本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





安保健二

没年月日:1994/12/29

読み:あんぽけんじ  新制作協会会員の洋画家安保健二は12月29日午前1時30分、心不全のため横浜市鶴見区東寺尾中台の自宅で死去した。享年72。大正11(1922)年3月22日愛媛県新居浜に生まれる。昭和6(1931)年、横浜に移り住む。神奈川県立川崎中学校在学中、同校の美術部で小関利雄に師事。のち佐藤敬のアトリエで開かれていたデッサン会に通う。同17年東京美術学校油画科に入学。翌年学徒出陣し、同20年終戦をむかえて復学。同21年第1回日展に「S嬢の像」で初入選。同23年東京美術学校を卒業。同校では寺内萬治郎、小磯良平に師事した。同24年第13回新制作協会展に「黒人兵」で初入選。同27年第16回同展に「トラックと鉄屑」「壊れた自動車」を出品して新制作協会新作家賞を受賞。この頃から同30年代にかけて、工場や埋め立て地等、高度経済成長により変化していく景観をとらえている。やがて破船や船の骨組みをモティーフに、画面構成の力強い作風へと移行。同41年新制作協会会員となる。同43、44年安井賞展に出品。同47年、美術教育法研修のため渡米。同49年、英、仏に、同52年スペイン、ポルトガルに旅行。同58年ギリシャ、フランスへ、同59年スペイン、同60年フランスへ赴く。同61年オランダ、ベルギーに同62年ユーゴスラヴィアに旅行。平成元(1989)年横浜市民ギャラリーで「安保健二自選展」が開かれた。船、海、港の風景を好んで描き、おだやかで静かな趣のある作風を示した。

森田曠平

没年月日:1994/12/29

歴史に取材した作品や女性像に独自の画境を示した日本美術院同人の森田曠平は12月29日午後5時50分、心不全のため川崎市中原区の市立井田病院で死去した。享年78。大正5(1916)年4月17日京都市中京区烏丸二条下ル秋野々町に生まれる。母方の祖父茂は浜口雄幸内閣の衆議院議長や第11代京都市長をつとめ、美術品収集家でもあり、橋本関雪、土田麦僊、富田渓仙らと親交があった。10歳で結核性腹膜炎にかかるなど幼い頃から病弱で、絵や祖母のよくした能、謡曲に親しむ。昭和5(1930)年本庄尋常高等小学校を卒業し私立甲陽中学に入学するが、同7年京都府立第三中学校(現・府立山城高校)に転入。この頃より関西美術院に通い、伊谷賢蔵らにデッサンと油絵を学ぶ。同10年第l回京都市美術展洋画部に「洛北風景」で入選。東京美術学校西洋画科への進学を希望するが、病弱のため京都を離れることを許されず、京都市立絵画専門学校への入学を志して、当時京都市立美術工芸学校教師であった前田荻邨に入門する。しかし、間もなく結核が再発して進学を断念。同11年京都府立第三中学を卒業後は、独学で絵画、陶芸を制作する。同15年より小林柯白に師事して本格的に日本画を学ぶ。同18年第30回院展に「広沢の冬」で初入選。同19年安田靫彦に入門。戦後の同21年第31回院展に「比叡山」で入選し、以後同展に出品を続ける。同23年京都から小田原に転居し、翌24年より数年間、小田原市立第三中学校図画教師をつとめる。同30年横浜市に転居。翌31年多摩美術大学日本画科助教授となり、同年の第41回院展出品作「波止場」で奨励賞を受賞する。翌32年第42回院展では「磯」で再度奨励賞を受賞。同36年第46回院展では「大原女」で、同39年第49回院展では「流人島にて」で奨励賞を受賞。同40年第50回院展では「洛北仲秋」で日本美術院賞(大観賞)を受賞。同41年第51回院展に「虫あわせ」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、翌年第52回院展に「歌占」を出品して奨励賞(白寿賞・G賞)、同43年第53回院展に「桜川」を出品して日本美術院賞(大観賞)と受賞を重ね、同43年日本美術院同人に推される。同48年第58回院展に「京へ」を出品して内閣総理大臣賞受賞。同51年中国を訪れ北京、西安、桂林、広州、上海等に赴く。同52年南蛮風俗を取材するためスペイン、ポルトガル、イタリアへ旅行。同53年訪欧。同54年オランダ、オーストリア、ドイツ、同55年スイス、フランス、イタリア、同56年スイス、フランス、ベルギー、同57年スイス、イタリア、イギリス、同59年スペイン、イタリア、イギリスを訪れる。同57年第67回院展に「花鎮め」を出品して文部大臣賞受賞。画集に『森田曠平』(三彩社、昭和50年)、『森田曠平文集』(大日本絵画、昭和61年)、『森田曠平自選画集 夢幻女人』(集英社、昭和54 年)、『森田曠平画文集 歴史画のこころ』(大日本絵画、同58年)などがある。

小林尚珉

没年月日:1994/12/27

日展会員の彫金、鍛金作家小林尚珉は12月27日午前6時20分肺炎のため京都府宇治市の病院で死去した。享年82。明治45(1912)年6月25日青森市に生まれる。本名国雄。昭和15年2600年奉祝展に初入選。以後、新文展第4回、第5回に入選。日展には第2回目から出品を続ける。同27年祇園祭の菊水鉾の再興に際し鉾の金具を制作。同29年第10回日展に「浴光鉄打出置物」を出品して北斗賞を受賞する。同38年青森市、弘前市で個展。同39年第7回日展に「創生」を出品して菊華賞受賞。同42年日本現代工芸美術展会員、翌43年日展会員となる。同52年青森市で「小林尚珉父子四人展」を開催。同54年日本新工芸家連盟が創立されるとその創立会員となったほか、平成元年京都創工展創立会員、同3年日工会創立会員となった。昭和60年京都府文化功労者に選ばれている。同54年青森市制施行80周年記念「アルミ打出し―白鳥」(青森市民美術館蔵)、平成2年滋賀県湖東町立老人福祉センターロビーに「双鶴―アルミニウム打ち出し壁画」など大規模な作品も制作した。

古田行三

没年月日:1994/12/22

国指定重要無形文化財「本美濃紙」の保持団体「本美濃紙保存会」会長をつとめた古田行三は12月22日午前6時55分脳こうそくのため岐車県美濃市蕨生1914-1の自宅で死去した。享年72。大正12(1923)年3月10日岐阜県美濃市蕨生1914-1に父恒二、母なつの長男として生まれる。昭和11(1936)年下牧高等小学校卒業。同年4月製紙試験場で古田健ーに実技研修を受け、同年5月より自宅で父母の指導のもとに紙漉きを学ぶ。同15年紙業界不況のなかで漉き手として自立するが、同18年徴兵され、同20年12月復員するまで家業を離れる。紙漉き業界は戦時下の原料統制、戦後の混乱のなかで低迷し、同30年代の高度成長期には後継者不足に悩んだ。こうしたことから、同35年那須楮を原料としている紙漉き業者が協議して生産協同組合を結成、同43年同組合を「本美濃紙保存会」と改称し、その初代会長となる。同会は翌44年文部省により重要無形文化財保持団体の認定を受ける。同50年代後半から文化財保存等の観点から美濃紙が再評価され、海外での紙漉きの実演、指導等が行われるようになり、一方、原料を海外に求める等、生産技術の革新も試みられるようになった。原料問屋が紙の市場を支配し、紙漉き人は問屋から楮を借りて生産するという旧体質を改善し、洋紙の大量生産によって衰退の一途を辿りつつあった美濃紙の紙漉ぎ技術を守り伝えることに尽力した。

曽宮一念

没年月日:1994/12/21

元二科会会員、国画会会員として活躍し、昭和40年に失明し画業を廃したのちもエッセイスト、歌人として知られた洋画家曽宮一念は、12月21日急性心不全のため静岡県富士宮市泉町の自宅で死去した。享年101。はやくから風景画に独自の作風を示した曽宮は、明治26(1893)年9月9日東京市日本橋区漬町(現中央区日本橋浜町)に父下田喜平、母たみの子として生まれた。本名喜七。翌年、新聞社の編集長などをつとめた曽宮六佑の養子となり、同39年早稲田中学校へ入学、すでに水彩画への関心を強めており、翌年から大下藤次郎の日本水彩画会研究所へ通い大下や丸山晩霞の指導を受けた。中学卒業の同44年には赤坂溜池の白馬会研究所へ通い、同年東京美術学校西洋画科予備科に入学、同期に耳野卯三郎、寺内万治郎らがいた。美校では藤島武二、山下新太郎の指導を受け、在学中に光風会第1回展から出品、大正3年には第8回文展に「酒倉」が入選し褒状を受けた。同5年中村彝を識りその影響を受け、同年東京美術学校を卒業した。同8年、第7回光風会展に「娘」で今村奨励賞を、第9回展でも同賞を受賞した。この間、福島県石川町、兵庫県西宮町などに居住したが、同9年に上京し、翌年豊多摩郡下落合623番地にアトリエを構えた。また、同年の第8回展から二科会に出品し、同14年の第12回二科展出品作「冬日」で樗牛賞を受賞、翌年二科会会友、昭和6年二科会会員となった。ついで、昭和10年に独立美術協会会員となり、第5回独立展に「種子静物」他を発表したが、同12年には独立美術協会を離れ国画会に所属した。戦時中静岡県に疎開し、戦後は富士宮市に居を定めて制作活動を行った。同29年第1回現代日本美術展に「風の日」を出品、同展へは第4回展まで連続出品した。国画会展へも出品を続け、「雨後」(30回)、「桜島黒神」(36回)などを発表し、奔放な筆触と大胆な色調による独自の風景表現を拓いたが、同40年には緑内障による視力障害のため国画会を退会、同46年には両眼を失明し画業を廃した。この間、同33年の随筆集『海辺の熔岩』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど、すぐれた文筆の才も示した。その後は、自ら「へなぶり」と称した短歌をはじめ、詩や書に親しんだ。著作に『東京回顧』(昭和42年)、詩画集『風紋』(同52年)、『武蔵野挽歌』(同60年)などがある。また、昭和62年10月には、静岡県立美術館で画業の全容を明らかにする充実した回顧展が開催された。年譜、文献等は同展図録に詳しい。なお、本人の遺志で遺体は日本医科大学へ献体され、葬儀、告別式は行われなかった。

関谷四郎

没年月日:1994/12/03

国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の鍛金家関谷四郎は12月3日午前3時10分、肺炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年87。明治40(1907)年2月11日、秋田市外旭川字家ノ前(現、秋田市保戸野新町)に生まれる。5才の時、父を失い幼時の大病によって足が不自由になったことから、座業を生業とするべく秋田市内の森金銀細工工店で秋田の伝統工芸、銀線細工を学ぶ。昭和2(1927)年、秋田県主宰の鍛金講習会のため来県していた河内宗明に出会い、同年弟子入りする。同6年より日本鍛金協会展に出品を重ねる。同13年独立して東京の本郷団子坂に工房を設立。同17年第5回新文展に「銀流し花瓶」で初入選。以後同展、日展に出品する。同37年より日本伝統工芸展に出品し、同38年伝統工芸新作展で奨励賞、同40年日本伝統工芸展で優秀賞、同年の伝統工芸新作展で優秀賞、教育委員会賞、同43年日本伝統工芸展で総裁賞を受賞。同44年以降日本伝統工芸展に招待出品を続け、たびたび審査員を努める。同48年新作工芸展20周年記念展で特別賞、同51年同展で稲垣賞受賞、同52年国指定重要無形文化財保持者に認定された。彫金による表面加工を行わず鍛金のみで豊かな質感をもたせる工夫として、異種の細い板金をろうで溶接する接着技法を創出しその織りなす洗練された、幾何学文様と、表面の質感を特色とする斬新な作風を示した。金工作家グループ東京関友会を同56年、秋田関友会を同60年に設立、後進の育成にも尽力した。同62年秋田魁新報社主催により傘寿記念展を開催。平成6年8月28日から10月2日まで秋田市立赤れんが郷土館で「米寿記念人間国宝関谷四郎展」を開催した。

ベル・串田

没年月日:1994/12/02

二科会理事の洋画家ベル・串田は12月2日午前5時20分心不全のため岡山市の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月20日岡山県上道郡金田村(現・岡山市金田)に串田千尋、金子の長男として生まれる。本名串田岩彦。生家は祖父の代から金田村村長をつとめていた。岡山大学教育学部の前身である岡山師範学校技能科美術部を卒業し、高等女学校教諭となる。同10年より3年聞にわたり満州、朝鮮、中国をめぐる。昭和13(1938)年第25回二科展に「少女仮睡図」で初入選したのを機に退職し、画家を志して藤田嗣治、東郷青児に師事する。戦後も二科展に出品し、昭和25(1950)年第35回二科展に「お話し」「郷愁」を出品して特待となる。同32年渡仏。同36年および37年に渡米。同38年同展に「あはれ文化」を出品して同会会友に推挙される。同36年第46回同展に「田園詩集」を出品し同会会員に推される。同38年第48回同展に「ニューヨークサーカス」「ハワイアンパラダイス」を出品して会員努力賞を受賞。同41年アメリカ、オランダ、スイス、スペイン、フランスを訪れ制作。同42年フランスを経てニューヨークに渡り制作。同44年ニューヨーク、シカゴ、ニース、カンヌに渡り制作する。同48年第58回同展に「日本讃歌」を出品して同会総理大臣賞を受賞する。以後も、欧米、オーストラリア等を訪れて制作。同55年二科会監事、同59年同会理事となった。画中に蝶を描くことを好み、すべらかなマティエール、明快な彩色で風景、人物を描き、時に童画風の作風を示した。

吉野正明

没年月日:1994/12/01

二科会評議員の洋画家吉野正明は、12月1日多臓器不全のため東京都板橋区の病院で死去した。享年81。大正2(1913)年11月17日熊本県菊池市に生まれる。台北第二師範学校を卒業。昭和16年第28回二科展に初入選、以後同展に出品を続け、同35年の二科展で特選を受け、翌年二科会会友、同41年には二科会会員となった。同57年二科展会員努力賞受賞、同59年二科会評議員となる。二科展での制作発表の他、個展も数多く開催した。二科展への出品作に「雪と古城」(第67回)、「白亜の宮殿」(70回)などがあり、同63年には広島赤十字原爆病院に「ベニスの大競艇」を寄贈した。

庫田叕

没年月日:1994/12/01

読み:くらたてつ  元東京芸術大学教授の洋画家庫叕は12月1日午後8時38分、肺炎のため東京都世田谷区の木下病院で死去した。享年87。明治40(1907)年2月7日、福岡県宗像郡福開町に生まれる。本名倉田哲介(くらた・てつすけ>。大正12(1923)年宗像中学を4年で中退。翌年上京して川端画学校に入り約3年間、人体研究等を行った。昭和4(1929)年第16回二科展に倉田哲介の名で「溜池風景」「池畔風景」を初出品。同6年第18回同展に「猫と女」「白い風景」、同7年第19回同展に「三夜荘風景」を出品する。同10年師高村光太郎の推薦により青樹社で個展を開き、翌年にも青樹社で個展を開催。同12年第12回国画会展に「松」「松小品」を庫田叕の名で初出品し、同会同人となる。翌13年第2回新文展に「松と竹」で初入選し特選受賞。翌14年第3回同展には「松」を出品して再度特選となった。官展には同15年の紀元2600年奉祝展に「牡丹」、同17年第5回新文展に「龍頭」、同19年戦時特別展に「蓮」を出品した後出品せず、国画会展のほか、同14年4月求龍堂と兜屋の共同主催による三昧堂での個展、同16年求龍堂主催による資生堂での個展等、個展を中心に作品を発表。同33年国際具象派展に出品。同35年渡欧し、主にローマに滞在して同37年帰国する。同38年東京高島屋および大阪、名古屋のフォルム函廊で滞欧の成果を示す「滞イタリー展」を開催。同43年より49年まで梅原龍三郎を囲む5人の画家による臥龍会展に毎年出品する。同46年彩壺堂サロンで「石の系譜」展を開き、同年国画会を退会した。翌47年東京芸術大学油画科教授に就任。同48年同大学陳列館で旧作展を開く。同49年同大学を停年退官。同53年イタリアを再訪して翌54年日動画廊で「再訪のイタリア」をテーマとして個展を開催。同58年日本橋三越で「樹木と石と花」をテーマに個展を開いた。木、特に松のある風景を得意とし、緊密な構図と明快な色調をもつ豊かな画風を示した。

佐藤蔵治

没年月日:1994/11/29

日展会員、日本彫刻会運営委員の佐藤蔵治は、11月29日急性心筋こうそくのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年75。大正8年11月6日福島県安達郡岩代町小浜下杉内に生まれる。戦後から制作発表を開始し、昭和33年の日彫展に初入選、同35年には同展で奨励賞を受賞、また同年第3回新日展に初入選した。同42年第10回日展に「孤柳」で特選を受け、日彫展でも日彫賞を受賞、同48年の改組日展第5回に「ポーズする女」で再度特選を受けた。日彫展審査員、日展審査員もつとめ、同56年日展会員に推挙され、同60年には日彫会運営委員となった。

田中繁吉

没年月日:1994/11/01

創元会創立会員で同会理事長の洋画家田中繁吉は11月1日午前3時50分、肺炎のため東京都世田谷区の駒沢病院で死去した。享年96。明治31(1898)年9月13日、福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1059に、父勘助、母かよの第12子6男として生まれる。生家は地主で郡下屈指の素封家であった。同44年山鹿尋常小学校を卒業し東筑中学校に進学。同校の美術教師で東京美術学校出身者であった藤崎某に油絵を学び東京美術判交進学を志す。大正5(1916)年春に上京し、同年東京美術学校西洋画科に入学。1年次には長原孝太郎、2年次に小林万吾、3年からは藤島武二に師事する。同級生に伊原宇三郎、前田寛治、鈴木千久馬、鈴木亜夫、田口省吾らがいる。同10年東京美術学校を卒業して同校研究科に進学。同11年第14回帝展に「ロミちゃんの庭」で初入選。前田寛治の勧めにより同15年春に渡仏。はじめアカデミー・グランショーミエールに学ぶが、のちアカデミー・ランソンに移りビシエールに師事。当時評の高まっていたキスリングに魅せられ、豊潤な色調の女性像を多く描くようになる。昭和3(1928)年7月に帰国。同年第9回帝展に「婦人像」で入選。翌4年白日会会員となる。同8年第14回帝展に「三人裸婦」を出品して特選受賞。同19年創元会創立会員となる。同32年再度渡欧し翌年帰国。同年日展評議員、同49年日展参与となる。同60年東京池袋西武アートフォーラムで「画業六十年記念田中繁吉展」が開催された。明快な色調の婦人像を得意とし、鮮やかな紫、緑などを使用した独特の色彩感覚を示した。

堀井英男

没年月日:1994/10/20

日本版画協会会員の銅版画家堀井英男は10月20日午前10時36分、肺がんのため東京都府中市の病院で死去した。享年60。昭和9(1934)年5月13日茨城県行方郡潮来町上町109に生まれる。茨城県行方郡潮来町立小学校、同町立中学校を経て同25年県立潮来高校普通科に入学。在学中に東京美術学校出身者である後藤市三教諭に油絵を学ぶ。同28年同校を卒業し、翌21年文化財保護委員会(現、文化庁)庶務課に勤務する。同萩原英雄に師事し版画に興味をいだく。同30年、勤務のかたわら東京鴬谷・寛永寺坂美術倶楽部に通い絵画を学ぶ。同31年文化財保護委員会を退職して同年4月より東京芸術大学油画科に入学。同35年、同科を卒業して同大学院に進学する。同年既成の画壇に疑問をいだき、グループを結成。翌36年3月、東京芸術大学大学院を中退し、同年4月より東京都中央区月島第三中学校図工科講師となる。同37年私立立正高校美術科教諭となるが同40年3月画業に専念するために退職。同41年より油絵のかたわら独学で銅版画の制作を始める。同42年第35回日本版画協会展に「仮装No.3」「仮装No.1」「仮装No.8」で初入選。「仮装No.8」は日本版画協会賞を受賞。同年同会会友に推され、翌年同会会員となる。同44年第8回ユーゴスラヴィア国際グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ近代美術館)に出品。同年オーストラリアのメルボルンで個展を開催。同45年第3回クラコウ国際版画ビエンナーレに出品するなど国際的に活躍。同47 年詩画集『夢のそとで』 (黒田三郎詩・堀井英男版画)をプリント・コレクターズ・サロンより刊行。同48年版画集『水のさと』(白興出版)刊行。同51年高沢学園・創形美術学校版画科主任となる。同53年12月、詩画集『死の淵より』(高見順詩・堀井英男版画)がプリント・アートセンターから刊行され、同書発行記念「堀井英男新作展」を銀座松屋で開催。同60年11月、私学共催海外派遣研修旅行でパリ、ミュンヘンなどを中心に1ヶ月滞欧。その後、平成元(1989)年パリ国立美術学校・倉形美術学校の交換展のためパリへ、翌2年4月中国へ、同年11月及び同3年6月イタリアへ赴く。同3年4月創形美術学校校長となる。また昭和57年より金沢美術工芸大学で非常勤講師をつとめた。

田畑一作

没年月日:1994/10/19

新制作協会会員の彫刻家田畑一作は10月19日午前10時16分肺がんのため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年78。大正4(1915)年5月15日京都市中京区小川夷川上下ル下丸尾町に生まれる。父は菊池芳文門下の日本画家田畑秋濤。昭和8年京都府立一中を卒業。この頃より彫刻に志し、同年関西美術院に入り黒田重太郎に絵を学ぶ。同9年5月上京して二科会の番衆技塾に入学。藤川勇造に学び、恩師藤川の死去以後は、菊池一雄に師事する。同11年第1回新彫塑協会展に「長野君」で初入選。同16年第16回京都市展に「村の道」(油絵)「妹の像」(彫刻)で入賞。同年第6回新制作派協会展に「村井中尉」「千田大尉」で初入選の後同二展に出品をつづける。同19年第9回新制作派協会展に「久子」「戦傷荒木上等兵」を出品して新作家賞受賞。同21年第1回京展に「姑」を出品して京都新聞社賞受賞。同年上京して第10回新制作展に「画家藤田氏」「稲村君」を出品して新作家賞を受け同24年同会会員に推される。同37年9月ガーナのアクラ市内にある国立コルレブ病院に、同院で死去した野口英世の胸像をたて野口博士記念庭園を造るためにガーナを訪れ、同地の人々や黒人彫刻に感銘を受ける。この後、「若いマミー」「運ぶダゴンバ」等大地に根ざした生命感あふれる作品を制作しつづけ、同48年3月16日より21日まで銀座松屋7階画廊で「田畑一作展―アフリカ」を開催。同55年甲府の浅川画廊で田畑一作彫刻展を開く。同58年東京現代彫刻展に「花信園」を出品して大衆賞受賞。同59年大津の西武百貸庖4階画廊で個展を開いた。「肖像彫刻はモデルの一代記のようなもの、また彫刻の設置には周囲の修景が必要」とする藤川勇造の教えをうけ、肖像に佳作を生んだほか、昭和34年のエーザイ本庄工場造園、同37年ガーナ市コルレブ病院構内の日本庭園造庭、同年電気通信労政会館で竣工記念彫刻「飛びたつ白鳥」等彫刻を含む公共空間の制作にあたっては、「岩はきずいて草をすまわせる」ことをモットーに設計等も行なった。作品が「風吹けばにおう花のように」あることを目指し、大地と生命力が均衡を保ちつつ存在する植物のように自然と調和する造形を追求した。

星崎孝之助

没年月日:1994/10/15

二紀会評議員の洋画家の星崎孝之助は、10月15日心不全のため神奈川県中郡大磯町西小磯の自宅で死去した。享年88。明治38(1905)年12月17日神奈川県小田原市に生まれる。正則英語学校を経て昭和3(1928)年渡仏し、英仏文学研究とともに油絵を学び、同6年以降、アンデパンダン展、サロン・ド・メ展及び個展で制作発表を行なった。戦後もパリを拠点に日仏聞をしばしば往来し、国内では同32年二紀会委員に迎えられた。同42年、東京日本橋の東邦画廊で個展を開催、「創生」(同31年作)などを発表した。

中尾彰

没年月日:1994/10/06

読み:なかおしょう  童画家で詩人としても活躍した中尾彰は熊本市の済生会病院新館の壁画を夫人の吉浦摩耶(本名中尾鈴子)と制作中に倒れ、10月6日午前0時30分、脳しゅようのため同病院で死去した。享年90。明治37(1904)年5月21日島根県津和野市に生まれる。大正1l(1922)年、満鉄育成学校を卒業。独学で絵を学び、昭和6(1931)年に第1回独立美術展に「静物」で初入選。後、同会に出品を続ける。また、同10年ころから文芸同人誌「日歴」に参加して詩文を発表。同12年第7回独立展に「庭」「窓」を出品して協会賞を受賞。同14年同会会友に推挙された。戦前には満州鉄道の招聴で満州に数回滞在して制作。昭和16年から子どものための美術運動を展開し、童心美術協会を創立。児童出版物に執筆するとともに、教科書や新聞の挿し絵等を数多く制作し、坪田譲治とのコンビで知られた。戦後も同21年日本童画会を結成して活動を続けた。ほか戦後の同21年独立美術協会準会員、同24年同会会員に推挙された。草木と人物を組み合わせ、パステル調の色彩を多用した詩情ある作風を示した。昭和40年代後半からはパリ、インスプルックにたびたび長期滞在して制作していた。平成4(1992)年独立美術協会会員功労賞受賞。戦前の作品は戦中に不明となり、戦後の制作も昭和40年に火災のため多くは焼失している。作品の所蔵館として郷里の島根県立博物館のほか、津和野美術館、練馬区立美術館、松江美術館などがあり、大規模な制作としては昭和53年の済生会熊本病院壁画、平成5年の諏訪中央病院壁画などがある。著書に『美しい津和野』『蓼科の花束詩集』『人生』『あかいてぶくろ』『子供の四季』等がある。

圓堂政嘉

没年月日:1994/09/29

読み:えんどうまさよし  元日本建築家協会会員の建築家圓堂政嘉は平成6年2月より療養中の米国ニューヨーク市ニューヨークホスピタル、コーネルメディカルセンターで、現地時間の9月28日午後9時35分(日本時間29日午前10時35分)、心不全のため死去した。享年73。大正9(1920)年11月30日横浜市南太田町に生まれる。父遠藤政直は工学博士で横浜高等工業高校教授をつとめた。昭和2(1927)年私立精華小学校に入学。同8年県立横浜第一中学校に入学し同13年に卒業する。同15年早稲田大学高等学院に入学。応召の後同20年9月早稲田大学第一理工学部建築学科を卒業する。同21年村野藤吾建築事務所に入学。同24年同事務所を退き、同27年11月圓堂建築設計事務所を設立する。同37年圓堂政嘉と改名。同40年岩手県花巻の「信松園」の設計で建築業協会賞、同41年4月京王百貨店を含む業績一般に対して芸術選奨文部大臣賞を受賞。同5月下関の山口銀行本店で日本建築学会賞を受賞する。同43年より同50年まで日本建築家協会理事をつとめる。同53年西武春日井ショッピングセンターにより商業空間デザイン特別賞受賞。同55年東京大手町の大洋漁業本社により建築業協会賞を受賞する。同55年より57年まで再び日本建築家協会理事、同57年より61年まで同協会会長をつとめる。同62年、長年にわたる日米聞の建築における諸問題解決に対する貢献により、AIA(アメリカ建築家協会)名誉会員となる。同63年東京の広尾ガーデンヒルズにより建築業協会賞、同年岩手県の盛岡市先人文化記念館により同賞を受賞した。平成3(1991)年ニューヨーク市シーグラムビルにニューヨーク事務所を開き、東京とニューヨークを往復しつつ活動を続けたが、同5年末より体調を崩し、同6年2月よりニューヨークで療養中であった。

原直樹

没年月日:1994/09/21

日展参与の鋳金工芸家原直樹は、9月21日嚥下性肺炎のため新潟県柏崎市大久保の自宅で死去した。享年87。明治39(1906)年10月26日新潟県刈羽郡大洲村大久保34番(現柏崎市大久保)に生まれ、高等小学校卒業の年の大正10年5月から香取秀真に師事、また川端画学校デッサン科に学び、昭和3年東京美術学校塑造科に入学、同8年卒業した。美術学校在学中の同5年帝展第四部(工芸)に初入選、同6―8年の聞は第三部(塑像)に「心」「凝視」「讃光」が連続入選し、同9年からは第四部に出品を続けた。同18年の新文展に「鋳銅木盤」で特選を受ける。戦後は日展に所属し、同32年日展会員に同44年新日展の評議員に挙げられた。同53年3月脳血栓に襲われ以後制作不可能となり、前年作の鋳銅花器「古谿愁」が最後の日展出品作となった。この問、新潟大学教育学部美術科の講師もつとめた。作品は他に、黄銅「狐」(昭和24年)、「蝋型錫飾箱」(同26年)などがある。長男正樹は東京芸術大学教授。

足立真一郎

没年月日:1994/09/20

光風会名誉会員の洋画家足立真一郎は、9月20日午前6時、前立腺ガンのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年90。足立は、明治37(1904)年6月26日、栃木県足利市に生まれ、昭和8年、日本美術学校西洋画科を卒業。在学中の同5年、第17回光風会展に「花」2点が初入選、同7年の第19回展では、「甲州の春」「バラ」を出品、船岡賞を受ける。また、同6年の第12回帝展に「菊花」が初入選。その後も、光風会に出品をつづけ、同21年に同会会員となった。また、戦後は日展にも出品をつづけた。同32年、第13回日展に槍ヶ岳の連峰を力強くとらえた「山」を出品して以降、山岳画に徹するようになり、同35年には、日本山岳画協会会員となる。また、たびたびヨーロッパ、インド、ヒマラヤに写生旅行をする。平成5年、光風会名誉会員となるとともに、足利市民文化功労賞を受けた。

斎藤真一

没年月日:1994/09/18

盲目の女旅芸人を描いた瞽女シリーズ等で知られる洋画家の斎藤真一は9月18日午後3時46分すい臓ガンのため東京都三鷹市の杏林大学病院で死去した。享年72。大正11(1922)年7月6日、岡山県児島郡味野町(現、倉敷市児島味野)に生まれる。父藤太郎は軍人であったが、尺八の都山流の大師範であった。旧制天城中学に在学中に地元の大原美術館を見て画業に志す。独学で油絵を描くうち、同16年ころ岸田劉生の『美の本體』を読んで心酔。岡山師範学校二部を昭和17年に卒業し、同年東京美術学校師範科に入学する。翌年12月学徒出陣で入隊し、終戦後復学して同23年春に東京美術学校を卒業する。同年静岡市立第一中学校に赴任し、同年の第4回日展に「鶏小屋」で初入選。翌年岡山県味野中学校へ転任。同25年第38回光風会展に「閑窓」で初入選。同28年静岡県立伊東高校へ転任する。同34年外務省斡旋留学生としてパリへ留学。アカデミー・グラン・ショーミエールに学び、また藤田嗣治と出会う。スペイン、ドイツ、ベルギ一、イタリア等をめぐり、ジプシ一等流浪する芸人たちに興味を抱く。同35年に帰国。帰国にあたり藤田嗣治が与えた助言に従って翌36年青森県津軽地方を旅するうち、瞽女を知り、越後、信濃路のご女宿を訪ね歩いて瞽女シリーズを描く。同45年10年間制作し続けた作品を「越後瞽女日記展」として文芸春秋画廊で発表し、独自の主題、画風で注目される。同46年第14回安井賞展に「星になった瞽女≪みさお瞽女の悲しみ≫」を出品して安井賞佳作賞受賞。同48年著書『瞽女―盲目の旅芸人』で、日本エッセイストクラブ賞を受賞する。同50年代からは自らを道化師に重ね合わせ、現代の孤独を描くシリーズ、画家の養祖母内田久野をモデルとし、明治期の吉原に取材したシリーズなどを描き、また、画文集『明治吉原細見記』『絵草紙吉原炎上』などを刊行。初期には西洋の伝統的な空間表現、陰影法を用いて静物画、人物画等を描いたが、渡欧により風景の中にデフォルメした人物が散在する主想的な画風に変化し、瞽女シリーズでは遠近法、陰影法を無視し、人物像にも大胆なデフォルメを加えた感傷的な画風を示した。平成5(1993)年長年の支持者であった仲野清次郎によって山形県天童市に財団法人出羽美術館分館・斎藤真一心の美術館が開館している。

伊藤継郎

没年月日:1994/09/17

新制作協会会員で、元京都市立美術大学教授の洋画家伊藤継郎は9月17日午前7時41分、老衰のため神戸市西区病院で死去した。享年86。明治40(1907)年10月15日伊藤粂太郎、津起の次男として生まれる。父は大日本紡績会社の重役を務めた。大正8(1919)年、天王寺第二高等小学校に入学、同10年福島商業学校に入学する。同12年、松原三五郎主宰の天彩画塾に入る。同13年福島商業学校を卒業。同年天彩画塾が閉鎖されるのに伴い、赤松麟作主宰の赤松洋画塾に入る。同15年同塾は赤松洋画研究所と改称。昭和4(1929)年赤松洋画研究所展に「池のある森」「網引き」を出品。同5年第17回二科展に「座像」で初入選する。同年兵庫県美術家連盟の設立に参加。同6年赤松洋画研究所展に「家族の園」「少女」を出品して、丹平賞受賞。この頃から鍋井克之を知り、信濃橋洋画研究所に通い始める。同年第5回全国西洋画展に「庭」「室内の会話」「裸婦」を出品して朝日奨励賞受賞。同10年第22回二科展に「ドヤドヤ(四天王寺の裸祭り)」「親子の行商人」「鳥籠を売る親子」を出品し特待となる。同12年二科会会友に推されるが、同16年同会を退き、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いにより第6回新制作派協会展に「デッサンA」「デッサンB」「デッサンC」「デッサンE」「デッサンF」「室内と女」「森と少女」「静物と子供」「子供の国」を出品し会員に推される。同19年8月満洲へ出征、同20年終戦と共にシベリアに抑留され、同21年復員。同22年より新制作展に出展を続ける。同23年芦屋市美術協会の設立に参加し、この頃より自宅アトリエで研究会を開いて、小磯良平、上村松篁らと交友する。日本国際美術展、現代日本美術展にも出品。同36年鍋井克之の誘いにより京都美術学校(現、京都市立芸術大学)西洋画科教授となる。同年カンボジア、インドなど、東南アジアに旅行。同42年フランス、スペイン、ギリシア、イタリアへ、同44年イタリアへ旅行。同45年京都市立芸術大学を退職して大手前女子短期大学教授となる。同48年スペインへ、同52年フランス、モナコへ、同62年南フランスコルシカ島へ赴く。平成元年神戸サンパル市民ギャラリーで「伊藤継郎の世界」展、同3年梅田近代美術館で「伊藤継郎展」、同4年2月奈良そごう、3月神戸そごうで「伊藤継郎」展を開催。同5年、大阪府が設立を予定している現代美術館のために作品350点余りを同府に寄贈した。アトリエは昭和5年に建てた当時のまま残されていたが、平成7年1月の阪神大震災により倒壊した。日常的なモティーフを好んで描き、時に工芸的と評される重厚なマティエール、地味な彩色等に特色を示した。

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