵がある。明治20年14歳の時京都に出で、望月玉泉の門に入り玉舟と号した。同23年幸野楳嶺の門に移つて玉堂と改め、この年の第3回内国勧業博覧会に出品して、はやくも褒状を受けた。その後、日本青年絵画協会、京都市美術工芸品展覧会、日本美術協会等に出品して次第に頭角をあらわした。明治28年、師楳嶺の死に遭つたが、京都に於いて開かれた第4回内国勧業博覧会に「長良川鵜飼」を出品して3等銅牌を受けた。この博覧会で橋本雅邦の「龍虎図」「釈迦十六羅漢」を見て感動し、翌29年上京して雅邦の門に入つた。その後、明治30年代には、主として日本絵画協会、日本美術院聯合絵画共進会に出品して屡々受賞した。明治40年、東京府勧業博覧会に審査官として「二日月」を発表して1等賞を受け、その画名を高めた。この年から開設された文展の審査員を命ぜられ、以後毎年審査員として文展に出品した。明治41年には、玉堂を中心として芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ、以来30年の間つづき、また翌42年には、彼の長流画塾を中心とする下萌会が生れて展覧会を催した。大正4年東京美術学校教授を拝命し、同7年には日本画科主任となつたが、昭和11年に至る前後20余年の間教職に在つた。大正6年帝室技芸員を命ぜられ、同8年には帝国美術院の創立とともに同会員に挙げられた。同13年大観、栖鳳など日本画壇の長老たちと淡交会を結成して毎年展覧会を開いた。昭和12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同15年多年の功労によつて文化勲章を授与された。 玉堂は、はじめ四条派を学んだが、それにあきたらずして転じて雅邦に師事した。従つてその初期の作品には楳嶺流の写生派の感化を示しているが、明治30年頃からの作品には狩野流の線描が目立つ。しかし、明治40年の「二日月」に至つて雲煙の表現に新意を開き、以後その個性的な線描と雲煙表出による水墨に新境地を発展させて行つた。また、一面大正5年の「行く春」などあたりから色彩と線描との調和に腐心し、次第に成果をおさめた。大正7年の「暮るる山家」、同13年の「雨後」、昭和10年の「峰の夕」、同15年の「彩雨」などは、この傾向の代表的なものである。晩年にはむしろ色を抑えた墨を主とした作品が多く、昭和25年の「吹雪」、同27年の「暮雪」、同29年の「月天心」などはその中のすぐれた作品である。そして、彼は日本的な題材を穏和な日本的な手法で表現したが、俳味ゆたかな小品にもすぐれた作品をのこしている。 その告別式は7月4日東京築地本願寺で行われたが、御供物料として金一封がおくられ、またかつて同画伯から日本画の手ほどきを受けられた皇后さまは菓子と生花をそなえられ、また政府は正3位勲1等旭日大綬章を贈つた。略年譜明治6年 11月24日、愛知県葉栗郡に、父川合勘七、母かなの長男として生れる。本名芳三郎。明治14年 岐阜市に移住。明治19年 京都の画家、青木泉橋、岐阜に来住。夫人も翠蘋と号する美人画家で、夫妻の知遇を得て大いに刺戟せられる。明治20年 9月、青木泉橋の紹介状をもつて京都に上り、望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を与えられる。明治23年 11月、幸野楳嶺の塾、大成義会に入る。第3回内国勧業博覧会「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」褒状。この時玉堂と改めた。明治24年 京都市照円寺境内に住む。春、日本青年絵画協会「夏雨水禽」。秋、大成義会研究大会「本間資氏射鴟図」1等賞。明治25年 京都市美術展覧会「春間野雉」。明治26年 親戚の大洞家の次女富子と結婚。明治26年 日本美術協会課題作「旅中の砧」1等褒状。明治27年 京都市美術工芸品展覧会「二喬読兵書図」3等銅牌。明治28年 2月、師幸野楳嶺死去。この年春京都開催の第4回内国勧業博覧会出品の橋本雅邦作「竜虎の図」と「釈迦十六羅漢」をみて、深く感動する。内国勧業博覧会「長良川鵜飼」3等銅牌。明治29年 上京橋本雅邦の門に入り、麹町に住む。9月、日本絵画協会主催第1回絵画共進会展「波に鴎」褒状。明治30年 陸軍大将川上操六の知遇を受け、大いに教えられるところあり、同家の襖絵16枚を描く。4月、第2回絵画共進会展「孟母断機」3等銅牌。10月、第3回絵画共進会「家鴨」3等銅牌、農商務省買上となる。明治31年 10月15日、日本美術院創立せられ、雅邦に従つてこれに加わる。4月、第4回絵画共進会「池畔観花図」2等銀牌。10月、第5回絵画共進会(この時から日本美術院と聯合、以後同じ)「冬嶺孤鹿」3等銅牌。明治32年 日本美術院展における会長の訓辞に対し、出品者を代表して答辞を読む。10月、第7回絵画共進会展「小松内府」3等銅牌。明治33年 この頃より次第に名声あがり、その塾、長流画塾も盛んとなる。4月、第8回絵画共進会「柿の実」3等銅牌。10月、第9回絵画共進会展「水禽」2等銀牌。明治34年 10月、第11回絵画共進会展「湘君」3等銅牌。明治35年 9月、日本絵画協会役員改選の結果、同会の幹事並びに評議員に依嘱せられる。3月、第12回絵画共進会展「瀑布」銀牌。10月、第13回絵画共進会展「紅露」「凉蔭」2等銀牌。明治36年 3月、第14回絵画共進会「朝」「夕映」。10月、第15回絵画共進会展「焚火」2等銀牌。明治38年 東上10周年に当り、長流画塾の研究大会を開き、園遊会を催す。明治39年 五二共進会審査員に任命せられる。日本美術院展「麻姑」五二共進会「驟雨」1等賞。明治40年 3月、東京勧業博覧会の審査官を嘱託せられる。東京勧業博覧会「二日月」1等賞。8月文部省美術審査委員会委員を仰付けらる。10月、文部省第1回美術展覧会(以下文展と略称)「片時雨」。明治41年 1月、師橋本雅邦死去。玉堂を中心に芸術を論じ、風流を楽しむ山水会が生れ爾後30年続く。第1回国画玉成会展「渓村秋晴」10月、第2回文展「秋山遊鹿」。明治42年 長流画塾盛んとなり、研究会とは別に、展覧会本位の団体、下萌会が生まれる。4月、第1回下萌会展「波」「高嶺残雪」。10月、第3回文展「霧」「高嶺の雪」。明治43年 9月、イタリア万国博覧会監査委員に任命せらる。10月、第4回文展「炊煙」。明治44年 10月、第5回文展「細雨」。大正元年 文展日本画部を二科に区分、日本画部第二科審査員に任命せられる。春草追悼会「藤花」。10月、第6回文展「潮」。大正2年 10月、第7回文展「雑木山」「夕月夜」。大正3年 大正博覧会審査員に任命せられる。4月大正博覧会「背戸の畑」。10月、第8回文展「駒ヶ岳」「夕立前」「晩渡」。大正5年 10月、第10回文展「行く春」。大正6年 6月、帝室技芸員を拝命。10月、第11回文展「小春の夕」。大正7年 下萌会を復活。東京美術学校日本画科主任に任ぜられる。10月、第12回文展「暮るる山家」。大正8年 9月、帝国美術院会員となる。第3回下萌会「春風」「春苑」。大正9年 第4回下萌会「山毛欅」、第2回帝国美術院展覧会(以下帝展と略称)「風立つ浦」。大正10年 第3回帝展「小雨の軒」「岩魚釣」。大正11年 5月、第1回朝鮮美術展覧会が開かれ、審査員として京城に赴き、朝鮮各地を巡遊。第6回下萌会「奥州街道」。第4回帝展「柳蔭閑話」。大正13年 小堀鞆音、下村観山、山元春挙、竹内栖鳳、川合玉堂、横山大観6人の淡交会生れる。大正14年 第9回下萌会「湖畔」。第2回淡交会「長閑」「暮靄」「斜陽」。第6回帝展「幽谷の秋」。大正15年 下萌会は第10回展を最後として終了。第10回展「渡頭の春」。第3回淡交会「晴耕」「夕汐」。第7回帝展「小春」外。4月、聖徳太子奉讃美術展「春」。昭和2年 下萌会に代る長流画塾研究大会を浜町日本橋倶楽部にて開催。第4回淡交会「深秋」「野末の秋」「四つ手網」。長流画塾大会「凪」。第8回帝展「峠の冬」。昭和3年 1月、今上陛下御即位御大典用品として、悠紀地方風俗屏風の揮毫を拝命。3月長流画塾の少壮集つて戊辰会を組織し顧問に推される。第1回戊辰会「八哥鳥」。10月、「悠紀屏風」完成。昭和4年 12月、翌5年ローマに開催の日本美術展覧会出品画を宮中において天覧、横山大観とともに御説明。第2回戊辰会「渇虎」。第5回淡交会「古城春雨」「藤」。12月、イタリア美術展覧会「奔湍」「秋山懸瀑」「山雨新霽」「柳蔭閑話」「長閑」「驟雨」「松上鸛★図」「吹雪」。昭和5年 聖徳太子奉讃美術展「多景島」。第6回淡交会「燕子花」「雪」「石楠花」。10月、第11回帝展「から臼」。昭和6年 フランス政府より、レジョン・ドヌール勲章を拝受。6月、イタリア皇帝よりグラン・オフイシェー・クーロンヌ勲章を拝受。第3回戊辰会「四ツ目垣」。第12回帝展「鵜飼」。昭和7年 10月、正4位に叙せられる。第4回戊辰会「めばる」。第13回帝展「土橋」(二曲一双屏風)。昭和8年 10月、ドイツ政府より赤十字第1等名誉章をおくられる。第5回戊辰会「初祖」。第7回淡交会「春雨」「河原の夏」「高嶺淡靄」。第14回帝展「深秋」。昭和9年 京都大礼紀念展「新月古城」。第8回淡交会「早春」「竹生島」「寒山拾得」。第10回帝展「宿雪」。昭和10年 6月、帝国美術院会員に任命せられる。第7回戊辰会「鵜」。第9回淡交会「峰の夕」「雨後」「投網」。現代綜合美術展「峠の冬」。日本画会展「良夜」。昭和11年 2月、帝国美術院松田改組なり、第1回展覧会開かれる。6月、東京美術学校教授及び帝国美術院会員の辞表を提出。11月、平生改組による第1回文部省展覧会開かれる。帝国美術院第1回展「雪しまく瀬戸」。昭和12年 6月、安井改組により帝国美術院は解消、帝国芸術院が生れ、秋改めて第1回文部省展覧会を開催。第8回戊辰会「島の春」。昭和13年 第9回戊辰会「朝もや」。第2回文展「一樹の蔭」。昭和14年 4月、戊辰会を解散。第10回戊辰会「銃後の春」「富士」。昭和15年 10月、紀元二六〇〇年式典当日文化勲章を受ける。同奉祝展「彩雨」。昭和16年 仏印巡回日本画展「晩帰」。昭和17年 1月、俳句集「山笑集」刊行。陸海軍献納画「祝捷日」、日本赤十字社より皇太子殿下へ献納の「ゆるぎなき大和島根」を描く。昭和18年 満州建国10周年慶祝展「急緩万里」。第6回文展「山雨一過」。昭和19年 7月、東京都下西多摩郡に疎開。12月更に古里村に転ずる。この頃、歌集「若宮集」をつくる。第7回文展「荒磯」。芸術院会員陸軍献納展「神富士」「煙雨」「雨霧」「深山の春」。戦艦献納のため「旗日」「山霊」「海風」「吹雪」「秋晴」を描く。昭和20年 5月、牛込の住宅戦災にあい焼失。12月、西多摩郡に移り、「偶庵」と称する。昭和21年 第1回日本美術展覧会「朝晴」。昭和22年 11月、歌集「多摩の草屋」刊行。「滝壷」等を製作。昭和23年 11月、歌集「多摩の草屋」巻2刊行。第1回白寿会展「春光」。昭和24年 12月、歌集「多摩の草屋」巻3刊行。松坂屋巨匠展「やまめ釣」。昭和25年 第1回無名会展「吹雪」。尚美会展「奔湍釣魚」。松坂屋現代巨匠展「潮騒」。昭和26年 第2回無名会展「雪の天地岳」。高島屋画廊開設記念展「高嶺残雪」。昭和27年 兼素洞の企画によつて、玉堂、大観、竜子の三人展雪月花展がはじまる。第3回無名会展「宿雪」。松坂屋の玉堂、大観双璧展「鶴」。第1回雪月花展「朝雪」「暮雪」。昭和28年 4月、歌集「多摩の草屋」巻4刊行。8月、ブリヂストン美術館映画部により、映画「川合玉堂」を撮影、11月完成。11月病を得て療養につとめ、以後4ヶ月間製作を行わず、第4回無名会展「泉」「雪」。第2回雪月花展「花筏」「古城の春」。日本美術協会「普化僧」。昭和29年 3月中旬、病気恢復。第3回雪月花展「月天心」「夕月」。昭和30年 3月、兼素洞の企画によつて、大観、玉堂、竜子の三人展の松竹梅展開く。大観は松、玉堂は竹、竜子は梅の課題である。第6回無名会「雪降る日」「寒山題壁」。松竹梅展「東風」「若竹」。昭和31年 第7回無名会展「冬晴」「猿」。第2回松竹梅展「隣の梅」「野梅」。昭和32年 2月下旬、心臓喘息病をおこし、青梅の自宅にて療養、一時恢復に向う。6月上旬から再び悪化し、30日午後0時40分急逝。7月4日築地本願寺に於て告別式を行う。正3位勲1等旭日大綬章を賜つた。この年第8回無名会展に「鴛鴦」「網干」松竹梅展に「老松」「若松」出品。

田中墨外

没年月日:1957/04/19

仏画家田中墨外、本名前田全蔵は(田中家の次男で、後年母方前田家をつぐ)4月19日内臓ガンのため武蔵野市で逝去した。享年80歳。明治10年3月8日福井県小浜市に生れた。同22年上京、神田に移住し、31年から橋本雅邦に師事した。雅邦没後は独り截金仏画に専念し、絶滅に瀕していた截金の技術を復活し、更にその完成に生涯をささげた。昭和12年6月、及び同27年9月日本橋三越に於て多年の研究成果を発表する仏画個展を開いたほか、一切の展覧会に出品せず、截金による仏画の追求に終始した。作品は、昭和11年「赤不動」(明王院蔵)模写、昭和12年「愛染明王」(截金)(護国寺蔵)、同16年「釈迦如来」(截金)芝青松寺蔵、同18年「不動明王」(墨)成田山新勝寺蔵、同27年「観世音菩薩」(截金)国立博物館蔵等がある。

小林古径

没年月日:1957/04/03

芸術院会員、日本美術院同人小林古径、本名茂は4月3日、パーキンソン氏病並びに脳軟化症のため逝去した。明治16年2月11日新潟市に生れた。4歳のとき母を失い、次いで兄、12歳の折父と相次で肉親を失い孤独のうちに少年時代を過したが、父を失つてから郷里で日本画を学びはじめた。明治32年17歳のとき上京して山中古洞を訪ね、古洞の紹介で梶田半古の門に入ることになつた。新時代の写生的風俗画に新しい展開をみせていた大和絵画家梶田半古のもとで、古径は大和絵を学び歴史風俗画に筆をとつていた。半古は日本美術院と関係があつたため、古径は、日本美術院と日本絵画協会共催の共進会展に研究作品を発表して毎月受賞という成績を収めていた。その後岡倉天心に知られ、又当時、新進気鋭の青年画家の集まりであつた紅児会に加わり、歴史風俗画の新解釈に、また、古典の技法・精神をいかに現代に生かすか、熱心な研究をつづけていつた。明治45年、第6回文展に出品した「極楽井」で漸やく自己の道を見出し、再興第1回院展以来「異端」「阿弥陀堂」「竹取物語」と毎年すぐれた作品を発表している。清澄で、浪漫的な大和絵風の作品で、いずれも、この時期の代表的作品といえよう。続いて、洋風画の写生をとり入れつつ新たな制作に向かい、「いでゆ」「麦」「罌栗」など、題材にも今迄にない傾向を進めていつた。大正11年日本美術院の留学生として青邨とともに渡欧、各地の美術を見学し、ロンドンでは「女史箴図巻」の模写をして12年8月に帰国した。帰国後は「鶴と七面鳥」「清姫」等があり、前者は琳派風、後者は大和絵画巻を思わせる作品であるが、線も形も色彩も、きわめて単純化され、古典のもつ端正、清澄な美しさを近代造型のうちに求めて、独自のきびしい追及を進めたものであつた。昭和6年第18回院展の「髪」はその代表的作品で、ここに新古典主義的画風を確立し、昭和の日本画界に大きな影響を与えている。その後も「弥勒」「孔雀」「紫苑紅蜀葵」「不動」等の力作をつづけ、清光会、七弦会等にも円熟した作品を発表していた。昭和19年東京美術学校教授となり、戦時中は一時山梨県に疎開し、制作も小品が多かつた。戦後、「舞踏図」「食後」「壷」「楊貴妃」等を発表、昭和25年には文化勲章を授けられている。27年東京芸術大学教授を辞任したが、病気のため、翌年第37回院展へ「菖蒲」を最後として院展への出品はなく、小品を清光会その他へ出すにとどまつていた。30年湯河原に静養し小康を得たが、31年慶応病院に入院、32年4月3日惜しくも永眠した。4月9日、日本美術院によつて院葬が行われた。略年譜明治16年 2月11日新潟市に生れる。明治19年 母死去。明治25年 兄死去。明治26年 父死去。明治32年 山中古洞の勧めにより梶田半古の門に入る。日本美術院、日本絵画協会第7回共進会展に初めて「村上義光」を出品(以下絵画共進会と略す)。明治33年 第8回絵画共進会展「竹生島」3等褒状。同第9回展「一ノ谷」1等褒状。明治34年 第10回絵画共進会展「春霞」2等褒状。絵画共進会第11回展「敦盛」褒状1等。明治35年 第12回絵画共進会展「女三宮」1等褒状。絵画共進会第13回展「妙音」2等褒状。明治36年 第14回絵画共進会展「紅白」。第5回内国勧業博覧会展「大真王夫人」。明治38年 日本美術院二十日会11月例会に「盲目」を出品、3等賞となる。明治39年 日本美術院展「朝」。巽画会研究会で3等賞をうける。この頃安田靱彦と知る。明治40年 巽画会の会員となる。本郷、清水方に住む。東京勧業博覧会「神埼の窟」褒状。第1回文展「闘草」。明治41年 紅児会に入る。奈良京都に旅行。明治42年 国画玉成会展「春」。明治43年 国画玉成会幹事となる。紅児会第11回展「陽炎」。紅児会第12回展「緑」「椿」。紅児会第13回展「極楽井」。明治44年 紅児会第14回展「重盛」「伶人」、紅児会第15回展、「伊勢物語」、紅児会第16回展「踏絵」外2点。大正元年 三好ます子と結婚。第6回文展「極楽井」褒状。紅児会第17回展「説法」「伊蘇普」、紅児会第18回展「蛍」「山水」。大正2年 紅児会第19回展「きりすと」「住吉」(紅児会はこの年解散)。大正3年 日本美術院同人に推される。再興第1回日本美術院展「異端」秋、巽画会の審査員に推されるも辞退する。大正4年 府下入新井に転居。京都、宇治方面に旅行、琅★洞展「厳島」。琅★洞主催、物語に寄する展覧会「今昔物語於但馬鷲★取若子図」。第2回院展「阿弥陀堂」。文展院展画稿展「阿弥陀堂下絵」。誠和会展「麦の秋」。大正5年 前田青邨と関西に旅行。美術新報社より「賞美章」を贈られる。第1回木原会展「竹取物語」。大正6年 第4回院展「竹取物語」画巻。日本美術学院紀念展「芥川」。立太子礼奉祝文官献納画帖「毛利元就厳島神社に詣でて大志を語る」。大正7年 日本美術院評議員となる。琅★洞展「花」「柴舟」。日本美術院同人展「鷺」。第5回院展「いでゆ」。日本美術院展「修竹」「青梅」。大正8年 日本美術院同人展「木蓮」。第6回院展「麦」。日本美術学院展「枯野」。大正9年 馬込に画室新築。延暦寺より伝教大師絵伝「十講始立」委嘱され、青邨と叡山に赴き伝教大師絵伝の参考品をみる。琅★洞展「宮島の朝」。大正10年 第8回院展「罌栗」。大正11年 前田青邨とともに渡欧。琅★洞展「竹取」。日仏交換展「長生鳩」東京府より英太子への献納画帖「平安神宮」。大正12年 大英博物館で「女史箴図」模写。8月23日帰国。大正13年 中国地方旅行。第11回院展「犬と遊ぶ」。大正14年 病気入院。大正15年 伊豆、伊勢、奈良に旅行。聖徳太子奉讃展「洗濯場」。第13回院展「機織」。昭和2年 尚美堂展「秋日」。日本美術学院展「柘榴とかまきり」。昭和3年 御大典奉祝品として懸物御下命になる。尚美堂展「流」。琅★洞祝に因む展「月」。第15回院展「七面鳥と鶴」。奉祝文官献納画帖「麦」、奉祝文官献納画巻「伊勢大廟」。昭和4年 渡欧する大観を送り関西に旅行。尚美堂展「宇津山」「鳩」。美之国5周年記念展「百合」。第16回院展「琴」。昭和5年 8月、日本美術院経営者となる。第17回院展「清姫」長巻。第2回聖徳太子奉讃展「飛鴨」。第1回七弦会展「雪」「茄子」。昭和6年 第18回院展「髪」。尚美堂展「ぐみ」。七弦会展「芍薬」「竜胆」。昭和7年 速水御舟と奈良、京都地方に旅行。尚美堂展「鴨」。昭和8年 第20回院展「弥勒」。七弦会展「紫苑」第1回清光会展「椿」「犬」。尚美堂展「初冬」。昭和9年 第21回院展「孔雀」。七弦会展「犬と柘榴」「柿」。日本美術院試作展「鶉」。清光会展「牡丹」。尚美堂展「蘭」。昭和10年 帝国美術院改組され、帝国美術院会員となる。日本美術院試作展「梅」。七弦会展「猫と唐もろこし」。清光会展「罌栗」。昭和11年 第23回院展「紫苑紅蜀葵」。日本美術院同人展「芙蓉」。七弦会展「林檎」。昭和12年 帝国芸術院会員となる。第1回文展の審査員を依嘱せらる。七弦会展「双鳩」。清光会展「三宝柑」「若鮎」。昭和13年 七弦会展「実と花」。清光会展「梅花」。ニューヨーク万国博に「花」出品。尚美堂展「冬」「霜」。昭和14年 第26回日本美術院展「唐もろこし」。七弦会展「赤絵二図」。清光会展「人形」。昭和15年 第27回院展「観音」。七弦会展「菓子」。清光会展「犬」。尚美堂展「紅梅」。紀元二六〇〇年奉祝展「不動」。昭和16年 日満美術展のため6月満州に渡り、10月帰京。七弦会展「むべ」。清光会展「瓶花」。昭和17年 満州国建国10周年慶祝展「鶴」。清光会展「百合」。院同人軍用機献納展「観音」。昭和18年 第30回院展「牛」。尚美堂展「百舌鳥」。清光会展「牛」。昭和19年 6月、東京美術学校教授となる。7月帝室技芸員となる。芸術院会員戦艦献納画展「馬郎婦」「不二」「栗」「紅梅」。芸術院会員陸軍献納画展「牡丹」2点。昭和20年 3月15日彫刻家笹村草家人の紹介で、山梨県北都留郡山口民蔵方に疎開、10月20日馬込に帰京。昭和21年 清光会展「猫」「ささげ」。昭和22年 七弦会展「童女」。清光会展「牡丹」「百合」朝日新聞社主催現代美術展「紫金城」他7点。五月会展「瓶華」。昭和23年 第33回院展「舞踊図」。清流会展「狗子」。清光会展「松風」。五月会展「菖蒲」。昭和24年 第34回院展「食後」。清流会展「木実」。清光会展「乗物」。五月会展「草花」。尚美堂展「秋海棠」。昭和25年 11月文化勲章を授与される。第35回院展「壷」。清光会展「唐俑」。清流会展「鉢」。尚美堂展「柳陰」。日本美術院同人展「井筒」。昭和26年 10月、東京芸術大学美術学部の教授を辞任。第36回院展「楊貴妃」。清光会展「丘」。清流会展「草花」。五月会展「牡丹」。尚美堂展「椿」。昭和27年 4月、生誕70年を祝い、画業50年の記念展を日本橋三越で開催、又同時に、「古径、靱彦、青邨三人展」が銀座松坂屋で開かれた。第37回院展「菖蒲」。壷中居展「椿」。昭和28年 壷中居展「鉢花」。連盟展「ホホズキ」。昭和29年 清光会展「草花」。昭和30年 7月初旬より9月中旬迄湯河原で静養する。昭和31年 3月、病気治療のため、慶応病院に入院する。昭和32年 パーキンソン氏病並びに脳軟化症のため4月3日逝去。4月9日、日本美術院に於て院葬執行せられ、同日従3位勲2等旭日章を授与された。

後藤良(なおし)

没年月日:1957/03/29

日展依嘱、能彫会の主宰者として有名な後藤良は、3月29日急性肺炎のため目黒区の自宅で逝去した。享年75歳。明治15年1月17日、宮城前楠公像の馬体製作担当者として著名な彫刻家後藤貞行の次男として東京牛込で生まれた。少年時より父貞行について彫刻を学び、また高村光雲について伝統的な木彫技法の修業に励んだ。後、東京美術学校彫刻科(木彫)選科に学び、同35年7月10日同校を卒業した。(同期本科に高村光太郎があり、幼時から親しかつた。)更に同校彫刻科研究室に入室、同39年7月修業した。同年12月より同42年3月迄地型模型の製作に従事した。大正3年4月再び東京美術学校彫刻科研究室に入り、塑造を修め、併せて支那石仏や能姿を研究し、その研究より生まれた作品を随時諸展覧会に発表した。特に能彫に専念し、戦後の晩年に至つては殆んどその研究と製作に打ち込み、戦前における能美会、戦後における能彫会の主導的役割を果し、近代日本彫塑界におけるこの分野の推進と確立に尽瘁したことは貴重である。大正10年4月前記研究室を去ると共に本郷区駒込に制作室を建設し、後進の指導や前記能美会の中枢的存在として活躍したが、昭和20年2月戦火により一切を喪失した。戦後能美会を能彫会として再出発し、当展覧会や日展に「能彫」によつて至高な彫技の程を開陳した。没前、肺気腫という難病に侵され乍らも、昭和30年秋、目黒不動で再建する仁王門のための仁王を依頼され、その製作に没頭中であつたが、3分の1の原型を大部分完成したばかりで長逝したことは惜しまれる。作品略年譜明治32年3月 日本美術協会展「人物」褒賞。明治34年4月 日本美術協会展「馬」褒賞。明治35年3月 日本美術協会展「猟犬」褒賞。明治36年3月 日本美術協会展「人物」褒賞。大正3年3月 日本美術協会展「能彫弱法師」銅賞。大正4年 第9回文展「朝霧開宿」褒状。大正5年4月 日本美術協会展「松籟」銀賞。大正6年4月 日本美術協会展「行く春」銀賞。大正7年4月 日本美術協会展「能彫松風」銀賞。大正8年3月 日本美術協会展「花を持つ夫人」銀賞。大正9年4月 日本美術協会展「能彫羽衣」銀賞。第2回帝展「粲花夫人」特選。大正10年4月 日本美術協会委員審査員嘱託。第3回帝展「★妃」特選。大正13年 第5回帝展「梅妃」推薦。大正14年 第6回帝展展覧会委員となる。「埋れたる古都」。大正15年 第7回帝展展覧会委員となる。「爽籟」。昭和2年 第8回帝展展覧会委員となる。「天長」。昭和3年 第9回帝展「久遠」。昭和4年 第10回帝展「能彫仕舞」。昭和5年3月 聖徳太子奉讃美術展「能彫羽衣」。第11回帝展「能彫熊坂」。昭和6年 第12回帝展「能彫道成寺」。昭和7年 第13回帝展「能彫松風」。昭和8年 第14回帝展審査委員となる。「能彫羽衣」。昭和9年 第15回帝展「能彫姥捨」。昭和12年5月 北海道函館八幡宮境内、石彫狛犬。第1回文展「立花供養」(無鑑査)。昭和13年6月 京都伏見稲荷神社宝前、神馬。第2回文展「爽旦」。昭和14年 第3回文展「飛行」。昭和14年11月 神奈川県箱根神社境内、石彫狛犬。昭和15年10月 宮城県仙台護国神社境内、石彫狛犬。南洋パラオ南洋神社境内、石彫狛犬。昭和17年 第6回文展「能彫忠霊」。昭和18年 第7回文展、「能彫巻絹」。昭和18年11月 福井県福井神社境内、石彫狛犬。昭和19年8月 関東神宮神座内、木彫極彩色狛犬。戦時特別文展「金剛巌師能姿鍛冶」。昭和21年3月 第1回日展「能猩々」。昭和21年10月 第2回日展「能野口兼資師黄石公」特選。昭和22年 第3回日展審査員となる。「石橋宝生重葵師能姿」。昭和23年 第4回日展「野口兼資師能姿源氏供養」。昭和24年 第5回日展「能彫小鍛治」(今回以後出品依嘱となる)。以後、日展出品作を列記する。第6回展「能石橋」、第7回展「蘭」、第8回展「杜若」、第9回展「野口兼資師能姿姨捨」、第10回展「宝生九郎師船弁慶後シテ能姿」、第11回展「土岐善麿氏能姿隅田川」、昭和31年第12回展「喜多長世師能姿小鍛治前シテ」。

北原鉄雄

没年月日:1957/03/28

株式会社アルス社長北原鉄雄は五反田逓信病院で心臓麻痺で逝去した。享年70歳。自宅世田谷区。明治20年9月北原白秋の実弟として福岡県柳川市に生れた。大正4年慶応義塾理財科を中退、「阿蘭陀書房」を創立、同6年阿蘭陀書房を「アルス」と改称した。大正初期、森鴎外、上田敏、谷崎潤一郎、志賀直哉、白秋などにより文芸復興運動の先駆をなした芸術雑誌「ARS」を刊行するとともに、詩歌を中心とした文芸書、美術書、写真、児童図書の出版に足跡を残した。ことに写真部門においては、最初の写真雑誌「CAMERA」を創刊し、また写真講座、技術書の発行など早くから未開拓の分野をきりひらき写真の普及啓蒙に大きな貢献をした。日本写真協会副会長でもあつた。

三木翠山

没年月日:1957/03/25

日本画家三木翠山、本名斎一郎は3月25日胃潰瘍のため京都市東山区の自宅で逝去した。享年75歳。明治20年7月15日兵庫県に生れた。明治36年上京し竹内栖鳳に師事。第7回文展に「朝顔」が初入選となり、引続き毎年入選をつづけ、帝展でも入選5回、昭和7年第13回帝展以来無鑑査待遇となつた。美人、風俗画を専門とする。外遊は中国の他、昭和27年春渡米、28年帰国している。滞米中美人画の個展を開き、またメトロポロタン・ミュウジアムから終生名誉会員の称を贈られていた。作品略年譜大正2年 第7回文展「朝顔」初入選。大正3年 第8回文展「青柿の檐(ノキ)」。大正10年 第3回帝展「汐沈む女」。昭和2年 秩父宮家御用画「朝の清見瀉」。第8回帝展「千姫」。昭和4年 第10回帝展「木蔭」。聖徳太子奉賛展「旅の宿」。高松宮家御用画「春乃野」。昭和5年 仏蘭西美術展「雪の道」。久迩宮家御用画「愛鳥」(杉戸)。昭和7年 第13回帝展「嫁ぐ姉」。昭和8年 第14回帝展「順風」。昭和9年 第15回帝展「雪の晨」。昭和14年 第3回文展「これにも月の入りたるや」。昭和15年 聖徳太子奉賛展「維新の花」。昭和17年 第5回文展「元禄快挙」。昭和18年 第6回文展「巴御前」。

結城素明

没年月日:1957/03/24

日本画家、日本芸術院会員結城素明は、3月24日狭心症のため東京都文京区の自宅で逝去した。82歳。明治8年12月10日東京市本所区に生れた。本名貞松。同24年川端玉章の天真画塾に入り、翌25年東京美術学校日本画科に入学、同30年卒業した。同年同校西洋画科に再入学したが、同33年中途退学した。この年、福井江亭、平福百穂などと共に、院展派の理想主義に対して自然主義を標榜して、旡声会を創立し、この年3月に第1回展を開催した。その後、はじめのうちは春秋2回開いたのが、明治37年頃からは断続的に開かれ、大正2年に及んでいる。第5回展の「散花」は、この時代の代表的なものである。明治40年東京勧業博覧会に「蝦蟇仙人」を出品して3等賞を受けた。官展には第1回文展から出品し、第5回文展の「囀」、第6回展の「甲ふたる馬」は共に褒状を受けた。さらに、大正2年第7回文展の「相思樹下把金糸図」によつて2等賞をかち得、その後も受賞した。大正8年帝展審査員となり、同14年には帝国美術院会員に推され、昭和12年帝国芸術院会員となつた。帝展や日展にも、ほとんど毎回出品し、第1回帝展の「朝霽・薄暮」、第2回帝展の「薄光」、第10回帝展の「嶺頭白雲」、第13回帝展の「炭窯」などが主なものである。この間、大正5年には鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘などと金鈴社をおこし、翌6年から、大正11年まで毎年展覧会を開いた。また昭和12年には川崎小虎、青木大乗と大日美術院を創立し、公募展を開いた。 彼は明治35年母校日本画科の授業を嘱託され、同37年助教授に任ぜられ、大正2年には教授に進んだ。その後、昭和19年に至るまで、長い間後進の指導にあたつた。その功によつて翌20年東京美術学校名誉教授の名称を受けた。彼の指導を受けたものは、現画壇で第一線に活躍している人が多い。彼ははじめ写生的な画風に西洋画をとり入れたが、次いで装飾的な画風にうつつた。さらに中期以後は、西洋画的な写実に濃彩を施した独特の作風をきずいた。 文筆にも長じ、その著者に「東京美術家墓所誌」「文芸家墓所誌」「伊豆の長八」「行誠上人遺墨集」「菊池容斎」「勤皇画家佐藤正持」などがある。略年譜明治8年 東京本所に生る。明治24年 川端玉章の天真画塾に入門。明治25年 東京美術学校日本画科に入学。明治30年 東京美術学校日本画科卒業、9月東京美術学校西洋画科に再入学。明治33年 福井江亭、平福百穂等と共に旡声会を興す。明治35年 東京美術学校嘱託に就任、「落花」(旡声会展)。明治37年 東京美術学校助教授に就任。明治40年 第1回文展「無花果」、東京勧業博覧会「蝦蟇仙人」3等賞。明治44年 第5回文展「囀」。大正元年 第6回文展「甲ふたる馬」。大正2年 東京美術学校教授に就任。第7回文展「相思樹下把金糸図」2等賞。大正3年 第8回文展「箇是劉家黒牡丹」。大正5年 第10回文展「歌神」特選。鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘等と金鈴社を興す。大正6年 第11回文展「八千草」特選。2月・第1回金鈴社展「島影」「尾張の海」「斜陽」他。11月・第2回金鈴社展「紫蘇」「桐の花」。大正7年 第12回文展「夏山三趣」推選。第3回金鈴社展「秋の草」。大正8年 第1回帝展に初の審査員に挙げられる。第1回帝展「朝霽」「薄暮」。第4回金鈴社展「翠渓微雨」「港湾初夏」。大正9年 第2回帝展「薄光」。第5回金鈴社展「松島十景」「新芽の頃」。大正10年 第6回金鈴社展「麦」「雨後」「苺」「紫陽花」。大正11年 第4回帝展「詩経図」。第7回金鈴社展「二南訓女図」。6月金鈴社解散す。大正12年 渡欧。大正13年 白耳義美術展「花鳥」。大正14年 欧州より帰朝。第1回東台邦画会展「湖」。帝国美術院会員に任命される。昭和元年 巴里展「木苺」。昭和2年 第8回帝展「山銜夕暉」、第2回東台邦画会展「寒山凍雲」。昭和3年 第9回帝展「白河渡頭」、中国に渡る。昭和4年 第10回帝展「嶺頭白雲」。昭和5年 聖徳太子奉讃会展「おほましこ」。伊太利展「朝顔」「木槿」「杉戸鶏図」。昭和6年 第12回帝展「昼の月」、米国トレード展「唐棣韈雀」「紫珠花鶏」。昭和8年 第14回帝展「斜陽」。昭和9年 第15回帝展「炭窯」。昭和10年 明治神宮絵画館「江戸開城談判」。昭和11年 改組帝展「梅渓」。第1回文展「谿光」。昭和12年 帝国美術院改組、帝国芸術院会員となる。大日美術院創立。昭和13年 第2回大日展「伐木」。昭和14年 第3回大日展「桜咲く国」。昭和15年 奉祝紀元二六〇〇年記念展「国史と花卉画屏風」。昭和16年 第4回文展「馬の湯」。昭和17年 第5回文展「建設へ」。昭和18年 「立葵・紅蜀葵」。昭和19年 東京美術学校教授を退任。第7回文展「那須山」。昭和20年 東京美術学校名誉教授となる。昭和21年 帝国芸術院は日本芸術院と改称。第1回日展「木槿花」。第2回日展「爽風」。昭和23年 第1回白寿会展「山と海」。昭和24年 第5回日展「迦楼羅」。第2回白寿会展「風神雷神」。昭和25年 第6回日展「大聖観喜天」。第3回白寿会展「空也上人」。昭和26年 第7回日展「早い秋の山」。日本美術協会展「(本生譚)鷹と鳩」。昭和27年 第8回日展「爽籟」。第5回白寿会展「緑池」。昭和28年 第9回日展「白雲」。第6回白寿会展「峻嶺朝霽」。昭和29年 第10回日展「朝雲」。第7回白寿会展「水光」。昭和30年 第11回日展「夏木」、第8回白寿会展「湖」。昭和31年 米国オークランド市日本文化百年展「水墨花鳥」。第12回日展「ポポー果」。第9回白寿会展「遠山重畳」。昭和32年 五都展「清波」。3月24日逝去。享年82歳。3月27日東京芝増上寺において葬儀を執行した。

長谷川三郎

没年月日:1957/03/11

洋画家、自由美術家協会々員長谷川三郎は、3月11日サンフランシスコに於いて上顎癌のため客死した。51歳。明治39年9月6日山口県に生れた。甲南高等学校を経て東京帝国大学文学部美学美術史科に学び、昭和4年卒業した。この間、大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重に師事した。昭和4年から同7年にわたつてアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、スペインに遊学した。滞仏中、昭和5年サロン・ドオトンヌに入選した。同7年帰国、二科会展に出品入選した。同9年新時代洋画展を興して展覧会を開き、また個展を催して作品を発表した。同12年、村井正誠、山口薫、矢橋六郎、浜口陽三等と自由美術家協会を結成し、わが国における抽象主義絵画の発展に尽瘁した。第二次大戦の戦中、戦後しばらくの間滋賀県長浜に疎開していたが、昭和25年藤沢市に移り、画業及び著作活動に従事するとともに、イサム・ノグチ等と親交を結び、わが国の前衛美術の海外紹介につとめた。同28年アメリカに渡り、ニューヨークにおいて個展を開き、また日米抽象絵画展、国際版画展等に作品を発表した。一度帰国したが、再び渡米、オークランドのカリフォルニア美術大学California College of Arts and Craft.サンフランシスコのアメリカ東洋文化研究所 American Academy of Asian Studies で東洋美術あるいは禅を講義していた。彼は抽象的な作風に終始したが、近年は書や禅の精神をとり入れ、拓本などを応用した作品を発表した。代表的な作品には、「泳ぎ」(昭和8年、二科展)、「蝶の軌跡」(同年12年、自由美術展)「湖のほとりにて」(同24年、自由美術展)「月光曲」(同25年、毎日連合展)「交響詩、晴日」(同26年自由美術展出品、紐育ロックフェラー・コレクション蔵)などがある。また著作に「アブストラクト・アート」「モヂリアニ」(アトリヱ社)、「新しい絵を見る手引き」「新しい形の美」(美術出版社)、「モダーン・アート」(東京堂)などがある。

三宅凰白

没年月日:1957/02/26

日本画家三宅凰白、旧号呉月、本名清一は2月26日急性肺炎のため京都市中京区の自宅で逝去した。享年65歳。明治26年5月2日京都に生れた。大正4年京都市立絵画専門学校を卒業、大正15年以来山元春挙に師事した。大正7年第12回文展に初入選以来、文、帝展に出品を続け、昭和5年の第11回帝展で「花旦」が特選となつた。戦後は日展に出品依嘱者として作品を発表、第7回日展「薪能」などがある。昭和11年から24年まで京都市立絵画専門学校助教授、25年以後は光華女子大講師の教職にあつた。この間、昭和14年絵画専門学校より派遣されて中国美術を視察、また、師山元春挙没後はその塾早苗会幹事として、更に同会解散後は同志と耕人社を結成し理事をつとめていた。略年譜明治26年 5月2日京都に生れた。父は呉暁。大正4年 京都市立絵画専門学校卒業。大正7年 第12回文展「演習所見、斥候・行軍」(対幅)初入選。この頃呉月と号す。大正14年 第6回帝展「おはらめ」凰白と改号。大正15年 山元春挙に師事、早苗会々員となる。第7回帝展「錦繍装」。昭和5年 第11回帝展「花旦」特選、官展には殆ど毎年出品、入選となる。昭和9年 第15回帝展「浄心」。京都市展「秋林小景」京都市買上。昭和10年 京都市展「ゆく春」受賞。昭和11年 京都市立絵画専門学校助教授となる。昭和12年 第1回文展「雪合戦」この年から文展無鑑査待遇となる。昭和14年 北支、満州に約1カ月美術視察。昭和15年 紀元二六〇〇年奉祝展「楽土」。昭和16年 第4回文展「暮笛」。昭和18年 早苗会解散、耕人社創立、理事となる。昭和24年 京都市立絵画専門学校退職。昭和25年 第6回日展「くさむら」出品依嘱、光華女子大学講師となる。昭和26年 第7回日展「薪能」出品依嘱。昭和32年 2月26日没。

黒田源次

没年月日:1957/01/13

奈良国立博物館長黒田源次は、1月13日心臓疾患のため大阪大学医学部附属病院で逝去した。享年70歳、号★廬。明治19年12月9日熊本市に生れ、済々黌、第五高等学校を経て京都帝国大学文学部に入つて心理学を専攻し、明治44年6月卒業した。のち引続き大学院に学び、さらに大正3年同大学医学部副手となつて生理学を修め、同9年講師となり、同12年文学博士の学位を受けた。同13年から翌年にわたつて文部省海外研究生となつてドイツに赴き、ライプチッヒとベルリンで学んだ。同15年満州医科大学教授となり生理学教室を担当した。昭和6年生理学研究のため欧米各国へ留学、特にベルリンに滞在して研究をつづけ、同9年帰任した。この間、同大学学生監、満州教育専門学校教授を兼務し、昭和14年同大学図書館長及び医学陳列館長、同大学予科主事兼教授をつとめた。同21年満州を引揚げて内地へ帰り、翌22年には東京帝室博物館嘱託となり、同年国立博物館官制の制定とともに国立博物館嘱託となり、同年9月文部事務官に任ぜられ、国立博物館奈良分館長を命ぜられ、同年10月正倉院評議会々員を委嘱された。同27年奈良文化財研究所長を兼ね、同年8月奈良国立博物館長となつた。在任中病み、療養中であつたが、遂に再び立つことが出来なかつた。彼の研究は多方面にわたり、心理学、医学、薬学、支那学、考古学、美術史、日本古代史などにわたつた。その主な編著書に「上方絵一覧」(昭和4年、京都、佐藤商太郎商店刊)、「条件反射論」(大正13年、京都、生田書店)、「心理学の諸問題」(大正13年、東京宝文館)、「西洋の影響を受けたる日本画」(大正13年、京都中外出版株式会社)、「長崎系洋画」(昭和7年、創元社)、「芭蕉翁伝」(大正11年、聚英閣)がある。

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