本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
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没年月日:1936/12/29 帝室技芸員佐々木岩次郎は昨11年12月29日84歳の高齢を以て逝去した。 略歴―嘉永6年京都に生る。家は四代前より建築の業務を営み来つた為志を斯業に進め、明治2年の頃より建築設計に従ひ、当時の名匠木子棟斎の門に入つて学んだ。明治10年、京都大谷派大本山本願寺本堂の再建に際し棟梁木子棟斎の補佐役として棟梁加談申付られ設計並に工事監督の任に当つた。同29年、内務省古社寺保存計画に関し調査を嘱託され、奈良、京都、平泉の旧蹟建築物の調査及修理の監督に従事した。同31年浅野総一郎に招聘され、主任技師として芝区の本館(俗称紫雲閣)の設計監督に当る。同43年、日英大博覧会開催に際し東京市実業同盟会出陳の東京館設計監督を委嘱され渡英し、帰路英仏独露の建築を視察した。大正2年大本山増上寺大殿再建主任技師を命ぜらる。同6年帝室技芸員を仰付られた。同11年次男孝之助を補佐として佐々木建築事務所を創設したが、昭和6年同事務所顧問となり、孝之助をして所長たらしめた。 明治以来我が日本建築の巨匠として仰がれ、我国固有の建築術を究めると共に種々独創的手腕を発揮し、主に神社仏寺建築に数多の業績を示したが、其等の中極く主なる作品は左の通りである。神社及其附属等明治26年 官幣大社平安神宮蒼龍白虎楼及応天門明治28年 官幣大社北野神社楼門及格連子塀明治33年 別格官幣社昭国神社造営明治35年 官弊大社宮崎神宮造営大正8年 官幣大社朝鮮神宮造営大正8年 別格官幣社上杉神社造営大正10年 三井家顕名霊社大正15年 府社富岡八幡神社々殿外各営造物昭和4年 居木神社々殿外営造物仏寺及其附属等明治10年 大本山大谷派本願寺本堂明治26年 大本山大谷派本願寺玄関明治29年 豊国廟唐門及手水舎明治43年 大本山大谷派本願寺本堂門大正2年 大本山増上寺大殿大正15年 大本山円覚寺大方丈書院庫裡昭和5年 本門仏立財団本部本堂昭和8年 京都嵐山法輪寺多宝塔
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没年月日:1936/12/19 早稲田大学講師米国人ジヨン・スチユワート・ハツパー(John Stewart Happer)は12月19日夜渋谷区の自宅で心臓麻痺の為急逝した。享年73歳。同氏は最初スタンダード石油会社支配人として明治24年来朝、同37年から数年間ロンドンに在勤したが、同42年再び渡日し、晩年は早稲田大学に教鞭を執つてゐた。浮世絵に終生の愛着を有し、其の蒐集及び研究家として令名あり、殊に広重ハツパーと称ばれた程広重に傾倒することが深かつた。在留長く、日本を永住の地と定め、人格的にも人々の敬愛を集め、我が国浮世絵及び浮世絵界の為めに貢献した所甚だ多かつた。
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没年月日:1936/11/12 洋画家栗原忠二は胃癌の為11月12日夜杉並区の自宅で逝去した。享年51。明治19年10月21日静岡県に生る。同45年東京美術学校西洋画科本科卒業。大正元年10月英国へ留学、同3年ブラングインに師事し、同8年英国王立美術家協会の準会員に推薦さる。同13年帰朝。同15年再渡英し昭和2年帰朝。同4年同志と共に第一美術協会を創立し爾後同会展に於てのみ作品を発表した。同8年築地洋画研究所を設立、同10年海軍省の依囑により宮城内顕忠府に納むべき上海事変油絵6枚を揮毫、同11年6月ホテル・ニユーグランド(山中湖)の壁画「歓楽の港」を完成した。
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没年月日:1936/11/01 株式会社山中商会社長山中定次郎は10月30日午前胃潰瘍の為大阪市東区の自邸で逝去した。享年71。慶応2年7月11日堺市に生る。少時より家業たる美術骨董商に従ひ、同27年日清役の際渡米して紐育市に山中商会を設立。後ボストン、倫敦等に支店を設置し、大正7年株式組織に改め社長となつた。爾来東洋新古美術品の輸出紹介の事業に依り世界に名を知られ、美術界に貢献するところ多大であつた。昭和3年11月緑綬褒章を下賜され、又仏独政府からも勲章を贈られてゐる。
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没年月日:1936/09/15 洋画家埴原久和代は脳溢血の為、8月5日以来芝区虎ノ門佐田病院に入院中であつたが、9月15日逝去した。享年58。名は桑喜代、山梨県の出身で女子美術学校卒業後、二科会展に出品し、女流画家として最初の二科会々友であつた。晩年は高血圧の為失明し、自宅の焼失と共に彩筆を棄て鎌倉円覚寺山門前に移り、元円覚寺管長太田正常師に師事し信仰生活に入つてゐた。元駐米大使埴原正直の妹である。
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没年月日:1936/07/30 東洋陶磁研究所同人、上海自然科学研究所顧問、京都薬学専門学校講師、薬学博士中尾万三は去る5月北支那方面の古陶磁研究調査をとげて帰朝、爾来健康すぐれず、6月末以来病臥中であつたが7月30日午後7時逝去した。享年55。「支那陶磁源流図考」「西域系支那古陶磁に就ての考察」「朝鮮高麗陶磁考」等の著書の外、発表された陶磁に関する研究は頗る多く斯学に寄与した功績は大きかつた。
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没年月日:1936/07/12 帝国美術院会員、太平洋画会員満谷国四郎は病気の為昨秋来淀橋区の自邸で加療中であつたが、7月12日午前9時逝去した。享年63。明治7年10月11日岡山県吉備郡に生る。同24年上京、翌年11月小山正太郎の不同舎に入門した。同31年、明治美術会10周年記念展に「林大尉の戦死」、「妙義山真景」等を出品して其名を知られるに至つた。同33年米国経由にて渡欧し、翌年帰朝。帰朝に際し、明治美術会改組の事あり、同35年木下藤次郎、中川八郎、吉田博等と共に太平洋画会を創立した。爾後文展の開催まで同会に拠り作品を発表した。「楽しきたそがれ」、「軍人の妻」、「戦の話」等はこの間の作品である。同40年文部省美術審査委員会委員を設置するや爾後毎歳委員を拝命。同44年秋再渡欧し、大原孫三郎の好意の下に留学2年に及び大正3年帰朝した。滞欧中の研鑚は其の製作上の主張に著しい変化を来した。渡欧前に示した既に完成に近いアカデミツクな技法を惜し気もなく一擲し、後期印象派の感化を多分に受けた近代派の画風に転じて帰朝後其の勇敢な試みを次々に発表し画壇を駭かしたのであつた。其の様式も次第に醇化され、好んで描く裸体と風景とに独自の画境を完成し、詩情に富んだ美しい画面を数多く作つた。晩年の作品は平面化された装飾的な取扱を特色とし、特に色彩感に勝れて渾然たる大家の風を成すに至つた。文展時代の主要作品としては渡欧前の「購夢」、「かぐや姫」帰朝後の「砂丘の家」、「江畔魚商」等が挙げられよう。大正8年帝展審査員を命ぜられ、同14年帝国美術院会員に任命された。大正12年の50歳記念展出品の「樹蔭」帝展出陳の「早春」、「小憩」、「早春の庭」、「緋毛氈」、四皓会出品の「罌栗」等は後年の代表作として特筆さるべきものであらう。満谷国四郎略年譜明治7年 10月11日岡山県吉備郡総社町に生る。明治24年 18 上京、五姓田芳柳の門に入る。明治25年 19 11月不同舎に入門。明治31年 25 明治美術会10周年記念展「林大尉の戦死」「妙義山真景」明治32年 26 明治美術会展「尾道港」。結婚。明治33年 27 欧米第1回留学、巴里大博覧会「蓮池」褒状明治34年 28 帰朝。明治35年 29 1月大下、中川、吉田等と共に太平洋画会組織。太平洋画会第1回「夕暮の小径」等明治36年 30 太平洋画会会第2回「楽しきたそがれ」外20点。明治37年 31 聖路易博覧会「雛」(楽しきたそがれ改題)銅賞。太平洋画会展第3回「軍人の妻」ほか10点。明治38年 32 太平洋画会展第4回「勝利の片影」ほか8点。明治39年 33 太平洋画会展第5回「戦の話」等明治40年 34 文展第1回「購夢」。爾後毎年文展委員被仰付、東京勧業博覧会審査員任命、同会出品「かりそめのなやみ」1等賞。明治41年 35 文展第2回「車夫の家族」明治42年 36 文展第3回「かぐや姫」「緑蔭」明治43年 37 文展第4回「二階」明治44年 38 文展第5回「港の雨」。再渡欧。大正3年 41 帰朝。文展第8回「砂丘の家」。滞欧作品展出品「髪」、「ブルトンの女」等。大正4年 42 文展第9回「魚市場」「島」大正5年 43 文展第10回「素焼」大正6年 44 文展第11回「長崎の人」大正7年 45 文展第12回「江畔魚商」大正8年 46 帝展第1回「椿樹の下」、爾後殆ど毎年帝展委員任命大正9年 47 帝展第2回「李花」大正10年 48 帝展第3回「かけひ」、「白樺と渓流」大正11年 49 帝展第4回「島」(大島)、「葡萄」大正12年 50 50歳記念展「樹蔭」「柳蔭繋舟」。第一次渡支。大正13年 51 帝展第5回「採果」「後庭」。第二次渡支。大正14年 52 帝展第6回「早春」「裸女」。7月帝国美術院会員被仰付。神戸市に個展開催。大正15年 53 帝展第7回「海棠樹」。燕巣会「石橋」。第三次渡支。昭和2年 54 帝展第8回「残雪」。6月聖徳記念絵画館壁画完成。昭和3年 55 帝展第9回「小憩」。燕巣会「梅日和」昭和4年 56 帝展第10回「籘椅子」。第四次渡支。昭和5年 57 帝展第11回「朝顔」昭和6年 58 帝展第12回「早春の庭」昭和7年 59 帝展第13回「緋毛氈」。太平洋画会展第28回「高原を行く人」昭和8年 60 帝展第14回「放牧」、四皓会展第1回「京の雨」「赤城の新緑」「奈良の春」昭和9年 61 帝展第15回「秋雨」昭和10年 62 四皓会展第2回「湖畔の秋」「榛名湖」「庭の雪」昭和11年 63 四皓会展第3回「罌栗」。7月12日午前9時逝去、同月15日告別式挙行。
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没年月日:1936/07/06 帝国美術院会員、日本美術院同人富田渓仙は7月6日午後1時40分京都嵯峨の自宅で突然脳溢血のため逝去した。享年58。渓仙名は鎮(シゲ)五郎、別号渓山人。明治12年12月9日福岡県博多に生る。13歳の時元福岡藩の絵師衣笠探谷に就き狩野派を学ぶ。同29年上洛、翌年都路華香に師事し四条派を学ぶ。同32年前期日本美術院第2回展に「鯉」を出品した。大正元年秋文展第6回に「鵜舟」を、更に翌年の第7回展に「沈竃容膝」を出品したが、横山大観等の認むるところとなり、大正3年、日本美術院再興さるるや院友に推薦され、翌年同人に挙げられた。再興院展には第1回に「鼎峠行人」を出品した。以後連年、其の四条派の筆技に発し、独自の工夫を凝した清新な画風を以て、画壇に特異なる存在を示した。昭和5年同展第17回に「雲ケ畑の鹿」を出品してその画境に一期を劃し、同8年の同展第20回に名作「御室の桜」を出品して好評を博した。同10年6月帝国美術院改組と共に其の会員に挙げられ第1回の帝展に「万葉春秋」を出品したが、同11年6月横山大観等と共に帝国美術院会員の辞表を提出した。渓仙の作風に就ては?に詳述する遑を有しないが、現在の画壇に於て最も芸術的な風格に富む画人の一人であり、匠気なき渾然たる其の画境は世に尊ばれる所であつた。彼は趣味広く俳諧、和歌に親しみ、昭和6年頃より浪漫詩を創作した。又読書を愛し、初めは好んで経書を読み中頃は仏典に親しみ、晩年は本朝の古文学に沈溺したと言ふ。著書に「渓仙八十一話」がある。富田渓仙略年譜年次 年齢明治12年 12月9日福岡県博多に生る。明治24年 13 元福岡藩の絵師衣笠探谷に就きて狩野派を学ぶ。明治29年 18 上洛、伏見桃山に住す。頓奥園主人、燕巣楼、渓仙の号あり。明治30年 19 都路華香の門に入り四条派を学ぶ。明治32年 21 前期日本美術院第2回展「鯉」「鷲」明治33年 22 京都美術協会主催新古美術品展「隠者」1等褒状。明治34年 23 日本美術協会展「春郊牧童」1等褒状明治35年 24 新古展「蒙古襲来」。京都後素協会展「白楽天」明治36年 25 第5回内国勧業博「神功皇后釣鮎図」褒状明治39年 28 新古展第11回「伎芸天」明治40年 29 新古展第12回「雪」明治41年 30 新古展第13回「訶利帝母」明治42年 31 2月台湾より南支旅行、8月帰洛。博多聖福寺に「龍」の天井画を描く。明治43年 32 新古展第15回「想思樹の橋」大正元年 34 新古展第17回「山海経」4等賞、「若菜摘」。文展第6回「鵜船」大正2年 35 文展第7回「沈竃容膝」大正3年 36 再興日本美術院第1回「鼎峠行人」。日本美術院々友に推挙。大和達摩寺の襖絵揮毫大正4年 37 院展第2回「宇治川の巻」。日本美術院同人に推挙さる。大正5年 38 院展第3回「沖縄三題」大正6年 39 院展第4回「風神雷神」「淀」大正7年 40 院展第5回「南泉斬猫、狗子仏性」。院試作展「西行桜」。この頃より久彭山人、久彭庵、久彭子の別号を見る。大正8年 41 院展第6回「嵯峨八景」大正9年 42 院展第7回「列仙」大正10年 43 院展第8回「八瀬の春」「大原の秋」。同院主催米国展「奔鹿」「祇園夜桜」。11月、大阪高島屋に個展を開催し、画集「京洛季」を上梓。大正11年 44 院展第9回「漁火」「岬」。この頃より渓山人の落款散見す。仏国大使ポール・クローデルと詩画集「皇城十二景」を合作。大正12年 45 院展第10回「春日野」大正13年 46 博多の櫛田神社へ「騏麟鳳凰屏風」を献納、博多虚白院の仙厓堂再興にかかる。11月土井撰美堂にて西村五雲との合同展開催。大正14年 47 院展第11回「幻化」大正15年 48 この夏頃の作より専ら渓山人の落款を用ふ。昭和2年 49 院展第14回「日本六十余州」の内「淡路」「筑前」「長崎」「山城」「讃岐」を出品。ポール、クローデルとの合作詩画集「四風帖」「雉橋集」成る。10月大阪高島屋に個展開催、画冊「近畿柳桜」成る。仏国ルクサンブール美術館に「神庫」を寄贈。昭和3年 50 院展第15回へ続日本六十余州の内「伊勢神宮」「悠紀田」「紙漉き」を出品。11月大阪高島屋に個展開催、画集「春夏秋冬」成る。昭和4年 51 仙厓堂再興成る。昭和5年 52 院展第17回「雲ケ畑の鹿」。「聖徳太子奉讃会第2回展「糺の森」。チエツコスロバキヤ展「淀城」及「歳寒三雅」。3月佐藤梅軒にて個展開催。大倉男主催イタリー美術展「聖地の華」昭和6年 53 院展第18回「梢の鷺、迅瀬の鵜」。ドイツ展「幽谷の鹿」。此頃より浪漫詩を作る。昭和7年 54 5月土井撰美堂にて個展開催、画集「独活大僕」を上梓。院展第19回「優曇婆羅」昭和8年 55 院展第20回「御室の桜」朝香官御買上。昭和9年 56 院展第21回「伝書鳩」昭和10年 57 3月随筆集「無用の用」を上梓。6月帝国美術院会員に挙げらる。昭和11年 58 新帝展「万葉春秋」6月帝院会員の辞表を提出。7月7日逝去。
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没年月日:1936/06/15 木下義謙夫人雅子は去る2月来心内膜炎を病み帝大真鍋内科に入院中6月15日逝去した。享年32。夫人は貴族院議員倉知鉄吉の三女。女子学習院卒業後、二科会展に第14回より出品、昭和3年結婚後夫と渡仏し、巴里にて個展を開催し、又サロンドートンヌ、サロンデザンデパンダン等に出品した。洋画家として確な技術を持ち上品で穏かな作風を示してゐた。
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没年月日:1936/06/13 古陶磁研究家として又製作家としてしられてゐる真清水蔵六は昨秋琉球古窯址の調査に赴いて帰洛後健康すぐれず京都市右京区の自宅で療養中であつたが6月13日午前3時逝去した。享年76。翁は幼名寿太郎、18歳の時初代蔵六の裔を継ぎ、京都五条に在つて夙に茶器の名手として知られてゐた。又古陶磁の鑑識にすぐれ、普く日本、支那、朝鮮の諸窯址を踏査して研究し、遺著「泥中庵今昔陶話」の外「寄陶」「古陶録」「泥中閑話」等の著がある。(陶磁8ノ4より)
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没年月日:1936/06/10 帝国美術院会員土田麦僊は6月10日逝去した。享年50。麦僊名は金二、明治20年2月新潟県佐渡郡に生る。16歳の時上洛、翌年鈴木松年に入門したが37年秋、竹内栖鳳門に転じた。同38年初めて第10回新古美術品展に「清暑」を出品し4等に入賞。又同40年には文展第2回に「罰」を出品し一躍3等賞に挙げられ新進作家の名を成した。その後文展に「島の女」、「海女」、「大原女」、「三人の舞妓」、「春禽趁晴」等の問題作を出陳したが、此の期には或は仏蘭西近代絵画を学び或は桃山芸術に傾倒する等の大胆なる追究が試みられた。大正7年1月官展を去り同志と共に国画創作協会を結成して昭和3年の同会解散に至る迄在野人として活躍した。「湯女」、「三人の舞妓」更に外遊後の「大原女」等は此の間の力作である。尚大正10年秋欧洲に遊び12年に帰国した。昭和4年帝展第10回に「罌栗」を出品、官展に復帰した。爾後毎回出品し又七弦会、清光会等にも力作を発表した。晩年の仕事は漸次理智的に冷徹になつて、技巧的な巧緻さが行き渡り構図、色彩の完美さが際立つて来てゐた。同9年帝国美術院会員に任命さる。同10年夏渡鮮し、改組帝展に「妓生の家」を出品すべく既に画稿は完成し本図に着手し乍ら遂に起たなかつた。土田麦僊略年譜年次 年齢明治35年 16 上洛明治36年 17 鈴木松年の門に入る明治37年 18 栖鳳門に移る明治38年 19 新古美術品展第10回「清暑」4等賞明治39年 20 新古美術品展第11回「残陽」3等賞明治40年 21 新古美術品展第12回「春の歌」2等賞1席明治41年 22 文展第2回「罰」3等賞明治42年 23 絵画専門学校入学明治42年 23 新古展第14回「徴税日」2等2席明治43年 24 新古展第15回「春山霞壮夫」2等2席明治44年 25 京都絵専選科卒業明治44年 25 文展第5回「髪」褒状大正元年 26 文展第6回「島の女」褒状、「冬」大正2年 27 文展第7回「海女」大正3年 28 文展第8回「散華」褒状大正4年 29 文展第9回「大原女」3等賞大正5年 30 文展第10回「三人の舞妓」大正6年 31 文展第11回「春禽趁晴」大正7年 32 1月国画創作協会組織。国展第1回「湯女」大正8年 33 国展第2回「三人の舞妓」大正9年 34 国展第3回「春」大正10年 35 秋西欧美術巡礼に旅立つ。大正12年 37 3月帰朝大正13年 38 国展第4回「舞妓林泉図」大正14年 39 国展第5回「罌栗」、「鮭と鰯」、「舞妓」、「大原女」大正15年 40 聖徳太子奉讃展出品「鶉」昭和2年 41 国展第6回「大原女」昭和3年 42 国展第7回「朝顔」、7月国画創立協会解散。昭和4年 43 帝展第10回「罌栗」昭和5年 44 帝展11回「明粧」、審査員任命。七弦会第1回展「蓮華」、「麗日」昭和6年 45 帝展第12回「娘」。七弦会第2回展「舐瓜図」「菊」。瓜図(久迩宮家御所蔵)昭和7年 46 第13回帝展審査員任命。七弦会第3回展「黄蜀葵」昭和8年 47 帝展第14回「平牀」。清光会第1回展「芍薬」、「菊」。七弦会第3回展「山茶花」昭和9年 48 帝展第15回「燕子花」。10月20日帝国美術院会員任命。昭和10年 49 春虹会第1回展「舞妓」。清光会第3回展「蓮」、「舞妓」。七弦会第5回展「歌妓図」。秋渡鮮。「妓生の家」画稿成る。昭和11年 50 「妓生の家」製作中罹病。5月27日大学病院入院。6月10日逝去。
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没年月日:1936/06/02 尾竹竹坡は旧冬以来気管支喘息を病み、本郷区の自宅で療養中であつたが、6月2日遂に逝去した。享年59。本名染吉、明治11年1月新潟に生る。兄弟3人、兄は越堂、弟は国観。4歳にして笹田雲石に就いて南画を学ぶ。同27年、第4回内国観業博覧会に「少年書画会図」を出品。同29年出京し、川端玉章に入門した。同31年東京文学社出版の小学毛筆画8冊、中学毛筆画8冊の原図浄写の代筆を橋本雅邦に依嘱され完了した。同39年同志安田靭彦、今村紫虹、尾竹国観、飛田周山等と共に大同画会を創立、之は後日本美術院の同人合同して国画玉成会となつたが、同41年国画玉成会展に「仏舎利分与」を出品、この時岡倉覚三と衝突して退会し、次で同会も解散となつた。大正2年7月越堂、国観と合同して八華会展覧会を開催、翌年代議士候補に立ち選挙に争つた。同8年秋自ら八火社を創立し門人を率ゐて展覧会を開いた。昭和2年帝展第8回に際し無鑑査に推薦さる。11年1月以来病勢一進一退、病床にあつて没する前日に至る迄1日も筆を休めなかつたと言ふ。作品略年表年次 年齢明治28年 18 日本美術協会展「観桜図」明治30年 20 日本美術協会展「石川麿」明治31年 21 日本絵画協会4回展「空中声」褒状1等。日本美術協会「静吉野雪」褒状1等明治32年 22 日本絵画協会7回展「春曙」褒状1等明治33年 23 日本絵画協会8回展「四季山水」褒状1等明治40年 30 文展1回「羅喉羅」明治42年 32 文展3回「茸狩」3等賞明治43年 33 文展4回「おとづれ」2等賞明治44年 34 巽画会11回展「梅」「太子」1等賞。文展第5回「水」2等賞大正4年 38 文展8回「豪華」3等賞大正5年 39 文展10回「ゆたかなる国土」大正6年 40 文展11回「みそのの秋」大正7年 41 文展12回「健雷神」大正8年 42 八火社展12点大正9年 43 八火社展2回展10点大正10年 44 八火社展3回展8点大正13年 47 帝展5回「市町村」3点大正14年 48 帝展6回「大地円」大正15年 49 帝展7回「峠」昭和2年 50 帝展8回「山中の水」昭和3年 51 帝展9回「雑草」昭和4年 52 帝展10回「生常四幅」昭和5年 53 帝展11回「唱」昭和6年 54 帝展12回「鶏頭」昭和7年 55 帝展13回「阿寒原始林」昭和8年 56 帝展14回「安楽豊蚕」昭和9年 57 帝展15回「日盛」
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没年月日:1936/04/23 佐分真は4月23日未明、滝野川区の自宅画室に於て、遺書3通を遺して縊死を遂げた。享年39。明治31年名古屋市に生れ、大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、同15年白日会員となり、昭和2年1月渡仏、同4年光風会員となり翌年帰朝。同6年帝展第11回に「貧しきキヤフエ」を出品して特選となつた。同年秋再渡仏し、翌年帰朝、同8年帝展第13回に「画室」が、又翌年の第14回に「室内」が特選となつた。同9年東宝劇場に美術部嘱託として入社、翌年同劇場に壁画を執筆した。10年の帝院改組に際しては第二部会に参加せず、白日会及光風会を脱会して独自の立場を守つた。晩年諸雑誌に随筆を多数書いた。彼は親の遺産を受け継いで画家には稀な富豪であつた。11年9月銀座松坂屋に遺作展開催せられ、作品約百点が出陳され、同時に遺作集、遺稿が上梓され、生前の知己に頒たれた。又佐分賞が設立された。
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没年月日:1936/04/15 早稲田大学教授、日本美術学校長紀淑雄は4月4日卒倒し爾来淀橋区の自邸で加療中同15日午後逝去した。享年65。明治5年東京に生る。同26年元東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業、同29年同校の講師となり、同30年、帝国博物館より帝国美術略史編纂掛を嘱託せられ、同33年同編纂常務委員となつた。 同34年より40年まで国華社発行「国華」の解説起草主任を嘱託され、同44年早稲田大学教授に就任、爾後東洋並西洋美術の講座を担当した。同年並翌年及大正2年には美術審査委員会委員を仰付られ、同45年更めて東京帝室博物館より美術部編輯委員を嘱託され、大正13年迄勤務した。大正6年4月、美術研究所を設立し翌年4月、日本美術学校と改称、校長に就任し現在に至る。彼は我が国美術批評の先覚者として明治大正の美術界に貢献せる所多大であつた。左に著書目録を掲げる。書名 発行所小山田興清伝日本帝国美術略史 帝室博物館 故福地復一郎編日本美術集成 帝室博物館Japanese Art Folio(日本美術帖) 小川一真真美大観 日本真美協会 第3輯ヨリ第12輯迄解説起草日本精華 第1輯より第8輯迄編輯其の他「開国五十年史」(大隈重信侯編輯)中、美術に関する事項を起草。「日本百科大辞典」(三省堂発行)中、東洋美術に関する項目を起草。「文芸百科全書」(早稲田文学社発行)に日本絵画史、支那絵画史を起草す。
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没年月日:1936/04/11 元美術研究所嘱託尾崎夏彦は病気の為昭和9年以来職を退き、平塚海岸で療養中であつたが、4月11日逝去した。享年36。尾崎紅葉の長男として明治34年東京に生れ、昭和2年東京帝国大学文学部美術史科を卒へ、国際聨盟協会学芸協力委員会の嘱託となつて英文日本美術年鑑編纂に従事、昭和7年美術研究所に入つて明治大正美術史編纂に着手したが途中病を得て遂に起たなかつたものである。
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没年月日:1936/03/28 日本美術院々友で、青森県立弘前工業学校の彫刻図画嘱託教師であつた工藤繁造は病気の為37歳で夭折した。農家に生れ自由労働者をしながら彫刻に精進し、前田照雲に約1年間師事した外は独力で勉強し、大正13年院展入選以来「村童」「雪路」「山鳩」「添乳」「俵結ぶ男」「牡鶏」等を殆ど毎年出品、昭和8年院友に推薦された異色ある作家であつた。
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没年月日:1936/03/25 日本南画院同人石川寒巌は盲腸炎で赤十字社病院に入院中3月25日逝去した。享年47。名は寅寿、明治23年2月11日栃木県那須郡に生る。同42年大田原中学卒業後、秋上京し、故佐竹永邨に師事、同44年春病気の為帰省し、大正9年秋再度上京、小室翠雲の門下となり、同14年9月日本南画院の同人に列した。作品略年表(年次) (年齢)大正14年 36 日本画会展「麓」1等賞大正14年 36 日本南画院「煙雨」昭和5年 41 日本南画院「一芳四鮮」昭和6年 42 日本南画院「仔牛」「十六賞心事」昭和7年 43 日本南画院「松石不老」「碧岩画冊」昭和8年 44 日本南画院「雪文」「桃花扇伝奇」昭和9年 45 日本南画院「永春」「世説新語冊」
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没年月日:1936/03/06 石川県美術工芸界の元老として知られた金沢市の石野龍山は3月6日午前零時半脳溢血の為急逝した。享年77。文久元年金沢に生れ、陶磁器絵工として其の功績多く、昭和6年帝国美術院で推薦され、加賀九谷陶磁器組合顧問、石川県工芸奨励会名誉会員、石川県下出品人奨励会副会長などの職に在り、其の逝去は九谷焼界を初め県下美術工芸界の大きな損失として惜まれる。
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没年月日:1936/02/15 我が水絵界の先輩、旧帝展無鑑査、太平洋画会、第二部会々員、河合新蔵は1月以来病気の為京都帝大病院に入院加療中であつたが2月15日逝去した。享年70。無涯と号す。慶応3年5月27日大阪市に生る。明治24年東京に出で初め五姓田芳柳に学び、後小山正太郎家塾不同舎に入学した。同34年10月米国経由にて渡欧、巴里に2年半留学、ラフアエル・コランに師事し、同37年帰朝。爾来京都市に居住し、関西洋画壇の為貢献する所が大きかつた。
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没年月日:1936/02/01 帝国美術院会員赤塚自得は胃潰瘍を病み、芝区の自宅で加療中のところ2月1日逝去した。享年66。葬儀は同月3日芝教会で行はれた。赤塚家は代々漆芸を以て家業とし、平左衛門を名乗り、彼は七代目に当る。蒔絵を専門とし現代漆芸界の巨匠であつた。明治4年東京市芝区浜松町に生る。同18年狩野久信に就て日本画を、翌年蒔絵を先考に学ぶ。20年勧学義塾の中等科に学んだ。尚明治43年には寺崎広業に就て日本画を、又同45年に白馬会洋画研究会に於て洋画を修めた。明治40年、東京勧業博覧会審査官、東京府美術工芸展の審査員に就任し、大正元年、日本美術協会の審査員に、同12年日本工芸協会の理事となつた。同13年工芸済々会の創立委員となり、昭和2年、日本美術協会展の審査主任、日本工芸美術会の創立委員となり、又帝展及商工省工芸展の審査員を仰付られた。同4年商工省工芸調査会の委員に任命され、翌年帝国美術院会員に任命された。
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