本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





平櫛田中

没年月日:1979/12/30

日本芸術院会員、文化勲章受章者の彫刻界の最長老平櫛田中は、12月30日肺炎のため東京都小平市の自宅で死去した。享年107。旧姓田中、本名倬太郎。1872(明治5)年6月30日、岡山県後月郡に生まれ、82年平櫛家の養子となる。93年中谷省古に弟子入りし木彫の手ほどきを受け95年上京し中谷の次男に伴われ高村光雲を訪れる。この頃から田仲と号す。1901年、日本美術協会展に出品した「童子歌君ヶ代」で銀牌を受け、翌年頃新海竹太郎らが組織した三々会の会員となる。05年東京彫工会第20回彫刻競技会に「太郎歓」を出品し金牌を受ける。07年東京勧業博覧会に「少女と人形」を出品し三等賞牌を授賞したが、審査の不公平を理由に返却し、同年1回文展に「姉ごころ」(石膏)が入選、また、山崎朝雲らと木彫研究団体日本彫刻会を結成、翌年の第1回展に出品した「活人箭」は岡倉天心の推奨を受ける。14年日本美術院再興記念展に「禾山笑」ら4点を出品、会期中同人に推挙され以後同展に制作発表を行う。また、この年から号を田中に改める。35年帝国美術院会員となるが翌年辞表を提出、37年帝国芸術院会員となる。同37年「鏡獅子」の想をねり、38、39年の院展に試作を発表する。(完成作は20年後の58年第43回院展に出品)。42年第2回野間美術賞を受賞、44年東京美術学校教授となり、同年帝室技芸員に任命される。49年東京芸術大学教授となるが、52年に辞任する。50年、自作の彫刻27点、所蔵の現代彫刻作品106点を東京芸術大学に寄贈、翌年紺綬褒章を受ける。この間日展に出品し審査員をつとめる。54年文化功労者として顕彰される。58年日本美術院が財団法人となり理事に就任、同年岡山県井原市名誉市民となる。61年東京都台東区名誉区民となり、翌年文化勲章を受ける。65年東京芸術大学名誉教授となり、翌年同大学付属芸術資料館内に田中記念室が設けられ公開される。69年には井原市に田中館(73年井原市立田中美術館となる)開館する。71年百寿を記念して「平櫛田中賞」(平櫛田中記念会)が設定される。72年東京都小平市名誉市民となる。翌73年東京国立近代美術館で国内現代作家ではじめての「平櫛田中展」が、78年井原市立田中美術館で「平櫛田中特別展」開催された。高村光雲によって確立された近代木彫を大正、昭和にかけて展開、発展し、没年まで制作活動に従事した。最晩年に執念を燃やしていた武原はんと大観像は未完のままとなった。 略年譜1872年 6月30日、岡山県後月郡に生まれる。父は田中謙造、母は以和。本名倬太郎。1882年 5月、広島県沼隈郡平櫛家の養子となる。1885年 1月、後月郡義之尋常小学校を卒業する。1886年 11月、大阪の小間物問屋備貞に丁稚奉公に出される。1893年 5月、中谷省古に弟子入りして本彫の手ほどきを受ける。1894年 胸部疾患のため、この年早々郷里に帰り静養につとめる。1895年 春にまた大阪に出て、作品を直してもらったりした。奈良に2年近く滞在して古仏を見て廻り、また観音像を一体制作する。1896年 暮れに郷里に帰る。1897年 11月、上京して、中谷省古の次男久二郎の下宿先に同居する。1898年 1月、久二郎に伴われて高村光雲を訪れ、持参した観音像の批評を請う。4月、日本美術協会春季美術展覧会に観音像を出品したが落選する。この頃から号を「田仲」とした。7月、谷中の長安寺に寄宿する。11月、湯島の麗祥院で西山禾山の臨済録の提唱を聞く。禾山の提唱は三年にわたり、思想にも制作にも大きな影響を受けた。1899年 日本美術協会秋季美術展覧会に「樵夫」を出品。1901年 5月、日本美術協会美術展覧会に「童子歌君ヶ代」を出品して銀牌を授賞する。1902年 この頃、新海竹太郎、米原雲海、山崎朝雲らが組織した三々会の会員となり、課題制作による研究などを行う。1904年 4月、日本美術協会第35回美術展に「竹刀人物」を出品し、二等賞銀牌を授賞する。1905年 8月、東京彫工会第20回彫刻競技会に「太郎歓」を出品、金牌を授賞する。1907年 3月、東京勧業博覧会に「少女と人形」を出品、7月、三等賞牌を授賞したが、審査の不公平を理由に返却する。当時は彫刻家の団体である成美会の会員であり、褒賞の返却は会として決議した。10月、文部省第1回美術展覧会(文展)に「姉ごころ」(石膏)入選する。10月、第1回文展の監査が終わった頃、高村光雲門下の米原空海、山崎朝雲、加藤景雲、と共に、滝沢天友と森鳳声の2人を加えて、木彫研究の団体日本彫刻会を結成する。1908年 10月、日本彫刻会第1回展に「活人箭」を出品、岡倉天心の推奨を受ける。1909年 8月、東京彫工会第24回彫刻競技会に「竹内宿禰」「布袋」を出品。1910年 9月、日本彫刻会第2回展に「法堂二笑」「応化大師」「竹取翁」を出品。1911年 5月、東京彫工会第26回彫刻競技会に「幼児狗張子」を出品、銀牌を授賞する。9月、日本彫刻会第3回展に「黄初平」「維摩一黙」「老子」を出品。10月、第5回文展に「維摩一黙」を出品、三等賞を受賞する。1912年 9月、日本彫刻会第4回展に「一指頭」「張果」「達摩」を出品。1913年 9月、日本彫刻会第5回展に「尋牛」「灰袋子」を出品。10月、第7回文展に「堅指」「落葉」を出品。この年、内藤伸、吉田白嶺と共同で田端に借家して木彫の研究を設ける。1914年 10月、日本美術院再興記念展覧会に「禾山笑」「横笛堂」「月明」「樹に倚りて」を出品、会期半ばに同人に推挙される。日本美術院の研究所に設けられた彫塑の研究室で、3年にわたり塑造の研究に没頭する。この年から号「田仲」を「田中」とあらためる。1915年 10月、日本美術院第2回美術展覧会(院展)に「沙上」「さす影」を出品。1916年 9月、第3回院展に「遠き思ひ」「淵」「児」を出品。1917年 9月、第4回院展に「森の書」を出品。1918年 9月、第5回院展に「観音」を出品。1919年 9月、第6回院展に「烏有先生」「一休行乞」を出品。1920年 9月、第7回院展に「転生」を出品。1921年 9月、第8回院展に「降魔」を出品。1922年 夏、横山大観、下村大観、木村武山の尽力で東京下谷区に住宅を建てる。1923年 9月、第10回院展に「牧人」を出品。1926年 5月、聖徳太子奉賛会第1回美術展覧会に「観音曼陀羅」を出品。1927年 2月、日本美術院第12回試作品展に「降魔」を出品。1928年 9月、第15回院展に「端老」を出品。1929年 9月、第16回院展に「アイスホッケー」(鋳銅)「小田部助左衛門翁像」「飯村丈三郎翁像」「某博士像」を出品。1930年 3月、第2回聖徳太子奉賛美術展に「良寛来」を出品。8月、日本美術院の経営者に加わる。9月、第17回院展に「五浦釣人」を出品。1931年 9月、第18回院展に「後藤徳乗翁」を出品。1932年 9月、第19回院展に「小室氏母堂像」「蕉翁試作(傚卯観子)其一、其二、其三」を出品。1933年 2月、日本美術院第17回試作展に「釈尊」を出品。9月、第20回院展に「夜半翁」を出品。1934年 9月、第21回院展に「鶴寿老公」を出品。12月、寄木極彩色の古法にならう「浅野長勲公寿像」を完成し、日本美術院において展示する。1935年 3月、日本美術院第19回試作展に「故雅邦先生夫人寿像」を出品。6月、帝国美術院会員となる。9月、第22回院展に「獅頭」「辰沢氏像」を出品。1936年 2月、第1回帝国美術院展覧会に「霊亀随」を出品。6月、帝国美術院会員の辞表を提出する。9月、第23回院展に「源頼朝公」「平安老母」を出品。1937年 6月、帝国芸術院会員となる。9月、第24回院展に「慶典読書奉仕」「獅頭」を出品。12月、「三井高福像」完成する。寄木極彩色の古法復興第二作である。この頃、援助する人があって、六代目尾上菊五郎の像を制作することとなり、「鏡獅子」の想をねる。1938年 9月、第25回院展に「鏡獅子試作」「鏡獅子試作顔」(石膏)を出品。1939年 9月、第26回院展に「試作鏡獅子」を出品。1940年 9月、第27回院展に「杉田氏像」「弘法大師試作」を出品。10月、紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「原翁閒日」を出品。1941年 9月、第28回院展に「鑚軒翁」を出品。1942年 9月、第29回院展に「鶴氅」を出品。9月、第5回文部省美術展覧会(新文展)審査員となる。12月、野間奉公会(大日本雄弁会講談社内)から第2回野間美術賞を贈られる。1943年 9月、第6回新文展審査員となる。1944年 6月、東京美術学校教授に任命される。7月、帝室技芸員に任命される。1946年 3月、文部省主催第1回日本美術展覧会(日展)に「如是尊」を出品。9月、第31回院展に「尋牛」を出品。10月、第2回日展に「七十五年頌」を出品。1947年 9月、第3回日展審査委員となる。1949年 6月、第5回日展審査委員となる。6月、東京芸術大学教授となる。10月、第5回日展に「浅野老公」を出品。1950年 10月、自作の彫刻27点、所蔵の現代彫刻作品106点、あわせて133点を東京芸術大学に寄贈する。1951年 3月、紺綬褒章を受ける。6月、第7回日展審査員となる。1952年 3月、東京芸術大学教授を辞任する。中絶していた「鏡獅子」の制作を再開する。1953年 6月、第9回日展審査員となる。1954年 9月、第39回院展に「習作不動」を出品。11月、文化功労者として顕彰される。1957年 9月、第42回院展に「西山逍遥(試作ノ一)「西山逍遥」を出品。11月、第13回展に「坤山老公」を出品。12月、3年を費やして「鏡獅子」が完成し、彩色がのこすだけとなった。1958年 5月、日本美術院は財団法人に組織をあらため、理事となる。9月、第43回院展に「鏡獅子」を出品。試作を発表してから20年を経ている。11月、岡山県井原市名誉市民となる。1959年 1月、朝日新聞社主催第10回秀作美術展に「鏡獅子」を出品。9月、第44回院展に「金蟾公主(がまのおひめさま)」「くまどり(六代菊五)」を出品。1960年 9月、第45回院展に「マダムK」を出品。1961年 2月、日本美術院彫塑部解散する。11月、東京都台東区名誉区民の称号を贈られる。1962年 11月、文化勲章を授与される。12月、日本橋三越において「五浦釣人」完成記念展開催される。1963年 9月、第48回院展に「五浦釣人」を出品。1964年 1月、岡山県総合文化センター美術館主催郷土出身芸術院4人展に「転生」「平安老母」「五浦釣人」など16点出品。1965年 2月、銀座、資生堂ギャラリーにおいて『平櫛田中の仕事場』展(作家のアトリエシリーズ・第6回)開催される。6月、東京芸術大学名誉教授となる。1966年 10月、東京芸術大学附属芸術資新館内に田中記念室が設けられ、公開される。昭和25年10月の寄贈以後、数次にわたって追加寄贈したもの147点に達した。1969年 2月、千代田区永田町尾崎記念会館において『岡倉天心を語る』と題して講演を行う。5月、井原市井原町夏目に設立された田中館開館する。1970年 3月、「ウォーナー像」完成し、茨城大学五浦美術文化研究所において除幕式が行われる。6月、東京都小平市に転居する。10月、小平市の新居にアトリエ完成する。1971年 5月、日本美術院理事長安田靫彦の米寿と理事平櫛田中の百歳を慶祝し、日本美術院の新築落所を披露する祝賀会が行われる。5月30日、百寿祝賀会が帝国ホテルで開かれる。12月、百寿を記念し「平櫛田中賞」が設定される。1972年 6月、銀座、吉井画廊本館において福寿会展(平櫛田中、熊谷守一、武者小路実篤三人展)開催される。書5点を出品。10月、東京都小平市名誉市民に推載される。1973年 2月、東京国立近代美術館において平櫛田中展が開催される。「鏡獅子」を中心に、明治40年から昭和45年にいたる制作33点を出品。4月、広島県立美術館において平櫛田中展開催され、21点を出品。9月、病床に伏し、一時再起をあやぶまれる。10月、伊勢神宮の式年遷宮に際し、「彫馬」を週進する。11月、井原市の田中館が、博物館法に基づく井原市立田中美術館として新しく発足する。1974年 10月、井原市立田中美術館において特別展が開催され、「幼児狗張子」「彫馬」等が展観される。また、新たに鋳造された「鏡獅子」の除幕式が会期中に行われる。1975年 3月、「五浦釣人」(ブロンズ、像高224㎝)制作、福山市へ寄贈、駅前に展示される。7月、京都市立美術館主催、平櫛田中展に47点出品。1976年 4月、井原市立田中美術館において、平櫛田中墨書展を開催。井原市に平櫛田中文庫を開設。井原市西江町に「平櫛田中生誕地」碑建立。1977年 12月、名古屋市松坂屋で平櫛田中展開設、26点出品。芦屋いかりやで平櫛田中展開催、20点出品。1978年 9月、気管支炎をやみ入院、翌年1月退院する。10月、井原市立田中美術館で平櫛田中特別展が開催され、東京芸術大学より20点出品。1979年 12月30日、午前1時52分肺炎のため小平市の自宅で死去。(本年譜は「平櫛田中展」-73年、東京国立近代美術館-所載の土屋悦郎編略年譜に加筆転載したものである。)

野間仁根

没年月日:1979/12/30

一陽会創立会員の洋画家野間仁根は、12月30日肺炎のため東京港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年78。1901(明治34)年2月5日愛媛県越智郡に生まれ、1914年今治中学校に入学、19年母と共に上京し、翌年2月川端画学校に入り、4月東京美術学校西洋画科に入学、25年卒業する。在学中の22年に久遠社、翌年伊東廉らと童顔社を結社、24年には第11回二科展に「静物」が初入選する。28年第15回二科展に「夜の床」など3点を出品し樗牛賞を受け、同年拓榴社に入会、29年第16回二科展に「ぜ・ふうるむうん」(The Full Moon)「友達」を出品し二科賞を授賞、30年二科会々友、33年二科会々員に推挙される。また、31年佐藤春夫作『むさしの少女』の挿絵を描いたのをはじめ、坪田譲治作『風の中の子供』(36年)井伏鱒二作『花の街』(42年)などの新聞連載小説の挿絵にも戦後まで腕をふるった。この間、38年から翌年にかけて臨時召集され中国で兵役につく。戦後も二科に出品を続けたが、55年6月鈴木信太郎らと同会を退会し、7月鈴木、高岡徳太郎ら同志と一陽会を結成し、以後同会の主要作家として没年まで制作発表を続ける。きらびやかな色彩と骨太な筆触でユーモラスで幻想的な画風を築いた。画壇きっての釣り師としても有名で、『香馬先生釣日記』などの著書もある。 年譜1901 2月5日、愛媛県越智郡に、父野間五恵、母ダイの長男として生まれる。1907 津倉尋常小学校に入学。1913 津倉尋常小学校卒業。今治第二高等尋常小学校入学。今治市、伊藤ヨウ方に寄宿。1914 今治中学校入学。1915 今中寄宿舎に入る。1918 今治市中浜町、松の屋旅館に下宿。1919 12月25日、母と共に上京、下谷区、三村方に寄宿。1920 2月、本郷春日町、川端画学校に入校。4月、東京美術学校入学。本郷区台町、三国館に下宿。夏季休暇利用し諏訪、甲州に旅行。9月、本郷区に移る。1921 10月、塩原温泉に写生旅行。「秋山景色」を描く。1922 久遠社を結成し美校倶楽部にて第1回展開催。1923 童顔社を結成、伊東廉、中谷健次、一原五常、山本雅彦(彫刻)、斉藤瑞唆(木彫)後、沢健太郎、水野清入社。「娘と人形」を描く。10月、大阪に移住1ヶ月。1924 巣鴨、室谷に下宿。本郷区浅嘉町松井鉄之助方に下宿。「静物」新光洋画展出品。「静物」中央美術展出品。「庭」光風会展出品。第1回個展開催。童顔社、展覧会開催。9月、「静物」第11回二科展出品、初入選。10月、神田竹見屋にて個展開催、約30点出品。谷中天王寺三村に寄宿後、下谷区金杉町192、片岡方借家に移住。1925 東京美術学校卒業。卒業制作百号「裸婦」。「静物」第6回中央美術展出品。9月、二科展落選。10月、片岡方より下谷区、三村方借家に移住。11月、童顔社展覧会、30点出品。12月、香川県善通寺町山隊隊に山砲兵として入隊。1926 11月、山砲兵第11連帯現役満期。9月、「静物」第13回二科展出品。童顔社展、約20点出品。1927 下谷区谷中天王寺町34に住む。9月、「娘と人形」「摘草」など5点、第14回二科展出品。9月、童顔社解散。1928 下谷区谷中三崎町18に移る。1月、拓榴社に入会する。6月、日本橋丸善にて拓榴社展を開催。9月、「夜の床」など3点第15回二科展出品、第15回樗牛賞授賞。作品「壺の中のダリヤ」。1929 1月、紀伊國屋にて展覧会。拓榴社同人となる。「操り人形四種」「玩具の会話」第10回中央美術展出品。9月、「ぜ・ふうるむうん」「友達」第16回二科展出品、二科賞受賞。11月、銀座資生堂の漣洋画展に出品。11月、拓榴社展に出品。作品「アルルカン」「柿」。1930 9月、「龍桜」「濤声」「冬夜の歌」第17回二科展出品。二科会友となる。1931 佐藤春夫作「むさしの少女」に挿絵を描く。9月「La Promenade de l’artiste」「鴎」第18回二科展出品。アンデパンダン展出品。1932 9月、「夏の夜の戯れ」「小鳥は楽しく鳴いている」第19回二科展出品。9月、千駄木、福原平一借家に移住。12月、津倉にて岡山市都窪郡帯江村、長瀬又七長女、志那子と結婚。1933 9月、「画室」「睡れる旅人」第20回二科展出品。二科会々員となる。本郷区駒込千駄木町に移る。作品「麦畑と子供」。1934 1月、長女佳子生まれる。下谷区に移る。銀座画廊にて個展開催。9月、「魔法の森」第21回二科展出品。作品「かぶと虫と話す牛」「ライオンとかぶと虫」。1935 長男伝治生まれる。新宿紀伊國屋画廊にて個展開催。9月、「晩夏交響楽」「海辺」(2点)第22回二科展出品。作品「家族」。1936 本郷駒込坂下町に移る。9月、「花園の友人」「鮒と麦の花」など5点第23回二科展出品。9月、坪田壤治『風の中の子供』(東京朝日新聞夕刊)の挿画連載を始める。作品「夜々の星」「壁」。1937 二男雅二郎生まれる。銀座日動画廊、銀座ラテン画廊にて個展開催。坪田壌治作「三平チャンと善太君」(大阪朝日新聞夕刊)にて挿絵を書く。9月「夏の淡水魚」第24回二科展出品。1938 2月、銀座日動画廊にて熊谷守一と共に個展開催。8月、臨時召集により山砲兵第11連帯に応召、中国へ渡る。9月、「夏園」「田園」第25回二科展出品。作品「薔薇と雀」1939 5月、召集解除。日動画廊にて個展開催。約20点出品。銀座三越にて第1回新水彩展開催。「看護婦の散歩」「花と水鳥」「檳榔樹の並木」第26回二科展出品。1940 1月から千葉県安房郡太海へ、8月伊豆、10月茨城県龍ヶ崎町など写生旅行。第2回新水彩展、第5回京都市美術展、無涯社第1回展などへ出品。「春の海」「朝陽」春季二科展出品(高島屋)。「花実と白鷺」第27回二科展出品。5月、日動画廊で個展開催30点余を出品。『童話集』(小川未明著)『童心の花』(坪田壌治著)『愛児煩悩』(舟橋聖一著)の装幀を行う。1941 4月、妙義山写生旅行。5月、長野県初谷砿泉に写生旅行。5月、三男利根生まれる。6月、日動画廊にて新作油絵展開催。20点余を出品。7月、大阪三角堂で個展開催。仏印巡回絵画展、洋画10作家新作発表展に出品。10月、文化奉公会出征画家展に「広東の回想」出品。台東区桜木町に移る。作品「虫と猫」。『井伏鱒二随筆集』の装幀と表紙、扉画、『ドン氏の行列』(太田博也著)の装幀と表紙と扉画を行う。1942 2月、嵯峨嵯温泉写生旅行。第2回出征美術家展に出品、火野葦平作「ハタノウタ」に挿絵を書く。8月、井伏鱒二の小説『花の街』(東京日々新聞朝刊)の挿画連載を始める。9月、二科展に「越後毛渡沢渓流」「子供勤労」「葛飾の子供」を出品。1944 1月、愛媛県に疎開。二科展解散。1945 再建二科会入会。秋の審査に上京。作品「迷宮物語」。三男博生まれる。1946 9月、「夜釣」「滞船」など6点第31回二科展出品。1948 9月、「銀河」「夜々の星」など4点第32回二科展出品。作品「魚」1948 作品「風景」「瀬戸内の海」1949 作品「田舎の家族」「受胎告知」「処女宮」。9月、「かっぱと花」「壺の花」など6点第34回二科展出品。1950 9月「すばる星と金牛宮」「夜曲夜釣」など4点第35回二科展出品。1951 9月、「魚歌水心」「魚譜」など4点第36回二科展出品。作品「星座」「海」。1952 日展改組に審査員として出席、7月上京。9月、「海の花苑」「川口」など4点第37回二科展出品。「瀬戸内海・南浦風景」芸大文庫買上げ。毎日新聞連載、石川達三作「青色革命」に挿絵を書く。作品「漁火」1953 2月頃家族上京。9月、「漁火」「子供と昆虫」「谷中の森」第38回二科展出品。作品「漁介」「兄弟と昆虫」「春潮」「嵯峨沢渓流」「房州太海海岸」。1954 東京の自宅を回収。作品「牡丹」「浜離宮」、「5月の花」国際新美術展出品。9月、「昆虫」。「街の散歩」など5点第39回二科展出品。1955 6月、鈴木信太郎らと二科会退会。7月、鈴木、高岡徳太郎らと一陽会結成。9月、日本橋高島屋で第1回展開催、「星座・アンドロメダ」「貝殻」「生物B」「双魚」出品。1956 日動画廊にて近作展開催。8月、「森のニンフ」第2回一陽会出品。「メバル」1957 8月、「渦潮」「裸婦七人」第3回一陽会出品。1958 野間仁根個展開催。9月、「水浴」「水辺の物語」第4回一陽会出品。「外房州天面海辺」。1959 9月「鳥の会話」第5回一陽会出品、「魚と釣師」。1960 第1回谺会出品。野間仁根新作油絵展。秀作デッサン展。9月、「ダリア」「疚太風景」第6回一陽展出品。作品「河童の酒宴」「メバルとヨメガサ」。1961 野間仁根油絵個展を松坂屋で開催。9月、「聖人文壺のダリア」など3点第7回一陽展出品。作品「蜂」1962 野間仁根新作油絵展、野間仁根油絵小品展開催。9月、「浜木綿」など3点第8回一陽展出品。1963 9月、「漁村の岩山」など3点第9回一陽会出品作品「浜木綿」「星座・琴の二重星」。1964 9月、「天河」「薔薇」第10回一陽会出品。「春の星座」。1965 9月、「未来水道」「魚の散歩」第11回一陽会出品。1966 9月、「吉浦漁村」「天面漁村」第12回一陽会出品。1967 千代田画廊にて、田崎広助、鈴木信太郎らと「三人展」開催。9月、「来島水道仲度島付近」「能島水道」第13回一陽会出品。1968 9月、「瀬戸内海・早川」「瀬戸内海・能島鯛崎」第14回一陽会出品。1969 9月、「瀬戸内海石槌山遠望」「瀬戸内海早川の景」第15回一陽会出品。1970 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第16回一陽会出品。1971 9月、「瀬戸内海・仲度島付近」「瀬戸内海漁港」第17回一陽会出品。作品「メバル」「瀬戸内海・釣魚」「神々の集い」。1972 9月、「瀬戸内海伯方島遠望」「瀬戸内海南浦の朝」第18回一陽会出品。作品「露草とカマキリ」「露草とカタツムリ」「山彦」。1973 9月、「常石の眺望」「森の人々」第19回一陽会出品。「アネモネ」1974 9月、「天ノ河」「森の友達」「旧作森の物語」第20回一陽会出品。「蟹」。1975 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第21回一陽会出品。「沼の河童」。1976 9月、「森の猿」「森の妖精」第22回一陽会出品。「水辺の鳥」「森の人々」。1977 9月、「蛙と猿」「ニンフの午睡」第23回一陽会出品。「外房州天面」。1978 9月、「マリオネットの散歩」「森のヒッピイ」第24回一陽会出品。「泊港滞船」。1979 9月「芸術の散歩」「森の楽人」第25回一陽会出品。「富嶽」絶筆「森の鳥たち」。12月30日逝去。78歳。[本年譜は『野間仁根画集』(昭和55年、三彩新社)所載の「野間仁根年譜」に添削を加えたものである。]

萩谷巌

没年月日:1979/12/24

サロン・ドートンヌ会員の洋画家萩谷巌は、12月24日心筋硬ソクのため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年88。1891(明治24)年12月17日、福岡県朝倉郡に生まれ、1908年福岡県立小倉師範学校に入学したが、画家を志望して家出し翌年上京、長尾一平の磯谷商店に書生として住み込み、白馬会葵橋洋画研究所の夜学部に通って石膏デッサンから始める。11年磯谷をやめ新派の喜多村緑郎一座に、翌年大阪で川上貞奴一座に加わり背景画の仕事に携わる。19年第7回光風会展に「筑後川」、翌年の第8回展に「梅林」が入選する。22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室に通い、この頃からキスリング、ドランらと親交を始める。24年サロン・ドートンヌに「モンマルトル風景」が入選、以後同展やアンデパンダン展、サロン・ナショナル・デ・ボザール展などに出品し、26年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。27年帰国し帰朝洋画展(日本橋三越)を開き、翌年から33年まで再渡仏する。帰国後、団体展に所属せずもっぱら個展で制作発表を行う。戦後も三回渡仏し、帰国後滞欧作展を開く。バラの絵が得意で“バラの荻谷”といわれた。79年、米寿社会の回顧展が東京、福岡で開催され、『荻谷巌画集』(日動出版)が刊行された。 略年譜1891 12月17日、福岡県朝倉郡に生まれる。芳吉、アキ長男。父祖代々、秋月藩候に茶道をもって仕えた家柄であった。1898 荷原尋常小学校に入学。幼少の頃から絵を描くことが好きで、小学生時代、習字や算術の時間に絵を描いてよく教師に叱られた。1902 荷原尋常小学校卒業。金川高等小学校に入学。高等小学校の頃、家にあった田能村直入、木下逸雲などの軸ものを模写している。1906 金川高等小学校を卒業。福岡市の予備校、予修館に入学する。画家になりたくて、父に懇願したが許されず、やむなく師範学校に進学することにした。1908福岡県立小倉師範学校に入学。画家になることをどうしても許してもらえなかったので、夏休みを機に家出して、静岡の大叔父萩谷澄人のもとに身を寄せる。静岡に滞在中、静岡出身の額縁製造の草分け磯谷商店の店主長尾健吉の子息一平(当時実家で療養していた)と知り合い、同家に出入りする画家のことや住み込み店員として働きながら世に出た画家の話などを聞き、磯谷商店へのとりなしを長尾一平に頼み込み、ひそかに機をうかがった。静岡の大叔父は、画家志望には理解を示したが、油絵をやりたい本人に日本画の竹内栖鳳に弟子入りすることをすすめたりして、意見が合わなかった。1909 1月、大叔父に無断で上京し、東京市芝区新桜田町19、磯谷商店に住み込みの書生として雇われる。かねて前記の長尾一平と打合わせて決行したことであった。磯谷での仕事は、店の掃除、額縁の配達、集金などで、時に、竹之台陳列館でひらかれる展覧会の搬出入や陳列の手伝いもやらされた。夜は、白馬会葵橋洋画研究所(赤坂区溜池町3番地にあった)の夜学部に通うことが許され、石膏デッサンから絵の勉強を始める。黒田清輝は滅多に姿を見せず、和田三造が主任で時折教えた。同じ時期に研究所に来ていた岸田劉生とは同年だったこともあって直ぐに親しくなり、銀座2丁目の劉生の家(精錡水本舗)に遊びに行ったりした。11月、市川左団治による自由劇場第1回試演(有楽座)の折り、岡田三郎助の下で背景制作の手伝いをする。1910 秋、白馬会会員を中心とする展覧会に日比谷公園のつつじを描いた水彩画が入選する。1911 この年三月に開場した帝国劇場には、パリのオペラ座を模した天井画と壁画が描かれているが、これは和田英作が主任となり、東京美術学校出身の藤田嗣治、近藤浩一路らを助手にして制作したものである。制作中、磯谷からの指示で手伝いに行き、絵具を練ったり、高い所へ運んだり、たまに空の部分を塗らせて貰ったりした。この頃、磯谷商店をやめ、新派の喜多村緑郎一座に加わり、背景主任として各地の巡業について回る。1912 後藤良介一座に加わって朝鮮の釜山にわたったが、明治天皇崩御(7月30日)に際し、一座は解散し、しばらく釜山で同地の名士の肖像画を描いて糊口をしのぐ。帰国後、大阪で川上貞奴一座のために背景を描く仕事をする。1913 大叔父萩谷季雄が校長をしていた大阪府北河内郡南郷小学校で個展をひらき、生駒山で描いた四号の作品四十余点を出陳する。同村出身の代議士西村氏の斡旋による。この時、近藤浩一路が大阪から駆けつけ、似顔絵の席画をして応援してくれた。1914 大正4年にかけて岡山市の親戚中島次郎吉の世話になり、主に県内の名士の肖像画を描いて生活する。後に、井原市西江原町の医師大山恒宅に寄寓する。1917 この頃、福岡に帰る。1919 三月、光風会第7回展に『筑後川』が入選する。1920 五月、光風会第8回展に『梅林』が入選する。1921 三月、大原孫三郎収集の現代フランス名画展(岡山県、倉敷小学校)を見に行き、シャルル・ゲランの赤いスカーフの少女像(「手鼓を持つイタリアの少女」)の暖かい色彩のハーモニーに魅了される。フランスに留学する時にはゲランに師事しようと決めていたと言う。福岡で、松永安佐衛門、弁護士日下部政徳、玄洋社々町進藤喜平太、和田三造の四人が発起人となり、渡欧後援会が組織される。1922 この頃、門司市に移り、三井銀行支店長役宅にて作画に専念する。三井物産支店長島田勝之助、巴組社長中野金次郎、日本製粉支店長八尋俊介、三井銀行支店長大島弥太郎、アサヒセメント支店長宮川総一郎らによって第二次の渡欧後援会が設けられ、留学費を調える。十一月、門司港から日本郵船箱崎丸に乗船し、渡仏の途に就く。パリではカンパーニュ・プルミエール街九番地にアトリエを借りて住む。1923 アカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室にはいる。ゲラン門下に、早く1920年に渡仏した小山敬三があり、通訳の労をとってくれた。ゲランの教室には一年半通い、その後も絵を見て貰って、絵のつくり方ということについて厳しく教えを受けた。キスリングとはアトリエが近かったこともあってよく往き来し、またドランとも親しく交わった。1924 サロン・ドートンヌに『モンマルトル風景』が入選する。1925 初夏の頃、大阪毎日新聞門司支局において、サロン・ドートンヌ入選を記念する個展が開催され、後援会の人たちも面目が立った。この年、アンデパンダン展に『静物』が入選、サロン・ナショナル・デ・ボザール展にも入選する。1926 3月、第31回アンデパンダン展に『魚のある静物』ほか一点が入選する。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールに風景2点が入選する。9月、日本橋、三越呉服店において個展をひらき、『モンマルトル風景』『リュ・ベロニー』『セーヌ河畔』『魚のある静物』『パンテオンを望む』『田舎娘』など滞欧作約50点を発表する。10月、サロン・ドートンヌに『静物』『風景』が入選する。10月21日、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。この年、ロンドン日本人クラブで個展をひらき、出品作40点を売約する。1927 8月、帰国する。9月、日本橋、三越呉服店において萩谷巌帰朝洋画展が開催される。滞欧作69点、帰国後の作品2点を出陳。11月、大阪朝日新聞社楼上において滞欧作を主とする個展をひらく。1928 この年、日本工業倶楽部で個展を開く。7月、シベリア経由で再度渡仏、リュ・クルヴールのアトリエに落ち着く。1929 ベルギーのブリュッセルにおいて、パリ在住の日本人画家の展覧会が開催されるに当り、柳亮と共に代表者として現地に赴く。同展覧会に出品した薔薇の絵がベルギー王室に買い上げられた。1930 パリで開催された日本人画家展に出品、『南仏風景』がフランス政府に買い上げられる。1933 サロン・ドートンヌ審査員となる。ロンドンの日本人クラブで個展をひらく。1934 4月、帰国する。1936 11月、福岡、岩田屋において個展をひらく。1938 6月、神戸、大丸百貨店において個展をひらく。1939 5月、日本橋、三越において近作個展をひらき、『松間の富士』『静かなる朝』『呉須鉢と支那壺』『東京風景』などに数点の滞欧作を加えた40余点を発表する。9月、大阪、三越において個展をひらく。1940 3月、日本橋、三越において、萩谷巌、林倭衛、木下孝則洋画展が開催される。この年、麹町2番丁に転居し、別に麹町1番丁にアトリエを構える。1942 3月、数寄屋橋、日動画廊において個展をひらく。1945 5月25日、アトリエと住居が同時に戦災に会い総てのものを失った。8月、秋田県大曲町に疎開し、以後4カ年余をここに過ごす。この間、秋田市、大館、能代、船川等で個展をひらく。1950 この年、豊島区千早町1の45に転居する。1952 8月、渡仏する。アメリカのコロンビア美術館で個展をひらき、出品作『花のいろいろ』が同館に買い上げられる。1953 3月から5月にかけて、北アフリカ写生旅行に赴く。6月、パリのテデスコ画廊で個展をひらき、アルジェ、モロッコでの制作のほか静物などをまじえた21点を発表する。10月、帰国する。12月、日動画廊において滞欧作展をひらく。1954 6月、丸の内、日本工業倶楽部において個展をひらく。1955 8月、大阪、梅田画廊において滞欧作品展をひらき、滞欧作品18点、帰国後の作品15点を発表する。出品作品次の通り。『アルゼリー港』『小市場』『コンコールドの広場』『ブルバール・ド・モンパルナス』『アルゼリー風景』『フェーズの寺(モロッコ)』『セーヌ河岸』『街の角(モンマルトル)』『ラ・フネートル(アルゼリー)』『カズバ(アルゼリー)』『モロッコの村落』『パリーの古い街』『チューレリー公園』『モンマルトル風景』『廃屋(アルゼリー』『ポンヌフ(パリー)』『スタチセの花等』(以上滞欧作)『白桃』『ばら(李朝の壺』『豊果』『菊の花』『果物』『ばら(カットグラス)』『あざみ(青磁)』『黄ばら(ペルシャ壺)』『カトレア』『ばら(李朝の壺)』『カーネーション』『ばら(フランスの壺)』『ばら(宗の壺)』『壺と皿』『黄菊白菊』(以上帰国後の作品)1956 1月、日動画廊においてて「静物」油絵展をひらき、『アネモネ』『黄ばら』『菊の花』『黄菊白菊』など花と壺を主とした静物ばかり十九点を発表する。12月、日動画廊において油絵展をひらく。1957 3月、造形ギャラリーにおいて個展をひらき、近作の小品20点を発表する。1695 6月、アラスカの日本商社アラスカ・パルプの依嘱を受け、太平洋岸のシトカやヘインズの町を訪れて風物を写す。帰途、カナダに立ち寄り、ケベック、モントリオールなどで画襄を肥やした後、パリを経て12月に帰国する。1966 6月、日動サロンにおいて近作展をひらき、前年にわたる旅行の収穫(アラスカの部12点、カナダの部10点、パリの部11点、花の部6点)を発表する。1967 11月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1968 2月、福岡玉屋において近作展をひらき、さきのアラスカ、カナダ、ヨーロッパの旅の収穫に花卉などをまじえた約50点を発表する。10月、大阪、カワスミ画廊において新作展をひらき、花を主題にした作品に『関門風景』などの風景画を加えた約20数点を発表する。1969 10月、京都、祇園画廊において個展をひらき、『壺に花』などの新作20数点を発表する。1970 7月、大和新潟店において海外風景展をひらき、『広告塔のある風景』など新作油絵20点を発表する。8月、日動サロンにおいて個展をひらき、薔薇を主にした花ばかりの新作32点を発表する。9月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1971 4月18日、パリへ出発する。戦後3度目、通産5度目である。パリのまんなかのサンルイ島に宿をとり、制作三昧の日を過ごす。80歳を迎えて、やはりパリに行ってみようという気持ちになった。80歳を超えてなお多くの優作を遺した富岡鉄斎にあやかりたい心境も覚えた。1972 9月、帰国する。1年5ヶ月に及ぶパリ滞在中80点の作品を制作した。10月、大和新潟店において滞欧作品展をひらく。1973 3月、銀座、ギンキョウ画廊において巴里風景展をひらき、『朝のポンマリー』『早朝のセーヌ河畔』『朝のコンコルド』『4区の古い家屋』『巴里の朝(サンポール持院)』『秋のサンポール寺院』『マロニエの咲く頃』『モンマルトル公園』など約40点を発表する。1974 6月、福岡玉屋において個展-花と巴里風景-をひらき、巴里風景17点、花25点を発表する。1975 この年、秋月郷土美術館(秋月郷土館に併設、10月開館)のために『秋月風景』を制作する。1976 1月、日動サロンにおいて近作小品展をひらき、『洋らん有田焼』『李朝ばら』『ばらとミモザ』『ノートルダム(サン・ルイ島より)』『街角のレストラン』『ポン・サンミシェル』など静物とパリ風景ほか富士を描いた作品をふくむ40点を発表する。3月、名古屋日動画廊において個展をひらく。5月、大阪、カワスミ画廊において花と風景の個展を開く。1979 米寿記念回顧展(東京・福岡)が開催される。11月、『萩谷巌画集』(日動出版)が刊行される。(本年譜は、『萩谷巌画集』(’79年、日動出版)所載の「萩谷巌略年譜」を転載したものである。)

須賀松園

没年月日:1979/12/15

ろう型鋳造家の須賀松園は、12月15日急性心不全のため、富山県高岡市の自宅で死去した。享年81。本名精一。1898(明31)年東京入谷の江戸風ろう型鋳物の草分けである初代松園の長男として生まれ、1925年二代目松園を襲名した。作風は江戸流といわれ、作品を日展に発表して注目され、66年会員となった。74年国指定無形文化財認定者。勲四等瑞宝章。著書「蝋型鋳造須賀松園作品集」。

丸田正美

没年月日:1979/12/06

日本工芸会正会員、黒牟田窯の陶芸家丸正美は、12月6日胃ガンのため佐賀県藤津郡の国立嬉野病院で死去した。享年54。号麦民。1925(大正14)年9月10日佐賀県武雄市の窯元に生まれ、42年佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業、50年から浜田庄司に師事する。60年佐賀県展で最高賞受賞、63年第37回国展に入選、66年日本工芸会西部展で最高賞受賞、70年から日本伝統工芸展、73年から一水会展に出品し、78年日本工芸会正会員となる。同年、東急本店で九州陶芸三人展を開催する。桃山末期に開窯した黒牟田窯の伝統技法に、塩釉を使って民芸的な独特の作風を築いた。代表作に「塩釉鉄砂呉須陶鉢」など。また、邸内に肥前民芸陶器館を設け一般に開放した。

坪内節太郎

没年月日:1979/12/04

洋画家坪内節太郎は、12月4日大腸クローン氏病のため、岐阜市民病院で死去した。享年74。雅号壺人。1905(明38)年9月28日岐阜県稲葉郡那加町に生れ、大阪商業大学を経て天彩画塾で洋画を学んだ。国画会、独立美術協会、春陽会等に出品し、独立展は1932年第2回展「製材所」より連年入選した。1938年独立展に「海」「馬」を出品し美術協会賞となり、同40年協会会友、43年準会員となった。戦後46年行動美術協会第1回展で行動美術賞を受け、同時に会員推挙となった。展覧会作品のほか新聞、雑誌に挿絵、随筆を多く書き、また随想集「絵画人情」(1953、東住吟社)、「歌舞伎画帖」(1963、中日出版局)、「文楽画帖」(東京新聞出版局)、「絵画人情」「水墨画入門」などの著書があり、演劇評論家としても知られる。

須田桑翠

没年月日:1979/11/25

日本工芸会元理事、木竹部長をつとめた木工家の須田桑翠は、11月25日肺炎のため東京中野区の武蔵野療園病院で死去した。享年69。本名利雄。明治43年11月24日東京都中央区に江戸指物師の子として生まれ、1925年から父である先代桑月について木工を修行、40年から梶田恵に師事した。戦前は東京府工芸展、商工省工芸展、日本美術協会工芸展、東京都総合工芸展に出品、戦後は日本伝統工芸展に制作発表する。60年第7回日本伝統工芸展に「桑宝石筐」が入選、以後毎年出品を続け、62年第2回伝統工芸新作展に「拭漆槐手許棚」で奨励賞を受賞、以後同展で3回奨励賞を受ける。71年から日本伝統工芸展監査委員となり、72年号を桑月から桑翠と改め、同年日本工芸会理事、木竹部会長となり3期6年つとめる。また70年に日本橋三越で個展を、76年に日本橋三越で親子三代展を開催する。主要作品に「槐座右棚」(第15回日本伝統工芸展)「黒柿小箪笥」(同26回)「桑春日型厨子」など。日本伝統工芸展出品作第7回 「桑宝石筐」8 「樟文机」10 「拭漆槐手許棚」11 「拭漆平卓」12 「玉樟手許箪笥」13 風呂先「月波」14 「拭漆桑盛器」「一位木文机」15 「槐座右棚」16 「桑食籠」「栃輪花鉢」17 「飾棚」18 「拭漆桑小棚」19 「拭漆樟手箱」「拭漆桑文机」20 「杉造器局」21 「拭漆黒柿手箱」22 「桑造印笥」24 「拭漆桑手箱」26 「黒柿小箪笥」

橋浦泰雄

没年月日:1979/11/21

民族学の研究家でもとプロレタリア美術運動の画家、橋浦泰雄は、11月21日午前3時、老衰のため東京杉並区の西荻窪診療所で死去した。享年90。橋浦泰雄は、1888(明治21)年11月30日、鳥取県岩美郡の地主の4男に生まれ、1902(明治35)年岩井高等小学校を卒業、家業(桑畑の耕作)を手伝う。1904年「平民新聞」の購読者となり、社会主義思想の影響をうける一方、「明星」の読者で文学に関心をよせた。1908年鳥取歩兵40連帯に入隊し満州遼陽村に駐屯、在役中に弟時雄が孝徳秋水事件に関連して逮捕投獄された。11年満州から帰郷、養蚕、養鶏に従事、白井喬二らの白日会(のち水脈文芸会)の同人となる。1912年『水脈』創刊、また水脈主催美術展を開催する。詩、戯曲、小説などを発表また投稿したが、14年坂田家養子となり上京し、16年有島武郎、秋田雨雀、藤森成吉、足助素一などを知る。1918年養家の妻死去し、このとき画家になることを決意し、1920(大正9)年4月牛込築土八幡停留所前の骨董店で開かれ黒耀会第1回展に参加出品した。黒耀会は、橋浦のほか、望月桂、林倭衛などのほか大杉栄、馬場狐蝶、久板卯之助、荒畑寒村などアナーキスト、サンディカリストらの参加が多く、社会革命と芸術革命の一致を主張した、最初のプロレタリア美術展であった。同年11月京橋星製薬階上で第2回展、翌21年の第3回展を開き、官憲による撤収命令などがあり第4回展のとき解散命令がだされている。橋浦は1920年第2回帝展に出品、落選している。1926(大正15)年11月日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)が結成され、その美術部に所属、28年無産者芸術連盟(ナップ)結成、中央委員となり、11月東京府美術館で第1回プロレタリア美術大展覧会開催され、「早く行っといで」出品。1929年日本プロレタリア美術家同盟(AR、1934年解散)が再組織され中央委員長に選ばれた。橋浦は1925年柳田国男を知り、柳田に導かれて民俗調差に従うようになり1934年以降は民俗学に関する報告、著書を多く刊行しているが、画家としては個展を中心に活動している。1922年7月牛込矢来倶楽部で第1回展を開いたあと、同年11月鳥取市仁風閣、1924年4月札幌豊平館において、25年札幌と函館において、29年長野県松本公会堂、30年鳥取商工奨励館などでそれぞれ個展を開催。戦後は日本美術会、平和美術展などに出品、1960年にはソビエト共産党の招待により訪ソ、71年第4回全日本水墨画協会「黒い海」「高原の湿国」を出品、76年第3回日象展に「大根で道を教える」「牡丹日」「故郷は海日」を出品、79年5月鳥取市福祉文化会館で回顧展を開催した。

荻原孝一

没年月日:1979/11/20

一水会会員の洋画家荻原孝一は、11月20日動脈栓症のため死去した。享年70。1909(明治42)年8月23日長野県佐久市に生まれ、野沢中学校卒業後上京し川端画学校に学び、1929年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し34年卒業する。38年から54年まで野沢中学校、姫路高等女学校、野沢北高校の教壇に立つ。48年第4回日展に「池畔の子供」が初入選。この年小山敬三、有島生馬の賛助を得て佐久美術展を結成する。51年から一水会に出品、同54年一水会々員となる。62年上野松坂屋で最初の個展を開催、64年渡欧する。68年から佐久市民美術展運営委員をつとめる。73年と77年に紺綬褒章を受ける。作品は他に「読書」(49年)「真昼」(52年)「グランドキャニオン」(67年)など。

青地秀太郎

没年月日:1979/11/10

洋画家青地秀太郎は、数年来胃、食道等の癌疾により療養中であったが、11月10日死去した。享年64。1915(大4)年岡山市大供表町4-26に生れ、1933年上京し川端画学校で学び、岡田三郎助に師事した。また郷里に帰り小林喜一郎に師事した。1940年紀元2600年奉祝美術展に「夕餉まへ」が初入選し、ついで同42年第7回文展に「冬日」が入選した。戦後は日展に出品し、第2回「夏」、3回「溪間」、4回「城山にて」、5回「秋暮色」などがある。6回「解剖学教室」では特選となった。この年創元会に所属し会員となった。1951年日展無鑑査となり、翌年以後依嘱出品となった。この年創元会では努力賞となり、委員となった。54年中国に渡り、北京に滞在して制作をつづけた。62年日展を離脱し、また創元会も退会して以後無所属として活動した。69年には渡欧し、滞留して制作したが、晩年は上高地の山小屋生活による制作が殆どであった。代表作は上記のほか「上高地」連作がある。

安泰

没年月日:1979/10/31

童画家安泰は、10月31日心不全のため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年76。1903(明治36)年10月4日茨城県久慈郡に生まれ、1927年日本美術学校日本画家を卒業、日本画制作のかたわら「コドモノクニ」などに童画を描き始め、31年新ニッポン童画会を設立する。52年第1回小学館児童文化賞を受賞、64年には童画ぐるーぷ「車」を結成、74年日本児童文芸家協会から児童文化功労者として表彰される。わが国童画会の草分けの一人で、特に動物の絵を得意とした。戦前の作品に「オサルノコヅツミ」(東京社)「太陽と花園」(フタバ書店)、戦後に「おやまのくまちゃん」「どこからきたの」(童心社)、「白鳥の国」(新日本出版社)、「スイッチョねこ」(フレーベル社)、「ねこ画集」(童心社)など。

川上尉平

没年月日:1979/10/04

春陽会会員の洋画家、川上尉平は、10月4日午前11時55分、脂肪肉しゅによる呼吸不全のため、東京板橋区の都立養育院付属病院で死去した。享年62。川上尉平は、1917(大正6)年2月26日、熊本県飽託郡に生まれ、1931年河内尋常小学校高等科を卒業、河内郵便局勤務をへて1935年熊本市の千徳デパート宣伝部に入社、39年上京、翌40(昭和15)年日本電建に入社した。幼時から絵を好み、熊本在住の洋画家寺尾洸二に師事、小学校時代に九州美術展に入選、上京後は勤務のかたわら独学し、1940年第5回独立美術協会展に出品して初入選となった。戦後は1947年第24回春陽会展に出品入選し、春陽会賞を授賞、翌年準会員(会友)、1953年春陽会会員に推挙された。以後、毎回春陽会展に出品すると同時に、1953年銀座ヤナセ画廊で最初の個展を開催し、1960年には八幡市立美術工芸館、65年熊本市鶴屋デパート、65年東京大丸百貨店で個展、同年から76年までには昭和画廊において8回個展を開催し、その間、1974年熊本日動画廊、76年吉祥寺東急美術サロンでも個展を開いている。また、1966年の立秀会第2回展から第12回展まで参加出品、1969年麗日会第1回展に出品し以後第10回展まで出品、1972年に結成された写実画壇(里見勝蔵、中村善策など)には翌年第1回展から没年まで出品した。1973年12月背部腫瘍を手術、78年再発して右手の自由を失ったあとは左手で描いていた。1979年6月肉腫が肺に転移入院、10月4日没。台東区谷中一乗寺に葬られた。

鶴岡政男

没年月日:1979/09/27

自由美術協会会員の洋画家鶴岡政男は、9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区の下谷病院で死去した。享年72。鶴岡は、1907(明治40)年群馬県高崎市に生まれ、少年時代から東京で生活し、大正末期から昭和初期にかけて太平洋画会研究所で学び、靉光、井上長三郎らと交友、洪原会、ノバ美術協会などのグループに属して作品を発表、また左翼活動にも参加した。1937年、日中戦争に応召され、騎兵として中支に赴いたが、1940年兵役解除となり帰国、1943~44年、松本竣介、麻生三郎、靉光らと新人画会を結成して三回展覧会を開催したが、終戦の直前に再度応召され、国内で敗戦をむかえた。戦後は、新人画会のメンバーらとともに自由美術協会に所属し、自由美術展、日本国際美術展らに出品、1953年には第2回サンパウロ・ビエンナーレ展にも出品した。戦前派さまざまな職業に従事しながら「髯の連作」(デッサン)のような諷刺的作品を発表、また新人画会はファシズム、戦時下の暗黒の時代に抵抗した例として評価されているが、戦前の作品はほとんど焼失した。戦後は、「夜の群像」「重い手」などの作品が、敗戦後の現実に対する鋭い批判と諷刺をもち、さらに「人間気化」「落下する人体」と混迷する社会と人間の姿を形象化した作品を描きつづけて注目された。その後、「青いカーテン」「視点B」など、ユーモアを秘めた現実諷刺の作品がつづいている。鶴岡は、終始、ヒューマニズムに立ち、さめた眼で現実を把えて鋭く造形化した作品を発表して、戦後の現代絵画の中で重要な地位を占めていた。 略年譜1907年(明治40年) 2月16日、高崎市に、建築金物製造業、木ノ内峯吉・はつの長男(ひとり子)として生まれる。1913年 6歳 4月、高崎市立南小学校入学。1914年 7歳 母は、鶴岡勇吉と再婚。母に連れられ、兵庫県東尻池村に約1年間住み、浜山小学校に通う。(2年生)1915年 8歳 一家で上京し、台東区池の端七軒町に住む。政夫は下谷忍ヶ岡小学校に入る。(3年生)1年後、高崎に引き取られ、南小学校に通ったが、さらに1年後上京。父が、文京区駒込神明町に鉄工所を始めたため、ここから再び忍ヶ岡小学校に通う。(5、6年生)1918年 11歳 鶴岡勇吉の養女として君子(2歳)が入籍。1921年 14歳 3月、文京区本郷高等小学校卒業。このころ読んだゲーテの叙事詩「ヘルマンとドロテア」に感銘を受ける。これが内なるものと芸術との最初の出合いとなり、絵の道に入る契機となる。その後、8、9年の間、絵画制作のかたわら、鏡花、犀星、朔太郎、足穂に傾倒、自らも詩作する。1922年 15歳 太平洋画会研究所に入る。ここにやがて井上長三郎、靉光が入り、交友が始まる。1924年 17歳 大阪新興美術院に油彩画「静物」を出品。1928年 21歳 第3回1930年協会展に入選。井上長三郎ら約20名とともに、保守的な研究所当局に反発し、除名処分となる。翌年これらの者が洪原会(こうげんかい)をつくる。1929年 22歳 2月、洪原会第1回会合(神田・大同洋行)。会員は鶴岡のほか、大竹久一、関川譲、岩倉具方ら19名。7月、第1回洪原展開催。「裸婦A」~「裸婦F」、「自動車練習場」の計7点を出品。1930年 23歳 7月、第2回洪原展に「女A」~「女D」の4点を出品。11月、NOVA(ノバ)美術協会発会式(神田、カフェーブラジル)。洪原展会員岩倉具方のフランス遊学を機に同会は解散。同会中心メンバーにより、ノバ美術協会が設立される。会員は鶴岡のほかに井沢秋雄、山田直一郎、岩倉具方、大竹久一、関川譲など10名。1931年 24歳 1月、第1回ノバ美術協会展(東京府美術館)に「カジノフォリー」、「海」、「楽屋裏」を出品。7月、雑誌「モダン日本」に漫画執筆。この頃から父の仕事がうまくいかなくなり、応召までの7年間、様々な仕事に手を染める。すなわち、機械工具店勤め、図案社(印刷の版下)、鏡野面取工、漫画、焼鳥屋、メリヤス会社の意匠など。1932年 25歳 1月、第2回ノバ展に「布良」、「風景B」、「風景C」、「風景D」、「水道橋」、「物置場」などを出品。この頃左翼活動に参加。しかしやがてこの運動に失望し、離れていく。1933年 26歳 1月、第3回ノバ展に「煙草を呑むO君」、「へうたん」、「ブドウと花とテーブル」、「夜の女」、「肉屋」、「踊り」、「紙と花」、「鏡の中の顔」の8点を出品。1934年 27歳 1月、第4回ノバ展に「金の卵を持っている(彼は金の卵を生む鳥を持つ)」、「習作(直線による)」、「あなたをうつ」の3点を出品。1935年 28歳 1月、第5回ノバ展に「移転」、「偶像」、「リズミカル・オルガニゼーション(リズム)」を出品。5月、個展(団子坂・リリオム)6月、個展(新宿・ノバ喫茶店二階)「髯の連作」(デッサン)を出品。1936年 29歳 1月、第6回ノバ展に「西方の聖」、「髯の連作」など10点を出品。4月、アバンギャルド芸術クラブに参加。1937年 30歳 1月、第7回ノバ展に「母性」、「轟く砲音(広瀬中佐銅像)」その他旧作を出品。特高警察の干渉が強くなり、ノバ展はこの回で解散。3月、工藤もとと結婚。9月、応召して兵役に服す。支那事変により中支へ騎兵として出征したが、ヒューマニスティックなものと戦争との矛盾に絶えず悩まされ、暗澹たる日々を送る。絵をかくためにではなく、自分の拠りどころとして、水彩絵の具を常に身につけていた。1938年 31歳 1月、長女ひろ子誕生1940年 33歳 兵役解除、以後終戦まで徴用で工場に通い、警備召集にもつく。1941年 34歳 4月、第2回美術文化協会展に「春風のドンキホーテ」、「りんご」を出品。9月、第28回二科展に「窓より」を出品。1943年 36歳 新人画会結成に参加。会員は靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8名。4月、第1回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に「中国人」、「盧山と果実」など5点出品。11月、第2回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に出品。1944年 37歳 4月、次女美直子誕生。9月、第3回新人画会展(銀座・資生堂画廊)に出品。1945年 38歳 3月、東京大空襲により、ほとんど全作品を焼失。6月、再度応召。湘南より松代大本営に至る電話ケーブルを地下に敷設する作業に従事。群馬県の安中町で終戦を迎え、召集解除。1947年 40歳 新人画会のメンバーは自由美術家協会に合流、会員となる。6月、第1回美術団体連合展に、「顔(1)」、「顔(2)」、「友よ手をあげろ」を出品。7月、第11回自由美術展に出品。1948年 41歳 2月、自由美術新作展(銀座・三越)に「5つの像」を出品。5月、第2回美術団体連合会展に「二人は唄う」、「若い男」、「咆える獣」、「おしゃべりな鳥」、「喰いつくもの」、「水底」を出品。10月、第12回自由美術展に「死の静物」、「獲物」、「幼時と乳」を出品。11月、第2回日本美術会アンデパンダン展に「馬」を出品。1949年 42歳 1月、個展(日本橋・北荘画廊)、「風景」、「男と女」、「ガラス鉢の金魚」、「二人」、「窓による女」、「パイプの男」、「神々のアクロバット(アクロバット)」、「怒れる家畜」など油彩画20点、素描ほか32点を出品。5月、第3回美術団体連合展に「涙と月」、「泣いている女」を出品。6月、三女真知子誕生。10月、第13回自由美術展に「夜の群像」、「青い裸婦」、彫刻「作品(1)」~「作品(5)」を出品。1950年 43歳 3月、第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「夜の群像」が出品される。5月、第4回美術団体連合展に「魚と玉網」を出品。7月、個展(日本橋・北荘画廊)、「重い手」「物乞う人」など出品。8月、自由美術家協会分裂、退会派はモダンアート協会を結成。10月、第14回自由美術展に、「外国の女」、「街の女」などのデッサン、「芽」、「首」などの彫刻計11点を出品。1951年 44歳 1月、第2回秀作美術展に「めばえ」(芽)が出品される。5月、第5回美術団体連合展に彫刻「セラミック」などを出品。8月、自由美術札幌講習会(札幌市西高校)に講師として参加。10月、第15回自由美術展に「マリオネットのドンキホーテ(ドンキホーテ)」「凶兆」を出品。12月、個展(高崎、珍竹林画廊)。12月、アトリエを新宿余丁町林檎園に移す。1952年 45歳 1月、第3回秀作美術展に「凶兆」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「黒い行列」を出品。7月、個展(札幌・藤井大丸)。10月、第16回自由美術展に、「はじまり」、「鳩」(彫刻)を出品。11月、第3回群馬県美術展に「作品」を出品。12月、東京国立近代美術館第1回展=日本における近代絵画の回顧と展望=に「黒い行列」(1952)を出品。1953年 46歳 1月、第4回秀作美術展に「はじまり」が出品される。5月、第2回インド国際現代美術展に「凶兆」(1951)などが出品される。(3月、同展国内展示)5月、第2回日本国際美術展に「港町」、「夜」を出品。7月、自由美術7月展に「白い港町」を出品。10月、第17回自由美術展に「人間気化」を出品。10月、鶴岡政男デッサン展(タケミヤ画廊)「男B」、「対話」、「生物」、「刺す」、「街の聖」などのデッサン18点、ガラス絵数点出品。12月、第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「夜の群像」(1949)、「天使」(1951)、「重い手」(1950)が出品される。(7月、同展国内展示-銀座・松屋)12月、抽象と幻想展-非写実絵画をどう理解するか-(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「芽」(彫刻、1951)が出品される。1954年 47歳 2月、「事ではなく、物を描く」姿勢の表明をする(「美術批評」1954.2月号掲載)。3月、具象と抽象展(養清堂画廊)に出品。5月、第1回現代日本美術展に「落下する人体」(佳作賞受賞)、「死と雲と人」を出品。8月、水彩と素描展(東京国立近代美術館)に「踊り」(1953)、「おかしな生理」(1948)が出品される。6月、ZERO展(タケミヤ画廊)に「ジャンプ」を出品。10月、第18回自由美術展に「雨」、「喰う」を出品。1955年 48歳 1月、第6回秀作美術展に「落下する人体」が出品される。2月、19人の作家=戦後の絵画・彫刻=(東京国立近代美術館)に「アクロバット」(1949)、「喰」(1954)、「馬」(1953)、「死と雲と人」(1954)、「落下する人体」(1954)が出品される。3月、個展(なびす画廊)。デッサンを出品。3月、個展(日本橋・白木屋)戦後作品の回顧。4月、自由美術春季展に「ねむる人」を出品。5月、第3回日本国際美術展に「形態A」、「形態B」を出品。11月、第6回群馬県美術展「たたかい」を出品。1956年 49歳 5月、第2回現代日本美術展に「死者を運ぶ」、「二人」を出品。10月、第20回自由美術展に「釣舟と魚」を出品。11月、第7回群馬県美術展に「眠る人」を出品。11月、日本の風刺絵画展(東京国立近代美術館)に「雨」(1954)が出品される。1957年 50歳 3月、転居(世田谷区)5月、第4回日本国際美術展に「射的」を出品。7月、現代美術10年の傑作展(渋谷・東横)に「落下する人体」(1954)が出品される。10月、第21回自由美術展に「恐怖する人」を出品。1958年 51歳 4月、転居(世田谷区太子堂)5月、第3回現代日本美術展に「海のあやかし」を出品。10月、第22回自由美術展に「銀座をゆく4人の画家」を出品。1959年 52歳 1月、戦後の秀作展(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。2月、グルッペ・ナーベル展に「男と女」、「黒い天使」、「とんがり頭と丸頭」などの彫刻を出品。5月、第5回日本国際美術展に「雨の夜」を出品。10月、第23回自由美術展に「台風」を出品。1960年 4月、超現実絵画の展開(東京国立近代美術館)に「天使」(1954)が出品される。5月、第4回現代日本美術展に「物体」を出品。10月、第24回自由美術展に「人(1)」、「人(2)」を出品。1961年 54歳 1月、第12回秀作美術展に「人(1)」が出品される。4月、鶴岡政男代表作品展(回顧展)(日本橋・白木屋)。「アクロバット」(1949)、「重い手」(1950)など28点出品。5月、第6回日本国際美術展に「刺客」を出品。7月、東京テレビ「美術サロン-心の深層を探る・幻想による美術実験」(構成・江原順、指導・島崎敏樹)に出演。LSDの注射を受け、わきあがる幻想を100号のカンバスいっぱいに黒、グレー、赤、青などで表現した。10月、第25回自由美術展に「突(つく)」を出品。1962年 55歳 5月、第5回現代日本美術展に「作品U1」「作品U2」を出品。6月、近代日本の造形(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。9月、個展(東京・大丸)。テーマ(パステル展)。「紫の光線」、「香り」、「食卓の人」、「宇宙飛行士」などを出品。10月、第26回自由美術展に「微笑」、「母子」を出品。1963年 56歳 1月、第14回秀作美術展に「紫の光線」が出品される。2月、個展(ロンドン・モントル画廊、飯田画廊主催)パステル画を出品。5月、個展(飯田画廊)。ポコシリーズ、「忙しいポコ」、「ポコブルー」、「やけどしたポコ」、「妖精の棲むポコの巣」など出品。5月、今日の画家たち展(フォルム画廊)に出品。5月、第7回日本国際美術展に「夜の祭典」を出品し、優秀賞を受賞。10月、第27回自由美術展に「妄執」を出品。12月、昭和初期洋画展(神奈川県立近代美術館)に「母性」(1937・1962復元)が出品される。1964年 57歳 1月、第15回秀作美術展に「獣と女」が出品される。1月、個展(飯田画廊)パステル「鳥の帽子の女」、「花の表情」、「猫」、「ドンキホーテ」など出品。4月、第6回現代日本美術展の審査委員をつとめる。5月、第6回現代日本美術展に「仮面のおどり」、「水泳ターン」を出品。7月、山下菊二、前田常作、田口武雄と恐山へ旅行。9月、個展(飯田画廊)恐山シリーズ「光る湖」、「赤い家のある風景」、「深い眠り」、「祭の女」、「祭のオブジェ」、「湖のオブジェ」など20点出品。10月、第28回自由美術展に「うそをつかないという人」を出品。自由美術協会分裂、森芳雄ら38人が新たに主体美術協会をつくる。鶴岡政男、井上長三郎らは残る。1965年 58歳 1月、第16回秀作美術展に「仮面のおどり」が出品される。5月、第8回日本国際美術展に「青いカーテン」を出品し、東京国立近代美術館賞を受賞。5月、近代日本の裸体画(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)が出品される。10月、第29回自由美術館に「出口はどこ」を出品。1966年 59歳 1月、第17回秀作美術展に「青いカーテン」が出品される。1月、個展(村松画廊)。油彩画「船をなめる幽霊」、「めがね」、「夜の運び屋」、「柄的人間」など大作10点を出品。1月、個展(飯田画廊)。パステル画「微笑」、「夜の幻想」などを出品。3月、アトリエ転居(目黒区上目黒)5月、第7回現代日本美術展に「視点A」、「視点B」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。10月、東京国際美術展に「柄的人間」(1966)、「青いカーテン」(1965)を出品。10月、第30回自由美術展に「ゴルフ」を出品。1967年 60歳 4月、むさい展(ときわ画廊)に「ねじ」、「しめる」を出品。5月、第9回日本国際美術展に「MEDO」を出品。5月、個展(京都・あづまギャラリー)。油彩、パステル画を出品。6月、個展(広島県福山市・バンカム)。パステル画「顕現」、「夜の散歩者」など出品。7月、近代日本の水彩と素描画展(東京国立近代美術館)に「とうもろこしの人」(1951)が出品される。10月、第31回自由美術展に「クラゲ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1968年 61歳 3月、転居(杉並区善福寺)。3月、個展(日本橋・日本画廊)。副題「風景」、「標識と指」、「逆づり」、「引っ張る」、「ライフルマン金(ライフルマン)」など8点出品。3月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル小品展「二人の顔」、「石になった二人」、「青い人」、「求心」、「映像」、「黒いめがね」、「桃」、「ネオンバード」などを出品。5月、第8回現代日本美術展に「涙する人」を出品。7月、むさい展(ときわ画廊)に「ふたりは唄う」を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1969年 62歳 個展(新宿・カドー画廊)。パステル画を出品。4月、転居(大田区大森山王)個展(盛岡)。パステル画を出品。6月、個展(高崎・ファウンデーションギャラリー)。パステル画、油彩画を出品。7月、アトリエ転居(葉山一色)。8月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル画を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。1970年 63歳 4月、個展(渋谷・画廊代々木の森)。パステル画「ひとつ星」など36点を出品。1971年 64歳 4月、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に「青いカーテン」(1965)が出品される。5月、第10回現代日本美術展に「地表」を出品。1972年 65歳 2月、戦後美術の展開・具象表現の変貌展(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「人間気化」(1953)、「青いカーテン」(1965)が出品される。1973年 66歳 5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望-に「射的」(1957)、「青いカーテン」(1965)、「涙」(1968)が出品される。1975年 68歳 9月、パステル展(ドイツ・ミュンヘン、K.MORI GMBH主催)。1976年 69歳 1月、4人展(鶴岡政男、藤沢匠、溝田コトエ、山口長男)(港区・愛宕山画廊)に「帰りみち」、「眠る人」、「春の野」、「街灯」、「夜のみち」を出品。5月、戦前の前衛展(東京都美術館)に「リズム」(1935・1949復元)「髯」(1935)が出品される。9月、個展(渋谷・キッドアイラック コレクシオン ギャルリ)に「夜あけ」などのほかデッサンを出品。9月、腹膜炎手術で入院(35日間)。1977年 70歳 3月、肺真菌症のため東大医科学研究所病院に入院。5月、群馬秀作美術展(群馬県立近代美術館)に「夜の群像」(1949)など6点が出品される。6月、現代美術のパイオニア展(東京セントラル美術館)に「リズム」(1935)、「髯」(1935)が出品される。12月、戦後美術の出発展(東京都美術館)に「重い手」(1950)、「二人」(1949)、「夜の群像」(1949)、「化石」、「凶兆」(1951)、「ドンキホーテ」(1951)、「天使」(1951)、「はじまり」(1951)、「黒い行列」(1952)が出品される。1978年 71歳 8月、パステル展(フマギャラリー)。1960年代のパステル画、約30点が出品される。1979年 72歳 7月、パステル展(フマギャラリー)。8月11日~9月24日、群馬県立近代美術館において、鶴岡政男の全貌展開催され、油彩、水彩、パステル、ガラス絵など172点、参考資料6点が出品展示された。9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区下谷病院において死去。

山本正

没年月日:1979/09/26

洋画家山本正は、9月26日呼吸不全のため東京港区の虎ノ門病院で死去した。享年64。1915(大4)年岡山県吉備郡水内村に生れ、1933年京華中学を卒業した。はじめ里見勝蔵に、のち野口弥太郎に師事した。1931年中学在学中独立美術第1回展に「雪景」「風景」が入選し、以後連続同展に出品した。1947年「東京駅前」「ヂェムスコールマン氏像」「長尾嬢」「T夫人像」を第15回展に出品し独立賞を受け、翌年「顔」「K嬢」「兄の肖像」で岡田賞となり、49年には会員に推挙された。戦時中43年8月より46年5月までジャワに滞在し、専らインドネシヤ人を描き、戦後も独立展で上記のように人物画を多く描いた。しかしその後一時期を抽象画に転じ、戦後の盛大な抽象画派展開の中で活躍した。晩年は再び具象に戻り、練達な筆致による渋い画調の人物、風景を得意とした。代表作に上記のほか「大和路」「薪能」などがある。

久村歓治

没年月日:1979/09/19

タタラ工人、文化庁選定保存技術者の久村歓治は、9月19日十二指腸しゅようのため島根県能義郡広瀬町の町立広瀬病院で死去した。享年76。中国山地産の砂鉄を炭火で精錬、日本刀に欠かせない玉鋼をつくる古来のタタラ技術を伝承する村下の一人で技法の復活、伝承に尽くした。1972年11月文化庁の補助で財団法人日本美術刀剣保存協会が島根県仁多郡横田町大品にタタラを再現した際、同じ村下の安部由蔵とともに文化財保護法の選定保存技術者に指定された。

木村毅

没年月日:1979/09/18

文芸評論と明治文化研究家として知られる木村毅は、9月18日心筋こうそくのため、目黒区の東邦大学大橋病院で死去した。享年85。1894(明27)年岡山県に生れ、1917年早稲田大学英文科を卒業、ロンドン・レーバーカレッジで学んだ。帰国後雑誌「反響」を主宰し、小説家として「ラグーザお玉」「旅順攻囲軍」「クーデンホーフ光子」など史伝的大衆小説があるほか、評論では「小説研究十六講」「明治文学展望」「日米文学交流史の研究」「文芸東西南北」など著書が多い。大正末期吉野作造の尽力により結成された明治文化研究会の主要同人で中里介山の「大菩薩峠」の発掘、刊行者としても知られ、昭和初期円本の創始者でもある。戦後派立教大学教授、東京都知事室参与等もつとめた。1975年博物館明治村開村10年を記念して、明治を主題とした学術、芸術功労者に贈られる第1回「明治村賞」を受賞し、78年には「明治文化研究の先導的役割を果たした」として菊池寛賞を受けた。文学博士。樟蔭女子大学教授。明治文化研究会々長。早大100年史編纂委員。

勅使河原蒼風

没年月日:1979/09/05

草月流家元で、彫刻、舞台美術なども手がけた勅使河原蒼風は、9月5日心不全のため東京新宿区の東京女子医大日本心臓血圧研究所で死去した。享年78。本名鉀一。1900(明治33)年12月12日大阪に生まれ、東京で市ヶ谷小学校を卒業する。幼時から父のもとでいけ花の修行を始めたが、27年独立して草月流(53年財団法人草月会発足し理事長に就任、70年辞任)を創始し、いけ花の近代化につとめる。33年第1回の個展を開催(神田如水会館)、いけ花の他、油絵、日本画、書も出品する。一方、はやくから彫刻にも手がけ、ことに戦後、石、鉄、巨木などを素材に前衛的な表現を追求するオブジェで注目される。46年二科会会員(工芸部)となる。53年東京国立近代美術館主催「抽象と幻想展」に「群れ」を出品、55年パリにおける第1回個展(バガテル宮殿)、56年東京高島屋で個展を開催する。59年ニューヨークのマーサ・ジャックソン画廊、パリのスタドラー画廊、バルセロナのガスパール画廊で個展を開催、60年ヴェニス、パラッ・グラッシーの「芸術と自然展」に出品。以後も意欲的に海外での制作発表を行い、61年パリのスタドラー画廊で個展、62年パリ、プティ・パレにおける「文人画展」に彫刻を出品、63年パリ、グラン・パレでの「世界現代芸術巨匠展」に出品、64年ニューヨーク、リンカーン・センターで個展、65年ベルリン芸術祭参加の個展、イスラエル博物館に彫刻を出品。67年モントリオール万国博覧会の芸術部門に彫刻出品、第2回ジャパン・アート・フェスティバル(ヒューストン、ダラス)に彫刻を出品する。また、国内では、63年東京高島屋で個展、66年創流40周年を記念して東京高島屋で大個展、67年京都国立近代美術館主催で「勅使河原蒼風の彫刻」展を開催し、62点を出品する。この間、60年と61年にフランス政府から芸術文学勲章、レジョン・ド・ヌール勲章を受章。61年には第12回芸術選奨を受ける。著書に「蒼風随筆」(37年)「私の12ヶ月」(55年)「蒼風の花」など。

尾崎元春

没年月日:1979/09/02

文化財保護審議会専門委員、工芸史家尾崎元春は、9月2日心不全のため東京杉並区の荻窪病院で死去、享年74。1905(明治38)年4月28日、香川県坂出市に生まれ、30年日本大学法文学部文学科(国文学専攻)卒業、東京帝室博物館に勤務、35年帝室博物館鑑査官補、45年鑑査官に昇任、50年文化財保護委員会事務局保存部美術工芸課に転じ、64年主任文化財調査官となり、67年退職した。その間、48年財団法人日本美術刀剣保存協会評議員に就任、57年以降、日本大学文理学部、跡見学園短期大学、四天王寺学園女子短期大学、東京教育大学教育学部に出講、また長野県文化財専門委員を委嘱され、終生甲冑、刀剣、金工仏具等の調査研究とその保護に尽瘁しした。

野村守夫

没年月日:1979/08/24

洋画家野村守夫は、8月24日急性肺炎のため、杉並区下高井戸のロイヤル病院で死去した。享年75。1904(明37)年広島市的場町に生れ、川端画学校出洋画を学んだ。藤島武二に師事し、1924年第14回二科展に「花などの静物」を初出品して1941年会友となった。その後も専ら二科展に出品をつゞけ、戦後46年には二科会再建に際して会員に推された。49年には「潮の眠るとき」で二科会々院努力賞を受け、73年57回二科展出品の「丘にある街」で日本芸術院恩賜賞を受賞した。また同年ブラジル政府からコメンタ・ドール・オフシャル章を受けた。代表作に「教会のある街」「サクレクール」「黄色い街と家」などがあり、そのほか38年頃より北京、ハルピン、大連等を巡遊した際の制作である「吉林省」「大陸の建設」「北京西牌楼街」「太陽島にて」の作品などがある。作品は都会的に洗練された、叙情味のある画面に特色を示した。

山崎光洋

没年月日:1979/08/23

京都伝統陶芸家協会幹事の陶芸家山崎光洋は、8月23日心不全のため京都市北区の鞍馬口病院で死去した。享年89。1890(明治23)年5月3日石川県能美郡に生まれ、1912年京都へ出て早苗会に入塾し山元春挙に日本画を学ぶ。13年第1回農展に「辰砂花瓶」が入選。16年第4回農展に「辰砂花瓶」が優賞を受け、以後商工展に出品する。26年パリ万国博で最高賞を受賞、また京都美術工芸展にも出品受賞する。戦後の51年清水六兵衛らと無厭会を結成し、58年まで展覧会を開催する。60年京都伝統陶芸家協会を創立、幹事に就任する。主要作品に「辰砂大花瓶」(31年)、「鳳凰紋花瓶」(41年)「釉裏紅大花瓶」など。

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