石島良則
没年月日:1939/12/14日本画家石島良則は明治35年、石川県鹿島郡に生る。京都市立絵画専門学校卒業後、西山翠嶂に師事した。昭和7年、帝展に「村童」が入選し、爾後官展に「冬日」「高雄の女」「想ひ」等を出品、又同10年には京都市美術展で「供饌」が入賞した。
本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)
日本画家石島良則は明治35年、石川県鹿島郡に生る。京都市立絵画専門学校卒業後、西山翠嶂に師事した。昭和7年、帝展に「村童」が入選し、爾後官展に「冬日」「高雄の女」「想ひ」等を出品、又同10年には京都市美術展で「供饌」が入賞した。
日本画家村上華岳は宿痾の喘息のため11月11日逝去した。享年52歳。本名震一、明治21年7月大阪に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、同44年京都絵画専門学校を卒業、大正7年同志と共に図画創作協会を創立し、活動を続けたが、同15年同会を離脱し、爾後一切の団体より完全に独立した。 作家として生来特質を強く備へ、既に初期の時代より洋の東西を問はず画風を摂取して、独自の感覚を示した。「夜桜」には就中浮世絵研究の跡が窺はれる。41年文展に「驢馬に夏草」を出して3等賞となつた。其の後第10回文展に特選となつた「阿弥陀」、国展出品の「裸婦」に及んで、独自の勁い線描の発展があり、印度及び西欧壁画の影響が認められる。而して「裸婦」は出品画的大作の最後のものであり、後半生は絶えざる闘病生活となつて比較的小品画のみが作られた。白描の仏画、没骨による花卉及び風景画には此の作者独自の画風が生じ、その仏教的な思想を反映しつつ時には晦渋とも見える主観的な作品を生むに至つた。美術団体に属さぬところから、後年の制作で公表されずに個人の所蔵に帰したものは尠くない由である。略年譜明治21年 7月大阪に生る、武田誠三の長男、武田震一明治28年 神戸小学校に入学、神戸村上家に寄居明治34年 同校卒業、京都美術工芸学校に入学明治37年 村上家を嗣ぐ明治40年 美術工芸学校卒業明治41年 第13回新古美術品展「木枯」4等、文展第2回「驢馬に夏草」3等明治42年 第14回新古美術品展「春の雨」4等。京都絵画専門学校設立、入学明治44年 第16回新古美術品展「早春」3等、文展第5回「二月の頃」褒状、京都絵専第1回卒業、入江波光、榊原紫峰、土田麦僊、小野竹喬等同期生大正4年 文展第9回「春耕図」大正5年 文展第10回「阿弥陀」特選大正6年 文展第11回「白頭翁」、選外大正7年 1月、入江、土田、榊原、小野、野長瀬等と国画創作協会創立、国展第1回「聖者の死」大正8年 国展第2回「日高川」大正9年 国展第3回「裸婦」大正11年 巴里日本美術展「CINTAMANICAKRA」出品大正12年 京都を去り阪神沿線に住む大正13年 国展第4回「説法の図」「八重橋」「瓜茄残暑」大正14年 国展第5回「松山雲煙」大正15年 久迩宮家へ献上画。以後一切の美術団体を離脱昭和10年 帝院改組に際し無鑑査推挙、所蔵家により東京永楽倶楽部にて5月個展昭和11年 中井宗太郎主催で京都美術倶楽部にて個展開催昭和12年 三聖代名作美術展へ「山」(連作)出品昭和14年 11月11日没画集―「華岳画集」(大正12年発行)、「華岳画集」(大正14年発行)「華岳画集」(大正15年発行)「華岳画譜」(昭和6年発行)「華岳画襍」(昭和14年発行)
川端画学校日本画科主任教授岡村葵園は、病気のため10月8日逝去した。明治12年3月23日鳥取県に生れ、東京共立美術学館を経て同35年東京美術学校を卒業、同42年川端画学校日本画科の主任教授となり、一旦辞職したが、大正7年再び同職に就任、現在に及んだ。日本画の外に書道、漢籍等に造詣深く、後進の誘掖に当つた。
帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、従3位勲2等岡田三郎助は、予て療養中のところ9月23日渋谷区の自邸に逝去した。享年71歳。9月25日青山斎場に於て神式を以て葬儀執行、11月11日青山墓地に埋葬した。 明治2年1月12日佐賀県佐賀市に石尾孝基の四男として生る。幼名芳三郎。幼くして上京、旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治20年東京帝国大学工科大学助教授曽山幸彦に就学し、初めて洋風画を学ぶ。此の年岡田正蔵の養嗣子となり岡田姓を称す。同24年明治美術会々員となる。師曽山の夭折後其の家塾を承継せる堀江正章、松室重剛の大幸館に留まり、25年修了す。26年黒田清輝、久米桂一郎と知り、彼等の薫陶を受く。28年第4回内国勧業博覧会に「初冬晩暉」を出品して3等賞を受け、漸く画名を知らる。翌29年東京美術学校に西洋画科の新設さるるや、擢でられて助教授を拝命、又此の年白馬会の創立に参画し、其の第1回展覧会に20余点を出品す。此の時代その初期のアカデミツクな画風より印象派の傾向への転換期に在り。明治30年西洋画研究の為文部省より満4年間仏国に留学を命ぜられ出発す。専らラフアエル・コランに師事し、研鑚を遂げ、同35年1月帰朝す。此の年12月東京美術学校教授となる。翌36年第5回内国勧業博覧会に滞仏作品「読書図」を出品2等賞を受く。又此の時代まで白馬会に出品して活躍す。同40年東京府勧業博覧会審査官となり、自ら「某夫人像」を出品1等賞を受く。此の年文部省美術審査委員会創設さるや、その第二部委員となり、爾後官設展覧会の為に尽瘁するところ大であり、又自らもほとんど毎回力作を出品した。明治45年には藤島武二と図り本郷に洋風画指導機関本郷絵画研究所を創設し、民間に在つても後進の指導に尽力した。大正8年帝国美術院の創設と共に挙げられて会員となつた。同13年東京美術学校西洋画科主任を命ぜられた。昭和5年2月文部省より欧州出張を命ぜられ、各国の美術及び美術工芸の研究を遂げ、同年11月帰朝した。同9年帝室技芸員を拝命し、同10年改組後の帝国美術院会員に挙げられ、又満洲国に出張した。同11年には一時東京美術学校長事務取扱を命ぜられた。翌12年には多年の功労に依り文化勲章を拝受し、又新設の帝国芸術院会員となつた。13年より健康を害したが猶制作を続け、翌14年に至る。此の年3月呉内科に入院、6月には退院し小康を得しも、9月23日遂に立たなかつたものである。其の71年の生涯を顧るに、明治20年以後洋風画に携はつて終始変らず、その伎倆に於て衆に擢でたのみならず、永年東京美術学校及び本郷絵画研究所に於て後進の薫陶に当り、洋風画の発展に貢献するところ極めて大であり、その人格、伎倆に於て稀に見るところであつた。又彼の美術工芸方面に貢献せる点も忘却出来ないのである。略年譜年次 年齢明治2年 1月12日石尾孝基四男として佐賀県佐賀市に生る。明治4年 3 厳父孝基に伴はれ上京す。明治8年 7 旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治13年 12 父と共に京都に移る。次で大阪に移る。明治16年 15 父と共に再び東京に移る。明治20年 19 岡田正蔵の養嗣子となり、東京府芝区に本籍を置く。帝国大学工学部助教授大野幸彦に洋風画を学ぶ。明治24年 23 明治美術会々員となる。明治25年 24 1月11日師大野幸彦病没す(東京帝大工学部保存履歴書)。大幸館(旧曽山塾)に入塾す。「長崎にて」(作品)、「倚る女」(作品)明治26年 25 7月大幸館曽山塾修業、久米桂一郎の紹介にて黒田清輝と知る。後岩村透と知る。「矢調べ」(大幸館修業作品)明治27年 26 10月天真道場に入門して黒田清輝、久米桂一郎の薫陶を受く。「初冬晩暉」(作品)明治28年 27 「初冬晩暉」第4回内国博出品(3等賞) 10月「初冬晩暉」明治美術会秋季展出品。明治29年 28 9月9日、東京美術学校助教授被任。同月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透等の白馬会創立に参加す。10月、第1回白馬会展に「夕日」以下21点出品。明治30年 29 5月28日西洋画研究の為、文部省留学生として仏国に留学を命ぜられ、7月9日巴里著、8月1日、ラフアエル・コランの門に入り、同邸内に仮寓す。10月13日巴里に帰り、オテル・スフローに寓居を定む。アカデミイ・ビツチに入学してコランの薫陶を受く。10月、白馬会第2回展に「収穫」出品。明治32年 31 10月白馬会第4回展に「自画像」出品、「ムードンの夕暮」(作品)「女肖像」(作品)明治33年 32 「千九百年巴里博覧会」(作品)明治34年 33 「読書」(作品)「伊太利の女」(作品)明治35年 34 1月2日東京に帰著す。2月4日、東京美術学校西洋画授業を1週2日嘱託。白馬会第7回展に「老翁」以下5点を出品、12月5日、任東京美術学校教授、叙高等官6等。明治36年 35 第5回内国博覧会に「読書図」出品、(2等賞)。「舞子」(作品)明治38年 37 10月白馬会10週年記念展に「秋林の幻影」以下30余点出品。明治40年 39 3月5日、東京勧業博覧会審査官を嘱託さる。尚同展に「某夫人像」を出品、1等賞を受領した。8月13日、美術審査委員会委員被仰付、第二部委員を命ぜらる。10月、白馬会11回展覧会「習作」出品。同月、第1回文展に「大沢博士肖像」、肖像(婦人像)外1点出品。作品、「紅衣夫人」「某夫人像」明治41年 40 10月第2回文展「小池博士肖像」外2点出品。作品「萩」明治42年 41 10月第3回文展「大隈伯爵夫人肖像」外2点、出品。明治43年 42 1月東京美術及び美術工芸展評議員嘱託。7月美術審査委員会委員仰付、第二部員拝命。5月白馬会第3回展に「女のあたま」(画稿)「少女」出品。9月伊国万国博覧会出品鑑査委員嘱託。10月第4回文展「ひなた」「くもり」出品。明治44年 43 8月美術審査委員会委員仰付、第二部員被命、10月第5回文展「湯場にて」出品。明治45年(大正元) 44 3月藤島武二と共に本郷絵画研究所を設立す、6月第6回美術審査委員会委員被付、第二部員被命。10月第6回文展「偶感」出品。大正2年 45 10月第7回文展「凝視」「女の顔」出品大正3年 46 10月、光風会第3回展覧会に「ぬいとり」出品。大正4年 47 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。同月、第3回図案及応用美術審査委員。10月第9回文展、「黒き帯」外2点出品。大正5年 48 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命、10月第11回文展「ヨネ桃の花」出品。大正6年 49 2月光風会第5回展「桃の花」「白きベエール」出品。9月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。10月第11回文展「初夏」「花野」出品大正7年 50 9月第6回工芸展覧会審査員嘱託、同月美術審査委員会被命。10月第12回文展「忍路」「北国の雪」出品。大正8年 51 7月工芸審査委員被仰付、8月第一部員兼第二部員被命。9月帝国美術院会員被仰付。10月第1回帝展「ネムの花」出品。大正9年 52 9月工芸審査委員被仰付、10月第2回帝展「支那絹の前」出品。大正10年 53 7月勅任官待遇、9月工芸審査委員被仰付。10月第3回帝展「榕樹の森」出品。大正11年 54 3月平和博覧会審査委員嘱託。5月朝鮮美術審査委員嘱託。9月工芸審査委員会委員被付10月第4回帝展「真野博士の肖像」出品。大正13年 56 10月第5回帝展「水辺」。12月東京美術学校西洋画科主任被命。大正14年 57 2月光風会展「北国の春さき」。同月会長として本郷絵画展覧会を組織、6月第1回展「裸婦」「菊」出品。10月第6回帝展「裸婦」2点出品。大正15年(昭和元) 58 5月第1回聖徳太子奉讃展覧会「掛を着たる女」出品。10月第7回帝展「古き昔を偲びて」出品。昭和2年 59 10月第8回帝展「山川先生の肖像」出品。昭和3年 60 1月第3回本郷絵画展覧会「来信」出品。8月満洲出張。昭和4年 61 第4回本郷絵画展覧会「風景」出品。昭和5年 62 1月春台美術第5回展覧会「麻の着物」出品。2月欧洲各国へ出張被命。昭和6年 63 春台美術第6回展覧会「ヴエルサイユとコローの池」出品。「薔薇」(作品)昭和7年 64 第7回春台美術展覧会「薔薇」「仙石原」出品。昭和8年 65 5月光風会展「イスタンブルにて」、第8回春台展覧会「金時山」出品。3月工芸審査委員被仰付、第一部兼第二部員被命。昭和9年 66 5月、光風会第21回展覧会「慶州仏国寺」「菅ノ平」出品。4月工芸審査委員被仰付。第一、二部員被命、12月帝室技芸員被命。昭和10年 67 1月第14回春台美術展覧会「伊豆の東海岸」出品。4月工芸審査委員被仰付、第1、2部員被命。6月、帝国美術員会院被仰付。12月満洲国出張被命。昭和11年 68 1月第11回春台展覧会「長野の水源地」出品。4月工芸審査委員被仰付、第一、二部員被命。同第26回光風会展覧会「鏡川の夕」出品。6月東京美術学校長事務取扱被命、9月同職被免。文部省美術展覧会委員被仰付。昭和12年 69 2月第12回春台展覧会「岩越国境」出品。「人物」(作品)昭和13年 70 2月光風会第25回展覧会「山中湖」出品。昭和14年 71 第10回春台美術展覧会「河口湖鵜の島」出品。3月東京帝大病院呉内科入院、6月退院、9月23日於自宅永眠、従3位に追陞せらる。
帝国芸術院会員泉鏡花は9月7日逝去した。本名鏡太郎、明治6年に金沢に生れ小説家として聞えてゐた。
帝国芸術院会員橘糸重は8月31日病気の為逝去した。享年67歳。女史はピアニストとして令名あり明治25年以来東京音楽学校の教職に在り、30余年勤続してゐた。
建築家加藤秋は7月12日逝去した。享年51。千葉県の出身で、明治43年に日本工芸学校建築科を卒業、大正7年に建築事務所創立以来主として劇場、映画館の設計に従事し、多くの作品を残した、
洋画家大沼かねよは7月12日肺炎のため逝去した。享年35歳。明治38年宮城県に生れ、女高師図画専修科を出て、帝文展に「家族」「野良」「遊楽」等が入選し、又槐樹社にも「三人」其他を出品、その画風を注目されてゐた。
東北帝国大学講師文学博士喜田貞吉は病気の為7月3日逝去した。享年69歳。博士は法隆寺再建論を持してさきには故関野貞博士、最近は足立康博士と論争を交へて、夙に学会にその令名が喧伝して居た。しかし博士は唯に法隆寺問題のみではなく、歴史一般に就いても博覧強記を以て聞え、著書には「帝都」「国史の教育」その他数種があり、関係雑誌に発表された研究論文等は無慮一千余に達し、又自ら「民族と歴史」「社会史研究」「東北文化研究」の刊行を主宰してゐた。尚この間教職にあつて後進の誘掖にあたり、文部編修官となつて教科書の編纂等に尽す処があつた。左にその略歴を掲げる。 明治4年徳島県に生れ、明治29年東京帝国大学文科大学国史科を卒業、同治33年早稲田専門校講師、同34年国学院大学講師を嘱託され、同年文部図書審査官に、36年には文部編修官に転じ44年退官した。この間に39年には東京帝大、41年には京都帝大文科大学講師を嘱託され、42年文学博士を授けられた。大正9年京都帝国大学教授に任ぜられ、13年退官同年東北帝大、京都帝大講師となつて現在に至つた。
宮中顧問官北村耕造は肺炎のため6月27日逝去した。享年63歳。明治10年9月25日京都に於て出生、同36年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、東京清水満之助本店に入り、同45年視察のため欧米に出張、帰朝後大阪支店長になつたが、大正6年同店を退き、次で同10年まで財団法人理化学研究所建設技師に就任した。同10年官内技師に任ぜられ、翌年内匠寮工務課長を命ぜられてより、その在職中、同12年の震災復旧諸工事、昭和2年の 大正天皇御大喪並に翌年の今上天皇御大礼諸工事を担当した。同6年より臨時帝室博物館造営課長を命ぜられ、工事完了の上同12年本官を免ぜられ、同時に宮中顧問官に就任、高等官1等に叙せられた。尚薨去に際し正3位に陞叙せられた。作品目録(建築雑誌14年9月号より転載)清水組在職中明治44年 日本女子大学講堂兼図書室及教育部校舎明治38年 第一銀行横浜支店其他石井健吾邸・日比谷平左衛門邸、諸葛小弥太邸等理化学研究所在職中大正10年 理化学研究所物理部並化学部本館及其附属家宮内省在職中昭和5年 葉山御用邸を初め震災復興諸工事大正15年 那須御用邸大正3年 奥宮殿改築大正4年 大宮御所大正5年 学習院特別教室、中等科教室及青年寮大正3年 多摩御陵築造、昭和大礼諸設備大正14年 東伏見宮邸昭和2年 秩父宮邸、図書寮庁舎昭和4年 李王邸昭和6年 高松宮邸昭和8年 朝香宮邸昭和13年 東京帝室博物館復興造営
仏教芸術史の権威、文学博士小野玄妙は脳溢血のため6月27日逝去した。享年57歳。本名金次郎、明治16年2月28日横浜に生る。同29年鎌倉光明寺に入つて浄土宗僧侶となり、名を玄妙と改めた。大正7年宗教大学教授となり、同12年に大正新脩大蔵経の編纂主任となり、その完成に力を注いだ。昭和3年高野山大学教授、又翌年東洋大学教授となり、同7年文学博士の学位を授けられた。同9年以後文部省国宝調査会委員となり、諸寺所蔵の蔵経の調査に従つた。その著述は「仏教之美術及歴史」「大乗仏教芸術史の研究」「仏教経典総論」其他十余種に上り、就中粉本図像の研究に於て業績を残した。主なる著作を掲げる。「仏教年代考」(明治38年)「大日本仏教全書」(同45年望月信亨博士の下に於て編纂)「仏教之美術及歴史」(大正5年)「仏教美術概論」(同6年)「仏像ノ研究」(同7年)「画図解説仏教美術講話」(同10年)「大分の石仏に就て」(同11年)「健駄邏ノ仏教美術」(同12年)「極東の三大芸術」「五台山写真集」(同13年)「仏教文学概論」(同14年)「仏教美術」(同15年)「大乗仏教芸術史の研究」(昭和2年)「仏教概説」(同3年)「仏教神話」(同8年)「仏教経典総論」(同11年)「仏教ノ美術ト歴史」(同12年)
文展無鑑査猪飼嘯谷は病気のため6月16日逝去した。本名卯吉、明治14年4月12日京都に生る。同33年京都市立美術工芸学校を卒業、同38年同校の助教諭を拝命、後教諭となり、又絵画専門学校の教諭となつたが、大正14年退職した。故谷口香?の門人で、文展には「烏夜亭」「大燈国師」「画僧」「近江国柞」「拾君」「六昆征伐」等の作を出品した。昭和5年宮内省の命により「大正天皇御大礼絵巻」を謹写し、又同9年には京都市の依頼により明治神宮絵画館の壁画「御即位礼図」を謹作した。
帝大名誉教授文学博士三上参次は病気の為6月7日逝去した。享年75歳。兵庫県に生れ、明治22年東京帝大文科を卒業、引続き母校の助教授、教授を経て文学部長となつた。同32年博士を授けられ、大学を退職後は名誉教授、学士院会員、貴族員議員の地位に就いた。この間傍ら史料編纂の事業を主宰し、大日本史料大日本古文書の編纂等に貢献する処があつた。又保存事業に於ても、明治33年帝国古蹟取調会の創立に当り、学事顧問、次いで調査委員に挙げられ、又大正8年史蹟名勝天然紀念物調査会官制の施行に際しその委員となつた。而してこの官制の廃止後昭和8年、明治天皇聖蹟に関する調査保存事業が始められ、文部省に史蹟名勝天然紀念物調査委員会が設立されるに及び、その会長に推挙された。歴史学会に於ける業績は多大であるが就中特記すべきは、御歴代天皇聖蹟を調査、保存し奉るべきを提唱し、これが実施を誘導したことであつた。(史蹟名勝天然記念物14ノ7による)
仏教美術史の研究家内藤藤一郎は5月13日病気の為逝去した。明治29年大阪に生れ、早稲田大学を卒業、夙にその研究を関係雑誌等に寄稿してゐた。「法隆寺壁画の研究」ほか数種の著述がある。
女流洋風画家ラグーザ・玉は、4月6日芝区の清原家に於て急逝した。享年79歳。同9日芝増上寺に於て葬儀を執行、其後遺骨は麻布長玄寺に埋葬、一部はイタリア、パレルモに送られた。 女史は清原姓、幼名を多代と称し、文久元年6月10日江戸芝に生れた。幼より絵事を好み、若くして日本画を学び、次で永州なる画家に就て西洋画法の指導を受けた。明治10年予て工部美術学校に彫刻学教師として招聘されてゐたヴインチエンツオ・ラグーザと識り、その画才を認められて西洋画法の指導を受け、得るところ多かつた。同15年ラグーザの帰国に際し伴はれてイタリア、パレルモ市に渡行、サルバトーレ・ロ・フオルテに師事した。同17年ラグーザがパレルモ市に工芸学校を開設するやその絵画科の教師となつた。此の工芸学校が市立となり高等工芸学校となるに至つて教授となり、女子部の絵画の指導に当り、其の後女子部の廃止と共に退き、専ら家庭に在つて子女の指導に当つた。此の間パレルモに於ける諸種の美術展覧会の外モンレアレ、ヴエネツイア或は米国市俄古、聖路易等の美術展覧会、博覧会等に出品して最高賞を与へられた。而して、昭和2年ラグーザの没後、パレルモ市に在り、同地よりラグーザの遺作多数を東京美術学校に寄贈し、昭和8年渡伊後50有余年にして帰国した。其の後は芝区の旧家の辺清原家に画室を構へ、専ら画筆に親しんでゐたが、昭和14年4月5日脳溢血に倒れ翌6日遂に長逝したものである。女史は長く故国を離れ、直接わが画壇との交渉を絶つてゐたが、イタリアに於いては夙に著名であり、わが国に於いても再度の展覧会に依て滞伊中の制作及び帰朝後の作品が紹介さるるに際し、其の堅実な画風を確認したのであつた。
米国ボストン美術館東洋部勤務の平野千惠子は賜暇を得て帰国中急逝した。享年64歳。新潟県出身で、東京女高師、津田英学塾を経て米国シーモーカレツヂに入り、英文学と図書館学を学び、明治29年ボストン美術館に勤務した。爾来同館東洋部にあつて蔵品及び図書の整備に従つたが、大正9年以来浮世絵師清長の研究に専念し、英文の著述「清長」が米国で公刊されてゐる。
文展無鑑査、伊東紅雲は4月2日脳溢血のため逝去した。本名は常辰、明治13年7月13日東京に生る。同27年に村田丹陵門に入り、土佐派を学ぶ。同40年文展第1回に「防矢」が入選、大正4年に「船出」が3等賞となつた。同14年帝展委員に任命される迄「生★」「消息」「関の清水」「手向」「護世四天」「さすらひ船」「朝猟」「賭戯」等が入選してをり、昭和2年以降は「防人」「出陣」「戦火の後」「献甲」等を出品してゐる。予て小堀鞆音の門に出入し、革丙会にも関係し、最近は朱弦会に参加してゐた。故実に精しく、専ら歴史画を制作した。尚昭和3年に明治神宮絵画館に「御元服図」を謹作してゐる。
構造社会員荻島安二は3月21日急性リウマチスのため、逝去した。享年45歳。明治28年横浜市に生る。朝倉文夫に師事し、旧文展及初期帝展に逐年出品したが後ニ科展に転じた。昭和8年構造社に入会し、同年第7回より毎年出品、同12年に文展無鑑査に推薦された。予て商業彫塑の方面に独自の才能を発揮し、島津製作所マネキン部の顧問であつた。尚本年の構造社第12回展に遺作の特別陳列が行はれた。
日本画家佐藤紫煙は3月10日逝去した。享年65。本名文治郎、明治6年岩手県に生れ、瀧和亭に就いて花鳥を学び衣笠豪石に山水画の描法を受けた。明治29年明治天皇日本美術協会へ行幸の際、御前揮毫を仰付けられ、大正天皇に献上の揮毫まで凡20回の光栄を担つた。明治30年京都府全国絵画共進会に出品の「秋蘭図」は1等賞、翌31年日本美術協会展には2等賞を受け、40年文展に対抗して開かれた正派同志会第1会展には3等賞を受けている。大正7年秋には文展審査に慊らず南北画系作家と共に建白書を時の文相に提出したことがある。
東亜美術協会顧問関衛は3月6日逝去した。明治23年長崎県に生る。心理学及美術史を専攻し、数種の著作を残した。