本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





下村良之介

没年月日:1998/12/30

読み:しもむらりょうのすけ  日本画家の下村良之介は12月30日午前11時8分、肺気腫のため京都市上京区の病院で死去した。享年75。大正12(1923)年10月15日、大阪市の能楽師の家に生まれる。本名良之助。5歳より謡・仕舞の稽古のために桃谷の能楽堂に通う。昭和10(1935)年12歳の時に京都に移り、翌年京都市立美術工芸学校に入学。同16年からは京都市立絵画専門学校に学び、同18年学徒動員のため繰り上げで同校を卒業。同年、卒業制作の「暖日」を第8回市展に出品するが、落選する。満州・台湾に赴いた後、同21年復員。同23年3月には新たな芸術活動を目指して山崎隆・三上誠・星野眞吾ら京都の若手日本画家を中心にパンリアルが結成されるが、同年10月星野眞吾の推薦により下村も大野秀隆(俶崇)とともに入会。翌年第1回パンリアル展を京都藤井大丸で開催、日本画の革新を唱えるパンリアル美術協会が公にスタートする。下村は「祭」「作品」「デッサン」を出品し、以後晩年に至るまでパンリアル展を発表の中心にすえることになるが、昭和20年代から30年代前半にかけてはキュビスム的な群像表現から次第に鳥にテーマを集中させ、建築用の墨つぼを使用した鋭い線描による画面へと移行していく。同33年カーネギー財団主催のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、同35年中南米巡回日本現代絵画展に出品するなど海外展にも発表するようになるが、この頃から紙粘土を画面に盛り上げてレリーフ状にし、あたかも化石のような鳥の形象を表現するという、独自の質感を持った強靱な作風を完成させていく。同36年第1回丸善石油芸術奨励賞(留学賞)を受賞し、翌年より一年間ヨーロッパ、中近東、東南アジア等を遊学。同41年大谷大学幼児教育科助教授に就任(同46年同大学教授に就任)。同44年関西歌劇団公演の歌劇「椿姫」(大阪厚生年金会館大ホール)以後、舞台美術の仕事も多く手がけ、また“やけもの”と称する陶器や宮尾登美子「序の舞」(同56~57年『朝日新聞』連載)等の挿絵も試みるなど多彩な表現活動を行った。同57年に美術文化振興協会賞を、同62年には第5回京都府文化賞功労賞を受賞。平成元(1989)年にO美術館で回顧展を開催。作品集に『反骨の画人・下村良之介作品集』(京都書院 平成元年)、著書に『題名に困った本』(私家版 昭和58年)、『単眼複眼』(東方出版 平成5年)がある。

白洲正子

没年月日:1998/12/26

読み:しらすまさこ  能や美術工芸についての執筆活動で知られる白洲正子は12月26日午前6時21分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。享年88。明治43(1910)年1月7日、樺山伯爵家の二女として東京で生まれる。4歳から梅若宗家に能を習い、14歳で女人禁制だった能楽堂の舞台に女性として初めて立った。大正13(1924)年学習院女子部初等科を修了後、米国に留学。昭和3(1928)年に帰国しその翌年、実業家で後に吉田茂首相の側近となる白洲次郎と結婚。同18年、志賀直哉や柳宗悦らに勧められ『お能』(昭和刊行会)を処女出版。この頃から終戦直後まで細川護立に中国古陶磁の鑑賞の仕方を教わり、数々の骨董屋を紹介される。戦後は美術評論家の青山二郎を中心とした文化人グループの中で、小林秀雄、河上徹太郎らから文学や骨董の指導を受け、美に対する情熱と鋭い鑑識眼で、芸術・芸能を大胆に論じた随筆、紀行文を数多く残した。同30年、銀座の染織工芸店「こうげい」の開店に協力、翌年より同45年まで直接経営にあたり、多くの染織作家を発掘する。同39年『能面』(求龍堂)、同47年『かくれ里』(同46年 新潮社)で二度読売文学賞を受賞。美術工芸に関する著作としては、他に『十一面観音巡礼』(新潮社 昭和50年)、『日本のたくみ』(新潮社 昭和56年)、『白洲正子 私の骨董』(求龍堂 平成7年)。

隅谷正峯

没年月日:1998/12/12

読み:すみたにまさみね  刀剣作家で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の隅谷正峯は12月12日午後1時16分、急性循環器不全のため石川県松任市の石川中央病院で死去した。享年77。大正10(1921)年1月24日、金沢で醸造業を営む隅谷友吉の長男として生まれる。旧制金沢第一中学校に在学中に日本刀に興味を抱くようになり、立命館大学理工学部機械工学科を昭和16年に卒業した後、同学に創設された日本刀鍛錬研究所で同17年より桜井正幸に師事して作刀技術を学ぶ。また、広島県尾道市にあった興国日本刀鍛錬所でも作刀研究を進めた。戦後、帰郷し、作刀禁止が解かれた同28年から制作を再開。同29年作刀許可を受け、第1回作刀技術発表会に初入選。以後39年まで全10回行われた同展に毎回出品し、優秀賞を4回、特賞を4回受賞する。同30年日本美術刀剣保存協会の新作刀技発表会に入選。同40年作刀技術発表会を引き継ぐかたちで創設された新作名刀展に第1回から出品して名誉会長賞並びに正宗賞、同41年第2回同展で正宗賞・毎日新聞社賞を受賞する。同42年、同展無鑑査となり、審査員を委嘱され、同49年第10回同展で正宗賞を受賞する。この間、同42年石川県指定無形文化財保持者となる。同46年小型たたらによる自家製鋼を研究・開発し、同50年正倉院御物の刀子の研究・模造を行うなど、各地の古今の作刀、研磨技術を研究し、同56年国指定重要無形文化財保持者に認定された。この間、同46年日本美術刀剣保存協会協議員を委嘱され、同59年には全日本刀匠会理事長に就任。平成2(1991)年には同会顧問、同4年には日本美術刀剣保存協会理事となった。主な作品に、伊勢神宮式年遷宮御神宝纏御太刀(昭和39年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十二振(同44年)、伊勢神宮式年遷宮御神宝太刀十六振(平成元年)のほか、皇太子妃、秋篠宮真子内親王の守り刀などがある。飛鳥・奈良時代から現代にいたる刀剣技術を研究し、なかでも鎌倉期の備前伝の鍛錬法を得意とした。奈良時代に貴人が装身具に用いた「刀子(とうす)」の制作で知られた。平成3年、佐野美術館、石川県立美術館で「隅谷正峯展」が開催され、略歴などは同展図録に詳しい。 

森田子龍

没年月日:1998/12/01

読み:もりたしりゅう  書家の森田子龍は12月1日午後7時、心筋梗塞のため滋賀県大津市の自宅で死去した。享年86。明治45(1912)年、兵庫県豊岡市に生まれる。昭和22(1947)年上田桑鳩らと書道芸術院を創設。翌年には『書の美』を発刊、同誌は書道芸術院の機関誌的役割を果たす。また抽象画家長谷川三郎と交友を深め、同25年秋から『書の美』に絵画を含めた実験作品を公募するα部を設けて、長谷川にその選評をゆだねた。同26年には京都において書芸術総合誌『墨美』を創刊、同誌は海外の前衛美術を積極的に紹介し、津高和一や吉原治良ら関西の抽象画家達に大きな影響を与えるとともに、海外の画家にも日本の前衛書を知らしめる媒体となった。同27年にはより前衛的な運動をめざして井上有一らと墨人会を結成。さらに異ジャンルの前衛的な作家達を糾合した現代美術懇談会(ゲンビ)が同年発足すると、これに参加した。また森田は、ニューヨーク近代美術館の「日本の建築と書」展(同28年)、カーネギー国際美術展(同33年)、フライブルグ書展(同35年)、モントリオール万国博美術展(同42年)等に出品し、書と西洋美術の交流に貢献した。同55年京都市より京都市文化功労者として表彰、同60年、京都新聞文化章を受賞、同61年京都市美術館で「今日の作家3 森田子龍」展が、また平成4(1992)年に兵庫県立近代美術館で「森田子龍と『墨美』」展が開催された。

田口善国

没年月日:1998/11/28

読み:たぐちよしくに  東京芸術大学名誉教授の漆芸家で、国の重要無形文化財(人間国宝)の田口善国は11月28日午前2時11分、心不全のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年75。大正12(1923)年3月1日東京都麻布に生まれる。本名善次郎。生家は医者で、父と交遊のあった漆芸家松田権六に昭和14(1939)年に弟子入した。また、やはり父と交遊のあった奥村土牛に昭和11年から同16年まで日本画を学び、吉野富雄に古美術を学んだ。同21年第2回日展に「風呂先屏風みのりの朝」で初入選。以後、同22年第3回日展に「風呂先屏風蒔絵俵に鼠」、同23年第4回展に「蒔絵盃ピアノとルリ鳥」、同26年第7回展に「四枚折蒔絵屏風親子つばめ」で入選する。この間、同25年から2年間、東京芸術大学研究生として小場恒吉に日本文様を学び、図案などを研究する。同35年より日光東照宮拝殿蒔絵扉の復元修理に従事。同36年日本伝統工芸展に「蒔絵手箱」を出品して奨励賞を受賞し、同37年日本工芸会会員となる。同38年の同展では「平文蒔絵箱」で、翌年は「蒔絵飾箱 日蝕」で2年連続奨励賞を受賞。同43年同展では「野原蒔絵小箱」で文部大臣賞を受賞する。同53年MOA岡田茂吉賞工芸部門優秀賞を受賞。同55年大倉集古館所蔵の蒔絵「夾紵大鑑」の復元修理をする。同64年国の重要無形文化財保持者(蒔絵)に指定された。同39年中尊寺金色堂復元修理に参加。同49年から翌年まで東京芸術大学美術学部講師をつとめ、同50年同学助教授、同57年同教授となった。平成2(1990)年同学を停年退職し、同名誉教授となった。古美術品の復元修理を通して伝統的な漆芸技法を研究し、蒔絵、螺鈿の高度な技術を習得。そうした技術を生かし、動植物を主なモティーフとする斬新な意匠、表現を試みて現代的な漆器を制作した。 

宮上茂隆

没年月日:1998/11/16

読み:みやかみしげたか  建築史家の宮上茂隆は11月16日午後7時21分、肺炎のため東京都新宿区の病院で死去した。享年58。昭和15(1940)年7月26日、東京小石川の華道家元の家に生まれる。同39年東京大学工学部建築学科を卒業、同41年同大学院修士課程を修了し、同43年から55年にかけて同学科助手を務める。その間の同54年に『薬師寺伽藍の研究』(私家版 同53年)で工学博士となる。同55年竹林舎建築研究所を設立。同58年、二十年がかりで大阪城本丸設計図を復元完成。平成元年から同5年にかけて掛川城天守閣の復元設計に携わる。 奈良時代の寺院から江戸時代の城郭に至るまで日本建築の研究・復元設計を幅広く手がけた。主要著書に『法隆寺』(西岡常一と共著 草思社 昭和55年)、『大坂城』(草思社 昭和59年)がある。 

小杉一雄

没年月日:1998/10/22

読み:こすぎかずお  美術史家で、早稲田大学名誉教授の小杉一雄は、10月22日午前10時35分、急性肺炎のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年90。明治41(1908)年6月4日画家小杉未醒(放庵)の子として東京都本郷区千駄木町に生まれた。昭和2(1937)年第一早稲田高等学院に入学、同4年4月早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻入学、同7年4月早稲田大学大学院に進み、会津八一教授の指導を受けた。同14年4月から早稲田大学第二高等学院講師、同20年11月から早稲田大学文学部講師、同24年4月早稲田大学文学部教授になり、同54年3月定年退官。同年早稲田大学名誉教授となった。この間、同32年4月には「中国美術史に於ける伝統の研究」により、早稲田大学より文学博士号を授与された。同55年11月勲三等瑞宝章叙勲。平成5(1993)年2月紺綬褒章受章。  その美術史研究は中国美術における文様史と仏教美術史を根幹とした。文様史の研究においては自身が中国文化の実質的出発期と位置づける殷時代の文様に注目し、この時代の文様がほとんど爬虫類系のものであるという観点から、多様な文様を綿密な考証によって解読し、この文様の流れがその後の数千年におよぶ中国美術、ひいては日本美術の中に脈々として存続し同時にこれらを生育していったという状況を説き明かした。仏教美術の研究においては、南北朝時代の仏舎利信仰と仏塔、天蓋・仏龕・台座という荘厳具、肉身肖像、鬼神形などのテーマを柱としながら、関心を多岐におよぼし、壮大な仏教美術論を展開した。それは図像的考察と文献的考察によって独自の境地を開くものであった。この二つは学位取得論文を構成するもので、その後の論文も合わせて、文様史に関しては『中国文様史の研究―殷周時代爬虫文様展開の系譜』(昭和34年、新樹社)、仏教美術史に関しては『中国仏教美術史の研究』(昭和55年、新樹社)が刊行されている。  その他の主な著作として、『アジア美術のあらまし』(昭和27年、福村書店)、『日本の文様―起源と歴史』(昭和44年、社会思想社)、『中国の美術』(昭和49年、社会思想社)、『小杉一雄画文集』第一輯(昭和60年、自費出版)、『中国美術史―日本美術史の研究』(昭和61年、南雲社)、『小杉一雄画文集』第二輯(昭和63年、自費出版)、『奈良美術の系譜』(平成5年、平凡社)がある。妻瑪里子は美術史家(白梅短期大学名誉教授)、長男正太郎は早稲田大学教授(心理学)、次男小二郎は洋画家。 

平島二郎

没年月日:1998/10/20

読み:ひらしまじろう  建築家の平島二郎は10月20日午後11時15分、胸部大動脈瘤破裂のため東京都千代田区の病院で死去した。享年69。昭和4(1929)年6月22日、東京都港区高輪南町に生まれる。同17年森村学園初等科を卒業し、同年麻布中学校に移ったが、同19年に成城学園に転じる。同25年東京芸術大学美術学部建築科に入学。一方で在学中に俳優座養成所舞台技術講習生となり舞台美術コースを同29年卒業、俳優座劇場舞台美術製作所に在籍する。同29年東京芸術大学を卒業するが、卒業設計には当時まだ知る人の少なかったシェル構造を選ぶ。シェル構造からスペインのトローハの作品に注目、さらにヨーロッパとアラブ世界の交流史に興味を持ち、また日本と世界の住宅の歴史を精査、自身の建築設計に独自の風土論を実現することとなる。同29年山脇巌の自邸内の研究室に入室し、バウハウスに留学した山脇夫妻のもと、グロピウス展の展示計画にも加わった。同30年、朝吹四朗建築事務所に就職。同36年スペイン政府名誉留学生に合格、スペイン国立マドリード大学トローハ研究室と、サン・フェルナンド美術学校に一カ年在籍。その間のヨーロッパ各地、また船旅の往路途次ではアジア各地を、帰国時に南米各地、北米合衆国を、建築、とくに住宅について視察した。同38年建築事務所開設。同年母校の講師として同43年まで在職、東京芸術大学図書館ほかの設計に加わった。同41年文部省委託のカッパドキア中世遺跡調査に従事。主な作品にはクレッセント・ハウス(同43年)、奥志賀高原ホテル(同44年)、那須御用邸基本設計(同49年)、葉山御用邸(同53年)、赤坂御用地内東宮仮御所(同57年)。平成10年の遠藤周作文学館の基本設計が遺作となった。著書に『世界建築史の旅』(美術出版社 昭和42年)。

三輪福松

没年月日:1998/10/10

読み:みわふくまつ  美術史家の三輪福松は10月10日午後0時12分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年87。明治44(1911)年7月6日、静岡県で生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。同大学附属図書館、及び同大学医学部図書室勤務を経て、同24年東京大学助教授となる。同28年よりイタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学文学部に学び、帰国後は多摩美術大学教授(同34~38年)、慶應義塾大学講師(同38~47年)を歴任。同47年より東京学芸大学教授、同50年より弘前大学教授、同55年より群馬県立女子大学教授を務める。また同60年から平成元(1989)年まで清春白樺美術館長を務めた。主要著書に、『ワトオ』(アトリエ社 昭和15年)、『巨匠の手紙』(不二書房 昭和19年)、『ヴユネツイア派』(みすず書房 昭和31年)、『モヂリアニ』(みすず書房 昭和31年)、『イタリア美術夜話』(美術出版社 昭和32年)、『イタリア美術の旅』(雪華社 昭和39年)、『イタリア』(美術出版社 昭和41年)、『エトルリアの芸術』(中央公論美術出版 昭和43年)、『美術の主題物語・神話と聖書』(美術出版社 昭和46年)、『美の巡礼者』(時事通信社 昭和58年)、『美術のたのしみ』(里文出版 平成6年)、また翻訳にフロマンタン『レンブラント』(座右宝刊行会 昭和23年)、フロマンタン『昔の巨匠達』(座右宝刊行会 昭和23年)、マルク・シャガール『シャガールわが回想』(村上陽通と共訳 美術出版社 昭和40年)、L.B.アルベルティ『絵画論』(中央公論美術出版 昭和46年)、B.ベレンソン『ベレンソン自叙伝』(玉川大学出版部 平成2年) がある。

藤本東一良

没年月日:1998/09/17

読み:ふじもととういちりょう  日本芸術院会員で日展顧問の洋画家藤本東一良は9月17日午後3時1分、心室細動のため東京都新宿区の朝日生命成人病研究所で死去した。享年85。大正2(1913)年6月27日、静岡県伊豆下田に生まれ、同年8月大阪に移住する。昭和5(1930)年、大阪府立天王寺中学校在学中に京都のアカデミー鹿子木に入り、鹿子木孟郎に石膏デッサンを学ぶ。また、赤松洋画研究所にも学び、赤松麟作の指導を受ける。同6年大阪府立天王寺中学校を卒業して上京。川端画学校に入学する。同8年寺内萬治郎の門下生となる一方、同舟舎絵画研究所で小林萬吾の指導を受ける。同10年東京美術学校油画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。同12年夏、サイパン、ヤップなど南洋に旅行。同14年第26回光風会展に「水夫M君像」「機関車の人」で初入選し、F氏賞を受賞する。また同年第3回海洋美術展に「天測」を出品し海軍協会賞を受賞する。同15年東京美術学校を卒業。同年第4回海洋美術展に「ウラカス島を望む」を出品して朝日新聞社賞を受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「貝殻図譜」を出品する。同16年第28回光風会展に「貝殻をみる女」を出品して同会会友に推挙される。また、同年第4回新文展に「父とゴムの木」で初入選。同17年第29回光風会展に「画室の女」を出品して光風特賞を受賞する。同19年南方従軍を命ぜられ、台湾方面へ赴き、同20年海軍報道部に出向しポスター等の原画を描く。同年8月復員。同21年第1回日展に「赤い服」で入選し、同年秋の第2回日展に「室内」を出品して特選を受賞する。同22年第33回光風会展に「N氏像」を出品して光風特賞を受賞、また同年第3回日展に「刺繍する女」を無鑑査出品して特選を受賞する。その後も日展、光風会展に出品を続け、同28年10月フランスに留学してアカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ。同30年9月帰国するが、その間、ベルギー、オランダ、スイス、イタリア、スペイン等に旅行する。同35年日展会員、同41年日展評議員、同47年光風会理事に就任。翌年よりほとんど毎年、フランスを訪れる。同54年ソビエト旅行。同56年第13回日展に「五月のコート・ダジュール」を出品して、文部大臣賞を受賞。翌57年日動サロンで「藤本東一良展1979-1981」を開催し、以後同63年日動画廊で「藤本東一良展1986-1988」、平成4(1992)年、同画廊で「藤本東一良展1989-1992」を開いた。この間、昭和58年東京銀座松屋で「藤本東一良新作油絵展」を開催。また、同64年小山敬三美術賞を受賞したのを記念して、昭和15年以降の作品を回顧する「藤本東一良展」を日本橋高島屋で開催した。略歴はこれらの展覧会の図録に詳しい。平成5年第25回日展出品作「展望台のユーカリ」で第49回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日本芸術院会員となった。フランスの水辺の風景を、遠近法的空間表現に基づきながら、リズミカルな筆触、明快な色調で描いた。昭和39年より48年まで東京教育大学講師、昭和46年より61年まで金沢市立美術工芸大学講師として後進の指導にもあたった。 

新妻実

没年月日:1998/09/05

読み:にいづまみのる  アメリカ在住の彫刻家新妻実は8月に脳卒中で倒れ入院していたが、9月5日午後4時(日本時間6日午前5時)、ニューヨークの病院で死去した。享年67。昭和5(1930)年東京都に生まれる。同年東京芸術大学彫刻科に入学し石井鶴三に師事。在学中の同29年、モダンアート協会展に初入選。同会に出品を続け、同32年同会会員となる。同30年同校を卒業する。また、同年東京のタケミヤ画廊で個展を開催。また、同32年棕櫚会を結成してグループ展を開催する。同34年にニューヨーク市ブルックリン美術館附属美術学校より奨学金を得て渡米。同39年より45年まで同校彫刻科で講師をつとめる。同41年および43年にニューヨークのハワード・ワイズ・ギャラリーで個展。また、同41、43年のホイットニー美術館でのスカルプチュア・アニュアル展に出品する。同46年ニューヨーク国際彫刻シンポジウムを企画、主催し、翌年からニューヨーク・コロンビア大学美術科講師となり、後に助教授となって同59年まで教鞭をとった。同49年ニューヨークおよびスイス・ルガーノ国際大学院大学理事兼教授に就任。同58年ニューヨーク・ストーン研究所所長となった。この間、ニューヨークほかアメリカ各地およびチューリッヒなどで個展を開催したほか、同44年のオーストリア国際彫刻シンポジウム、同50年のアントワープ国際野外彫刻展、同56年のポルトガル国際シンポジウムなどに参加。また、同51年東京西武美術館で個展を開催、同52年第3回彫刻の森美術館大賞展に「水中の歌」を出品、同56年第2回ヘンリー・ムーア大賞展に「太陽とピラミッド」を出品して美ケ原美術館賞を受賞するなど日本でも作品を発表した。昭和40年代からシリーズで制作した大理石による「眼の城」で独自の作風を確立し、ニューヨーク、ポルトガルに拠点を持って、国際的に活躍した。石の素材自体が持つ色、質感を生かし、単純な幾何学的形態により量塊感ある抽象彫刻を制作した。 

尾藤豊

没年月日:1998/08/26

読み:びとうゆたか  洋画家の尾藤豊は、心不全のため東京都北区の赤羽病院で死去した。享年72。大正15(1926)年3月、東京に生まれ、昭和18(1943)年、東京美術学校建築科に入学、戦中は学徒動員により江田島にて航空図面作成にあたり、同20年7月赤羽工兵隊に入営、終戦をむかえた。同22年、同美術学校を卒業、この年の前衛美術会の第1回展に参加、また同28年には、青年美術家連合展に参加した。この時期には、「失われた土地A」(同27年、宮城県立美術館)にみられるように、地元でおこった軍事基地問題に触発され、手足など人体の形を大胆に変形した群像を描き、政治、社会の問題を告発する「ルポジュタージュ絵画」の先駆けのひとりとなった。同45年からは、齣展に参加した。「日本のルポジュタージュ・アート」(同63年、板橋区立美術館)、「昭和の絵画 戦後美術―その再生と展開」(平成3年、宮城県立美術館)など、80年代以降、各美術館で戦後美術が回顧される企画展には、時代の証言としてその作品がたびたび出品された。 

久野真

没年月日:1998/08/22

読み:くのしん  美術家の久野真は8月22日午前9時、前立腺がんのため名古屋市の自宅で死去した。享年77。大正10(1921)年3月3日、名古屋市に生まれる。昭和18(1943)年東京高等師範学校芸能科(現筑波大学)を卒業。同27年より新制作協会を発表の場とし、石膏による作品で話題を呼ぶ。しかしその素材の速効性に対し次第に疑問をもつようになり、同33年頃から鉄を主体に石膏や布、特種染料等の多彩な材料を用いた作品を手掛けることになる。同34年の第23回新制作協会展では新作家賞を受賞するも、翌年第24回展への出品を最後に同会を退会、その一方で同34年のイタリアでのプレミオ・リソーネ国際美術展への招待出品、同36年のアメリカのカーネギー財団主催によるピッツバーグ国際美術展への招待出品、同38年のロンドンの画廊マクロバート&タナードでの個展開催、同39年のアメリカ美術連盟主催による現代日本絵画彫刻展への招待出品と、東京画廊の支援を受けながら海外で作品を発表するようになる。同41年から翌年にかけてロックフェラー財団運営のジャパン・ソサエティの奨学金を得てニューヨークに研究滞在、帰国後はニューヨークで得た自由の精神を日本で試そうと考え、一時期金属から離れてナイロンやポリウレタンフォーム、発砲スチロールなどの合成樹脂を素材とした立体作品の仕事に取り組む。しかし同47年の個展から再び金属による作品を制作、使用する鉄も極力情感を排除するために錆びにくく一定の表情を保つステンレススチールを採用し、画面も鋭角的な線による突出感を強調するような幾何学形態を不連続で不安定な構図のなかに配置した作品を創り出した。その後窓枠のような矩形を少しづづずらしながら二重三重に重ね合わせた立体的構造の作品を経て、同60年代にはかつて情感を排除すべく用いることのなかった曲線を表現のなかに復活させ、題名も「長い手紙-0」のような前にはない具体的な名称をつけるなど新たな展開をみせていた。平成10(1998)年には愛知県美術館にて「久野真・庄司達展 鉄の絵画と布の彫刻」が開催されている。

小堀四郎

没年月日:1998/08/09

読み:こぼりしろう  洋画家の小堀四郎は8月9日午後6時45分、脳こうそくのため埼玉県新座市の病院で死去した。享年96。明治35(1902)年7月20日、尾張徳川家に仕えた名古屋市内の漢学者の家に生まれる。大正10(1921)年愛知一中を卒業後上京し、藤島武二に師事、川端画学校でデッサンを学ぶ。翌年東京美術学校西洋画科に進学、同期生には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平らがいた。2年生の時には特待生となり、昭和2(1927)年に卒業、全同期生と上杜会を結成し、9月にその第1回展を開催する。同年11月の第8回帝展には「静姿」が初入選する。翌年渡欧、フランスを中心にヨーロッパ各国で西洋絵画、とりわけレンブラントやコロー、ドーミエの模写で表現力を磨いた。同8年に帰国し、藤島武二の奨めで東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋で173点からなる滞欧作品展を開催。同10年、帝展改組の混乱を期に画壇を離れ、以後は上杜会にのみ出品。同20年から30年まで疎開先の長野県蓼科にこもり、農耕生活をしながら画業に専念する。画家を志した際、漢学者の父から「作品を売って生活してはならぬ」と戒められたことを終生守り、孤高の姿勢を貫いた。モティーフを初期の人物から風景画に移しながら古典的色合いを持つ堅実で精神性のこもった作品を描き、戦後は夜景をテーマに宗教性・神秘性を帯びた作風を展開。 同51年には東京大学のイラン・イラク発掘調査行に加わり、翌年その体験を基に「無限静寂」三部作(築地カトリック教会祭壇画)を制作。平成3(1991)年には高潔な画業と優れた人格を対象とする中村彝賞(第2回)を受賞。昭和61年に渋谷区立松濤美術館、平成3年に茅野市美術館、同4年には卒寿を記念して東京ステーションギャラリーで回顧展を開催。同7年には豊田市に油彩53点、ドローイング41点を寄贈した。なお妻は森鴎外の次女で随筆家として知られる小堀杏奴。

高松次郎

没年月日:1998/06/25

読み:たかまつじろう  60年代から今日まで、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年62。昭和11(1936)年、2月20日東京に生まれ、同34年東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業、同年3月に第10回読売アンデパンダン展に出品。同38年、赤瀬川原平、中西夏之とグループ「ハイレッド・センター」を結成。同年、「ミキサー計画」(新宿第一画廊、宮田内科診療所)で、「紐」シリーズの作品を発表、さらに街頭ハプニングなど反芸術的な運動をはじまた。また、同年の第15回読売アンデパンダン展に「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を発表、これは上野駅から会場の東京都美術館までを紐でつづけるというもので、はやくも観念性のつよい傾向をしめしていた。このように点、線(紐)といった、最小限の表現の単位を最小限の素材(針金)から自身の表現を開始した。ついで、同39年頃から、画面に人間の影だけを描き、実在物と虚像の在り方を問いかける「影」のシリーズをはじめ、この年の第8回シェル美術賞展に「影A」を出品、佳作となり、さらに翌年の第9回シェル美術賞展に「影の圧搾」、「影の祭壇」を出品、1等賞となった。同40年の第2回長岡現代美術館賞展に「カーテンをあけた女の影」を出品、優秀賞をうけた。同42年からは、「遠近法」のシリーズをはじめ、立体作品によって視覚として感じられる遠近感と遠近法との差異を提示しようとした。また、70年代には、木、鉄、布、紐など、さまざまな物質を組み合わせ、構成する「複合体」のシリーズは、立体作品というよりも、空間をつかいながら、物質とそこにはたらく重力の関係を注視することが意図され、今日でいうインスタレーションに近い作品となっている。同47年、第8回東京国際版画ビエンナーレに、「The Story」を出品、国際大賞を受賞した。これは、文字や記号をつかった作品で、あらたなシリーズとなった。その後も、同48年に第12回サンパウロ・ビエンナーレ、同52年にはドクメンタ6(ドイツ、カッセル市)に出品するなど、国内外において作品を発表しつづけた。80年代は、身体的なストロークを残す、平面作品を制作した。日本の現代美術界にあって、終始一貫して、観念性の深い、知的な視覚表現をもとめつづけた作家であったといえる。没後の平成11(1999)年10月に、国立国際美術館において「高松次郎―『影』の絵画とドローイング」展、平成12年5月には、千葉市美術館において「高松次郎 1970年代の立体を中心に」があいついで開催された。

進藤蕃

没年月日:1998/04/17

読み:しんどうばん  洋画家の進藤蕃(本名、しげる)は、頸部腫瘍のため東京都港区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年、東京都に生まれ、同27年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、在学中は小磯良平の指導をうけ、同31年に首席で卒業、大橋賞をうけた。同35年、フランス政府給費留学生として渡仏、パリのエコール・ド・ボーザールにて、モーリス・ブリアンションに師事した。帰国後、安井賞展に5回出品するほか、女子美術大学、東京芸術大学、愛知県立芸術大学などで、非常勤講師をつとめた。同42年には、中根寛、小松崎邦雄とともに濤々会を結成、また同49年には井上悟、橋本博英、大沼映夫、山川輝夫などと黎の会を結成、東京セントラル美術館で展覧会を開催した。国内外を取材のため精力的に歩くが、なかでも中国の風景をテーマに、同58年にパリのグランパレ美術館にて、第10回FIAC展(国際現代美術展)において個展を開催した。平成6年には、「両洋の眼」展に出品、また笠井誠一、福本章とともに三申会展を開催した。南ヨーロッパをおもわせる明るい陽光のもとでの風景画、あるいは室内の静物画を得意としたが、ことに中国の桂林などでの取材旅行からうまれた80年代の一連の風景画は、明快な色彩構成のうちに深い情感をたたえるもので、コロリストとしての画家の資質がもっとも発揮され、質の高い具象表現となっていた。

立石大河亞

没年月日:1998/04/17

読み:たていしたいがあ  美術家の立石大河亞は4月17日午後7時40分、肺がんによる心不全のため死去した。享年56。昭和16(1941)年12月20日、福岡県伊田町(現・田川市)に生まれる。本名紘一。少年期を筑豊の炭坑地域で過ごした後、同36年に上京、武蔵野美術大学短期大学芸能デザイン科に入学する。同38年第15回読売アンデパンダン展に玩具や流木を貼りつけたレリーフ的作品「共同社会」を出品、針生一郎ら評論家の絶大な支持を集める。同年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科を卒業、次回の読売アンデパンダン展にネオン絵画「富士山」を出品すべく品川のネオン会社に翌年まで勤務、エアーブラシの技法を身につける。同39年東野芳明の企画による南画廊での「ヤング・セブン展」、および初個展の「積算文明展」で旭日旗のイメージをとりこみつつ立体的ロゴ等の広告的表現による作品を発表し、日本ポップ・アートの嚆矢としてさらなる注目を浴びる。またこの年、中村宏と観光芸術研究所を設立し、多摩川川原で旗揚げ展を開催、以後富士山や漫画のキャラクターといった大衆的なイメージを引用した作品を制作する。観光芸術研究所は同41年にその活動を止め自然解散となるが、その前後から漫画を雑誌に発表しはじめ、同43年からはタイガー立石のペンネームを使用するようになる。同44年渡伊し、ミラノに滞在し欧米各地で個展を開催、同46年~49年にはオリベッティ社のエットレ・ソットサス工業デザイン研究所に嘱託として在籍しイラストレーション等を手がける。またミラノ滞在中の同44年頃から漫画の如く分割された画面をもつ「コマ割り絵画」を描き始める。同57年帰国、その後も油彩画、掛軸、屏風、陶土のオブジェなど表現を多様に変化させながら作品を造り続ける。平成2(1990)年の市原での個展以後、立石大河亞の名を使用。同4年アルティウムで多次元パノラマ絵巻展、同6年郷里田川市美術館で「立石大河亞1963―1993展 筑豊・ミラノ・東京、そして…」を開催。没後の同11年には田川市美術館で「立石大河亞展 THE ENDLESS TIGER」、O美術館で「メタモルフォーゼ・タイガー 立石大河亞と迷宮を歩く」展が開催された。 

浅蔵五十吉

没年月日:1998/04/09

読み:あさくらいそきち  九谷焼の陶工で文化勲章受章者の浅蔵五十吉は4月9日午後1時25分、呼吸不全のため金沢市の金沢大学医学部付属病院で死去した。享年85。大正2(1913)2月26日、石川県能美郡寺井町に生まれる。父は先代五十吉で、10代の頃から父に師事して陶芸を学び、昭和3年に初代徳田八十吉に師事。同21年から色絵陶磁の北出塔次郎に師事する。同21年第1回日展に「青九谷水鉢」で初入選し、以後毎年出品。同27年第8回日展に「磁器長角水盤」で、同30年第11回目日展に窯変「交歓」花器で北斗賞受賞。同32年第13回目日展には「構成の美」花器を出品して特選・北斗賞を受賞する。同52年第9回改組日展に「釉彩華陽飾皿」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同56年「佐渡の印象」により日本芸術院賞を受賞し、同59年日本芸術院会員、平成4(1992)年文化功労者となった。同8年文化勲章を受章。伝統的な技法を基礎に、花鳥を主とする独特の意匠を施し、鑑賞性と実用性の両立に留意した制作を試みる。同2年、横浜、京都、大阪、東京の高島屋で戦後から新作までの作品を展観する喜寿記念展が開催された。昭和62年には『色絵磁器・浅蔵五十吉作品集』(産経出版)が刊行されている。

寺井直次

没年月日:1998/03/21

読み:てらいなおじ  人間国宝(重要無形文化財保持者)の漆芸家寺井直次は3月21日午後0時55分、内臓疾患のため金沢市の病院で死去した。享年85。大正元(1912)年12月1日、金沢市の鍛冶職で金物商を営む家に生まれる。昭和5(1930)年石川県立工業学校漆工科描金部を卒業し、東京美術学校工芸科漆工部に入学、六角紫水・松田権六・山崎覚太郎らの指導を受ける。また在学中に日本画を金沢出身の画家田村彩天に学び、その後の工芸意匠案出の糧とする。同10年同学校を卒業、乾漆による卒業制作の「鵜文様飾筥」は翌年の改組第1回帝展に初入選するが、展覧会活動は以後しばらく休止し、財団法人理化学研究所に勤務しながらアルミを素地にした金胎漆器の技術の開発に専念した。同16年からは輸出漆器生産のため同研究所の静岡工場に工芸部長として赴任、同16年からは副工業長を勤める。戦後は依願退職して金沢に帰り、鶏などの卵の殻を細かく割り、その一つ一つを張り合わせて、柔らかな量感に富む蒔絵の卵殻技法に工夫を重ねた。創作活動再出発の第一作として卵殻を用いた「双鳩模様手筥」を制作、これが同21年の第1回日展に入選する。同23年第4回日展«鷺之図小屏風»、および同30年第 12回展に「極光」二曲屏風で特選を、 同29年第11回日展に「雷鳥の図箱」で北斗賞を受賞、同32年には日展会員となる。同25年より47年まで石川県立工業学校漆工科教諭となる。同30年からは日本伝統工芸展に出品し、主として鶉の卵殻を用いた、より繊細で華麗な作品を発表、同35年には同会理事に就任する。同43年北国文化賞、同45年金沢市文化賞を受賞。同47年石川県立輪島漆芸技術研修所初代所長となるが、翌年辞任、以後はかつて理化学研究所で研究していた金胎漆器の制作に再び取り組むようになる。同52年加賀蒔絵で石川県指定無形文化財保持者に認定。同58年に勲四等瑞宝章を受章。同60年、蒔絵で重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定、同年社団法人日本漆工協会功労賞を受賞。同63年文化庁工芸技術記録映画「蒔絵 寺井直次の卵殻のわざ」完成。平成元(1989)年中日文化賞を受賞。同4年新東京国際空港の貴賓室にかかげる漆額「極光(オーロラ)」を作成。同5年『寺井直次作品集』(能登印刷出版部)刊行。同6年石川県立美術館で「蒔絵・人間国宝 寺井直次の世界」展が開催された。

萬野裕昭

没年月日:1998/03/04

読み:まんのやすあき  萬野美術館館長の萬野裕昭は3月4日午前3時55分、肺炎のため兵庫県西宮市の病因で死去した。享年91。明治39(1906)年8月17日大阪府泉北郡忠岡村(現・忠岡町)で生まれる。父は土木建築請負業の萬野組を経営していた。大正14(1925)年父より萬野組を引き継ぎ、昭和6(1931)年には合名会社南海鉄筋混凝土(コンクリート)工務店を設立、煙突建設請負業を始める。同15年株式会社萬野組を設立。戦後は不動産業を志し、その他にも船舶、運輸、外食産業、レジャーと多くの事業を手がける。その古美術収集については、青年時代に骨董類に興味を持ち、茶碗、香炉、徳利などを収集。戦時中は一時途絶えるものの、戦後しばらくして財閥・富豪が所持していた伝世品が流出しだすと、中国陶磁と茶道具を主に収集を再開し、琳派・肉筆浮世絵等の絵画、書蹟、さらには金工、刀剣・甲冑から染織へと範囲を拡大、東洋古美術に関しては仏像等直接信仰の対象となるもの以外は全てコレクションとして網羅されていると自負するまでに至る。その収集方法についても、美術館の展覧会を企画するかのようだともいわれるほど、各ジャンルにわたり系統的だったものであった。また収集を通じて細見良ら関西のコレクターや山根有三ら美術史家とも親交が深かった。もっともそのコレクションが国宝・重要文化財を含み一千点を超える屈指の収集家になっても表に出ず、好事家の間で「謎のコレクター」といわれたが、同57年所蔵する「佐竹本三十六歌仙斷簡 源公忠」がテレビで放映され、収集家としての存在が世間に知られるようになる。この頃にはすでに美術館建設の構想を固め、同62年財団法人萬野記念文化財団の設立が文化庁より認可、翌年大阪御堂筋沿いに萬野美術館を開館させた。平成元(1989)年文化芸術関係功労者として大阪府知事表彰を、また地域文化功労者として文部大臣賞を受ける。同6年には自伝『事業と美術と』を出版した。

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