久保守

没年月日:1992/11/29
分野:, (洋)

独自の詩情の漂う画風で知られた東京芸術大学名誉教授の洋画家久保守は、11月29日午後3時10分、呼吸不全のため静岡県沼津市の聖隷沼津病院で死去した。享年87。明治38(1905)年2月27日、札幌区に生まれる。同45年札幌区立北九条尋常小学校に入学し、大正3(1914)年同区立西創成尋常小学校に転校。同7年同校を卒業して北海道庁立札幌第一中学校に入学。課外クラブで林竹次郎に師事し、また三岸好太郎、俣野第四郎らを知った。この頃の作品には草土社の影響が見られる。同12年札幌第一中学校を卒業し、画家を志して上京。本郷絵画研究所、ついで川端画学校に学び、同13年東京美術学校西洋画科に入学。岡田三郎助教室に学び、また石井鶴三の指導を受けた。昭和2(1927)年第5回春陽会展に「森の家」で初入選する。同4年生涯師とあおぐこととなった梅原龍三郎の知遇を得る。同年3月東京美術学校を卒業。翌4年3月渡仏し、アカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ一方、ルーヴル美術館でヴェラスケス等古典絵画の模写を行なう。また、ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリス、スペイン等を訪ね、同年冬、カーニュで片山敏彦、中村博と共同生活を送った。同6年春イタリア各地を巡り、フレスコ画の質感に共感を覚え、後の制作への一指針を得た。同年10月帰国。まもなく北海道美術協会会員となる。渡仏中も春陽会展への出品を続けていたが、帰国の翌年、梅原龍三郎の勧めにより同会を退いて国画会に参加。同年の第7回国画会展に「巴里サン・ミシェル橋」「ノートルダム・ド・パリ」等滞欧作10点を出品して同会会友に推される。同12年、同会の会友制が廃止されたのに伴い国画会同人となる。同13年第2回新文展に「かんな」を初出品し入選。後、同14年第3回新文展に「群鶏」、同15年紀元2600年奉祝展に「甕」、同16年第4回新文展に「石庭」、同18年第6回新文展に「三つの林檎」を出品するなど、国画会の他に官展にも出品した。この間、同17年第6回佐分賞受賞。同18年国画会会員となり、同19年6月東京美術学校油画科講師、同年8月同科助教授となった。戦後は国画会の他に日本国際美術展、現代日本美術展、国際具象美術展に出品。同48年以降は国際形象展に招待出品した。同41年東京芸術大学教授となり、同47年停年退官、同年5月国画会をも退き、以後は団体に属さず、個展、国際形象展、在住地の世田谷美術展等に出品。同57年から毎年、東京日本橋三越で「久保守展」を開催した。同59年東京芸術大学名誉教授となる。同60年11月、静岡県伊東市八幡野立土にアトリエを建てて転居。同61年6月、郷里の北海道立近代美術館で「形象のソリスト-久保守展」が開かれ、初期から昭和50年代までの作品が展示された。初期には自然を再現的に描写する写実的作風を示し、滞欧期には人物画も多数描いたが、昭和30年代に入ると、静物画、風景画が多くなり、人物は幾何学的形体にデフォルメされて画面の一構成物として登場するようになった。色彩も梅原が初期から認めた独自の調和を持つパステル調の明るく淡雅なものへと変化した。代表作に、画家が少年期から好んだ音楽に関連する題材を描いた「残響」等がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(328頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「久保守」『日本美術年鑑』平成5年版(328頁)
例)「久保守 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10443.html(閲覧日 2024-04-19)

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