本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





川本末雄

没年月日:1982/12/24

日展参事の日本画家川本末雄は、12月24日午前7時33分、心不全のため鎌倉市の自宅で死去した。享年75。1907(明治40)年熊本県玉名市で生まれる。29年東京美術学校日本画科に入学し、33年卒業、松岡映丘に師事する。38年映丘が没したため、翌39年より山口蓬春に師事、48年第4回日展に「水辺薄日」が初入選、翌29年第5回日展で「夕映」が特選、53年第9回日展「朝の渓谷」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞する。その後依嘱出品を続け、58年以来数度にわたって審査員をつとめる。59年日展会員、68年評議員となり、71年第3回改組日展「新秋譜」が文部大臣賞、また75年第7回日展出品作「春の流れ」で翌76年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。いずれも大和絵の伝統に現代的解釈を加えた清雅な風景画である。77年日展理事、80年同参事となる。また54年以来現代日本美術展にも数次出品、80年には東大寺昭和大納経で揮毫、82年勲四等旭日小授章を受章する。主な作品は上記のほか「浜風」(64年第7回社団法人日展)「雪の並木」(68年第11回日展)「秋耀」(70年第2回改組日展)など。日展出品歴1948 4回日展 「水辺簿日」1949 5回日展 「夕映」特選1950 6回日展 「早春の朝」依嘱1951 7回日展 「晩秋」1952 8回日展 「杉木立の風景」1953 9回日展 「朝の渓谷」特選、白寿賞、朝倉賞1954 10回日展 「倒影」依嘱1955 11回日展 「虹鱒」依嘱1956 12回日展 「秋瀑」依嘱1957 13回日展 「晨湖」依嘱1958 1回社団法人日展 「錦秋」審査員1959 2回社団法人日展 「冬日」会員1960 3回社団法人日展 「残雪」1961 4回社団法人日展 「鶏頭」1962 5回社団法人日展 「月明」1963 6回社団法人日展 「広野」審査員1964 7回社団法人日展 「浜風」1965 8回社団法人日展 「沼」1966 9回社団法人日展 「宵」1967 10回社団法人日展 「うしお」審査員1968 11回社団法人日展 「雪の並木」評議員1969 1回改組日展 「暁光」1970 2回改組日展 「秋耀」1971 3回改組日展 「新秋譜」文部大臣賞、審査員1972 4回改組日展 「湿原の夏」1973 5回改組日展 「朝」1974 6回改組日展 「苔樹」審査員1975 7回改組日展 「春の流れ」翌76年芸術院恩賜賞1976 8回改組日展 「流れ」1977 9回改組日展 「凍沼晨」理事1978 10回改組日展 「山の朝」審査員1979 11回改組日展 「峡谷」

山中信夫

没年月日:1982/12/14

美術という枠組そのものについて再考し、斬新な活動を続けていた山中信夫は、ニューヨークにおいて現地時間12月14日、敗血病のために客死した。享年34。1948(昭和23)年3月20日、大阪府に生まれ、69年多摩美術大学油絵科に入学する。大学紛争により、同年、同大学は全学封鎖され、山中はこの中で美術家共闘会議を結成し、70年より「美術史評」の同人となり同誌の編集にたずさわる。同年、多摩美術大学を除籍される。71年、第1次美共闘REVOLUTION委員会に参加し、1年間美術館、画廊の使用を中止する。同年、多摩川の川面に川の流れを撮った16ミリ映画を映写する「川に川を写す」という作品を発表し、注目される。72年、第2次美術史評社に参加。同年ピンホール・カメラによる作品を発表する。74年、第2次美共闘REVOLUTION委員会に参加し、1年間制作・発表を中止するが、翌年より活発に個展を行ない、ピンホール・カメラによる作品を展開させる。76-77年パリに、79-80年ブラジルに住む。82年パリ・ビエンナーレに出品して好評を得、パリ、ニューヨークでの個展が決まり、その下見の為に渡米中の客死であった。

竹内敏雄

没年月日:1982/12/12

東京大学名誉教授、日本学士院会員、日本を代表する美学者竹内敏雄は、12月12日午前5時35分、心不全のため神奈川県大磯町の石山整形外科病院で死去した。享年77。明治38(1905)年7月11日、愛知県豊橋市に生まれた。大正14年に第一高等学校を卒業後、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、昭和4年に同学科を卒業後、大学院に進み、さらに同学科の副手、助手、講師を経て、昭和22年に助教授、同27年に東京大学文学部美学美術史学科の教授となる。同35年に文学博士。同41年3月東京大学教授を定年退官。同年5月に東京大学名誉教授となり、同45年10月には日本学士院会員に推挙された。 また、昭和25年には京都大学の井島勉教授とともに美学会を創設し、それ以来同57年春まで代表委員として指導運営に当り斯学の発展に尽力したが、それ以後は美学会顧問に推された。また、この間に国際美学会の常任評議委員として度々国際会議に出席、研究発表を行って指導的役割をはたした。 博士は優れた業績を多数遺されたが、そのうちで主要な著書としては、昭和27年『文芸学序説』(岩波書店)、同34年『アリストテレスの芸術理論』(弘文堂)、同42年『現代芸術の美学』(東大出版会)、同46年『塔と橋-技術美の美学-』(弘文堂)、同54年『美学総論』(弘文堂)などがあり、この他に多数の論文が定期刊行物等に発行された。さらにこれらの研究と平行して昭和31年からヘーゲルの『美学』(岩波書店)の翻訳を開始し、同36年には、次代の研究者を集めて編纂した『美学事典』(弘文堂)を刊行した。ヘーゲル『美学』は昭和56年に全3巻(9冊)をもって完結した。なお昭和34年刊行『アリストテレスの芸術理論』により東京大学より文学博士の学位を授けられ、同書に対してはさらに昭和35年5月、日本学士院賞が授与された。

山脇洋二

没年月日:1982/12/11

東京芸術大学名誉教授、日展理事の彫金家山脇洋二は、12月11日食道ガンのため東京都大田区の自宅で死去した。享年75。明治40(1907)年12月2日、大阪市北区に生まれ、昭和5年東京美術学校金工科彫金部を卒業する。同6年第12回帝展に「照明器」が初入選し、同11年新文展招待展に「鍛金野牛置物」で、同13年第2回新文展に「銀竜文亀置物」でそれぞれ特選をうける。この間、同8年から14年まで帝室博物館に在籍し、古美術品模造に従事し金工作品の研究複製を行う。同14年東京美術学校嘱託、同18年助教授(同31年東京芸術大学教授)となる。戦後は日展に出品、同21年第2回日展に「舞御堂小箱」で特選を受け、翌年最初の日展審査員をつとめる。同33年日展評議員となり、同36年第4回新日展に「金彩游砂額」を出品、同作品で翌年第18回日本芸術院賞を受賞する。同46年日展理事に就任。日展の他、日本現代工芸美術展(同37年第11回より)、URジュウリー展(同38年第5回より)などに出品し、また、同39年日本ジューリーデザイナー協会発足に参画、同46年日本創作七宝協会会長に推され、同50年には社団法人日本新工芸家連盟代表委員となる。この間、同24年法隆寺五重塔秘宝の調査並びに複製、同25-27年正倉院御物金工品の調査研究、同30年薬師寺本尊台座修理委員など、戦後も古美術品の補修、復刻などにあたり、日本美術刀剣保存協会参与(同33年-)、文化財保護審議委員会専門委員(同40年-)もつとめた。同50年東京芸術大学を定年退官し、同大学名誉教授の称号を受ける。同54年勲三等旭日中綬章を受章。同56年からは山梨県立宝石美術専門学校初代校長をつとめた。戦後の作品に「蜥蠋文硯箱」(3回日展)、「啼く」(5回新日展)、「金彩聖額」(10回日本現代工芸展)、「金彩奏でる額」(12回改組日展)などがある。没後、同59年に「山脇洋二 金工の世界」展が渋谷区立松涛美術館で開催された。

和田金剛

没年月日:1982/12/08

日展評議員の木彫作家和田金剛は、12月8日心不全のため東京都大田区の田園調布中央総合病院で死去した。享年75。明治40(1907)年7月23日静岡県沼津市に生まれ、静岡県立韮山中学校を卒業。昭和8年第14回帝展に「星河」が初入選し、以後帝展、新文展に出品、同16年の第4回新文展に「海紅」で特選を受けた。戦後は日展に出品し、同45年第2回日展に「幻花」で文部大臣賞を受賞。この間、同33年日展会員となり、同39年日展評議員となる。日展への出品作に、「杜の精」(同21年)、「たそがれ」(同33年)、「人」(同39年)、「祈り」(同53年)などがある。

亀田孜

没年月日:1982/12/05

東北大学名誉教授、文化財保護審議会専門委員の亀田孜は、12月5日急性心不全のため、旅行先の福島市飯坂町で死去、享年76。1906(明治39)年3月4日、吉野臥城(甫)の三男として宮城県角田市に生まれ、1922年亀田よねの養子となる。宮城県立第一中学校、第二高等学校理科甲類を経て、26年東北帝国大学法文学部に入学、29年同東洋芸術史学科を卒業、62年3月「白鳳後期美術の諸形相」により東北大学より文学博士の学位を授与される。職歴は29年東北大学助手、30年同副手となり、33年副手を解嘱、京都日之出新聞社学芸部嘱託となり『京都社寺名宝鑑』の編集に従事す。34年帝室博物館鑑査官補に任じ、奈良帝室博物館に勤務、44年帝室博物館鑑査官に昇任、以来50年東北大学助教授に補せられ、文学部東洋芸術史学科を担当するまで、奈良国立博物館に勤務。52年東北大学文学部教授に昇任。69年東北大学を退官、同大学名誉教授の称号を授与された。この間、53年に宮城県文化財調査委員、54年に岩手県文化財専門委員、61年に仙台市博物館協議会会長、66年に文化財専門審議会(文化財保護審議会)委員となり、また、38年~39年にベルリン開催の「日本古美術展覧会」のためドイツに出張、その功により40年、ドイツ国政府より「フェル・ディーンストクロイツ、ドリツテル・シュツーフェ・アードレル」勲章を授与され、55年には宮城学院女子大学講師(非常勤)となった。東北大学退官後も上記の委員や講師を続けるほか、70年~71年にプリンストン大学客員教授、72年に東北学院大学講師(非常勤)となり、学界・文化財行政に寄与し、76年11月、勲三等旭日中綬章を授与された。 その専門は日本仏教美術史で、東北大学在学中より同大教授福井利吉郎の学風を受け、広い視野の研究態度をとり、作品の実証的研究には光学的研究法を採用して、より客観的正確に対象を鑑識することを行い、わが国大学での美術史教育でこの種の研究方法を講じた最初といえる。さらに、こうした作品の鑑識をもとにして、作品の現象面だけでなく、その製作背景、基層にある信仰、経典の解釈、造形精神、時代思想等々にまで論及したうえで美術史的解釈が行われる。その論著は別記の著作目録に示す通りである。 著作目録1 著書日本仏教美術史叙説 学芸書林 昭和45年4月仏教説話絵の研究 東京美術 昭和54年2月雪村 日本美術絵画全集8(集英社) 昭和55年12月2論文京都社寺名宝鑑・大徳寺篇・西本願寺篇 芸艸堂 昭和8年6・7月日本肖像画図録解説 奈良博物館特別展図録 昭和10年4月一乗寺天台高僧像私見 日本肖像画図録 昭和10年4月太子勝鬘経御講讃図 文化 昭和10年11月金剛峯寺仏涅槃図解説 東洋美術 昭和11年7月法隆寺金堂の壁画について 星岡 昭和11年9月公刊 本尊目六 美術研究 昭和11年10月南都絵師の画蹟 宝雲 昭和12年8月瑠璃寺不動明王像解説 東洋美術 昭和12年12月藤原美術聚英解説 奈良博物館特別展図録 昭和13年2月鞆淵八幡社の白描縁起 清閑 昭和13年10月仁和寺蔵聖僧像解説 仏教図像複製刊行会 昭和15年5月長谷能満院の春日浄土曼荼羅 国宝 昭和15年6月平家納経図録 奈良博物館特別展図録 昭和15年6月石山寺蔵倶力迦羅三童子像解説 仏教図像複製刊行会 昭和15年8月理性院蔵祖師像解説 仏教図像複製刊行会 昭和15年12月十二神将の巳神像 星岡 昭和16年1月聖皇曼荼羅図説 日本上代文化の研究 昭和16年4月平家納経雑俎 美術研究 昭和16年6月園城寺不動明王八大童子画像 清閑 昭和16年7月仁和寺蔵十二神将解説 仏教図像複製刊行会 昭和16年7月法隆寺流記資材帳に見ゆる諸尊 文化 昭和17年6月春日明神の垂迹形 上・下 国宝 昭和17年8・10月奈良時代の弥勒浄土 古美術 昭和17年11月公刊 南円堂御本尊以下御修理先例 美術研究 昭和18年1月公刊 長谷寺焼失 美術研究 昭和18年1月勧修寺の釈迦説法図繍帳 美術研究 昭和18年3月船中湧現観音像をめぐりて 密教研究 昭和18年3月矢田寺所見 清閑 昭和18年5月行林抄のこと(事相書目研究の一) 国宝 昭和18年6月大仏蓮辨の鐫刻画 古美術 昭和18年10月九条兼実の春日社と南円堂信仰 国宝 昭和18年10月東大寺華厳五十五ケ所絵小考 清閑 昭和18年11月東征伝縁起幽考 唐招提寺論叢 昭和19年2月信貴山縁起絵巻修理改装の記 文化 昭和19年9月青不動画 名品手帖 昭和19年9月園城寺黄不動抄 密教研究 昭和19年10月弥勒菩薩図像集解説 鵤故郷舎 昭和21年6月森川杜園 奈良博特別展解説 昭和21年9月正倉院御物展観の栞 近畿日本鉄道 昭和21年10月正倉院御物についての断想 三彩 昭和22年1月麻布墨画菩薩と仁王会と 上・下 国華 昭和22年2・3月京阪神家蔵古美術展覧会の仏画 日本美術工芸 昭和22年3月上代美術に見る竹 日本美術工芸 昭和22年5月大円院無量力吼、一乗寺善無畏、龍樹 国華百粋 昭和22年6・10月図像としてみた薬師如来 日本美術工芸 昭和23年4月奈良時代の絵画 博物館ニュース 昭和23年5月広い研究分野 仏教芸術 昭和23年8月奈良時代の祖師像と倶舎曼荼羅 仏教芸術 昭和23年8月御物聖徳太子御影考 美術研究 昭和23年12月壁画災前災後 仏教芸術 昭和24年3月法隆寺の絵画 法隆寺図説 昭和24年4月彩画にむかひて 日本美術工芸 昭和24年4月金堂壁画と塔壁画 総観法隆寺 昭和24年10月法華堂根本曼陀羅新論 仏教芸術 昭和25年2月智光変相拾遺 付智光伝及び智光曼荼羅関係資料 東北大学文学部研究年報 昭和26年12月神光院蔵紫紙金銀泥般若心経の見返し絵 大和文華 昭和27年6月古代の絵画(飛鳥・奈良) 世界美術全集(平凡社) 昭和27年12月正倉院御物中の密陀絵研究 古文化財之科学 昭和29年12月法相祖師像としての慈恩大師画像 仏教芸術 昭和30年4月平安時代の陸奥開拓と平泉の仏教美術文化 東北史の新研究(文理図書出版) 昭和30年8月弥勒浄土像 文化 昭和31年3月平家納経・扇面写経 書道全集(平凡社) 昭和31年4月法華寺阿弥陀三尊画像の意想 上 大和文華 昭和31年6月信貴山縁起虚実雑考 仏教芸術 昭和31年4月正倉院絵画解説 正倉院(毎日新聞社) 昭和31年11月東北の石仏 仏教芸術 昭和31年12月寺院建築と東北文化、絵画工芸彫刻解説 岩手県の文化財 昭和31年12月法華寺阿弥陀三尊画像の意想 下 大和文華 昭和32年2月高蔵寺の仏像 宮城県文化財調査報告書 昭和33年3月粉河寺縁起絵巻綜考 大和文華 昭和33年9月興福寺の絵画と絵所絵師 仏教芸術 昭和34年9月中尊寺の絵画 中尊寺(朝日新聞社) 昭和34年11月華厳縁起について 日本絵巻物全集 昭和34年12月飛鳥奈良時代絵画、平安前期絵画 日本美術全史 上 昭和34年12月平安前期の美術、神秘とみやび 世界美術全集(角川書店) 昭和36年7月橘在列賛の延暦寺東塔法華三昧堂の大師影像壁画 かがみ 昭和36年8月薬師寺仏足石と仏跡図本の論考 仏教芸術 昭和37年12月東征伝絵巻について 日本絵巻物全集 昭和39年4月仏跡の伝来と観智院の仏足図 仏教芸術 昭和39年8月中尊寺供養願文雑事 日本文化研究所研究報告 昭和40年3月吉祥天像と上代の金光明経の美術 薬師寺(近畿日本叢書5) 昭和40年6月周継雪村の瀟湘八景図 日本文化研究所研究報告 昭和41年3月法隆寺金堂の壁画 法隆寺壁画と金堂(朝日新聞社) 昭和43年9月経絵について 大和文華 昭和44年4月絵因果経からみた仏伝の美術 日本絵巻物全集(角川書店) 昭和44年4月チベット造形資料によるX線調査報告 文化 昭和44年9月推古朝の美術 文化 昭和44年9月法華経見返絵と中尊寺経絵 仏教芸術 昭和44年10月仏教美術の開化と画工の活躍 日本絵画館1原始・飛鳥(講談社) 昭和45年5月中宮寺天寿国繍帳 日本絵画館1原始・飛鳥(講談社) 昭和45年5月玉虫厨子と橘夫人厨子 日本絵画館1原始・飛鳥(講談社) 昭和45年5月法隆寺金堂壁画 日本絵画館1原始・飛鳥(講談社) 昭和45年5月法隆寺金堂釈迦三尊像の台座絵と金堂の天蓋 日本絵画館1原始・飛鳥(講談社) 昭和45年5月東北古美術雑話 日本文化研究所研究報告別巻7 昭和45年7月肖像画概説 原色日本の美術23「面と肖像」(小学館) 昭和46年6月東北地方の仏像彫刻概観-平安初期・中期- 仏教芸術85 昭和47年4月東北の仏教彫刻 家庭と電気(東北電力) 昭和47年8月ボストン美術館所蔵新羅明神と脇侍とする弥勒如来像 仏教芸術90 昭和48年2月厳島願経と平清盛 古美術45 昭和49年8月平家納経の絵と今様の歌 仏教美術100 昭和50年2月仏涅槃図 日本の仏画(学習研究社) 昭和51年7月吉祥天像・倶舎曼陀羅 日本の仏画(学習研究社) 昭和53年1月法隆寺の法華経関係の美術 仏教芸術132 昭和55年9月信貴山縁起絵巻 『やっとはたち』(フジヤ画廊20周年記念誌) 昭和57年10月

海野建夫

没年月日:1982/11/17

日展参事、東京学芸大学名誉教授の彫金家海野建夫は、11月17日午前零時、心筋コウソクのため東京・杉並区の自宅で死去した。享年77。1905(明治38)年6月15日、東京・上野に生まれる。21年吉川霊華に師事するが、東京美術学校で彫金を学び28年金工科彫金部を卒業、研究科に進み31年修了する。在学中の29年第10回帝展に「彫金花盛器」が初入選、32年第13回帝展で「鉄製ファイヤースクリン」が特選となり、37年パリ万国博覧会「秋手鏡」が銀賞を受賞する。戦後日展で49年以後たびたび審査員をつとめ、50年より依嘱出品、58年会員、61年評議員、67年第10回日展「春想」が内閣総理大臣賞を受賞する。また51年東京学芸大学講師、翌年教授となり、69年まで後進を指導、定年退官後名誉教授となった。一方、光風会では55年会員となり、以後審査員、評議員をつとめ69年理事、また66年現代工芸美術家協会参与、78年日本新工芸家連盟代表委員となる。70年には前年の第1回改組日展出品作「雨もよい」により第26回日本芸術院賞を受賞した。伝統的な彫金法にメタリックな現代的感覚を加えた独自の作風で知られた。73年日展理事、78年参事となり、また60年日本体育協会のオリンピック・ローマ大会芸術視察員、64年東京オリンピック大会芸術特別委員会幹事、このほか日本オリンピック委員・日本スポーツ芸術協会副会長などもつとめた。73年茨城文化賞、75年勲三等瑞宝章受章、没後正五位に叙せられた。1929 第10回帝展 「彫金花盛器」1930 第11回帝展 「彫金飾銅扉」1931 第12回帝展 「櫃」1932 第13回帝展 「鉄製ファイヤースクリン」特選1933 第14回帝展 「彫金壁掛」1934 第15回帝展 「鉄布目象嵌相駿ノ図小筥」1936 第1回改組帝展 「鷺九筥」1936 文展鑑査展 「蛾花瓶」1936 文展招待展 「蛾花瓶」1939 第3回新文展 「四分一香炉」無鑑査1940 紀元2600年奉祝展 「銀蓬莱花瓶」1943 第6回文展 「独立・四分一硯屏」無鑑査1946 第1回日展 「煙火箱」1946 第2回日展 「文箱・海」1947 第3回日展 「蟹文角皿」1949 第5回日展 「金工双酸花盛器」審査員1950 第6回日展 「金工洋酒瓶」依嘱1951 第7回日展 「大皿」依嘱1952 第8回日展 「黒味銅壷」依嘱1954 第10回日展 「赤銅花器」審査員1955 第11回日展 「魚文花器」依嘱1956 第12回日展 「鳥文花器」依嘱1957 第13回日展 「楽園・花器」依嘱1958 第1回社団法人日展 「ある壁画へ・メデューサ」会員1959 第2回社団法人日展 「八乳花器」会員・審査員1961 第4回社団法人日展 「裏街」評議員1962 第5回社団法人日展 「谷底の天国」評議員1963 第6回社団法人日展 「丘の洞」評議員・審査員1964 第7回社団法人日展 「見附」評議員1965 第8回社団法人日展 「翼のある花器」評議員1966 第9回社団法人日展 「白馬家族」評議員1967 第10回社団法人日展 「春想」評議員・内閣総理大臣賞1968 第11回社団法人日展 「合戦」評議員1969 第1回改組日展 「雨もよい」評議員1973 第5回改組日展 「求道」理事・審査員1974 第6回改組日展 「白い梟」理事1975 第7回改組日展 「洋犬」理事1976 第8回改組日展 「曲馬」理事・審査員1977 第9回改組日展 「孤高」評議員1978 第10回改組日展 「虞美人草」参事1979 第11回改組日展 「白雉不動」理事1981 第13回改組日展 「初霜」参事1982 第14回改組日展 「白鳥座・盤」参事

野口昻明

没年月日:1982/11/15

時代小説の挿絵画家として知られる野口昻明は、11月15日午後10時58分、心筋コウソクのため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年73。1909(明治42)年8月17日名古屋市に生まれ、本名久夫。26年愛知県立工業学校図案科を卒業、その後上海に赴き、30年帰国、上京して挿絵画家小田富弥に師事する。35年中里介山の依頼により代表作「大菩薩峠絵本」の挿絵を描き、以後、伊東深水に入門し美人画も学んだ。44年日月社賞を受賞、49年第5回日展に「群像」が入選する。この後、日本経済新聞、毎日新聞、産経新聞、講談社、文藝春秋、新潮社、週刊読売、週刊朝日等に連載物の挿絵を担当、時代小説の挿絵画家として活躍した。挿絵の主な作品に、『大菩薩峠絵本』のほか池波正太郎の『堀部安兵衛』、今東光の『弁慶』、永井路子『王者の妻』、藤沢周平『孤剣抄』、杉本苑子『孤愁の岸絵巻物』などがある。東京、大阪、神戸等で個展開催。また日本作家クラブ、東京作家クラブに所属。

番浦省吾

没年月日:1982/10/15

日展参事の漆芸家番浦省吾は、10月15日、心不全のため死去した。享年81。1901(明治34)年2月24日石川県七尾市に生まれる。15年七尾尋常高等小学校を卒業し、初め画家を志すが、21年より蒔絵の技術を習得、漆芸の道に入る。24年頃京都に出て、30年第11回帝展に「秋之夜蒔絵棚」が初入選、36年文展鑑査展で「草花図彩漆衝立」が選奨となり、37年のパリ万国博覧会では名誉賞を受賞する。戦後、45年漆芸「創人社」を結成し主宰、53年には解散となるが、新たに朱玄会を結成した。しかし主たる活躍の場は日展であり、47年第3回日展以後たびたび審査員をつとめ、49年より依嘱出品、56年第12回日展に「双蛸図漆貴重品筥」を出品している。58年評議員、62年会員となり、同年の第5回日展出品作「象潮」により翌年日本芸術院賞を受賞した。その後71年理事、76年参与、80年参事となる。また66年大阪・四天王寺極楽門に「釈迦十大弟子」等四面の漆絵大壁画を制作した。代表的作品には上記のほか「春の海」(74年)「日のある風景」(76年)「陽と菜」(78年)「浜千鳥手文庫」(80年)などがある。海や雲などに多く主題をとり、漆に金属も用いた斬新な作風を見せた。また、71年京都漆芸家協会を設立し会長に就任。72年京都府美術工芸功労者、74年京都市文化功労者として表彰され、京展、大阪市総合美術展、兵庫県美術展等の審査員もつとめるなど、関西漆芸界の中心として活躍した。79年日本新工芸家連盟創立委員、81年勲四等旭日小綬章受章。 主要出品歴1930 第11回帝展 「秋之夜蒔絵棚」1931 第12回帝展 「運動による構成、海と山と空・蒔絵衝立」1934 第15回帝展 「水辺譜彩漆衝立」1936 文展鑑査展 「草花図彩漆衝立」選奨1936 文展招待展 「草花図彩漆衝立」1938 第2回新文展 「彩漆豌豆之衝立」1940 紀元2600年奉祝展 「漆器双華二曲屏風」1942 第5回新文展 「漆南瓜之図二曲屏風」1944 戦時特別展 「献菜図小屏風」1947 第3回日展 「根菜図四曲小屏風」審査員1949 第5回日展 「漆器双實図小屏風」依嘱1951 第7回日展 「乾漆扁壷」依嘱1952 第8回日展 「菜景・漆衝立」依嘱1953 第9回日展 「野鶴漆衝立」依嘱1954 第10回日展 「双華図漆小屏風」依嘱1955 第11回日展 「想漁図漆衝立」審査員1956 第12回日展 「双蛸図漆貴重品筥」依嘱1957 第13回日展 「漆衝立 濤」依嘱1958 第1回社団法人日展 「うしを二曲屏風」評議員1959 第2回社団法人日展 「潮・二曲屏風」評議会・審査員1960 第3回社団法人日展 「夜潮」評議会1961 第4回社団法人日展 「壁面装飾(川)」評議会1962 第5回社団法人日展 「象潮」会員・審査員1963 第6回社団法人日展 「みち潮」評議員1966 第9回社団法人日展 「潮文額」評議員1967 第10回社団法人日展 「山月」評議員1968 第11回社団法人日展 「海と太陽」評議員・審査員1969 第1回改組日展 「双象」評議員1970 第2回改組日展 「青い夜」評議員1971 第3回改組日展 「夜潮」理事・審査員1972 第4回改組日展 「双象」理事1973 第5回改組日展 「海どり」理事1974 第6回改組日展 「春の海」理事1975 第7回改組日展 「山月雲象」評議員1976 第8回改組日展 「潮文」参与1977 第9回改組日展 「潮文」参与1978 第10回改組日展 「陽と菜」参与1979 第11回改組日展 「潮文」参与1980 第12回改組日展 「波の象」参事1982 第14回改組日展 遺作「潮文の貌」参事

仁平有美

没年月日:1982/10/04

元近代日本美術協会副理事長仁平有美は10月4日午後6時50分、心不全のため水戸市の自宅で死去した。享年69。本名丹下豊明。1912(大正元)年11月12日茨城県水戸市に生まれ、28(昭和3)年茨城中学校を卒業する。33年日本美術学校洋画科を卒業。この頃、詩人小森盛、坂本七郎らと詩作活動を活発に行ない、詩誌「歴程」に投稿する。また、高村光太郎のアトリエに出入りし、草野心平らと交友する。35年帝展の改組に伴い第二部会が結成され、同展に「裸婦二容」を出品する。1938年美術誌「詩と美術」社に入社し、40年同社編集長となる。43年から45年まで応召、46年より曾宮一念に師事し、47年第21回展より国画会に出品。同会には49年第23回展までは仁平豊明の名で、50年24回展からは仁平有美の名で、56年第30回展まで出品を続ける。この間49年水戸において洋画団体「茨城洋画会」の創立に参加する。71年「花摘雲」で第三文明賞受賞。73年「日本民話」でル・サロン展銅賞受賞、また、フランス国際展に「桜島」を招待出品する。75年「ノルマンディの月」で近代日本美術協会大賞を受け、77年同会副理事長となる。80年同展に出品した「釧路湿原の丹頂」で内閣総理大臣賞を受賞。茨城美術協会理事、県芸術祭審査員をつとめる。

宮尾しげを

没年月日:1982/10/02

子供漫画の開拓者で民俗芸能研究や随筆家としても知られる宮尾しげをは、10月2日午後7時21分、心不全のため東京都豊島区の自宅で死去した。享年80。1901(明治34)年7月24日、東京・浅草区に生まれ、本名重男。生家は士族商法の鼈甲細工師であったが、大正初年華々しい活躍をしていた漫画家岡本一平に憧れ、漫画家を志す。17才の時岡本一平に師事し、その後新聞社に入社、時代物の冒険談を描いた4コマの連載子供漫画「漫画太郎」を毎夕新聞に掲載する。これは団子串助の前駆を為すもので、23年6月毎夕社出版部より単行本として刊行された。25年、現在の子供漫画のシリーズ形式の走りとなった代表作「団子串助漫遊記」を連載し日本古来の講談世界のナンセンスを展開、100版以上を重ねるベストセラーとなった。この後も歌舞伎や落語等、市井文化を反映させた時代物の子供漫画を発表、大正末から昭和初年にかけて「軽飛軽助」「一休さんと珍助」「今弁慶」等のヒットを飛ばす。大らかな人柄そのままに、とぼけた絵を得意とし、また32年には、音が出たり怪物が飛び出したりする立体的な動く漫画本『あっぱれ無茶修業』を創作した。戦時中、中国を旅行し店の看板ばかりを集めたスケッチ集「支那街頭風物」を出している。しかし、欧米のナンセンス漫画の影響や軍人ファッショの台頭などにより、次第に漫画から離れていく。戦中より戦後は、随筆や民俗芸能の研究を幅広く手がけ、殊に江戸小咄や川柳、文楽人形芝居、郷土芸能などを研究、「文楽人形図譜」「日本祭礼行事事典」「江戸小咄集」「文楽人形」「東京昔と今」「日本の民俗芸能」「芸能民俗学」「江戸街芸風俗誌」「江戸川柳の味い方」「地方狂言の研究」等多数の著書を残した。また文化財保護審議会専門委員、国立劇場専門委員、日本民謡協会顧問、日本民族芸能協会・日本歌謡学会の各理事などをつとめ、日本文芸家協会・日本民俗学会・日本近世文学会・日本演劇学会・日本風俗史学会等の会員でもあった。絵画にも戦後は主に文筆や評論の側から係わり、著書『日本の戯画』(67年)のほか、日本漫画家協会名誉会員、日本浮世絵協会・日版会の理事などをつとめた。65年社会教育功労賞、69年紫綬褒章を受け、75年勲四等に叙せられた。

沢宏靱

没年月日:1982/09/24

創画会創立会員の日本画家沢宏靱は、9月24日病没した。享年77。1905(明治38)年3月18日、滋賀県長沼に生まれ、本名日露支。20年西山翠嶂に入門し、その後一時上京、独学した後、京都市立絵画専門学校選科に入学し、34年卒業する。この間31年の第12回帝展に「機」が初入選し、以後「牟始風呂」(34年)「管春」(38年)「芙渠」(40年)「考古学教室」(42年)等の花鳥・風俗画を帝展・新文展に出品、43年第6回文展で「夕映」が特選を受賞する。また40年の日本画大展覧会(大阪毎日新聞社主催)で「斜影」が大毎・東日賞、43年には野間美術奨励賞を受賞している。戦後、48年創造美術協会結成に参加し、51年には新制作派協会と合流、新制作協会日本画部の会員となり、更に74年新制作を離脱し創画会設立に参加、創立会員となった。新制作での作品に「礁」(53年)「歴層」(62年)「海の対話」(70年)等、また創画展では「寂寥の海」(75年)「染茜」(79年)「鳴門」(81年)などがある。80年京都府美術工芸功労者として表彰を受け、81年滋賀県文化賞を受賞。

仲村一男

没年月日:1982/09/22

独立美術協会会員の洋画家仲村一男は、9月22日午後4時、心不全のため、大阪府岸和田市の自宅で死去した。享年71。1911(明治44)年3月31日、大阪府岸和田市に生まれる。30(昭和5)年頃、大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重に師事する。38年第25回二科展に「志摩風景」が初入選し、翌年同展に「風景」を出品する。このころから45年まで18年間、朝日新聞社大阪本社に勤務。47年、毎日新聞団体連合展に出品するとともに、第15回独立展に「柿の静物」が初入選し、以後独立展への出品を続ける。49年「大漁風景」「山の駅」を第17回展に出品し、独立賞を受賞、56年同会会員となる。またこの頃に中間冊夫、高橋忠弥、斎藤長三ら10名と「鷹の会」を結成し数年にわたり活動する。67年ヨーロッパを取材旅行し以来、ヨーロッパ風景を多く描き、73年、75年にも西欧、中近東へ取材の旅に出ている。ジォットの作風を深く慕い、画家は独自の作風を生み出す為に独自のメチエを持たなくてはならない、という主張のもとに、砂をまぜたあざやかな色彩の絵の具で、明快な作風を持つ絵を描き続ける。没後の83年4月、大阪市立天王寺美術館で独立美術主催の「仲村一男遺作展」が開催された。

大貫松三

没年月日:1982/08/31

立軌会創立会員の洋画家大貫松三は、8月31日午前1時9分、胃ガンのため、川崎市宮前区の聖マリアンナ医科大学病院で死去した。享年76。1906(明治38)年10月3日、神奈川県愛甲郡に生まれる。25年東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作に師事する。同校3年生在学中の28年、第9回帝展に「女と静物」を出品し、初入選する。31年、同校を卒業。同窓生であった須田寿とは以後も交友を続ける。帝展、文展に出品を続け、37年第1回文展に「子供達」(現在京都市美術館蔵)を、翌年第2回文展に「O先生と孫」を出品し、2年連続して特選となる。しかし、41年、阿以田治修らによって創立された創元会に第1回展から出品して官展と袂を分かつ。同会には49年まで参加するが、同年須田寿、牛島憲之らと共に退会し、立軌会を創立する。また、翌50年、六窓会を創立し、同会会員となる。立軌会には15年ほど在籍した後退会し、以後団体に属さず、個展等を作品発表の場とする。人物、静物を描いた作品が多い。

鹿児島寿蔵

没年月日:1982/08/22

紙塑人形の創始者でアララギ派の歌人でもあった人間国宝鹿児島寿蔵は、8月22日午後9時1分、脳血栓のため東京・文京区の日本医科大学付属病院で死去した。享年83。1898(明治31)年12月10日福岡市に生まれる。1913年小学校卒業後、教育材料を作る製作所に就職し、博多人形に彩色する仕事に従事、工場長格だった有岡米次郎が独立すると彼に師事し、人形制作に打ち込む。17年には福岡市内に窯を築いてテラコッタ風の手稔り人形等を作り、20年個展も開催、この間18年一時上京し岡田三郎助の本郷洋画研究所でデッサンを学んでいる。20年人形改革の志を抱いて上京し、30年には野口光彦・堀柳女らと人形美術団体「甲戌会」を結成した。また同年夏頃より和紙を材料とした紙塑の研究に没頭し、コウゾ、ミツマタなどの繊維に胡粉、陶土、パルプや木材の粉末を加えて練り固め、乾燥した原型に自ら染めた和紙や金銀砂子などで装飾していく「紙塑人形」の技法を、32年に完成する。33年日本紙塑芸術研究所を開設し、人形の出品が初めて認められた36年第1回改組帝展に「黄葉」を出品、高い評価を受ける。また38年には、それまで「ヌキ(型抜)」と称していた人形材料の鋸屑練物を「桐塑」と命名する。一方、歌人としての活動も上京後まもなくより始まり、「アララギ」で島木赤彦、土屋文明に師事、28年より10余年にわたって「歌壇風聞記」を『アララギ』に連載、45年には潮汐会を結成し機関誌『潮汐』を発行、また46年『アララギ』の再興第1号を編集発行するなど活発な活動を展開し、その豊かな文学的素養は、ロマンティックな彼の人形の造型にも大きく影響する。この時期の人形作品には「稚児大師」「大寿親王比奈」「まんだらの糸」「軍鼓打つ少年」等があり、新文展等にも入選している。戦後46年、日本著作家組合中央委員美術部代表、日本著作権協議会理事・専門委員となり、日本工芸会、日本伝統工芸展でも要職を歴任した。「竹の響」「卑弥呼」「志賀島幻想箕立之事」「奈良朝風智恵の女神ミネルヴァ紙塑像」「若き工人たち」「大森みやげ」「地久」「秘芸曲独楽」「鵜川」「シルクロードの星」「にぎたづ」など、和紙の持つ柔らかさや温かさを生かした叙情性豊かな人形の数々は、伝統的である一方、異国情緒溢れる現代性も併せ持つ。61年重要無形文化財(人間国宝)の指定を受け、67年文化財保護審議会専門委員(77年同会工芸技術部会長)、同年紫綬褒章、73年勲三等瑞宝章受章。また63年以来宮中歌会始選者をたびたびつとめ、68年歌集『故郷の灯』(短歌研究社)を出版、第2回迢空賞も受賞。人形と短歌、2つの道に足跡を刻んだ。

三雲祥之助

没年月日:1982/08/19

武蔵野美術大学名誉教授、春陽会会員の洋画家三雲祥之助は、8月19日午前11時28分、すい腫瘍のため、東京都杉並区の東京衛生病院で死去した。享年80。1902(明治35)年7月19日、京都市に生まれる。23年京都帝国大学文学部史学科を中退。翌24年、中学時代同級であった批評家田近憲三に誘われ渡仏し、仏文学者小松清を知り、油絵を描き始める。同年10月よりアカデミー・コラロッシに通いシャルル・ゲランに師事。26年サロン・ドオトンヌに初入選する。滞仏中、スペイン、イギリス、スイス、イタリア等を旅行。35年帰国し、春陽会へマヂョルカ島風景を描いた作品を出品するが、36年には第11回国画展に「風景」を出品し褒状を受け、翌年も国展に出品する。39年北京を訪れる。同年より1年間「文芸」に連載された高見順の小説『いかなる星の下に』の挿絵を担当。41年バリ、ジャワなどを訪れ、42年青樹社での個展にその成果を発表する。43年春陽会に「婦人像」を出品して会員に推され、以後同会への出品を続ける。57年日本国際美術展に「パリスの審判」を出品し佳作賞を受賞。72年より82年まで国際形象展にも出品しているほか、美術団体連合展、現代日本美術展にも出品している。美術教育の方面では、38年日本大学芸術科で講師をつとめた他、51年より武蔵野美術大学教授となり、74年退官し名誉教授となるまで長きに渡り後進を指導する。73年には武蔵野美術学園長となった。渡欧中は印象派を目標としたが、戦後は形体を思いきってデフォルメした斬新な画風を展開し、活発な言論活動による理論的影響力もあいまって画界のリーダー格に位置した。晩年はパスキン風の裸婦を多く描いている。『美の秩序』『ピカソ』など著作も多い。春陽展主要出品作1935年 第13回 「マヂョルカの海」「マヂョルカ島デヤの谿」「マヂョルカ島パルマ港の夕暮」1944年 第21回 「ジャハバリーの舞踏諸姿」1948年 第25回 「りんごかご」「アトリエの一隅」「制作」「ぶどう」「静物」1953年 第30回 「婦人座像」「制作」「彫刻家」1958年 第35回 「婦人像」「バラのある静物」「家造り」1963年 第40回 「おお季節よ城よ」「ヴィナスと侍女」1968年 第45回 「オーバード(朝の曲)」1973年 第50回 「手鏡」1978年 第55回 「まどろみ」1982年 第59回 「砂丘と女」

原田嘉平

没年月日:1982/08/11

福岡県指定無形文化財(博多人形)技術保持者の博多人形師原田嘉平は、8月11日午前2時46分、肺炎のため福岡市博多区の三信会原病院で死去した。享年88。1894(明治27)年3月15日、福岡市に生まれる。1909年住吉尋常小学校を卒業し、博多人形師白水六三郎に師事する。17年工房を持って独立。22年巴里万国装飾博覧会で銅賞を受賞、また、同年第10回農商務省工芸展覧会に「春の色」「小鳥」を出品して褒状を受ける。27年第14回商工省工芸展覧会に「涼み」を出品し三等賞を受賞するなど、同展に入選11回、うち6回は褒状を受けている。43年商工省美術工芸技術保存者に指定され、66年福岡県指定無形文化財保持者となる。騎馬武者を得意とし、皇族への献上もしている。

霜鳥之彦

没年月日:1982/08/03

京都洋画壇の最長老で、浅井忠門下の唯一の生存者であった霜鳥之彦は、8月3日老衰のため京都市左京区の自宅で死去した。享年98。本名正三郎。明治17(1884)年3月2日東京市神田区に生まれ、東京府立第一中学校を卒業、この頃すでに浅井忠の図画教科書によって水彩画を独習しており、同35年京都高等工芸学校設立と浅井の教授就任を新聞で知り、京都に移って同校に入学、同38年同校図案科の第一期卒業生となる。在学中から水彩画をよくし同期の間部時雄と併称された。翌39年牧野克次について渡米、翌年にかけてNew York School of Fine and Applied Artsで油彩画と図案を学ぶ。同42年から大正9年までニューヨークのアメリカ自然史博物館に、海洋動物標本模型制作のための写生と色彩に関する技術員として就職。この間、National Academy of Designで夜間デッサンを学び、ニューヨーク水彩画クラブ及びアメリカ水彩画協会展に出品もする。大正9年帰国後京都高等工芸学校講師となり、翌年同校教授に就任、同年文部省留学生として絵画、図案学研究の目的で渡欧し、パリのグラン・ショミエールへ通い、同12年からシャルル・ゲランに師事する。帰国後、同19年に母校の教授を退官、戦後は同27年から33年まで京都学芸大学教授として教鞭をとった。京都府美術工芸功労者であり、同49年には勲三等瑞宝章を受けた。渡米前の水彩画として「出雲路橋」「農村風景(ハネツルベ)」(ともに明治38年)などがあるほか、渡米直後の油彩画に「ハドソン河畔」がある。他に「ロシアの女」(大正12年)、「魚売り」(昭和2年)など。

岡田謙三

没年月日:1982/07/25

東洋的なユーゲニズム(幽玄主義)の画風で国際的評価を得た洋画家岡田謙三は、7月25日午前10時25分、心臓障害のため東京都目黒区の自宅で倒れ、近くの日扇会第一病院で意識不明のまま死去した。享年79。1902(明治35)年9月28日神奈川県横浜市に、貿易商の父嘉蔵、母やすの3男として生まれる。22年東京美術学校西洋画科に入学、同期生に小磯良平、牛島憲之、山口長男、猪熊弦一郎らがおり、そのグループ「上杜会」は現在も続く。在学中の24年渡仏、半年間アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールでデッサンを学び、27年サロン・ドートンヌに「ボートのある海浜風景」が入選、同年秋帰国する。29年第16回二科展に「女の部屋」「夏休み」が初入選、以後戦前は主に二科に出品し、33年特待、34年無鑑査、35年会友、36年推奨、37年会員となり、戦後47年第1回会員努力賞を受賞、洗練された叙情的な作風で注目される。39年昭和洋画奨励賞を受賞し、同年日本大学芸術科講師に招かれた。50年48歳にして渡米、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フランツ・クラインらが抽象表現主義を激しく展開していたニューヨークに住む。ここで瀟洒な色彩と日本人独特の感性を反映させた独自の抽象絵画を創作、有力な画商ベティ・パーソンズに認められ、53年ベティ・パーソンズ画廊で第1回個展を開催、大きな反響を呼ぶ。大和絵や料紙装飾の美意識を感じさせる色調とマチエールは、ユーゲニズム(幽玄主義)の名でもてはやされ、アメリカの激しい抽象表現主義最盛期の中で静的画家として一躍脚光を浴びる。更に55年サンパウロ・ビエンナーレ出品、ピッツバーグ国際美術展ガーデン・クラブ賞受賞(「軟材」)、また同年コーコラン美術館でイサム・ノグチとの2人展開催、57年コロンビア絵画ビエンナーレ1等賞、58年ベネチア・ビエンナーレで日本人として初めてアストーレ・マイエル賞、ユネスコ絵画コンテスト最高賞をそれぞれ受賞、59年以降ホイットニー美術館の現代アメリカ絵画展出品、60年フォード財団美術賞受賞と、各種の国際展に出品し世界的評価を得るに至る。殊に戦後美術の中心のニューヨークでイサム・ノグチに続く日本人画家として活躍し、海外で活動しながら精神的日本回帰を果たした稀有の画家とされる。67年「渡米後の回顧展」により第8回毎日芸術賞を受賞、69年病気のため帰国して以後は、東京とニューヨークを往復、82年春、東京・福岡で大回顧展が開かれた。代表作品に「シルク」(47年)「決」(56年)「矢」(56年)「元禄」(58年)「夕顔」(62年)「井筒」(66年)などがある。また作品はホイットニー美術館、ボストン美術館、コロンビアミュージアムほか全米各地、及び日本各地の美術館に収蔵されている。若い頃より心臓が弱かったが、82年3月前立セン肥大手術のため東京・築地の国立がんセンターに入院、退院後自宅で療養していた。年譜1902 9月 28日、神奈川県横浜市に生まれる。父嘉蔵、母やす。5男3女の三男である。父は貿易商であった。1908 この年、東京市外品川町に転居する。1915 3月 森村学園初等部を卒業する。4月 明治学院中等部に入学する。1921 3月 明治学院中等部を卒業する。1922 4月 東京美術学校西洋画科に入学する。1924 1月 3日、横浜出帆の箱根丸で渡仏の途に就く。半年ほど、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールでデッサンを学ぶ。1927 この年、サロン・ドートンヌに「ボートのある海浜風景」が入選する。秋、パリから帰国する。1928 5月 日本橋三越において個展をひらき、「傘」など67点を発表する。この年、帝展に出品したが落選する。1929 9月 第16回二科美術展に「女の部屋」「夏休み」が初入選する。1930 4月 日本橋三越において個展をひらく。9月 第17回二科展に「白衣の女」が入選する。1931 9月 第18回二科展に「婦人像」「婦人像」「花売」が入選する。1932 9月 第19回二科展に「バルコン」「舞」「アコーデオン」が入選する。「人物」1933 9月 第20回二科展に「舞台」「朝」「少女」が入選し、特待に挙げられる。1934 9月 第21回二科展に「野辺」「海と馬」「假装」を出品(無鑑査)する。1935 4月 東京府美術館開館10周年記念現代綜合美術展覧会に「舞」(1932)を出品する。9月 第22回二科展に「野外習作」「おはなし」「ブランコ」を出品、会友に推薦される。1936 9月 第23回二科展に「室内」「時」「二人」を出品、推奨に挙げられる。12月 日動画廊において第1回個展をひらき、「花売」「窓」「パリー裏街」「パリーセーヌ河」「子供」「少女」「黄色の帽子」「ノートルダム」「花売」「読書」「巖」「セーヌ河」「静物」「少女」「女」「腕環」「ノートルダム」「夏の裏街」「帽子」「果実」「花」「雨のノートルダム」「海浜」「岬」「顔」「顔」「顔」「花売」「高原」「花売」「花売」「冬」「河」「山」「嵐」「岬」「入江」「白い帽子」「花」「花」「湖」「花」「首飾」「バラ」「青の着物」(以上小品45点)を発表する。1937 4月 明治、大正、昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)に「馬」(1934)を出品する。5月 上杜会第10回展(東京府美術館)に「花を持てる少女」を出品する。9月 第24回二科展に「つどひ」「海辺」「裸婦」を出品、会員に推挙される。12月 日動画廊において第2回新作発表展をひらき、「山中の村」「二人」「路地」「マスク」「花売」「都会」「湖」「薔薇」「灯」「巴里セーヌ河」「パリの裏街」「秋」「街の夜」「花束を持てる少女」「河流」「夕暮」「柵にもたれる少女」「肘をつける女」「話」「森」「田園風景」など30点を出品する。1938 9月 第25回二科展に「野外裸婦」「練習」「幕合」を出品する。12月 日動画廊において第3回新作発表展をひらき、「花売」「巴里風景」「鏡」「湖畔の城」「騎馬」「曲芸」「橋のある風景」「裏街」「山中の村」「山道」「湖水」「果実を運べる女」「海」「花園」「風」など46点を出品する。1939 2月 20日、昭和13年度昭和洋画奨励賞を受賞する。9月 第26回二科展に「母と子」「高原」「二人の女」を出品する。12月 日動画廊において第4回新作発表展をひらき、「花瓶」「山」「馬」「橋のある風景」「花売(其一)」「港」「花束」「花売(其二)」「海」「花売(其三)」「花売(其四)」「二人」「庭」「二人の女」「花売(其五)」「帽子」など24点を出品する。この年、日本大学芸術科の講師に招かれる。1940 8月 第27回二科展に「小屋」「ぶらんこ」を出品する。10月 紀元二千六百年奉祝美術展に「花売」を出品する。12月 日動画廊において第5回新作発表展をひらき、「花売」「並木」「二人」「籠」「噴水」「装」「山」「収穫」など26点を出品する。1941 春、熱河を中心にハルピン、奉天に写生旅行をする。9月 第28回二科展に「森」「曲芸師」「小供」を出品する。11月 仏印巡回日本油絵展に「果実を持てる女」を出品する。12月 日動画廊において第6回新作発表展をひらき、「街(承徳)」「夕のラマ廟」「街の広場(承徳)」「屋根(承徳)」「ラマ廟」「裸婦」「白衣」「ツンガリ河附近(ハルピン)」「土塀(承徳)」「城内附近(奉天)」「ラマ廟附近」「ラマ廟と人家」「丘(承徳)」「黄色い壁の家(ハルピン)」「丘と道(承徳)」など31点を出品する。1942 春、きみ夫人と一緒に渡満し、奉天、新京、大連に旅行し、写生する。9月 第29回二科展に「北市場」「北市場」「門口」を出品する。1943 9月 第30回二科展に「群像習作」を出品する。10月 第6回文部省美術展覧会に「風影」を出品する。1946 9月 第31回二科展に「楽屋の一隅」「紅色の上衣」を出品する。1947 9月 第32回二科展に「シルク」「春」を出品、第1回会員努力賞を受賞する。12月 北荘画廊において個展をひらく。1948 3月 二科春季展に「二人裸婦」を出品する。9月 第33回二科展に「ノクターン」「詩人」を出品する。12月 北荘画廊において第2回個展をひらく。1949 1月 読売新聞社主催ベスト・スリー洋画展(銀座、松坂屋)に出品する。2月 読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展(東京都美術館)に「アトリエ」を出品する。9月 第34回二科展に「五人」を出品する。1950 1月 現代美術自選代表作十五人展(読売新聞社主催)に「花売」(1931)「野外裸婦」(1938)「ラマ寺」(1941)「紅色の上衣」(1946)「春」(1947)「シルク」(1947)「窓辺」(1948)を出品する。2月 北荘画廊において個展をひらく。3月 1949年度選抜秀作美術展に(朝日新聞社主催)「アトリエ」を出品する。8月 11日パリ時代の旧友ソール・シャーリーの保証で、きみ夫人と共に横浜から渡米、ニューヨークのシャーリーの家に滞在する。以後ニューヨークに住む。1952 「竹」1953 11月 ニューヨークのベティ・パーソンズ画廊で第1回個展をひらき、「ナンバー3」「アブストラクション ナンバー7」「ナンバー19」など14点を発表する。1954 5月 グッゲンハイム美術館の『ヤンガー・アメリカン・ペインターズ』展に選ばれて「至」を出品する。「足跡」1955 5月 第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「水彩NO.1」を出品する。7月 第3回サンパウロ・ビエンナーレに出品する。ピッツバーグ国際美術展に「軟材」を出品、ガーデン・クラブ賞を受賞する。この年、ベティ・パーソンズ画廊で第2回の個展をひらき、また、ワシントンのコーコラン美術館でイサム・ノグチとの2人展をひらく。「横断」、「時」、「銀」、「ディセンディングブルー」、「黒と象牙色」1956 秋、ベティ・パーソンズ画廊で第3回個展をひらく。「浮遊」、「矢」、「世紀」、「素」、「主張」、「決」、「リターニング ライフ」、「竹」1957 3月 コロンビア絵画ビエンナーレ(サウス・カロライナ州、コロンビア美術館)で1等賞を受賞する。5月 アメリカン・アカデミー・オブ・アーツ・アンド・レターズとナショナル・インスティチュート・オブ・アーツ・アンド・レターズ主催の展覧会に「生地」「夜の絵巻」「天使」を出品する。6月 ミネアポリス・インスティチュート・オブ・アーツの『アメリカ絵画-1945~1957年』展に出品する。11月 世界の中の日本抽象美術展(朝日新聞社主催)に「作品」を出品する。「杵 ナンバー1」「記憶」1958 1月 7日、7年ぶりに帰国する。5月 第3回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「元禄」を出品、国立近代美術館賞を受賞する。6月 『抽象絵画の展開』展(国立近代美術館)に「菱」(1958)を出品する。第29回ベネチア・ビエンナーレに8点を出品、アストーレ・マイエル賞を受賞する。また、ユネスコ絵画コンテストの最高賞も獲得した。同月、日本橋高島屋において個展をひらき、28点を発表する。9月 5日、プレジデント・フーバー号で横浜出帆、アメリカへ向う。12月 ピッツバーグ国際美術展に「洞穴への入口」を出品し、主催者のカーネギー財団に買い上げられる。この年、二科会を退会する。「湧」、「間隔」、「交叉」、「還」、「花」、「緑と白」1959 4月 アメリカ抽象6人展(ギャラリー・キムラ)に「明け方NO.2」を出品する。11月 ベティ・パーソンズ画廊において第4回個展をひらき、「断崖」「波」「青」「夜の湖」「呼吸」など15点を発表する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1959年度展』に出品する。「英雄」「雨」1960 1月 フォード財団が全米の優秀な芸術家を選んで授与する美術賞の受賞者6人の1人に選ばれ、1万ドルを贈られる。この年、アメリカ合衆国の市民権を獲得する。1961 5月 第6回日本国際美術展に「扇」を出品する。10月 ピッツバーグ国際美術展の審査員となり、「白と金」を出品する。10月 20日、東京に帰る。12月 彌生画廊において個展をひらき、「聞く」など9点を発表する。1962 この年、ベティ・パーソンズ画廊で第5回個展をひらき、「点」、「夕顔」、「コンポジション」、「セット」、「側」、「結」、「斜」、「支」、「夢」、「帰」、「時」、「自身」などを発表する。「朱」1963 9月 フレデリクトン(カナダ)のビーバーブルック美術館で開催されたダン現代絵画国際展(サー・ジェームズ・ダン財団主催)に「子孫」(1959)を出品、ダン国際賞を受賞する。(同展覧会は、11月に、ロンドンのテート・ギャラリーでも開催された。)12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1963年度展』に「夕顔」を出品する。「赤と青」1964 1月 ベティ・パーソンズ画廊で第6回個展をひらき、「垂直」「白の間」「緑」「三つの白」「交」「聞く」「滝」「白と黒」「方向」「オレンジ」「側」「最初から」「時」「軌道」(以上14点)を発表する。6月 ホイットニー美術館の『アメリカ美術の25年-1939~1964年』展に「記憶」(1957)を出品する。この年、ホテル・ニューオータニのために、壁画「季」を制作する。「垂直」1965 1月 第16回秀作美術展に「季」を出品する。6月 二科50周年回顧展(新宿ステーションビル)に「バルコン」(1932)「少女」(1933)を出品する。10月 『在外日本作家展-ヨーロッパとアメリカ』(東京国立近代美術館)に「最初から」(1964)を出品する。アルブライト・ノックス美術館において回顧展をひらき、1931年から1965年にいたる出品54点を展示する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1965年度展』に「オープン」を出品する。「隅田川」、「夜の向日葵」、「銀と金」、「梅」、「銀」、「重」1966 5月 日本橋高島屋において、『岡田謙三展-1952年から1965年まで-』(朝日新聞社主催)が開催される。「静物」(1952)「予想」(1953)「ナンバー19」(1953)「野2」(1953)「アブストラクションNO.7」(1953)「アブストラクションNO.12」(1953)「早春」(1954)「ナンバー36」(1954)「飛1」(1955)「池」(1955)「矢」(1956)「決」(1956)「世紀」(1956)「生地」(1956)「夜の絵巻」(1956)「素」(1956)「杵NO.1」(1956-57)「エニグマ」(1958)「洞穴への入口」(1958)「門」(1959)「英雄」(1959)「夜の湖」(1959)「明」(1959)「夢」(1962)「返る」(1962)「夕顔」(1962)「三つの白」(1963)「羽衣」(1964)「木の精」(1964)「垂直」(1964)「重」(1965)「梅」(1965)「銀と金」(1965)(以上34点)を展示する。この展覧会は、6月に国立近代美術館京都分館で、8月から9月にかけてハワイのホノルル・アカデミー・オブ・アーツで、10月から12月にかけてサンフランシスコのM・H・デ・ヤング記念美術館で、翌1967年の1月から2月にかけてテキサス大学美術館で開催された。6月 近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)に「翳」(1961)を出品する。9月 28日、ニューヨークへ帰る。「黒と白」、「井筒」、「黒と銀」1967 1月 16日、「渡米後の回顧展」の成果に対して第8回(1966年度)毎日芸術賞を贈られる。3月 ベティ・パーソンズ画廊で第7回個展をひらき、「物語」「井筒」「青とオレンジ」「三本の白線」「含」「高山寺」「黒と白」「雲と子供」「朝の梅」「雨後」「二つの輪」など14点を発表する。5月 第9回日本国際美術展に「雲と子供」を出品する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1967年度展』に出品する。1968 「帆掛舟」1969 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第8回個展をひらき、「松風」「月」「帆掛航」「赤とオレンジ」「能」「梅」「草」「小屋」「青い四角形」「赤と緑」「雲」「島」「桔梗」「地平」「夜明けの光」(以上15点)を発表する。5月 第9回現代日本美術展の『現代美術20年の代表作』に「元禄」(1958)を出品する。同月、東京に帰る。11月 ニューヨークに帰る。以後、毎年ニューヨークと東京を往復する。「風」1970 「紫」、「赤」、「グレーと線」、「松」、「三つの四角形」1971 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第9回個展をひらき、「機」「波」「橋掛」「松」「赤」「青」「グレー」「三つの四角形」「桔梗」「葉」「竹」「岩」「繁み」「風景」などを発表する。1972 9月 『現代の眼-近代日本の美術から』展(東京国立近代美術館開館20年記念)に「季」(1964)を出品する。「子供と雲」、「緑 ナンバー2」、「時期」、「ピンク」、「朝顔」1973 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第10回個展をひらき、「朝顔」「秋」「ピンク」「菖蒲」「流れ」「芽」「宿り」「青と黄」「若竹」「島」「昇」「内」など15点を発表する。5月 『現代日本美術展-現代美術20年の展望』に「聞く」(1961)を出品する。6月 『戦後日本美術の展開-抽象表現の多様化』展(東京国立近代美術館)に「元禄」(1958)「聞く」(1961)を出品する。「入江」、「オレンジ」、「枯野」1974 1月 『アメリカの日本作家』展(東京国立近代美術館)に「入江」(1973)「オレンジ」(1973)「金と銀」(1973)を出品する。1976 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第11回個展をひらき、「青と緑」「赤より」「オレンジと黄」「浮」「現在と過去」「池」「ボート」「梅」など15点を発表する。「オレンジ ナンバー2」1978 10月 ベティ・パーソンズ画廊で第12回個展をひらき、「二双舟」「木立」「秋」「朝」「昼」「夕」「オレンジ」「暗緑色」「垣根の朝顔」など16点を発表する。「流れ」、「菖蒲」、「夜明け」1979 2月 ギャルリームカイにおいて個展をひらき、「枯野」「流れ」「白と茶」「島」「朝」「竹」「対照」「朝顔」「葉」「朝顔」「草」「影」「音」「喜び」「雁皮」「池」「萩」「動」「かきつばた」「緑と紫」「互い」「青」「ほたる草」「すみれ」「黄」(以上25点)を発表する。「春風」1980 「流れ」、「ソフトネス」などを制作する。1981 2月 ギャルリームカイにおいて第2回の個展をひらき、「青」「緑」「オレンジ」「音」「ターニング・ライト」「交」「和」「調和」「緑と濃金」「夕日」「凧」「依」「雪の朝」「実」「浸」「簡」「柔」「昔と今」「香」「平安」「銀と金」「青と緑」「銀河」「ドオビー(ニューメキシコ)」「ニューメキシコ」「玉虫」「秋」(以上27点)を発表する。(「岡田謙三展」(82年)図録、土屋悦郎編年譜より)

富樫一

没年月日:1982/07/22

自由美術家協会会員の石彫作家富樫一は、7月22日心不全のため茨城県新治郡の筑波大学付属病院で死去した。享年52。本名美津雄。昭和5(1930)年山形県に生まれ、同31年武蔵野美術学校彫刻科を卒業した。自由美術家協会に出品し、同35年会員となる。翌36年ユーゴスラビア第1回国際彫刻シンポジュームに招待参加し、同38年には彫刻の新世代展(国立近代美術館)に出品するとともに、第1回全国彫刻コンクール応募展(宇部)で毎日彫刻奨励賞を受賞する。同39年以降、秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展、現代日本彫刻展などに出品、同42年の第2回昭和会展で優秀賞を、同47年の第3回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)で神奈川県立近代美術館賞をそれぞれ受賞、また、同48年には石彫家モニュメント制作コンクールに「石の波」で1位となった。国内での制作発表の他、同41年ウィーンでのヨーロッパ彫刻シンポジュームに参加し、同シンポジュームのレギュラー・メンバーとなったのをはじめ海外でも活躍し、オーストリア、西ドイツ、スイス他、海外の野外美術館に多くの作品が展示されている。同56年茨城県筑波学園都市桜大橋、橋詰広場に50個近い彫刻群を制作し注目された。国内でのモニュメント制作に、茨城県政百年記念タイムカプセルモニュメント(同47年)、立教大学校友会館竣工記念モニュメント(同53年)などがある。

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