本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





木村恒久

没年月日:2008/12/27

読み:きむらつねひさ  グラフィックデザイナーの木村恒久は12月27日、肺がんのため自宅で死去した。享年80。  1928(昭和3)年5月30日、大阪府に生まれる。45年大阪市立工芸学校(現、市立工芸高等学校)図案科を卒業、海軍の予科練に入隊してすぐ終戦となり、しばらくはヤミ市の片隅で看板の制作を手がけて家計を支える。その後、沢村徹に弟子入りしてデザインの現場を体験。毎日新聞商業デザインコンクールの52年第20回ポスターの部「ペニシリン昭和鼻薬」で技能賞、翌第21回第2部(ポスター)「エナルモンB帝国臓器」で日宣美会員賞、翌第22回第1部(新聞広告)「大和銀行/大和定期」で通産大臣賞を受賞。同コンクール入賞者の懇親会から52年に「Aクラブ」というデザイン研究会が発足、その中心メンバーだった永井一正、片山利弘、田中一光らと「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作、批評活動を行う。55年よりユアサ電池株式会社に招かれ嘱託となるが、60年に上京し、亀倉雄策らが設立したデザイナー集団の日本デザインセンターに参加。62年日本建築家協会主催「モデュール展」で原弘と共同制作を行い、ADC銅賞を受賞。64年に独立。66年、宇野亜喜良、永井一正、和田誠らグラッフィク・デザイナーが集まり前年に開催した展覧会「ペルソナ」で毎日産業デザイン賞を受賞。68年東京造形大学助教授となる。同年チェコ・グラフィック・ビエンナーレでチェコ建築家協会賞を受賞。70年頃から複数の写真を精巧に組み合わせて全く異なるイメージを生み出すフォト・モンタージュの手法で、現代社会を鋭く風刺した。77年『季刊ビックリハウスSUPER』で「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」の連載を開始、その原画展を渋谷パルコで開催し、話題を呼ぶ。79年、作品集『キムラカメラ』を刊行。80年に毎日デザイン賞を受賞。1993(平成5)年に東京造形大学客員教授となる。96年ポンピドゥー・センターと東京都現代美術館の共催による「近代都市と芸術展」に招待出品。また99年にギンザ・グラフィック・ギャラリー第154回企画展「木村恒久展what?」、2000年には川崎市市民ミュージアムで「木村恒久原画展」が開催される。没する直前の08年11月にうらわ美術館で始まった「氾濫するイメージ―反芸術以後の印刷メディアと美術1960’―70’」展では、赤瀬川原平や横尾忠則ら印刷メディアを通して活動を展開した8名の作家の一人として、70年代のフォト・モンタージュ作品が展観された(八王子市夢美術館、足利市立美術館を巡回)。

大川栄二

没年月日:2008/12/05

読み:おおかわえいじ  財団法人大川美術館の理事長兼館長であった大川栄二は、12月5日、大動脈弁狭窄症のため死去した。享年84。1924(大正13)年3月31日に、群馬県桐生市に生まれる。桐生高等工業専門学校色染化学科を卒業。1948(昭和23)年4月、三井物産株式会社に入社。しかし、49年から52年まで、肺結核のために入院、療養につとめる。その間に、様々な画家が描いた週刊誌の表紙を収集するようになり、大川の回想によれば、これを貼ったスクラップブック作成が、美術コレクションの原点となったという。69年、株式会社ダイエーに入社。76年、マルエツ株式会社(旧サンコー)代表取締役社長に就任。81年、株式会社ダイエー取締役副社長、同年株式会社ダイエーオーエムシー(旧ダイエーファイナンス)代表取締役会長となる。上記のようなサラリーマンの生活を送りながら、美術コレクションをすでにはじめており、コレクターの面では、86年、愛媛県越智郡玉川町(現、今治市玉川町)に、同地出身の実業家徳生忠常が、作品と美術館建設費を町に寄贈して設立された玉川近代美術館の創設にあたっては、大川は作品の収集に協力をおしまなかった。同美術館の創設にあたり刊行された名品選カタログに、大川は寄稿しているが、そこからはコレクターである大川自身の美術館像と美術に対する情熱がつぎのように記され、生活に根ざした美術の価値を深く信じていたことがうかがえる。「よい作品を出来るだけ多く、又、何度もみることが大事です。他のよい美術館とて同じです。公立はいうに及ばず、私立といえど殆んどは財団法人となっている以上、社会的な文化財であり、庶民のものなのです。画廊の高い絵は買えなくとも美術館にある絵を自分のものとして親しく厳しく、たのしく鑑賞し、庶民の文化媒体として精々利用されたら、いい絵は、眼にも心にとっても無限の教育者となり、それにより自然をみる鑑賞力も人をみる判断力も豊かとなり、街並をみることも、くたびれた生活の道具も、果物も、又、街のショーウィンドーの中にすら興味ある曲線や色を感ずるでしょう。そして、そんな価値観が自然と周囲の人間関係を大切にし、他人の痛みが判り、真の教養も生れ、素晴らしい地方文化が生き続けられるのです。」(「付ろく 絵画入門 絵のある生活と人生」より、『玉川近代美術館』、1986年)88年には、同美術館の名誉館長となった。さらに、1989(平成元)年4月、郷里である群馬県桐生市に同市の支援をうけて財団法人大川美術館が開館。同美術館の理事長兼館長に就任した。同美術館のコレクションは、大川が40年以上にわたって収集してきた近代日本洋画を中心に、欧米の近代、現代美術も加えて約6500点によって形成されている。特に、近代日本洋画については、大川が最初に関心をもった松本竣介、野田英夫の作品を核として、この二人と交友のあった画家、もしくは影響を受けた、あるいは影響を与えたと考えられる画家たちの作品が収集されており、美術史の固定化された視点から離れ、大川の鑑賞眼に基づく個人コレクションとしてユニークな内容となっている。翌90年、株式会社ダイエーを退社し、美術館の業務に専念するようになった。95年、群馬県総合表彰、2005年には群馬県文化功労賞を受けた。大川が美術について、あるいは美術館について語るとき、止まることを知らないほど情熱的であった。また、美術コレクターとして、多くの随筆を残しており、主要な著作は、次の通りである。 『美の経済学』(東洋経済新報社、1984年) 『美のジャーナル その投資と常識のウラ』(形象社、1989年) 『父と子のために 絵のみかた たのしみかた』(クレオ、1993年) 『美術館の窓から 僕はこころの洗濯屋』(芸術新聞社、1993年) 『二足の草鞋と本音人生』(上毛新聞社、2003年) 『新・美術館の窓から』(財界研究所、2004年) 

山岸信郎

没年月日:2008/11/04

読み:やまぎしのぶお  画廊主で評論家の山岸信郎(ペンネーム真木忍)は11月4日、東京女子医大病院で肺炎のため死去した。享年79。1929(昭和4)年5月9日、宮城県仙台市に生まれる。47年、仙台工業専門学校(仙台工専)から東北大学工学部へ転学。51年、東北大学を中退し、学習院大学文学部仏文科入学、59年卒業、後、同大人文科学研究科哲学専攻・修士博士前期課程に入学、64年まで在籍、富永惣一に学ぶ。62年、銀座の五番館画廊の運営に参加。『三彩』誌で68年1月号から69年7月号まで展評などを執筆する。新制作協会の事務局、日本橋の秋山画廊勤務をへて、69年2月、田村正勝、三浦武男とともに田村画廊を東京都中央区日本橋本町3-5に開設する。73年に画廊は日本橋本町4-15に移転するが、この間、後に「もの派」といわれる一群の作家たちの活気ある発表の場となる。75年日本橋本町4-9に真木画廊を開設する。77年田村画廊を閉廊し、神田西福田町2に新田村画廊(78年田村画廊と名称変更)を開設する。1990(平成2)年田村画廊を閉廊し、91年から真木画廊を真木・田村画廊として2001年まで運営した。日々の運営に関しては妻良枝の力も大きかった。山岸は拠点とした神田界隈の他の画廊、秋山画廊、ときわ画廊とともに70年代以降の貸画廊活動の一時代を築いた。さらに、79年から85年まで駒井画廊(日本橋室町3-1)の運営をし、また、郷里となっていた山形市に77年から画廊大理石を開廊し、移転しながら82年からギャラリールミエール、85年からはルミエール画廊の運営も行った。また、オフミュージアム的な展覧会の企画・運営に数多くあたり、90年代後半からの韓国との交流展をはじめ、草の根的な美術活動を行った点も忘れがたい。ミニコミ美術誌『あいだ』の追悼記事23本(155号から173号まで不定期に掲載)では、故人について数多くの作家、知人が文章をよせている。また、画廊に残された資料は、2010年国立新美術館アートライブラリーに収蔵された。

淸原啓一

没年月日:2008/10/11

読み:きよはらけいいち  日本芸術院会員で洋画家の淸原啓一は10月11日、肝細胞癌のため死去した。享年81。1927(昭和2)年6月27日、富山県砺波の農家に生まれる。45年に入学した富山師範学校で曾根末次郎に絵を学び、画家を志すようになる。学制改革のただ中にあった48年同校を卒業、曾根の計らいで新設間もない津沢中学校に勤め始める。当時同校が仮校舎としていた砺波高等女学校には同じく曾根に学んだ同郷の洋画家川辺外治がおり、そのアトリエでデッサンを学んだ。49年、第2回富山県観光美術展で棟方志功に推されてキレイ堂賞を受賞、以後上京までに度々棟方を訪ねる。50年に上京、明治大学政経学部3年に編入、卒業する52年に「椅子による女」で日展初入選を果たし、両親に反対されながらも東京に残り中学校教諭をしながら制作を続ける。この頃から、光風会等で活躍していた伊藤四郎の紹介で、“山羊の画家”とも呼ばれていた帝国芸術院会員の辻永に師事。その異名通り辻は身近にいた山羊をよく描いた画家であったが、淸原も自宅に鶏を飼いながらそれを画題とした。54年第10回日展で「鶏」が入選、以後鶏は生涯の画題となり“鶏の画家”として知られるようになる。力強く存在感のある黒のタッチがルオーを思わせるが、59年の第2回新日展で特賞となった「群鶏」では、マチエールを一変させ、全体に渋く抑えられた色調の中で、鶏冠の赤がアクセントとなり、またそのリズムが観る者の視線を誘い巧みに奥行きを出している。64年第50回記念光風会展で「鶏」が会員賞受賞。また井上和、梅津五郎、菅沼金六、高島常雄、寺島龍一、松木重雄ら日展洋画部会員とともに七人会展を開催、84年の第21回最終展まで出品する(後に浮田克躬、村田省蔵も参加)。さらに同年ヨーロッパ、エジプトなどを巡る約10ヶ月の旅に出る。68年、肝臓を患い約10ヶ月の療養生活を送る。69年第55回記念光風会展に「鶏」を出品、光風会審査員となる。73年光風会評議員。河口湖畔にアトリエを構えた74年、第60回記念光風会展に「小さな争い」を出品し第60回記念特別賞を受賞。ヨーロッパ旅行後いろどり鮮やかな色面構成を好んだ時期もあったが、この頃一旦落ち着きを見せる。また“鶏”や“群鶏”など限りなくシンプルであったタイトルが、この前年あたりから、鶏の動態や内面の動きを端的に説明するようになる。75年日展審査員推挙。78年、第64回光風会展にトリプティークを連想させる構図で描いた「鼎立」を出品し辻永記念賞を受賞。この翌年あたりから、赤や黄色などを大胆に塗り拡げた背景を好み、しばしば描くようになる。日展評議員となった86年の同展出品作「秋色遊鶏」は、琳派を思わせる装飾性と華やかな色使いが特徴で、その源流は75年頃に遡ってみとめられるが、ここにきて晩年の様式はほぼ定まったといえる。88年光風会理事。1991(平成3)年郷里の剱岳に泊まり込みで一週間の取材を敢行し連作に取り組む。94年日展内閣総理大臣賞、2002年光風会常務理事、日展理事。この年、前年の日展出品作「花園の遊鶏」で第58回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、同会員となる。本作品は印象派風の明るくやわらかな表現で溢れんばかりの生命力を詩情豊かに描いた、特に生彩を放つ代表作となる。03年日展常務理事。07年旭日中綬章受章。08年日展顧問。同年富山県立近代美術館で「淸原啓一回顧展 新花鳥画への道程」が開催される。この大回顧展のために、六曲一双の屏風仕立てで大作「紅葉遊鶏図」「新緑遊鶏図」を描き上げた。この年にはまた『淸原啓一画集』(求龍堂)が刊行される。主な個展としては他に、「清原啓一展―画業50年の歩み―」(富山県民会館美術館、1994年)、「清原啓一展―画業55年記念―」(高岡大和、1999年)、「清原啓一洋画展―日本芸術院会員就任記念―」(高岡大和、2004年)、「淸原啓一―遊鶏の賦―」(渋谷区立松涛美術館、2007年)などがある。

小川隆之

没年月日:2008/10/08

読み:おがわたかゆき  写真家の小川隆之は10月8日、肺気腫のため川崎市内の病院で死去した。享年72。1936(昭和11)年10月3日東京に生まれる。59年日本大学芸術学部写真学科卒業、文藝春秋社に入社、写真部に配属される。65年に同社を退社しフリーランスとなる。67年4月より68年3月までニューヨークに滞在して制作活動にとりくみ、帰国後『カメラ毎日』1968年9月号に滞米中の作品「New York Is」を巻頭32ページの特集により発表、同年にニコンサロン(東京、銀座)において同題の個展を開催。ベトナム戦争期のニューヨークの多様な現実をとらえた同シリーズにより68年、第12回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞する。以後、東京を拠点に報道、広告など広い分野で活躍し、コマーシャル・フィルムのカメラマンとしても多くの仕事を手がけた。代表的な仕事にオーソン・ウェルズをモデルに起用したニッカウヰスキーの広告シリーズがあり、写真およびテレビ・コマーシャル映像の撮影を担当した。82年にADC賞を受賞。また自らの作品制作にも継続的にとりくみ、主な個展に「オーソン・ウェルズ」(シードホール、東京、1987年)、「魂のメサ」(フォト・ギャラリー・インターナショナル、東京、1999年)、「沈黙の肖像」(ギャラリーSOL、東京、2000年)などがある。90年代後半には、癌を患った経験から生まれた「Beyond the Mirror」と題する、レントゲン写真や自らの身体を題材とするフォトグラムによるセルフポートレートのシリーズを発表、新境地を開く。同シリーズは同題の個展(ヒューストン写真センター、アメリカ、1998年)で発表された他、東京都写真美術館で開催された「ラヴズ・ボディ ヌード写真の近現代」(1998年)にも出品された。

灰野昭郎

没年月日:2008/10/01

読み:はいのあきお  漆芸史研究者の灰野昭郎は、10月1日、心筋梗塞のため死去した。享年66。1942(昭和17)年、新潟県に生まれる。67年早稲田大学第一文学部美術専修卒業。69年より鎌倉国宝館学芸員として勤務、73年には同館図録第19集『鎌倉彫』を執筆し、特別展「鎌倉彫」を手がけた。同館在職時代の鎌倉彫の徹底した作品調査と、現代の工房で行われている技法の調査は、文献研究もふまえて『鎌倉彫』(京都書院、1977年)にまとめている。同書は現在でも、もっとも充実した写真図版と論考・資料を備えた鎌倉彫の研究図書となっている。76年より京都国立博物館に勤務し、資料管理研究室長、学芸課普及室長、工芸室長を歴任した。同館では「日本の意匠―工芸にみる古典文学の世界」展(1978年)、「高台寺蒔絵と南蛮漆器」展(1987年)、「18世紀の日本美術」展(1990年)、「蒔絵 漆黒と黄金の日本美」展(1995年)をはじめ、漆工芸関係の研究・展覧会業務に従事した。1999(平成11)年より奈良大学文学部文化財学科教授を務めた。2004(平成16)年より昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科大学院生活機構学専攻担当教授となり、同大学光葉博物館館長を併任、2007年から逝去時まで同大学院特任教授を務めた。灰野は「私の漆」(『学叢』26、2004年5月)で述懐しているように、工芸研究者が少ない中で、着実に作品の調査を重ねながら、展覧会業務とともに、精力的に普及活動を行った。主な著作には次のものがある。『漆工―近世編(日本の美術231)』(1985年)、『婚礼道具(日本の美術277)』(1989年)、『近世の蒔絵―漆器はなぜジャパンと呼ばれたか』(中公新書、1994年)、『日本の意匠―蒔絵を愉しむ』(岩波新書、1995年12月)、『漆―その工芸に魅せられた人たち』(講談社、2001年)灰野の没後、その約5000冊の漆工芸を中心とする蔵書は、石川県輪島漆芸美術館に寄贈され、同館で灰野昭郎文庫として公開されている。

横田洋一

没年月日:2008/09/22

読み:よこたよういち  横浜浮世絵や明治初期洋画など、横浜を舞台として幕末から近代にかけて繰り広げられた様々な美術活動の調査研究を行った横田洋一は、9月22日、がんのため死去した。享年67。1941(昭和16)年6月6日、群馬県に生まれる。幼少期を中国天津で過ごし、44年10月に帰国。64年3月上智大学文学部新聞学科を卒業し、同年4月に早稲田大学第一文学部美術専修課程に入学。66年3月に同課程を修了する。同年4月、68年の開館に向けて準備段階であった神奈川県立博物館の学芸員となり、自然史、歴史を含む総合博物館である同館で美術分野を担当する。就任とともに同館が所蔵する6000点を越える浮世絵からなる丹波コレクションの調査および横浜ゆかりの美術に関する調査を開始し、69年から翌年にかけて『丹波コレクション目録』第1―3編を刊行。また、幕末に横浜を訪れた英国人画家チャールズ・ワーグマンや、五姓田芳柳・義松といった幕末明治期の洋画、真葛焼に代表される「はまもの」と呼ばれた輸出工芸品など、横浜の文明開化に関わる美術工芸品の調査を進め、勤務先の神奈川県立博物館(95年より神奈川県立歴史博物館)で、76年「横浜浮世絵と長崎版画」展、82年「浮世絵の歴史と横浜浮世絵」展、86年「横浜真葛焼と宮川香山」展、86年「明治の宮廷画家 五姓田義松」展、1990(平成2)年「没後100年記念 チャールズ・ワーグマン ロンドン発・横浜行き あるイギリス人画家の幕末・明治」展、97年「横浜浮世絵と空飛ぶ絵師 五雲亭貞秀」展、2001年「王家の肖像―明治皇室アルバムの始まり」展などを開催した。これらの展覧会図録への論文、解説のほか、共著による単行図書、定期刊行物にも横浜浮世絵や文明開化期に横浜で活躍した画家、写真家などに関する著作を多く残した。これらは、日本における最初の近代美術館となった神奈川県立近代美術館が、土方定一の強い指導力のもとに西洋近代的な狭義の「美術」概念によって展覧会を開催し続けたのに対し、同県下の総合博物館という立場で地域における広義の美術を紹介する展示となっており、日本近代美術史の流れの中でも先駆的業績として評価される。特に、高橋由一と同時代に活躍しながら評価の遅れていた五姓田義松を再評価した功績は大きい。2002年3月、36年間在職した神奈川県立歴史博物館を定年退職。03年4月、関東学院大学比較文化学科特約教授となり08年まで教鞭を取った。1993年3月の中国旅行以降、中国の年画の調査、収集に興味を抱き、十数回にわたり中国を訪れた。年画のコレクションは那須野が原博物館に所蔵されている。2002年12月、04年2月にはインドを訪れている。逝去の翌年、横田洋一論文集『リアリズムの見果てぬ夢―浮世絵・洋画・写真』(横田洋一論文集刊行会編、学藝書院、2009年)が刊行されており、履歴、業績等は同書に詳しい。

水井康雄

没年月日:2008/09/03

読み:みずいやすお  パリを拠点にモニュメンタルな環境彫刻を制作し、国際的に活躍した水井康雄は9月3日、すい臓がんのためフランス・アプトの病院で死去した。享年83。1925(大正14)年5月30日、京都に生まれ、1947(昭和22)年神戸高等工業学校機械科を卒業。終戦の混乱期の中で、過去の教育の一切を捨て、一人でできる仕事を志向して東京芸術大学彫刻科に入学。平櫛田中、菊池一雄、山本豊市らに師事し、53年に同科を卒業する。同年フランス給費留学生としてパリに留学し、パリ国立美術学校で58年までA・ジャニオ、M・ジモンに学んだ。59年からフランス国内外での団体展に出品したほか、複数の作家がひとつの場所に集まって制作し、研鑽する彫刻シンポジウムに参加。59年のビエンナーレ・ド・パリでA・シュス個人賞を受賞。60年にオーストリアの採石場で開かれた石彫のシンポジウムに参加して以後、石を自らの心身を矯めなおす素材として重視し、好んで用いるようになる。62年には第1回ベルリン・シンポジウムで同年度ドイツ批評家賞受賞、64年には第7回高村光太郎賞を受賞した。ロマネスク彫刻に深い共感を抱き、周囲の環境や歴史、人々の暮らしを踏まえ、その場に溶け込む造形をめざし、公共の場に設置される大規模な作品を得意とした。ボルドー大学法学部に設置されている「泉の化石」ほかフランスやヨーロッパに多くの作品を残すが、国内では東京オリンピックの際に竣工した東京代々木競技場にある「余韻の化石」「火の化石」「音の化石」(各1964年)など花崗岩によるレリーフ大作、噴水と組み合わせた神戸総合運動公園の石彫「Fountain Date6」(1985年)、宇部市渡辺翁記念公園の「石凧」(1964年)などがある。手先の器用さが通じない石という素材を好んだが、小品ではブロンズなどの金属を素材とする制作も行った。火、水、風など不定形のモティーフを好み、抽象的な形を志向した。

樋口清治

没年月日:2008/08/17

読み:ひぐちせいじ  応用化学の研究者で東京文化財研究所名誉研究員の樋口清治は、8月17日、心不全のため東京都葛区の病院で死去した。享年82。1926(大正15)年6月3日、東京市に生まれる。1943(昭和18)年10月に工学院本科応用化学科を卒業、同年12月より東京帝国大学附属綜合試験所に入所、45年12月に同助手、46年3月文部教官、49年5月東京大学助手に任命される。52年11月、当研究所保存科学部科学研究室文部技官に転任の後、73年7月の修復技術部発足に伴い、第2修復技術研究室長に昇任。78年には第3修復技術研究室長に配置換となり、82年4月に修復技術部長、翌年3月定年により退官。当研究所在職時は、我が国の高度経済成長期、文化財保存修復に関する概念が進展するのにともなった新しい修復技術や材料開発の要請に対して、合成樹脂など近代的な材料を導入した。その実例は、彩色剥落止め、木造建造物部材修復、石造文化財修復、金属文化財修復、遺構の発掘処置法など多岐にわたった。特に木造建造物部材修復においては、人工木材の材質改良・文化財修復への導入に果たした功績は大きく、73年、重要文化財・旧富貴寺羅漢堂の再建において腐朽部材の合成樹脂による含浸強化および人工木材による欠損部分補修を採用し、当時所長であり再建事業の総括をした関野克とともに建築学会賞を受賞した。主要な著書は、『新建築学体系歴史的建造物の保存』(共著 彰国社、1999年)や、『総説エポキシ樹脂 第4巻応用編Ⅱ』(共著 エポキシ樹脂技術協会、2003年)など。主要論文は『保存科学』に所載。退官後は株式会社京都科学の技術顧問として、文化財修復における民間の技術水準向上と修復倫理の普及に努めた。1997(平成9)年、勲四等旭日小綬章を受勲。

赤塚不二夫

没年月日:2008/08/02

読み:あかつかふじお  漫画家の赤塚不二夫は8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。享年72。1935(昭和10)年9月14日、旧満州(中国東北部)熱河省灤平県(現、中華人民共和国河北省)に生まれる。本名藤雄。45年奉天で敗戦を迎え、翌年、母の実家のあった奈良県生駒郡郡山町(現、大和郡山市)へ引き揚げる。もとより漫画家を志望していたが、引き揚げ後に貸本屋で借りた手塚治虫「ロストワールド」を読み、プロの漫画家となることを決意する。49年にはSF漫画「ダイヤモンド島」を描き下ろし、大阪の出版社へ持ち込むが不採用。同年シベリア抑留を解かれた父とともに新潟で暮らすこととなり、51年には新潟市内の塗装店に就職。この頃から、『漫画少年』(学童社)に赤塚不二夫のペンネームで投稿を始める。53年上京。54年工場勤務のかたわら、東日本漫画研究会(石森章太郎主宰)同人誌『墨汁一滴』に参加。56年少女漫画「嵐をこえて」(曙出版)で単行本デビュー。同年トキワ荘に移る。当時のトキワ荘には寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森らが入居しており、これらのメンバーと新漫画党を結成(ちばてつや、松本零士、つのだじろうらも参加)。この頃の赤塚は『少女クラブ』(講談社)、『少女ブック』(集英社)、『りぼん』(同)といった少女漫画雑誌に短編を発表していた。58年には『漫画王』(秋田書店)に読み切りとして描いた「ナマちゃんのにちよう日」が好評を博し、同誌翌月号より「ナマちゃん」として連載が開始される。59年には週刊誌ブームを背景として、小学館から『週刊少年サンデー』が、講談社から『週刊少年マガジン』が同日創刊され、週刊という枠の中で、漫画雑誌は新たなステージを迎えつつあった。その流れの中で赤塚は62年『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」の連載を開始。同年『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載も始まり、人気作家となる。64年石森、藤子、つのだ、鈴木伸一の設立したスタジオ・ゼロに参加。65年には新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立し、長谷邦夫、横山孝雄、古谷三敏、北見けんいち、高井研一郎らが参加する。この他、赤塚のもとには後に人気作家となる漫画家が多く在籍していた。同じく65年「おそ松くん」で第10回小学館漫画賞を受賞。67年『週刊少年マガジン』で「天才バカボン」、『週刊少年サンデー』で「もーれつア太郎」の連載を開始(「天才バカボン」は69、70年の一時期、ライバル誌『サンデー』に連載されるが、71年『マガジン』で連載再開)。71年『サンデー』で「レッツラ☆ゴン」の連載開始。72年には「天才バカボン」で文芸春秋漫画賞受賞。同年『週刊文春』で「ギャグゲリラ」の連載開始。70年代以降も多くの連載をこなす一方、テレビ、映画、演劇、パフォーマンス、執筆など、漫画家としての枠を超えた活動を展開する。あわせて、65年のアニメ「おそ松くん」のテレビ放映に続いて、69年には「ひみつのアッコちゃん」と「もーれつア太郎」が、71年には「天才バカボン」がテレビ放映されるが、数度のリバイバルを経て、以後も多くの作品がテレビアニメ化される。「ギャグ漫画」という一分野を確立した赤塚作品の制作は、「アイデア(会議)」と呼ばれるミーティングによってネーム等のおおよそのアウトラインが決められたことが、赤塚自身や周囲の発言から知られる。この「アイデア」は赤塚始め長谷、古谷らフジオ・プロのメンバーと担当編集者を主な構成員とし、赤塚作品を彩る個性的なキャラクターの数々もこの席上で生まれたものが多かったという。赤塚による分業制とも言うべき作品完成へのプロセスは、戦後日本における漫画制作の現場の一端を知る上で重要である。また、73年末からの数ヶ月間、全ての作品を「山田一郎」名義で執筆するなど、実験的な表現方法を展開する。1997(平成9)年には「まんがバカなのだ! 赤塚不二夫展」(池田20世紀美術館)、「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」(上野の森美術館)を開催。同年、第26回日本漫画家協会文部大臣賞受賞。翌年紫綬褒章受章。2000年には『赤塚不二夫のさわる絵本 よーいどん!』(小学館)、02年には『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』(同)という点字絵本を刊行。03年には青梅市に赤塚不二夫会館がオープン。没後の09年「赤塚不二夫展 ギャグで駆け抜けた72年」(松屋銀座他)が開催された。

鈴木進

没年月日:2008/07/16

読み:すずきすすむ  美術史家、美術評論家で東京都庭園美術館名誉館長の鈴木進は7月16日午前6時8分、老衰のため東京都世田谷区内の病院で死去した。享年96。1911(明治44)年8月14日、静岡県に生まれる。旧制静岡中学を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に進み、同学科で日本美術史の藤懸静也に師事。1936(昭和11)年卒業と同時に同学科初代の助手に就任。40年文部省学芸課嘱託となり、美術問題を調査研究。戦争中の44年から45年に兵役に就く。復員後の46年に東京帝室博物館調査課に勤務、文部技官となり国宝・重要文化財の指定・調査・研究に携わる。50年文部省の外局の文化財保護委員会の設立に従事。以後、同委員会が文化庁となると絵画部門の文化財調査官として長年国内の調査にあたり、また海外への紹介に努めた。さらに公務の一方で、慶応義塾大学、東京都立大学の講師を務める。52年の美術評論家連盟の結成時には幹事として尽力。近世日本絵画、とりわけ文人画を中心とする研究、そして近現代日本画を軸に幅広い分野の評論活動を行った。83年には開館したばかりの東京都庭園美術館の館長に就任し、1996(平成8)年まで務めた。その間、「日本の美 ジャポネズリーのルーツ」展(1985年)や「江戸美術の祝祭」展(1989年)等、とくに江戸美術への見識を活かした展覧会を実現させた。また80年に創設されたジャポニスム学会に幹事として尽力し、2002年からはその顧問となった。その経歴と人となりについては、同学会の機関誌『ジャポニスム研究』28号(2008年)に掲載された岡部昌幸「鈴木進先生追悼―グローバルな視点で日本美術を国内外に紹介、美術界の発展に尽くされた」に詳しい。主要な編著書は下記の通りである。 『東洋美術文庫14 応挙』(アトリヱ社、1939年) 『毎日少年ライブラリー 国宝ものがたり』(毎日新聞社、1954年) 編集『講談社版アート・ブックス29 玉堂』(大日本雄弁会講談社。1955年) 編集『浦上玉堂画集』(日本経済新聞社、1956年) 竹田道太郎と共著『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(雪華社、1957年) 高見順と共著『原色版美術ライブラリー121 大雅』(みすず書房、1958年) 編集『蕪村』(日本経済新聞社、1958年) 『講談社版日本近代絵画全集21 鏑木清方・平福百穂』(講談社、1962年) 編集『世界美術全集10 日本10(江戸2)』(角川書店、1963年) 編集『芋銭』(日本経済新聞社、1963年) 編集『竹田』(日本経済新聞社、1963年) 編集『日本の美術39 応挙と呉春』(至文堂、1969年) 編集『日本絵画館10』(講談社、1971年) 『近世異端の芸術 若冲・蕭白・芦雪』(マリア書房、1973年) 飯島勇と共著『水墨美術大系12 大雅・蕪村』(講談社、1973年) 『日本の名画9 浦上玉堂』(講談社、1973年) 編集『日本の美術114 池大雅』(至文堂、1975年) 『ブック・オブ・ブックス 日本の美術46 蕪村と俳画』(小学館、1976年) 『日本の名画7 横山大観』(中央公論社、1976年) 『カルチュア版世界の美術8 日本の名画Ⅱ』(世界文化社、1976年) 尾崎正明と共著『日本美術絵画全集24 渡辺崋山』(集英社、1977年) 田中一松・吉澤忠・松下英麿・山中蘭径と共編『浦上玉堂画譜』全3巻(中央公論美術出版、1977~79年) 編集『日本の美術148 浦上玉堂』(至文堂、1978年) 佐々木丞平と共著『日本美術絵画全集18 池大雅』(集英社、1979年) 『俳人の書画美術11 江戸の画人』(集英社、1980年) 『俳人の書画美術12 明治の画人』(集英社、1980年) 監修『「巨匠が描く」日本の名山』全6巻(郷土出版社、1997~99年) 監修『日本の美富士』(美術年鑑社、2000年) 監修『さくら』(美術年鑑社、2001年) 

宮迫千鶴

没年月日:2008/06/19

読み:みやさこちづる  画家で評論家、エッセイストの宮迫千鶴は6月19日、腹部リンパ腫のため埼玉県川越市の病院で死去した。享年60。1947(昭和22)年10月16日広島県呉市に生まれる。カトリックの女子校で中等・高等教育を受けた後、70年広島県立女子大学文学部卒業。上京して出版社やファッション誌の会社などで働きながら、独学で絵画制作を開始する。山下清の貼り絵に出会ったことで、大学時代に受けたアカデミックな制作指導のトラウマから解放され、既成概念に囚われぬ独自の表現を育む。75年荻窪のシミズ画廊にて初個展。モチーフを機械に置き換え再構築したかのような構図で、多色使いながらも落ち着いた色調の作品が多い。この頃、生涯のパートナーとなる画家の谷川晃一と出会い、二人展やグループ展も開くようになる。文筆業では78年に初の美術エッセイ集『海・オブジェ・反機能』(深夜叢書社)を刊行。80年代からは美術や写真評論の他、当時盛んであった女性論、家族論などの執筆に追われ、『イエロー感覚』(冬樹社、1980年)、『女性原理と写真』(国文社、1984年)、『ハイブリッドな子供たち』(河出書房新社、1987年)、『ママハハ物語』(思潮社、1987年)、『サボテン家族論』(河出書房新社、1989年)、『母という経験』(平凡社、1991年)など著作多数。とりわけ多忙を極めたこの時期はコラージュによるポップで都会的な作品が目立つが、88年伊豆高原に転居した後は、その自然や暮らしを色彩豊かに描いた明るい作品が主となる。ライプチヒで開催される「世界でもっとも美しい本展」にて92年、画文集『緑の午後』(東京書籍、1991年)が銀賞受賞。93年より伊豆高原アートフェスティバルを企画・開催。店舗や宿泊施設のほか出品者の自宅や別荘を会場とし、地元住民を中心に参加者主体で運営する草の根型の芸術祭を提唱。自然の暮らしの中でアートを楽しむことを目指した、非営利の新しい芸術イベントとして評判となる(2007年の第15回まで毎年参加)。豊かな自然やその中での暮らしをテーマにしたものの他、この伊豆時代に関心を寄せたスピリチュアリティに関するエッセイも多い。主な著書に『美しい庭のように老いる』(筑摩書房、2001年)、『月光を浴びながら暮らすこと』(毎日新聞社、2002年)、『絵のある生活 コラージュ・ブック』(NHK出版、2002年)、詩画集『月夜のレストラン』(ネット武蔵野、2003年)、『田舎の猫とおいしい時間』(清流出版、2004年)、『はるかな碧い海』(春秋社、2004年)など。99年には『海と森の言葉』(岩波書店、1996年)のエッセイが一部、三省堂、明治書院の高校現代国語の教科書に採用されている。展示活動は初個展以来ほぼ毎年行われたが、主な展覧会には「●田島征三●谷川晃一●宮迫千鶴三人展」(練馬区立美術館、2005年)、「夏のアートフェスティバル2005 森のアトリエ 谷川晃一&宮迫千鶴展」(国際芸術センター青森、2005年)などがある。また没後の09年には遺稿集『楽園の歳月』(清流出版)が刊行された。

柳沢信

没年月日:2008/06/02

読み:やなぎさわしん  写真家の柳沢信は6月2日、喉頭癌のため鎌倉市内の病院で死去した。享年71。1936(昭和11)年8月23日東京市向島区(現、東京都墨田区)に生まれる。本来の読みは「まこと」。疎開先の埼玉県を経て、戦後神奈川県に転居、55年神奈川県立湘南高等学校を卒業、57年東京写真短期大学(現、東京工芸大学)技術科卒業。同年桑沢デザイン研究所に入学するが数ヶ月で中退し、以後フリーランスの写真家として活動する。58年ミノルタのPR誌『ロッコール』に初めての作品「題名のない青春」を発表、59年に立木義浩、笠貫節との三人展「ADLIB 3」(富士フォトサロン、東京)を開催。60年には「現代写真展1959」(国立近代美術館)に出品。61年結核が見つかり約一年半の療養生活を送る。復帰後はファッションや広告などの仕事を手がけるかたわら写真雑誌に作品を発表し、『カメラ毎日』に発表した「二つの町の対話」(1966年12月号)「竜飛」(1967年3月号)により67年第11回日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。74年には「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に参加。79年に初の個展「都市の軌跡1965-70」(オリンパスギャラリー、東京)を開催、同年初の写真集『都市の軌跡』(朝日ソノラマ)刊行。以降、個展として「北陸紀行」(ミノルタフォトスペース、東京、1980年)、「柳沢信写真展」(CAMERA WORKS EXHIBITION、東京、1981年)、「写真・イタリア・柳沢信」(コニカプラザ、東京、1994年)、「写真に帰る」(クリエイションギャラリーG8およびガーディアン・ガーデン、東京、2001年)、「柳沢信写真展」(ときの忘れもの、東京、2008年)がある。また写真集として『北陸紀行』(現代日本写真全集 日本の心 第11巻、集英社、1981年)、『写真・柳沢信 1964―1986』(書肆山田、1990年)、『写真・イタリア』(モールユニットNo.3、モール、1994年)がある。他に「写真に帰る」展に際して写真雑誌に発表した作品を網羅的に収録した小冊子が刊行された。都会的な主題をめぐる初期から、次第に高度成長のなかで変化をとげつつあった地方にも関心を広げ、60年代から70年代にかけて写真雑誌に発表した日本各地をめぐる連作(68年『カメラ毎日』に連載の「新日本紀行」、72年『アサヒカメラ』に連載の「片隅の光景」など)において、旅の途上で出会った風景を独特の距離感と映像感覚でとらえる作風を確立。写真界の動向に左右されず、確かな写真技術に裏打ちされつつも、決して技巧に走らない作品は、独自の位置を占めるものとして評価された。93年には初の本格的な海外での撮影をかねたイタリアへの長期旅行に出るが、その途上、体調を崩して帰国。喉頭、食道に癌が見つかり手術を受け、療養生活の中で新たな撮影は中断されていた。死去後の2009年「写真・柳沢信」(JCIIフォトサロン、東京)が開催された。

岡田節子

没年月日:2008/05/28

読み:おかだせつこ  洋画家で女子美術大学名誉教授の岡田節子は5月28日、敗血症のため死去した。享年90。1917(大正6)年8月31日、宮城県志田郡古川町(現、大崎市)に生まれる。内務省官吏(後に代議士)であった父の転勤について、子ども時代には札幌、金沢、東京、津、宮崎、京都、岐阜など転校を重ねる。1934(昭和9)年東京府立第五高等女学校4学年を修了・退学し、女子美術専門学校(現、女子美術大学)師範科西洋画部に入学する。翌35年同校高等科西洋画部に転部。37年に卒業すると岡田三郎助が自宅で開いていた研究所に入るが39年に閉鎖、この年の4月朱葉会第21回展に出品して朱葉会賞を受賞。またこの頃就職も考え、主婦之友者編集記者に応募し採用までこぎつけながら家族に反対され断念したこともあった。42年、紹介された梅原龍三郎の助言で久保守に師事、その年の内に国画会第17回展で「ミモザ」が初入選、まもなく開所した国画会研究所に入る。47年女流画家協会の発足に創立会員として参加、第1回展に「兎」「森」「夕べ」を出品しT氏賞を受賞。48年南青山にアトリエを構え桜井悦との共同生活を開始。50年に東京YWCA教養部講師を務め、52年に女子美術大学助教授となる。この間、フランス留学を前提にアテネ・フランセで1年ほど学び、53年からは留学費用のために雪印乳業株式会社に広告原画を2年ほど提供。54年私費留学生試験に合格し桜井悦と翌年渡仏。ヨーロッパ各地に足を運びながらパリで制作を行うが、病を得た桜井に伴い一年半ほどで帰国、大学勤務に復帰する。渡仏前には、やさしいタッチと色調を活かした素朴な画風で子供や動物を描くことが多かったが、パリではその素朴さを残しながらやや水彩風のタッチで、街並みを主な画題とした。一方で、戦後華々しくデビューしたビュッフェやサロン・ド・メを中心とする青年画家たちが活躍していたパリの半具象にも魅了される。57年に銀座の求龍堂画廊にて開催された初の個展で滞欧作を発表、同年第11回女流画家協会展に半具象の影響色濃い「蝶」「巣」を出品、その内「蝶」が毎日新聞社賞受賞。一転してドライな筆致となった両作品では、樹木の幹と枝で大まかに区切った構図と、その一角に描き込まれた小さく儚げな生きものが好対照をなし、ともすれば無機質になりかねない画面の中に灯されたような生命力が見事にクローズアップされている。65年アメリカ、メキシコへの研修旅行中、ニューヨークで抽象絵画に衝撃を受ける。71年女子美術大学教授となる。歪ませた円形を組み合わせた画面構成などをしばらく試みていたが、抽象は自分には不向きと思い至り、72年再び具象に戻る決意をする。代表作「楽園」(78年)や、それに連なるものとして、80年代に資生堂ギャラリーで3度の展観がなされた“森シリーズ”が有名だが、“交響譜”“メルヘン”“鳥獣戯画”などのシリーズを次々と展開。「いずれも自然と人間を含めた生きもの達の交流がテーマ」で、モチーフは飽くまで現実世界に求めながら、「想像や空想をおりまぜた、独白に近い作品」との言葉にあるように、寓話やメルヘンの世界を表出した心象画が岡田のスタイルとなる。細やかなストロークによる塗り重ねが全体に朦朧とした均質感を醸すことで、それ自体具体性を極力排除されているモチーフ全てがそれを取り巻く空気と渾然一体となり、現実とは決して交わらぬ独立した幻想世界を築いている。また晩年にはエッチングやリトグラフなどの版画作品もしばしば制作した他、人物の顔面に注目し、アルチンボルドを彷彿とさせる動物パズル的な作品も試みている。83年女子美術大学を退職、同大学名誉教授の称号を受ける。1989(平成元)年、46年間ともに暮らし制作を続けてきた桜井悦が死去。93年『岡田節子画集』を美術出版社より刊行、出版記念自選展を東京セントラル美術館にて開催。2000年には美術出版社より『メルヘン鳥獣戯画』が出版された記念として日本橋高島屋画廊で個展が開催された。女流画家協会展への出品は、パリ留学中の第9回・第10回を除き亡くなる08年の第62回まで欠かすことがなかった。

佐谷和彦

没年月日:2008/05/23

読み:さたにかずひこ  佐谷画廊代表であった佐谷和彦は、食道癌のため、5月23日に死去した。享年80。1928(昭和3)年、京都府舞鶴市に生まれ、第四高等学校を卒業後、京都大学経済学部に進学。53年、農林中央金庫に入社。73年に退社、株式会社南画廊(東京、日本橋)の経営者志水楠男に勧誘されて、同画廊に入社した。77年に同画廊を退社し、翌78年佐谷画廊を東京、京橋に創設した。82年に銀座4丁目に移転。2000(平成12)年に東京荻窪の自宅に移転。佐谷画廊としての活動は、日本人作家としては、池田龍雄、中川幸夫、阿部展也、山口勝弘、駒井哲郎、荒川修作、桑山忠明、松沢宥、清水九兵衛、福島秀子、山田正亮、若林奮、赤瀬川原平、戸谷成雄、辰野登恵子、小林正人等、また海外作家としては、パウル・クレー、エルンスト、マン・レイ、マルセル・デュシャン、ジャコメッティ、クリスト等の展覧会を開催した。とくに詩人瀧口修造と交流のあった作家をとりあげた「オマージュ 瀧口修造」展は、28回開催され、佐谷のこの詩人への敬愛の念がこめられていた。また佐谷の回想によれば、二十年にわたって銀行での勤務の経験があったからこそ、画廊経営、また社会と美術について、冷静な判断と深い認識が培われたと語っている。とくに美術作品を扱う画廊、画商の社会的、文化的な存在意義については、つぎのように明確な考えをもっていた。「美術品という特別な、文化に関わる商品を取り扱っているという認識を持つ必要がある。ところがここがむずかしいところで、文化には商売として成立しがたい要素がある。美術品の絶対的価値と市場流通価値の乖離が、このことを示している。だからといって儲かる作品であれば何でも扱う、というのでは単なるブローカーになってしまう。画廊、画商の主張が見えてこなければ、存在理由はない、と私は思う。もうひとつ言えば、美術品は質の問題に尽きる。質に対する意識がないと、輝いたしごとはできない。文化程度が高い社会とは、質の高い芸術が人びとの周辺に存在する社会のことである。つまり良質の美術品に感応し、感動し、それを理解し、楽しむ境地に達した人間が多く存在することが望ましい。画廊、画商はそのような社会に関わっていることに誇りを持てるような存在でありたい。」(『アート・マネージメント 画廊経営実感論』、平凡社、1996年)さらに画廊が現代美術を扱うことについても、その意義をつぎのように記していた。「現代美術を取り扱う画廊のもっとも重要なしごとは、新しいすぐれた作家を社会に送りだすことである。すぐれた作家は同時代の証言者であり、時代精神を表現している。このような作家を紹介することが、画廊の社会的義務である。」このように単なる画廊経営者にとどまらずに、美術、とりわけ国内外の現代美術に対する理解者、支援者としての活動は、特筆されるべきであろう。造詣が深いからこそ、同画廊で開かれた展覧会のカタログの「あとがき」として、作家論等を数多く寄稿している。また、アート・マネージメントや文化行政に対する発言も多く、これらは、上記の引用著述以外に、下記の著作にまとめられている。 『知命記 ある美術愛好家の記録』(佐谷画廊、1978年) 『私の画廊―現代美術とともに―』(佐谷画廊出版部、1982年) 『画廊のしごと』(美術出版社、1988年) 『原点への距離―美術と社会のはざまで』(沖積舎、2002年) 『佐谷画廊の三〇年』(みすず書房、2007年) 

青木龍山

没年月日:2008/04/23

読み:あおきりゅうざん  陶芸家で文化勲章受章者の青木龍山は4月23日午後11時10分、肝不全により死去した。享年81。1926(大正15)年8月18日佐賀県西松浦郡有田町外尾山の青木兄弟商会(陶磁器製造販売会社)を経営していた父重雄、母千代の長男として生まれる。1933(昭和8)年、外尾尋常小学校入学、13歳で卒業、父から将来焼き物で身をたてようと思うなら佐賀県立有田工業学校(現、佐賀県立有田工業高校)に進学した方がいいとの助言を受け、同学に入学。4年間、図案科にて日本画、デザイン、陶画を学ぶ。当時、1学年上級に第14代今泉今右衛門がおり、交流を深めたという。43年、卒業と同時に東京美術学校を受験した際に、身体検査で胸部疾患と診断され不合格となる。徴兵検査も不合格となり兵役を免れる。胸部疾患も健康的な生活を送るうちに治癒し、47年、東京多摩美術大学(現、多摩美術大学)日本画科に入学。51年卒業すると同時に、神奈川県の法政大学第二高等学校および法政大学女子高等学校の美術教師となり勤務する。2年後、祖父の興した青木兄弟商会に入る。父の経営する同商会は戦後の混乱から経営状態が厳しく、新しい時代に適応した経営感覚と技術の導入が必要と考えた父に呼び戻された。この際、勢いよく、大きく躍動する龍にあやかりたいとの願いを込めて龍山を名乗る。会社では絵付けを担当し、ベストセラー商品にも携わる。この頃より有田焼の香蘭社の9代深川栄左衛門の女婿であった水野和三郎に師事。同時期、佐賀県は窯業の振興のため後継者育成事業として轆轤の実技指導を行う。龍山もこの事業で、磁器大物成型の轆轤で記録措置を講ずべき無形文化財に選択された初代奥川忠右衛門に轆轤技術を学ぶ。帰郷した同年、有田陶磁器コンクールで1等受賞。翌年には同展で知事賞を受賞する。そして秋に第10回日展に染付「花紋」大皿を初出品し入選。55年、田中綾子と結婚し、夫婦での作陶生活が始まる。56年、青木兄弟商会は有田陶業と改名するも倒産し、会社の窯が使えなくなる。以降、63年に伯父の資金協力を得て自宅に念願の窯を持つまで仮窯生活を送る。その後は、フリーの陶磁器デザイナーとして生計を立てながら日展入選を目指し、個人作家として生きる道を決意する。当初は染付、染錦の作品での出品が多いがその後制作の重心を天目へと定めていく。日展へは毎年出品し、入選、特選候補となるが特選とならずに創作活動に悩む。71年、第3回日展において「豊」が特選。翌年より日展に出品する作品は天目による「豊」シリーズが多くなる。73年、第12回日本現代工芸美術展で「豊延」が、会員賞および文部大臣賞受賞。81年、社団法人日本現代工芸美術家協会理事に就任。81年、社団法人日展会員。88年、第27回日本現代工芸美術展で天目「韻律」が、文部大臣賞受賞。同年、社団法人日展評議員に就任。翌年、横浜高島屋にて「青木龍山・清高父子展」を開催。1991(平成3)年、第22回日展出品作「胡沙の舞」にて日本芸術院賞受賞、日展理事に就任する。東京高島屋において、第30回記念日本現代工芸美術秀作展及び選抜展に出品。フランクフルト工芸美術館(ドイツ)における海外選抜展に父子ともに出品が決定する。佐賀県政功労者文化部門にて知事表彰、佐賀新聞社芸術部門の佐賀新聞文化賞を受賞。93年には博多大丸において個展を開催、日本芸術院会員に就任。第52回西日本文化賞受賞。社団法人日本現代工芸美術家協会副会長、及び社団法人日展常務理事に就任する。博多大丸にて日本芸術院会員就任記念「青木龍山回顧展」を開催。同年、日展審査員を委嘱、翌年には日本橋三越特選画廊にて個展を開催。95年、『日本芸術院会員 青木龍山 ひたすらに』を佐賀新聞社より刊行。97年、三越にて「青木龍山作陶展」開催。99年、文化功労者となる。2000年、佐賀大学文化教育学部美術工芸科客員教授に就任。大英博物館で開催された佐賀県陶芸展に天目「春の宴」と油滴天目「茶盌」を出品。同年、『陶心一如青木龍山聞書』(荒巻喬、西日本新聞社)を刊行。05年、佐賀で初めて文化勲章を受章する。

辻清明

没年月日:2008/04/15

読み:つじせいめい  陶芸家の辻清明は4月15日肝臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年81。1927(昭和2)年1月4日東京府荏原郡(現、東京都世田谷区)に生まれる。少年の頃より陶芸に興味を持ち、11歳のときより轆轤を学ぶ。41年、14歳の時には姉・輝子とともに辻陶器研究所を設立し、倒焰式窯を築く。また、この頃から富本憲吉や板谷波山のもとで学ぶ。43年、高島屋でやきものの文房具類を常設展示。徴用で立川の日立航空機の工場で働く。48年、富本憲吉を中心とする新匠美術工芸会展に出品。同年、札幌の北海道拓殖銀行ロビー、丸井デパートで個展を開催。49年、新たにガス窯を築き低火度色釉を施した作品の試作に成功。51年、同志と「新工人」会を設立し、以後約十年にわたって活動する。52年、第一回新工人展を開催。同年、光風会展に出品し、2年連続で光風会展出品工芸賞受賞。53年、1月和田協子(協)と結婚。漆工芸家であった協子も新工人のメンバーであった。55年多摩市連光寺の高台に辻陶器工房を設立し、3室の登窯を築窯。信楽土で自然釉の掛かった作品を作り始める。同年、現代生活工芸協会賞を受賞。56年、朝日新聞社主催現代生活工芸展審査員、62年妻の協子とともに、辻清明・辻協新作陶芸展を日本橋三越で開催し、以降たびたび二人展を行う。翌年から画廊現代陶芸代表作家展等に出品する(75年まで)。63年、五島美術館にて個展を開催、アメリカ合衆国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」を納める。64年、日本陶磁協会賞を受賞、現代国際陶芸展招待出品。65年日本陶磁協会賞受賞作家展に出品する。以降2006年まで毎年出品する。同年にはアメリカ・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」を納める。67年、米国ペンシルバニア州立大学美術館に「信楽窯変花生」が所蔵される。68年には京都国立近代美術館および東京国立近代美術館主催「現代陶芸の新世代」展に招待出品。69年、三越日本橋店にて「辻清明陶芸二十五周年展」を開催する。翌年、京都国立近代美術館に「信楽壺」が所蔵される。70年、東京国立近代美術館に「球と方形の対話」が買上、京都国立近代美術館主催「現代の陶芸展―ヨーロッパと日本―」展に招待出品。翌年より2005年まで毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品、第1回、第2回海外巡回展に選抜される。73年西ドイツのヘニッシ画廊にて個展を開催、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶盌」を納める。その年より75年まで「現代選抜陶芸展」に出品、74年には迎賓館が作品を買上、「ファエンツァ国際陶芸展」に招待出品。76年、「作陶三十五周年記念 辻清明」展を日本橋壺中居にて開催。78年、小田急百貨店画廊にて個展を開催。翌年、日本経済新聞社主催「信楽展」に実行委員として関わり、自身も出品。80年、日本経済新聞社主催「現代陶芸百選展」出品。「炎で語る日本のこころ―辻清明作陶展」を新宿・小田急百貨店にて開催。82年、西武美術館主催の作陶四十五周年記念「炎の陶匠 辻清明」展を開催する。83年日本陶磁協会賞金賞を受賞。86年、作陶五十年記念『辻清明作品集』(講談社)を刊行。87年、多摩の工房が周囲の開発により仕事への支障が懸念されたため長野県穂高町に工房と登り窯を完成させる。しかし、2年後に工房と母屋が蒐集した工芸品・書籍と共に焼失。1990(平成2)年、藤原啓記念賞を受賞する。91年、「辻清明の眼 ガラス二千年展」(清春白樺美術館)では江戸切子などのガラスコレクションを展観、同年自身で制作したガラス器展を銀座の吉井画廊で開催。93年、NHK教育テレビの趣味百科「やきものをたのしむ」に夫婦で出演。96年、『焱に生きる 辻清明自伝』(日本経済新聞社)を刊行。2003年ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の「日本―写真と陶芸―伝統と現代」展に招待出品。06年、東京都名誉都民となる。翌年、「美の陶匠 辻清明傘寿展」を大阪梅田阪急にて開催。精力的な活動は没後の10年刊行の『独歩 辻清明の宇宙』(清流出版株式会社)に詳しい。女性で初めて日本陶磁協会賞を受賞した妻、協子も08年、7月8日肝臓がんのため死去。享年77。

古川吉重

没年月日:2008/04/10

読み:ふるかわよししげ  抽象画家の古川吉重は4月10日、入浴中に倒れ、死去した。享年86。1921(大正10)年12月19日、福岡県福岡市大工町87番地に生まれる。国文学者で書画をよくした佐賀藩士古川松根は曽祖父にあたる。1928(昭和3)年、福岡市簀子小学校に入学するが病弱のため同年退学し、29年に再入学して35年に卒業。同年、中学修猷館(現、修猷館高校)に入学する。同校在学中の36年より杉江春男に師事してデッサン、油彩画を学ぶ。39年中学4年を修了し、東京美術学校(現、東京芸術大学)油画科に入学。田辺至にデッサンを学び、夜は鈴木千久馬研究所に通う。40年東京美術学校の南薫造教室に入る。同教室の同期生に藤間清があり、後に先輩の野見山暁治が病気のため同期となる。43年9月、東京美術学校を繰上げ卒業。44年郷里に帰り当仁小学校教師となって図工を受け持つが、同年5月応召し海軍気象兵となる。45年終戦とともに復員し、当仁小学校に復職。翌46年香椎高等女学校に転任して美術を担当。同年新興美術展(日本橋三越)に入選。1947年第15回独立美術協会展に「風景(C)」「樹と建物」で初入選。以後、同展に出品を続ける。49年第17回独立展に「人物」「女」「裸婦」を出品し、独立美術賞受賞。55年サエグサ画廊で初個展を開催する。このころはキュビスムに学んだ画風を示した。56年福岡大丸デパートでの個展に25点を出品。57年第9回読売アンデパンダン展に「廻転」を出品し、以後同展に出品を続ける。一方、独立美術協会には不満を抱き、58年に同会を退会。同年、吉田穂高などによるグループ「野火」、および、岡本太郎、難波田龍起らによる総合的現代美術グループ「アートクラブ」に参加する。62年第5回現代日本美術展コンクール部門に「昼―5」で入選。63年第2回丸善石油奨励賞選抜展に入選。同年7月それまで勤務していた代々木小学校を退職し、同年9月にニューヨークで開催される世界美術家会議のオブザーバーとして渡米する。当初はヨーロッパへ向かう予定であったが、ニューヨークにとどまり、64年第15回ニューイングランド展に入選する。以後、68年まで同展に出品。73年9月、ニューヨークの新築ビルであるグレイスの社内食堂に壁画を描く。74年11月ソーホーのロータス画廊で個展を開催し、71年頃から始めたカンヴァスによるコラージュ作品等を発表する。76年13年ぶりに帰国し、フマ画廊で個展を開催。翌年、欧州巡遊の旅をし、ニューヨークに帰る。81年8月東京のギャラリー山口で個展を、1989(平成元)年1月、コンデッソ・ローラー画廊(ソーホー)で個展を開催。同展は15年ぶりのニューヨークでの個展となった。92年3月福岡市美術館で「古川吉重展」が開催され、6月には国立国際美術館で「近作展11 古川吉重」が開催された。初期には具象画を描いたが、1950年代に幾何学的抽象表現へ移行、1968年には画面に同じ大きさの小円を規則的に並列し、明度差のない色面で構成するミニマル・アート的な表現を行った。71年からはカンヴァス・コラージュを行い、徐々にゴムなどの素材と合わせて異なる材質感による構成を試みるが、78年から油彩による表現にもどり、モノクロームの幾何学的抽象から、80年代には色彩を取り入れた構成に向かった。

白髪一雄

没年月日:2008/04/08

読み:しらがかずお  足で絵を描くフット・ペインティングと呼ばれる独自の技法を確立し、戦後美術を代表する一人として国際的に活躍した白髪一雄は4月8日午前7時25分、敗血症のため兵庫県尼崎市内の病院で死去した。享年83。1924(大正13)年8月12日、兵庫県尼崎市の呉服商の長男として生まれる。幼少の頃から書画や骨董に親しみ、旧制中学時代に画家を志すようになる。東京美術学校(現、東京芸術大学)への進学を夢見るが、家業を継がせたい家族の猛反対と、太平洋戦争が勃発し食料や物資の不足が深刻になり始めていたこともあり、自宅から通学可能な京都市立絵画専門学校(現、京都市立芸術大学)へ1942(昭和17)年に入学。当時同校には図案科と日本画科しかなく、入学したのは日本画科であった。しかし日本画へは興味を示さず、48年同校卒業後は洋画に転向、大阪に新設された市立美術研究所に通い、次に新制作派協会(51年に新制作協会に改称)の会員だった芦屋在住の洋画家、伊藤継郎のもとで更なる研鑽を重ねる。新制作派協会の関西展や東京本展で、童話的な主題による具象画を発表。その後、52年に大阪で発足した現代美術懇談会(ゲンビ)に参加するなど前衛美術に傾倒し、同年新制作協会の村上三郎、金山明、田中敦子らと「芸術はなにも無い0の地点から出発して創造すべきだ」として0会を結成。ペインティングナイフや指を多用した作品を経て、54年の0会の展覧会で、初めて足で制作した作品を発表する。55年、0会は芦屋在住の吉原治良が若い美術家たちと結成した前衛美術グループ、具体美術協会から合流の誘いを受け、参加。以後、同協会を活動の舞台とし、なかでも55年7月に芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」で赤い丸太に斧で切り込んだ「赤い丸太」を、同年10月に東京、小原会館で開催された第1回具体美術展では庭に置いた約1トンの泥の中で格闘する「泥にいどむ」を、そして57年5月と7月に大阪、産経会館と東京、産経ホールで開かれた「舞台を使用する具体美術」には「超現代三番叟」を発表、激しいアクションを物体に定着させた立体作品やパフォーマンスを試みた。その一方で足による制作も続けたが、57年フランス人美術評論家のミシェル・タピエが来日、タピエの提唱するアンフォルメルを体現する絵画として位置づけられ、国際的にも高く評価される契機となる。この時期、愛読していた『水滸伝』の豪傑のあだ名を作品に付した「水滸伝」シリーズを開始。59年イタリア、プレミオ・リソーネ国際展で買上げ賞を受賞。62年パリのスタドラー画廊、トリノのノティティエ画廊で個展を開いて以降フランス、イタリア、ドイツなど海外でも個展を開催。65年第8回日本国際美術展に「丹赤」を出品して優秀賞を受ける。「丹赤」では素足ではなくスキー板を履いて制作し、以後板や棒を用いて画面に襞や扇状の半円を作り出し、画面に流動感を与えるようになる。70年には比叡山に上って天台座主の山田恵諦大僧正に教えを請い、翌年得度し、「素道」の法名を授けられる。72年具体美術協会解散後も個展を中心に活動するが、密教との出会いを機に、その作風は宗教性を深めた。2001(平成13)年に兵庫県立近代美術館で回顧展を開催。没後の09年から10年にかけて「白髪一雄展―格闘から生まれた絵画」が、安曇野市豊科近代美術館・尼崎市総合文化センター・横須賀美術館・碧南市藤井達吉現代美術館を巡回して開催、画業の全貌が回顧された。

金子裕之

没年月日:2008/03/17

読み:かねこひろゆき  考古学者で奈良文化財研究所(奈文研)名誉研究員・奈良女子大学特任教授であった金子裕之は3月17日、癌のため奈良市内の病院で死去した。享年63。1945(昭和20)年2月16日に富山県高岡市に生まれる。70年國學院大學大学院文学研究科を修了、同年神奈川県高座郡座間町立座間中学校の教員となり、2年間を過ごす。72年4月に奈良国立文化財研究所文部技官として採用され、その後一貫して奈良の地を拠点として考古学研究に従事した。86年以降、奈文研平城宮跡発掘調査部考古第一調査室長をはじめとして飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センターで室長を歴任し、1999(平成11)年から2005年まで奈良女子大学大学院人間文化研究科教授を併任した。1999年に奈文研埋蔵文化財センター研究指導部長、2001年に独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、03年に飛鳥藤原宮跡発掘調査部長となり、05年4月退職。以後奈良女子大学特任教授として教育・研究に貢献した。金子の研究の対象には、学生時代からの関心でありつづけた縄文文化、奈良に赴任してからのフィールドとなった飛鳥や平城京の調査研究を契機とした我が国古代の都城制、それに出身大学の学的伝統でもある神祇への関心に発する古代祭祀という三つの大きな柱があった。金子はそのいずれについても、日常業務の多忙さの中にありながらも、重厚な成果を積み重ねていった。個別の論文は枚挙にいとまがないので、著書のいくつかに限って言及しておこう。『日本の美術 まじないの世界Ⅰ』(至文堂、1996年)は金子の畢生の研究テーマであった祭祀についての総説ともいうべき好著で、縄文時代から古代にわたる壮大な歴史の流れの中に脈々と生き続ける「まじない」、「まつり」のありようを、考古資料を駆使して生き生きと叙述した。同年に刊行された金子著の『歴史発掘12 木簡は語る』(講談社)でも浩瀚な知識に裏付けられつつ、自身の独自の研究成果を基軸にして、わかりやすい表現で古代人の精神生活のありようが解き明かされている。こうした闊達な文章表現は金子の真骨頂とするところで、本来堅苦しくなりがちな学術成果を、解きほぐすような筆致で語りかける文章術は類まれなものであった。金子の、はからざる晩年の関心は庭園遺跡の史的位置づけに重点がおかれたように思える。平城宮の内外での発掘調査でみつかった幾多の庭園跡をどのように位置づけるべきか。金子は、庭園は皇権さらには都城に関わる祭祀と結合すると考え、関連する国内外の研究者を糾合して庭園の史的論理の追究に努力を傾注した。その成果の一端は2002年に刊行した編著『古代庭園の思想―神仙世界への憧憬―』(角川選書)に結実しているが、まだ道半ばというところであった。金子の研究姿勢は、総じて峻烈であった。徹底的に事実に拘泥し、妥協を許さず、一言一句をゆるがせにしなかった。時として挑戦的で、しかし、いくつもの研究会を組織したことや多くの編著書が物語るように、調和、調整そして総合を重んじる人でもあった。発掘や整理作業に従事する人々に寄せる優しい気配りは、その峻厳な風貌からは窺いがたいものの、近くに過ごす者達の等しく知るところであった。

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