本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





池田永一治

没年月日:1950/12/30

洋風画家池田永一治は12月30日逝去した。享年62才。明治22年京都に生れた。永治、牛歩、田牛作等と号した。太平洋画会研究所に学び、満谷国四郎、中村不折、石井柏亭に師事した。主として文、帝展、太平洋画会展に出品した。太平洋美術学校教授として後進の薫陶にあたつた。漫画或は日本画をもよくし大正4年岡本一平、近藤浩一路と日本漫画会を起し、また平福百穂、小川芋銭等の珊瑚会に同人として日本画を発表した。  註、年令はすべて数え年を用いた。

渡邊審也

没年月日:1950/12/05

洋風画家渡邊審也は12月5日逝去した。享年76才。明治8年岐阜県に生れ、同23年上京、その長兄金秋について洋画を学んだ。同25年明治美術会教場に入学、浅井忠、松岡寿の指導を受け、同27年卒業した。その後も浅井の指導を受け、同28年明治美術会展覧会に「俊寛」を、同31年の同展に「猿曳」を出品して認められた。同34年太平洋画会の創立に参加し、毎年その展覧会に出品し、写実的な画風で知られた。のち時事通信社に入社して挿絵を担当し辞して文部省嘱託となつて教科書の挿絵を描いた。

安本亮一

没年月日:1950/11/06

漫画家安本亮一は食道癌のため11月6日長野市の自宅で死去した。享年50。明治34年東京浅草に人形師安本亀八の長男として生れ、大正13年東京美術学校彫刻科塑造部選科を卒業した。建畠大夢、池部鈞、岡本一平に師事し、春陽会展、帝展等に入選した。東京朝日新聞社学芸部に嘱託として紙上に漫画を画くなど主として漫画界に活躍した。

正木篤三

没年月日:1950/10/25

元国民精神文化研究所員正木篤三は、10月25日新宿区の自宅に於て逝去した。享年46。正木直彦の二男として東京に生れ、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部国文学科に学び、昭和5年卒業、同年帝国美術院附属美術研究所嘱託となり、同13年美術研究所員に任ぜられた。同16年国民精神文化研究所に転じて所員となつた。終戦後は、繊維貿易公団に勤務したが、病を得て再び立たなかつた。その著書に「本阿弥行状記と光悦」があり、「美術研究」誌上に発表した論文に「弥勒来迎図考」「川合家本聖徳太子伝絵考」などがある。

児島喜久雄

没年月日:1950/07/05

元東京大学教授、国立博物館評議員児島喜久雄は7月5日逝去した。享年64。明治20年10月10日東京市四谷区に於いて児島益謙五男として生れた。同39年7月学習院中等科卒業、同年第一高等学校独文科入学、同42年東京帝国大学文科大学哲学科入学、美学を専攻、翌43年4月から白樺同人となり同誌に寄稿した。大正2年7月、東京帝国大学卒業、引続き大学院に入学し、大塚保治教授指導の許に欧洲美術史研究に従う。同4年4月独逸学協会中学校独逸語教師を、更に翌5年5月学習院講師を嘱託され、又この年矢代幸雄と美術新報の編輯に当つた。同7年4月東京女子大学講師、同9年3月東宮職出仕を嘱託せられ、6月には学習院の教授となつた。同10年8月アメリカ経由欧洲に留学、ヴエルフリン、ボーデ博士等と共に欧洲美術史の研究に従事、留学中、東北帝国大学助教授、文部省留学生となつた、同15年7月帰国東北帝大に赴任した。昭和7年9月、帝国美術院附属美術研究所嘱託となり同9年11月、九州帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同10年3月東京帝国大学文学部助教授兼東北大学助教授となつた。同13年12月ベルリン日本古美術展開催に際し、独、仏、伊、米に出張し翌年5月帰国した。同14年京城帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同15年美術振興会調査会委員となつた。同16年東京帝国大学教授となり、美術史学講座を担当、同21年6月国宝保存会委員となつた。同23年3月東京大学を停年退職、同月、国立博物館評議員、4月早稲田大学文学部講師、5月長尾美術館々長となり24年1月には大学設置委員会委員、東京工業大学講師となつて逝去迄在任した。著作に「レオナルド・ダ・ヴインチ」、「西洋美術館めぐり」「美術概論」「希臘の鋏」などあり、油絵肖像画、装幀などにも筆をとつた。

松方幸次郎

没年月日:1950/06/27

かつて世界的に有名であつた松方コレクシヨンの主松方幸次郎は、6月27日鎌倉市の自宅で逝去した。享年84。公爵松方正義の三男で川崎造船社長、松方日ソ石油社長、衆議院議員として実業界、政界に活躍した。第一次世界大戦後ヨーロツパ各国に於て、多くの西洋絵画及び彫刻、工芸品を購入し、松方美術館を計画したが、完成を見ずその蒐集品は四散した。しかし、わが近代美術の発達に与えた功績は極めて大きい。又彼の蒐集した浮世絵は戦時中帝室へ献上し今日国立博物館に移管されて、その量と質に世界有数のものとして知られている。

和田嘉平治

没年月日:1950/06/18

病気のため6月18日東京都新宿区の自宅で死去。享年67才。明治7年栃木県生、41年東京美術学校卒業、43年-大正6年滞欧、伊太利国立美術学校を卒業していた。

鹿島英二

没年月日:1950/05/01

染色図案家として知られた鹿島英二は脳出血のため5月1日東京中野の自宅で死去した。享年77。明治7年鹿児島県に生れ、東京高等工業学校教員養成所図案科を卒業した。農商務省の練習生としてニユーヨークに図案研究のために留学し、明治43年の日英博覧会に際して欧洲に出張した、東京高等工業学校、東京美術学校、東京高等工芸学校等の教授として図案教育に力を尽し、更に中華民国立北京芸術専科学校の教授をもつとめた。帝文展の審査員、商工省工芸展覧会等の審査員として活躍し、代表作としては文展に出品した多くの屏風に佳品がある。

尾川藤十郎

没年月日:1950/04/24

東京都美術館長尾川藤十郎は東京杉並の自宅で4月24日脳溢血のため死去した。享年64。明治20年群馬県に生れ、大正3年東京美術学校師範科を、更に広島高等師範学校教育科を卒業した。東京都美術館主事を経て館長をつとめた。

六角紫水

没年月日:1950/04/15

芸術院会員漆工家六角紫水は尿毒症と老衰のため4月15日東京杉並の自宅で逝去した。享年84。本名を注多良といい、慶應3年広島県に生れた。明治26年第1回卒業生として東京美術学校漆工科を卒え、その年より同校の助教授をつとめた。同37年岡倉天心等と共に渡米し、ボストン博物館東洋部に勤務した。更にメトロポリタン博物館に勤務し、41年渡欧 ロンドン、パリ、ドイツ各地を巡つてロシヤ、清国を経て帰朝した。帰朝後再び東京美術学校に教鞭をとり後進の指導に当ると共に、楽浪漆器の研究を行い、又アルマイト漆器、彩漆等にも造詣が深かつた。昭和2年帝展に工芸部が新設されてより審査員或は無鑑査として帝文展に作品を発表する等漆芸界に残した功績は大きい。昭和16年には芸術院会員に推された。代表作に昭和5年第11回帝展に出品して帝国美術院賞を受けた「暁天吼号之図漆器手箱」、第14回帝展「海辺と湖辺衝立」、昭和14年第3回文展「抹金画飾台、慶祥山水図」等がある。

吉田博

没年月日:1950/04/05

洋風画壇の長老であり、太平洋画会々長吉田博は4月5日新宿区の自宅で老衰のため逝去した。享年73。明治9年福岡県久留米市に生れ、福岡の修献館に学び、洋風画家吉田嘉三郎の養子となつた。同26年京都に出でて田村宗立に師事し、翌27年東京に移り、不同舎に入つて小山正太郎の指導を受けた。明治美術会に入り、同31年の同会10周年記念展に「雪叡深秋」「雲」などを発表して漸くその名を知られた。同32年自作の水彩画を携行し、中川八郎と共にアメリカに赴いて展覧会を開き、次で、英、仏、独、伊等を巡歴、同34年帰国した。同33年のパリ万国博に「高山流水」を出品、褒状を受けた。帰国の年、同志と共に太平洋画会を創立し、その逝去に至るまで同会の為につくした。同35年同会第1回展に「榛名湖」等油絵13点、同36年の第2回展に「昨夜の雨」等21点を出品した。この年再び欧米旅行に出発、米国、欧洲諸国及びモロツコ、エジプトを巡歴し、同39年帰国した。この間、同37年米国聖路易万国博に「昨夜の雨」を出品して銅牌を受け、太平洋画会に滞欧作を送つた。同40年東京府勧業博に「ニユーヨークの夕暮」を出品して2等賞を受けた。この年の第1回文展に「ピラミツドの月夜」「新月」(水彩)を出品、後者に2等賞が授けられた。その後の第2回文展に発表した「雨後の夕」(水彩)、第3回文展の「千古の雪」にそれぞれ2等賞が与えられた。同43年文展審査員となり、大正2年に及んだ。その後は、無鑑査として毎年文展に出品した。大正8年帝国美術院創立後もその展覧会に作品を発表、「雨後」(第1回)「マウント・シヤスター」(第5回)「精進湖」(第7回)「白馬鎗」(第9回)等があり大正13年以来数回にわたり帝展委員或は審査員となつた。此の間三度欧洲に遊んだ。その後も官展及び太平洋画会展に作品を送り、晩年太平洋画会々長となつた。彼は風景画家として知られたが、木版による多くの作品をも遺した。

河野通勢

没年月日:1950/03/31

新聞小説の挿絵に特異の境地を出して大衆的人気をよんだペートル河野通勢は3月31日逝去した。年55。明治28年群馬県に生れ、一時は長野にも住んでいたことがある。二科会第1回から出品し、草土社展にも発表、大正13年春陽会賞をうけ、15年春陽会々員となつたが、昭和4年国展会員に推薦されて以後この会にとどまつた。代表作には11回文展の「自画像」や第8回国展「ピクニツク」などがあり、突きこんだ異色ある人物画をかいた。エツチングにも特色を出し、また挿絵等の風俗描写にも鋭い表現を示した。

川村吾蔵

没年月日:1950/03/11

戦後マ元帥、アイケルバーカ中将など進駐軍高官の肖像を製作して注目された川村吾蔵は3月11日胃癌のため米海軍横須賀基地EMクラブ内のアトリエで死去した。享年66才。明治17年8月17日長野県に生れ36年県立上田中学卒業、翌37年美術研究学生として渡米し、以来米国を主として仏、英、伊、独にあること約40年、其の間、明治42年仏国に留学した際は巴里及びジヴアニーの知名の彫塑家ド・F・W・マクモニースの助手として、研究に精進し45年エコール・デ・ボザールに入学しては特待生となつた。作品としては恩師マクモニースと共同して製作した紐育市図書館前の噴水像や同じく市庁前の噴水像等紐育市の著名な記念像製作者として名をなし、大正6年以降にはクーリツヂ大統領胸像や故華頂宮博忠王殿下の胸像等知名の士の胸像製作の他、ホルスタインの模範乳牛牡牝一対製作以来牛馬の研究10ヶ年、作品は教育材料として全米の農科大学及び日、英、仏、独、カナダの農科大学に設置され、牛の彫塑の一人者として認められていた。かく欧米彫塑界では著名となつたが昭和15年帰朝故郷に引揚げ戦時中のこととて不遇のうちに終戦を迎えた。21年3月、第1回日展に「ミスター・ブロクター」を出品し、翌22年9月横須賀米海軍基地司令官デツカー少将の厚意により横須賀に移住、アトリエを貸与され、再起製作に励んだ。マツカーサー元帥、ア中将、デツカー少将等々進駐軍首脳のブロンスを次々と製作、最後に尾崎咢堂、ヘレンケラーの塑像製作半ばにして長逝した。

野上豊一郎

没年月日:1950/02/23

能楽研究家として知られた野上豊一郎は2月23日東京世田谷の自宅で脳出血のため死去した。享年68。明治16年大分県に生れ、同41年東大文学部英文科を卒業、法政大学教授を経て昭和21年法政大学総長となつた。「能・研究と発見」「幽玄と花」等の著書があり、能の海外紹介に活躍した。能面に関する造詣も深く、重要美術調査委員会の嘱託であつた。

大国貞蔵

没年月日:1950/02/11

元帝展審査員大国貞蔵は2月11日脳溢血のため芦屋市の自宅で死去した。享年61才。明治23年大阪に生れ大正5年東京美術学校彫刻科を卒業、同年文展初入選以来終始官展に作品を発表し、その間大正9年第2回帝展に「生」が特選、翌年再特選、11年推薦となつた。同年東京平和博覧会彫刻部審査員となり、翌12年第5回帝展審査員を拝命、更に第6回にも審査員に重任され、彫塑界の重鎮として知られた。昭和4年より5年にかけ文部省より嘱託され外遊した。展覧会出品以外の主なる作品に極東選手権競技大会の優勝楯「勝者に栄光あれ」や大阪ビルデイング玄関上部の「少女と鷲」がある。戦後日展出品の「顔」が最終作となつた。大正12年関東大震災以来、関西にあり、大阪近辺の彫塑家の育成に貢献するところがあつた。

芝田徹心

没年月日:1950/02/06

元東京美術学校長芝田徹心は2月6日三重県の自宅で心臓弁塞のため死去した。享年82。明治12年三重県に生れ、同36年東大哲学科を卒業、八高校長 女子学習院長等を歴任した。昭和11年から15年迄東京美術学校長をつとめた。

南薫造

没年月日:1950/01/06

帝室技芸員、日本芸術院会員南薫造は、1月6日広島県賀茂郡において逝去した。享年68。明治16年同郡に生れ、同35年東京美術学校西洋画科に入学、同40年3月卒業した。同年イギリスに留学、ボロー・ジヨンソンに師事し、同42年フランスに転じて研究を続け、翌43年に帰朝した。同年第4回文展に「坐せる女」を出品して3等賞を受け、第5回文展に「瓦焼き」第7回文展に「春さき」、第9回文展に「葡萄棚」を出品していずれも2等賞を授けられた。大正5年以来文展及び帝展審査委員に挙げられ、昭和4年帝国美術院会員を仰付けられた。帝展に発表した作品に「とりいれ」(第2回)「結氷の湖水」(第3回)「湖畔」(第4回)「鶴渡る」(第10回)「まきば」(第12回)等がある。昭和4年東京工業大学講師となり、同7年東京美術学校教授に任ぜられ、同19年に及んだ。同12年帝国芸術院会員を仰付けられ、同19年帝室技芸員を拝命した。終戦後も疎開先に在つて、文展或は光風会等に作品を送つたが、遂に東京に帰ることなくして没した。

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